「中途半端」は、豊かな社会が目指すべき「理想」である

 生物がある環境に適応するということは一種の特殊化であり、道具というものを持たない生物にとって、それはしばしは身体の作りかえを待たねはできないことである。その結果、ある環境に適応したということは、もはや他の環境に適応しにくくなったということにひとしくなるのである。だから、その生物にとって残された道とは、その環境への適応を完成するため、ひたすらにその特殊化を発達さすことであるだろう。ここに生物自身の購いとった、進化の方向性がある。                    今西錦司

 人間は、適応に際して身体の作り変えをする代わりに、文化で対応して他の種を遙かに凌駕する分布を実現した。 どんな環境にも衣類・住宅・食料を工夫して適応出来る。だが、知的能力はそうはいかない。衣食住のように環境変化のたびに、直ちに調達するわけにはゆかない。趣味や遊び程度なら何とでもなるが、職業的な能力は十数年から数十年かけて獲得しなければならない。いつでも始められるわけではない。脳の筋肉も、若いうちに開始する必要がある。その十数年から数十年間、我々は特定の能力を獲得しながら、同時に別の可能性を捨てている。我々の脳も身体も同時に幾つも積み込むわけにはゆかない。幾つもの機能を兼ねるわけにはゆかない。
 はしご車に特化した特殊車両は、救急車として使えないように、画家になったピカソを物理学者には出来ない。川縁の風を楽しみながら走るのに、戦車は向かない。
 「ある環境に適応したということは、もはや他の環境に適応しにくくなったということにひとしくなるのである。だから、その生物にとって残された道とは、その環境への適応を完成するため、ひたすらにその特殊化を発達さすことである
 相撲取りになったら、バレリーナにはなれない。ひたすら特殊化を進めて、とても健康体とは言えない体型に突き進んでしまう。せいぜい親方になって、「業界」利権維持のため汗を流し若者を同じ道に引き込むのである。
  ツール・ド・フランスのような長距離自転車競技の選手になれば、足の筋肉はペダルを漕ぐのに特化するから、散歩を楽しむには全く適しない足になる。核物理学で名門で学位を得れば、原発業界で利権に囲まれて生きられるが、放射能の危険性や業界の仕組みに疑問を持っても、今更パイロットになるわけにはゆかない。
 人類は、文化のお陰で昆虫など他の生物のように身体そのものを環境に適応させる時間を節約、素早い発展を可能にした。お陰で身体機能を狭く特化することなく、多様な芸術やスポーツ、科学、思想を豊かに開花させある程度享受している。人類の進化は、過度な特化を人類に望んではいない。
 アインシュタインや湯川秀樹は、理論物理に頭脳を特化せず、バイオリンや古典を楽しむ「半端」さを保ち続けた。それ故、平和運動に知力も体力も注ぎ込めたのである。ラッセルもサルトルも人生を哲学に特化しない生き方を保ち続けて反戦運動の先頭に立てたのである。魯迅は彼らより早く、特定の分野に頭脳を特化させなかったが故に、革命に柔軟に生きられた、僕はそう思う。
  おい高校生、受験勉強や試合に精力を注ぎ込むのは「中途半端」にして、平和や貧困に関心を向けたほうがいい。「半端ない」テクニックの習得に埋没するのは、奴隷根性に過ぎない。

 『ドイツ・イデオロギー』でマルクスは
  「共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。・・・朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく」と未来を描いた。

 その意味は、共産主義社会が実現するまで待て、と言うことだろうか。21世紀の我々にとって肝心なことは、資本主義社会において既にその物質的な条件は成熟している事実である。それがいつまでも実現できないのは、生産関係に手を付けられないからである。日本に限って言えばここ数十年、生産関係は資本に有利になるばかりである。

 
いつの時代も特権階級の王家や皇室だけは、優雅つまり「半端」に生きて、あらゆる可能性を個人的に保持し続けてきた。天皇夫婦のために「ご進講」をする学者たちが、口を揃えて彼ら夫婦の知識の高さを賞賛する。驚くことはない。特化しない教養の見事な鋭さを、専門分野に狭く埋没した彼らは知ることが出来ないのだ。天皇個人の持って生まれた資質だと錯覚している。
 王家や皇室など特権階級から、大相撲横綱や戦闘機の撃墜王は出ない。高見から、病的に特化した身体の持ち主や死ぬことを無上の喜びとする若者に「汝ら臣民・・・」と言葉をかけ、勲章やメダルを乱発するのだ。もちろん勲章もメダルも彼らの手製ではないし、費用も彼らの財布からは支出されない。貰う側が、税金で自己負担しているのに有り難がる。どこまでも目出度い。全ては、民が生産関係に気が付くことのないよう塩梅される。
 

 特化しない教養の見事さは、「怠ける権利」とともに全ての人の権利である。生産関係を見破るのも、特化しない教養である。

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