渋沢栄一は一万円札に相応しくない、ハンセン病絶滅隔離に責任がある

 1950年8月31日熊本県八代郡で、ハンセン病の父を子が猟銃で射殺、本人も自ら命を絶つという無理心中事件が起きている。当時の熊本日々新聞によれば、息子は家族7名を養っていたほか、父の病気のために結婚も就職もままならないと将来への希望を失って犯行に及んだとされている。
 1951年1月29日には、山梨県北巨摩郡で一家9人が心中している。一家は9人家族であったが、家族の一人がハンセン病であると韮崎保健所へ連絡があった。本人は再検査のために甲府市内の病院に出かけた。残りの家族は死を覚悟し遺書を連署で残した。帰宅した本人は、そのまま遺書に自身の名を加筆して一家9人全員が死んだ。
 このような事件は、戦前戦後を問わず多発した。これらは「絶対隔離政策」がなければ、起こりえないものである。事件や悲劇の責任は、この政策を煽った者にある。

ハンセン病者は誰一人隔離する必要はなかった

  『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書 (別冊) ハンセン病問題に関する被害実態調査報告』(2001年5月11日、隔離政策の違法を認めた熊本地裁判決を受け、2002年10月16日、「ハンセン病政策の歴史と実態について、科学的、歴史的に多方面から検証を行い、再発防止の提言を行う」ことを目的として検証会議を設置された。2年半に及ぶ会議の結果、「最終報告書」がまとめられた)から、隔離された入所者の証言を引用する。


  ・・・保健所の人が来て検査し菌が出ていないからと言われたが保健所員は白衣を着て来た。町内の人が見ている。つらかった。母が一緒に死のうかと言ったことがあった。「海に入って死のうか」と。「こわい」を通り越していた。  (1947 年入所 女性)                              
 小学校卒業して 3月23日、日赤で調べてもらい、わかったとたん病院中を消毒した。母親から裏の木で首を吊ってくれないかと言われた。親には、保健所から「ハンセン病の子どもは大和民族でも優秀でもない、殺しなさい、自殺させなさい、療養所に行くと都合わるいでしょ」とはっきり言われた。   (1953 年 入所 男性)


  これらの事件や証言は、ハンセン病者が永年にわたって経験した悲劇のほんの一部に過ぎない。いずれの事件や証言も戦後であることに注目したい。


 日本らい学会は、あまりにも遅い「自己批判」を出した。1995年4月22日のことである。
 ・・・らい患者、註・・・の年次推移は、1897年から1937年にいたるまでに、急速な減少・・・を示している。・・・疫学的に見たわが国のらいは、隔離とは関係なく終焉に向かっていたと言える。つまり、このような減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染源の隔離を目的に制定された「旧法」(癩予防法・1931年)も、推計学的な結果論とはいえ、敢えて立法化する必要はなかった。・・・   
 ハンセン病治療は、当初から外来治療が可能であり、ときには対応が困難とされたらい性結節性紅斑やらい性神経炎も、現在では十分管理できるようになった。・・・
 また、ハンセン病医学の現状をみると、・・・特別の感染症として扱うべき根拠はまったく存在しない。・・・
 「現行法(らい予防法)」はその立法根拠をまったく失っているから、医学的には当然廃止されなくてはならない。・・・
 隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、らいの恐怖心をあおるのを先行してしまったのは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであった。この誤りは、日本らい学会はもちろんのこと、日本医学会全体も再認識しなくてはならない
                                
 「日本らい学会」予防法検討委員会委員長としてこの「自己批判」起草に関わった国立ハンセン病資料館長の成田稔医師は、更に断言している。                                    
 はっきりといってわが国の癩対策は、予防的効果において自然減を越えたとは考えられず、癩による災いを本質的に取り除いたわけでもないから救癩でもなく、それに産業系列から生涯隔離したのでは救貧にもならない・・・・
・・・はっきりいえば、多くの患者はまさに見殺しにされていた・・・。(『日本の癩対策から何を学ぶか』明石書店) 
 

 政府が先頭に立ってらいの恐怖政策をとった。この病気が如何に恐ろしい病気であるかということを「啓発」したわけです。・・・そういう中で患者たちが炙り出されたのです。                          

 やる必要のない、やってはならない「絶対隔離」政策を煽動した一人が、渋沢栄一(東京市養育院院長)である。東京市養育院の若き光田健輔医師とともに隔離へ向けて画策扇動する。

 「これまではただ遺伝病だと思っていたらいが、実は恐るべき伝染病であって、これをこのままに放任すれば、この悪疾の勢いが盛んになって、国民に及ぼす害毒は測り知れないものがある」渋沢栄一(山本俊一『日本らい史』東大出版会)  
 「ハンセン病患者を外来患者として病院が受け入れることは、ペスト患者を外来患者として受け入れることと其理に於て大差(ない)」光田健輔(東京養育院月報 59号) 


  猛毒性のペストを引き合いにした「恐るべき伝染病」という誇張は、資金集めと偏見助長の格好の標語となった。言葉の偽造は、我々を真実の発見から遠ざけ、実態や本質を隠蔽する。それを専門医と財界の重鎮渋沢がやったことに恐ろしさがある。
 渋沢栄一は光田健輔に引き摺られたのだという言い方もある。逆である。渋沢栄一の力なしには、若い医者の言い分は通用しなかった。

 当時日本の政財界人や皇族の信頼厚かった東京大学お雇い外国人医師のベルツも、東大医学部皮膚科教授木下杢太郎(大田正雄)も隔離を退けている。

 東京大学の病院の大部屋で、私は20年以上にもわたって常にハンセン氏病患者を、他の患者達の間に寝かせてきた。しかし、患者も医療従事者も誰ひとりハンセン氏病に感染しなかった。潜伏期間が長いために感染の事実が立証できないだけだというよくある反論も、20年を超える時間の長さを前にしては無効である。 (
『ベルツ日本文化論集』 東海大学出版会刊)

 なぜ(ハンセン病の)病人はほかの病気をわずらう人のように、自分の家で、親兄弟や妻子の看護を受けて養生することができないのだろうか、それは強力な権威がこれを不可能だと判断するからである。人人は此病気は治療出来ないものとあきらめている。・・・然し今までは、此病を医療によって治療せしむべき十分の努力が尽くされたとは謂えないのである。殊に我が国に於ては、殆ど其方向に考慮が費されて居らなかったとい謂って可い。(大田正雄「動画「小島の春」(映画評)」『葱南雑考』東京出版)

 これらの見解を渋沢栄一が耳にしない筈はない。 光田と渋沢の執拗な煽動は、ハンセン病におどろおどろしい印象を与えて患者を好奇の目に曝し、政府はベルツの帰国を待つように「明治四十年(1907)法律第十一号・癩予防に関する件」成立させた。

 
渋沢栄一は一万円札には相応しくない。
              詳細は『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊

追記 「明治四十年(1907)法律第十一号・癩予防に関する件」法案提出者は、ハンセン病は「急劇ナル伝染病」ではなく怖くはないと隔離を退けた内務省衛生局長であり、浮浪する患者の救済を考えていたと言われる。 だが、一旦「癩予防に関する件」が成立するや「恐るべき、不治の伝染病」の言説にお上による法的根拠が与えられたと医者の口を通して急激に広がり始める。全生病院等5カ所の療養所が開設されるのは1909年。1916年患者懲戒検束権を所長に付与、1925年には衛生局長通達で浮浪癩患者以外も収容。念願の全患者隔離は、「癩予防法」「国立癩療養所患者懲戒検束規定」として1931年実現する。

夢幻能に現れた「ハンセン病」の祖母

僕は桜の下で祖母が舞う夢を見る夢をみた
   僕の家系の身近なところに「ライ」者(癩という病名には過酷な差別がまつわりついているとしてハンセン病の名称が採用された。しかし松本薫や島比呂志ら隔離を鋭く批判し続けた患者は、「癩」でなくては悲惨な現実を伝えられないと主張した)がいた気配を消せない。いたことを前提にしなければ辻褄の合わないことが山ほどあるのだ。その気配は、およそ20年前から次第に鮮明になり、資料や証言を方々に求めた。冷たくカビ臭いハンセン病図書館の床に座り込んで、彼女の消された僅かな手がかりを掘り出すのが日常になった。収容された患者は本名を捨てさせられたから名前で跡づけることは出来ない。父方の祖母である。祖母が「死んだ」時、「患者狩り」があった。その鹿児島県の患者分布を示すガリ版刷りしたボロボロの紙片に、祖母の住んでいた村の名を見つけたのは約年後だった。療養所の患者たちがつくる和歌や俳句を載せた小冊子の中に、祖母の住んだ集落名と名を組み合わせた筆名を見出したのは更に1年後。
 らい患者を隔離して絶滅させる目的でつくられた「ライ療養所」。その強制収容の発案者光田健輔は「十年で絶滅させる」と息巻いたが嘘であった。患者は刑務所囚人以下の待遇で、治療も無く収容施設内の労働に駆り立てられ命を落とした。日本にも強制収容所はあった、アウシェビッツより遙かに長く維持され。雪で凍てつく断崖の坂道を炭を背負って足を血だらけにするのが「療養所」であった。堪りかねて逃げ出せば、職員による制裁と「監房」が待っていた。特に草津「重監房」では、冬は零下数十度に凍てつき、収容された延べ93命中23名が殺されている。光田はここを特別病室と呼んだ。
 内務省は極めて伝染力の弱い「ライ」をペスト並みの怖い病気と宣伝、お陰で国中に蔓延した偏見と差別に抗する術もなく、祖父は彼女を他の病気で死んだことにし隔離収容施設に捨てた。その経過が、飛び飛びだが少しずつゆっくりと分かってきた。

 祖母は名前を奪われ、戸籍上は「死んだ」。しかし彼女に溺愛され「お母ちゃんッ子」であった僕の父は、そのことを祖父から知らされ、戦前戦後を通じて施設の近辺に学び、住み、見舞いを続けたことになる。それが祖母の「死んだことにする」条件だったのかも知れない。甘えん坊の父がそうでなければ承知しなかったのかもしれない。父は死ぬまでそのことを誰にも語っていない。僕の遠く微かな記憶の中に、祖母の見舞いに同行した光景が残っている。しかしそれは下車した駅と収容施設付近でいつも消えている。その後は父の背中か我が家で目を覚ますのだった。
 祖母は「らい」の症状がでた顔を孫に見せたくなかったのだと思う。祖母は療養所正門近くの面会所で僕を抱くことができたのだろうか。僕が小二の夏、祖母は他界したと思われる。

 それ以降父はひとが代わったように、仕事に全力を傾けるようになる。それまではどんなに好待遇で誘われとも、頑なに極貧の生活を続けた。ぼくが覚えているだけで差し押さえは三回。税務署員は電球や火鉢にまで札を貼った。夜逃げという言葉も知り、スラムに隠れ住む暗い夢に幾度もうなされた。
 生活は、一変した。僕は妹と鹿児島の祖母に預けられ、母は血を吐き結核療養所に入った。まだ結核は不治の病と見做されていた時期だ。父は福岡と東京に事務所を構え、アジア一とか日本一と呼ばれる様々な巨大構造物を設計し、傍ら数学の研究でも成果をあげていた。
 帰郷の夜行列車で、父は僕に骨壺を持たせた。「父ちゃんの友達だ、しっかり抱えているんだぞ」と言ったが、その骨壺を父は祖父の眠る墓にこっそり納めた。骨壺は祖母のものだったに違いないと僕は考えている。「死んだら故郷に」が祖母の父への遺言に違いない。僕はこの時初めて、それとは知らず祖母を抱いたのだ。


 7年前死んだ母の遺品整理中に、母が師範学校で使った地図帳が出て来た。中に二ヶ所手書きの印があり、一ヶ所が祖母を収容した「らい」療養所のある村に、もう一ヶ所は父が戦争中に朝鮮総督府鉄道局技師として歩き回った朝鮮北部山岳地帯。父と婚約していた母は、祖母の病気を知っていたのだ。遺品中に父に宛てた手紙が3通あり、困難を覚悟して結婚を心待ちにする内容であった。困難とは祖母の病ならば、母方の祖父母もそれを知っていたことになる。
 都合の悪い事実はかき消され、祖母は人々の記憶から消えた。僕の祖母の記憶は予め奪われたが、僅かな手掛かりが残ってていた。

 夢幻能の主人公のように、祖母が夢に現れた事がある。満開の桜の下で小学入学直前の僕の名を呼ぶ。「あな嬉しや、こんにった孫が吾が与えしランドセルを背負い来るという、嬉しや、嬉しや」と面をつけて舞う、母方の祖母と一緒に。そしてこの夢を見ている僕自身が「全生園」の桜の根元でうたたねしてているという二重の夢。夢の中の僕は「先生、先生、お待たせしました、お好きな酒を捜すのに手間取りました」「夢でもご覧になりましたか」とハンカチを差し出す若者たちに揺すぶり起こされるのであった。     つづく

成績の悪い生徒たちにこそ「ご褒美」

寒山拾得は仏教哲学に深く通じていたと言われる
 この国で、風狂の乞食坊主寒山拾得のような人物が愛され描かれ歌われることがありうるだろうか。一休宗純を思い浮かべるが、天皇の落胤である。日本人は人物そのものではなく、彼の家柄や来歴に関心を引き摺られてしまう。革命の歴史経験を持たない悲しさである。
 
 僕は臍も旋毛もが曲がっている。名門や閨閥の気配を感じると体全体が拒否反応をおこす。nhk大河ドラマの類は見たくない。「名門や閨閥」はなんやかんや言っても「やっぱりスゴイ」と言うのが、大河ドラマの一貫した主題であった。出演する俳優も嫌な奴に見えてしまう。
   意図して名門や閨閥を遠くに置かなければ、貧しく虐げられた者の表情は見えない、いや普通の人々さえ視界から消えてしまう。TVや雑誌を漫然と見れば、「血筋」のいい人間ばかりが意識に刻まれる。そればかりか、有名人は皆どこか「血筋」がいいと刷り込まれてしまう。
   設立の由緒や古さにおんぶしてお高くとまっている学校の周年記念誌は、いずれも見るもおぞましい構成である。明治開校以来の各界頂点に位置する卒業生の名前が、仰々しい写真付きでいきなり出てくる。例えば、○○伯爵令夫人とか×○提督令夫人という類。本人に功績があるのならまだしも、血筋=家柄だけをいうのである。女性蔑視も甚だしい、それを「男女平等」を言うべき公的学校が誇るのであるから滑稽で醜悪である。こういうところに「憲法違反」は潜むのである。いちいち尖らなければならない。
 

 人は誰も祖先の中に、大泥棒も天皇も被差別者も持つ。十数代も遡らぬうちにその時代の全ての人が祖先になる勘定だ。もっと遡れば白人も有色人も人類全てが、たった一人のおばあちゃんに辿り着くことが遺伝学的に確かめられている。
 家系図は都合のいい系列だけを選んだもの。恣意的に一つの筋を取り上げて、他を切り捨てる。切り捨てられ忘れられる者の方が圧倒的多数なのだ。都合の良い繋がりだけを「万世一系」と偽って崇めさせる。それ以外の人々はあたかも存在しなかったように、人々の記憶から抹殺される。祖先を選別し愚弄して何が祖先崇拝だ。日本には歴史修正どころか偽造の伝統がある。
 もし親や祖父母が、一族・家族の中で名門校に進んだ者やメダルを取った者だけを何時までも可愛がるとしたら、子どもや孫は愚連たくなるだろう。

  「学期末、通信簿を渡される日はほんとうにつらかった。兄も姉も妹も、みんな成績がよかった。ことにみいちゃんは負けずざらいで、一番でなければ絶対承知できなかった。ところが私はいつも中の部で、とびきりよいのはひとつもなかった。父は子供たちの成績表をみると、「一番成績の悪い子にご褒美をあげよう。一番つらい思いを我慢しているのだからね」と言った。私はまったくそのとおりだと思うと、父の心遣いにまたベソをかいてしまうのだった」
                                       長岡輝子『ご褒美は成績の悪い子に』

 女優・長岡輝子の父親は英文学者であった。そして自覚せざる教育者であった。彼のような人間を文部大臣や公選制教育委員に持てないこの国はつくづく不幸だと思う。
 成績の悪い生徒たちに、どんなご褒美を我々は準備することが出来るだろうか。←click
 目先の成果を競い、成績や素行が悪い者に罰ばかりを与えて、成績の良い子たちから隔離することだけを画策しているのではないか。愚者にも出来ることだ。だから愚か者を文科大臣にするのかと納得しそうになった。


追記 肝心なのは、成績や素行の悪い生徒が偶にいい成績を取った時に、ご褒美をあげるのではないことだ。イチローが国民栄誉賞を断った。当たり前である、彼は既に存分の「ご褒美」に浴している。全ての野球playerがイチローのようであったら、どのイチローも凡人あるいは成績の良くないplayerに過ぎない。彼が輝いて見えるのは、成績の悪い同僚の支えがあってこそなのだ。一番辛い思いをしている人たちに対する想像力を持たねばならない。これは労働者も同じである。成果を出せなくて、辛い思いを続ける人への配慮こそ管理者の役目である。

まず自らの特権を破壊しなければ、権利への「闘争」は始まらない

 土田義雄(全生園患者自治会初代委員長)が感嘆した八路軍の規律が全兵士に受け容れられなければ、八路軍自体が中国人民に受け容れられなかっただろう。全兵士に規律の徹底をはかるには、将校の特権を廃止しなければならない。権利のための闘争の第一歩は、自らの特権の廃止でなければならない。
 日本陸軍二等兵の月給が6円の時(1943年)、軍曹30円、少尉70円、少佐220円、大将550円であった。このほか将校には当番兵や送り迎えの車がついた。食料や嗜好品にも大幅な優遇があった。
 この頂点に立ったのは大元帥天皇である。皇族の誰一人戦死していない。彼らは自らの「特権」のためだけに存在した。

 「三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが新聞に出ている。これをみると、「戦争中軍閥と財閥は結託していた」というのはやはり事実のようだ。それにしてもこんな気の遠くなるような大金を贈った三菱も三菱だが、それを右から左に受けとった東条も東条だ」  渡辺清  

 東条ら軍中枢にとって「軍人勅諭」は、大元帥も遵守すべきという絶対性を欠いていた。常に自分たちだけは例外という「特権」の一つでしかなかった。 

 だから、負けて特権が消滅した途端、雨に打たれた張り子の虎よろしくへなへなと崩れたのだ。
 上陸する占領軍に向かって石ころ一つ投げた者さえない。日本人婦女子を襲う米兵に斬り込んだ者もない。まるで何もなかったかのように恩給生活に入ったのである。特権に塗れた者たちは、特権の維持だけに全精力を注ぎ込み必ず腐り果てる。
 
 ハンセン病療養所関係職員には、本給の他に24%の危険手当がついた(当初は16%だったが、患者の待遇改善そっちのけで、職員の特権だけは「改善」している)。らい予防法がもたらしたおぞましき費用である。この他にも、多くの特権があって驚天動地の不正の温床となっていたが、多すぎて書き切れない。他日整理する。
 全生園のある東村山では、条例で「らい患者と相対する職員への危険手当」を支給した。これらの手当は、危険手当が付く程の恐ろし病気という観念を職員・教師・市民に植え付け偏見を煽る効果を持っていた。同時に危険手当正当化の為には、ハンセン病は恐ろしい病気と言い続けなければならなかった。
 日本らい学会を、「らい業界」なのだと言った人がいる。的を射ている。人の不幸・絶望を利権化したのである。醜いのは病気ではない、制度である。これをおぞましいと言わずにおれるか。

 全生園に危険手当をよしとせず拒否し続けた職員があった。1985年、介護職員5名が「危険手当」への異議を申し立て、法務局に手当額を供託したのである。24%もの特権的手当を不当として放棄、職員の側から予防法に問題提起した意義は大きい。だが
次第に職員間で疎んじられ、支援も広がらず5人は退職に追い込まれた。1982年全生園自治会は東村山市に対患者危険手当撤廃要求を出している。5人の行動提起はこれを受けてのことであったのか。先覚者の孤立・苦難である。
 長い間ハンセン病療養所では、地元農家の人々が雇われ、専門家は稀であった。一家数人で園に勤めたり農業収入もあり、組合には関心が薄かった。危険手当を拒否したのはこうした地元の人ではなかった。

 日本らい学会が世界の潮流から孤立してハンセン病者の絶対隔離に固執し続けた背景には、この特権としての危険手当がある。

 全生学園患者教師・武六ニ四(6月24日に生まれて六ニ四と名付けられた)は、軍人恩給を拒否している(彼は発病前、小倉の西部防衛司令部勤務だった)。
 ハンセン病療養所では、医療費ですら一般病院の僅か1/13に過ぎず、日用品費や食費に至ってはまさに奴隷以下であった。それゆえ軍人恩給受給者はハンセン病者にとって善望の的であった。患者は若いうちから強制収容されたから、年金などを手にする者は元軍人以外になかった。

 ハンセン病には女性が少ない。若い女性患者のもとには独身男性患者が押し寄せたが、女性たちは軍人恩給受給者に押し寄せた。
 武先生は、着るものにも頓着しない質素な生活を貫き、新しいものが手に入れば惜しまず人に与えた。豊かな教養と穏やかな人格に、派遣教師たちも敬意を抱いた。数学と実験と工作がうまかった。武先生は、特権を憎んでいたのではないか。(軍人恩給を申請すれば、ハンセン病罹患の事実が地元に知られ家族に迷惑が係ることを畏れたのだとも言われる。事実先生は家族に一切連絡をしていない。諦めず八方手を尽くしていた家族は、先生の死の間際ようやく面会出来たのである)
 特権の高みにある者は、皆との平等な権利に執着できない。自らを別して高みに置くことの危うさ見苦しさを見聞きするには、戦中の軍司令部勤務に勝る経験はない。そこには特権に胡座をかく将校と特権を求めて忖度・迎合する輩が溢れていた。皆と雑魚寝して同じ粗食に耐える丸裸の知性は、存在の証明を知識の根源的批判に求める以外に無い。ここに生まれるのが矜持である。集い語り学びあえば誰もが仲間であり、出自が優劣をもたらすことはない。そこに現れるのが知識人である。

 全生学園患者教師たちの矜持に満ちた生き方やピカイチの教育実践も、土田義雄の業績と同じように取り上げられることはない。だから僕は、『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』(地歴社刊)を書かずにおれなかった。

患者教師ほど顕彰に値する人たちはない
 遅すぎるが、彼らの業績を顕彰すべきだと思う。
 新聞社の「教育賞」には、教師自身が自薦して校長会が審査するという、絶望的な構図がある。もし患者教師が生きていた頃新聞社「教育賞」があっても、自らを推薦することは絶対になかったに違いない。あらゆる栄典は、彼らハンセン病者を対象にした後初めて輝くものになる。

 逆境のなかで人知れず自尊の姿勢を崩さない者は、舞台の表面にあって浴びる脚光を反射している者とは違って、何の注意も払わずとも自動的に知覚されうるようなものではない、・・・密かに保つ精神的自立・・・隠然たる矜持・・・それらの・・・底深く隠された精神的本質に到達するには、共感と義侠心を含めたありったけの注目と眼光を・・・注ぎ込まなければならない・・・そうする時、当面の表面的世界が示す舞台装置を超えて─深みへと超えて─・・・普遍的価値が始めて姿を現すのである。 藤田省三のこの文章も患者教師の前ではなんとも力を失うではないか。なぜなら土田や患者教師たちの見せた「普遍的価値」は、いまだに「姿を現す」機会を閉ざされているからである。

   大谷藤郎は療養所課長在任中、課長室に患者を招き入れ一緒にお茶を飲み、予防法遵守の不必要性を示唆した行動的人権感覚の持ち主であった。それでも予防法廃止には踏み切れないでいた。入所者の処遇改善予算要求には、予防法の隔離条項を強調するのが便利だった。強制隔離と処遇改善は表裏一体という論理である。官僚側にも、入所者の側にもそれはあった。 しかし、表裏一体論は、官僚内部の交渉技術でしかない。内輪の手法を、主権者の人権よりも優先さる風潮は官庁街を闊歩している。権利も人権も押さえつける力は「特権」である。しかも「大谷見解」は、彼の退職後である。退職後のしかも「私的」見解という点に、この「業界」のおぞましさがある。

   日本らい学会が予防法廃止決議に踏み切り、自己批判書を公にしたのは1995年4月。 1995年7月、島比呂志は弁護士へ書簡を送り、次いで「法曹の責任」を発表、ハンセン病者の人権救済を求めたのである。「らい予防法が人権無視、存在理由のない法律だといわれ出して、どれだけの歳月を浪費してきたことだろう。その間、患者がどれほどの被害を受けてきたことか、その苦しみは無実の死刑囚にも匹敵する。・・・黙認してい法曹界は(らい予防法)存続を支持していると受け取られても仕方があるまい。・・・傍観は黙認であり、黙認は支持であり加担である」島比呂志そう言い切った。九州の弁護士たちは、たちまちのうちに137名で弁護団を結成。「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟が組織された。
 1996年、国会はらい予防法を廃止。「癩予防に関する件」制定から89年もの歳月を浪費、分教室閉鎖から17年を要したのである。だが、断種・新生児・胎児殺し・・・いずれも自然現象ではない、れっきとした犯罪である。誰一人起訴さえされていない。医師免許を返上していない。そればかりではない。 予防法が廃止されてなお、危険手当は支給され、行政の責任も明記されず、癩業界は自らの特権は死守した。
 あろうことか、ライ学会が自己批判を口にしたその舌の根も乾かぬうちに、ハンセン病学会(らい学会改め)会長高屋豪瑩弘前大学教授は「「らい予防法」の廃止は間違いである」「患者の人間性とか社会生活なんて関係ない」との見解を『東奥日報』(1996年8月31日夕刊)に投書。追求する毎日新聞記者に「もしあなたがハンセン病患者なら、私はすぐ逃げるよ」と発言、学会会長職だけを辞してことを納めようとした。この時彼は「偏見の解消は学会ではなく患者が努力すべき問題だ」とも言って恥じなかった。


追記 身近で小さなことを考えたい。例えば生徒は教師の胸元を掴んだり、座席を無断で移動しただけで退学処分だ。他方教師は生徒の顔面を殴打しても蹴っても「指導の一環」や「熱血漢」で済んでしまう。これは生徒から見れば、卑怯極まる特権以外の何物でもない。学校が若者の権利獲得・擁護の前衛であるためには、教師の特権を、管理職の特権を、教育行政官僚の特権を先ず廃止しなければならない。これを止めるのは簡単である、ただ決意して実行すれば良い。それが出来ないのは、我々教師が旧軍人たちと同じように「特権」が生徒や授業より好きなのに違いない。せめて職員室の掃除は自分たちでやろう。

全生園の桜と「革命のような10日間」と土田義雄

「革命のようなたたかい」が生んだ景観
 多磨全生園の桜並木は、患者自治会初代委員長土田義雄がプロミン獲得と併せて取り組んだ自治会事業の一つである。山桜100本、吉野桜100本、しだれ桜100本、彼岸桜50本、八重桜50本、三ツ葉楓20本、榧50本が植えられた。その後の手入れも、患者たちが農薬を用いずに手作業で受け継いできた。その労苦が、春毎に満開の桜となり人々を60年もの長きにわたって、感嘆させている。

 土田義雄が発病したのは慶大在学中、一旦軽快退所したが応召、二・二六事件に巻き込まれ中国戦線に送られる。八路軍捕虜となり、その捕虜としての経験が彼を根底から変えたのである。農民からは針一本も奪わない。提供された物資には必ず費用を払い、時間があれば農作業を手伝う。司令官も兵士も平等の規律正しい八路軍を身近に見たのである。
 婦女子を強姦し殺害、徴発と称して食料は略奪、家には放火する皇軍を経験してきた土田義雄には革命的衝撃だった。急進的民主主義者となって敗戦とともに帰国。しかしハンセン病を再発、全生園に再収容される。
 土田を迎えて全生園の若い理論家たちが集い博友会を結成、ハンセン病療養所民主化闘争を組織したのであった。
 

 土田義雄は、プロミン獲得闘争でも表面に出ず最も重要な役割を担った。重症にもかかわらず、皆が注射出来るまではと、自分のためにプロミンを要求することは無かった。財力ある患者は闇のプロミンを買ったが、土田はそれも特権であるとして拒否した。ために結核を併発して急逝、35歳であった。古い因習を壊し、良いしきたりを数多く残し、反対派からも惜しまれた。自治会・左派・組合を徹底的に嫌悪した林芳信園長すら土田には敬して一目置いた。高潔で子どもにも丁寧な挨拶を欠かさぬ物腰柔らかな人柄に若者たちが集い、政治・哲学・文学・宗教を語りあい、魅力的な活動的「知識人」が生まれた。土田は上に立って指導することはなかった。存在自体が人々に安心感を与えたという。

物腰柔らかでクラシック音楽を愛したモダンボーイでダンスの上手かった彼が逝去したのは、1960年だった。
  

 土田義雄を中心に始まった1947年9月9日からの民主化闘争の10日間はあたかも革命のようだった。その革命前夜の全生園で開かれた粟生楽泉園闘争報告集会を、15歳の少年だった谺雄二が証言している。

 熱気がすごかったですよ。・・・・山本俊五さんという共産党員が立ったらね、職員席に座っていた園長がね、「君は、どこから入ってきた!」 ほら、・・・・面会人っていうかたちを取らないで、・・・垣根の隙間を越させて、裏門のほうから入らした。〔園長は〕それを知ってるわけ。もう、イライラしてるわけだ、林園長は。で、「君は、どつから来た!」って、一喝した。そうしたら、山本俊五さんがふりかえって、「あなたは誰です?どなたですか?」って聞いた。「わしは、ここの園長じゃ」つったら、「園長が、そんなとこで、座ってていいのかぁ!おまえは公務員だろお!降りてこい!」って。いやぁ、わたし、ビックリした。園長が怒られるなんていうのは、見たことなかったから。それで、園長が帰っちやった。 『栗生楽泉園入所者証言集 上』 

  この集会には、清瀬の結核療養所患者や東村山化成小学校教諭ら18名が垣根を抜けて参加していた。孤立しているのは園当局であった。たちまち職員の態度が目に見えて変わった。「園長が、そんなとこで、座ってていいのかぁ!おまえは公務員だろお!降りてこい!」の叫び声は、園長が天皇の臣下として患者に君臨する立場から、主権者である患者に奉仕する公僕となったことを、職員と患者に宣言したのである。

 毎年4月、美しく咲き誇る桜を愛で酒を酌み交わす人々の何人が、土田義雄や谺雄二らの生涯をかけた闘いに思いを馳せるだろうか。

 この民主化闘争以来、政府も議員もハンセン病患者を無視できなくなった。選挙権を獲得したからである。今18歳19歳の若者は選挙権を獲得した。だが高校生は「園長が、そんなとこで、座ってていいのかぁ!おまえは公務員だろお!降りてこい!」に相当する言葉を発しているだろうか。若者の政治経済的課題には背を向けて、若者の政治的行動の制限ばかりを強化している政権や教委に「
おまえは公僕だろお!降りてこい!」と叫ばねばならないのではないか。なぜなら、「らい予防法」廃止には更に数十年の闘いを要したからである。

追記 土田義雄が排除して止まなかった「特権」については、書かねばならぬことが残っている。           つづく

報道は如何にして、権力の広報と化したか

ベルルスコーニもメディアを支配して長期政権を維持した
 2015年5月、日本外国特派員協会は「報道の自由推進賞」を創設してその受賞者を発表した。その中で 「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」を引用している。
  George Orwellの言葉だと言われているが、疑う声も少なくない。しかし『1984』の著者らしさを凝縮した警句として現今の日本を直撃する名言であることはまちがいではない。

 極右政治化のベルルスコーニは、大規模汚職・マフィアとの癒着・性的醜聞・議員買収・国際的失言・・・で物議を醸しイタリアの名誉を低下させたが、長期政権を維持した。これがネオリアリズムを生んだ国かと誰もが思う。
 英国のdaily.maild紙は、TVの娯楽やshow番組が人の知能に否定的影響を及ぼしているとを報じて、この疑問に一つの視点を提供した。ロンドン大学クイーン・メアリーカレッジが過去30年のイタリアの娯楽番組の拡大を調査分析した結果である。幼少から娯楽番組に慣れ親しんできたイタリア成人に認知機能テストを行ったところ、こうした番組を見なかったイタリア人に比べて5%悪い結果が出た。また年齢別ではより強い悪影響が出るのは55歳以上の人であることもわかった。


 メディアグループを所有、国内のtvの90%を支配したベルルスコーニは、tvを米国風娯楽番組とベルルスコーニ所有の広告代理店塗れにした。彼はスポーツ振興にも辣腕を振るった。そしていまだに「私の見解では、私は単に今日最高の首相であるだけではない。歴史上のあらゆる首相に比べても、私の功績は決して劣らないと感じている」と自己賛美を続けている。

   日本には、政権肝煎りのcool japan projectがnhkから民放まで占拠している。それに娯楽・買い物番組・sport中継を加えれば、1日の殆どは「人の知能に否定的影響を及ぼ」すものだらけになってしまった。まともな番組を見たければ、有料チャンネルと契約するか4k・8kテレビを買えと言うわけだ。貧乏人は、政権の圧力に屈した映像と娯楽やshow番組に洗脳される。

  例えばドイツ言論界では、cool japan風に「自分の国をほめる」という行為は、いかがわしい行為と見られる。多くの言論人、報道関係者は、cool japan風に「自分の国をほめる」記事や特集に眉を顰める。メディアの仕事は批判的な分析という合意があるからだ。「日本スゴイ」が横行するる日本の言論界とは、異質である。月刊誌も、今月は「わがほめ症候群」に罹患した。「日本スゴイ」をやれば、売れる。だが「日本スゴイ」は、自国に自信を失った証である。自国について自信がああれば、「日本スゴイ」を必要としない。

 フィンランドにはバラエティ番組はない。一番人気は討論番組で、二番目がニュース番組、三番目はドキュメンタリー番組だ。親が夕方の六時ごろに帰宅して、そういうテレビ番組を見ながら子供たちと語り合うと言う。そもそも、午後や深夜にまでtv電波を飛ばして、国民を愚民化する神経を持っていない。静かで安らぎに満ちた時空が、日本から絶滅しつつある。

 「私が若いころ、ジャーナリズムはもっとかっこいいものでした。64年、米国がベトナム戦争に介入を深めるきっかけになったトンキン湾事件が起きました
。ニューヨーク・タイムズは米政府の機密文書を入手し、事件が米軍の偽装工作だったことをスクープします。当時、同紙の幹部は社内の会議でこう言ったそうです。「これからタイムズは政府と戦う。圧力がかかり新聞も売れなくなるかもしれない。そうなったら輪転機牽一階に上げて社屋の一階を売ろう。
それでもダメなら二階も売る。輪転機を最上階の十四階まで上げることになっても戦おう」今、こんな気概があるでしょうか。問われているのはジャーナリズムも同じだと思います
」森まゆみ

 ジャーナリズムが広報に堕落したことの、根本的な部分を高校教師は負わねばならないと僕は考えている。1960年代、高校の新聞部は社研や演劇部などの言論表現活動と並んで熱心だった。生徒は政治的評論に躊躇しなかったが、教師たちはこれらの活動にいい顔はしなかった。僕は「指導」と言う語句を、この「いい顔はしない」教師たち抜きに思い浮かべることは出来ない。
 僕はそのころ、多感な高校生だった。活動的な生徒自治会やサークルが次々と、兵糧攻めで消滅していた。文部省の意向で、生徒会予算と活動に職員会議が介入したのである、文化祭の会計にも細かく目を光らせ始めた。デモにもカメラを構えた教師が付きまとった。僕たちはいくつかの高校と集まりを続けていたが、「僕たちの高校も、もう一緒にやれなくなった」と寂しく別れを告げる高校が相次いだ。話し合いが終わったあとの夕闇をトボトボと駅に向かった光景を忘れられない。
 自治的言論表現活動に代わるように、担任の「学級通信」が登場する。「学級通信」は初めから広報に過ぎなかった。派手派手しく「学級通信」集が出版され、アッという間に全国を席巻した。日刊だの夕刊だの形式だけが競われ、学校新聞消滅に拍車がかかった。

 批判的言論表現活動が消滅した高校を「学園」とは言えない。

追記 nhkの教養・報道・ドキュメンタリー番組の著しい娯楽・show化傾向は、ロンドン大学の調査結果に学んだものに違いない。民放の娯楽番組も中身と風刺の消えた見苦しいものだらけとなった。国民の愚民化の為にあらゆる方策がとられている。

  

技術改善がすすめば、診断能力は低下する

Manualは専門家のレベルを下げる
 アメリカの医療技術には致命的な欠陥、矛盾がある。診察技術「改善」がすすむ度に、医師の診断能力が低下するのだ。最も典型的なのが精神科。例えば「DSM(診断と統計のためのマニュアル(Diagnostic andStatistical Manual of Mental Disorders)=米精神医学会)を使えば新人でも診断だけはつく。しかし、長期的にはその国の診断力は低下してしまう。身体科のほうにマニュアル(総称POS=課題解決型医療、医学教育 (Problem-Oriented System)の全盛時代が来ている。POSは直面している『現象・困難』に対処しようとする『焦点整理』である。この焦点絞りをやると、それ以外の点に目がいかなくなるリスクを抱え、POSを使い慣れてしまうと現象の消失=問題解決という思考経路が定着する危険もある。POSで解決できないのは自分の責任ではないとの思いも育つ。

 例えばアプガー指数
出産直後の新生児の健康状態を表す指数、同時に判定方法は、専門外医師の発案だし素人にも使える。それは裏返すと専門医師が素人化するということでもある。学校もこの手のマニュアルの泥沼。遅刻何回、欠席何回・・・合計何点で処分a 、それが繰り返されるとb・・・という具合。教師たちは数字だけで生徒を判断するようになり、ひとり一人に向き合わなくなる。新しい授業技術が開発普及しても、同じことが繰り返される。開発されマニュアルが印刷され普及したときには、新しい「想定外」が起きている。想定外に対応できるのを専門家と言うのではないか。
 どこの分野でも同様なことは既に起こっている。平社員や平教員に「想定外」があっても、柔軟に対応出来る発想を強いるなら管理職手当相当を請求すべきである。個室や休暇もいい。政府に、勤労庶民の生活を向上させる革新的取り組みを要求する。まぁ無駄だろうが。
 sonyやhondaさえ新らしい発想が生まれなくなったのはその為だ。社員からゆとりを奪い乾いたタオルを絞るように突き回した。ここ数年新しい発想は電気では海尔の独壇場。ノーベル賞の内容も少しも新しいものではない。ただの力業。

 僕が飲料メーカーのceoなら、先ず街に無秩序に設置された自販機を一斉に撤去する。人目を惹くために景観を損ねる交差点などにケバケバしい自販機を並べ、通行人や車の視界を遮っている。環境を損ねず、交通の安全を妨げない緑豊かな空間にする。売り上げには結びつかないが企業イメージは格段に向上する。考えてみるといい。改善した後の自販機の周りに小さな植え込みや鉢が置かれるのだ。じわじわと広がる評価、そこで誇りを得た社員に生まれるのがイノベーションだ。金も時間もかかる、しかしそれをやるのが専門家としてのceo。利潤を捻くり回した数字で判断するなら、素人でも出来る。企業ですら時間がかかるのであるから、福祉や学校はもっと時間がかかる。


 25年も前のことだ、紹興の旧市街の路地を歩いていたら至る所にヤカンとコップがあり老婆が「飲みな、お代は要らないよ」と笑いながらすすめる。中には水ではなく冷ましたお茶がはいってた。それからというもの僕にとって紹興は、魯迅や秋瑾の出身地であるばかりでなく、革命を生み出す友愛精神に満ちた人々の日常を想像させる場所になった。
 企業の社会的役割とは、こうした路地のヤカンを維持する事なのだ。自販機に置き換える事ではない。企業内最適と社会最適が一致しないなどという言い回しがある。軍隊内最適や暴力団内最適を考えてはならないように、企業内最適は像を結んではならない。部分社会とはそういうもの。学校もその例外ではない。

 企業が地域社会を越えて主体となってはならない。経済活性化を錦の御旗に掲げて、私的営利企業が歴史と自然環境を破壊してはならない。同じように、学校は生徒個人や家庭を越えて主人公面してはならない。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...