将来の地位や賞にではなく、ただ存在すること自体に価値がある

生まれ変わったら鉛管工になりたい
承前 祖父たちは、僕を強好きにする逆療法を狙って勉強を禁じたのだろうか。どうもそうは思えない。
 あるとき年上の従兄弟に、中学校を出ると高校がありその先には大学があると聞いた。そしてその中で一番は東大だと。みんな喜ぶと思い、うちに帰るやいなや「ばあちゃん、僕東大に行くよ」と言った。だが誰も全く喜ばなかった。このとき祖父は既に亡く、父は東京に、母は療養所にいて、うちの中には祖母と戦争で家族すべてを失った祖母の姉と妹がいた。つまり三人の婆さんがいた。
 三人とも声をそろえるように、「そんなこたせんでんよか」と慌てた。そして「今のままが一番よか」と言うのだった。

 「今のままがよか」の意味が分かったのはだいぶ後のことだ。
 薩摩は大藩だった。島津領内各地に出城を配し、士は藩の都合で藩内各地或いは江戸や大坂に、場合よっては琉球に転勤を命じられた。一族はバラバラにされる。転勤ばかりではない。子どもが利発であれば、江戸表や鹿児島に召される。娘が美人ならば御殿奉公を命じられる。形の上では誉れであっても、もはや生きて会うことは諦めねばならない。これが堪らなく嫌なことだった、その記憶を僕の祖母たちも引き継いでいた。戦争で身内の殆どを失った婆さんたちにとって、いかなる形にせよ別れは容赦出来なかった。 

 祖母たちは、明治生まれであったが、戦争を経て富国強兵のイデオロギーから自由になっていた。
 それだけでは無い、うちには他のうちにはある物、天皇の写真と勲章や軍帽軍刀などが無かった。祖父が僕に残したのはバイオリンと手回し蓄音機とLPの「第九」だった。

 祖父が上海から娘たちに宛てた水墨画の葉書がとってあった。路上の饅頭売りや苦力の働く様子を色付きで描いたもので、「美味しそうだが、軍医に厳しく止められいるので我慢しています」と湯気の立ち上るようすが描かれていた。兵隊や軍艦を描いたものは無かった。残念なことに火事で焼けてしまった。
 祖父は貧しい芋侍の末っ子だったから、年齢に達するとすぐに水兵に志願した。空腹に悩まされながらたたき上げて士官になり、選ばれて弾道学を兵学校で教えた。だから計算尺の操作は見事で、根っから数学が得意だった。それは江戸時代から築堤や石橋の設計・施工・管理で代々培ったものであった。

  町役場で町史を編纂していた叔父が妙なことを耳打ちした事がある。僕が中学生になり夏休みに帰省した時の事だ。 「おまえの祖父さんは、どうも大変な事をしたようだよ。海軍を辞めるとき一悶着あったらしい」

 このことを思い出すようになったのは、叔父が他界してからだ。聞きたいときにはその人がいないものなのだ。
 伝え聞いた佐世保での海軍士官としての祖父たちの生活は優雅に思えた。当番兵が付き毎朝車が官舎迎えに来る。

 その頃の家族写真を見ると、どこかの奥様とお嬢様のようである、僕の一族が最も豊かに暮らしていた頃かもしれない。祖父はバイオリンを英国皇太子の即位記念式典に参加する航海で手に入れている。祖父はバイオリンと三味線を、祖母は三味線と踊りを習っていた。絵や書にも時間を割いた。釣りや畑仕事も達者だった。定期的に階級が上がるれば収入は倍になった。将校になればこんな極楽があった。
 だが突然辞めている。祖父は砲兵士官だから陸戦には加わってはいない。いわば傍観者でもある、それ故「日本人僧侶襲撃事件」の真相を知っていたのかもしれない。(托鉢修行中の僧と信徒数人が襲撃された事件。上海市長が謝罪謝罪したが、当時の上海公使館附陸軍武官が「自分が中国人を買収し僧侶を襲わせた」と1956年になって証言している。列国の注意をそらすために板垣征四郎大佐に依頼されたものであった)少し離れて冷静になれば真相がよく見える。
 祖父は退役後故郷の旧制中学で教えたが、軍国主義的怒声が横行する中にあって決して殴らない穏やかな教師であったと教えを受けた人たちは口を揃えた。
 (祖父がどこにいても、殴らずひたすら話を聞いたのには訳がある。祖父の二代前まで、代々薩摩藩下僚として、石組みの堤や橋などの設計・計算から施工までを職務としていた。中で神経を使ったのは、工事人夫たちの掌握である。荒くれ者たちには度々揉め事が起きる。その仲裁をしなければならない、うまく行かねば工期はのび工費は嵩む。仲裁で肝要なのは裁きをつける事ではない。いかに双方の顔を立て、工事を円滑に進めるかである。ひたすら双方の気が収まるまで話を聞く。時間も酒や料理も欠かせなかった筈だ。幕藩体制が崩壊した後は権限も手当もなくなった。それでも彼らには様々な揉め事が持ち込まれるから、話を聞く気質は受け継がれた。軍人になっても教師になってもそれは変わりようがない。
 大叔母にも、親子間など身近な揉め事が持ち込まれるのを小学生の僕は何度か見た。説教されに来たと近所の人たちは言っていた。僕は説教されたのに笑顔になってお礼を言っ帰るのが不思議であった。)
 うちでは誰も軍歌を歌わなかったのそのためだし、パチンコ屋などで軍艦マーチが流れると、祖母たちは耳を押さえて「好かんがー」と走り抜けるのであった。海軍時代の部下がやって来る事も滅多に無かった。

 兵学校生、兵学校出の将校、更に海軍大学出の将軍たちの傲慢な愚かさに、祖父は呆れ国の危険を感じたのだと思う。大叔母の口癖「馬鹿の考え休むに似たり」は祖父の哲学でもあったに違いない。
 だから軍人らしさのない祖父であった。晴れれば天秤棒に大きな笊を二つ下げ、前には鍬や小さな火鉢を、後ろには孫を乗せ、シラス段丘の絶壁を登った。祖母は右手にヤカンを左手で笊の紐を握った。作業が一段落すれば、畦の茶葉を煮出したお茶で昼ご飯だった。雨が降れば、僕や妹の遊具を造った。祖母は野菜を加工して毎日お菓子作りに精をを出し。祖父母にとってあるべき幸福はそういうものであったのだと思う。父が仕事で成功を収める事は、喜びと言うより気懸かりな事であった。
 戦争の廃棄で漸く可能になった世界である。成功や出世は歓迎すべき事ではなかった。祖父は僕がバイオリンを顎に挟めるようになれば、畑で弾き方を教えるのを楽しみにしていたが死んでしまった。

 なまじの成績に釣られて欲に負ければ、そこには親族や近隣関係を解体する予想の出来ない力が加わる。アインシュタインが「生れ変わったら鉛管工になりたい」と言ったのは、ひとは誰であれ名をなせばなしただけ政治的な圧力から自由ではあり得ないからである。

兵学校で教えた祖父は、なぜ孫の勉強を禁じたか

入学まで勉強は禁じられた
 「勉強」がしたくて、僕は1時間も前に小学校に出かけた。 母や祖母が「ゆっくりせんね、急がんでん学校は逃げんが」と言うのだが、そわそわして落ち着かず小走りして出かけた。線路や田んぼの畦や水路を渡り、お寺と神社をゆっくり捲り、湧き水を飲む。誰もいない校庭を横切り、がらーんとした校舎に入る。窓を開け放って、生暖かく淀んだ夜の空気と冷たい外気を入れ換える。1日の勉強が始まる瞬間を待つ興奮があった。
 入学前は、数字を12までと名前のひらがな7文字だけ教えるのが祖父たちの方針だった。だから大人たちが新聞や雑誌を読んでいる側に行って、知っている字と数字だけを指差しして読んで読んでいるつもりになっていた。
 ある時カレンダーに12より先があるのを知り「こんた何ね」と聞いたが、祖母たちは「知らんでん良か、学校に上がれば勉強すっじ」て言うばかり。こっそり他所のおじさんに聞いて31まで覚えた。それ以上の数字は小学校入学まで知らなかった。ひらがなは駅名の表示を見て憶測した、例えば「しぶし」と書いてあれば、駅で既に覚えた「し」と「し」の間を指して「こんた、「ぶ」ね」と聞けば、側の大人が「じゃが、じゃが」と首を振るので僅かに増えた。
 だがうちの大人は、子どもは遊ぶのが仕事と、教える事を徹底的に抑制した。朝は鶏が縁の下に産んだ卵を集め、漁港のおじさんに魚を貰い、夕方には五右衛門風呂の水を井戸から汲み火を焚き付ける。それ以外は遊ぶ姿を見せれば、手作りのおやつが待っていた。
東京に出て驚いたことの一つに、おやつは店で買うものになっていた事がある。人間や生活が軽く見えた、東京は広いが薄っぺらいと思った。)

 4月の入学が迫ると「よかねー。もうすぐ一年生やねー。勉強出来っど」と方々から声がかかる。さぞかし勉強は楽しいことだろうと、堪らず自然に笑顔になっていた。その頃の記念写真があるが、妻が「こんなに嬉しそうな子どもの写真は初めて見た」と言う。一緒に写っている妹は、撮り直しが続いてすつかり疲れた顔で写っている。僕はカメラの横の大叔母に撮り直しの度に「よかいねー、いっき勉強出来いねー」と声をかけられ最後までご機嫌だった。
 
 入学すれば、その日のうちに授業が始まるとの期待は大きかった。それだけに延々と続いた式に、僕はすっかり疲れ切ってしまった。だから記念写真では僕一人が不機嫌な顔をしている。次の日も次の日も授業は始まらない。僕は裏切られた思いで落ち着かず、消しゴムをナイフで刻んで投げたり、前の女の子のお下げを引っ張ったり、勝手に立ち歩いたりするようになった。先生は困ったと思う。一週間位して初めての参観日があった。僕はその日も立ち歩いていて母は、顔から火が噴き出しそうになったという。立ち歩いているのは二人だったが、先生はプリントを二人に何枚も渡して「みんなに配って頂戴」と指示され、担任と三人で手分けして配った。それから先生は、徐に「さあ、席に戻りましょうね」と促したそうだ。素直に席に着く二人を見て、参観の母親たちは感嘆の声をあげたという。この先生は熊本大学を卒業したばかりの松本先生であった。

  「もういっき学校やねー。勉強出来いねー」と言われる度に嬉しさを隠しきれない僕を見て、妹も勉強は楽しいと思ったに違いない。勉強が軌道に乗るようになり僕が学校から帰ると、ちゃぶ台を出しノートをひろげて「お兄ちゃん勉強おしえて」とせがむ。僕は一刻も早く近所の友達と遊びたいのだが、母が「教えてご覧」と縫い物しながら言う。大急ぎでその日の授業を思い出した。毎日僕は「名前を呼ばれたら元気に手を上げて返事をしましょう」から始めて、お復習いをした。窓から覗き込んでいた
近所の友達の名前を呼ぶと、彼らも嬉しそうにハーイと返事をした。遊ぶ前に勉強するのがこうして習慣になった。先に遊ぶと落ち着けないのだ。
 しかし貧しく、二年続けて差し押さえられた。米にさえ不自由し、三年生になる前に母は結核で血を吐いた。特効薬はまだ普及していなかったから、療養所だけが頼みの綱であった。父は仕事のために上京、僕と妹は生まれ故郷の祖母の家に戻った。

 生まれ故郷では、親戚か知り合いだらけである。知り合いを黙って通り過ぎようとすれば、「寄って行かんね」と叱られてしまう。下校時にはどこかを回るのが日課になった。「先に宿題やろう」が僕の口癖だったから、おばさんたちにはことのほか歓迎された。
 宿題が無く偶に早く帰ると、先に戻った妹が祖母たちの前でお復習いをしていた。正座して教科書を前に突き出して行儀良く朗読している。近所の遊び仲間がやって来て「なおちゃん、はよー、はよー」と遊びに急かす。ランドセルを置いて出ようとすると「今日やったところを、婆ちゃんたちにも聞かせんね」と祖母たちに引き留められた。強引に妹のお復習いに割り込んで、超特急でお復習いをした。おかげで僕はとびきりの早口になった。東京に来て国語の読み方をさせられると、いつも教室が大笑いになるのだった。「早すぎて目が追いつかない」と言うのだ。しかし早読みの癖は直らなかった。 
 町に一軒だけの洋菓子屋の
ケンちゃんにもよく誘われた。宿題が終わるとケンちゃんが、下の店から菓子パンやケーキを運んで来る。暫くするとおじさんが「ありがとう」とニコニコしながら紅茶を持ってきてくれるのだった。「ケーキ屋けんちゃん」がTVで始まったときは驚いた、ケンちゃんの顔も店もよく似ていたからだ。
 
 東京に親戚は無かった。転校当日から、隣の女の子が算数で困っていたので「こうするといいよ」と教えた。彼女はその時初めて、勉強を楽しいと思ったそうだ。休み時間にも教えていたから、周りの子が覗きこんで怪訝な顔していた。近所の遊び仲間の家でも一緒に宿題をやった。やっぱりおばさんたちにはかわいがられた、宿題を先に片付けるからだ。中学生になっても続いた。勉強という単語が「嫌な事を我慢」するという語感を含んでいるとは思いもよらなかった。
                      続く

達成感なんか糞食らえ / 「個人の存在の尊さ」の前には、如何なる達成感であれ出る幕は無い

教室で子どもたちは国家目的達成感に酔う日々を送った
 親も教師も生徒までもが組み体操を止められない。まるで薬物中毒のようだ。死者は既に9人も出ている。学校でやらねばならぬ事柄ではないのに、死傷者を出してまでやる理由のうち最も多く頑強なのは、「達成感」と「涙」である。何だ達成感とは。      
 まず思い出すのは、南京に攻め入った陸軍将校による「百人斬り競争」である。当時の全国紙のトップを飾った事から異様な「達成感」に新聞人までもが汚染されていたことが分かる。もう一つは、太平洋戦争中小学校の教室に貼られた「大日本帝国」地図である。大本営の発表に合わせて子どもと教師が地図上に日の丸を入れた。教室で国家的「達成感」は日々作り上げられていたのである。占領すれば日の丸、攻撃すれば爆弾が付け加えられた。
 現地の民衆が味わう惨劇や兵隊の死に様は掻き消されて、領土の膨張が子どもと教師に脳内麻薬を分泌、いつの間にか中毒していた。そうでなければ、神宮外苑での学徒出陣光景は考えられない。この大会を主催したのは文部省で会った。同様の光景は各地で繰り広げられた。

   ナチス支配下の白バラ抵抗の気配はどこにも無い。イタリアや占領下フランスのようなパルチザン闘争も無い。
 権力民衆一体となった途方もない「達成感」が演出された。それが一億総玉砕のスローガンを産み、竹槍でB29に対抗する絶望を準備さた。どこまで行っても「やめた」を言えない。「バンザイ」しか言えない。

 皇族や将軍たちの子弟は、戦死もせず爆撃にも遭わず広大な邸宅の中で数百人の使用人に傅かれ飢える事も無かった。にも関わらず、焼け出され肉親を殺され飢ても民衆は、地位と特権塗れの大邸宅を襲う事もしなかった。民衆を搾取して蓄えた富を、民衆が回収し民衆の共同資産化する事は正当な行為である。食糧政策に欠陥があればなおさらのことだ。なぜ個別行動に走ったのか、不思議なことだ。敗戦の混乱の中で民衆は食料の確保を共同化する知恵に欠けていた。個別に警察の取り締まりをかいくぐって、農村に買い出しに出かけた。満員で乗れない列車の屋根にまで乗る危険で実り少ない民衆同士の不毛な争奪戦であった。
 都立高校では買い出しのために「買い出し休暇」が制度化(後に研修日となった)された。なぜ「買い出し」を共同化しなかったのか。共同化出来なかった思想的弱さ、その延長線上にあるのが有害無益な偏差値競争である。学ぶことを国民共同の権利として、定員制も入試も廃止する。現在個別の家庭や若者が強いられる労力も費用もどんなにか軽減されることだろうか。国民経済全体で計算すれば恐ろしい数字になる。偏差値競争で実現されるのは、合格発表掲示板前で演じられる達成の涙だけだ。
 
 それが国家管理による「達成感」に踊らされ挙げ句に脳内麻薬に中毒した結末だ。
 必要なことを個人や集団で討議決定し実行できない精神と肉体になった。会社や学校で繰り広げられる「ノルマ」達成キャンペーンは、それを引き継いでいる。

 決定や判断は「お上」だけがする、民衆はひたすら従順に従う。行動の本質には関与できないが、その実現に向けて頑張ることしか出来ない。それを奴隷と言うのだ。
 その過程で我々は、人はすべて「存在自体が尊い」という感覚を忘れてしまった。地位やメダルや勲章や偏差値やギネスブックに平伏せば、いつの間にか存在するだけの自らには価値が無いと思い込む。
 「存在の尊厳」を感じるには、静かで落ち着いた生活が絶対条件だ。自分の子どもや連れ合いの尊さが、
生きている事実だけで感じられないなら、政治の貧困に目をむけて怒りをぶつけろ。たかが「達成感」のために、死者や怪我人を出してまで「涙」を流すのは倒錯に他ならない。
 
 他民族の生活領域を爆撃し占領し強姦し、挙げ句の果てに餓死するために「達成感」は使われた。今も新たな企てのために、達成感は仕組まれている。要らないのだそんなもの。 憲法第13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」 は、存在自体の尊さを擁護している。

 

いつまで君主制に騙されれば目が覚めるのか

負けないぞと胸をはって、手をつないで 
ピケを張っているのは新しい主権者だ
 1951年11月12日、昭和天皇の京都大学に来ることになった。学生たちは天皇宛の質問状を取り次ぐよう学長に要請したが、学長はこれを拒否。ならばと学生らは天皇に直接手渡そうとしが、警官隊が入りこれを阻止、騒ぎとなった。左の写真にはその質問状の一部がある。

公開質問状

私たちは一個の人間として貴方を見る時,同情 に耐えません。
 例えば,貴方は本部の美しい廊下を歩きながら,その白い壁の裏側は,法経教室のひびわれた壁であることを知ろうとはされない。
 貴方の行路は数週間も前から何時何分にどこ,それから何分後にはどこときっちりと定められていて,貴方は何等の自主性もなく,定まった時間に定まった場所を通らねばなりません。
 貴方は一種の機械的人間であり,民衆支配のために自己の人間性を犠牲にした犠牲者であります。
 私たちはそのことを人間としての貴方のために気の毒に思います。
 しかし貴方がかつて平和な宮殿の中にいて,その宮殿の外で多くの若者達がわだつみの叫びをあげ,
うらみをのんで死んでいる事を知ろうともされなかったこと,又今と同じようにすぢがきに従って歩きながら太平洋戦争のために,軍国主義の 支柱となられたことを考える時,私たちはもはや 貴方に同情していることはできないのです。
 しかし貴方は今も変わってはいません。名前だけは人間天皇であるけれどそれはかつての神様天皇の
デ モクラシー版にすぎないことを私たちは考えざるを得ず,貴方が今又,単独講和と再軍備の日本で かつてと同じやうな戦争イデオロギーの一つの支柱として役割を果たそうとしていることを認めざ るを得ないのです。
 我々は勿論かつての貴方の責任を許しはしないけれど,それよりもなお一層貴方が同じあやまりをくり返さないことを望みます。
 その為に私たちは貴方が退位され天皇制が廃止されることを望むのですが,貴方自身それを望まれぬとしても,少なくとも一人の人間として憲法 によって貴方に象徴されている人間達の叫びに耳 をかたむけ,私達の質問に人間として答えていただくことを希望するのです。

質問
一 もし,日本が戦争に巻き込まれそうな事態が起るならば,かつて終戦の証書において万世に平和の道を開くことを宣言された貴方は個人としてでもそれを拒否されるように,世界に訴えられ る用意があるでしょうか。
二 貴方は日本に再軍備が強要される様な事態が起った時,憲法に於て武装放棄を宣言した日本国の天皇としてこれを拒否する様呼びかけられる 用意があるでしょうか。
三 貴方の行幸を理由として京都では多くの自由の制限が行われ,又準備のために貧しい市民に廻るべき数百万円が空費されています。(孫の即位には160億円)
 貴方は民衆のためにこれらの不自由と,空費を希望される のでしょうか。
四 貴方が京大に来られて最も必要なことは, 教授の進講ではなくて,大学の研究の現状を知り,学生の勉学,生活の実態を知られることであると思いますが,その点について学生に会って話し合っていただきたいと思うのですが不可能でし ょうか。
五 広島,長崎の原爆の悲惨は貴方も終戦の詔書で強調されていました。
 その事は,私たちはまったく同意見で,それを世界に徹底させるために 原爆展を製作しましたが,
 その開催が貴方の来学を理由として妨害されています。
 貴方はそれを希望されるでしょうか。又,私たちはとくに貴方に それを見ていただきたいと思いますが,見ていた だけるでしょうか。

私たちはいまだ日本において貴方のもっている影響力が大であることを認めます。それ故にこそ,貴方が民衆支配の道具として使われないで,平和な世界のために,意見をもった個人として,努力されることに希望をつなぐものです。
 一国の 象徴が民衆の幸福について,世界の平和について何らの意見ももたない方であるとすれば,それは 日本の悲劇とあるといわねばなりません。
 私たちは貴方がこれらの質問に寄せられる回答を心から期待します。

昭和二十六年十一月十二日
京都大学同学会
天皇裕仁殿

  彼は悪い音質の放送の中で確かにこう言ったのだ。

・・・敵は新に残虐なる爆弾を使用して、頻に無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る・・・
 アジア各地で「頻に無辜を殺傷」の「残虐な」作戦の責任を負うべき男はこう言ったのだ。2000万を下らない人命を奪っただけではない、京大に来る遙か前の1947年9月には「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」とのメッセージを占領軍に届けていたのだ。
 無論質問を書いた理学部の中岡哲郎はその事実を知らなかった。何しろ天皇自身と取り巻き以外は誰一人知らなかったのだ。

  この日、詩を印刷したビラもまかれた。

あれが 雲の上から 降りてきて神様だと名のったものの あとつぎだ
神話と童話は要るけれど 
夾竹桃の花々に歌って踊る小鳥と小人
親指姫と一寸法師の 流れる小川はいるけれど
可愛い小さな矢をもって 恋の弓射るキューピット
真赤な頬はいるけれど
何千年の昔から 何万人の人民の血と汗と油を沼に流しこみ
勝手に殺して知らぬ顔 そんな神に用がない
それにへつらうダニの群 汚れた神のダニはいう
それが〝人間の子だった〟それが〝精神の支柱〟だと
あなたが本当の神様に神様らしい人間になりたいのなら
そのダニを 一匹一匹つぶすのだ
だまされないぞふたたびは
生きゆくことの喜びと赤い血潮の高鳴りをもう勝手には消させない
立上る 立上る民衆の 自由 平和
独立の歴史の姿にこだまする あのたくま
しい歌声を人間ならば聞くがよい
神の子ならばなおのこと
一緒になって歌うのだ
            京大反戦平和詩グループ

  「だまされないぞふたたびは」と詩に書き付けた時、既に欺されていたのだ。その孫が位に就いたことを祝うパレードが、巨大台風災害の惨状におののいて延期されたと言う。なぜパレードの中止や制度自体の廃止ではないのか。京大生の質問は、今なお有効である。

 日を改めてパレードするという。その時、新しい天皇の祖父が望んだ「米国による琉球諸島の軍事占領の継続」の実態に思いを馳せる者はどれほどいるのか。破顔の皇族と政権首脳、それに熱狂する民衆と資本。その姿はこの民が、だまされる側からだます側に位置を変えた事を白状するのだ。

苦汁を分けてのむ / 台湾二林事件と蔗糖問題

台湾市街で演説する布施辰治と簡吉
 1925年5月に施行された治安維持法を適用した最初の事件は、25年11月の66人が検挙された第一次朝鮮共産党事件である。時期も場所も根拠法令も互いに関係のない雑多な事件を無理矢理集めた裁判で、30ヶ月に及ぶ残忍な取り調べで障害者や獄死者まで出している。裁判への反感が、当局の意図に反して被告や共産党への大きな共感を組織したのである。弁護人に後の大法院長や李承晩独裁政権の法務大臣が立ったことで示される。
 1919年の「二・八独立宣言事件」弁護を、独立運動に敬意を表す立場から引き受けた事のある布施辰治もこの裁判に駆けつけ、朝鮮人から「われらの弁護士」と呼ばれた。
 その布施辰治は台湾にも、弾圧に苦しむ農民と「苦汁を分けてのむ」決意とともに弁護に駆けつけている。

 「ある台湾人日本軍兵士が見た南京大虐殺」←クリック   で台湾の農民たちを収奪し尽くした日本の製糖資本について書いた。農民組合が組織され抵抗運動が起きた。中でも二林という村落を舞台にした騒擾事件は、全台湾の注目を浴びた。その時の報告が残っている。

 私(布施)は、去る三月十四日出発、四月二日帰着、二十日間の日程で台湾に行ってまいりました。
主要な任務は、台湾の農民運動に画期的な刺激を与えた庶農組合対林本源製糖会社の二林騒擾事件弁護のためでありました。 ・・・
 事件記録によって二林騒擾事件発生の動機を要約すると、それまで最も会社側の横暴に苦しめられていた、
  ①肥料の強制売りつけ
  ②買上価格未協定甘蔗刈取収納
  ③収納甘蔗秤量立会拒絶の三つの施策に対する三か条の抗議にその原因を発しているのであります。
 以上の二点の施策は、単に題目を見ただけではちょっと想像できないほどひどいもので、①肥料の強制売付というのは、未だ台湾には肥料法が実施されていないのを奇貨として、会社は、勝手な調合肥料を特製し、あえてその効力があろうと無かろうとを問題とせず、いやしくも会社所属区域庶作民に強制的にこれを売つけておいて、最後の甘蔗収納売付代金から差引かれる。そのために蔗作農民はせっかく自作した甘蔗を事実上只取りされる。このことに対する抗議として、肥料の自由購買を要求したのであります。
 ②買上価格未協定甘蔗刈取収納というのは、蔗作農民の自作甘蔗は、どこからどこまでの分を何会社に買い上げてもらうということに官憲からの指定があり、万一これに違反したときは罰金に処されることになっているので、あらかじめ買い1げることに決まっている会社が、未だ買上価格協定の無いうちに、会社の都合次第で勝手にこれを刈取収納し、しかるのち庶作農民へ今年度の甘鷹はイクラという価格を発表し、①の強制的に売り付けた肥料代も差し引けば、会社で勝手に刈り取った甘蔗刈取苦力賃までも農民持ちに計算されるために、これまた買上の計算はつけられても事実上蔗作農民の手に金は入らないことに対する抗議として、甘蔗刈取収納前価格協定を要求したのであります。
 ③甘蔗収納秤量立会拒絶というのは、会社側が買取収納した甘蔗が何万何千斤あったかを秤量するときに、蔗作農民が立ち合わせてくれといっても、会社側は、売主たる蔗作農民に立ち合わさせず、買主たる会社側のみで勝手にどの畑からは何千斤、この畑からは何千斤刈り取ったということを決定するのは、あまりにひどいということで、それに対する抗議として、秤量立会を要求したのであります。
 どうです、何人といえども、以上三点蔗作農民組合から抗議した要求の、あまりにも当然にして、会社側の従来の横暴さに驚かないものは無いでしょう。にもかかわらず、会社側が、こうした薦作農民側からの要求を一蹴拒絶したために起こった事件なのだから、二林騒擾事件被告同様、製糖王国の横暴に苦しめられている台湾全島の蔗作農民は、当面の被告として法廷に拉致された蔗作農民のみが裁判を受けているのではなく、全島の蔗作農民一同の利害と一致するものとして、今後の蔗作問題がどうなるかということを、注目懸念しているのであります。
 渡台に先立って、私は、単に法廷に拉致された二林騒擾事件被告のみを弁護するばかりでなく、台湾全島蔗作農民のためにも法廷外の弁護をする必要を痛感しておりました。渡台を機会に、無産階級解放連動促進の講演会を開催してはどうかという議があり、私も精力の続く限り、時間の許す限りその希望に応ずる考えでしたから、滞在の日程は誠に短かかったけれども、寸時の無駄もなく、左記のごとき日程で、法廷弁論の三日間とともに21ヶ所30回の講演をして帰りました。(日程省略)
 この間示された台湾無産大衆の熱意は、実にすさまじいもので、いたるところ講演会を埋めた大衆の気勢は、それ自体が農作問題に対するデモンストレーションであったと思います。
 ここに真の裁判というものがありうるとしたら、この間題に最も直接の利害と感情とを共有する台湾熊産大衆の熱気こそそれでありました。講演会の雰囲気は、二林騒擾事件を社会的に裁くと同時に、二林騒擾事件を裁判した裁判官をも社会的に裁く、はなはだ公正かつ厳粛なものであったことを喜ばしく思いました。 ・・・ 布施辰治『進め五年五号1927年5月』

   この事件で布施辰治を助けた簡吉は、教職を辞して台湾農民組合を組織して、幾度もの投獄にも屈しない青年であったが蒋介石に殺されている。

 映画『非情城市』はこうした背景を知って見るとよい。群衆の一人一人が立ち上がってくる。
 

 台湾人たちが今なお「感謝」しているのは、総督府の植民地支配に抗した布施辰治らの活動に対してであり、「支配」一般に対してではない。

作り方では、日本国憲法は「土人」に遠く及ばない

吹き抜けの開放的小屋が制憲議場
 ギルバート諸島が1978年に独立(いろいろあって独立後は、英連邦のキリバス共和国となった)するとき、憲法制定議会が組織された。
 第一次世界大戦で独国が敗れて日本は易々と戦勝国となり、独国支配下の島々の一部を国際連盟委任統治の名目で占領した。名目にすぎなかった事は、国際連盟脱退後も居座ったことで分かる。ヨーロッパ人が来る前に人は住んでいた。島に生まれた人たちにとって、英国であれ、ドイツであれ、日本であれ、米国であれ「みんな、こちらには断りなしにやって来ましたよ。勝手に自分の国の旗を立てた」闖入者である。日本人は島民をこき使って道や滑走路を作り戦闘機を置きムラをつくりサトウキビ畑を造り、泡盛を作り輸出して儲けた。島始まって以来の「繁栄」を実現したと日本人は胸をはる。挙げ句の果てに米軍と滑走路を巡って殺し合って、玉砕した。島民も数千人が殺された。しかし、島民は、そんなこと頼みはしなかった。
 「あんまり働くと病気になる」という生き方を貫くキリバス人。遠くから高い費用を払って飛んでくるほどの美しい自然の中に、伊勢エビも貝も魚も主食のパンの実もジュースも新鮮なまま溢れている。何時も愉快に歌い、飲み、食べる。
  しかし日本企業の現地社員たちは、彼らを怠け者とは言わない。よく働き優秀だからだ。
 
 たくさんの特徴がある島国だが、何より素晴らしいのは制憲過程である。ギルバート諸島は植民地だったが、自治権を認められ政府を持ち大臣もいた。

 「「憲法制定会議」というからにはいかめしく守衛がとりまいているのかと思ったら、そんなことはまるっきりなかった。シャツに半ズボン、ゾウリバキのスタイルで私もそこに行って、はしっこのゴザに腰を下ろした。誰かがもの静かに話をしていた。残念ながらギルバート語なのでかいもく判らなかったが、なかなか雄弁のように見受けられた。若いのはあまり見えなかったが、年よりもいれば女性の姿も見えて、なかなか多彩な感じがしたが、多彩といえば、ときどき私のようにのぞきに来る野次馬のほうも多彩だった。ゾウリバキも来れば、ハダシも来る。上半身まるはだかのものぞきに来たし、犬もやって来た。そのときには気がつかなかったが、あとで記録用にとっておいたテープをきいてみると、ニワトリの声も演説の声にまじって入っていた。
 三百人はもう一月もそこでそんなふうにニワトリの声の伴奏入りで会議をして来ていたのだが、中部太平洋に大きくひろがって点在するいろんな孤島からやって来ているのだった。いちばん遠いところはタラワ島から三千キロはなれたクリスマス島からやって来ている参加者もいて、そういうのは何日.もかかってはるばるとやって来ているのである。各孤島から五人あて来ていて、 内わけは島のお役所の人ひとり、協同組合からひとり、.あとは老人代表、女性代表というぐあいに、いかにも島の住民代表という感じが強い。
 たしかに見ていると、その「憲法制定会議」は住民大会といった印象がした。ひとにぎりのえらいさんたちがどこかの密室に集まって勝手に方針をきめるというのではなく、住民が集まって、その開けっぴろげのかくしようのない場所で、みんなでチエを出し合って自分たちの未来をきめる。-こういうことは、今ようやく日本でもあちこちで人びとが始めていることだが(小田実がこれを書いたのは1970年代の終わり頃である。1971年美濃部知事が選挙で圧勝、各地に革新自治体が出来、4500万人が革新首長の下で生活していると言われた。遙か昔のような思いに囚われる)、それを国家の規模で、国家の基本をさだめることについてやってのけようとしている。
 「憲法制定会議」を見ているうちに思い出されて来たことがらは二つあって、ひとつは日本のあちこちで見たそうした住民大会の光景だが、もうひとつは、日本国の憲法をつくるにあたって、私たちがこういう住民大会を一度でももったことがあるかということであった。昔の「明治憲法」が、伊藤博文やら何やらが勝手につくり出した憲法であることは言うまでもないことだろうし(第一、国民は憲法発布の日まで、その中身について一言半句も知らされていなかった、当時日本にいた西洋人が、あわれにもこのヤバン国の国民、中身の何んたるかを知らずして発布を祝うと日記に書いていた)、今の「新憲法」だって、中身はわるくないにしろ、でき上るまでの過程は同じようなものだ。とすると、ギルバート諸島と日本、どちらが進んでいて、どちらがおくれていることになるか」小田実『世界が語りかける』

 小さな国の幸福を感じる。

 だが出来上がるまでの過程という事で言えば、高校と言う小さな世界の決まり=校則でさえ、職員会議が勝手に作るものであり続けている。今や管理職が教員の意向さえ無視して一握りの取り巻きだけで作る。守る従順性だけを押しつけ、守らない者を罰する矮小な事が教員の仕事になってしまった。とても先進国や文明国の草の根インテリの仕事ではない。
 我々は小さいことの利点さえ生かせないのか。坂本龍馬や吉田松陰など「偉人」を有り難がっている限り、ひとり一人が自立した思想を持つ用になるのは至難だろう。
 
 キリバス共和国に軍隊はない。

20年後を見通す政策を立案する賢明さはどこから来るか

妊娠中絶合法化で20年後の若者の犯罪率が低下した
 栃木県の認定こども園で、保育教諭らが、2歳児たちに「死んでしまいなさい」と罵り、食事やトイレの際にも「廊下に出ろ」「邪魔」「うるさい」などと暴言を吐き、園児を明かりのついていない教材室に入れたこともあったという。
 こども園は保護者に謝罪、当該園児宅を個別訪問し謝罪した。件の保育教諭2人は退職。園長は「園児や保護者に不快な思いやつらい思いをさせ、申し訳ない。今後は職員間の風通しを良くし、保護者に安心してもらうためのカメラを設置するなどして、再発を防止していく」と話したと新聞などは報じた。   2019年7月31日

 日本では子どもの虐待死が年間50件を超え、2017年度の虐待死は65人。(厚労省社会保障審議会の児童虐待に関する専門委員会)  死亡した子供の年齢は0歳児が28人と最も多い。加害者は実母が25人、実父が14人。また16ケースは「予期しない妊娠・計画しない妊娠」だった。
  2018年度、児童相談所での虐待相談対応件数は全国で前年度比2万6072件増の15万9850件と過去最悪、統計を取り始めた1990年度から28年連続の増加。

 児童虐待によって生じる社会的な経費や損失は、日本国内で少なくとも年間1兆6000億円にのぼるという試算がある(2012年度)

  栃木のこども園では「死んでしまいなさい」と子どもが叱られていたのに園長は数ヶ月も気付いていない。この園長は普段は園のどこにいたのか。子どもや保育の現場が、好きではない事が分かる。風通しや監視カメラの設置で済むわけがない。
 子どもや現場が好きである事と、教育行政が乖離したのが事の発端である。かつて校長や教育委員会の教育長、教育委員会事務局の指導主事にも教育免許状が必要であった。 教育委員の公選制廃止以降も、日本の教師はよく闘って公教育制度の民営化や権力の介入を防いできた。一方ベトナム反戦闘争でも大きな力を発揮して、学生たちを鼓舞して「頭は白いが胴体は真っ赤」と言わしめた。だが、教員組合の組織率の低下は如何ともし難く、教研活動(80年代半ばには、教研集会報告に生活指導が目立ちはじめると共に、教科実践報告が少なくなっていた)も低迷、組合の白くなった頭は教育行政と一体化してしまった。日教組が主任制反対闘争から降りたのは95年、職員会議での採決禁止が98年であった。こども園だけではない、あらゆる公教育機関が、権力と利殖の低次元な舞台と化した事の表れが栃木の事件である。直ちにやるべきは、監視体制の強化ではない、監視体制の行き着いた先が、神戸の小学校教師のいじめ事件である事を知らねばならない。

 教育行政がその姿勢を、教育と子どもに向きを変えなければ、事態は解決に向かわない。教育行政当局が、教育愛に燃える、こんなに絶望的なことがあるだろうか。
 厚労省の報告にあるように、児童虐待の最大の要因は「予期しない妊娠・計画しない妊娠」である。望まない・望まれない妊娠と犯罪率の関係には、スティーヴン・レヴィットの研究(邦訳『やばい経済学 東洋経済』)が既にある。
 
 妊娠中絶が合法のニューヨーク州、カリフォルニア州、ワシントン州、アラスカ州、ハワイ州では、他の州よりも早く犯罪が減り始めていた。凶悪犯罪で13%、殺人事件では23%減少していた
(1994~1997年)
   1973年テキサス州の「ロー対ウェイド」裁判以降、妊娠中絶合法化が全米へと広がり、一年間で75万人の女性が中絶を受け、さらに1980年には160万件まで中絶件数が増えた。その結果、子殺しの件数が劇的に減り、できちゃった結婚も減り、養子に出される子どもも減少。
 そして「ロー対ウェイド」裁判から20年ほど後の1990年代初め、犯罪発生件数自体が劇的に減少したのである。恵まれない環境で、幼少期、少年期を送った子どもたちが、犯罪へ走りがちな若者の犯罪が明らかに減った。

 幼児虐待が効果的に減少するには、「予期しない妊娠・計画しない妊娠」による親の犯罪を直接止めると共に、「予期しない妊娠・計画しない妊娠」によって生まれ十分な愛情の元で育てられなかった世代がなくなるのを待たねばならない。それは少なくとも20年はかかる。
 気の短い議員がマスコミ受けを狙って、行政当局に求める性急な対策は一見効果がありそうだが、当該議員の短期的人気を高める以外の効果はない。20 年以上たって漸く効果が見えてくる政策、それが社会政策である。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...