指導者は自己否定的であることによってその目的を達し得る

皆がプロミンを注射してもらえるまではと、
注射の希望を申し出ることはしなかった
 ハンセン病特効薬・プロミン獲得の功労者は、土田義雄をおいてない。しかし彼は表に出ることをよしとしなかった。
 土田は1914年東京市生まれ。慶応大学中退。1935年徴兵、翌年3月軽度癩を発病したが軽快退所して1939年はじめ連隊に復帰、戦闘中八路軍の捕虜になった。そのとき、八路軍が階級の別なく寝食をともにし、厳しい軍律のもとでそれぞれの能力に応じて役割を果す姿に驚嘆したという。野坂参三にも出会ったらしい。
 どういう経路で全生園に戻ったかはわからないが、土田の元に園内の若い理論家たちが集い「博友会」を結成して、百家争鳴の時代風潮を形成した。1947年には多磨全生会会長の渡辺城山を訪ね、入園者の困窮救済を話し合い「生活擁護同盟」を結成している。
  「あたかも革命のようだった」と言われる10日間は、←クリック この「生活擁護同盟」による自治と民主化を求めた大会の事である。

 1948年2月、土田は最初の患者自治会会長に選出されたが、執行部の揉め事から、3ヶ月足らずで総辞職。1948年10月、鈴木寅雄を委員長にプロミン獲得促進委員会が発足したとき、湯川を副委員長にと鈴木に推薦したのは土田だった。この頃の土田は、かなり病状を悪化させていたが、皆がプロミンを注射してもらえるまではと、注射の希望を申し出ることはしなかった。当時はヤミでプロミンを売っており、湯川もそれを注射をしてもらった。土田が金には困っていないのを知って湯川は、ついでに買ってこようと待ちかけたが断られた。
 土田のこのような高潔な人柄は、誰からも好感を持たれ、共産党を心底嫌っていた園長の林芳信までが誉めていた。湯川は西田哲学に心酔していたが、土田との交流を深めるうちに共産主義に魅力を感じ、共産党に入党している。後年土田の人柄について尋ねられた時「泰山の安きに置く」の譬えを持ち出し、どこかにいてもらえれば安心だったと言っている。
 プロミン獲得闘争のあと、多磨全生園患者自治会は全国組織の結成を提案し、1950年5月には「全国癩療養所患者協議会」の結成を、それはさらに1953年の「らい予防法闘争」における全患協の活動へとつながった。このように、プロミン獲得促進委員会の活動は、全患協の闘う組織としての自信になっている。
 1950年5月29日、土田は急逝した。死亡診断書には、直接死因肺結核、継続期間三カ年とある。享年35。短い間に、良いしきたりをいくつも残し、反対派にも惜しまれた。
 「指導者はそのリーダーシップを安定させるために、それを制度化することを求める。それが制度化されると共に組織の自動性が生じ、かくして"指導者"というものは影を没するようになる。指導者は自己否定的であることによってその目的を達し得るのである」 三木清
 絶対隔雅の、管理統制に逆らって患者の真の自治を求め先駆けた土田義雄は、自己否定的という点でも希有の指導者であった。

  「皆がプロミンを注射してもらえるまではと、注射の希望を申し出ることはしなかった」土田の姿勢が、人権感覚であり、金や地位を利用して自己の有利をはかるのが、特権意識である。白木屋秘書であった慶応ボーイのクラシック音楽愛好者に、八路軍が与えた精神的衝撃の深さを思う。

9条が、「律儀で真面目な」蛮行を抑止している

25年もの間、決して屈しなかった民族解放闘争勝利の瞬間の言葉は
怒りや憎悪が抑制されているが故にカ強く美しく荘厳とさえ言える。
座って顔を上げているのが、ズオン・バン・ミン。

 「私たちはあなた方を待っていました。われわれの全ての権力を譲り渡すために。」 
 「あなた方はわれわれ解放軍に委譲すべき権力は何も持っていません。すでに南ベトナム全土におけるすべての権力はわれわれの手にあるのです。」
  前者はかつての南ベトナム大統領ズオン・バン・ミン、後者は解放軍司令官である。
  1975年4月30日、南ベトナム解放軍が、サイゴンに入城した時、新旧勢力の間で取り交わされた会話である。このセリフは、アジア人の誇りと自恃を回復して世界史に残る名言となるだろう。1973年3月29日、米軍が敗退して2年。1950年8月20日、米国がサイゴンに軍事顧問団を送りこんでから25年もの間、この民族は決して屈しなかったのである。
 民族解放勝利の瞬間の言葉は、怒りや憎悪が抑制されているが故にカ強く美しく荘厳とさえ言える。
  B-52が爆弾を満載して嘉手納から往復するのを許してしまった我々、分けても沖縄の民衆の喜びと感動は、筆舌に尽くせない。

  しかし、苦い思い出と重い障害や傷跡に苦しまねばならぬ国もある。先ず米国、この超大国が爆撃、殺戮したのはベトナムだけではない。 そして韓国は、南ベトナムに64年から73年までベトナム中部を中心に延べ32万5517人を派兵。医療部隊から始まったが、猛虎、白馬、青竜と、勇ましい名前の部隊が次々と送られ、アメリカに次ぐ規模。全斗煥、盧泰愚の両元大統領はかつて猛虎師団、白馬師団の指揮官であった。兵士以外にも、軍関係の仕事で出稼ぎした人も少なくないという。
  韓国軍は「朝鮮戦争の際に『自由諸国』が韓国に援助してくれた『恩返し』のため」という公的名目を掲げ、米国の「傭兵」として「まじめに」働いた。「「まじめ」に戦い、「まじめ」に殺した韓国軍戦闘部隊は、ベトナムに上陸後、数々の過ちを生んだ。

  1966年1月2日小さな村で悲劇は起きた。韓国軍は朝7時頃、フーイエン省ドンホア県ホアヒエップナム社ブンタウ村に奇襲攻撃を仕掛けた。
 グエン・ティ・マンさん(68)の証言である。
   「あのころ、ブンタウ村の住民は50人余でした。そのうち37人が、あっという間に殺されたのです。男たちは捕まれば殺されると思い、真っ先に村から逃げました。まさか婦女や子供には手を出さないと思っていたら、韓国兵は残っている村人を一カ所に集めて、ひとりずつ撃ち殺していったのです」
  ブンタウ村の虐殺は韓国軍が駐留を始めて十日も経っていなかった。
 さらに66年5月14日、ブンタウ村西のソムソイ村でも韓国軍による虐殺事件が起きた。当時9歳だったファム・ディン・タオさんは集落から百㍍ほど離れた場所で牛の放牧をしていたときに、虐殺の様子を目の当たりにした。
  「午前10時頃のことでした。韓国兵は不意を突いたかのように、あらゆる場所から村に突入しました。陸からはもちろん、ヘリからも。おそらく兵隊は300人以上いたと思います。そのとき、私と父以外のすべての村民42人が殺されました。私の家族や親戚17人も含まれています」
目に大粒の涙を浮かべたタオさん。
 「私は突然の出来事に驚いて、畦道を走って逃げました。逃げている時に、畦道で破裂した擲弾銃の破片を顔や足に被弾しました。そのショックで意識を失ったのです。気が付くと、村の近くの病院で韓国軍に拘束されていました」
    意識が戻ったタオさんに対して韓国軍の通訳が「共産党の基地を教えろ」と何度も尋問する。しかし、タオさんは「子供だから知らない」と言い張ったという。
 「当時、子供ながらに韓国軍がソムソイ村でしたことを許せませんでした。釈放された数年後、私は韓国兵を皆殺しにしてやろうと思い、南ベトナム解放民族戦線の少年遊撃兵になりました。でも、その後しばらくして米軍に捕まりました。この顔の傷は韓国兵が発射した擲弾銃の破片の傷と、米軍に捕らわれたときの拷問でできた傷。つまり、生涯背負わなければならない『恨み』の傷です」 
  フーイエン省では韓国軍による虐殺地域が省内のあちこちに点在している。2年にわたる聞き取り調査で「フーイエン省の歴史書」を編纂したフーイエン新聞のファン・タン・ビン編集長の証言
「韓国軍は66年から68年にかけて、北はビンディン省境にあるクーモン峠から南のカー峠の海側全域に駐留し、フーイエン省の至るところで1563人を虐殺しました。そのほとんどが婦女や子供、老人などの罪もない民間人です」
   「虐殺をした村での韓国軍の行動は、とても正気の沙汰とは思えません。婦女を輪姦し、乳房をナイフで切ったあと、女性器を銃剣でかき回し、殺害した。乳児の足を持ち、カエルの股裂きのように裂いた。一人の韓国兵が持つ銃剣に、輪投げのように子供を投げ落として殺害したなど、耳を疑うような証言をいくつも聞きました」
  「百人のベトコンを逃がしても一人の民間人を保護せよ」。ベトナム戦争中、初代駐越韓国軍最高司令官は「至上命令」を出し、看板もあちこちに立てられたが、命令に従った韓国兵は、ごくわずかだった。

  韓国軍はフーイエン省の北に接するビンディン省でも虐殺を行った。66年2月から3月にかけて起きた、ビンディン省タイソン県の韓国軍によるベトナム最大の虐殺事件。村全体で1925戸の住宅が破壊され、1004人の命が奪われた。中でも3月17日の「ゴザイの虐殺」は凄まじい。わずか2時間足らずで集落の住民380人を虐殺した。
 現在、ビンアン社にある韓国軍による虐殺慰霊廟の片隅に、「ゴザイの虐殺」慰霊碑がある。
   ゴザイ集落で、腕や足に銃弾や手榴弾の破片の傷を負いながらも奇跡的に命を取り留めたグエン・タン・ランさんが、当時の様子を語っている。

 「百人以上の韓国兵が村に押し入ってきたのは、朝食を取ろうとしている時だったと記憶しています。各家から引きずり出された村人は一カ所に集められました。そして、村人の中から年ごろの娘を見つけた韓国兵が、娘の長い髪を引っ張って集団から引き離し、皆の目の前で輪姦を始めたのです。数人の兵士が順に事を済ませると、娘は容赦なく撃ち殺されました。その惨劇を見て発狂した村人らが韓国兵に襲い掛かろうとすると、次々に撃ち殺されていきました」

   韓国軍による無差別殺戮はこれらにとどまらない。クアンガイ省のソンティン県などや、クアンナム省フォンニャット村・フォンニ村、ハミ村など、さらにカインホア省やダクラク省、ニントゥアン省でも無抵抗の民間人虐殺があった。韓国軍による大量虐殺は1万人から3万人にも及ぶ。

 亀山 旭「ベトナム戦争―サイゴン・ソウル・東京―」 岩波新書
 村山康文 『韓国はベトナムで何を為したのか』 別冊正論23号
   北岡俊明・北岡正敏『韓国の大量虐殺事件を告発する ベトナム戦争「参戦韓国軍」の真実』展転社  などから引用・参照した。


  軍隊による直接の虐殺・虐待ばかりではない。
   「ライダイハンのための正義」という団体が 英国にある。「Lai」はベトナム語で「混血」、「Đại Hàn」は大韓。 韓国軍兵士が、13~14歳の少女を含む現地のベトナム女性数千人に性的暴行を加え生まれた混血児を指し、5000~3万人に上る。韓国軍兵士の性的暴行に遭った女性たちの過酷な人生を、訴え告発している。2001年には当時の金大中大統領がベトナムを訪れ、謝罪し、補償を約束したが、賠償はほとんど行われていない。

 「『恩返し』のため」「まじめに」働いた結果が、こうであることに学ばねばならない。
 「アジア解放のため」「まじめに」闘っていたつもりの大日本帝国「皇」軍には、パタナリズムという驕りがあった。アジアの「兄」として遅れた国々を指導する「天命」を背負ったつもりになった。結果2000万人にも及ぶ虐殺・略奪・強姦・破壊を繰り返したのである。

 日本がベトナムに派兵しなかったのは、西ドイツのように理性的判断に基づいて米国の要請を病院船の派遣に読み替えたからではない。←クリック 憲法が戦争を禁じていたからである。
  もし、日本がベトナムに戦力介入していたら、トヨタもホンダもパナソニックも今のようには売れないだろう。特にアジア・アフリカ・中南米には。



江戸以来の都市と農村を共生する理想的方式を、何で簡単にやめてしまったのか

 イリイチは、メキシコ地震があった直後、日本に立ち寄っている。1985年9月19日、M8.0 震源から300km離れたメキシコシティでの被害が大きかった。死者1万人。
 慌ただしい滞在で、質疑に僅か45分くらいしか時間がなかった。彼はどうしても一つだけ意見が聞きたいと言う。その時のことを、宮本憲一が「現代思想」2015年3月臨時増刊号で対談している。
 「都留さんや宇沢さん、私も会場にいました。それで、イリイチが何を言ったかというと、日本はなぜ溜め込みの便所をやめたのか、何で下水道にしてしまったのか・・・ 
 イリイチが言うには、メキシコの地震のときに一番困ったのは、地震で下水道がやられてしまって伝染病が大変流行ったことだそうです。むしろ、郊外にあった貧困者の住宅は屎尿溜め込み便所で、その地域は無事であった、と。完全循環方式から言うと、溜め込んだ屎尿を肥料にするという日本の江戸期以来の都市と農村を共生する方式が理想的で、その理想を何で簡単にやめてしまったのか聞きたいと言われました。それで困ってしまってね。 
・・・ これは確かに考えさせられる質問でした。 下水道をつくると公共事業の補助金が出る。生活基盤の社食資本では最も大きな補助金です。それを獲得すれば政治家には大きな功績になる。そうすると、全然必要のない農村部で下水道がつくられるようになる。しかし、農村部などの広い土地で、点々と住宅があるところに下水道をつくるにはものすごくお金がかかり、・・・ 
 もっと簡単な簡易浄化槽もあるわけです。 農村部地方財政の赤字の大きな原因は下水道会計なのです。例えば、沖縄の離島なんかでも赤字になっている最大の原因は下水道をつくってしまったことです。そういう意味では、確かに完全循環方式に合うような、もっと別な方式を近代化のなかで編み出さなければいけない。 
 イリイチの言う通り、画一的になぜ国土の隅々まで下水道をつくる必要があったのかということです。確かにこれまでの溜め込み式便所は臭くて非衛生的だったという問題はあるのですが、それは今ではかなり簡単に技術的に解決できるのです。 
 私は長野県の山荘をつくったときに溜め込み方式でやってみたのですが、全然臭くなく、水をほとんど使わない衛生的方式ができています。屎尿を二年くらい溜め込んだら処理に来てくれるのです。それで結構うまくいく。それなのに、農村部で彪大な投資と、毎日大量の水とエネルギーを使って、長いパイプと下水処理場をつくるのは、イリイチの言う通り近代の技術と画一的な補助金制度が持っている欠陥であるというところがあると思います」

 適切かつ安価な、イリイチが理想的とまで言う、伝統技術があるにも拘わらす、それを捨てたのである。(捨てた経過については、当blog「違式註違(いしきかいい)条例」参照)←クリック 捨てておいて費用のかさむ、危険な技術を取り入れたのだ。ダムも高速道路も、わざわざ費用の嵩む方を選ぶ。赤字は増税や利用料の値上げで埋め合わせる。国民の財布に無断で手を突っ込む無神経さがある。

  僕は、大規模な学校建築、体育館、プールも同じ問題を抱えていると思う。メキシコ革命のビリャ将軍が、街中に空き地や空き家を見かけるたびに小さな学校を作ったのは、先見の明があったと言うべき。市民が窓から教室の子どもや授業をのぞけることは、教育の主体がどこにあるかにも対応している。全ての学校にプールと体育館があるのは、日本だけだと思う。共同利用なら、浮いた予算は他に回すことが出来る。日本に不足している地域スポーツクラブの拠点を、公的に整備出来るし、中高のクラブ顧問の時間外労働地獄にも対応の可能性が出てくる。

「前へならへ」「気をつけ」「礼」は明らかに悪い

 バターン死の行進について、こう言う見解がある。
 「自分たちでさえろくに食べられないでいた日本軍に、いきなりその統制下に入った8万の捕虜に十分な食糧を与えられる余裕があるはずはないし、ましてこれだけの人数を運ぶトラックやガソリンも持っていなかった。食うや食わずでひたすら歩くのが日本軍の常であったため、これを虐待だとは思わなかった」   若槻泰雄 『日本の戦争責任』
 僕はそうは思わない。勝てば投降した捕虜を国際法に基づいて扱わねばならない。それが出来ないのなら、勝つ方策なしに兵隊を送り出していたことになる。その見通しなしに作戦を指揮したのであれば、その罪万死に値するのだ。戦争を指導する資格はないのである。投降した捕虜に頭を下げて、釈放しなければならない。
 経営者が「オレだって借金だらけでろくに喰ってないんだ、みんなやっている」と言いながら、違法な低賃金や残業でこき使うのと同じだ。それを会社が潰れても良いのかと居直る者も増殖している。
 「前へならへ」が恐ろしいのは、こういう事態を量産するからである。学校で、学徒出陣式で「前へならへ」をしたまま戦場に。前の兵隊の背中ばかりを見て、食料強奪や強姦が日常になり、気がついたら、捕虜を刺し殺し、気がついたら「白骨街道」に横たわっていた。
  
  ヌーやカモシカの蹄の間には、粘性の匂いを分泌する蹄間腺がある。縄張りの確認にもなる。歩けば地面に匂いを残すから、ヌーのように遠い距離を集団で移動するときには、頭を地面近くに垂れて先行するものの匂いを頼りに歩くのである。先頭以外は判断する必要はない。先頭も習慣や惰性から自由にはなれない。行く手を遮る川に橋が架けられても、川に飛び込んで溺れる。  
 「前へならへ」「気をつけ」「礼」に続く学校生活で我々は、社会的「蹄間腺」を刷り込む。それを「社会性」と強弁する。 
 「前へならへ」が好きなら、食堂や駅で並んでいるときに勝手に大声を張り上げてやれ。「気をつけ」「礼」が必要と思うなら、順番が来たとき毅然と一人でやったら良いだろう。止めない、だが他人に強制するな。

   大雪、雪掻きをする。小学生も中学生も出てこない、高校生や大学生はもちろん出てこない。去年も一昨年もそうだった。評価に結びつかぬことには見向きもしない。強制的ボランティア教育の見事な成果である。震災のようにマスコミが騒げば動く、政府が指図すれば動く、動員されれば動く。自分で判断せずに指図にだけ反応する。
   翌日雪が止んで、僅かに人が出てくる。校庭やグランドで野球やサッカーをやっていた連中は、雪の日に何をしているのだろうか。ほうぼうの雪掻きをして歩かないのか。スポーツする若者が年寄りやは親に雪をかかせて、本人は炬燵でゲームに興じる。そして「健全な魂は健全な肉体に・・・」を座右の銘にする。  

 僕はあと30年位は待とうと思う。大雪が降って街が困っているとき、「自分の判断で」遅刻や欠席して、お年寄りの雪かきや屋根の雪下ろしを手伝う中学生や高校生が続出するのを。夏の暑い朝、草むしりする人を見かけて思わず助けているうちに遅刻してしまう少年がでるのを。そう期待して検索するが、出てくるのは、部活で、生徒会で、クラスで教師に言われて皆で「奉仕」したというものだけ。それもえらく少ない。誰にも言われず「自分の決意」で、欠席して皆勤賞を逃したり推薦入学も取り消されたりするから気持ちもいい、それを「ボランティア」と言うんだ。上から命じられたり、行事になっているからやるものではない。
  皆がやるから、上が言うからなら家畜や昔の兵隊と変わらない。「一人でも」「不利は覚悟で」かってでる。そうでなければ、市民的不服従も革命もない。公民権運動も、アパルトヘイト反対運動もない。先ず「たった一人の小さな決意」が大切なんだ。皆が不正や犯罪行為を、誰かの指示で、時にはそれが国家の意向であることも少なくない、やろうとしているとき、自分一人の意思で、先ず「僕はやらない」と決意することが大切なんだ。皆が疑問を持たずにやる強姦や処刑や略奪に「そんなことはやめよう」と言う、集団自決や玉砕に水を差す。袋叩きになるだろうがいつかは止む。
 そんな若者がすこし多くなれば、きっと素敵な社会になる。教室がゴミだらけになって、長い間誰も掃除しなくなったとき「ゴミをさらってゆく風になりたいなー」と歌いながら、箒を握った高校生を思い出す。

大会の10日間は、あたかも革命のようだった

 光田健輔らが、絶滅隔離に抵抗する患者を弾圧するため
強圧的な監獄が必要だとして建てたのが「特別病室」重監房。
1951年その光田に、日本の行政は文化勲章を与えている、
患者たちの闘争をあざ笑うが如く。
 敗戦とともに、群馬県草津粟生楽泉園にも色々な人達がやってきた。先ず隔離に批判的な米軍軍医中佐がやって来て患者に支援を約束、しかし何も起らなかった。
 続いて高松宮が背広のまま予定経路を無視して患者宅や重監房を視察、やはり何も起らなかった。
 その次が選挙遊説の共産党。参議院議員補欠選挙(1947年8月)が始まっていた。遊説隊は入所者が排水溝普請の重労働に従事しているのを見て 
 「君たちは患者だろう、なんでこんな仕事をしているのかね」と驚き、強制労働や重監房の存在を知る。
   その夜には懇談会が開かれ、職員の不正や重監房の実態が次々と訴えられた。これを機に患者たちは立ちあがり、生活擁護運動が始まる。彼らには楽泉園17年事件の経験がある、行動は力強く素早かった。
   患者大会を開催、扶助金の支給・強制労働の廃止・不良職員の追放を掲げた「要求書」を可決、重監房での虐待・虐殺や保育所での児童虐待の実態が暴かれた。職員組合も結成され、職員・医師からの情報・証言も得た。同時に草津町中心の湯畑で「伏魔殿楽泉園真相発表会」を開催、千人以上を集め町民や浴客の怒りと涙を組織、園当局・厚生省を狼狽させている。
 『上毛新聞』『毎日新聞』なども相次いで報道して、世論を喚起。8月末には第一回国会が重監房を取り上げ調査団を派遣、調査の様子はニュース映画でも放映され、国民に強い衝撃を与え重監房は廃止された。しかし、92人を監禁、22人も殺したこの事件で、誰ひとり拉致監禁罪にも殺人罪にも問われなかった。「虐待による死亡事実はないと信ずる」と虐殺を隠蔽した古見嘉一園長が休職、「警察と厚生省の許可を受け承認を得てやっている」と居直った加島、庶務課長、炊事主任、粟生保育所保母は懲戒免職。その他関係職員は転勤。全て行政処分に過ぎない。

 東京の多磨全生園では日中戦争から帰還した土田義雄を中心に、1947年春、生活擁護同盟が結成される。自治と民主化を求めた九月九日からの大会中10日間は、あたかも革命のようだったと『倶会一処』は表現する。その革命前夜の全生園で開かれた粟生楽泉園闘争報告集会を、15歳の谺雄二少年が見ていた。
 「熱気がすごかったですよ。・‥山本俊五さんという共産党員が立ったらね、職員席に座っていた園長がね、 
 「君は、どこから入ってきた!」 ほら、…面会人っていうかたちを取らないで、…垣根の隙間を越させて、裏門のほうから人らした。
 園長はそれを知ってるわけ。もう、イライラしてるわけだ、林園長は。で、
 「君は、どつから来た!」って、一喝した。そうしたら、山本俊五さんがふりかえって、
 「あなたは誰です?どなたですか?」って聞いた。
   「わしは、ここの園長じゃ」つったら、
 「園長が、そんなとこで、座ってていいのかぁ!おまえは公務員だろお!降りてこい!」って。いやぁ、わたし、ビックリしたや園長が怒られるなんていうのは、見たことなかったから。それで、園長が帰っちやった」

 この集会には、清瀬の結核療養所患者や東村山町立化成小学校教員ら18名も垣根を抜けて参加していた。孤立しているのは園当局であった。たちまち職員の態度が目に見えて変わった。「園長が、そんなとこで、座ってていいのかぁ!おまえは公務員だろお!降りてこい」の叫び声は、園長が天皇の臣下として患者に君臨する立場から、主権者である患者に奉仕する公僕となったことを、職員と患者に宣言したのである。
 患者が選挙権を獲得してからは、政治家も入所者を強く意識、少なくとも無視出来なくなる。社会党、共産党は園内事情に目を向け組織者を派遣し始める。新憲法の公布・施行も重なり、患者たちは一気に政治に目覚めた。
                                            拙著『患者教師・子供たち・絶滅隔離』地歴社に加筆
  
  情報が伝えられ共有されて仲間意識が形成され、闘争が始まり革命となる。 それ故、情報を広める可能性のあるものを、ハンセン病療養所は「追放」し、愛知県教委は三校以上の高校生の交流を禁じたのである。
   「1947年、自治と民主化を求めた9月9日からの大会中10日間は、あたかも革命の如き様相を呈し」敗戦後の旧制中学、設立当初の新制高校でも自治と民主化を追求し自己を解放する日々が始まった、筈だった。
  だがどうしたことか、程なくして停滞し始める。何故なのか、それは、追放されるべき者たちが行政の中心に居座っていたからである。革命的変化の時期、(敗戦はまさにその時だった)、にはかっては弾圧を受けて辛酸を嘗めた者が行政の中心にいて汗を流すのである。それが徹底的に欠けていたのが敗戦後の日本、そして現在の日本である。

体罰は言語道断、臆病武士の仕業である

  江戸中期の兵学者大道寺友山は、細井平洲・林子平と並ぶ当時の第一級の知識人だが、それぞれ体罰の是非を論じている。中でも大道寺友山は『武道初心集』で、体罰を「臆病武士の仕業」と激しく非難している。
「武士は、わが妻女の身の上に心にかなわない事が生じたら、道理を説明してよく納得するように教え、少々のことならば許し、堪忍するのが良い。しかし、もともと気だてが悪く、結局役にたたないと思うほどならば、一思いに暇を出し、親元へ返すのが良い。しかしそのようにせず、わが女房と定め、奥様・かみきまと人にも言わせている者に対し、高声をあげ、種々悪口雑言に及ぶのは、街中のやとい人足の類では、仕方がないとしても、騎馬にも乗る武士の決して行うべき事ではない。まして、腰刀などをひねくり廻し、あるいは握り拳の一つもあてるなどということは、言語道断のことで、臆病武士の仕業である・・・総じて、自分に手向いのできない相手とみて理不尽のやり方に及ぶようなことは、「猛き武士」は決してしないものである。「猛き武士」が嫌ってしない事を好んでする者を臆病者と言うのである」        江森一郎『体罰の社会史』新曜社
 江村北海の『授業編』は教育論であるが、このなかで、彼は教育上の体罰は「好まない」という言い方をしている。
 「書を授けるのに、父兄の膝もとへ引きつけて厳格に授け、覚えない時は呵ったり、あるいは打ち叩いたりするのは、悪い教え方と言うわけではないが、私はそういうやり方は好まない。その訳は、小児はつまるところ、いまだ弁えがないので、書を読むことは難儀なことと思っても、読まないと父兄に叱られることが恐ろしいために、しかたなく読むということになって、その本心では書籍を厭うようになり、これが学業不成就の根となる。大いに良くない事である」

  相撲界の暴力とその隠蔽も一向に衰えない。横綱の土俵入りには太刀持ちがついているのは、自らを「士」と定義し触れ回るためである。臆病者たちに片手では受け取れぬほどの賞金を掛け、持て囃す風潮を、大道寺友山は憮然として顔を背けるだろう。 
 学校の体罰は、生徒が温和しいのに乗じて遠慮がない。江村北海なら、現代の学校が「書籍を厭い・・・学業不成就」を強いる有様に仰天するに違いない。
 角界も日本の学校も、極めつきの業績主義である。日本の企業も、人を業績だけで判断するようになった。だからパワハラと試験データ改竄が止まない。大学すらアカハラと論文偽造。学ぶことを嫌にする工夫に、わざわざ精を出しているかの如き惨状である。
 体罰を嫌う教師も生徒も、業績主義の学校をボイコットしないのが、僕には解せない。いったい何のために学ぶのか。生徒も教師も、意思がない、意思がなくなるのを依存という。何に依存してよいのか判断したくないから、偏差値に頼る。究極の依存である。この国の経済政策も外交政策も確固たる方針を持てない、その力量がない。だから「業績」主義なのである。原爆もこの国にとっては業績なのだ。

地球上で人間を最も多く殺害しているのは何者か

1位 蚊  72万5000人(マラリア、デング熱、黄熱病、脳炎)
2位 人間 47万5000人
3位 蛇  5万人
4位 犬  2万5000人(狂犬病)
5位 ツェツェバエ 1万人
6位 アサシンバグ (サシガメ科)1万人
7位 淡水巻貝(淡水カタツムリ)1万人
8位 回虫 2500人
9位 サナダムシ 2000人
10位 ワニ 1000人
狍鴞は古代中国の人を食う怪獣。洋の東西を問わず人は怪物を想像した
しかし、人間以上に恐ろしい怪物はないことに気づくのである。
  だそうだ。ビル・ゲイツのサイト「The Deadliest Animal in the World」にある。ビル・ゲイツらしい欺瞞がある。
 先ず、第2位は米政府と武器商人と書く必要がある。特定の国の人間が武器で殺しているのである。素手で殺しているのではない。武器を売るために武力紛争が画策されているのだ。紛争さえ起こせば、ブリキ細工のようなおもちゃ同然の武器が、どんなに故障しようとも、他国に売れた値段の三倍であろうと売れる。

  抜け落ちているものも多い。
  例えば2015/10/19 世界保健機関(WHO)によれば2013年の世界の交通事故死者は約125万人。1位の蚊を遙かに上まわっている。13年の人口10万人当たりの交通事故死者数は世界全体で17.5人。地域別で最も多かったのはアフリカの26.6人で、WHOは中低所得国には世界全体の自動車の54%しかないのに交通事故死者の9割が集中していると指摘。だが、問うべきは車の生産だ。年に1000万台を生産しているトヨタには大きな責任がある。日本での交通事故死報道は、国内の数ばかりが取り上げられる。

 2015年世界で、700万人が喫煙が原因で死亡、更に断トツの第1位である。受動喫煙だけでも89万人が死亡、これだけで世界の経済損失は155兆円にも上る。

 公害が原因で死亡したのは、約900万人と、英医学誌The Lancetが発表している。大気汚染で約650万人、2番目は水質汚染で約180万人、3番目は「有害物質と発がん性物質への暴露を合わせた含めた職場の汚染」で約80万人と推定している。交通事故死数も喫煙による死亡数も上まわっている。「先進」国はとぼけているが、産業廃棄物を排出する工場と、自分の国では使えなくなった中古機械を低賃金と環境規制の緩さを狙って輸出して再利用しているのは、先進国である。利益も多国籍企業に帰している。

 統計は常に疑う必要がある。ビル・ゲイツは企業による殺人を避けている。いや、戦争も今や企業による殺人ビジネスである。その企業の全てが彼の顧客である。企業による殺人行為は、我々がまともな判断に至る知性を優先しさえすれば、零に出来るのである。
 2位の人間の企業活動による死者は単純加算で1861万5千人になる。蚊の72万5000人を遙かに上まわっている。
   2015 年の世界の全死者数は5640 万人。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...