ユーモアを組織してはならない。

 


   黒柳徹子は70年代のニューヨークに遊学したことがある。

 ニューヨークには、馬もたくさんいます。それも、おまわりさんを乗せて、パカパカと、自動車と並んで、銀座通りのような賑やかな大通りを歩いているのです。一頭のときもありますし、二、三頭連れだっているときもあります。あっちこっちでよく見かけるのですが、何をしているのでしょう。

 そこで、この間、ブロードウェイの通りで、手帳をひろげて何やら書いている馬の上のおまわりさんに質問してみました。

 「失礼ですけど、なにか見張ってらっしゃるの?」

 答え「あなたが美しいので見張ってるんですよ」

「・・・」

 話はそれますが、こちらは、おまわりさんでもこの調子で、すぐお上手が口から出るのですから、ましてや、プレイボーイだの、世馴れている人の口から、オートメーションの機械のように、ほめ言葉とか、愉快な言葉が出てくるのはあたりまえですし、喋るのが商売のプロの司会者などにいたっては、のべつ人を笑わせて、つきることがない、というのも、驚くことではないのかもしれません。

  ・・・

  いずれにしても、世界一暴力沙汰の多いこのニューヨークで、のんびり馬にまたがって「あなたが美しいので見張ってるんですよ」なんてのんきなことをいっているおまわりさんのいるこの国も、相当に変わってて、面白い国だと思います。

 おまわりさんとお別れのとき、私は「サンキューベリマッチ!」といいました。ちょっとハンサムなそのおまわりさんは、ていねいに馬の上から頭を下げ、「ドウイタシマステ!」と日本語でいってにっこり笑いました。

 サービスもここまで行きとどけば完璧! といったふうで私は感心したのであります。 文春オンライン                                

 「相当に面白い」を学校に持ち込むのは多くの教師が肯定するかも知れない。黒柳徹子のように生徒が振舞えばいいのだ。

 昼休に校門で立ち番する教師や授業しない校長に、

 「失礼ですけど、なにか見張ってらっしゃるの?」と聞く高校生がいればいい。

 「校門に聞いていたんだ。「君は何のためにあるんだ」って」

 「あら?  何て答えたの」

となるだろうか。校門に立つ教員は、生徒を敵視しているからそうはならない。「トモエ学園」になれればいい。

 「世界一暴力沙汰の多いこと」も既に実現している。部活の体罰死は群を抜いて世界一。

   最近笑いを取るために、TV芸人たちが酷く「暴力沙汰」を好むようになっている。笑いながらの虐めやいじりは、芸を磨くことを忘れさせる。それで視聴率を取れれば電通も満足するから恐い、とても怖い。笑えて優越感が味わえるなら、周辺の国々や国民を貶め挑発さえする。こんなところに「国際化」は洪水のように押し寄せているのだ。国会議員は胸に青いバッチを付けてそれを煽る。TVやネットの日常にユーモアの片鱗もない


 体罰の現場をユーモラスに静められるなら、ユーモアやウィットもいい。だがそんなものがあれば今までいくらでも出番はあった。

  僕が感心したのは、「やめときーな」という抑揚ある関西弁で体罰教師の手を掴んで静止した例だ。拳を振り上げた教師は、突然の柔らかい方言に気勢を削がれ我に返ったのだ。肩をうなだれ現場を去った。「やめときーな」と咄嗟に言ったのは関西人ではなかった。彼にあったのは何か。これはユーモアでもウィットでもない。


 「・・・読み、聴き、見る自由が必要です。芸術家が発信するものを、大衆が受け取ることを禁じられたら、芸術家同様大衆も抑圧されます。もっとも大衆の場合、芸術家とは違った悪影響を受けます。つまり、未成熟のままに留まるのです。未成熟こそが、ナチス・ドイツの一般大衆の顕著な特徴です。敵の写真を眺めると皆さんは、有能で、勇敢で、恐ろしく、英雄的ですらある、という印象を受けるかもしれません。しかし、大人の印象を受けますまい。彼らは聴き、読み、見ることを許された経験を持たないのです。自由を実行することを許された経験を持つ者だけが、その日の中に大人の色を持つことができるのです・・・」  フォスター 『反ナチス放送講演三篇』1940年9月26日


 この演説の「芸術家」をマスメディアや教師に置き換えて読まねばなるまい。

 若者も大人も、「未成熟のままに留」められ、そして、「なんでも日本が一番」の番組に煽られてのぼせ上った幼稚な顔をしている。「聴き、読み、見ることを許され」た限りの後進国日本の有様を知ろうともしない。「自由を実行することを許された経験を持」たないことに怒りも不満も持てない。

 「未成熟こそが、ナチス・ドイツの一般大衆の顕著な特徴」であったことに、僕らは僕らの現在を重ねて、警句とする必要がある。 カッコいい幼稚さに彩られた部活や行事、硬い幼稚さに封じ込められ批判精神を禁じられた主権者教育。それらが目指すのは、操作しやすい大衆である。


 必要なのは笑いではない。未成熟を恥じる冷静な怒りだ。笑いや悲しみで全体を組織すれば、そこに暴力が芽を出す。笑いは個別的でなければならない、そもそもあらゆる感情表出は個別的だからだ。

   天皇制の惨忍さは、その冠婚葬祭に凝縮している。

 黒柳徹子の振舞いも騎馬警官の対応も、マニュアル化出来ない。

無いものだらけの新制中学

少なくとも卒業までの
三年間毎日「皇帝」は流れていた。

 四谷二中に放送室は無かった。だがレコードプレーヤーが職員室窓際にあり、毎朝ベートーヴェンピアノ協奏曲「皇帝」が日本一長い木造校舎を駆け巡った。

 雨が降れば授業が中断するバラック同然の代物だったが、それ自体が巨大な共鳴箱。僕は毎日曲の始まりと同時に校舎に入った。朝早い校舎に入って教室と廊下の窓を開け放つのは、小学校一年以来の習慣だった。夜中に淀んだ空気が不快だったからだ。ヒマラヤ杉の森からの空気は新鮮で旨かった。第一楽章から第三楽章までが流れる間に、生徒が増え音質は軟化するのだった。


 プールも体育館も無かった。雨が降れば自習。校庭は50mコースさえ取れない狭さ、それ故放課後のクラブ活動は週一度。それでも押し合いへし合い。部活など想像すら出来なかった。図書館には本が少なかったし、視聴覚教室も無かった。昼休みになると居場所がない。だから隣の御苑との塀にはいつもどこかに穴があき、狭い校庭を補う「空き地」として機能した。

 伊勢丹書籍売り場や紀伊国屋書店は、書籍不足の図書室の延長であり、生徒の日常に欠かせなかった。伊勢丹からも紀伊国屋からも苦情がひっきりなしに来ていた。彼らは苦情の申し立て先を間違えていた。自民党や文部省に怒鳴りこむべきだったのだ。教育条件整備が任務の文部省は、教育の自由の抑圧や日の丸強制に血道を上げている場合じゃないと。


 団塊の世代は大量の越境入学生流入で限界をこえる。辛うじて机と下駄箱だけはあったが、チョークや職員室までも不足。学区には、歌舞伎町や柳通りの花街、貧民街から高級住宅地が含まれていた。

 限界を越えて拡大した校内には、、ならず者や日雇いから芸能人の子どもから、財界人や学者・弁護士のお坊ちゃんまで社会のあらゆる構成要素はぎっしり詰め込まれていた。

 それでも二中が「崩壊」しないですんだのは、多様性が作る絶妙な動的平衡があったからだ。絶えない複数の緊張が教室を廊下を支配していた。便所裏ではやくざの子どもたち=「愚連隊」が、チェーンや剃刀の刃で渡り合っていたし、カツアゲもあった。休み時間の廊下は生徒で溢れ、女子が安全に歩くのは大変だった。それでも越境生が押し寄せる不思議な「魅力」が二中にはあった。 警察や救急車沙汰にならなかったのは、生徒間の複雑な利害関係が教員や外部の介入を抑止する「公」的繋がり=「コモン」が芽生えていたからだ。

(例えば、やくざの子どもも勉強が嫌いな者ばかりではなかったから、教えたりカンニングさせたりの関係もあった。愚連隊の生徒のやくざの親が、生徒の親の雇い主で頭が上がらないケースも稀ではなかった。肩で風を切って校内を歩きはするが、団塊の世代と越境生の中では所詮少数派だったから理不尽には限度があった。HRの議論に「愚連隊」は沈黙していた)

 それ故「越境入学」禁止通達と同時に、二中は暴走族のメッカと化した。通達で越境入学者だけが消えたわけではないからだ。学区内の知的階層や裕福な家庭の子どもたちも私立に逃げ、越境者も地元の公立に戻りはしなかった。選別教育の矛盾は先鋭化、公教育は教育産業の草刈り場と化したのだ。

 行政がやるべきは、越境せずに済む自由で平等な学校づくりだった。だがそれは、公選制教委だけが成し得る課題である。何故なら自由で平等な学校は、あらゆる特権を排除するからである。

 なにもない学校空間の混沌は、知的好奇心を待ち構えていた。スタンダールならCrystallization=結晶化と言うところだ。

 休みには、神田や上野界隈の書店・博物館、有楽町日劇地下には科学映画と漫画とニュース専門の映画館があり、小中学生で満員だった。「子どもの科学」付録の小さな部品も、壊れればバラで買えた。この界隈に無いものはなかった。

 頼みもしないプールと体育館は、狭い校庭を更に削って造られたが、迷惑な代物だった。水泳は熱暑しのぎにはなるが、そのあとの授業は塩素臭さが教室に満ち、だるさで頭は働かず居眠りどころか皆が爆睡した。体育館は風通しが悪く、剣道や柔道で打ち身する痛く汗臭さい場所になった。校庭の木陰に腰を下して、体のしくみと運動の理論を学ぶ方がどんなに学校らしかったか。

 土建資本は文化や教育を貪欲に喰ったのだ。これが「傾斜生産」の実態だった。気が付いた時には、福祉や医療も環境や平和さえ飲み込んでいた。

 四谷二中の施設や備品は、考えられる限り最低であった。しかしその最低を切り盛りして行われる授業や工夫は、素晴らしいものがあった。特に、体育、美術、音楽、理科第一分野は、プールの後でも目が覚めるほど素晴らしかった。公選制教委はすでに無かったが、その精神は教師と保護者の行動の中に消えずに残っていた。それを享受した僕らには、消えた公選制や旧教育基本法を受け継ぐ義務がある。  

雨漏りする学校の「自由」

 

少なくとも卒業まで三年間
毎日「皇帝」は流れていた。

   
放送室も無い四谷二中ではレコードプレーヤーと剥き出しのマイクが職員室窓際に置かれ、毎朝ベートーヴェンピアノ協奏曲「皇帝」が日本一長い木造校舎を駆け巡った。

 雨が降れば授業が中断するバラック同然の代物だったが、それ自体が巨大な共鳴箱。

 僕は毎朝、曲の始まりと同時に校舎に入った。朝早く教室と廊下の窓を開け放つ。ヒマラヤ杉の森からの空気は冷たく新鮮だった。第一楽章から第三楽章までが流れる間に、生徒が増え音質は軟化するのだった。


 プールも体育館も無かった。体育は雨が降れば自習。校庭は50mコースさえ取れない狭さ、放課後のクラブ活動は週一度。それでも押し合いへし合い。図書館の本棚はガラガラ、視聴覚教室も無い。昼休みの居場所もない。だから隣の御苑との塀にはいつもどこかに穴があき、狭い校庭を補う「空き地」として機能した。

 伊勢丹書籍売り場や紀伊国屋書店は、書籍不足の図書室の延長であり、生徒の日常に欠かせなかった。伊勢丹からも紀伊国屋からも苦情がひっきりなしに来ていた。彼らは苦情の申し立て先を間違えていた。政権党や文部省に怒鳴りこむべきだったのだ。教育条件整備が任務の文部省は、教育の自由の抑圧や日の丸強制に血道を上げている場合じゃないと。


 団塊の世代は、越境入学生流入で限界をこえていた。辛うじて机と下駄箱だけはあったが、チョークや職員室までも不足。学区には、歌舞伎町や柳通りの花街、貧民街から高級住宅地が含まれていた。

 ならず者や日雇いから芸能人の子弟、財界人や学者・弁護士のお坊ちゃんまで社会のあらゆる構成要素がぎっしり詰め込まれていた。

 それでも二中が「崩壊」しないですんだのは、多様性が作る絶妙な動的平衡があったからだ。絶えない複数の緊張が教室を廊下を支配していた。便所裏ではやくざ子弟の「愚連隊」が、チェーンや剃刀の刃で渡り合っていた。カツアゲもあった。休み時間の廊下は生徒で溢れ、女子が安全に歩くのは大変だった。それでも越境生が押し寄せる不思議な「魅力」が二中にはあった。 警察や救急車沙汰にならなかったのは、生徒間の複雑な利害関係が教員や外部の介入を抑止する自前の「公」的繋がり=「コモン」が芽生えていたからだ。

(例えば、やくざの子ども勉強が嫌いな者ばかりではなかったから、教えたりカンニングさせたりの関係もあった。愚連隊生徒の親が、カツアゲされる生徒の親には頭が上がらないケースも稀ではなかった。肩で風を切って校内を歩きはするが、団塊の世代と越境生の中では所詮少数派だったから理不尽には限度があった。HRの議論に「愚連隊」は沈黙していた)

 それ故「越境入学」禁止通達と同時に、二中は暴走族のメッカと化した。通達で越境入学者だけが消えたわけではないからだ。学区内の知的階層や裕福な家庭の子どもたちも私立に逃げ、越境者も地元の公立に戻りはしなかった。選別教育の矛盾は先鋭化、公教育は教育産業の草刈り場と化したのだ。

 行政がやるべきは、越境せずに済む自由で平等な学校づくりだった。だがそれは、公選制教委だけが成し得る課題である。何故なら自由で平等な学校は、あらゆる特権を排除するからである。

 なにもない学校空間の混沌は、知的好奇心を待ち構えていた。スタンダールならCrystallization=結晶化と言うところだ。

 休みには、神田や上野界隈の書店・博物館、有楽町日劇地下には科学映画と漫画とニュース専門の映画館があり、小中学生で満員だった。「子どもの科学」付録の小さな部品もバラで買えた。この界隈には何でもあった。


 頼みもしないプールと体育館は、狭い校庭を更に削って造られた。水泳は熱暑しのぎにはなるが、そのあとの授業は塩素臭さが教室に満ち、だるさで頭は働かず居眠りどころか皆が爆睡した。体育館は風通しが悪く、剣道や柔道で打ち身する痛く汗臭さい場所になった。校庭の木陰に腰を下して、体のしくみと運動の理論を学ぶ方がどんなに学校らしかったか。

 土建資本は文化や教育を貪欲に喰ったのだ。これが「傾斜生産」の実態だった。気が付いた時には、福祉や医療も環境や平和さえ飲み込んでいた。

 四谷二中の施設や備品は、考えられる限り粗末であった。しかしそれを切り盛りして行われる授業や工夫は、素晴らしいものがあった。特に、体育、美術、音楽、理科第一分野は、目が覚めるほど素晴らしかった。公選制教委はすでに無かったが、その精神は教師と保護者の行動の中に消えずに残っていた。それを享受した僕らには、消えた公選制や旧教育基本法を受け継ぐ義務がある。

高校生は「逆らいたくなる」

 2002年6月5日

 お喋りに余念の無かった三人が、教室の一番前で身構えている。「聞いてやる、かかってこい」と言わんばかり。

  2002年6月12日

 「先生の授業逆らいたくなるの、だって筋が通っているんだもん」

 教員たちから「うるさい」と嫌われている生徒が、ニャッとしながらそう言う。

 

 面白い言い方をする。もし教師の言うことに筋が通っていなければ、この生徒は彼を「詰まらない奴」と無視する。彼女にとって教師はそんな奴ばかりに見えていたのかもしれない。逆らう必要もないわけだ。彼女の中には世界観が既に形成されていて、授業する教師の世界観と自らのそれを闘わせずには置かない。授業は「○か×か」の確認や「括弧への単語記入」の退屈な時間ではない。中等教育とはこんな青少年のために用意されたシステムであることを、僕らは心得なければならない。恐ろしいのだ、生意気な高校生。「うるさい」とは、単に騒がしいことを言うのではない。


 分かり方のラジカルさ。現象からいきなり本質に跳ぶ、鋭い目つきと悪戯っぽさ。少女と青年が同居する瑞々しい時期だ。

 「起立・礼」から始まる「いい先生」の「いい授業」では、中等教育の授業は成立しない事を、この生徒たちは言い当てている。

 グッと睨んだ眼差しの奥で、自分自身の思考と教師の授業

を対比して「逆らいたくなる」。自分の思想が揺るぎ始める口惜しさと、新しい思想にめぐり合う嬉しさが鬩ぎ合うのだ。 

 「出来る」生徒たちは○と×の断片的世界に留まり、即座に暗記する。いわば初等教育のまま、体だけが育つ。この「逆らいたくなる」過程を経ずに青年になる。なんと勿体ない事だ。敬意や友情も恋愛もそれが熱烈であればあるほど、反感を含んで始まる。時にはそれが前面に出る。

良識は、意固地なまでの「反骨精神」から生まれる

 

「私は額縁に入るのはあまり好きではない。同じ入るなら風呂のほうが好きだ」

 と物理学者・朝永振一郎は言ったと伝えられている。  朝永博士

の還暦を祝って若手の学者たちが、肖像画を贈ろうとしたときの言葉である。朝永振一郎は新しい風呂桶を喜んで使ったという。

 「額縁に入る」ことは、表面的には大事に持ち上げられたようで歓迎すべきことのように思える。部活で成果を挙げると、仰々しく大きな垂れ幕に書かれて皆が見上げる。こんな名誉なことを断るとは、ひねくれていると思う人もあるだろう。だが「額縁に入る」事は、額縁の添え物や壁の装飾品になることを意味する。つまり客体化=道具化することだ。

   戦前・戦中日本人は悉く、天皇制軍国主義のたった一銭五厘で調達出来る道具に過ぎなかったことを思い起こせばいい。あくまで自己の主体性に拘り、それを拒否すれば特高が待ち構えていた。


 夏目漱石は、文部省が呉れるという博士号も東大が準備した教授の座も、まるで怒るように断っている。俺は何かの添え物ではない。そう言っているのだ。

 

 志賀直哉は東大をあっさり中退。それでも漱石の講義にだけは熱心に足を運んだ。漱石が東大を辞するのは1907年。

  その前年志賀直哉はノートに

 「天皇とは一体なんだろう?どうして何の為に出来たのだろう?誠に妙なものだ。こんな奇妙なものがなければならないのかしら?天皇というのは恐らく人間ではあるまい、単に無形の名らしい。その名がそんなにありがたいとは実に可笑(おか)しい その無形の名の為に死し、その為に税を納めて。その名の主体たる、一つの平凡なる人間を及びその一族(交際する事以上何事も知らぬ。交際せんが為に生まれて来た人間)をゼイタクに遊ばせて加えてそれを尊敬する、何の事か少しも解らぬ、そういう人から爵位をもらって嬉しがる、嬉しがって君のためなら何時でも死す、アア、実に滑稽々々)。・・・」と書いている。

  「・・・ゼイタクに遊ばせて加えてそれを尊敬する、何の事か少しも解らぬ、そういう人から爵位をもらって嬉しがる、嬉しがって君のためなら何時でも死す、アア、実に滑稽々々)。」

 凡庸な口語で言うから一層過激に聞こえる。志賀直哉は乃木希典の自殺を「「馬鹿な奴だ」といふ気がした。丁度下女かなにかが無考えに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた」と評した過去がある。

 ここには「額縁に入りたくない」や「俺は添え物ではない」より更に、個人の主体性が前面にせり出している。学習院の授業中志賀直哉は、勝手に立ち上がり窓を開け校庭に唾を吐くなど素行は自己中心性を帯びていた、ために二回も落第した。

 彼にとって自分自身であり続ける事は学習院生としての体面より遙に重大事だった。また東京大在学中に志賀家の女中と深い仲になり、結婚を希望するが父親に咎められ親子関係は徹底的に悪化し家出している。家や学校の「添え物」ではないという激しさがある。

 後に特高警察の監視を少しも畏れず「終戦工作」←クリック に乗り出す大胆さや戦後の自由闊達な言論活動←クリック はこの時既に構築されている。

 

 漱石・志賀直哉・朝永振一郎に狩野亨吉を加えたい。彼らを貫く意固地なまでの「反骨精神」を僕は良識と呼ぶ。 狩野亨吉は

「自分は危険思想をもっているので、王者の師傅に適しない」

と皇太子の教育掛を固辞し、帝大総長の地位さえ退けているのだから。


 意地を張り不貞腐れる高校生に、僕たちは主体性の芽生えを見ようとしたか。特高のように集団の掟に押し込み、猫撫で声で「素直になれ」と恫喝して来なかったか。

 最近日ごとに「良識」に富んだ人物が少なくなったことに、僕らはとぼけていいのか。あの頃の高校生は、もう子どもを成人させている。 

公選制とは何か 2   公選制教育委員会の記憶

  公安委員会公選制が維持されていたら、冤罪事件は続いただろうか。少なくとも冤罪をでっち上げた警官は、厳しい批判に曝され免職処分は間違いないだろう。

    

警察の筋書きでは爆弾は駐在所外から投げ込まれたことに
なっていたが、ガラスは外側に飛び散っていた。

1952年の菅生事件(大分県菅生村)は、国家地方警察大分県本部が仕組んだ共産党弾圧のための自作自演駐在所爆破事件。

 犯人として逮捕・起訴された5人の共産党関係者全員の無罪判決が確定した冤罪事件である。当時巡査部長として捜査した警察官(市木春秋)は冤罪確定後も昇進を続け、警察大学校教授を経て警視長まで昇任している。こんなことは公選制自治体警察では在りえない。

 菅生事件も松川事件も三鷹事件も袴田事件も志布志事件も・・・実に杜撰な工作で事件をでっちあげている。常識さえあれば、冤罪であることはすぐばれる。冤罪が絶えないのは、市民による直接の捜査関係者監視と処分がないからである。

 

 公選制独立行政委員会の代わりに、政府が多用するのが「審議会」である。選挙で選ばれたと自称する政府が任命する「国民」の意志による機関ということになっているが幾重にも「間接」的で、国民の意志が直接に関与する事からは絶望的に遠い。当たり障りのない「学識経験者」が選ばれ、普通の労働者が選ばれることはない。

 しかも「審議会」は自主的調査の機能がないから、権力の与える資料に基づいて話し合うに過ぎない。ここに民主的で自由な議論は成立しない。

 こんな腑抜けたシステムの国家になってもう70年が経ったことに僕らは驚く必要がある。

 議員の多くは、胸に細長い青いバッチを付けた「日本会議」の構成員。「審議会」構成員は「学識経験者」とはいうものの、その大半は大企業経営者。どう捻っても「公正」な議論は期待できない。1977年度の中教審では、有吉佐和子・久保田きみ・遠藤周作の三氏が官製議論に失望、辞任している。


 公選制教育委員会の日常を窺わせる記述はないか。なかなか見つからない。

   (青山教諭はハンセン病療養所多磨全生園初の派遣教師である。地元東村山町教育委員会から依頼を受けている。)

  「青山信先生の前任地は、鹿児島県鹿屋。星塚敬愛園がある。受け持ちの家族にもハンセン病患者がいて、度々訪問していた。生徒を引率して慰問活動もしている。 

 東村山町の教育委員から話があった時は、親戚の反対と自身の子どもへの配慮から一旦は断る。だが、自ら医局を訪ね 詳しい説明を求めた後、改めて分教室を希望している。分教室着任の挨拶にその気持ちが書かれている。

 「こちらへ来ることをはっきり決めました。・・・何も特別に悲壮な決心をして殉教的な気持ちで来たわけではありません。又日頃から子供たちの幸福を守る仕事をしたいと思っていましたから、自分の希望も叶えられたわけです。」   

                                   『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊

 青山先生が多磨全生園文教室に赴任したのは 1953年。公選

制教委が活動していた時期である。

 教育委員自身が小学校を訪問し、青山先生を探し当て話をしている。任命制の今なら教委が官僚的に校長に命じても候補が見つからず、採用試験不合格者にあたるところである。

   公選制であれば、教委委員の殆どが現場の職員会議や教室、地域の保護者の話を直接聞いて歩いた筈。

 そうであれば、高校の屋上からの垂れ幕には「○×大会優勝」や「△◇オリンピック金メダル獲得」などの見苦しいものは姿を消す。 何故なら高校生はもはや学校宣伝の客体ではなく、自由な主体となるからである。

 敗戦後の教育条件は、劣悪を極め尽した。それでも子供たちが明るく元気だったのは、公選制教委の下での教育の自由があったからだと思えてならない。 

公選制とは何か 1   日活映画『警察日記』と      公選制公安委員会制度下の自治体警察  

  角隠し姿の花嫁が、親戚たちと田舎の路線バスに乗る場面からこの映画は始まる。貧しいが希望に満ちた出だし。

   映画の主人公(森重久弥)は、駅で姉弟の捨子を発見する巡査。学齢前の女の子(二木てるみ)と赤ん坊。同時に、騙され紡績工場へ身売り寸前の若い女性を保護する。

 巡査は捨て子の預け先を探すが、引き取り先がなく途方に暮れる。切羽詰まって、知り合いの料亭に赤ん坊を預け、学齢前の女の子は連れ帰るが、子だくさんの巡査の家ではその日また赤ん坊が生まれていた。 

 この猪苗代湖畔の町に起きた貧困のもたらす出来事をめぐって、人情味溢れる町民と警察官が描かれる。

 二木てるみは天才子役に相応しい見事な演技で、観客の涙を誘い大人の俳優を圧倒する。杉村春子や沢村貞子など著名な俳優は、肩の張らない演技を見せる。東野英治郎は戦争で5人の子どもを全て亡くし精神に異常をきたした元小学校長を、宍戸錠は身売りされかけた女性に惚れてしまう若い巡査を演じている。

 日活映画『警察日記』の警察は、戦前のオイコラ警察とも最近の公安警察とも違っている。非常に懐かしい。この懐かしさは何処から来るのか。貧しく古い街並みか、敵意と競争を忘れた人々の穏やかな表情か。

 1954年撮影で翌55年公開の作品。55年体制の生まれた年は良く知られているが、その前年まで、自治体警察が公選制公安委員会の下にあった事はすっかり忘れ去られている。『警察日記』の原作は1952 年に出ているから、これは自治体警察とそれを取り巻く人々の係わりを描写した記録でもある。

 だから巡査は人々の生活に密着し、人々は巡査を信頼している。


  公選制の行政委員会は 農業委員会を除いてすっかり姿を消した。

  公選制独立行政制度がどんなものであったか、その成立過程と廃止の経過が比較的明らかな教員委員会のケースで見てみる。

  1946年第一次アメリカ教育使節団は戦前戦中の天皇制軍国主義教育が、恰も国民に狭窄衣を着せたようなものであったことを指摘した。日本の教育改革は狭窄衣から教師を解放する事でなければならないと報告書を作成した。この勧告に基づいて独立行政委員会としての公選制教委が教育委員会法によって組織されたのである。

 地方自治体の長から独立した公選制・合議制の行政委員会は、予算・条例の原案送付権、小中学校の教職員の人事権を持った。

 しかし単独講和の暴挙後、占領軍は各地に基地を置いて撤退する。早くも1956年、公選制の廃止と任命制の導入を強行する地方教育行政法が成立している。


  しかし公選制公安委員会の経過は公式記録にはない。まるで戦後の警察は1954年から始まったかのように書かれている。歴史はここでも抹殺されている。

 日弁連調査によれば、都道府県任命制公安委員の大半は財界・企業関係者が選ばれる。議会の同意をえて知事が任命しする建前だが、警察の同意が条件と言われている。市民の人権を守り、警察活動をチェックする人間が選ばれることは非常に稀である。   続く

 原作者伊藤永之介栄之助は、日銀秋田支店の文書係をしながら『文芸戦線』で活躍したプロレタリア作家であった。多くの作品を残し59年没。特高警察の理不尽に難儀した伊藤の描いた自治体警察像に込められたものを読み解く必要がある。 

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...