日馬富士事件の何が問題か

   会社の上司に「たばこ買ってきてくれ」と頼まれ、クラブの「先輩」に「これ洗っといて」と言われても、断ることができる。断ることができるとは、断ったせいで何の不都合もおきないということである。上司が部下に指示できるのは、労働契約に明記された業務についてだけである。軍隊の上官が部下に命令できるのは、兵営内または戦場の軍務に関することだけである。しかもその命令が正当性を欠いている場合は、拒否しなければならない。クラス担任や部活顧問が「あいつは鬱陶しいから、無視しろ」と生徒に言ったら、勿論従う必要はない。
 しかし、日本の職場では宴会でもわざわざ「今日は無礼講」と断わらねばならぬほど、封建的人間関係が至る所至る事柄に無原則に拡大している。
パンダに虚構はない
 横綱の権威もあくまで土俵上のこと、外へ出て酒を飲むのなら、一介の個人友人として接しなければならない。横綱は人格的にも優れていなければならないというのは、表看板に過ぎない。もし「人格云々」を本気にするのなら、今横綱は一人もいない。人格者力士が出るまで10年でも50年でも待たねばならない。営業上の理由で安易に横綱に祭り上げて「人格者」のはずともて囃すから、尊大になる。説教しなければならないという気になる。部活で中学生がたった一才や二才の違いで「先輩」と奉る悪習は直ちに止めて、名前で呼ばねばならないのである。
 「憲法を守る覚悟」とはこういうことである。将軍と兵卒が同級生なら、兵営を一歩出れば平等な友達であり、敬語なしで語り合える。だからこそ我々は、多様な世界観を共有でき、学びあい互いに「真実の発見」に向けて対話できるのである。立場は忘れねばならないのである。

   銀座の外れに、不思議な飲み屋がある。企業のtopを勤め上げた人間が一人で飲む店である。社長・会長と持て囃された男が引退間際になって気がつくことがある。それは、自分自身のきらびやかな日常が、地位を取ってしまったら何も残らないのではないかという恐怖である。いい例が身近にたくさんある。例えば、先代社長だ。引退とともに年賀状も進物も激減、来客も絶える。だから企業は、社長の上に会長さらに顧問と頂上を限りなく高くした。しかし中身のない張りぼてがふやけて膨らんでいるだけである。
 彼らは「人生をやり直すとしたら、何になるか」との質問には、口を揃えたように「売れない詩人」とこたえる。売れないと限定がつくのは、虚飾が一切ないからである。
 団塊の世代以降に面白い一群がある。将来を嘱望されながらも、目立たない地方公務員となり決して昇進試験は受けない、残業もしない。休みは年休も含めて目一杯取る。そして儲からない、人の注目しない研究や趣味に打ち込むのである。学会ぐらいは参加するかもしれないが、物静かである。

  後漢書『逸民伝』の厳光を想う。彼は若き日の光武帝と共に遊学した仲であったが、光武帝の即位を耳にすると、名前まで変えて世間から隠れてしまう。光武帝は、厳光の偉さを思い捜しだすが、厳光は度重なる招きにも皇帝直々の訪問による誘いも「私には志がある、無理を言うな」とけんもほろろに断ってしまう。皇帝が「朕は昔よりよいか」と聞けば、「少しはまし」と答える始末。それでも皇帝は彼を高官に任ずるが、厳光は山に籠もり百姓をして一生を終えてしまう。『逸民伝』にはこうした人物が大勢出てくる。逸脱した人間の中からしか、ラジカルな変革は始まらない。

  横綱という虚構の地位、オリンピックやノーベル賞のメダル数、業界一位という自惚れ、偏差値、大会優勝実績、・・・こうしたものが我々の日常を席巻して、人と組織を傲慢にしている。日馬富士問題の間違いは、相撲をスポーツと同列に商業化しながら、部屋制度や横綱という虚構に寄りかかったことにある。虚構を虚飾で誤魔化そうとするから、実態がベールの覆われ相撲協会の問題になる。まともなら、本人同士で決着をつけて警察に任せる単純な問題である。加計学園問題を押しつぶして報道する事柄ではない。 
  僕は、健康からほど遠い体型になった人間の組み合いや競争に熱狂するファンを残酷な人々だと想う。

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