授業あっての分掌。日々の授業あってこその行事。

  授業のために分掌はある。行事も日々の授業の為にある。その逆、授業が分掌の犠牲になってはならない。行事優先で授業が軽んじられてはならない。

 本来校務は、管理職の任務。校長は教員が授業に専念出来るよう身を粉にして走り回らねばならない、校長室でふんぞり返るだけが能では無い。

 教委や文科省との喧嘩も覚悟の上で、教員の待遇、労働時間、休息・休暇、研究の自由、福利厚生、その他諸々の保障に関する雑務こそが校長の仕事である。

 だから例えば帝大の農学者古在由直は学長や総長就任を断り続けた。雑務が多く研究に専念出来ないからだ。また正木ひろしをして「狩野先生こそ本当の国宝的人物だ」と言わしめた狩野亨吉が帝大総長を固辞したのも、研究に専念したいが為であった。

 近頃の校長や学長は、何が生き甲斐なのか。校長室の書棚を見れば一目瞭然。専門分野の本は無い。教師の従順さに乗じて、自らの任務は教師に分担させ、その励み具合を評定するから救いは無い。人は研究や授業より地位に惹かれるのか。


 始めは教師も授業に差し支え無い範囲でイヤイヤ分掌を引き受ける、だがやがて分掌に励むために授業は軽んじられ忘れてしまう。特定の分掌や部活の「専門家」になってしまえば、教委の歓心は得るだろうが、机上から教科関係の専門書は消えている。


 学問や行政から責任感が見事に消失した時期がある。ヨーロッパで言えば魔女狩りの約二世紀間。日本では犬将軍の時代。この時代、学者や官僚はいなかったのか。いた、とびきり優秀で目立ちたがりが。彼らは無知蒙昧な民衆を啓蒙し暴走する火炙りを鎮めるどころか、反対に暴走に「科学」や「法令」に基づく根拠を与えた。

 今、学問や行政の世界から責任感が消え失せている。首相にして責任という言葉を知らないかのように振る舞う始末。行政法人に成り果てた大学や病院にもはや倫理感の欠片も無い。

 ということは、今世は「魔女狩り」の時期にあると見た方が良い。 社会全体が思考停止して、考えること自体が恐ろしいから、新聞や放送までが短く大きく乱暴な声にしか反応しない。


 思考停止状態のまま社会のハンドルを握られてはかなわない。機構や政府のハンドルを握り続ける思考停止した人間の手を止めのは誰か。誰もが忠実な「専門家」 として秩序維持に勤めるのだろうか。

ある年のある日 \\ 美しく力強い言葉

 

   Hate breeds hate, and love breeds love. Love means approving of children and that is essential in any school. You can't be on the side of children if you punish them and storm at them. Summerhill is a school in which the child knows that he is approved of.      Neill

 The function of the child is to live his own life - not the life that his anxious parents think he should live, nor a life according to the purpose of the educator who thinks he knows what is best. All this interference and guidance on the part of adults only produces a generation of robots.    Neill

 

 6月26日

 9.11事件被害者への「賠償金」が平均5000万円、アメリカ軍の「誤爆」によって殺されたアフガン人へは僅か5000円。という世界の非対称性。(住所のない日本人ホームレスに決して生活保護は届かないが、パスポートの無いウクライナ避難民は丁重に受け入れるという非対称性。非対称性は限度無くひろかる) と言論報道の自由の構造性について語った。

 「アメリカって自己中ね」と生徒の声が飛ぶ。覇権主義という言葉を持ち出そうとして思いとどまる。彼女たちの言葉を専門家やメディアが使うべきなのだ、そうすることによって、「学」を身近なものにする努力。

 6月28日

 「戦争には経済的背景がある。それで潤うものが必ず存在し、彼らの願望として戦争は実現する」

 「何故アメリカ軍は、アウシェビッツを爆撃しなかったのか」

  教室の後ろに向かって歩きながら話を進め発問する時、生徒達が体を回しながら目で追う。教育実習での経験を思い起こす。

  「戦争によって世界がどんどん何処も同じ世界になって行くような気がしてイヤ」と授業後話しに来る。うまく戦争の過程を捉えている。グローバル化・オルタナチィブ・エスニック・民族主義という単語をだしてみる。

 「先生それ百科事典で調べられる?」と言う。「教えて」ではない。自分で調べたいという強い欲求。


7月1日 

   疲れ切って机に突っ伏している生徒に「寝てていいよ」と言うと、 

 「起きます、大丈夫です」と重たそうに顔を上げてペンを握る。授業が終る頃にはすっかり元気になって、話を聞きに寄って来る。  

  昼休みの廊下での質問。

 「パレスチナ問題におけるイギリスの役割」と複雑な問題だった。答えていると、一人、三人と寄って来てずーっと聞いている。・・・

  反対に僕も聞く。

 「授業が始まる前に、茶髪やピアスを注意されたら、授業は半分ぐらいしか入っていかないかい」

  「うぅん、全然、聞かないで寝ちゃう」   

  「・・・化粧がどぎつくなる時の君は、必死で自分の存在を守ろうとしているのかい」と聞くと、長く考えて少し微笑む。友達も聞いている。

 「自分の立っている場所がどんどん無くなって行く、狭くなって行く不安をどうにも出来ないように感じる・・・そう言うことかい」と言ってみた。すると隣の生徒が、

 「そういうことだよ」と呟く。 本人はじーっと考えていた。


  言葉を探り当てようと藻掻く、言葉さえ見つければ・・・と。教室はこれに応える構造を持つ必要がある。どの学校にも、あらゆる階層の多様な若者が集い、自由に社会とつなかる。そんな環境が。生徒たちは世界を見いだし社会を造る主体、与える解釈を受け入れるだけの客体では無い。  

 表現に向かえない不安・不満は、いつか様々な暴力として現れる。必ず。先ず外へ向けて、そして最後は自分自身に向かって。

  諦める選択肢は彼らにない。成長期の肉体は不安定だが、精神は猛烈な勢いで藻掻き回転している。そんな時期に既存の「成果」に依存するのは馬鹿げている。

 少年は困難さがあれば、それに立ち向かう。だが教師は困難からは逃げる。どうせわからないと逃げる。逃げているのは昔少年であった筈の教師、逃げているうちに考えることを忘れてしまう教師。

 少年にとって重要なのは、考える価値があるという事実。それを示す役割が教師にはある。難しく複雑なことを、誰にも分かるように構成し直す。それを繰り返すうちに、少年は難しさ困難さをそのまま引き受ける。それまで僕らは待ち続けねばならない。 

 分かり易く説明する困難を引き受けるうちに、教師も美しく力強い言葉を獲得出来る。体罰や部活の世界の、芸能人溢れるメディアの世界の、言葉が貧弱で攻撃的なのは。美しく力強い自前の言葉を獲得出来ないからだ。 

「逆らいたくなるの、だって筋が通っているんだもん」 ある生徒が、ニャッとしながらそう言う。

 入試とは人類にとって何か。ますます判らない。教師から研究と授業を遠ざけ、少年たちを平等と公正が生む連帯と行動から隔離するだけだ。

   徒歩で小金井公園の桜を見る。疲れた、途中に幾つも学校を見て不機嫌になる。無機質な校舎の佇まいが、瀕死状態の教育を圧縮しているようで息苦しくなる。こんな組織の為に何か役に立ちたいという気持ちを、僕は何故持てたのか。この組織の一隅に有ったことが悔やまれる。授業以外の記憶が曖昧になってゆく。

 桜を見上げなければ、足下に青が鮮やかなオオイヌノフグリ。人は桜や菊に点数や価値を付けたがる、見上げるとはそういうことだ。誰の評価対象でもない=評価からの独立でしか、自律も自立も自由もないのかも知れない。


 都教委が「君が代」を通達、sshや進学指導重点校を導入した頃、21世紀になった。

 廊下で 「先生の授業逆らいたくなるの、だって筋が通っているんだもん」 ある生徒が、ニャッとしながらそう言う。彼女にとって、授業は与えられたことを暗記したり、素直に受け入れたりするものでは無い。先ず、彼女の思考の関門を通過しなければならない。その後に彼女自身の審査を受けねばならない。判るとはそういうこと。教師が試されている。筋が通っていなければ、彼女の関門をくぐる資格は無い。

 その判り方に、驚いた。現象からいきなり本質に跳躍しようとする、賢く鋭いい目つき。ラジカルと言う言葉が相応しい。

 〃いい先生〃に引きずられての〃いい授業〃では、授業は成立していない事を、この生徒の哲学的言葉は言い当てている。

 〃逆らいたくなる〃グッと睨んだ眼差しの奥で、彼女自身の思考と授業の論理は対比検討される。点数や成績とは無縁のこうした思考の延長線上に思想はある。

 一年生の授業は、絶望的に騒がしかった。みんなてんでバラバラの方向を見ていて、何処が教室の正面か分からない。しかし、「起立-礼に始まる正しい姿勢」が、授業を聞く態度をつくるのではない。授業がそれに相応しい姿勢をつくる。むろん寝そべった良い姿勢だってある。考えるのに都合のいい姿勢がいい姿勢。机に脚を乗せたいい姿勢のまま、質問や同意の仕草と声が飛び交う。教室の空気が緊張して50分が瞬く間に過ぎる。休み時間になったのに生徒たちは、「続き」を聞くために教卓の前に群がる。お茶も飲めない。ここ最底辺でこそ100分授業が必要だとつくづく思う。

 「起立-礼」に始まるお仕着せの50分は少年の知的成長を妨げ、〃いい先生〃に引きずられての〃いい授業〃は、迎合を誘発する。

 〃逆らいたくなる〃ほど自我を立ち上げ、自身の思考と授業の論理を対比検討する。〃逆らいたくなる〃とは彼らの日常的なレベルに於て思考が行われていることを示している。それが〃いい先生〃には「荒れ」に見える。

 「やっぱりここの生徒は顔つきが違う」と教師は言う。「偏差値の低さ」に見合って、〃やっぱり〃というわけだ。

 だが思考の過程は表情として即座に表れてくる。自由に思考している時の顔付きは、どんな学校でも同じであると僕は知った。

 習慣化した表情は、顔の構造として定着するだろう。

  〃逆らいたくなる〃と言った生徒は、始めのうち机の上に化粧道具が並び素顔が見えなかった。次第に座る位置が教室の前に移り、授業中に発問し始め、いつの間にか化粧は消えた。      


 「やっぱりここの教員は顔つきが違う」と言おう。上から目線の教化意識も偏差値も教師の思考を停止させる。

   生徒達は自分自身を世界・社会に向かって解放しようとしている。それを思考停止した教委や管理と偏差値に縋り付く教師たちは「荒れ」と見做し続ける。高校生から見れば、世界は硬く凍結している。 

 問題は、何故・誰が少年たちの意識を「凍結させたのか」にある。   

ある年の 6月10日 // Freedom could cure a problem child.

 選択政経の生徒のうち二人はガングロ。化粧は濃いがリボンもチョッキもシャツも汚れきっている。表現の欠落を厚化粧で糊塗して、表現すべき自己そのものを行方不明にする。これは生活指導の必要性を現しているのか、それとも生活指導の結果だろうか。

 外見に対する「指導」は、貧困の中で必ずこうした経過をたどると思う。なぜなら、彼ら自身が表現すべき自己を発見すれば済むのだから。それを可能にするのは自身による「気づき」であって、教師による「指導」や強制では無い。自身による「気づき」は、精神の自由が不可欠なのだ。貧困とは日々の生活のそれであり、同時に指導の哲学の貧困。

  I thought I was curing them by analysis but those who refused to come for analysis were also cured, so I concluded that lt was not psychology that cured them,

 It was freedom to be themselves. If humans were born with an instinct for criminality, there would be as many crminals from fine mlddle-class homes as from slum homes. But well-to-do people have more opportunities for expression of the ego. The pleasures money buys, the refined surroundings, culture, and pride of birth all minister to the ego .Among the poor, the ego is starved. A boy is born in a mean street .His home has no culture, no books, no serious conversation. His parents are ignorant and slap him and yell at him, he attends a school where strict discipline and dull subjects cramp his style. His playground is the street corner. His ideas about sex are pornographic and dirty. On television he sees people with money and cars and all sorts of luxuries .At adolescence he gets into a gang whose aim is to get rich quick at all costs. How can we cure a boy with that background?

 Homer Lane showed for all time that freedom could cure a problem child, but there are few Homer Lanes around .Lane died over forty years ago yet I know of no officlal body dealing with delinquents which has benefited from his experience. The demand is still curing by authorlty and too often fear. One terrible result is that Juvenile crime increases every year.                  A.S.Neill

 プロ野球球団の優勝セールやワールドカップ開催による経済効果について説明するオタク経済学者に対して、大竹まことが「要するに無駄遣いしろと言うことだろう」「それを無駄遣いというの」と反論する。ワールドカップグッズが値下がりした瞬間に大量に買い入れて値上がりを待とうというオタク的経済学者に対して「持っているだけで値段が50倍にもなることにあなたは疑問を持たないのか」と。大竹まことが正しい。ここで「だよね、だよね」と言ったのは、税制改革の議論で小泉首相の「努力したものが報われる・・・・」の発言を聞いた途端、「年収1800万円の人は既に報われているのではないか」と批評した生徒。

  「どうやれば貧しい者から更に税金を取れるのか」と叫ぶ者あり。

 WTOやGATSの果たす役割についてもふれる。

 「何故今、非核三原則見直しを言うのか」の質問も飛び出す。面白くなってきた、ブッシュの対テロ先制攻撃と彼のアフガンに於ける利権、国防長官の軍需産業との関係にも触れる。

  この光景がいわゆる、「最底辺校」の日常だと気付くだろうか。(底辺校の対極にある学校には、sshとか指導指導重点校だのいろいろな名前で美化される。しかし底辺校は魅力的な呼び名はあり得ない、すべての特権の廃止・完全な平等以外に「最底辺校」解消の手立てはあり得ない)教委や文科省はこうした現場を見て回る職務がありはしないか。そして自ら教壇に立て。少なくとも教科書の無意味と指導要領の犯罪性に顔を赤らめる。そんな筈は無いか。

 経済効果という怪しげな専門用語は、対象に対する分析を省略し思考停止にはしる。教員社会も仲間内用語によって、思考過程をとばして集団的思考停止に陥る。経済効果は所詮金のある者が「お守り」として使う言葉。金が無ければ思考停止しない。

  ホーマー・レイン(1875年 – 1925年) は、英国の教育者。非行少年たち自身が生活をコントロールする術を身につけることで、その人間性を改善することができると寄宿舎教育を実践した。彼の一貫した信念は  Freedom could cure a problem child.

 

「象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に 浮べれば」・・・


 詩人西條八十は、詩に専念したいと願いながら 生活苦のために株取引に明け暮れていた。
 貧乏は人をその人の望む仕事から遠ざける。芸能人は演劇などの芸に専念出来ないため、生活のためCMで笑顔を振りまかざるを得ない。まるで商品の奴隷だ。

 日本の医師は、病院経営と外来患者数の多さに追われて医療に専念出来ない(人口1,000人あたりの医師数:日本2.0、独仏3.4、米2.3 //・医師一人当たりの外来患者数:日本8421、米2222、OECD平均2400)
  日本の教師は労働時間は世界的に見てダントツに長いが、授業に専念する時間は短い。雑務や部活に追われるからだ。
 日本の親は仕事と通勤に時間をとられ、子どもの世話や社会活動と睡眠時間を削り誇りを持てない。
 
 みんな「唄」を、誇りを忘れている。忘れさせられている。睡眠時間を削られた者は、考えられなくなる。だから短く他人を他人を揶揄するメッセージが飛び交う。
 
唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は/ 後の山に 棄てましょか / いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は / 背戸の小薮に 埋けましょか / いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は / 柳の鞭で ぶちましょか / いえ いえ それはかわいそう

唄を忘れた 金糸雀は / 象牙の船に 銀の櫂 / 月夜の海に 浮べれば / 忘れた唄を おもいだす

 『かなりあ』は1918年(大正7年)の『赤い鳥』に掲載された。

唄を忘れた 金糸雀は
象牙の船に 銀の櫂
月夜の海に 浮べれば
忘れた唄を おもいだす

 唄を忘れた者のために必要なことが、金糸雀に託して描かれている。誰もが好きで得意なことに専念出来れば、子どもも少年も、忘れた唄=学びを思い出す。医師が治療に、教師が授業に、働く親が子育てに専念する制度を作るのが行政である。国公立大学・研究機関や病院の「法人化」はこれに逆行している。行政の役割まで営利企業に丸投げする有様だ。

 高校生の「荒れ」を「異議申し立て」として受け入れるとは、「象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に 浮べれば」とは最高の教育を最善の環境で保証することだ。

 遅刻三回で自主退学させ(後の山に棄て)たり、茶髪の生徒を追い返し(小薮に埋け)たり、些細なことで体罰を受け(鞭でぶっ)たりを、人間の学校は何十年やり続けてきたのか、いつまで続けるのだろうか。少年法体系は厳罰化が止まらないし、投資教育で資本の餌食にされるのを自己責任や契約と呼ぶ始末だ。諦めを弱者の新しい道徳と言うつもりか。強い者への規制は取り払われる。

 泥の船に 氷の櫂 吹雪の闇夜に 働く者を流しているのが日本。象牙の船に 銀の櫂で 月夜の海に宴をはるのは
嘘で政権を握るものたちだ。
  最高の教育を最善の環境で、唄を忘れた子どもに保証するにとは、すべての特権を公教育から排除しなければならない。これが民主主義の前提の筈。


   1918年(大正7年)は祖父母たちが、父や母を産み育てた頃だ。母や叔母の小学校時代の写真は「赤い鳥」の表紙そっくり。色褪せた児童雑誌「赤い鳥」もSP判レコード「かなりや」が戦後も残っていた。
  学校が少年たちに、現人神のため命を捨てることを「名誉」と考えさせるようになるのに僅か20年。
 今日本は原爆を落とした国の言わば「奴隷」、自立した国家としての誇りを捨てている。

怒りを忘れた日本の青少年は正体不明の恐怖に立ち竦んでいる。

  気になる。21世紀になったばかりの頃の日記に授業の記録。

 誰もが、ハンバーガーやフリースは幾らでも安いほうが良いと言う。だが幾ら金が要っても、娘やお爺さんを捨てようとはしない、何故か。(先生、姥捨て山はと声が飛ぶ、いいね、ヤジが飛ぶ)

 お金は使うのに料理が不味いお母さんを捨てたりクビにしたりはしない。安いのが良ければ捨てた方が良い筈なのに。ああ母さん疲れているなと思いやる。何故僕たちはそう考えるのか。

 現代を『「もの」と「人間」の関係が切断された』状態と捉えることが出来る。僕たちは買い物をする時、それをどんな人が作り彼がどんな生活をしているか知らない。ものとそれを作った人の関係が見えない。経済圏が村の中に殆ど限定できた時代は、誰が何をどんな状態で作ったかみんなが知っていた。(共同体と板書)

 もっと具体的に『「もの」と「人間」の関係が切断される』状態を考えてみよう。「もの」がお母さんのまずいご飯、「人間」がお母さんだとしょう。この場合君たちには、「もの」と「人間」の関係が細かい事情や心まで見える。

 まずいご飯だけど、君達のためなら命を捨てかねないお母さんが作ったという関係が見えるから、君達はそれを受け入れる。しかし 「もの」がマクドのハンバーガーで、「人間」がそれを作っている労働者だとしょう。 

 先ず君達は誰がそれを作ったか知らない。 『「もの」と「人間」の関係が切断され』ている。安いハンバーガーのために時給を下げられた店員が、娘を退学させる羽目になっても、君達はそれを知る事はない。遠い世界の事だからだ。

 だからもっと安くなれなどと平気で言える。ユニクロのおかげで首を吊った繊維工場の経営者を知らないから、どんなに安くなっても平気。

 だがここで 「もの」に労働者の労働力、「人間」に経営者を入れてみよう。君が経営者で労働者が幼馴染みや兄弟だとしたら、儲けのためにクビに出来るだろうか。会社が潰れるまで一緒にやるだろう。

 日産のゴーンはそうした柵がないから平気でクビを切れる。

 今度は労働者に君達を入れてみよう。中国人やインド人の方が学歴も実力もはるかに高いのに給料はやたらに安い。経営者は君達を交換可能なただの労働者としか考えないから、どんどん安く働く彼らに置き換える。だんだん仕事がきつくなって給料も減らされそうな時、「もっと安くして」という客に、「俺の生活も判ってくれ」と言いたくなる。

 君達がユニクロで自殺した人を知ろうとしなかったように、誰も君の苦しさに関心を持たない。

 もし安いから当たり前じゃんと言うのなら、君達は君達をクビにして安く働く人を雇う経営者を非難できない。論理的一貫性とはそういうことだ。

 この会社のものを買う人も ユニクロや マクドのハンバーガーを買う時の君達と同じように、安けりゃ・・・で思考を止めている。人と人の関係が切断されているからだ。これを「疎外」という。(疎外と板書する)

  でも給料が安くて生活が苦しいから、どうしても安いものしか買えない。給料の文句を言えばクビになるかも知れない。ではどうすればいいんだ。


 日本だけが、未だにこの問いから抜け出せないでいる。「クールジャパン」騒ぎも止まない。アジア近隣諸国を蔑視する言説に引き寄せられる。どうして日本の青少年は事態を正視して怒らないのだ。

 怒れないのか、考えることすら怖いのか。正体不明の恐怖に立ち竦んでいる。怒る方法、「異議申し立て」の思想から教室が隔離されたままだ。

「異議申し立て」の方法や思想を新たに

  アガサ・クリスティの作品や「シャーロック・ホームズ」を読めば、作品中に貧しい労働者が主人公として描かれることはない。貴族や名士と植民地での怪しげな略奪で財をなした者たちの相続を巡る殺人事件が描かれる。

 物語の遺産の殆どすべては、帝国植民地からの暴力的略奪による。貴族や名士たちの身分は、その略奪の巧みさによっている。「略奪」された植民地側の抗議=異議申し立てには、ポアロの灰色の脳細胞やワトソンのpenも弱々しくほぼ無関心。


    事件解明の主題は「植民地での帝国の怪しげで暴力的略奪」ではない。略奪され側の怒りや涙も描かれない、英国市民の誰がもっともらしい相続人なのかだけが問われる。豪華な列車や客船もホテルも登場人物の華麗な生活を飾る舞台装置でしかない。それらの費用の源泉や労働の担い手が考察されはしない。古代遺跡発掘を巡る利権争い殺人でも、埋蔵文化財の所有権関心が向くことはない。正当な所有権を持つ植民地政府は宗主国家の傀儡でしかなく、所有者たる民衆は怪しい言葉の発掘労働者や偽物を略奪国家英国人に売りつける無頼な輩としてしか設定されない。

 アガサ・クリスティの作品や「シャーロック・ホームズ」が絶大な人気を保ち続けるのは、大英帝国への「異議申し立て」そのものが存在しないかのような世界観で成り立っているからだ。

 我々が日本や米英のマスコミ報道を手放しで肯定するのは、我々の世界観が歪んでいるからでは無いか。異議申し立て不要の同調圧力に屈しているからではないか。人も組織も己のやましさを隠そうと正義面して、殊更他者の悪をあげつらう傾向がある。


 第三世界の地下資源は誰のものか、水は誰のものか、森林は誰のもの現地現地国民共有であり不可侵ではないのか。ところが国有化を宣言した国は悉く米や英や仏に国家転覆の攻撃をかけられている。キューバ・ベネズエラ・チリ・シリア・イラン・パナマ・ベトナム・・・枚挙に暇がない。対してこれらを専有する「法人」の所有権は、その株主の特権とともに幾重にも守られているのだ。


 ウクライナ攻撃のロシアに対する経済制裁を正式に「拒否」した国は・インド ・中国 ・メキシコ ・サウジアラビア・アラブ首長国連邦 ・ベネズエラ ・トルコ・エジプト・イラン・ドイツ・ハンガリー・セルビア・アルゼンチン・ボリビア・エルサルバドル・ウルグアイ・・・

 ウォールストリート・ジャーナルによれば、サウジアラビアは、「アメリカ大統領からの電話を受けるのさえ拒否した」と伝えている。

 アラビア半島の国々は、パレスチナに限らず英国の「三枚舌外交」で煮え湯を飲まされている。対ロシア経済制裁を懇願する米大統領の電話さえ断った気持ちはよくわかる。

 対して対ロシア制裁に加わっている国は・アメリカ・欧州連合・スイス・イギリス・カナダ・チェコ共和国・オーストラリア・ニュージーランド・日本・韓国・台湾

  米英仏+NATOとウクライナが孤立しているのだ。

 ベトナムが北爆と枯れ葉剤で攻撃されているとき、チリのアジェンデ政権がciaとピノチェト将軍の大量虐殺と専制支配に泣いている時、パナマ運河の国有化を阻止するために米軍がこの小さな国を爆撃した時、辺野古の埋め立て地に新たな基地建設が詐欺的手法でされている強行されている今、一体どの国のTVや新聞が連日数時間おきに報道したか、しているか。

 かつて米国支配下の米州機構で、キューバは徹底的に孤立していた。しかし今、米州機構内では米国が完全に孤立している。


   ロシアに対する「異議申し立て」には、莫大な資金と国家・国際機関が動員される。ベトナムやチリなどが米国の攻撃を受けているとき、国際機関は機能しなかった。抗議は弾圧下の絶望的環境の中で行わざるを得なかった。我々が知るべきは、報道から隠された部分である。よってたかって繰り返しTVに登場する事柄こそ疑わねばならぬ。

  「異議申し立て」を禁じられた部分の再現こそ、世界の総体的理解に欠かせない。

 イラク・マアルーマ通信は「アサイブ・アフロルハック(正義の連合)」の政治局員Saad Al-Saadi氏が、演説の中でウクライナ戦争をめぐる国際社会、中でも国連や安保理の態度について言及し、「ウクライナに対する国際社会の態度は、イラクが米国により占領されてインフラや安全保障システム、あらゆる経済活動を崩壊させられた時にとられた態度とは、完全に異なっている」・・・「この態度の違いは、国連や安保理が国際社会の一員たる諸国に対し、同一の基準で対応していないことを証明するものである」・・・「安保理は、イラクの旧バアス党政権が1991年にクウェートに侵攻した後、イラクに対して、520億ドル以上の賠償金を国民の糧食となるべき国の資産から支払うことを強いた。国際社会はこのことから、イラクのインフラを荒廃・崩壊させた理由で米国に制裁を課し、全ての者に同一の基準で対応を取るべきである」と述べたと伝えている。

  イラクにはいかなる大量破壊兵器もなかった。従って米英のイラク侵攻は恐る大量大量殺人・国土破壊・文明破壊であり、殺人罪と賠償と経済制裁の対象である。彼らは自らの犯罪を、まず総括しなければならない。そんな国に他国を非難し、異議申し立てする資格は無い。


  さてここからが本題。少し前僕は荒れる高校生を擁護して、「荒れ」は授業を忘れた学校管理体制への「異議申し立て」であると書いた。誇り高い高校生たちは、ガミガミ叱られるだけの些末な取り締まりに反発する。負けたくないからツッパル。高校生が突っぱれば突っほど、教師の取り締まりはエスカレートして、授業は忘れられた。

 今ツッパル高校生は殆ど姿を消した。しかし学校は授業に回帰しない。新たな取り締まりを頭髪や下着の色に見いだしたからだ。それも無くなれば授業に専心するだろうか。ことをことを許すような管理体制では無い。学校の偏差値を上げる企てを管理職や教委に上申するのに鎬を削らされる。部活と受験対策と行事に忙殺されて過労死に向かっている、相も変わらず学校は授業に回帰しない。「異議申し立て」はかくも無力なのか。秩序への従順さを受け入れさせる管理技術だけが高度化し続ける。

  「異議申し立て」の方法や思想を新たにしなければならない。いつまでも学校は授業に回帰しない。教師は忙殺され続けるのだ。

 教師自身が、授業を求めて「異議申し立て」に向けて自己組織しなければ教育が死ぬ。学校は既に死んでいる。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...