「外的な力に駆使されているなら、彼は人間ではない、こうして人間を使っている者も人間ではない。」 デリッスル・バーンズ『戦争論』
黒人男性暴行死事件に対する制抗議デモ圧に米軍投入を要求したトランプに対して、エスパー国防長官やミリー統合参謀本部議長らが強く反対している。大統領は軍の最高幹部2人が自分の方針に公然と異を唱えたことに激怒している。2人が平和的に抗議する権利を擁護すると共に、兵士の憲法上の権利にも触れているからに違いない。アメリカの兵士は労働組合を持っている。
抗議デモの広がりと共に、嘗て奴隷制度を擁護した将軍らの銅像も引き倒されている。海をこえたオックスフォードでは、セシルローズの像が、ベルギーではレオポルド二世の銅像が撤去されている。
敗戦後の志賀直哉が、面白いことを言っている。←クリック
「随想で、第二の東条英機にが現れるような事は絶対に防がなければならないと考えていた。戦犯としての東条の惨めな姿を大きな銅像にして残し、「その台座の浮彫りには空襲、焼跡、餓死者、追剥、強盗、それに進駐軍、その他いろいろ現わすべきものがあろう。そして柵には竹槍。かくして日本国民は永久に東条英機の真実の姿を記憶すべきである」(「銅像」1946年『改造』復刊第一号)と述べている」戦犯に対する志賀直哉のこうした側面は注目されないが、我が国には希な公正な判断と行為の持ち主として忘れてはならない。
米国市民としての米兵や米軍当局は時に公平な判断を見せ、世界を驚かせることがある。しかし彼らの占領地や属国での乱暴狼藉は、正視出来たものでは無い。米軍は、米国憲法の精神は国内に置き忘れ、基地では文字通り「治外法権」を楽しんでいる。
敗戦前の日本軍人も、家庭や職場では良き父親良き隣人であり得たが、戦地では文字通りの鬼畜であった。
教師も教科では立派な判断をみせて生徒や親をうならせる。だが同じ教師が生活指導に直面するや、別人格を見せることがある。外的力としての、学年会や生活指導部の決定や多数に引き摺られる。又教育の論理より、出世・栄達に心を動かされもしやすい。そんなとき、教師は人間でなくなり始める。やがて「人間」に戻れなくなる。担任に圧力をかける管理職、管理職を操作する教委・・・「人間」でない者だらけになる。
外的な力にうごかされていることを知った時、我々はどう振る舞うべきか。
追記 僕にも引き倒すべき像が二つある。一つは防府市にある光田健輔像。嘗てはハンセン病療養所にもあったが、患者の手によって打ち壊されている。
もう一つは日本各地に散乱しているペリー提督像である。琉球では上陸したペリー艦隊乗組員が女性に暴行、仏壇の酒や食べ物を盗み、「位牌」を持ちかえり、また恩納村で酒に酔った米兵が住民に向け銃を発砲し、12歳の少年を含む三名の村人を負傷させている。
1854年6月12日には、那覇に上陸した水夫たちが酒と女性を求めて人家に押し入っている。強姦を行なった一水夫は住民に追われ海に落ちて溺死。最高責任者ペリーは、謝罪していないどころか逆にボードが死んだことを問題にし、犯人の究明を求め、強硬な姿勢で「裁判」を開くよう琉球側に要求。7月7日、ぺリー同席のもとで裁判が行われ、投石した住民が八重山に終身流刑となった。
僕はペリーを『讃える』像を見る度、胸くそが悪くなる。
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