日本には全員加盟制学生自治会や生徒会があり、会費は学校がまとめて徴収する。こんな手厚い保護を青少年組織に保証する国はどこにもない。ソビエトさえ任意加盟を崩せなかった。フランスの高校生は、いくつかの「全学連」の機関紙を買うことで、それぞれの支持を表明する。だからこそ、フランスの全学連各派は主張を明白にしつつ、常に共同行動をとれるのである。日本の青少年は、完璧な制度に眠り転け決意する時はない。制度を困難の最中から立ち上げ、自力で工夫運営する経験が永久になさそうだ。分割隔離されたまま、監視制御され続ける。
従って、日本の学生が「生活賃金運動」を起こす気配はあり得ない。「生活賃金運動」を必要としているのは、構内の清掃などの労働者ばかりではない。日本の大学では、教員までが自立した生活を営めない非正規労働者化しているのだ。
高校生が過酷で無意味な入試制度や冷酷な雇用政策を巡って、政府と対決することも考えられない。高校生が数十万のデモを組織することもあり得ない。学生自治会や生徒会という制度は完備しているが、自立した自治がないのだ。
九条があっても米軍が駐留し空母やミサイルを持つ自衛隊がある。憲法があっても、九十九条を政府が最高裁が教師が無視する。この不可思議な現象の根底には、何があるのだろうか。
「自由には義務が・・・」と言う学生は少なくない。自由と自由権について思考することもないのか。スト権ストという不思議な闘争形態があったのか知ることもないだろう。
憲法教育の盲点である。
なぜ彼らは自由を義務で裏打ちしたがるのだろうか。自由が自由権でなく、権力者達の特権であった頃の想像から抜け出せないからではないか。それは特権者がいつまでも自由の排他的独占に酔いしれているからだ。彼らは自由は好きだが、自由権が嫌いなのだ。劣った者に人権としての自由を承認したくない。
多分、特権者や権力者に管理される二次的特権の心地よさは堪らなさを感じている。むき出しの自由は、どっちを向いても怖いから。庇護された帰属意識的感覚が、名門校の世界観にはつきまとっているという偏見が僕にはある。
「学校は出会いね」と言い切った生徒がいる。彼女は感傷的な意味を込めてそう言ったのではない。教育してやろうとする僕らを諌めるかのように。視点をずらすことをすすめるヘーゲルのように。出会いは、互いの異質性の認識と関係であり時には危険でもあることを言ったのだ。一方的指導関係ではなく、対等な対決であることを言葉によって示すのだ。
小さな違いが大きな違い。ここに、ややこしい事態を打開する手掛かりがある。「出会いとは、関係であり対決でもある、一方的指導ではなく、対等であることを言葉によって示す」必要がある。
日本の組織は予定調和を好んで、問題を直視する事を避ける。弱い側が我慢することで対立がなかったかのように、双方が振る舞う。大戦の戦争犯罪の法廷を国民の手で開けず、一億総懺悔に流れるのだ。いつまでも責任を追及すれば、非国民扱いされてしまう。同調しない者は常に敵なのだ。
人は、誰もが異質であり対立する利害があるという事実から出発しなければならない。仲の良いことではなく、憎み合う関係の中に、成長の芽を見出し尊厳の発見に至る道が開ける。恋愛が反発の中から生まれるように。
予定調和は、強者の極楽であり弱者少数者の地獄でしかない。しかし企業も学校も住宅地も互いに細かく隔離されて、互いの違いの中身と謂われを見つめ合うことすらないのだ。従ってその中に潜む矛盾を捉えることも、分析することも対策に知恵を出し合うこともない。偏差値による選別体制は、社会を停滞に追い込み、古い勢力を温存してしまう。社会の近代化を阻害する巨大な壁である。
教員も宗教者も集団化すれば、堕落する
「迷悟一如」。迷いと悟りはひとつのことだ、と道元は言った。そして、迷うのも悟りの一つであり、悟るのもまた迷いの一つなのだと。だから,迷いと悟りはまったく同じものなのた、というのである。
日本宗教界の戦争責任についての声明は、滅法遅かった。大方は50 年以上たってからのことだ。なんという迷いだ。 戦争被害者面して、50年以上も沈黙を守ったのは、もはや迷いとは言えない。悟りの境地か。これを「迷悟一如」と言いたい。
それでも例えば、道元の曹洞宗は1992年「懺謝文」を出して 「曹洞宗が一九八〇年に出版した『曹洞宗海外開教伝道史』が、過去の過ちに対して反省を欠いたまま発刊され、しかも同書の本文中において過去の過ちを肯定したのみならず、時には美化し賛嘆して表現し、被害を受けたアジア地域の人々の痛みになんら配慮するところがなかった。かかる出版が歴史を語る形で、しかも過去の亡霊のごとき、そして近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観を肯定するような視点で執筆し出版したことを恥と感じる」と言い切って、「悟り」の境地を見せた。
だが、辺野古に教団は姿を見せない。宗教者個人は来ている。情勢が転じれば、たちまち「迷悟一如」だ。集団化して駄目になるのは、教員も宗教者も同じだ。パルチザンが形成されないわけだ。
「毅然とした指導」という言葉が呪いのように、学校を駆け巡った時期がある。70年代都立高校で、服装規制が「基本的生活習慣」の確立を旗印に流行り始めた頃だ。これを主導する教員の多くが、自らを「民主的」と強く自認していた。あたかも乱世に生きる禅僧のように、悟り切り自信に満ち胸を張って職場を仕切っていた。しかしその中身は、多数決による「管理強化」にすぎなかった。
「外見の自由は基本的人権であり、個人に属する。特定の高校に属することを理由に一律に奪うことは出来ない、名門校や難関校だけが自由服として残れば、服装は特権になるのではないか」大学を出て間もない僕は、彼らに噛み付いた。
直ちに反論された。「今の生徒たちの基本的生活習慣の乱れは目に余る、何らかの規制がなければ秩序が保てない。緊急避難だ」大学で共に活動した教員仲間にも同じことを言い出す者があり、中にはこともあろうに「特別権力関係論」をもち出す者まであった。とても正気の沙汰とは思えなかった。
全国的に高校が荒れ、特に工業高校の荒廃の凄まじさが、マスコミを賑わさない日は希だった。工高に赴任してまもなく退職する若い教師も少なくなかった。「荒れ」現象の凄まじさ惑わされて、実態や本質をつかめない不安が教師の中にあった。「基本的生活習慣」という言葉が、すべてを説明し混迷する事態を解決する呪いのように思えたのだ。
だが実態不明の「基本的生活習慣」が、なぜ服装如きで身に付くのか。何一つ自力で具体的に思考したものではなかった。
「学校が毅然として一致して生徒に迫るためには、目に見える目安が必要、心の乱れは服装の乱れとして現れる」と支離滅裂なことだけが罷り通った。
ではいつになれば解除するのかと僕は食い下がった。「4・5年」という。自由を奪われたまま卒業する生徒たちが続出するのではないかと切り返すと「 2・3年」と言った。
こうして学校は、生徒の外見に気を取られ、授業の充実から逃避し始めた。教研に集まる教師の「実践レポート」から授業に関するものが目立って減り始めたのである。
もうあれから50年弱。一体どこの学校が服装や頭髪などの規制を解除したのか。これは迷いか悟りか。ただの無知蒙昧の結果としての過ちか。生徒の生活の乱れを規制しているつもりが、いつの間にか教師の内面を権力が規制し始めても、抵抗を自粛する有様だ。そして、九条に関心を持ち行動する高校生も大学生も若い労働者も減っている。
管理強化が生徒と学校のためになるのか、という疑問や不安はどの教師にもあったのだと思う。だから高生研の合宿や指導の手引き書が流行った。「迷い」が教師の学習を促し、「悟り」を注入した。しかし自ら悟る事は少しも出来なかった。「生活の乱れる」生徒への言葉は、冷静さを欠くものになり体罰を伴うようになったからだ。
教員は起立・礼や前へならへに中毒している。それが無ければ不安で禁断症状も出る。そんなに「前へならへ」が好きなら、食堂や駅で勝手に大声を張り上げて一人でやればいいではないかといつも思う。「気をつけ」「起立・礼」が必要と思うなら、家庭や銭湯で、一人で毅然としてやったら良いだろう。君が代が素晴らしいと考えるなら、自宅でカラオケで原っぱで、思う存分歌え。止めないよ、だが他人に強制するな。迷いを隠すために、人は毅然を装う。
大雪が降れば雪掻きをする。だが元気な小学生も中学生は出てこない、体力の有り余る高校生や大学生も出てこない。スコップを握るのは、足もとの覚束ない年寄りと長時間労働の疲れが溜まる中年ばかりだ。去年も一昨年もその前もそうだった。評価に結びつかぬことには見向きもしない、強制的ボランティア教育の見事な成果である。震災のようにマスコミが騒げば動く、政府が指図すれば動く、動員されれば動く。自分で判断せずに指図にだけ反応する。なるほど「迷い」はない。
校庭やグランドで野球やサッカーをやっていた健康な連中は、雪の日に何をしているのだろうか。あちらこちらの雪掻きをして歩かないのか。大会目指してスポーツする若者が、年寄りや親に雪をかかせて、本人は炬燵でゲームに興じる。そして「健全な魂は健全な肉体に・・・」を座右の銘にする。なるほど、迷いがない。校庭や体育館では、立ち止まってお辞儀する。なるほど、悟りの境地か。絶対にデモにはゆかない、絶対迷いはない。
日本宗教界の戦争責任についての声明は、滅法遅かった。大方は50 年以上たってからのことだ。なんという迷いだ。 戦争被害者面して、50年以上も沈黙を守ったのは、もはや迷いとは言えない。悟りの境地か。これを「迷悟一如」と言いたい。
それでも例えば、道元の曹洞宗は1992年「懺謝文」を出して 「曹洞宗が一九八〇年に出版した『曹洞宗海外開教伝道史』が、過去の過ちに対して反省を欠いたまま発刊され、しかも同書の本文中において過去の過ちを肯定したのみならず、時には美化し賛嘆して表現し、被害を受けたアジア地域の人々の痛みになんら配慮するところがなかった。かかる出版が歴史を語る形で、しかも過去の亡霊のごとき、そして近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観を肯定するような視点で執筆し出版したことを恥と感じる」と言い切って、「悟り」の境地を見せた。
だが、辺野古に教団は姿を見せない。宗教者個人は来ている。情勢が転じれば、たちまち「迷悟一如」だ。集団化して駄目になるのは、教員も宗教者も同じだ。パルチザンが形成されないわけだ。
「毅然とした指導」という言葉が呪いのように、学校を駆け巡った時期がある。70年代都立高校で、服装規制が「基本的生活習慣」の確立を旗印に流行り始めた頃だ。これを主導する教員の多くが、自らを「民主的」と強く自認していた。あたかも乱世に生きる禅僧のように、悟り切り自信に満ち胸を張って職場を仕切っていた。しかしその中身は、多数決による「管理強化」にすぎなかった。
「外見の自由は基本的人権であり、個人に属する。特定の高校に属することを理由に一律に奪うことは出来ない、名門校や難関校だけが自由服として残れば、服装は特権になるのではないか」大学を出て間もない僕は、彼らに噛み付いた。
直ちに反論された。「今の生徒たちの基本的生活習慣の乱れは目に余る、何らかの規制がなければ秩序が保てない。緊急避難だ」大学で共に活動した教員仲間にも同じことを言い出す者があり、中にはこともあろうに「特別権力関係論」をもち出す者まであった。とても正気の沙汰とは思えなかった。
全国的に高校が荒れ、特に工業高校の荒廃の凄まじさが、マスコミを賑わさない日は希だった。工高に赴任してまもなく退職する若い教師も少なくなかった。「荒れ」現象の凄まじさ惑わされて、実態や本質をつかめない不安が教師の中にあった。「基本的生活習慣」という言葉が、すべてを説明し混迷する事態を解決する呪いのように思えたのだ。
だが実態不明の「基本的生活習慣」が、なぜ服装如きで身に付くのか。何一つ自力で具体的に思考したものではなかった。
「学校が毅然として一致して生徒に迫るためには、目に見える目安が必要、心の乱れは服装の乱れとして現れる」と支離滅裂なことだけが罷り通った。
ではいつになれば解除するのかと僕は食い下がった。「4・5年」という。自由を奪われたまま卒業する生徒たちが続出するのではないかと切り返すと「 2・3年」と言った。
こうして学校は、生徒の外見に気を取られ、授業の充実から逃避し始めた。教研に集まる教師の「実践レポート」から授業に関するものが目立って減り始めたのである。
もうあれから50年弱。一体どこの学校が服装や頭髪などの規制を解除したのか。これは迷いか悟りか。ただの無知蒙昧の結果としての過ちか。生徒の生活の乱れを規制しているつもりが、いつの間にか教師の内面を権力が規制し始めても、抵抗を自粛する有様だ。そして、九条に関心を持ち行動する高校生も大学生も若い労働者も減っている。
管理強化が生徒と学校のためになるのか、という疑問や不安はどの教師にもあったのだと思う。だから高生研の合宿や指導の手引き書が流行った。「迷い」が教師の学習を促し、「悟り」を注入した。しかし自ら悟る事は少しも出来なかった。「生活の乱れる」生徒への言葉は、冷静さを欠くものになり体罰を伴うようになったからだ。
教員は起立・礼や前へならへに中毒している。それが無ければ不安で禁断症状も出る。そんなに「前へならへ」が好きなら、食堂や駅で勝手に大声を張り上げて一人でやればいいではないかといつも思う。「気をつけ」「起立・礼」が必要と思うなら、家庭や銭湯で、一人で毅然としてやったら良いだろう。君が代が素晴らしいと考えるなら、自宅でカラオケで原っぱで、思う存分歌え。止めないよ、だが他人に強制するな。迷いを隠すために、人は毅然を装う。
大雪が降れば雪掻きをする。だが元気な小学生も中学生は出てこない、体力の有り余る高校生や大学生も出てこない。スコップを握るのは、足もとの覚束ない年寄りと長時間労働の疲れが溜まる中年ばかりだ。去年も一昨年もその前もそうだった。評価に結びつかぬことには見向きもしない、強制的ボランティア教育の見事な成果である。震災のようにマスコミが騒げば動く、政府が指図すれば動く、動員されれば動く。自分で判断せずに指図にだけ反応する。なるほど「迷い」はない。
校庭やグランドで野球やサッカーをやっていた健康な連中は、雪の日に何をしているのだろうか。あちらこちらの雪掻きをして歩かないのか。大会目指してスポーツする若者が、年寄りや親に雪をかかせて、本人は炬燵でゲームに興じる。そして「健全な魂は健全な肉体に・・・」を座右の銘にする。なるほど、迷いがない。校庭や体育館では、立ち止まってお辞儀する。なるほど、悟りの境地か。絶対にデモにはゆかない、絶対迷いはない。
文人も教師も調子を合わせるべきではない
![]() |
| 文人は調子を合わせることのできないものでもある |
ただ、文人は調子を合わせるべきではないと言いたいだけである。そして、文人は調子を合わせることのできないものでもある。調子を合せることのできるのは、とりもち役だけだ。しかしまた、この調子を合わせないということは、決して廻避することではない。ただ是とする所を歌い、愛する所を頒え、そして非とする所、憎む所のものにかかり合わない。彼は是とする所のものを熱烈に主張するのと同じように、非とする所のものを熱烈に攻撃し、愛する所のものを熱烈に抱擁するのと同じように、憎む所のものを更に熱烈に抱擁しなければならない。あたかもヘラクレスが巨人アンタイオスを、その肋骨をへし折るために、かたく抱きしめたように。 魯迅「二たび「文人相軽んず」を論ず」
文人も教師も、人に指針を示すことを期待される。指針が情勢や政権を忖度していては、指針としての価値はない。文人が「調子を合わせるべきではない」なら、教師はもっとそうであり、そもそも「調子を合わせることのできないものでもある」と言うべきである。なぜなら文人が大人を相手にするのに対して、教師は少年を教え導く事で食っているからだ。指導要領が変わるたびに、調子を合わせ注釈書を読まずにいられないのは、少年たちを導くための自前の羅針盤がないと言うことだ。
そんな者は、ただの伝声管になればいい。伝声管には自分の主張も意見も要らない、ただ言われたとおりに伝えればいい。ある校長は、「私は行政の末端です」と胸を張った。僕は聞き間違えかと思った。「私は行政の末端です」といい、打ち萎れるなら筋が通る。続けて「上から、授業を禁じられている」と言ったのには文字通り開いた口が閉まらなかった。それ以前にも似た事を言う管理職はいたが、恥ずかしげに言ったものだ。彼は堂々と胸を張ったのである。
かつて裁判官は、裁判所長をボーイ長と呼び蔑んでいた。裁判に専念できず雑務に翻弄される立場は、まさにホテルや船のボーイ長。政権に忖度して所長になる裁判官を誰が尊敬するか。裁判官は法の番人であって、政権の「とりもち役」ではない。
若い時には、授業や生徒との関わりに夢を描いていた教師も、夢破れて授業は行き詰まり生徒や保護者との関係も閉塞する。事務に逃げ込み校長と呼ばれるのは、彼には救いなのかも知れない。
とりもち役になることが自慢すべき事に当たるという神経は、「中央との太いパイプ役」と自分を売り込む地方議員にはもともとあった。しかし恥ずかしい生き方である。学校では校長が退職するたびに、○○先生を囲む会が作られる。これは、教委など業界への「とりもち役」を退職校長に期待しているからである。親戚や同窓生には顔が立ち、時期が来れば勲章が待っているのだ。
少年たちの成長のために「是とする所のものを熱烈に主張するのと同じように、非とする所のものを熱烈に攻撃」しなければ、生きた教師ではない、なんのとりえもない物質=伝声管に過ぎない。「立ってください」「口を開けなさい」「これは職務命令です」と言うのを誇らしく感じる人間がいるのだと言うことを知って情けなくなった。伝声管に過ぎないのに、その声の主の代理人になった気の幼稚な夢想家である。江戸時代にも、将軍や藩主の書き付けに頭を下げさせ「上意」と叫ぶ者があった。それを真似て得意になれる神経を嗤う。
古在由重「わたしの先生たち」
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| 党派を裏切るか友だちを裏切るか、二つに一つ |
「わしがわかるか」という声に、すぐ「中村先生じゃないですか」とこたえた。「そうじゃよ」という返事。「ああ、やっぱりそうですね。奥さんもお丈夫ですか」。「妻(さい)も元気じゃ」という言葉が返ってきた。ほんのしばらくの立ち話によって、三十年あまり昔の小学校時代のこの先生も、いまは教師をやめて千葉県の市川で歯医者をしているとのことだった。その途端に、おたしは主催者の側から急に別室に呼び出されて、「それでは、いずれゆっくり」といったままわかれてしまった。まったくうっかりというほかないが、正確に住所すらたずねるのも忘れて。ただ、「君も苦労したのう」という身にしむねぎらいの言葉が耳に残っている。おもえば、これが最後の再会となった。
村の小学校の・・・六年生のわたし(わたしたち)がその魅力に全身ひきつけられたこと、当時はまだめずらしかった女教師のひとりとの恋愛によって双方が首を切られ、これに抗議したわたしたち六年生が三日間ほどの授業放棄をしたことだけをつけくわえておく。「妻(さい)」というのはそのときの女の先生である。この中村常蔵先生は、なみなみならぬ硬骨漢だった。わたしとしては、「人生は努力じゃ」ということを先生の実生活と教室での話から胸にたたきこまれた。あの暗黒の時代のわたしのことについても、気にかけて承知しておられた様子だったのに。
幾何学の秋山武太郎先生。京北中学の三年生になったとき、この先生によってわたしは幾何学と数学一般に異常な興味をおぼえ、日曜日などにはたびたび先生の家をたずねた。いまおもえば、旧制中学の三、四年生のときに、すでにかなり高級なことを教室で教えられ、ときにはカジョーリの英語の数学史のページをめって、少年パスカルが円錐曲線についての定理を発見したときの、父のおどろきの光景を読みあげた。「ザ・ファーザー・ウォズ・サープライズド」という先生の音声などはいまでも耳にのこっている。そのほかフォイエルバハの九点円の定理、円に外接する六角形の対角線が一点に会するというブリアンションの定理なども、記憶にあざやかである。 「民主主義教育」1980年冬号
人が学校の思い出に式や行事の涙を書くのが、僕には不快である。特に教師や文化人がそう書くのをみると身の毛がよだつ。
古在由重は、小学校の中村先生の硬骨漢ぶりと旧制中学の秋山先生の授業を書いている。印象深かっただけではなく、哲学者古在由重の生き方に強い影響をもたらしている。
僕は行事と式が、小学校入学から嫌いだった。準備は手伝っても当日はサボった。日常が浮き上がった雰囲気が軽薄に感じられたのだ。だから中学校以後、自分の卒業式に出た事はない。結婚式もやらなかった。賞の授与式にも行かなかった。式という式はできる限り回避した。その分自分の日常を楽しみたかった。
式や行事が感動的であればあるほど個人の尊厳が、集団に埋め込まれるような不快感が漂うのだ。仮令小さくとも独立した全体である個人が、大きく感動的な行事や式の部分となることに僕は組みしたくない。どんなに運営が「民主的」であっても、歯車となって筋書き通りに動く自分自身を体験したくはない。
中村先生の硬骨漢ぶりと秋山先生の鮮やかな授業は、古在由重少年の日常と人格に影響して、彼の尊厳を揺籃している。日常とは、ここでは時代の空気に忖度せず節を曲げない生き方であり、興味溢れる学びの時空である。たとえそれが後の暗い時代の過酷な運命に繋がっていたとしても。
だから中村先生は、暗い時代の古在由重を思い「君も苦労したのう」と身にしむねぎらいの声をかけることが出来たのだ。「君も」には、中村先生の「苦労」が下敷きになって万感の思いが込められている。誰もが言え、誰もの身にしむ台詞ではない。
中村先生の授業のどこにも「アクチブ」な装いはない。国家や民族の軛を越えた定理の美しさを淡々と教えて、中身が濃く充実している。こうして感動は、一人の独立した教師とと、自立した若者の間に形成され、時に応じて思い出されるのである。
世界大恐慌の1929年、古在由重は東大総長の次男であり政治的に無色なことを買われて「思想善導」の教官として東京女子大で「倫理学」を教える事になる。
この頃、優秀な青年たちが大学でマルクス主義を知り実践に飛び込んでいた。文部省は、対策として旧制高校や大学に「思想善導」の教官と講義を置いた。哲学倫理を正しく教育すれば、学生がアカになるのを防げると権力は考えた。
皮肉な事に、古在由重は吉田先生譲りの頑固で善良な教育者であったが故に、講義を受けたモップル(国際赤色救援会)の女学生のオルグに共感し、「理論と実践の統一」へと人生の決断をする。ここには、定理や理論の美しさを少年古在由重にたたき込んだ秋山先生の薫陶も見える。
世間は、東大総長の息子がアカになったと色めき立った。新聞沙汰の大事件となり、1933年に逮捕されている。
これが、「君も苦労したのう」の一言に込められているのである。
感動的な行事と式は、所詮人工の産物である。そこに時代に抗して闘う個人の出会いが作る、深みは生まれない。
学校から行事とその膨大な準備を追放するだけで、学校の抱える諸問題は大方軽くなる。部活を軽く柔らく短くすれば、少年たちは社会に興味を持ち始めるに違いない。
追記 モップル(国際赤色救援会)は、このとき資本主義諸国の個人会員129万人、団体会員202万人。ソ連支部の会員823万人。会員の42%は非党員であったと言われている。現在の日本国民救援会。この組織以前の日本には、解放運動犠牲者救援会があった。
増え続ける「多数派・派」がヘイトスピーチや自発的従属を生む
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| 鶴橋大虐殺を叫ぶ女子中学生の動画から |
スペイン人たちのインディアスに於ける虐殺があまりにも凄絶なので、金・銀強奪が目当てなのだということが霞む程だ。植民地における富の略奪の内実を、ガレアーノは無数の例を引いて語る。
驚くべきは、インディアスからスペイン人が奪った金・銀はスペイン王国を潤すことはなかったという報告。当時のスペインはバブルに浮かれていたが、実際は莫大な負債がヨーロッパ各国にあり、インディアス強奪した金・銀はその返済にまわったのだ。その「三分の一近くはオランダ人とフランドル人の手にあり、四分の一はフランス人が握り、ジェノヴァ人が20%、イギリス人が10%、ドイツ人が10%弱を牛耳っていた」
イエズス会とスペイン軍は、祖国にさえ恩恵をもたらしていない。負債を返却するために大量虐殺と窃盗に励んだのだ。金銀の工芸品も跡形を残さず、全て鋳つぶして負債の支払いに充てたのである。
インディオ虐殺も桁が外れている。インディオのせいでスペイン人一人が死ねば、それは大抵正当防衛であったが、インディオ100名を殺害するとの掟をもうけ、その決まりに従って秩序正しく殺戮を実行した。100万を越える人口が数百人に激減したり絶滅したりは、日常茶飯事の正義となった。インディオの神殿を打ち壊した石材はイエズス会の教会に使われ、インディアスは人命も、労働も、文化も、つまり歴史の全てを抹殺されたのである。そんな修道士や兵士が聖人や英雄と呼ばれ、勲章と爵位の山を築いた。修道士たちの中には、ラス・カサスのように「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を教皇宛てに書き告発した者もあったが、教皇は報告を棚晒しにしてしまう。
「上司から会社のためにはなるが、自分の良心に反する手段で仕事を進めるように指示されました。このときあなたはどのように行動しますか」
これは日本生産性本部が、毎年新入社員に実施する調査の一項目である。
2018 2017 2016 男 女
1.指示の通り行動する 36.8 39.2 45.2 40.1 29.5
2.指示に従わない 14.4 13.1 10.6 14.5 14.2
3.わからない 48.8 47.7 44.2 45.4 56.3
2016年度が「自分の良心に反」していても指示の通り行動する新入社員のピークであった。日本の集団では「わからない」は、多数に流されるということだから9割が、「従う」のである。そうでなければ、昇降口で洗髪させるなどと言う常軌を逸した頭髪指導が罷り通る訳がない。非正規労働者に対する冷酷さが放置され続ける訳がない。ヘイトスビーチを繰り返す議員が当選する筈はない、沖縄米軍基地を擁護する政権の無理無体が通る筈がない。
反対する者を罵り押し黙らせるのは、判断保留の多さなのだ。自身の選択は放棄して、常に多数に付こうとする「わからない」の連中を、僕は「多数派・派」と呼ぶ。戦争に敗北した途端、民主主義者に変身して少年たちの怒りと軽蔑の対象になったのは、この「多数派・派」なのだ。状況が厳しくなると、急激に増える。
良心に反しても「指示の通り行動する」割合が減少し「指示に従わない」が増えているとしても、「わからない」の多数派・派は増え続けて、自発的従属へとなだれ込む。報道や学者も労組活動家や学生まで卑屈にするは、この自発的従属である。
ラス・カサスの時代と異なって現代は宗教による支配からも、軍隊による強制からも自由な筈だが、このざまだ。
鈴木 2013年夏、・・・日本外国特派員協会に呼ばれたんですよ。日本の排外主義のデモについて話しました。外国人の記者がいっぱい来ていたんですが、その中でびっくりしたのが、あるアメリカ人記者の質問です。
「3・11以降、世界中が日本に同情し、尊敬していた。ところが、今年二月、大阪・鶴橋で行なわれたヘイトスピーチの集まりでの女子中学生の発言が、世界中の日本に対する見方を変えた」と言うんです。「それ以来、日本に批判的になった」と。
そのときまで僕はその中学生の発言を知らなかったんです。特派員協会での会見のあと映像を見ました。
坂本 僕も見ました。ひどいものですね。
鈴木 女子中学生が拡声器で
「鶴橋にいる在日の人たちが憎いです。みんな殺したいです。南京大虐殺があったんだから、鶴橋大虐殺をやります。それが嫌だったら、日本から出てってください」ということを言ぅ。普通だったら、誰かが止めるじゃないですか。それを止めないで、周りにいる人たちは「やれやれ」みたいな感じで。僕たちが「日本ではこれは例外的だ」と思っても、世界に流れたら、事実なんです。
坂本 龍一/鈴木 邦男対談 『愛国者の憂鬱』金曜日(2014)
「止めないで、周りにいる人たちは「やれやれ」みたいな感じ」それが、多数派・派の機能である。ラス・カサスやイエズス会修道士たちも、軍隊の狼藉は止めないで「やれやれ」と傍観していた。そればかりではない、軍隊と植民者たちが入り込み支配しやすいように、事前の宣撫工作に励むのが彼らの任務だった。
だから、僕は生徒会活動や学級活動が「多数決」形成に流れ、政治教育が模擬投票ごっこに溺れるを正視出来ない。教師が「多数派・派」に逃げ込めば、少年が明晰な決意や行動をする「恐れ」は小さくなる。それが政権の狙いでもある。
エドゥアルド・ウヘス・ガレアーノもホセ・ムヒカも「多数派・派」から最も遠い位置にいた。
追記 女子中学生がヘイトスピーチする動画は、youtubeにもある。警官隊が彼女を守っているのも印象的だ。
「第一線の研究者」とは何か / 批評は誰が誰にすべきか
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| 斎藤喜博は校長になっても教室に押しかけ授業した 生徒の批評は辛らつであったが、それが喜博の楽しみだった |
「学者は様式論です。・・・あんたら理屈言うてなはれ。仕事はわしや。・・・学者は学者同士喧嘩させとけ。こっちはこっちの思うようにする・・・結局は大工の造った後の者を系統的に並べて学問としてるだけのことで、大工の弟子以下ということです」(「木のこころ・仏のこころ」春秋社)
自分で鋸や鉋を握って建物を作ったこともない者が、千年の経験を蓄積した棟梁を差し置いてものを言うのに西岡常一は我慢がならなかった。
青少年を相手にろくな授業をしたことのない学者や、生徒と教室から逃走した者が「研究者」顔して、「大工の弟子以下」の講評をたれるのを「現場の教師」たちはどうして有り難く拝聴するのか。何故、「現場」の鬼になって噛み付かないのか。
「・・・○×科教育学会に行ってきました。一線の研究者に自分の授業を批判してもらえるのは、よい機会でした・・・」若い教師からの便りにあった。仮に彼をT君と呼ぼう。
T君によれば、小中高教員言うところの「一線の研究者」すなわち大学教員は、学校で教える教師を「現場の教師」と言うらしい。自分たち大学研究者を「一線」と自認しておいて、それとは異なる「現場」で教える教師があると言うわけだ。
第一線とは、つまりfrontである。では一体何に対して前線なのか。全ての教育関係者にとって、frontは日常の教室でなければならない。それは国民の教育権の主体が、先ず何を置いても生徒自身であることから自明のことだ。だとしたら、「現場」から離れた研究者こそその論考を、「現場」教師から批評されねばならぬ。しかしそうなら、研究室はなぜ問題が長年にわたって多発する学校にないのだ。なるほど教員養成系の大学は、多くの付属校を擁している。しかしどこに偏差値の底辺に位置する付属校を抱える大学があるか。
そんなことを試みたのは、林竹二だけだ。だが個人であって、組織ではないから持続性はない。○×△☆科教育学会が、独自に困難高の中に、研究室を置こうとした気配すらない。一線とは、問題を抱えた学校から「遠く離れている」とういことに過ぎないのか。有能な一線の研究者が、自ら望んで底辺高に赴任して戻らないという話もない。それどころか、論文や研究発表好きの「現場」教師たちは、ことあるごとに問題を抱えた学校から離れて「栄転」するのだ。まるで逆転防止装置付きのネジ回しのようだ。
もし本当の「一線の研究者」が実在するならば、自分の研究に対する「現場教師」に批評を乞い、困難と烙印される現象のただ中に身を置くに違いない。かつて島小の校長斎藤喜博は授業中の教室に入り、求めて「僕ならこうやる」と授業をやって見せたという。生徒たちが「校長先生の方がわかりにくい」と言うことも屡々だったという。それを楽しんでこそ「第一線の研究者」である
問題を抱えた底辺から「遠く離れ」てネクタイを締め革の鞄を抱えるのが「一線の研究者」ならば、問題に翻弄されて過労気味の「現場教師」は、土人と言うことになる。そんな現場教師は、論文を書く暇も、学会に出る暇もない。日々消耗するのだが、磨きをかければ玉のような輝きに満ちた体験、第一線の研究者が思いもよらないような体験を内に秘めている。秘めていて本人は気付きもしない。そこに「第一線」の研究者は、足繁く通い詰めなければならないのに、そっぽを向いて去って行く。
選別体制の極まった日本の教育を総体的に捉えるためには、付属学校や教委の指導重点校など粒のきれいにそろった集団を相手にして埒があくわけがない。
生活にも学力にも問題を抱えた多様な生徒が内部矛盾を引き起こし、それを自ら克服する過程にこそ「アクチブ」な教育のヒントがある。
もし第一線が「学会」での論文数や発表実績による地位や評価を意味するとすれば、例えば医学のfrontは病床や手術室にはないことになる。なるほど「白い巨頭」で描かれた教授回診が横行すれば、frontは教授会ボスにある。しかし現実の病床や手術室、そこには絶えず生死をかけた問いが渦巻き、定石や権威が通用しない、何が起きるか予測がつかない、緊張がある。町医者がそこに目を向けないで、「一線」の権威の批評を有り難がるとしたら患者は去る。権威の後ろに付いて歩く医者に信頼は置けない。
教員が第一線の研究者の言葉を有難く拝聴するとしたら、それは教師が「第一線の研究者」の後ろに並んでいると言うことだ。研究者の前や横や後ろには、文科省や教委の肝煎りがいるかも知れない。
教室が怖くて校長室に逃げ込んだ管理職も、定年退職して大学に迎えられれば「現場での経験を買われてその地位に就いた」と紹介されるから厄介である。しかしここでは「現場」と言う言葉は、授業も生徒も怖かった素性を糊塗する隠れ蓑として機能するのである。二重に「現場」を愚弄している。
T先生、「一線」の研究者に君の教室で授業をさせ、批評してやるといい。何人が手を上げるだろうか。うち何人がT先生の勤務校を聴いても手を上げたままだろうか。返事は聴かずとも分かる。先ずこう言うのだ。「イヤー先生たちの苦労には平素敬意を抱いております」と持ち上げておいて、そして「とても私のような非力な人間に出来る仕事ではありません」と逃げるのである。
この問題にどうしても欠かせない厄介がある。それは、「教科教育法」という分野の人気のなさである。大学生で「教科教育法」に積極的に興味を持ち大学院で専攻しようとするものがあるだろうか。実に面白さに欠ける、特に社会科教育法には魅力がない。その分野に多くの現職教員や研究者が集まるのは、積極的な探求の対象として「社会科教育法」が注目を集めるのではなく、学校という現場からの逃避の手段になっているからではないか。そうでなければ、この分野の「学会」員たちの、自発的従属性を説明できない。
追記 僕の父は酒癖が悪かったが、戦後の大規模橋梁や鉄道建設の構造計算と設計には大方携わった。始まりは洞海湾をまたぐ若戸大橋だった。新幹線トンネル、駅舎、橋梁の構造計算をするとき、手回し計算機が何十台も事務所でうるさかった。トラス構造各部分にかかる力を計算するのは特に厄介で、数学の得意だった父は数値を求める近似式を作り促されて特許を取った。数学に特許があると聞いてびっくりしたものだ。この種の設計では盛んに使われ、作業を大幅に簡略化した。が、父は特許使用料を取ったことがない、取るのを潔しとしなかった。小学生だった僕は、なんて勿体ないと思ったものだ。そのせいか、父を破格の給与で雇うという巨大コンサルタントが現れ、父の事務所は大荒れに荒れた。父と数人の友人で立ち上げた事務所だ。仕事の殆どは父に来ていた。父が抜ければ事務所は潰れ、数十人が路頭に迷うかもしれない。それから数週間、毎晩事務所の社員が入れ替わり立ち替わりやってきて夜遅くまで、父に嘆願を繰り返した。お陰でうちの所得は上がらなかった。別荘・運転手付きの生活の夢は瞬く間に消えた。僕が中学生になると、父に博士号を取れと勧める人たちが現れた。その頃、父は土木学会の理事も務めて、大きな土木プロジェクトには大抵拘わって論文もたくさん書いていた。父は、それも固辞し続けた。終いには土木学会の重鎮も登場して、論文は今まで発表したものでいい。外国語による抄訳もこちらで準備すると申し出た。それでも父は首を縦に振らなかった。最期のプロジェクトは瀬戸大橋だった。
何故酒癖の悪い父は、旨い話を断ったのか長く疑問だった。だが、西岡常一の一件でようやく納得出来るようになった。父が巨大プロジェクトで接するのは、父を除けば国鉄や公団の課長たちだった。彼らの肩書きは立派だったが、仕事は父に投げられた。それが国鉄や公団の仕事となって、父の事務所に下請けに出された。実力を伴わない肩書きに怒りを持っていたのだ。父の特許を指定して、父に仕事を頼む会社もあったが、それが目の前のうらぶれた父であることを知るものはなかった。
西岡常一の生活は貧しかった。宮大工は神社仏閣以外の仕事はしないというしきたりに忠実な頑固者だったからだ。父も頑固だった。鹿児島に帰るたび、叔父や叔母がその頑固さで僕たち家族がいかに窮したかを話してくれたものだ。米を買えないどころか、税務署の差し押さえは二度もあった。電球にまで札が貼られたのを覚えている。夜逃げという言葉を4歳にならぬうちに知った。 頑固者は酒に溺れ貧乏を家族に強いるが、外から見れば世の中を痛快に見せる効用があるのかも知れない。
無政府主義は無秩序ではない。権力によらない秩序、すなわち自治である。何故、残留孤児は拾われたのか。
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| 尊厳は自と他の間に生まれる。 |
「どっちみちこの着物は誰かが剥いでいくにきまっている。俺がもっていくのが、何が悪い。俺が鬼なら、こいつの親はなんだ。てめぇ勝手が何が悪い。人間が犬を羨ましがる世の中だ。てめぇ勝手じゃなきゃ、生きていけねぇ世の中だ」と言い捨てて、赤ん坊を包んでいた物を剥いで消え去る。
雨の羅生門に、途方に暮れる僧侶と木こりと産着の赤ん坊が残る。しばらくして木こりが赤ん坊を抱き、
「うちには6人子がある。6人も7人も苦労は同じじゃ」と目を細めて言う。それを聴いて僧侶は
「ありがたいことだ。お主のおかげで、私は、人を信じていくことができそうだ」と手を合わせる。雨が上がり、木こりは宝を抱えるようにして家路につく。
僕は、中国に残された孤児たちを引き取った中国人たちを考えるとき、志村喬が演じた子だくさんの貧しい木こりを想う。下人のように身ぐるみ剥ぎ、扱き使った者もあったかも知れないとしても。
方正県の松花江沿いの村に泊まったことがある。そこでも、孤児を巡る話は聞こえてきた。
女と子どもだけで逃げ惑ったことに、悲劇の最大の要素がある。残留子女たちが共通して言うのは、「軍隊は国民を守らない」である。関東軍当局は、保護すべき満州開拓民を徴兵、ソ連に対する防壁として国境に動員して、自分たちはいち早く逃げ去ってしまった。悲劇は、戦争に伴う自然現象ではない。日本軍の作為の結果なのだ。
実に様々の動機が、孤児を貰う側にも、預ける側にも、捨てる者にもあった。
無一物の捨て子に木こりや満州の中国人が見たのは、人間の「尊厳」そのものだった。財産も家柄もない、放置すれば確実に死が襲いかかる。判断を促すのは、尊厳だけだ。
中国革命には、無政府主義の影が濃い。毛沢東にそれがあると言うばかりではない。幾たびもの長い革命を経る度に、人々は権力によらない秩序を作り上げてきたのだ。無政府主義は無秩序ではない。自治である。
江戸では孤児が出ると、長屋の大家が知恵を絞った。しかしこれは自治ではない。幕府の命令・指示が町年寄を通して降りてきたものである。指示を待ち伺いを立てる性癖からは、尊厳は導き出せない。
西安を東西に貫く大通りの夏の昼下がり、年寄りたちが突然座り込んだのに出くわしたことがある。30年も昔だ。瞬く間に交通は渋滞し、警察もやってくる。しかし、年寄りたちは動じる様子もない、小さな椅子を持ってその数は増える一方だ。僕は路線バスの真ん前でこれを見ていた。どうなるのかどうするのか、興味が湧いて暫くは高見の見物と決め込んだ。10分もしただろうか、頬杖をついて座り込みを眺めていたバス運転手が、意を決したように大型バスを歩道に乗り上げ、裏道に出て現場を大きく迂回した。驚いた。日本の路線バスは、停留所を僅かに移動させるにも数ヶ月前に申請して当局の許認可を得なければならないからだ。中国で路線バスが、迂回する場面にはよく出くわす。
数時間後用を終えて、同じ現場を歩きながら通りかかると、座り込みは依然として続いていた。警察は話を聞いてはいるが、年寄りを排除はしなかった。TVカメラもやってきていた。夕方の番組と翌朝の新聞によれば、再開発に対する異議申し立てであった。市民も鉄道のストライキに出くわした日本人のように、「迷惑だ」などとは言わない。この点では、中国の方がヨーロッパに近い。
この一件でこの国に対する僕の印象は大きく変わった。八路軍が階級を廃止した歴史的決断も、すんなりと理解できるようになった。「農民の物は針一本取ってはならない」と言う徹底した倫理性は、人間そのものへの尊厳の観念と一体である。
中国のホテルも鉄道も食堂も、実に幅広く素早い臨機応変の対応をする。上の判断をいちいち仰ぐことがない、現場・個人の判断が明確で速い。夜行列車で暗いうちにホテルに着いても、部屋の様子を確かめるとすぐに入れてくれる。すぐに風呂を浴び一眠りして、街に出て朝飯を食べて近所を一巡りしてきても、午前中だ。始め僕はてっきり午前中の使用分は一泊として請求されるとていたが、「不要」と笑顔で言う。これはどの街に行っても、最近になっても変わらない。日本の宿は、何があろうと3時にならないと入れない。時間前に着いた客がロビーに溢れてもだ。
人間そのものに尊厳を認めない。決まりが絶対であって、決定権は人間にないのだ。僕らのこの社会は、家柄や財産に、学歴に、組織に尊厳を見出す。だから茶髪を禁じるなどと言う理不尽が通るのだ。教科書をつくる権利や職員会議で採決する権利を奪われた我々は、生徒が服装や頭髪を決定する権利を奪い「憂さ」を晴らしているかのようだ。
中国社会の深くに、自治を促す無政府性の秩序がある。違いを前提とした日常的揉めごとが多発してこそ、公=publicの概念は成立する。それなくして巨大な国土と人口を維持出来ないだろう。残留日本人孤児の引き取りも、その中では、自然な流れだった。何しろ多民族国家でもある。
羅生門の木こりが生き生きとしているのは、赤ん坊と自身の尊厳を守る決定権を手放さないからである。尊厳は自と他の間に生まれる。
追記 1957年、積極的に日中国交正常化をはかる石橋湛山首相が僅か65日で退く。替わって日米安保成立を目指す岸信介が就任。日本の対中政策は一転。台湾国民政府の大陸回復支持を表明、日中関係は悪化する。1958年に集団引揚は打ち切られる。翌1959年、日本は戦時死亡宣告制度を導入。たとえ中国で生存している可能性が高い者であっても、在日親族の同意さえ得られれば、戸籍から抹消しても構わないことになった。悲劇が政府によって加速するのがこの国だ。
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