最後の患者教師・天野秋一先生が亡くなった

分教室跡の記念碑
最後の生徒たちが自作した
 96歳だった。生涯を全生分教室教育に捧げたと言っても過言では無い。絶滅隔離下のハンセン病療養所「患者教師」の全貌を知る最後の人でもあった。
 僕が天野先生を知ったのは2003年。全生分教室校舎が残っていることを知ってからである。手掛かりを求めて園内を右往左往しているとき、全生園患者自治会事務局で、「患者教師の一人が、ここにいますよ」と紹介されてからである。話を聞き園内に残る資料文献を読むうちに、過去を話したくない人、「なぜ私の話を聞かないか」と怒る人等もあって一時立ち往生した。
 温厚さと記憶の鮮明さから、天野先生とハンセン病図書館の山下道輔さんと草津栗生楽泉園の谺雄二さんを繰り返し訪ねることになった。

 天野先生が分教室(東久留米町立小中学校全生分教室で教え始めたのは1961年である。先生は学校出の経歴と誠実さをかわれて、患者自治会の書記を引き受けていた。患者教師生活は自治会より多忙で夜も遅くなった。楽しみは、放課後の職員室で時を忘れて読書できることだった。

  先生の記憶に鮮やかに残った取り組みがある。
 一つは、教師が教科書から指定した範囲を、生徒が授業する。言わば生徒による模擬授業。生徒たちはライバル意識をむき出しにして丹念に調べ、少年舎の上級生や大人たちにも助けを求め念入りに準備をする。聞く側は先生役の仲間を立ち往生させようと、良く聞き良く発言質問した。質問にこたえられなければ、次回までの宿題になる。失敗しても人数が少ないから再挑戦の機会はすぐにやって来る。どの学期も何れかの教科がこうしたやり方に取り組んだ。
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 分教室年間行事予定を広げると、毎年秋には定期学習発表会がもたれて、野上先生たちが手探りで始めた学芸会が受け継がれている。準備には二ヶ月以上が費やされ、授業と関連するものは授業中に作業することもあったが、大部分は放課後が使われた。夏休みもその為に登校したという。高揚してくると休み時間も、作りかけの作品が置かれた廊下で作業に熱中したという。学年ごとの取り組み、学年を超えたもの様々だったという。誰もが幾つもの作品に取り組んだ。
 1963年度の発表会では、国語は習字、社会は煙草の消費量の研究、理科が模型飛行機の翼の研究、美術では共同制作・洗濯場の立体模型・金色堂、家庭科で食事の栄養価が披露されている。年度によってはダンスや劇も上演された。ここでも、子ども全員に何度も出番があった。発表会は始め図書館で開催していたが、公会堂に会場を移すほどの賑わいになっている。そうなれば尚一層子どもたちは張り切った。
 人数の少ないことが全国の療養所内分校派遣教師に共通する嘆きの種だったが、全生分教室ではその欠点を逆手にとって活かしている。これもまた自治の賜物だろう。これが2つ目。
  もう一つは、生徒一人ひとりの学習歴や将来の進路や興味などを詳しく記録したノートを教師たちが共有、個別指導に役立てたことである。一人8頁ほどになったという、教育上のカルテである(このカルテを求めて方々を探したが,行方不明)。
 1960年には全国の療養所が分校を閉鎖し、子どもたちが全生園に集中し始める。・・・分教室は学力差のある子どもたちを、一挙に抱えることになるのだが、この天野先生が始めたカルテが多いに役にたち、多様な子どもたちに対応することが出来たのである。「社会」で「落ちこぼれ」が問題化するのは1970年代はじめだが、・・・分教室はその適切な対策をすでに持っていた。

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 天野先生の記憶に、極度に「引込み思案」の子どもが分教室にいた数年がある。見違えるように明るく積極的な子どもに成長、病気全快と共に元の学校に戻った。一体どんな教育をしたのだ、それはどこの学校かと、教師たちは知りたがり、見学をしたいと頻りに親に尋ねたという。
 感嘆すべきは、教科指導だけではなかった。教師全国会議で話題になった家庭学習が、全生園少年少女舎では三木療父らの努力あって続いていた。毎日上級生が下級生の学習を手伝い遊ぶ姿があって、子どもの世界を形成してこの「引込み思案」の少年の成長を促した。
 
 「年長の者が年少の者を世話している・・・その気風は、やがて日本の都会ではおとろえてゆくが、療養所の中には残っていた。このことが、児童作品を見るとわかる。 友達のきずな、姉妹・兄弟のきずなは、外の社会よりも、ここではいきいきとしている。 高度成長が一九五五年にはじまったとして、それから五十年が現代である。この半世紀の日本文化とはちがう特色を、ハンセン病療養所の児童文化はもっている。自分の心の中に記憶の残像を保ちつつ、その上に自分の感覚をつみあげてゆくという特色である。 日本の都会の児童が、「早く、早く」という母親の言葉にせきたてられて、こども自身の納得をとびこえて、情報を積み重ねてゆく流儀とはちがう」    鶴見俊輔 『ハンセン病文学全集10巻児童作品』  皓星社 
            
 子どもを親兄弟から引き裂き、大人からは子どもを生み育てる喜びを奪った非人間的・反教育的環境を、療養所の大人たちは自力で克服してきたのである。貧しいが豊かな教育環境がある。1956年から1959年にかけて、愛生園、愛楽園、青松園などでは、経済的理由から相次いで補助教師を廃止している。全生園自治会の教育に対する配慮がしのばれる。

  1953年までは全生園に専門の教育者はいなかった。しかしその教育は、子どもたちの学力を全国の療養所内分校の例外としたのである。

 一人では手に負えない問題や途方に暮れるような課題でも、仲間の力を借りればやれるようになる。それは、やがて力を借りず自力でやれるようになり学力として定着する。この事実に注目した「再近接領域」と呼ぶ概念があって、フィンランドやキューバの成功を理論づけている。 これが素朴な形で分教室にあったのではないか。
  科学、文芸、体育、芸能が教科の枠を超えて、自治活動としても位置づけられ、複式授業の特性を生かして、学年を超えた教えあい・協力の関係を組織している。実験や工作では、それに試行錯誤の楽しみが加わる。武先生だけではなく、氷上先生や天野先生も時を忘れて放課後を、子どもと一緒に楽しんでいる。
 生徒による模擬授業でも、一人では理解出来ないことがあれば年長者や先生たちに助力を求めて歩く。年長者も教師も歩けるところにいる、重要なことだ。調べ学んだことをまとめてまた聞きに行き、教室で授業する。友達の質問で立ち往生すれば、「次までに調べます」と宿題になり、尚一層熱が入る。仲間に鍛えられて豊かになるだけではなく、学ぶことと学んだことを共有できる。又仲間の思考の筋道を知れば、事柄に対する新しい物の見方が出来る。助ける方も助けられている。人間観も人間関係も豊かになる。互いに、仲間の頭脳を借りると言ってもよい。こうした学び方は、個別指導でもあるから多様な個性や能力の子どもに対応できる。教育環境もいつの間にか子ども中心に整っていく。
 肝腎なのは、こうした学習形態に専門的教育を受けた教師もいらないし、高度の理論体系も方法も要しない点である。ただ自由な自治だけが要請される。
 このような素朴で豊かな教育は、大量生産や画一性や効率とは相入れず、「社会」(ハンセン病関係者は、療養所外を「社会」と呼ぶ。絶対隔離時代の名残である)では退けられ消滅しつつあった。      『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』から引用加筆した

 この優れた取り組みの中心にあったのが天野先生である。
 教委は一片の感謝状をよこしたのみ。教員組合や学会にも顕彰の気配すら無かった。業績を検証した新聞や放送も無い。
 新聞社の主催する教育賞の殆どは,現役教師の自薦でを条件にしている。自分を称賛する文書を平気で書ける者に碌なものはいない。
 だから『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊 は先生に捧げるつもりで書いた。
 先生の墓は、清瀬のハンセン病資料館脇にある。

記 「・・・生命あるものは、そのなかに不断に成長する自己形成する力をもっている。(この力を信じないものははじめから教育に手を出すべきではない。)しかし、その成長を遂げるためには、成長に必要な栄養が外から補給されねばならない。幼い生命は、自らそれを確保する能力がない。だから、これを助けるものが要る。ただし、助ける仕事は、何を与えるかだけでなく、与えたものがじゅうぶんにかみ砕かれ、そしゃく吸収されて血肉になることに心をくばらねばならない。 学校教育の核心である授業は、単に必要な栄養物を与えるだけでなく、それがそしゃくされ、吸収同化されて血となり肉となる作業がじゅうぶんに保障される場なのである。 教育を私は、基本的には、人間の子の人間として成長するのを助ける仕事だと考えている。だから、生命にたいする畏敬を欠けば、教育は成立しない」  林竹二のこの言葉は、天野先生にこそ相応しい。

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