行動を伴わない「民主主義」の虚妄

如何なる民主主義かそれが問題だ
 投票はそれだけで民主主義だろうか。表現・行動を伴わない投票は民主主義ではあり得ない。ある国を旅行していた日本人大学生が、広場の芝生で円くなって学生達が熱く議論するのに出会った。何を議論しているのかと問えば「民主主義についてだ、君はどう考えるのか」と言う。「勿論賛成だ」と答えると笑い声が漏れた。「我々が論じているのは、如何なる民主主義かだ」と切りかえされて日本人学生は言葉が出なかった。それを見た相手の学生たちも呆れ絶句した。
 広場で議論していたのは、軍事政権下の高校生である。1970年代の光景。  日本の若者にとって民主主義は、いつでも交換可能な用語。だから18歳選挙権は「コスパ感覚」で売り買いされているのだ。

  議論や行動を伴わない投票を民主主義と言えない。教室で政治を語ることすら二の足を踏む状況下の、選択の余地を奪われた投票は、大政翼賛装置でしか無い。
 少なくとも選択肢を討議し修正する機会が、政治的主権者にゆだれねばならない。候補者はその過程で自ずから現れてくる、それが自立と自律。与野党馴れ合いの候補が出現
市民の意向を混乱させる京都市議選のように。
 生徒部が生徒会選挙に介入することに根拠があるか。人事課が労組選挙を牛耳る職場に民主主義はない。如何なる善意に基づこうと上から与えられた候補は根付かない。教師が黒板の前で主権者教育や模擬投票の意義を絶叫しても、虚しさが残る。
 高校生は未来の主権者では無い。既に現在の正当な主権者である。

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