マサイ族のなぞなぞは哲学的

問い
「なぜ、なぞなぞするの」 

応え

「わたしとあなたの言葉だから」

  言葉の共通性を、遊びの中で相互に確認する。それは一方的な試験によって言葉を決めつけるやり方とは異なっている。日本に多い駄洒落のなぞなぞとは本質的に違う。哲学が潜んでいる。

 ジャンプと視力が知られているマサイだが、遊牧民族の彼らは、英・独植民地主義に追われ土地を奪われ、現在は定住政策を進めるケニア政府やタンザニア政府に抵抗を続けている。遊牧地は動物保護区や国立公園などに指定され、生活は圧迫され続けている。人口約20万人。生活環境の困難さが言語感覚を研ぎ澄ましてきた。
 しかし観光化の波が押し寄せて、マサイも携帯を持ち都会に住み始めている。
  金田一京助は、世界的な文化も「文字に託すと安心して、口々に相伝える世界を失い、心を伝えられなくなってしまった」と言い残している。アイヌ民族が言葉を文字にするようになってから、ユーカラを口伝えで感情豊かに表現する力が次第に失われていったのである。

  ある能力を獲得することは、別の能力を諦めることでもある。と同時に既に獲得した能力を衰えさせることでもある。それゆえ我々は、自分が持てない能力を分かち持つ人間関係をつくり、それを広く豊かに保つのである。人間が持つ優れた能力を一人で独占することはできない。仲間の力を借りて、ようやく我々は文化を維持発展させることが出来る。ここで仲間とは、他国籍者や異民族を勿論含んでいる、遠い仲間こそ、我々を広く深い創造世界に誘い、新たな視点を提供してくれるのだ。「我々だけが優秀で世界が注目している」と幻覚に酔うのは愚かだし、自ら文化を削減する。愚かの極みである。

追記 なぞなぞの遊び方も大切だ。かつては、年寄りと子ども、少し年長の子どもと小さな子ども、遠い親戚や親の知り合いの子どもどうし。少し異質な人間同士が、それぞれの生活を背景に、考えて疲れる。互いに相手を知りながら、いつくしみながら、いつまでも楽しんむ。次に会うまで答えを言わないでも、意地悪とは思わず、また会う楽しみになる。文化と言える。
 今、インターネット上で検索すれば、雑誌の特集でページをめくれば、こたえはすぐ出てくる。一人遊び、文化を育めない。消費してその場で消える。

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