ものを・・・正当にこわがることはなかなかむつかしい

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  『ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい』

と言ったのは、寺田寅彦である。それゆえ、彼は人々が無暗に恐れる現象に根拠がないことも見抜くのである。


  「大学の構内を歩いていた。病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄ぐらいの大きさの疣が一面に簇生していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。

 背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。

 そうして、「おとうちやん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした」 寺田寅彦(大正十二年三月)


 科学者には、人々の認識を迷信や魔術から解き放つ社会的任務がある。実態を見抜き本質を追及してこそ科学者である。自由は科学者の属性、僕の父も在野の数学者でもあった。    

 父と祖母の姿も、寺田寅彦の描いた親子のようであった筈。しかし僕は祖母の顔を想像出来ない。表情が浮かばない。顔に症状が現れた祖母に向かって、「ばぁちゃん」と抱き着いただろうか。就学前の僕は無類の泣き虫で、父や母を困らせていた


 父方の叔母は「直兄さんな、勉強はよく出来やった。ばってん、でひな母ちゃん子でな。妹のあたいから見てん甘えん坊じゃった」そう言いながら古いアルバムを見せてくれた。「でひな」とは、たいそうという鹿児島弁である。写真には坊ちゃん顔をした旧制中学生が、上等そうな小倉の夏服に高下駄姿で庭の石垣に腰かけている。


 祖母の名「トメ」には、子だくさんに悩んだ曾祖父の願いが込められている。

 「松原トメ」の名を、「菊池野」(恵楓園自治会機関紙)に見出した時、眠ったまま面会したのは祖母かも知れないと考え始めた。祖母が父を産み育てた土地の通称が松原であったからだ。

 当時ハンセン病者は、療養所への「収容」と同時にそれまでの衣服も名も捨てさせられた。名を改めたのは手紙で感染の事実が知られ家族に迷惑が及ぶのを恐れたためである。迷惑を恐れて自死する者、親族による射殺や一家心中事件も後を断たなかった。それは偏見が人々にもともとあったからではない。

 全生園ハンセン病図書館にガリ版刷りの古い「無癩県運動」一覧表があった。自宅で療養する患者を療養所に囲い込めば、ハンセン病が消えるがごとき動きを行政と専門家が先頭に立ってやったことが「無癩県」という名称に現われている。治療の観点ではなく絶滅隔離の視線が伝染力の極めて弱い病気に投げ掛けられたのである。偏見や差別が先にあったのではない、意図的に作られた結果なのだ。(収容患者の範囲が浮浪患者から全患者に拡大され始めたのは、1925年衛生局長通達からである。狙いは窮乏患者を救うためではなかった。重症患者等の園内重労働の担い手を確保する狙いであった。1931年癩予防法から本格化する。

 現在の鹿児島県webサイトには、「昭和4年頃からは,各県において,ハンセン病患者を見つけ出し強制的に入所させるという「無らい県運動」がおこり」と、行政の作為を恰も自然現象のように記述している。事実は、県が「無らい県運動」を組織したのである。おかしな話である。療養所に送り込めば、なぜ「無らい県」なのか。

 療養所は厄介者の捨て場としての「外地」なのか。作家島 比呂志は、療養所を『奇妙な国』と呼んだ。その国境内は「日本」ではなかった。この国では滅亡が国家唯一の大理想であり、子孫を作らないために男性の精管を切り取ったのである。子どもも義務教育から除外。やがて死に絶える子どもには未来はないと断定した。

 

 1905年の帝国議会では、ハンセン病をペスト並みと決めつけ隔離を要求する議員に、内務省衛生局長は、

「(伝染病予防法は)急劇ナル伝染病ニ対スル処置デアリマスカラ、或ハ隔離ト云ヒ、交通遮断ノ如キ、其他此多クノ処置ハ、癩病ニ対シテ、直チニ適用ハ出来難イ」と隔離を退けていた。

 ところが初代全生病院長になる医師光田健輔は、渋沢栄一とともに「ペスト並みの怖い病気」という誤った印象形成に精力を傾け全国を遊説したのである。


   これまではただ遺伝病だと思っていたらいが、実は恐るべき伝染病であって、これをこのままに放任すれば、この悪疾の勢いが盛んになって、国民に及ぼす害毒は測り知れない。    渋沢栄一  

   ハンセン病患者を外来患者として病院が受け入れることは、ペスト患者を外来患者として受け入れることと其理に於て大差ない。  光田健輔 

  

 猛毒性のペストを引き合いにした「恐るべき伝染病」という極端な誇張は、資金集めと偏見助長の格好の標語となった。だが言葉の偽造は、我々を真実の発見から遠ざけ、実態や本質を隠蔽する。(コロナ対策行政が、繰り出す「ウイズ コロナ」や「新しい生活様式」などの標語も、コロナの実態と対策から国民の視線を遠ざけている)それを街の煽動屋ではなく専門医と渋沢がやったことに恐ろしさがある。僕が渋沢を新しい日銀券にふさわしくないと主張するのはこのためである。

   1953年からの2年、熊本市黒髪町の龍田寮児童(ハンセン病療養所菊池恵楓園入所者の子弟)通学をめぐる全国的事件があった。龍田寮事件とも黒髪校問題とも言う。この事件の最中僕は、堀に入って遊んだことになる。

 文部大臣や大学が混乱の調停にあたったが、同盟休校にまで発展、 1955年秋から子供たちは、親戚や熊本県内10か所の児童養護施設に極秘に引き取られた。

 この年に開校したての詫間原小学校に入学。この学校と黒髪校は、熊本市中央を流れる白川を挟んで、歩ける距離である。

 そこで、施設から通う三人組の一人と同学級になった。陰あるその子に妙に惹かれて遊びに誘った。しかし放課後になると、「施設のおばさんに遊んじゃいかんと言われとるけん」と三人で逃げるように帰った。校門の上から三人が白川にかかる橋を渡り、丘の麓に見えなくなるまで見ことがある。彼らの一人がひょっとすると「松原」君ではなかったか。父のすぐ下の妹も祖母と同じ時期に戸籍から消えている。ハンセン病療養所の夫婦は断種を強制され子どもを持てなかったが、恵楓園では患者が出産したケースがある。

記 画像は寺田寅彦、後方に写っている女性が母のアルバムにあった父方の祖母に似ていて気になる。       続く

戸籍から消えた祖母がくれた学童帽

 「ハンセン病療養所多磨全生園」で、塹壕のような溝が掘り起こされたのは2016年12月。開設当初から患者逃亡を阻止のために設けられた。新聞は発見と報道したが、おかしな言い方だ。古代の集落跡であれば、知るものも記録もないから「発見」と言えるが、この逃亡防止の溝で隔離された元患者は生存して、その生々しい記憶は今なお生きている。


 残土は積み上げられ土塁となったから溝はかなり深く急斜面、目や手足に障碍を持つ者が落ちれば這い上がれない。一度隔離されば火葬場の煙となるまで外には出られない。絶滅隔離を知らしめるおぞましい遺構である。

   

  この溝に入って遊んだ微かな記憶がある。小学校入学直前、少なくとも三度。熊本電鉄に乗り、大きな森のある駅でおりた。谷や資材置き場で遊び弁当を食べたまでは覚えている。資材置き場で足を滑らせてて出来た膝の傷は、今もはっきり残っている。帰りは父の背。

 新調の学童服・学童帽・ランドセルを着用して出かけた日もある。「汚れるから遊べないよ」と問うと、父は「今日は学校に行く練習じゃ」と答えた。


 この時の記憶が甦ったのは、菊池恵楓園と土屋文明の関わりを調べていた時だ。アララギの普及を目指して土屋文明は絶滅隔離政策下のハンセン病療養所にたびたび足を運んだ。

春の日に並びて吾を迎えくれし合志村の友らよ一年過ぎぬ          1938年『少安集』

と土屋は詠んでいる。熊本の北方に位置する合志村は、恵楓園の所在地である。

 その時を、 菊池恵楓園の畑野むめさんは 『検証・ハンセン病史』 河出書房新社刊  の中でこう証言している。

 

  「土屋文明先生は、弱い人によくする方でねえ。・・・前はね、外からここに来るなら、この患者地帯(溝で隔離された区域をそう呼んだ)に入るときは、目の少し出るくらいの大きなマスクして、予防着着て長靴ば履かにゃ、入られなかったの。参観人は皆そんな格好して入ってきよった。消毒液が置いてあって、そこを通って入ってきよった。 土屋先生はね、最初から私服のまま、とっとと入ってきて。自分の服着たまま重病人のところに行って、話をしたり。そういう人だったよ。 昭和十二年(1933年)においでたときも、(講話で)高いところにするような造りしてあるでしょう、それを「こんなものは取られんかね」て言うて。下りて一様に話したいってね。偉い人だけど、そういうふうな親しみやすい先生だったな。だけど、みんな畏れとったよね。「黒鉄の文明」とか言ってね。歌には、やかましゅうしておられた。畏れられちゃおったけど、弱いもんにはよかったなあ」


 文明がやってくる日、菊池恵楓園の歌人達は不自由な手足、不自由な目をおして門まで出向き歌人土屋文明を感激させている。白い隔離の壁を纏ってどうして、言葉と心の遣り取りが、共感相互理解が出来ようか。それは年齢、時代を問わない。


 その門の写真を見付けた時、僕は「溝」がどこに在ったか、なぜ父が入学直前の僕を三度もここに連れてきたのか。その手掛かりをつかんだ気がした。

 恵楓園正門は停車場の北に接し、「溝」は電鉄「御代志」停車場から北に伸びる線路伝いの森の中にあった。それが子どもには自然の谷に見えた。恵楓園の前身、九州7県連合立九州らい療養所は、「多磨全生園」と同年1909年開設。遊んだ1954年には側面も崩れ、森と一体化していたに違いない。


 気絶するほどの大怪我だったが、帰宅時には綺麗に包帯が巻かれていた。妹がいなかったのも。弁当の後眠ってしまったのも、次第に謎が解けた。小さな妹には僅かに感染の可能性があったが、学齢以降の子どもや大人には感染しないことを父は既に知っていたのだと思う。

 恵楓園正門を抜けた先の面会所に、眠り込んだまま誰かに面会した。「学帽・ランドセル姿」の僕を見たいと父に懇願したのは、誰だったのか。土屋文明を門まで出迎えた中にいたかもしれない。 祖母は和歌を嗜んでいたと聞く。   続く


クラブは教育の一環ではない

 「スポーツ体罰死を克服できない日本に、olympic開催の資格はない」

   宝塚市立中学柔道部顧問教師が、「部活動」で生徒2人に重軽傷を負わせ、「指導の範疇をはるかに超えた。体罰とすら呼べない」として懲戒免職になった。暴行傍観の副顧問も減給処分。

 驚くべきは、体罰や傷害で教職員が免職となるのは異例であることだ。この男は生徒がアイスキャンディーを食べたことに立腹。投げ技や寝技で背骨を折る重傷を負わせた。過去にも体罰を3度繰り返し、減給などの懲戒処分を受けていた。男は「最初は厳しめの指導と思っていたが、大変なことをやってしまった」と反省しているという。だが、免職処分がなければ「指導の一貫」と居直っていた可能性を否定できない。県教委は指導監督が不十分だったとして、校長も戒告処分。宝塚市長は「一歩間違えば生徒を死に至らしめた事件。厳しい結果は当然」と語っている。

   同じ兵庫県の神戸高塚高校校門圧死事件から30年経って、も体罰依存の「部活」構造は硬い。

 そんな国が、オリンピックに浮かれる資格はない。iocも「中高生のスポーツの体罰死を克服できない日本に、olympic開催の資格はない」と言う資格がない。利権太りの「スポーツ貴族」体制自体が、スポーツマンシップに程遠いからだ。 そもそも一体彼らはどのように選ばれているのか、そんな組織が一国の財政に平然と手を突っ込む事が許されるのは何故か。世界中が問うこともない、怪しさ漂う「聖域」である。

 校門圧死事件当時の兵庫県高校生徒指導協議会は、「校門」立番を高く評価していた。文科省の学校安全「研究指定校」でもあった。だからだろう、現場に付着した被害生徒の血痕は、警察到着以前に学校が流し去っていた。教育行政の「安全」意識が生徒の日常に向けられることはない。

 あれから30年も経って、ようやく「体罰による免職」という現実が示しているのは、30年もの間体罰死は「熱心さのあまり」の「指導の一貫」として処置してきたことに尽きる。  殺人を「処置(弾薬も食料も尽きた戦場で、動けなくなった兵を殺す命令をそう呼んだ)」と呼ぶ習わしは、旧帝国陸軍が蔓延させたものである。

  殺人教諭は懲戒免職、校長を戒告、教頭と教育長を訓告、教育次長2名を厳重注意、校門を閉めようと言い出した教員や生活指導部長に対しては処分は無かった。
 殺人元教諭は、有罪確定直後「警察的な校門指導を正義」と自著に書いた。皇軍から連綿と続く「犯罪を言葉で言い逃れる」「日本の麗しい」この伝統は、前首相の言行にも引き継がれている。

 そもそもクラブは学校教育の一環ではない。明治の日本人は倶楽部と書いた。教員も少年も対等の立場で「play」を楽しむ余暇活動である。中学生も街の叔父さんも校長もスポーツ愛好家として対等だから、体罰やパワハラがあれば告発も退会勧告もできる。加入も退会も自由である。
  
教育行政はこの自由と平等が嫌いだ。年代を貫く自由と平等は、地域活動を通して連帯と民主主義の精神と行動を養わずにはおれないのだ。

旧制弘前中生のストライキ

 旧制中学生や旧制高校生が、社会問題に関心を持ちストライキを組織した自治の「伝統」から少年/少女を隔離する手立てとしては「部活」ほど手軽で硬い物はない。1973~2001まで続いた高校の必修クラブ制度は、高校生から自治の精神打ち砕いた。上級学校への推薦制度につられて、自ら進んで体罰・パワハラ地獄に365日朝から晩まで熱中するのだから。


 満州事変の1931年、『東奥日報』は「弘前中学四五年生徒 全ストライキ」と三段抜きで報じている。生徒300人が、教師の体罰に抗して嶽温泉に籠城したのである。

 この嶽のストライキ「決議」は「弘前中学校当局の教育方針を見るに只欺瞞と矛盾と暴力である故に我等はその非なることを和平的態度を以て再三それとなく指摘して三省あらんことを求めた然し三省は愚か我等に対する当局の態度はますます激しくなるのみにして一つとして教育の根本的精神即ち人格を養成する教育は行はずここに於て我等は・・・時代錯誤的な教育精神を打破し弘中百年の禍根を断つべく」と続き、最後に葛原校長と長谷川、立石教諭の二人の辞職を要求している。教師の暴力が発端であることがわかる。

  奈良県では女子小学生までが教師の教授不熱心に抗議、同盟休校している。  

 選挙権を持つ高校生が体罰で殺される事件が絶えないのに、ストライキやデモも無い事に大人は危機感を持たねばならない。 

オンライン授業には「眼差し」がない

 「・・・Iさんの表情が忘れられない。彼女は劇の台本にも配役にも道具にも関わらなかったのだが、嬉しげに毎日の練習や準備を熱心に見ていた。あんなに見つめられたら手を抜けない。僕は観客の役割ということを考えざるを得なかった。
メアリー・カサット( 1844- 1926)
それは授業に於ける生徒の役割に通じている。    発言するでもなく、手を挙げるわけでもない、眼差しと聴く耳だけがアクチブな生徒は少なくない。しかし彼女のその場に於ける役割は、決して小さくはない。静かであってもその表情は確実に演者に熟考を促す。もし演者=教師の感性が鈍感ならばその意義に気付かないに違いない。」

  僕はblog「多数決とコンセンサス 続き」にそう書いた。

   オンライン授業は「眼差し」・「聴く耳」を持たない。見つめる眼差しや聴く耳の一途さを察知できない。オンラインで話す者とみる者の眼差しは、機構上一致しない。モニターのカメラはモニターの外部にある。聴講生が画面の話者に焦点を当てれば、話者の画面では眼差しはズレる。互いの眼差しが一致して初めて、同意や同感の「うなづき」は生まれる。異議を唱える表情も眼差しが一致していてこそ、鋭いメッセージとなる。  

   独学の画家メアリー・カサットが描いた一連の母子像はそれを雄弁に語っている。

 
 
「一致しない眼差し」をcomputer技術は「克服」するだろうか。モニターの真ん中に見えないカメラを置くか。あるいは眼差しを仮想的に演じる助手を聴講生の中に仕込むか。・・・
 
 今既にオンライン授業システムを通じ個人データーを盗んだ詐欺事件が頻発し始めている。それを防止するシステムも登場し、やがて膨大な手続きや仕組みが有料で組み込まれるだろう。
オンライン授業は、今のうちにやめておくべきだと思う。
 人類が「対話」を初めて何十万年だろうか。永い時がヒトの眼差しを絶妙な手段に高めた筈だ。その生の眼差しに勝るものはない。たとえ赤ん坊であっても、苦もなくこなせる眼差しは我々人類に組み込まれている。
 「やがて電力料金は二円になる」と聞く者を惑わして始まった原発が、手のつけようのない事故や災害に見舞われ想像を絶するコストを生んでいるように、安全で絶妙な「オンライン授業」は高くつく。膨大なコストは、それ自体が巨大な利権となる。あらゆる利権は「聖域」化して批判を寄せ付けなくなる。

 

「withコロナ」が、泥棒する時間と命

  自殺者、中でも社会的弱者である女性や子どもの自殺が増えている。 厚労省自殺者統計は10月の自殺者数を2,153人と

みている。前年同期比で40%増。日本の自殺者数は、ここ数年、毎月1,500人から1,800人の間を推移。しかし今年は、新型コロナ禍が開始の2月から6月までの自殺者数は1,400人から1,500人台を推移して、過去5年間の水準を下回っていた。 生き難さが人に打撃を与える迄には時間的なズレがある。賢い政府を持てば、その間に緊急の対策を取ることができる。しかし時の首相安倍晋三は愚劣なタイミングで「Go To トラベル」を強行、最悪の結果をもたらした。自殺者は7月から1,800人強へ増加、10月には2,000人を突破してしまった。

  この間の事情を日本の報道機関ではなく、米国cnnがいち早くしかも的確に報じている。

  Tokyo — Far more Japanese people are dying of suicide, likely exacerbated by the economic and social repercussions of the pandemic, than of the COVID-19 disease itself. While Japan has managed its coronavirus epidemic far better than many nations, keeping deaths below 2,000 nationwide, provisional statistics from the National Police Agency show suicides surged to 2,153 in October alone, marking the fourth straight month of increase.

To date, more than 17,000 people have taken their own lives this year in Japan. October self-inflicted deaths were up 600 year on year, with female suicides, about a third of the total, surging over 80%.

Women, who have primary responsibility for childcare, have borne the brunt of pandemic-induced job losses and insecurity. They're also at greater risk of domestic violence, which help centers say has worsened here this year, as it has around the world.


  「withコロナ」と馬鹿げた標語を掲げる首都の知事、彼女からは猛毒プルトニュウムを手に制御を夢見るのかのような狂気が漂っている。その標語をいち早く掲げたマスコミ、店先に張り出す商店。我々はウイルスに殺される以上の犠牲を政府の無能によって被りつつある。
 適切な設備や人員を削減しなければ、助かったはずの命さえ消えている。彼らは教育や福祉・医療の削減が政治だと考えている。
  こうしてCOVID-19は、死亡と重い後遺症を伴う自然災害であるばかりか、無知・無能な政治判断がもたらす「人災」 になった。

 政権者たちはコロナ禍を口実に、手続きなしで我々の行動を統制し、財布はおろか、時間を盗み命まで弄んでいる。
  エンデはマイスターホラにこういわせている。


 『彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主からきりはなされると、文字どおり死んでしまう。人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。』


  コロナ禍で生計の手立てを絶たれた学生たちは、保証のない危険で低賃金の出前配送に駆り出され拘束る。その地獄を「自由な働き方」と言い含められるのだ。権利としての自由な時間を、無価値な「暇」にすり替えて見せるのが時間泥棒の初手だ。


  「・・・よけいなことはすっかりやめちまうんですよ。・・・むだなおしゃべりはやめる。年よりのお母さんとすごす時間は半分にする。いちばんいいのは、安くていい養老院に入れてしまうことですな。そうすれば一日まる一時間も節約できる。それに、役立たずのセキセイインコを飼うのなんか、おやめなさい!」


 ヨーロッパやラテンアメリカの古い街で、体の不自由なお年寄りが、二階から顔を出して通りの若者に声をかけるのが見かけられる。

 「お願いよ、野菜とパンを」

 「いつものでいいかい」と若者はぶら下げられた籠から金を受け取り、ひとっ走りする。頼まれたパンと野菜をお釣りと一緒に籠に入れて、二階の年寄りに声をかける。

 「用があったらいつでも呼びな」

 こんな光景の積み重ねが「公」=コミュニティを形成する。こうして作られる自由な連帯の社会を壊して「デリバリー」会社は肥太る。民衆の統制から「自由」になった資本は、我々のすべてを食い尽くして尚欲望をたぎらせる。

  「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。」

かへすがへすも羨ましの鶏や

 
 あの烏にてもあるならば 君が往来を鳴く鳴くも
などか見ざらん かへすがへすも羨ましの鶏や げにや八声の鳥とこそ 名にも聞きしに明け過ぎて 今は八声も数過ぎぬ 空音か正音か 現なの鳥の心や      

       『閑吟集』



 If I were a bird, I would fly to you.という言い回しを 仮定法過去という無味乾燥な文法用語とともに高校で教わったが、教養とは程遠い断片的なものでしかなかった。
 しかし大和猿楽にあるこの歌なら、枕草子や世阿弥の『逢坂物狂』に連なる豊かな表現を知ることができる。

 まずは英語の教師が大和猿楽にも通じ、古典の教師が仮定法過去を知ること。それが偏差値の呪縛から若者を解き放つ。そして教室から解放たれて、街に出ることにつながる。
  『閑吟集』は、16世紀の室町期に編まれた小歌の歌謡集。世捨て人を自称する男が「ふじの遠望をたよりに庵をむすんで」昔を偲んだか。集合住宅の最上階にある僕の部屋からも、富士が見える。北斎の「赤富士」風に見える日もある、僕も既に世捨て人である。


 「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」や「世の中は ちろりに過ぐる ちろりちろり」など、無常観漂う世界が、遠い過去の他人ごととは思えない。

 ここで鳥とは、逢坂の関で夜が明けても鳴く鶏のことである。別れを悲しむ対象を持つことの、狂おしさ。

ハイケンスの「セレナーデ」と明るい貧乏が、平和を握りしめていた

  ハイケンスの「セレナーデ」が、露地で遊びに熱中する子どもたちの歓声を静めるように流れたのは、午後の四時頃。

 記録によればNHK、『尋ね人』は1946年(昭和21年)7月1日から1962年(昭和37年)3月31日 迄続いた。   1960年(昭和35年)の放送時間は、ラジオ第1放送で月曜日から土曜日の午後4時25分から29分。「セレナーデ」はそのテーマ音楽だった。
    NHKの『尋ね人』『復員だより』『引揚者の時間』の3番組は、聴取者から送られた、太平洋戦争で連絡不能になった人の特徴を記した手紙の内容をアナウンサーが朗読し、消息を知る人や、本人からの連絡を番組内で待つ内容であった。当初は対象者別に以上の番組が設けられていたが、やがて『尋ね人』に集約した。放送期間中に読み上げられた依頼の総数は19,515件、その約1/3にあたる6,797件が尋ね人を探し出せた。集落が静まり返って聴き入ったわけである。
   手紙の内容はまとめられ、アナウンサーによって淡々と読み上げられた。https://ja.wikipedia.org による。


 昭和20年春、○○部隊に所属の××さんの消息をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。
 シベリア抑留中に○○収容所で一緒だった○山○夫と名乗った方をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。
 旧満州国竜江省チチハル市の○○通りで鍛冶屋をされ、「△△おじさん」と呼ばれていた方。上の名前(あるいは、苗字)は判りません。
 ラバウル航空隊に昭和19年3月まで居たと伝え聞く○○さん、××県の△△さんがお捜しです。
 昭和○○年○月に舞鶴港に入港した引揚船「雲仙丸」で「△△県の出身」とおっしゃり、お世話になった丸顔の○○さん。
 これらの方々をご存じの方は、日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は東京都千代田区内幸町、内外(うちそと)の内、幸いと書いて「うちさいわいちょう」です。←クリック



 番組が終わると共にどの家からも深い溜息が聞こえ、やがて子供たちの歓声が再び露地を駆け巡った。

 このひと時を戦中を耐え生き延びてきた大人たちは深い悲しみとともに、戦争放棄の憲法を持った喜びをかみしめた。


 祖母たちが、庭で遊びで明け暮れる子どもたちを見ながら「もう、こん子たちゃ、戦争に取られんでん済んとやなー」と繰り返す光景を思い出す。衣食住すべて不自由な明るい貧乏が、平和を握りしめていた。

    しかし朝鮮戦争特需は、貧しい平和にとって中毒性の「毒饅頭」となった。握り締めたはずの貧しい平和は脆く崩れ去った。貧しさの中に平和を生きる思想に欠けていた。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...