内閣には憲法の批判権がない

 1956年3月16日、岸信介ら60名が国会に提出した「憲法調査会法案」の公聴会が衆議院内閣委員会で開かれた。
 以下は戒能通孝公述人の発言からの抜き書きである。
 「憲法の改正は、ご承知のとおり内閣の提案すべき事項ではございません。内閣は憲法の忠実な執行者であり、また憲法のもとにおいて法規をまじめに実行するところの行政機関であります。したがって、内閣が各種の法律を審査いたしまして、憲法に違反するかどうかを調査することは十分できます。しかし憲法を批判し、憲法を検討して、そして憲法を変えるような提案をすることは、内閣にはなんらの権限がないのであります。この点は、内閣法の第5条におきましても、明確に認めているところでございます。・・・内閣法のこの条文は、事の自然の結果でありまして、内閣には、憲法の批判権がないということを明らかに意味しているものだと思います。
 ・・・内閣に憲法改正案の提出権がないということは、内閣が憲法を忠実に実行すべき機関である、憲法を否定したり、あるいはまた批判したりすべき機関ではないという趣旨をあらわしているのだと思うのであります。
 憲法の改正を論議するのは、本来国民であります。内閣が国民を指導して憲法改正を企図するということは、むしろ憲法が禁じているところであるというふうに私は感じております。・・・
 元来内閣に憲法の批判権がないということは、憲法そのものの立場から申しまして当然でございます。内閣は、けっして国権の最高機関ではございません。したがって国権の最高機関でないものが、自分のよって立っておるところの憲法を批判したり否定したりするということは、矛盾でございます。
 こうした憲法擁護の義務を負っているものが憲法を非難する、あるいは批判するということは、論理から申しましてもむしろ矛盾であると言っていいと思います。」1956(昭和31)年3月16日 第24回国会 衆議院内閣委員会公聴会
  全文は  http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/024/0634/02403160634001a.html

   幼稚な者ほど無邪気な「全能」感に浸ることができる。でたらめの呪文で、蟻や鶏を意のままにできると思い込む。根拠などない。二学期も終わろうとする頃、野球部の三年生が
 「先生、オレ東大に決めたよ」と唐突に言う。
  「そうか、勉強する気になったか」
  「そうじゃないんだ、六大学の試合に出るのが夢なんだけど、東大以外の野球部のレベルは高すぎてとても試合には出られないでしょ。東大野球部だったら、死に物狂いで練習すればなんとかなると思うんだ。どうです、いいアイディアだと思いませんか。浪人はできないし」真剣な顔でいう。
 「受験勉強はどうするんだ、東大の入試問題を解いてみたか」彼が見せてくれたのは、高校入試向けの漢字の書き取り練習帳。
 「入試問題は見てないけど、余裕ですよ」と自信満々である。僕は言葉を失ってしまった。
 行政のTopから議員、自治体首長に至るまで、根拠のない「全能」感に浸っているとしか思えない。すがりついている唯一の藁は、当選したということだけである。当選とは全権委任だと思い込んで、反論しよう者なら「じゃ、落選させたらいい」という。
 幼稚でなければ持てない政治的な全能感を戒能通孝は、徹底的に戒めている。しかし議員が幼稚で、戒能通孝のいうことを理解できていない。子どもの幼稚さと違って、権力を持った者の幼稚さは始末が悪い。
  学校が校則を作るときも、これに類似した「全能」感に犯されている。政府や教委への抵抗が不能であるほど、生徒に向けた言動は、愚かな自信に満ちるのである。


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