怒りを込めて振り返れ  絶滅隔離

   「一般に夫婦は似た顔の人が多い」との分析報告がある。ひとは顔が似ていると親密になりやすく、趣味や考え方が似ていると一緒に生活しやすいのか。

 転校して親しくなると同じ家紋の家だったことを後日知り妙な気がしたものだ。

   僕は生まれ故郷から夜行列車で丸一日の熊本で小学校に入った。不思議な新設校で、一年生ばかりが200人余りの4クラス、だが教室は全学年分完成していたその中の一人がなぜか気になり、休み時間毎に「遊ぼう」と誘わずにおれなかった。彼はいつも寂しげで温和かった。中庭で五寸釘や独楽を使って遊んだがたった10分でお終い。だから放課後はいつまでも遊べると考えていたのだ


が、時鐘
と同時に布製のランドセルを背負い「園のおばさんが、学校の子と遊んじゃいかんって・・・」と呟きながら、数人の仲間と裏門を抜けて帰るのだった。 僕は校門脇の土手に登って、熊本市の真ん中を横切る白川の向こう側の丘の麓に消える彼らを眺めていた。

 彼らは児童養護施設から通っていたのだ。5月連休明けに白川向こうの丘への遠足があり、「遠足は一日中遊べるね」と僕はご機嫌だったが遠足当日は雨。彼らは一人も登校しなかった。先生たちは体育館に僕らを集めてお菓子を配った。親が金を出し合っておやつのために共同購入した品物だった。お菓子と弁当ですっかり元気になったうえ、勉強もなしになった。


 後日、この養護施設が熊本の教育を混乱の激流に巻き込んだ『黒髪小事件』と深い関わりを持っていたことを僕は知った。黒髪小事件は  龍田寮事件とも竜田寮児童通学拒否事件とも呼ばれる。

 癩療養所に絶滅隔離された患者は、感染していない子の処遇に泣いた。療養所には患者でないから入れず、親戚縁者は患者の子どもだからと引き取らない。当時患者の子どもを「未感染児」と呼び患者の家族はいつかは発病するという無知偏見を植え付け、また子どもを荷物扱いし「携帯児」とも呼んだ。様々な経緯から菊池恵楓園では「未感染児」は、癩予防協会付属養護施設の保育所「龍田寮」で扱われることになり、寮は恵楓園から離れた熊本市内の黒髪町に設置された。

 blog「戸籍から消えた祖母がくれた学童帽」  クリック              

   blog「ものを・・・正当にこわがることはなかなかむつかしい」  クリック  

   少し長いが拙著から引用する。 

 1954年の春、時代の歯車が逆転したかと思わせる事件が熊本で起きた。竜田寮児童通学拒否事件である。ハンセン病療養所にはハンセン病患者である子ども、親が患者だが本人はハンセン病ではない子ども、療養所職員の子どもがいて、それぞれ困難を抱えていた。熊本市内の竜田寮では、菊池恵楓園入所者の子どもたちが生活。他の療養所では入所者の子どもの地元小中学校通学がすでに実現、しかも竜田寮の中学生と高校生はとうに地元の学校に通っていたのである。意図して煽られた騒動の気配がある。中心人物は保守の県議会議員でもあった。

 菊池恵楓園に再収容されることになった父親が、子どもを預けるために竜田寮を訪ねたことを書いている。黒髪小事件の3年前のことである。

 「私は意外なことを耳にした。(竜田寮には)小学児童が15名ほどいるが、市内の小学校に通われず、分教場で教わっているということだった。

 「小学校がすぐそこにあるのになぜ通学されないのですか?」

 「それがですね、病人の子だからという理由でPTAが 反対するらしいんです。これまで何回となく市や学校と交渉しましたが、父兄側の鼻いきが荒いのでね」

 親を病人に持つがゆえに、その子は正規の教育を受けることを拒まれ、やむなく分教場で一人の教師が一年から六年までを担当しているというのである。ほんの目と鼻の先で片方は堂々たる鉄筋建の校舎で、正常の教育を授けられているのに、一方では粗末な分校で寺子屋式の貧弱な教えを受けている。私の脳裡を対照的な二つの授業風景がかすめた。教育都市をもって名を知られる熊本市が、これは一体どうしたことだろう。」   下河辺諌「別れ道」『ハンセン病文学全集第四巻 記録・随筆』346ページ

        

 竜田寮の子どもたちを排除しようとする通学反対派は、140日にわたって子どもたち(1600余)を休校させ、お寺や銭湯などで自習させた。この事件に衝撃を受けた佐賀の患者家族が自殺するという悲劇も起きている。

 しかし少数派の通学賛成者は、石を投げられ、脅迫状を送られ、殴り込まれ負傷者まで出しながらも、その275名の子どもたちが竜田寮の4人と通学を続けた。新しい希望であった。反対派指導者の孫が「竜田寮の児童が入った新一年生の学級に掃除に行かせて欲しいと申し出てきたのが嬉しかった」と、『熊本市戦後教育史』は書き残している。            『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊


   竜田寮の中学生たちが通った市立桜山中は、黒髪小学校より竜田寮に近いが、通学拒否はおきていない。それ故事件のの解決に熊本市は悩み、市内の学者たちに知恵を借りた。その結果、何カ所かに分散設置された施設の一つが「気になる温和しい子」がいた園かも知れない。僕の入学した小学校は彼らの受け入れ学校として急遽指定された可能性がある。子どもたちの個人情報は勿論園職員の情報まで悉く秘密にされ、後に破棄されたと聞く。


 この事件の根本は、絶対隔離の必要の無い癩病=ハンセン病を「ペスト並みの恐ろしい病気」と根拠のない偏見を煽りながら全国を遊説した光田健輔と渋沢栄一に帰すべきことを、僕は何度でも書く。

                                                           

 父の母が戸籍から消え癩療養所に生きていた可能性については既に書いたが、このトメ婆さんとほぼ同時に戸籍から消えた父の妹も同じ療養所にいた可能性を否定できない。彼女は僕の叔母にあたるが、彼女に「携帯児」はない。しかし当時の恵楓園では療養所内で患者が堕胎を免れ出産した例がある。

 彼が僕の叔母の子、つまり僕の従兄弟であった可能性も否定出来ない。入学式後の集合写真を見ると、疲れ切った表情の僕の前列にそれと思しき詰め襟姿の少年が写っている。

 僕は墓という風習に何の感慨も持たない。だが菊池恵楓園の納骨堂には頭を垂れるつもりだ。 なぜなら、この黒髪小事件に関する教組や労組の積極的取り組みの形跡がないからだ。癩病の絶滅隔離そのものへの怒りを込めた行動や声明すら発見できない。戦後民主主義とは何であったのか、どこを向いていたのか問わずにおれない。矛盾の結節点への洞察が欠けている。

 

わが国では、学校は植民地同然なのか 牢獄か

  

「植民地の民衆とは、その進化が停止し、理性を受け入れず、白身の事柄を処理できず、指導者の永遠的存在を求めている民衆である」                              フランツ・ファノン『なぜ我々は暴力を行使するのか』みすず書房1960年

 

 これはフランスの高校生のデモ     今月7日、マクロン政権への国民的な怒りは、約350万人(CGT調べ)の街頭抗議デモー鉄道、地下鉄、バスなどの交通機関、道路、輸送、医療、消防、港湾、燃料、電気・ガス、清掃、公務員、学校、商業、サービス業ーあらゆる産業分野の労働者、老若男女が街頭に結集、政府の年金改革に異議を突きつけた。 抗議デモは国内300の地域に広がり、「生存権を守れ」「われわれは労働の囚人ではない」「ウクライナではなく国民を支援しろ」と声を上げた。ストを呼びかけた労組や組織は「年金改革法案の撤回」まで無期限ストを宣言している。

フランスの人口は日本の半数弱。
 ここ仏で高校生は教師とともにともに闘う仲間として街頭に出ている。日本の高校生は政権に指示された模擬投票ごっこの幼児以下か、なす術なく狼狽える。教師と高校生は、長い時間を共通の目的=学問をともにしながら、共感しあうことが出来ない。ここは牢獄か。何故連帯から逃避し傷つけ合うのか。

 高校生は既に政治的主張と行動の主体。教室の壁に閉じ込められた囚人や主権を奪われた植民地民衆では無い。進化をとどめるな、理性を研ぎ澄ませろ、怒りをもて白身の課題に立ち向かえ。高校生・若者、君たちは主権者なのだ。先ず要求を掲げて、当局に政府に突きつけねばならない。君たちが侍japanに興奮している間に政権は戦争にまっしぐら。

記 異議申し立てする主権者たちに、フランス警察は警棒はもとより、催涙ガス、高圧放水銃、閃光弾、までも使っている。重装備の警官が非武装のデモ参加者に襲いかかる様子はSNSに溢れている。消防士の一部隊は寝返り、デモ隊に合流した。あるmediaは「パリは戦争状態だ」と報じている。

 イタリアの異議申し立てデモでは、軍人が市民=主権者側に寝返っている。

 

  

「普通」の人間としての矜恃は我々に貧しさを強いる

  チャーチルは初めて乗った地下鉄で市民に囲まれ、意見を聞いたことがある。この対話で彼はナチ

ガンジーの矜恃は彼に牢獄を強いたが故に適切な判断をもたらした。

スと徹底抗戦する決意を固める。チャーチルが対ナチス戦に関するまともな判断で英国を導いたのは、戦争の素人=市民としての感覚を持っていたからだと思われる。(ただ、地下鉄での逸話は、映画用のfiction )

 Oさんが石神井高校長に生徒との対話を迫り、校長室の開放を要求した事とどこか似ている。この時君は石神井校長の校長という身分と校長室の隔離性が、彼の認識・判断を妨げていることに気付いていたのか。

 チャーチルは貴族生まれであったが、死ぬまで爵位を断り通し、「普通」の大英帝国市民としての誇りを保った。しかし印度やアフリカの植民地に対しては大英帝国の絶対優位を疑わなかった。ユダヤ人や社会主義者に対しても。

 それ故彼の世界観はヒトラー並みの偏見に塗れていた。

 「普通」の人間としての矜恃は我々に貧しさを強いるが、そこから生まれる他者や弱者への共感が適切な判断を導く。

チャーチルの「Operation Unthinkable」

 ニューディール政策の旗手にして反ファシストのF・ルーズベルト米大統領が急死したのは1945年4月。その翌月ナチスドイツは降伏する。個人的に共産主義を非文明と敵視していた英首相チャーチルは、独ソ戦でソ連が勝利する展開を信じられず放置できない。あろう事かソビエトに対する奇襲攻撃を目論み、5月22日にJPS(合同作戦本部)に作戦立案を命令。

 チャーチルの計画によれば、ソビエトへの攻撃開始は1945年7月1日。米軍64師団、英連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そして独軍10師団の参加で「第3次世界大戦」を始める想定であった。

 作戦報告を読んだ英国陸軍参謀総長は、作戦成功は全く不可能だと判断。5月31日の参謀長会議でも作戦実行は「考えられない (Unthinkable)」と発言。作戦は発動しなかった。

 それでもチャーチルは米軍がヨーロッパから全面的に撤退してフランスやオランダまでソビエト軍が進軍した場合の英本土防衛作戦の立案を6月10日に命じる。統合本部は再び『Operation Unthinkable』という名称で7月11日に報告書を完成させるが、この報告書でもソビエトによって本土の安全が脅かされることはないと結論づけている。


 7月16日には米国が人類初の核実験の成功。7月18日の米大統領トルーマンとの会談で終戦後も連合参謀本部存続に前向きな回答を得て、チャーチルは原爆によるソビエト工業地帯の一掃を含む全面戦争を目論む。同月の総選挙で保守党は惨敗。英国民には戦争の専門家となったチャーチルはもはや必要なかった。戦争で経済的に疲弊していたにも拘わらず、「揺りかごから墓場まで」の福祉国家を掲げた労働党を選んだのである。(「揺りかごから墓場まで」の基になったビバレッジ報告そのものは、チャーチル率いる保守党によるものであった)。為にチャーチルは歴史から不思議な消え方をする。

   米軍、英軍、ポーランド軍、独軍はnatoを構成して、今尚ロシアと対抗。その造られた危機を「第三次大戦」と煽り、武器要求・武器援助の人道支援にのめり込む奇っ怪な動きがある。

 チャーチルの開始した執拗な敵視と攻撃に、スターリンもソビエトもロシアも笑ってはいられない。 

 冷戦時代・・・ソ連は、(例えば)ガスの(輸出)契約は必ず守っていた。・・・。ロシアは・・・遵法精神があり、ルールに縛られる感覚があります。感情を出さないということではなく、ルールが決まればそれに従うということです。冷戦時代、ソ連は貿易と政治を結びつけて考えることはなかった https://www.contrapunto.com.sv/militar-suizo-experto-de-la-onu-analiza-con-bisturi-la-guerra-en-ucrania/ 

  彼等にとって第二次大戦は終わらないまま、第三次大戦に引きずり込まれてしまったのだ。


 同じ事は2発の原爆と水爆を浴びせられ、国連の敵国条項に縛られ日米合同委員会の議事録非公開を甘受するnippon
にこそ言える。独立国家とは到底言えない。サムライ日本、クールjapanと浮かれている場合か。
 ここでも第二次大戦は決着してはいない。戦争が終わる為には、平和と独立が実現しならないならない。

参照 https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/2006/144/2006_144_69/_article/-char/ja/

 

「脳みそが裏返ったみたい」             答案を時間内に仕上げられない 何が問題か Ⅱ     

  問題を解く過程は楽しめても、答案作成には興味が湧かない者がある。四谷二中の親友Z君がそうだった。 朝早く登校して前日の宿題を片付けていると「俺にも教えてくれよ」と寄ってくる。・・・「これでいいのか、わかった」と満面の笑顔。だがテストでは零点。彼は成績にも順位にも関心が無かった。  

   もし選抜がなければ、学校間に格差がなければ。仮にsafty net が政治の最重点課題であれば・・・おそらくかなりの少年少女たちが、Z君のように、分かる楽しみや喜びを満喫し、点数や順位にこだわらないだろう。たとえ点数や順位好きであっても、2科目か3科目にとどめてもいい。あとは多くの仲間と分かちあえば。                                                                           

  一介の教員に出来ることは限られる。 授業を出来るだけ興味深く役立つものにすること、テストの時間制限をなくすことぐらい。

 僕はある時期から必要な生徒に、追加の答案用紙を配るようにした。3枚も4枚も追加する者も現れる。答案の形式が豊富になった、漫画にする者、図にする者、色を加えて抽象画風にする者(彼女は抽象画の解釈や鑑賞を挑んで来た)、・・・。同じ答案、似た答案は無かった。僕は批評と感想を全員に書いた。答案は返却後、回し読みされ「もっと書かせて」と時間延長要求が出る。

  中に答案が捗っていないのに「時間が足りない」と言う者も数人。理解が遅い、構想するのに時間が掛かる、学ぶのがゆっくりしている。これは理解が素早い等と同じ「個性」であり欠点では無い、人権として尊重されねばならない。 

  こうして試験の時間制限は、成績一覧表の締め切りまで伸びた。期末試験では自宅学習期間にもかかわらず、朝から夕方まで書き続ける者が続出した。

 頭に汗びっしょりかいて「脳みそが裏返ったみたい」と言いながら十枚以上に膨らんだ答案を出す生徒には、「作品」を仕上げた満足感が溢れていた。

   この生徒たちが鉛筆を握りしめた切掛を僕は鮮明に覚えている。 

 3年4組   23人のクラス。(おそらく東京で最も不人気な学校の大幅定員割れ学級。英語教育を看板にしたクラスなのに生徒は皆英語が出来ない、何という「選択の自由」そこしか入れない、それを自由と言い募る神経を教育行政が持つ不幸)落書きもなくゴミ一つ落ちていない。上唇にピアスを3つ付けた生徒が一番前に陣取って後ろの生徒と喋っている。デンと飲み物とお菓子をおいて前後ろ横と喋っている。ここは3-4かいと言うが反応がない。やがて間延びした声で「キリーツ」の声が掛かる。なかなか立たない。胡散臭いものを見るような目つきで僕を見ながら、ダラーッと力無く立ち上がり始める。全員が立つまで長い時間が流れたような気がする。

 「立たなくてもよろしい。耳だけをこっちに」

 「君たちを初めて見たのは4日前の始業式だ。なかなかいいセンスだと思いながら見ていた。ナガーイ校長の話、何の話だったっけ?」

  「もう忘れた?・・・・聴いてなかった。ざわざわしてたからね」

 そのあと、ある先生に

 『オメェーラ何度言えばわかんだよ、だからオメーたちには自由がないんだよ、自由・自由がないと言うんだったらやることやってからにしろ』と言われて、シーンとした。ガッカリしたよ。

 いいか、君たちは口汚く怒鳴られて静かにしてしまうことで、教員にあることを学習させているんだ。『こいつらは怒鳴らなきゃ駄目なんだ』と『話の中身じゃない、そもそも聞く態度がなっていないのだ』と。君たちがわざわざ教えているんだ」

 叱られれば中身に関係なく静まうこと。自由と集会の態度をバーターすることのナンセンスとそこに含まれる論理の違法性。怒りが籠もって僕の話は少しも易しくはなかったと思う。

  僕は王子工高での体験を話した。 (王工の生徒たちもうるさかった。スピーカーが役立たないほどやかましかった。怖そうな教師が怒鳴っても静まらない。職員会議で議論した結果、聞きたくなる話をしよう、それもなるべく短くという事になった。その最初の話し手がたまたま交通事故の怪我で包帯と松葉杖姿で登壇したため、静まりかえった)

 そして、憲法99条の2箇所を空欄にして板書した。

 「ここに何という言葉が入るか考えてもらおう。」

 「ハイハイ、国会議員」教員でさえ間違えてしまう問題を、正しく答えて、僕は一瞬驚いた。こうした〃予想外〃はよくある。

 「それでいいかな」と念を押す。

 「えーじゃーナニナニ」と周りに相談し始める。

 「他には・・・&#¢さん」指名して行くと

 「国民?」

 「国民」と次から次に言う。最初の生徒まで

 「私もそれをほんとは言いたかったの」と言う。

 「憲法九九条を教科書の後ろの条文で確かめてみようか」

   「だよね、だよね」国会議員と言った生徒が叫ぶ。あらためて九九条を音読すると

 「セッショウって殺すことだよね」とニッコリする生徒がいて、みんな笑った。その他の公務員には公立学校の教員はもちろん含まれている。

 なぜ国民ととはどこにも、書いてないのかについて講義を始めた。学校でいえば、校則には教師の義務と生徒の権利が書いてあるのが憲法なんだと。例えば教師は良い授業をしなければならない、生徒を侮辱してはならないと。

  終わって教室を出ると「せんせー名前はなんて言うの」と追っかけて来た。


 この高校に転勤が決まって何人かの教師に会ったが、「授業は十分と保ちません」と誰もが念を押す。教室を廊下から覗いて、僕は辛くなった。職員室の風景も気に掛かる。見本の教科書資料集が十数年分、古い使いようのないパソコン・・・。HOW TOもの以外の本が教員の机上に殆ど無い。知的退廃。逃亡。

 授業して生徒から返ってくる反応が少なければ教師はつらい。教室の様子も職員室の雰囲気も、「辛いぞ」と予め釘を刺すようであった。

 教育は本来的に教師の思惑を超えて授業したことが教師本人に返ってくる仕事である。つまり二倍三倍時には十倍にもなって返ってくるのが常態である。 

 もし一割しか返ってこなければ発狂するだろうとは、佐藤学の言である。一割以下で発狂しないためには、様々に現場から逃亡を図らねばならない。その逃亡の姿が、職員室の知的退廃であった。

答案を時間内に仕上げられない 何が問題か Ⅰ

  巧みな指先・卓越した記憶力・賢さ・美しさ・を「個性」と呼び賞賛する。その逆の不器用さ・鈍い記憶力・愚鈍さ・醜さを人は何故「個性」と言えず、恥ずかしがり隠すのか。それは前者は金になる=「儲かる」からだ。それだけを価値とする社会。しかし後者も紛れなく「個性」である。その人・その子らしさを表している。

「たわし」とあだ名されていた頃の四谷二中を思い出す。

Z君が自分の通信簿を広げ

 「たわし、お前の通信簿見せてくれよ」

 「・・・お前の成績と俺の成績は丁度反対だね」明るく言う。洟を垂らしながら。

 「たわしの成績と俺の成績を足して二で割ると真ん中の三になる。・・・なぁ、おれの成績があるからお前の成績があるんだよ。お前がいるから俺がいるんだ。俺がいなければ、たわしお前はないんだ。だから俺たち親友なんだ」と顔を覗き込むようにして言う。周りの連中も爆笑しながらのぞき込んだ。彼とはクラスを挙げての「カンニング」を組織して以来の長い親友だった。 

 A君(彼は高倉健と菅原文太を合わせた顔貌風体で喧嘩も滅法強かった。その彼に「なあたわし、数学って面白いかい、俺にも教えてくれよ」とせがまれ何時の間にか「面白いな、宿題つくってくれよ」と言うようになった。しかし彼も愚連隊の一員としてのケジメはあり、決して教師から教わろうとはしなかった)に数学を教えている時、Z君も寄ってきて「俺にも教えてくれよ」と仲間に加わり、「分かったよ、たわし有難う」と、青洟を垂らし笑うのだった。だがテストになると、零点。僕に向かって零点のついた答案を見せて、ニコニコする。忘れやすい奴だと思っていた。しかし今になって気が付くのたが、彼は点数を取ることに興味がなかったのではないか。分かる過程は楽しむが、点数を競って我を張ること(頑張る)はしない、そういう世界観を持っていたと思う。他人を蹴落とす事に強い嫌悪感を持っていたのではないか。

 卒業間際には、べそをかきそうな顔して

 「俺たちと二中のこと、忘れないでくれよな。・・・でもきっとお前、俺たちのこと忘れるだろうな・・・」と僕の同意を促した。この時彼は、偏差値と相対評価の理不尽を正確に見抜き、それを僕に伝えていたのだと思う。

 「偏差値に囚われるな」と教師は誰も教えなかった。その仕組みを繰りかえし強調しただけだ。

 軒下の高い窓を拭くのも、暖房のコークスを運ぶのも喜んでやった。骨惜しみを知らない根っからの善人だった。忘れがたい思い出の数々に彼がいる。住んでいたのは、新宿天竜寺の裏、旭町の木賃宿。着ている制服も粗末だったが、それらが彼の快活さを妨げることはなかった。そのZ君と「寒山・拾得」や内村鑑三の賞賛した「智き愚人」=ダルガスが重なる。 

 「たわし、俺たちのこと忘れないでくれよなぁ。・・・あぁ・・・お前やっぱり俺たちのこと忘れちゃうだろうな」とべそをかきそうになったのは、効率や偏差値が社会全体を覆い尽す事態に反撃出来ない悔しさであり、親友が偏差値の魔界に引き込まれる事への警告でもあった。

 A君の懸念通り偏差値に溺れたのは、僕だった。僕が四谷二中にいた頃は、偏差値はまだ偽偏差値と言うべき段階でしかなかった。危うい制度が始まろうとする時、鋭い警告を投げかけるのは「優等生」ではない。

 公教育が荒廃の気配に包まれた頃、「(民主的)管理主義」や「毅然たる指導」の言説に惑わされずにすんだのは、彼らの思い出のおかげである。二中を取り巻く歓楽街の荒廃や大学紛争時の青年の閉塞極まる状況に比べれば、バラック作りの荒れた教室も僕には「花園」だ。      

  

  「おれの成績があるからお前の成績があるんだよ。お前がいるから俺がいるんだ。俺がいなければ、たわしお前はないんだ。だから俺たち親友なんだ」 

 

   今日本ではあらゆるmediaが、明けても暮れても勝負事絶賛一色だ。sports・公営ギャンブル・囲碁将棋カードゲーム麻雀・ゴルフ・・・商業化とプロ化が華々しく煽り立てられ、子どもまでが巻き込まれる。だが賞賛されるのは、獲得賞金額・世界大会メダル数(日本の)・・ばかり。fair「play」の楽しさやgentlemanshipの公正さを投げ棄てた独占欲。


 勝ち組の賞金が膨らめば、敗者のsaftynetは消滅する。勝者の賞金は
敗者の賜物なんだ。栄光が輝かしい程、挫折の陰は暗く寒い事を知らねばならない。スーパーサイエンスハイスクール如きを賞賛すれば、その対極に荒れる「底辺校」が必ず出現する。
 これはA君の懸念した「おれの成績があるからお前の成績があるんだよ。お前がいるから俺がいるんだ。俺がいなければ、お前はないんだ。」ではないか、それが半世紀を超えて続いている。負ける者のおかげで勝てる者がある。負け続ける国があるから、常勝の国もある。
 勝ちだけに拘れば、そこには「だから俺たち親友なんだ」が欠ける。


   それ故、「定期試験の答案を時間内に仕上げられない生徒たち」の人権保障は少なくとも社会科を講じる僕の義務だ。どうやったのかは次回に、疲れたから休む。

父の深い闇

 懐かしい、この1年何度同じ趣旨の手紙を書いただろうか。書いては捨て、捨てては書いた。僕にとって故郷は全てが好ましく懐かしい。だが父には全てが疎ましかった。何故か。

 ことの始まりは、ふたつの偶然。一つは鹿児島県作成(1929年)の無癩県運動ガリ版刷り一覧を、全生園図書館で発見したこと。当時の鹿児島県南諸県郡S村大字帖は広いこともあって癩患者と判断された人も少なくなかった。僕の本籍もここにあった。府県は競うように「警察」権力を用い「患者狩り」を強行。癩は治療すべき病気であり、犯罪ではない。

 当時癩病院(療養所)は患者絶滅収容を掲げ、十年で日本全土から「癩」を一掃すると豪語した。絶滅隔離政策立案扇動者(「救癩」の父と呼ばれた光田健輔と渋沢栄一)は、伝染性の極めて弱い癩病をペスト並みの伝染病と偽り国民の恐怖を煽った。癩病そのもので死ぬことは滅多になく、怖いのは警察権力を使った患者取り締まりと絶滅隔離であった。日本政府が新一万円札の肖像に使おうと画策しているのがこの渋沢であり、相棒の光田には文化勲章が授与された。

 もう一つは熊本菊池恵楓園(ハンセン病療養所)患者自治会機関誌「菊池野」に「松原トメ」という筆名を発見した事だ。癩患者は収容時に戸籍や名前を捨てる事が多かった。世間の身内との縁を断ち切る為だ。恵楓園には患者による和歌のサークルがありアララギ派の土屋文明が、遠方より自費で指導に駆けつけ患者歌人を大いに励ましていたと言う。 松原はトメ婆さんが住んでいた集落の俗称。


 祖母は癩者狩りの犠牲者だったかも知れない。そう仮定することで漸く解ける謎が、父・直の周囲に幾つもある。

 「謎」=微かな疑惑は母の遺品整理で確信へ近づく。『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)はその解明の途上で生まれた研究。人はこの本を、「ハンセン病」の授業の実践記録考えるが、授業実践記録の類いは書いてない。書いたのは、日本の最も暗い闇と野間宏が言ったハンセン病療養所に収容された人々の生き様、抵抗、思想、歴史である。 

 母の書棚の奥は手紙や日記の束で埋まり、板や畳とともに虫に喰われていた。女子師範生徒の母と高等工業学生の父が交わした恋文も。


 この謎には苦難の色が付きまとう。それはドストエフスキー作品に劣らない。ドストエフスキー自身は、銃殺刑寸前で恩赦、シベリア流刑に苦しむ。だが作品群には宗教的愛が拡がり世界中が共感し涙する。父には共感・同情する世界が無い。残忍な視線と底知れぬ暗い闇だけがある。

 トメ婆さんは、絶滅隔離政策立案者=光田健輔の思惑の「十年」を超えて生きた。僕も父に連れられて何度か逢っている。その度父は、睡眠剤を飲ませ。僕は翌朝まで目が覚めなかった。

 「癩」の顔貌を孫に見せたくないトメ婆さんの願いは「せめて孫を見せて」だった。しかし5才の妹は一度も同行しなかった。妙な写真がある。表紙付きの立派な台紙に張られた入学記念写真。それに五才の妹も着飾って写っている。失業続きで貧乏のどん底にあった父がそんな費用を捻出する余裕はない。ともあれ婆さんは写真でしか妹を見ていない。癩=ハンセン病は学齢前までは感染確率が高いと信じられていた。

 ランドセル・学帽・学童服姿で恵楓園付近に遊んだ日の朝、父は妙なことを言った。「今日は小学校入学の練習だ、同じ格好で行くぞ」


 貧乏士族父方祖父の家計も逼迫していた。子沢山の祖父には旧制中学と女学校の学費負担はとてつもなく大きかった。父には学費の要らない高等師範を経て文理大学に進むしかない。学費の嵩む旧制高等工業に進学したのは、「癩病院」入りを頑強に拒む婆さんのためであったとしか考えられない。婆さんが父の同行を言い張って泣いたのかも知れない。トメ婆さんは大層な別嬪だったらしく、二人の娘も美しかった。父も美しい母が自慢で、祖母に課せられた力仕事は悉く父が引き受けた。

 h叔母も事情を承知の上で、高女卒後の銀行勤めの給金全額を父に送金している。

 高等工業学校卒は、当時勃興しつつあった中産階級としての技師を約束していた。父は、朝鮮総督府鉄道局勤めの軍属となる。留守中の見舞いは、母と大叔母に託された。都城から熊本までは肥薩線経由の夜行列車があった。

 トメ婆さんは戦争も生き永らえた。父は朝鮮からの引き上げ後も婆さんの見舞いは約束だ、鉄研や自治体課長職の誘いも断り、貧乏暮らしが続く。

 やがて婆さんの死期が近づくと熊本に移るが、赤貧洗うが如しの生活。おかげで母は師範学校在校時以来の結核を再発、吐血を繰り返す。当時も結核は、癩より遙かに伝染性の強い「不治の病」であったが入院も出来ない。結核病床はどこも満杯。 

 窮乏は限界を超え、差し押さえのたびに母は泣いた。父はやむを得ず、北九州若松の洞海湾を跨ぐ「東洋一」の若戸大橋プロジェクトに出稼ぎ。父はトラス構造の応力計算の近似式特許を持っていた。それで出稼ぎに誘われている。


 トメ婆さんの遺骨は僕が胸に抱え膝にのせて夜行列車で故郷に運んだ。「大事な人の骨」と父に言われたことを覚えている。この時の父は肥薩線矢岳越えの直線区間で、列車の最後部に佇み、遠ざかる線路に今にも飛び込みそうだった。僕は父の手を必死に引っ張った。

 その後の父は、友人と設計事務所を東京・四谷に開く。土木学会理事として、東洋一、日本一の土木事業に文字通り狂ったようにのめり込む。狂えば唯我独尊、周りが歪む。

 熊本から一時帰郷する寸前、『七分の四』という不思議なタイトルの映画を見た。父は頻りにタイトルの含意を僕に問うた。しばらく考えて「半分より少しいい」と言うと「そうか、判るか」と何度も何度も頷いた。

 父は「恵楓園」に通った若き日々を、人生の「七分の三」として闇に封じ込める決意を固めたのだと思う。何度も僕の頭を撫でた。小学三年になる寸前だった。父の人生は暗い闇の「七分の三」と死に物狂いの「七分の四」に歪んで裂けた。

 長い話だ。父とトメ婆さんは、爺さんにも故郷にも見捨てられる。長男であるにも関わらず父は家督相続から外され、トメ婆さんの後妻の長男の叔父に付け替えられていた歳は一回りも離れている、届け出を忘れたとは言い難い。祖父も自死を考える程苦悩したはずだ。しかし残される子どもの行く末を考えると、ほかの選択肢はない。

 絶滅隔離は残虐。光田健輔と渋沢栄一の極悪非道は、いくら非難してもし切れない。誰も罰を受けていない。 

 数学者でもあった父が、技術士・土木学会理事として成功後も決して故郷に帰ることはなかったのはそのためであった。数々の栄誉や地位と高収入転職の類いも全て断り続けた。 

 父は苦悩を誰にも語れない、悪酔いするほど呑んで周囲に迷惑を顧みない。毎晩泥酔。しかし叔父たちが東京に来たときには一滴も呑まなかった、酔えば苦難を語るおそれは自覚していた。

 たくさんの逸話を省いたが、もう一つ。熊本の夏は耐えがたく蒸し暑い。父はどんなに暑くとも、ステテコの上下を脱がなかった、たとえ胸を開けても背中は決して見せなかった。父の背中には癩の斑紋があったのかも知れない。患者狩り以来、偽り続けていたのか。父には頭痛や歯痛もなかった、だから殴られても殴っても「痛み」を理解せず、酔うと無闇に人を叩く癖があった。

 僕の膝には70年を経てなおくっきり残る傷跡がある。御代志停車場(菊池恵楓園正面の熊本電気鉄道駅)の資材置き場で遊んでいるうちに転倒、工事用の有刺鉄線で大怪我、気絶した。気付いたのは帰宅後の翌朝・・・。


  どうだ、もうこれ以上知りたくはないだろう。爺さんの立場からも苦難に満ちている筈だ。

 語れば300頁以上の本・前述の『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)を超えて一月以上を要する。  妻は興味深いと夜も読み耽り、ながく沈黙した。多分@ちゃんの住む地域の図書館にもこの本はある。

   ここでは「ハンセン病」と言わず「癩」を使った。歴史的差別性を回避した言葉では、日本で最も暗い闇は表現できないからだ。 

 追記

 日本の医学界が如何に国際標準から遅れ逸脱していたか、ここで触れておきたい。   1897年に開催された第一回国際らい会議では、癩病を伝染病と確認したが、恐ろしいとの表現はなくノルウェー方式が注目された。衛生管理を徹底したうえでの自宅隔離と、資力のない放浪患者に対しては街中(僻地では無い)の国立病院への強制隔離して患者の病状が改善すれば家に帰すという二本立てであった。生涯にわたる隔離ではない。ただノルウェーでは対策が本格化した時点で、患者数は既に自然減少に転じていた。

 日本の隔離はisolationではなくsegregation(追放)であることがわかる。何故ならisolationは患者の社会関係は維持されて、復帰を前提としているからである。 

 1909年の第二回国際らい会議では、「絶対隔離」は必要ではないことを明らかにして、1923年第三回国際らい会議では強制隔離の非人間性を指摘、隔離は伝染性患者に限ることを確認。

 東京で開かれた1958年第七回国際らい会議は、強制隔離政策をとる開催国日本にその政策を全面的に破棄するよう勧告している。

  日本らい学会が追い詰められ自己批判したのは、戦後も1995年の4月22日 ( 正式名称は「「らい予防法」についての日本らい学会の見解」) は 日本の医学会としては異例の謝罪声明。この中でこう述べている。

「 ・・・らい患者、・・・の年次推移は、1897年から1937年にいたるまでに、急速な減少・・・を示している。・・・疫学的に見たわが国のらいは、隔離とは関係なく終焉に向かっていたと言える。つまり、このような減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染源の隔離を目的に制定された「旧法」(癩予防法・1931年)も、推計学的な結果論とはいえ、敢えて立法化する必要はなかった。・・・

 隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、らいの恐怖心をあおるのを先行してしまったのは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであった。この誤りは、日本らい学会はもちろんのこと、日本医学会全体も再認識しなくてはならない」

 余りに遅い謝罪。    

 「日本らい学会」予防法検討委員会委員長としてこの「自己批判」起草に関わった国立ハンセン病資料館長の成田稔医師は、更に断言している。                                    

 はっきりといってわが国の癩対策は、予防的効果において自然減を越えたとは考えられず、癩による災いを本質的に取り除いたわけでもないから救癩でもなく、それに産業系列から生涯隔離したのでは救貧にもならない・・・・

・・・はっきりいえば、多くの患者はまさに見殺しにされていた・・・。                                                        

 お上公認の嘘で病気への偏見を煽り、患者を強制収容して強制労働を課し、絶滅を待ったのである。「見殺し」ではなく緩慢なる殺人ではないか。にもかかわらず医師免許剥奪でさえ聞いたことがない。

 隔離は死亡率の高い急性感染症だけに適用される。感染症の隔離には、相対隔離と絶対隔離がある。相対とは条件付き、絶対とは条件なしということである。前者が例えば、自宅隔離を認めたり、治癒後は退院を認めたり、家族生活や家族による看病を容認するのに対して、後者は本人の意志に係わらず例外なく終生隔離する。

 1897年には23.660人を数えた患者数は、2011年には2275人、平均年齢は約82才。そのほとんどはハンセン病そのものは治癒したいわば元患者で療養所に入所している人である。結核の治療を終えた人を元結核患者とは呼ばない。ハンセン病に限ってこうした呼び方がされる事にハンセン病の複雑な悲劇性が見える。

    らい予防法は医師に対して患者の届出を義務付け、届出を受けた知事は療養所への入所を勧奨し、従わなければ入所を命ずる事になっていた。病人が入るのだから入院と言う筈だが、多くがそれを収容と呼んだ。

 収容は剥き出しの暴力を伴った、1922年集落を警察が焼き討ちした別府的ヶ浜事件、1940年警官や療養所の職員220名が患者157人を襲撃し一斉強制収容した熊本本妙寺事件 注 が知られている。何れもハンセン病者・貧しい農民などが混住する集落での出来事であった。的ヶ浜事件の放火犯は警察官であったが不起訴処分。 

 患者収容後の家屋は、全身白ずくめの男たちがあたり一面真っ白になるほど徹底的に消毒、打ち壊し焼き払うこともあった。愛用の衣服・日用品・学用品にも近隣の人びとが見守る中で火をかけ、移動中は白ずくめの男が患者の歩いた後を消毒して回った。 消毒と収容さえも、絶好の「啓発」の機会として利用したのである。

 医師・看護師は白衣の装束に帽子、目だけ出した大きなマスクをし、履物は雨降り用の高下駄にはきかえて、その通路から患者地区に入り・・・高下駄のまま病室に入った。もし病舎に急患が出たときは、医師は看護師に注射箱をもたせて応診に来るが、玄関から中にはけっして入らない。患者が玄関まで運び出され、そこで診察し注射を打つのだ。患者を病室に入れる場合は、同じ舎の者たちが担架で病室に運ぶのである。病棟の担当者は患者付添夫で、医師・看護婦はけっして病室に関わることはない。見学者も土足のまま病棟や不自由者棟を見学するのである。・・・そして、一度収容所を見学した者は、らいがいかに恐ろしい伝染病であるかを体験するのである。                    松木 信   

 こうして出来上がった世界は、まさに筆舌に尽くせない地獄である。収容者の証言を引用する。

 「・・・保健所の人が来て検査し菌が出ていないからと言われたが保健所員は白衣を着て来た。町内の人が見ている。つらかった。母が一緒に死のうかと言ったことがあった。「海に入って死のうか」と。「こわい」を通り越していた。(1947 年入所 女性)」                              

 「小学校卒業して 3月23日、日赤で調べてもらい、わかったとたん病院中を消毒した。母親から裏の木で首を吊ってくれないかと言われた。親には、保健所から「ハンセン病の子どもは大和民族でも優秀でもない、殺しなさい、自殺させなさい、療養所に行くと都合わるいでしょ」とはっきり言われた。(1953 年 註 入所 男性) 」

  どちらも戦後の証言である。後者は新憲法下公務員の発言。「こわい」を通り越した向こう側にあるのは、世間の残虐な眼差し。言いようのない「恐怖」に襲われる。

  だが、「死のうか」と言った女性が若かった頃の農山魚村の窮乏を知らなければ、「死のうか」の背景を共感的に理解した事にはならないだろう。ハンセン病発症は貧困と強い繋がりがある。小作料の金納化、農産物価の変動、農業労働の機械化、「文明国化」「一等国化」のことある毎に、貧者はその日の食い代に窮して生死の境にあった。「死のうか」は日常だった。不幸も悲惨も偏在してありふれた光景となる。それが怖いのである。 二つの証言はいずれも『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書 (別冊) ハンセン病問題に関する被害実態調査報告』から抜粋した。  山ほどの証言があるが、ここでは多くを引用しない。

 これが、トメ婆さんが執拗に癩病院収容を拒み続けた背景だ。収容が如何に膨大な犯罪群であるか、誰一人として刑事罰を受けていない。断っておくが、癩病に関する政策に起因する犯罪は、これだけではない。 

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...