勝利やメダルにはしゃぐ暇に、冷静に考えるべきこと  「おもてなし」は技能実習生に

彼らは自力で米国を退散させた国民。泣き寝入りはしない
 ラグビーWカップ開幕戦で日本teamが大量得点でして勝った。東京新聞は一面で「異なるルーツ学び合い」「つながった「ワンチーム」」「・・・全員が互いを知り、補い合い、ワンチームに。その姿は、外国人労働者受け入れを進める日本社会が目指す姿でもある」といささか酩酊気味の記事をのせた。申し訳程度に、日本社会の課題を匂わせている。課題とは何か。
 

  技能実習生は28万5667人、そのうちベトナム人は13万4139人です(今年6月時点) 実習生は多額の借金をして、出稼ぎ目的で来日・・・借金を返すまで帰国できません。しかし、労働環境は深刻・・・
 Bさん(24歳男性)は富山県のコンクリート圧送会社で働いていましたが、毎日のように従業員から首を絞められたり殴られるなど暴力を振るわれました。「会社を移りたい」と申し出たら帰国を強要され、それを拒否したら宿舎から追い出されました。・・・
 Dさん(20歳女性)は福島県の食品加工会社で働いていましたが、日本人の従業員から性的虐待をうけ、妊娠・堕胎を強いられました。・・・彼女は被害を訴え出ることなく帰国しました。


 技能実習制度では、低賃金・長時間労働、賃金不払い、パワハラ、セクハラ、労働災害、強制帰国など人権侵害の例は枚挙に暇がありません。みんな本音では母国に帰りたいに決まっています。しかし、借金を返さなければ帰りたくても帰れない。
 だから、日本で働き続けるために実習先から逃げ出して失踪する子が後を絶たないのです。実習生の失踪者は年間7000人ですが、そのうち半分の3500人はベトナム人です。実習生は留学生と違ってアルバイトができないため、失踪後に路頭に迷ったり犯罪に走ってしまうケースが少なくありません。
                  『月刊日本』12月号特集「奴隷扱いされる外国人労働者」

 外国人留学生や技能実習生が増えれば、劣悪な労働や過酷な生活で追い詰められ、命を落とす若者もいる。・・・

 東京都港区の寺院「日新窟」。棚の上に、ベトナム語で書かれた真新しい位牌がぎっしりと並ぶ。2012年から今年7月末分までのもので81柱。この寺の尼僧ティック・タム・チーさんによると、その多くが、20、30代の技能実習生や留学生のものだ。今年7月には4人の若者が死亡。3人が実習生、1人は留学生で、突然死や自殺などだった。

 7月15日に自殺した25歳の技能実習生の男性は、会社や日本に住む弟、ベトナムの家族に遺書を残していた。塗装関係の仕事をしていたが、「暴力やいじめがあってつらい」とつづられていた。「寂しい。1人でビールを飲んでいる」と弟に電話があった翌日、川辺で首をつっているのが見つかった。
 6月になくなった31歳の男性の死亡診断書には、死因は「急性心機能不全症」と書かれていた。別の20代の技能実習生の男性は朝、仲間が部屋に起こしに行ったら、死んでいた。・・・

 実情に詳しい山村淳平医師(63)は、「元々健康だった20、30代の人が突然に亡くなるのは異常なこと」と話す。「十分な睡眠もとらず、過剰な労働によるストレスやプレッシャーが体をむしばんでいく」
 山村さんは3月にベトナムを訪問し、昨年末に宮城県でなくなった20代の男性の父親に会った。男性は現地のブローカーを通じ、約120万円を払って来日。結婚資金などを稼ぐためだった。送り出し団体から「心臓の病気で亡くなった」と連絡があり、遺骨が届けられたという。
 山村さんは「いびつな日本の政策の犠牲者」と感じている。「労働者としてきちんとした条件で雇うべきなのに、実習生や留学生として働かせ、結果、心と体への負担がかかっている。国は実態を把握し、予防策をとるべきだ」と話す。・・・
 外国人留学生や技能実習生の自殺や突然死の総数は明らかではないが、実習生の受け入れの支援をする民間公益法人「国際研修協力機構(JITCO)」の報告書によると、16年度に事故や病気などで亡くなった技能実習生や研修生は28人。脳・心疾患が8人で全体の約3割を占めた。
                   朝日新聞デジタル2018年10月14日「いびつな政策の犠牲者」ベトナム人実習生らの相次ぐ死←クリック

 朝日新聞デジタルの記事にある「国際研修協力機構(JITCO)」は1991年に設立された法務・外務・通産・厚労・建設の5省による共同所管団体。国を挙げて技能実習生を支援するための仕組みに見えるが、国を挙げて技能実習生を食い物にする天下り機構に過ぎない。だから技能実習生の過労死者数さえ把握していないのだ。
 法務省からの天下り役員だけで11人、検事総長を務めた男が理事長になっている。計15人の役員のうち9人が省庁OB。
  現行の外国人技能実習生の受け入れ企業は、実習生を受け入れるたびに、75000円程度をJITCOに年会費(年会費は企業等の資本金等の規模に応じて1口あたりの金額が算出される。複数の同業企業で作る管理団体からは1口10万円、団体参加の複数企業から1口5万~15万円を徴収し、それとは別に個別の企業からも1口10万~30万円)として支払う。移民拡大政策で、JITCOの“実入り”は膨張する。 JITCOの予算書を見ると、会費が17億3300万円、これが全収益の約8割を占めるから、天下り機構運営は会費に依存する。つまり弱みにつけ込む越後屋を通して延命を図る現代の悪代官の一つがJITCOである。

  外国人実習生は現在、約26万人。管理団体の数は全国に約2300。現在、農業や漁業、建設関係など6業種の受け入れ対象業種は、介護や外食、自動車整備などが加わり、14業種にまで拡充され、19年度からの5年間で約35万人を受け入れる見込みだ。JITCOの監理団体や会員企業も対象業種の拡充に比例して増え、会費収入も膨れ上がる。この仕組みが、技能実習制度を続けさせ、悲劇を放置・拡大させる。

 技能実習生たちが過酷な状況に追い込まれる根源には、政権の利権がどす黒く渦巻いている。ベトナムは自由のために自力で米国をうち破った唯一の国だ。“奴隷労働拡大”政策で官僚貴族が私腹を肥やす状況を看過することはないだろう。

 ベトナムの僧侶は自由のために焼身自殺を遂げて世界に衝撃を与えた。ベトナム人民の抵抗を日本はよく支援し報道した。またその時が、来ている。球技の馬鹿騒ぎがそれを覆い隠している。人間は興奮すれば、冷静な判断が出来ない。
 技能実習生たちは、命そのものを「日本」に奪われている。実習企業から追い出されたベトナムの若者は、年間3500人と見積もられている。その多くは実習企業にパスポートを取り上げられている。
  「暴力やいじめがあってつらい」「寂しい。1人でビールを飲んでいる」と電話した翌日首を吊る若者も「異なるルーツ学び合」う仲間の一人である。ラグビー記事の何倍もの調査報道を、連日繰り広げるべきなのだ。一体どれだけの予算をこの馬鹿騒ぎに、政府や自治体が割いているか報道したのは大分だけだ。

 「全員が互いを知り補い合うことは、外国人労働者受け入れを進める日本社会が目指す姿でもある」と記事で言っているではないか。 彼らはすでに尊厳を奪われ、何人も死んでいるのだ、いや殺されている。
 政権に操られて球技にはしゃぐその何分の一かを「寂しい。1人でビールを飲んでいる」と訴える若い外国人労働者に割いてこそ、「サムライ」「うつくしい」「クール」と枕詞をつけるに相応しいのではないか。「おもてなし」は実習生に対してこそすべきなのだ。
 おい高校生!!文化際にお化け屋敷なんか止めて、技能実習生を招待してシンポジウムぐらいしてみたらどうだ。先生も研究会に有名な学者を呼んで、話を承るのはもう止めよう。学生も実習生を訪ね歩き、医療援助や法律相談をするプロジェクトを立ち上げたらどうだ。日本の学生は暗い時代にも「セツルメント」を続けた伝統がある。

 ただのgameの勝利に酔いながら、周辺諸国へのヘイト言説に我を忘れる姿は醜悪。何が「ワンチーム」だ。

地位にも衣食にも縁が無いから、ただむつかしければ面白い

素読の初級者と、会読をする車座の二組が描かれている

 山崎闇斎の弟子たちは、彼が講釈する言葉の一言たりとも漏らさず筆記した。なぜなら闇斎は生きた聖人と見做されていたからだ。これを批判したのが、朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」とした荻生徂徠である。
 「徂徠は、「予(われ)講を悪(にく)む。毎(つね)に学者を戒めて、講説を聴かざらしむ」(『訳文笠蹄初編』)と自ら述べているように、講釈嫌いである。彼は講釈の害を十項目にわたって論じているが、なかでも重要なことは、聴講者が自分で「思」うこと、考えることをしなくなってしまう点にあった。徂徠によれば、講釈する側も、「字詁・句意」「章旨・篇法」「正義・傍義」「註家の同異」「故事・佳話」「文字の来歴」など、およそ本文に関係することであれば何でも、お店を開くように並べていって、一つでも足りないところがあると、それを恥だと思うようになる。そのうえ、聴講者が飽きてしまうのではないかと心配して、美声によって喜ばせたり、時には笑い話を交えながら、居眠りなどさせまいとするのであるから、聴く者が自ら何も考えなくなってしまうのも当然である。懇切丁寧、用意周到、理解の助けによかれと老婆心ですることが、学習者にとっては逆効果となってしまう」     前田勉『江戸の読書会』平凡社
   闇斎の講釈には、今の教委が喜びそうな「良い」授業の要素が詰め込まれている。今も校長はこれらの観点に沿って、教師の授業を観察・評価する。生徒の書き入れる授業評価アンケートもそれが元になっている。
 だから高校でも大学でも、表面的な「分かりやすさ」や「やさしさ」が評価される。

 難しさを克服した時の喜びがあるからこそ、事柄の実体や本質に迫る気になる。それを避けるのは、親切面して愚民化を計ることである。

 では講釈嫌いの荻生徂徠はどのような学びを、奨励したのだろうか。徂徠(蘐園)学派では、学問は師や仲間(講習討論の友)とともにするものであった。その中心に数人で車座になって行う会読があった。素読などの基本を終えた者たちが、決められた経典(四書五経など)の章句を巡り、互いに問題を出し合い意見を戦わせるのである。

 その場で重んじられたのは、「真理を探究し明らかにするために、互いに「虚心」の状態で(父と師と君のいずれからも自由に)討論をする」ことであった。適塾でこの会読に打ち込んだ福沢諭吉は、自伝で次のように回想している。
   「・・・幾年勉強して何ほどエライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。すなわち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めるということに思いも寄らぬ・・・名を求める気もない。名を求めるどころか、蘭学書生といえば世間に悪く言われるばかり・・・。ただ昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がっている・・・自分たちの仲間に限って斯様なことが出来る。貧乏をしていても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位で、ただ六かしければ面白い、・・・という境遇であった」『福翁自伝』
 服部之総は明治3年以降の福沢を、革新的でなくなったと言っている。ここに描かれている青年諭吉は、これを書いている福翁とは、まるで違うことは知っていた方がいい。ともあれ、こうした激しい学びの中からspeechを演説、debateを討論と訳出するに至るのである。

 この学習形態は、封建的身分制に頭を押さえつけられていた若者たちを身分を越えて惹き付けた。初め各地の私塾にそして藩校、遂には昌平黌にまで広がった。千葉卓三郎らの五日市学術討論会もその流れの中にある。
 しかし自由に平等に討論学習し、真理を探究し明らかにするため互いに己を「虚心」にする雰囲気は、皮肉な事に福沢の説いた立身出世を学校令が煽り、ぶち壊してしまった。昌平黌の後進東京大学は、伊藤博文の権力的介入により特権の独占機関と化し、爵位と勲章中毒の世界を形成し、再び閉塞の時代を自ら形成してしまうのである。原爆の遙か前に、精神的文化的大破綻があったと言うべきである。

 今、学校でdebateが盛んだが、あまり討論とは言わない。舶来の先進的な学習手法と思い込んでいるからだ。

 debateの授業では教室を「勝ち負けの場にせずにはいられず、弁舌を争うばかりで、ものごとを深く考え真理の発見にいたらない」よう教師が指導してしまう。これは「会読」では強く戒められたことである。真理の発見のために力を合わせるのでなければ、高校生が青年らしい行動的な賢さを獲得することは出来ない。日本に生まれた「会読」という集団学習に気付いた方がいい。

 高校に入った4月、父は『三太郎の日記』を読めと言った。その父は
中学入学祝いには万年筆と『ロウソクの科学』を買ってくれた。ペーシ゛を捲る毎に僕は実験を繰り返し、机は焦げ跡だらけになった。
 『空想から科学へ』を『ロウソクの科学』の類だろうと思って手にすると、何やら難解だが薄いから買った。しかし難しい、通学の電車で読み昼休みに広げて格闘していると、上級生が「面白いかい」と話しかける。「難しくて困ってる」と正直に言うと、「俺たちの読書会に顔を出さないか」と誘われた。
 天井の穴から空が見える解体寸前の古い校舎の一角で、『フランス革命時代の階級対立』を六人程度が「会読」していた。会読も珍しかったが、理科実験少年にとって、社会科学にも自然科学と同じく真理や法則がある事を知るのは、魂を引きずり込まれるような経験だった。大学生や専門家たちが入れ替わり立ち替わりやって来て、僕らの討議を助けてくれた。アフリカや南米の海外勤務から帰国したばかりの卒業生たちは、新聞にも雑誌にも無い最新の情報でぼくらを魅了した。終わる頃には星が出ていた。『フランス革命時代の階級対立』を終えると『ルイボナパルトのブリューメル18日』を会読した。これは格段に難解だった。
 深く学ぶことと、広く学ぶことは別では無かった。同時に疑うにも方法が必要なことを知った。
 僕は「分かり易い」授業には今も馴染めない。

支配者の愚策を持ち上げて、それにぶら下がる卑屈

僕が聴くよという決意は将軍や大元帥には無い
 「生類憐れみの令」は24年も続き、処罰された者は新井白石によれば数十万人。徳富蘇峰は「科人毎日五十人、三十人づゝあり、打首になるもあり、血まぶれなる首を俵に入れ、三十荷ばかりも持出す」と書いている。罰金や説諭では済まない。蚊を叩き潰して死罪や遠島、見ていて止めなかった者は閉門。犬の虐殺で死罪、鳥を撃ち殺し売り払って10人切腹1人が死罪(彼らの子どもも遠島)、病馬を棄てた咎で農民10人流刑・・・
 
 綱吉はその愚策のために、大奥の奢侈を止めさせたわけでは無い。綱吉自身が犬猫を江戸城で可愛がったわけでも無い。数カ所の犬小屋用地は数
ヶ所29万7652坪もあり、百姓数百名が土地を失った。江戸町奉行は犬小屋維持費用を江戸市中に転嫁。「御犬上ヶ金」といい、小間1間につき金3分。中野犬小屋の普請や修復のためには「犬扶持」が徴収された。周辺農村は高100石当たり1石の割合で賦課されたのである。

 処罰の記述は誇大でありその多くは事実では無いとか、本当の狙いは捨て子保護など福祉であったとか綱吉を評価する言説がある。支配者の愚策を、持ち上げ賞賛する傾向が繰り返される。
 米軍は文化財保護のため京都や奈良を爆撃しなかったと感謝の記念碑を建てたり、占領軍将兵のために政府が率先して特殊慰安施設を開設し、GHQ司令官に国会が感謝決議をするなど「サムライ」らしい卑屈さは常に吹き出す。持ち上げておいて、それにぶら下がろうとする。この恥ずかしいまでの卑屈さを隠すつもりが、弱者や周辺諸国への傲慢である。
 
 天皇の前に出ると、どんな人間も有り難さに震え上がると言われた。しかし森繁久彌は、秋の園遊会に招かれたときのことをこう語っている。

 「・・・ご下問です。《いつも見てるよ》《ハッ》、《テレビはいろいろ大変だろうね》《ハッ、大変です》《アッ、そう》。もう少し酒落たことを言うつもりなのに、これでは隣りのチョビ髭の代議士とおなじです。汗が出ます。ハンカチ、ハンカチ。女房を小突くのですが、女房は皇后のお顔を口を開けて見ているだけで役に立ちません。《映画も大変だろうね》《ハッ、大変です》《アッ、そう》。陛下のご下問は矢継ぎ早です。《舞台も大変だろうね》《ハッ、大変です》《アッ、そう》。入江さんが、目で陛下に先を促しているようです。私は、意を決しました。《ところで陛下、この御殿は昔大奥だったそうですが、お手打ちになった女の幽霊が出るなんてことは - 》《アッ、そう》 -陛下のお姿は、私の前から消えていました」  『大遺言書』新潮文庫

 天皇には人の話を聴く耳が無いことを森繁久彌は、うまく語っている。人の話を聴けない者が、元帥や将軍になれば人は末代まで迎合する。その結果、歴史を客観的に見ることが出来なくなる。彼らの耳に入った「子どもまで遠島」や「南京大虐殺」は大脳に達すること無く、脊髄反射ように《アッ、そう》的反応に終わるのだ。
   ユーモア精神溢れる根っからの自由人が、文化人と呼ばれるに相応しい。文化人はその見聞をあちらこちらの多様な人に運んで結ぶのである。それが有効な批判として機能する。聴く耳を失った同じ意見の人間だけがいくら固く結束しても、共感は広がらない。

傲慢がかっこいいか

虚心はかっこいい
 築地の路上でおかしな表情の男を見た。外車で煽り運転を繰り返した男ソックリ、本物は拘留中の筈。鼻の下に髭を薄く生やし、大きく口を開けながら上下の唇で歯を覆う異様な顔貌。広い交差点の向こう側から、一度も口を閉じること無く肩を怒らせながら歩いてきた。あの男はあおり運転男の傲慢な振る舞いを真似て見せびらかせば「かっこいい」、男らしい、と褒めそやされると感じていたのだろうか。
 男子中学生が女子中学生の首を絞め飛び蹴りする暴行現場の動画が、投稿され再生回数を稼いだ。学校や飲食店での悪戯を誇る動画も後を絶たない。動画を撮った者も取らせた者にも、これらの悪事は再生回数を稼げる「かっこいい」ことになっている。
 週刊誌やTVで時には議場で、嫌韓hate発言が過激化、発言者は胸を反らした得意顔で同類の醜い発言を繰り返す。彼らも周辺諸国を睥睨する自分の姿を「かっこいい」と思っているのではなかろうか。
 歴史的な大量虐殺や強制連行を「無かった」とする男の発言を、マスメディアが追い競う。男はその混乱を得意がりその切っ掛けを作った自分に「格好良さ」を感じている。視聴率を上げる功労者として持ち上げられるからだ。
 

 これら数値で即座に確認出来る「格好良さ」は、動画再生回数や視聴率ばかりでは無い。発行部数、出演回数、得票数・・・。数字は倫理的判断の置き場はない。収入それ自体が人間や組織の「格好良さ」になり、収入の根源の善悪を忘れさせてしまうように。
 人間や組織の品格は、数値の前にひとたまりも無い。格好良さを他人の物差しで、それも分かりやすい数値で計る癖がついてしまった。経済は株価で、学校は標準偏差値で、スポーツは獲得メダル数で、政治は議席数で・・・

 日本軍は1940年ナチスドイツのフランス・オランダ電撃占領にかこつけ、文字通り他人の褌で相撲を取るようにして、東南アジア「領土」拡張を目論んだ。小学校に大東亜共栄圏の地図が張られ、占領の度に日の丸が張られた時、その実体に目は向かず数的膨張にのみ酔った。

 酔えば倫理は捨てられる、いや倫理を捨てるために酔う。倫理を捨てた頭に残ったのは、世界に冠たる生き神の国という幼稚な紙芝居と乱発される勲章。そんなものに酔った。その苦い経験を忘れている。
 
 スポーツ界や学校に体罰が絶えず、企業や役所にパワハラが消えないのは、無理を力で支配することが「かっこいい」との眼差しが蔓延しているからだ。「口でガタガタ言うより一発殴って」「厄介な奴は制裁するしかない」と生徒自身や親までが言う。

 殴られ強くなり勝利数を稼げば、個人も学校も内申は上がる、それを「善」と短絡する惰性がある。正義や品格で推薦入学は出来ないと言うわけだ。教師の中にも、暴力で秩序を保ち勝ち進む教師を賞賛する雰囲気がある、教師は疲れ切った。他人の褌であっても偏差値が上がれば少しは楽になると、藁をも掴む気持ちになっている。
 だがこれを競争とは言えない。なぜなら偏差値の高い者や運動能力の高いものだけを入れることは、スタートの平等を否定することだからだ。

 竹内好は1963年「満州国研究の意義」という一文において
 「「満州国」をでっちあげた日本国家は、「満州国」の葬式を出していない。口をぬぐって知らん顔をしている。これは歴史および理性に対する背信行為だ。・・・国家が知らん顔をしたら、国民がその尻ぬぐいをしなければならぬ。シャッポを脱げば植民地時代が消えてなくなると思ったら、大まちがいだ」と記し、さらに語を継いで
 「ただ残念なことに、国家が意識的に忘却政策を採用し、学者がそれに便乗して研究をさばっているために「満州国」に関する知識の結集がさまたげられている」と批判していた。文中の「満州国」は「大東亜共栄圏」に置き換えてもそのまま読める。

 日本軍は南京入場では派手な式典をやった、大虐殺の軍刀をガチャガチャならしながら。百人斬りを誇って新聞一面を飾った二人の男は、軍刀による大量殺戮をサムライらしく「格好いい」と感じていたに違いない。

 占領軍GHQは、次々と日本「民主化」に関する指示を日本政府に迫った。財閥解体、婦人解放、農地解放、労働組合の育成、秘密警察解体・・・が矢継ぎ早に指令された。だがおかしなことに、日本に定住する朝鮮人や台湾人、強制連行された中国人の処遇については日本政府に任せている。政府は講和条約発効と共に朝鮮人は日本国籍を喪失したとみなすに至った。当事者の意思は無視して。それが今日にまで問題を引き摺っている。これは慎重に仕組まれた核地雷のように、時に応じて東アジアの政治的安定を脅かしている。


 内務省警保局「内地在住朝鮮人運動」によれば「(1938年の在日朝鮮人,79万9,865人のうち)世帯を有する総人員は65万9708名にして総人員の82%を占む。・・・この男女の比の接近及世帯人員数の比の多きは,在住朝鮮人が漸次定住性を帯びつつあることを示すものなり」と分析している。戦中は否が応でも同朋扱いで日本国籍を付与され、兵役にも就いた。その挙げ句、戦犯として死刑にもなった朝鮮人や台湾人を、どう処遇するかが大きな課題で無い筈はない。
 戦争犯罪とは何か、誰がその責任を負うのかについて、国民自らが審判する機会を奪われていたことがその根源にある。 敗戦1ヵ月後の東久邇内閣・幣原内閣では、日本人自身による戦犯裁判が模索された記録が残っている(松尾文夫・元共同通信ワシントン支局長談 https://diamond.jp/articles/-/76469?page=3)。しかしGHQの反対で実現しなかったという。
 日本は自らの目と手足で未曾有の過ちを検証していない。

  大元帥=天皇は訴追を逃れ、平和主義者天皇は戦争では形式的な役割しか果たさなかったという新たな「神話」作りが展開され、これを占領軍は強い検閲で統制保護した。

 東京裁判の判事にアジアから選ばれたのは僅か3名。その中に朝鮮の代表はなかった。

 杜撰な調査と証拠隠滅を放置したま、賠償はすべて解決済みと口走る姿に「格好良さ」を感じるのは、無知による傲慢以外の何ものでも無い。無知振りが幼稚な原理主義に火を注いだ例を、我々は光田健輔と小笠原登の論争に見ることが出来る。
 来年の五輪で旭日旗を群舞させる者たちは、傲慢な己の姿に打ち震えるのだろうか。無知に動じない姿を人はカリスマ性と見誤る。

子ども手当の起源は、戦時下の「奇妙な国」にある Ⅱ 松本馨の闘い

炎天でも木枯らしでも子どもは動員され、命を縮めた
 承前
 夜、私は子供達の生い立ちや、家庭の様子を聞いた。・・・聞きながら思わず泣いてしまった。子供も、私に聞かれると、元気で騒いでいたのが急に萎れて目に涙を一杯溜めて語るが、そのうち泣きだしてしまった。
  S 父はSが七つの時発病した。母はSを連れて父の発病と同時に実家に逃げた。Sは昨年の春発病・・・重症の父と(療養所で)対面・・・
  Y Yの母は長女を連れて、Yが五つの時、(父と姉と弟を置いて)家出してしまった。「・・・僕はその晩、ちっちゃな灯が遠くの方へ消えて行くのだけがわかった」・・・「お父さん、今思うとこの病気だったんだね。・・・死ぬ時お父さんとっても苦しんだよ」(Yたちは叔父に引取られるが酷く叩かれた)・・・
  F 父は職人、母はFと共に収容されたが病室にて発狂し監禁されている・・・父は乳飲み子と五歳の女子に七歳の男の子を抱えて働く事も出来ず食に困る由
  T 父は(全生園の不自由舎で)療養中。母は・・・人の噂では家出せしと・・・
  U 父は昨年Uと共に収容。母は洋裁職にて弟妹二人を養い生計を立てている                  
  M 父は一昨年の春M収容と同時に自殺す、と同時に母は家を追われ転々と食に追われている
  V 父はVの記憶になし。母は兄妹二人とともに退院を待っている
   松本義男(松本馨の筆名の一つ) 「病める子等」全生園文芸誌『山桜』1948年 4.5月号 p12~15   少年の名前は記号に置き変えた。  「病める子等」は二回続いたが未完のまま。若き松本の奮闘ぶりが描かれている。  
 
 松本馨は23歳で少年舎の寮父になった。この文章は子どもたちとの生活を、戦後日記風にまとめた記録の一部である。少年は11から13歳。その生い立ちを彼は「冬の日のそれよりも弱い日陰」と形容している。
 療養所には子どもの作文が数多く残されて胸を打つが、松本が残した子供たちの生育歴等とともに知っておきたいのは、幾重にも重なる表現規制である。治安維持法などに基づく内務省の検閲、懲戒検束権に基づく療養所の検閲の二つが先ずあった。
療養所ごとに、検閲官が存在した。 
 「この療養所にはコンクリートの塀がある」とさえ書けなかったと『全患協闘争史』にある。「塀がある」と書くことはそれを撤去する運動につながると見做されたからである。 さらに病友という仲間の視線は死ぬまで続いて筆を鈍らせる。学校には成績という仕掛けがあって、「治療して早く社会へ出たい」などと書けば、褒められはしなかった。
 

 自分の作文・・・今回(数十年ぶりに)改めて読んだら、辛いとかちっとも書いてなくてびっくりしたよ。・・・作文にかけないこともあった。子供心にこういうこと言ってはいけない、やってはいけないということがある程度わかってくるから、それはみんな気をつけていたと思う。必要以上に気を使ってしまうんじゃないかね・・・ 鈴木トミ 『ハンセン病文学全集』 皓星社 第六回配本月報  
 子どもが書かなかったこと、氷上恵介や松本馨の記述2も漏れた事実に想像を及ぼさねばならない。                   

 子どもたちは、少年少女団に組織される。下着にも不自由するというのに、国防色のお仕着せ・靴下・靴だけは救癩団体が支給。引換に皇族や名士が来る度に並ばされ、頭を垂れ、万歳する。木枯らしでも炎天下でも同じ団服の下は、ボロボロの下着。神経を傷めて立つのも大変な足で、長時間整列。皇居遥拝は毎月、教練は月に二度あった。

 (沖縄戦下の愛楽園の子どもたちは愛楽突撃隊に組織され、日本精神徹底と戦意高揚の掛け声で、防空壕堀と修理、開拓や草刈りなど重労働に狩りだされた。)
 院長や職員は、団服に身を整えた、規律正しい少年少女団員たちを、よく管理され平和な全生病院のシンボルとして、ショーウインドウの人形として外来者に誇らしげに見せつけたが、それらの少年少女たちが「病気を持つ子供」だということを本当に考えたことがあっただろうか。            多磨全生園患者自治会編 『倶会一処』 p112 

 行事から逃げる知恵も術もない従順な少年たちは、体を痛めて青年になる前に死んだという。

 おまけに、式や行事の「主催」だけは少年団というイカサマもあった。「主催」とは、お国と療養所のため自らすすんで叱られ蔑まれ、病気を悪化させ、一刻も早く死んで国土浄化のお役に立つことに他ならない。 
 「少年団など馬鹿にし、ずるけてのらりくらりしていた、札つきの「わる」の少年たちの方が今に生きしのぎ、生き残っている」と『倶会一処』は続けている。
 ハンセン病療養所では、子どもの親権者は園長と定められていた。その園長官舎一棟建設に、療養所全体の家屋建築予算の一割が使われた。親権者は「聖者」と讃えられ、豪勢な住宅の温かく柔らかな布団に包まり、「日の丸の汚点」と罵られ病状悪化に苦しむ子どもは、重く湿った煎餅布団で寂しく死を迎える。この非対称的現実こそが絶滅隔離の目指すところであった。

 月一円の子ども手当は、こうした情勢下に生まれたを忘れてはならない。同時に要求して生まれた「子ども舎」は子どもだけの時間と空間をもたらした。それが「子どもの発見」である。
 子どもの世界の確立は、青年や大人の世界の確立でもある。

 「私は子どもたちとの間に空間を置かなければならないと感じるようになった。その空間は子どもたちの遊び場所である。遊びには冒険が伴う。冒険の伴わない遊びは大人の考えるもので、遊びとは違う。遊びには冒険が伴い、危険が伴う。その中で子どもたちは連帯感、責任や義務、友情を学ぶのである」    松木信(松本馨)『生まれたのは何のために』 教文館  p61

 子ども専用の空間を作れば、大人の空間も出来る。文学青年や患者教師たちが集まり、園や全生常会(療養所内戦時体制を支えた患者組織)への不満なども語り合う。松本馨自身も小説を書き、子どもたちに読んで聞かせた。処々に子ども自身がモデルとなって登場、皆熱心に聞いた。この中に谺雄二少年もいて、この経験が彼を積極的に園内の図書館に向かわせ文学青年に成長させている。自立は危険とともに、新しい関係と視野を創造するのである。

 これは、放課後の自由であるべき時空を「部活」と生活指導に占拠された現在の少年少女たちと教師についても、示唆を与えている。

点字を読むのも下駄を探るのも舌によった
 生徒も教師も極限までゆとりを奪われ、身近な世界を疑うことも、自治能力を養うことも出来ない。そしてますます競争に明け暮れ、未来の不安定な生活を準備してしまう。
 松本馨は
後にハンセン病の症状の一つが悪化両足を切断。1950年には妻を亡くし視力も失い、「石であって人ではない」十年を経験する。その苦難を経て患者自治会長や全患協会長を務め、予防法体制と徹底的に闘い続けた。指の感覚も無くなり、点字を読むのも下駄を探るのも舌を使う生活であった。にもかかわらず厚生省との交渉では、図面や文書の細部まで頭に入れて、官僚を論理的に追い詰め驚かせている。

参考 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊

子ども手当の起源は、戦時下の「奇妙な国」にある / 氷上恵介と松本馨

子どもにも患者作業 広報用写真だから何もかもが新品だ
 野間宏が日本の最も暗い闇と呼んだハンセン病療養所で、日本最初の子ども手当が始まったことを君は知っているか。それは日米開戦の年であった。戦争の狂気に日本中が飲み込まれていた時期の奇跡でもある。僕は奇跡という言葉を好きになれないが、日本の子ども手当が「奇妙な国」で昭和16年に始まったことを「奇跡」と言うことに殆ど躊躇いはない。
 

  「あなたがたは、面積が四十ヘクタールで人口が千余人という、まったく玩具のような小国が、日本列島の中に存在していることをご存じだろうか。・・・厳とした国境があり、みだりに出入国はできないし、また憲法や建国の精神というものもあって、国民生活に秩序があることも一般の国家と変わらない。ただ変わるところは、どのような国、つまり資本主義の国にしろ社会主義の国にしろ、すべての国がその目標を発展ということに置いているのに反して、この国では滅亡こそが国家唯一の大理想だということだ」            島 比呂志 「奇妙な国」『ハンセン病文学全集3 』p230 (島 比呂志は作家(1918 - 2003) 東京農林専門学校助教授時代発病。国立癩療養所大島青松園隔離収容、翌年星塚敬愛園へ転園。同人誌「火山地帯」を主宰。らい予防法国家賠償法訴訟の切っ掛けをつくった)

 「奇妙な国」は、日本の中に何箇所も作られたが、その最初の国は全生病院(後の多磨全生園)であった。先ず、戦中のハンセン病療養所多磨全生園の子どもたちの生活を見てみよう。
 

 戦中の1943年、氷上恵介は全生学園教師を引き受け、園長(彼が奇妙な国の独裁者である)印を捺した「学事世話係を任ずる」との辞令じみたものを渡された。同じものは患者自治組織全生常会役員も渡され、療養所の支配関係を示している。
 教師となった余禄は、小さな机と読書灯。12.5畳に8人の雑魚寝生活は変わらない。先任の牧田先生と、20人あまりを上級生と下級生に分けて受け持った。症状悪化に苦しむ者も多く、病棟に入ったり出たりで生徒数は一定しない。義務教育段階を過ぎた年齢の少年少女のために夜学補修科もあって、思春期の男女が公然と同席できる数少ない機会となっていた。悩みは本が無いこと。氷上先生は新聞社の兄さんに手紙を出して、教科書を古本屋から手に入れて使った。
  B25が日本本土を空襲する。子どもたちの生活も悪化の一途。氷上先生は、せめて友達になって話を聞こう、仲間になって遊びながら学ぼうと決意する。国語は百人一首、理科は狭い園内の薬草を探したり、栗を拾ったり、体育は三角ベースをしたりで教育技術や教材不足を精一杯補った。 
 子どもたちと園内を歩いている時に、首吊り死体(ハンセン病それ自体による絶望ではなく、あらゆる血縁関係や社会関係から隔離され、死ぬまで収容されるという状態による絶望が、自殺を促していた)に遭遇することもしばしばあった。
 だが最大の問題は、ひもじさ。牧田先生と相談して園内の耕地を借り、自分たちの下肥を奪われないようにして腹に溜まるさつま芋やじゃが芋を育て、先ずは食べ余りで澱粉の実験をした。氷上先生に教わった人達は、いい先生だったと誰もが言う。子どもの話をよく聞き、話は決して飽きさせることのない優しい先生だった。

 1944年、薪不足で風呂は二ヶ月に一度、棺桶の板さえなくなる。

  「・・・野良犬や、野良猫、ヘビ、カエル、野鳥は唯一の動物性たんぱくとして食した。胸を病んでいる者はネズミの裸の子を生きたまま飲んだ。気の狂っていた患者は誰も食べようとしない毛虫やイモ虫をとって食べていた。栄養失調で患者は皆痩せこけていたが、なぜかイモ虫は丸々と太っていた、それを生のまま泡を吹きながら食べているのを見たとき、私はこの世界は生きながらの地獄と思った」           ラザロ・恩田原  (松本馨 ハンセン病者は本名を捨て、複数の筆名を使わねばならなかった)

 栄養失調による死者は増え、1942年140人、1943年 114人、1944年 133人、1945年 142人、1946年150人。一時は定員を超えて1400名の全生園はたった五年で半数が死亡、新しい患者と入れ替わった。 

 子どもたちの面倒をみたのは患者教師ばかりではない。子どもは少年舎・少女舎で生活するようになり、寮父・寮母が患者作業として配置される(1920年代)。
 寮父・寮母を、子どもたちはお父っあん・お母さんなどとよんだ。

 1941年から寮父を引き受けた松本馨は、条件として作業(患者作業 深い谷から重い炭俵を担ぎあげる、重い敷石を運ぶ、目の不自由な患者が大きなタライで洗濯をする、園内の仕事を患者は半ば強制的に割り当てられた。報酬は1日に牛乳一瓶を買える程度)をしなくても子どもが治療と学業に専念できるよう援助を要求した。
 それが日本で最初の子ども手当になった。患者たちの互助組織全生互恵会 (財団法人全生互恵会である。患者の売店等の資産・寄付によって1931年設立、患者の相互扶助を目的にしていたが、当時の運営実権は園側にあった)から月一円の日用品費が、「奇妙な国」多磨全生園全ての子どもに支給されるようになる。この着想は、松本も加わった原田嘉悦の茶会に集う若者たちの議論の中から生まれたのではないだろうかと僕は睨んでいる。 彼は原田嘉一から「将来科学の進歩によって(ハンセン病の)治療薬が発見される時が来る」という内村鑑三の言葉も聞いている。子どもの患者はその大部分が青年になる前に死んでいた。その時代に彼は、子どもに死を待つ子どもの絶望ではなく、未来を迎える希望を見ていたと言えよう。

 他の療養所の子どもたちの労働はどうだったのだろうか。同じ時期の長島愛生園や戦後(1950年)の松ヶ丘保養園の様子が検証会議証言にある。

  長島愛生園では・・・子どもたちも重労働に従事し、療養所の運営を補完する役割を担わされたのである。「薪の運搬、田植え、ため池工事や望が丘の土地の開墾などの重労働によって、体に傷をつくったり、障害をさらに悪く・重くする子どもを多く出すことになった。                                
 (松が丘保養園の)子どもたちは新聞配達や牛乳配達を日課としており、それが授業時間に食い込んでも、だれも文句を言わないというありさまでした。ここまでやらなければ生活を維持できなかった・・・。                   
 月一円の日用品費は、「奇妙な国」の子ども手当と言うべきである。その意義は、1933年の「児童虐待防止法」が、14歳未満の労働を禁じてはいたが、子どもへの手当は1972年の「児童手当法」を待たねばならなかったことに現れている。農家の娘たちが売られていた頃「農村の少年は、5歳になるとすでに縄ないを始め、11、2歳になると田仕事に追いやられ」た時代である。1944年には国民学校高等科児童の勤労動員が始まること、更に朝日訴訟(1957年)で憲法25条を巡って争われた日用生活費が僅か600円であったことを考えれば、その意義の強調は不当ではない。日本の最も深い闇に於ける先駆的試みである。これは一度も打ち切られず増額され、新良田教室(岡山県立邑久高校定時制課程新良田教室。全国のハンセン病患者を対象として昭和28年の「らい予防法」闘争により昭和30年長島愛生園に設置された)に進学した全生園出身高校生にも送られ続けた。

 松本馨が交渉した相手は、園の事務官(厚生官僚)であったという。人間的対応をする事務官であったと松本は書いている。
 当初は半日ずつの作業が毎日行われていたが、当時は週三日半時間ずつになっていた(別の記述では1時間ばかりのガーゼ伸ばし等で子どもの収入は月30銭~50銭とある)
 だが、子ども作業廃止と一人一円支給の画期性はいくら強調しても不当ではない。

 本物の「奇跡」に相応しく、歴史の何処にも記述されていない。なぜならこの奇跡を根拠とする、組織としての教会や宗団がないからである。
 志賀直哉であれば、この事実をどう書いただろうか。(彼には、北条民雄『命の初夜』の芥川賞選考に関して苦い記憶がある。他方彼は、松本馨同様内村鑑三にも深く傾倒していた。)

 松本は同時に、
全生学園を卒業した少年と児童を分離することも要求して実現させている。
 こんな証言がある。
 (草津)楽泉園には少年寮や少女寮もなく・・・大人たちが夜に男女の話をしていた。わたしは子どもでしたので「早く寝ろ」と大人たちに言われても、うるさくて眠れずに困りました。『楽泉園入所者証言集 中』 創土社 p127~128
 子どもには、子どもだけの時間と空間が必要なのである。これをハンセン病療養所における「子どもの発見」だと僕は考えている。
 この時、松本馨は23 歳であった。この後の彼の波瀾万丈については、稿を改める。

 引用は『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊からとった。

追記 1941年の日雇いの賃金は1日2円、対して1957年の日雇い賃金は1日500円であった。

To every Japanese ・ Gandhi / 紛争を煽る日本への戒め

GANDHI SEVAGRAM ASHRAMから
 「・・・あなた方を敵視しているわけではありませんが、私はあなた方の中国に対する攻撃を激しく憎悪しています。あなた方は立派な高みから帝国の野望へと落ちてしまったのです。あなた方がその野望を実現することはできないでしょうし、あるいはアジアを分断した張本人となるかもしれません。
・・・私は、南アフリカからインドに帰国してから・・・日本人僧侶たちと親しく交流するようになりました。・・・その精進ぶり、堂々たる忍耐力、日々の礼拝への不屈の献身、愛想の良さ、種々の状況にも動じぬ姿、平和な内面を明瞭に物語る自然な微笑み、これらのために私ども皆から慕われたのです。・・・
 あなた方はその隣人の古典文芸を自らのものとしてきたではありませんか。互いの歴史、文化、および文学についてあなた方が持つ理解、それはあなた方を現在そうであるような敵同士ではなく、友人として結びつけるべきものなのです。
・・・私どもは帝国主義に抵抗せねばならぬ独自の立場にいます。私どもはあなた方の野望やナチズムに負けず劣らず帝国主義を嫌悪しています。私どもの抵抗は英国の人々を傷つけようとするものではありません。彼らを変えたいのです。私どもは丸腰で英国の支配に抗っています。・・・
 無慈悲な戦争には最終的な勝者がいない、ということが何故あなた方にはわからないのか不思議でなりません。・・・私が読んだものは全て、あなた方には請願を聞く耳がなく、もっぱら武器の言うことだけを聞くのだと語っています。それらの文章が全て誤っており、私があなた方の琴線に正しく触れられたらいいのにとどんなに祈っていることか! 何はともあれ、私には、人間たるもの必ずや応えてくれるだろうという不滅の信条があります。迫り来るインドでの運動を着想したのはこの信条がもたらす力に支えられてのことであり、あなた方にこの請願をしようと思い立ったのも、この信条に基づくものなのです。 あなたがたの友 ガンディーより」1942年7月26日    日本語訳の全文はここ←クリック
    Gandhiによる原文はここに←クリック

 ガンジーがこれを書いた年の情勢は、どうであったか。 


1942/03   Gandhi 「英国人がインドにいることが、日本のインド侵略を招く。 彼らが撤退すれば日本を引きつけるえさはなくなる」と述べ、英国の即刻撤退を強く要求。
1942/06/05 ミッドウェイ海戦。日本海軍は主力空母4隻、搭載全機263機を失うが、大本営はミッドウェイで日本海軍は敵の施設に大打撃を与えたと発表。
1942/12/31 ガダルカナル撤退(ガダルカナル戦は、日本守備隊への補給がろくに行われず、将兵は悲惨な餓死を遂げたことから餓島と呼ばれた)

 ガンジーも第一次大戦では、まんまと英国に引っ掛けられた。将来の独立を匂わせ、英国は大戦参加をもちかけたのである。ガンジーはこれに応じ、120万のインド兵と物資を投入した。
 にもかかわらず約束は反故。大英帝国はローラット法(1919年対インド法。令状なしの逮捕・裁判抜きの投獄権限をインド総督に与えたとアムリットサル大虐殺(英軍ダイヤー将軍指揮下のグルカ兵に非武装群衆への発砲を命じ、広場の出入り口に配置した機関銃で「弾がなくなるまで」撃ち続けた。死者1200名、負傷3600名。大量虐殺の首謀者ダイヤー将軍には、2万ポンド(現在の日本円で数億円)の寄付が集まった)を以てインドを力と法で弾圧した。
 第一次大戦にこと寄せて、同様の提案を英国は孫文に伝えたが、彼は見事にその意図を見破り論破している。←クリック   

 英国はドイツ植民地の奪取を目論み、インドの兵力と物資を騙し取ったのである。ガンジーは高い買い物をした。 (英国は、同時に中東を巡ってはアラブ人とユダヤ人を同時にペテンにかけ、現在に至る世界の混乱を招来させている。日本も日英同盟と英国の要請を口実に自ら大戦に参戦、中国や太平洋におけるドイツ権益を略取して図に乗った。)

 「私が読んだものは全て、あなた方には請願を聞く耳がなく、もっぱら武器の言うことだけを聞くのだと語っています」は些かも的外れではなかった。既にその剣は、自国民と敗走する自国兵にさえ向けられていたのである。皇軍中枢は、自らの特権を拡大、八紘一宇と言いながらアジアに国内に帝国主義的支配・弾圧の網を巡らせたのである。
 

 これは過去のことではない、2019年現在の日本の問題でもある。大戦に敗北した途端、米国の戦争体制に70年以上も嬉々として加担、それで日本は何を得たと言えるのか。

 「あなた方には請願を聞く耳がなく・・・」これは教委言うところの、教育困難校生徒たちの呟きでもある。あなたとは行政であり学校であり世間である。
 「教育困難校」とは何か。在校生を教育することの困難性を言うのか、確かなのは行政や学校が在校生の教育を放棄して「教育困難」にしていることである。本質は、特権階層の形成過程が被差別階層形成過程と一体という仕組みにある。青年を階層分離・隔離して、「教育困難」層から知識と自治を遮断、従順な態度だけを植え付けてきた。
 大英帝国が、ことある毎にインド人に自治は無理だと言い続けてきたことを思い起こしたい。

 「教育困難高」KH校一年生二人が、
授業中ベランダに寝そべっていたことがある。聞けば 
 「授業中に話してたら「殺すぞ」って言われて、ショックで・・・」と言う。普段の二人は授業中教室がうるさくなると、
 「静かにしなさいよ」とたしなめる側であった。であれば彼女たちが喋っていたら、何でお喋りしていたか聞かねばならない、それが教育の前提である。授業の中身そのもので煩くなることは大いにあるのだから。それが嫌なら教員免許は返上せねばなるまい。
 「指導重点校」を検索にかけると、進学指導重点校や進路指導重点校ばかりが出てくる。たった一つ、生徒指導重点校に関するものが出てくる。
ここ←クリック         
 暗澹たる気持ちになる。こんな取り組みをしていたら、教師は学習に集中できない。教頭を増員して生活指導は校長と教頭に任せる必要がある、教員は授業に専念する。それだけで、生徒たちとの対話的関係は形成される。教委は、校長と教頭の煩雑な事務を免除する体制をつくる。学校設備はSSH並に(東京では筑駒が指定されている、実験教育が貴種作りならsshは廃止しなければならない)。良い設備を、高い偏差値の特権にしてはならない。

 あおり運転を繰り返し「殺すぞ」と凄んだ自称経営者が捕まった。彼は貴種であるとの妄想に取り憑かれていたのか、その「優雅な」生活振りをSNSで「下々」に披露したが誰も敬意を払わない。彼にとって外車によるあおり運転は、高圧的に「下々」の服従を迫る手口である。彼は、外車に乗る「対話不能」者になっていた。
 何がそうさせたか、それは裁判の過程で明らかにしなければならない。彼のなかで善悪は、どう判断されたのか。正常な自由意志だったのか薬や病気で判断困難な状態だったのか。後者だとすれば責任は社会が負わねばならない。
 しかし彼は根っからの小心者だったと見える、覚醒剤がきれ外車が奪われた途端萎んでしまった。まるで戦前戦中の皇軍の如き振る舞いである。

 首相経験者が1979年衆議院選挙に初出馬演説で、開口一番支援者に対して「下々の皆さん」と発言した事実はよく知られている。そればかりではない、1983年の高知県議選の応援演説では「婦人に参政権を与えたのが最大の失敗」と言い放ち、その後も老人や病人に「死ね」と言わんばかりの発言を繰り返している。にもかかわらず当選し続けて、「ナチスに学べ」と人々の恐怖を煽る。彼も「対話困難」者或いは「対話不能」者である。彼は自分自身が憲法99条に拘束されていることにさえ留意しない。
 国家機関とマスメディアが結託、自らの犯罪行為は棚に上げたまま近隣諸国に向かい、退け、黙れ、無礼者、などの暴言を放っている。

 そればかりか、自らの傲慢な姿に酔う有様。まさに煽り運転中毒である。米国制武器片手に過去の亡霊を目覚めさせ、「聖戦」の旗に見惚れている。
 Gandhiの「あなた方には請願を聞く耳がなく、もっぱら武器の言うことだけを聞く」は、今や現政権とこの社会にも向けられている。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...