光田健輔と渋沢栄一 / 絶滅隔離と資本の原始的蓄積

  ハンセン病療養所の絶滅隔離と、渋沢栄一に於ける資本の原始的蓄積過程は分かち難く表裏一体である。光田と渋沢がともに行動したのは、偶然ではない。

  勝者が全てを取り、敗者は勝者が得たものに接近する資格もない。 資本主義の構造は非対称性において成り立った。だが市民革命は身分の高い者と低い者の平等=「対称性」を求めて始まっている。

 だから西欧ではブルジョアジーが政治的主導権を握った後も、社会構造に対称性を忍ばせている。                                                    



 「明治維新」では労働者階級が出現する前に政治権力を握ったのは、身分制社会の心地よさから抜け出せない「士族」であった。明治を形成した士族たちは、自らに爵位を与えて貴族化した。そのもとで、資本主義化の「本源的蓄積」が進んだ。だから
日本の近代化は「非対称性」から逃げられない。

 これを資本論が実にわかりやすく説明している。


  「この本源的蓄積が経済学で演ずる役割は、原罪が神学で演ずる役割とだいたい同じようなものである。アダムがりんごをかじって、そこで人類の上に罪が落ちた。この罪の起源は、それが過去の物語として説明される。ずっと昔のあるときに、一万には勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜きの人があり、他方にはなまけもので、あらゆる持ち物を、またそれ以上を使い果たしてしまうくずどもがあった。とにかく、神学上の原罪の伝説は、われわれに、どうして人間が額に汗して食うように定められたかを語ってくれるのであるが、経済学上の原罪の物語は、どうして少しもそんなことをする必要のない人々がいるのかをあきらかにしてくれるのである。それはとにかくとして、前の話にもどれば、一方の人々は富を蓄積し、あとのほうの人々は結局自分自身の皮のほかにはなにも売れるものをもっていないということになったのである。そして、このような原罪が犯されてからは、どんなに労働してもあいかわらず自分自身よりはかにはなにも売れるものをもっていない大衆の貧窮と、わずかばかりの人々の富とが始まったのであって、これらの人々はずっと前から労働しなくなっているのに、その富は引き続き増大していくのである」(『資本論』「第二四章 いわゆる本源的蓄積」大月書店)


  侵略戦争で貴族=華族はすさまじく膨張。←クリック 

  「一方の人々は富を蓄積し、あとのほうの人々は結局自分自身の皮のほかにはなにも売れるものをもっていないということになったのである。そして、このような原罪が犯されてからは、どんなに労働してもあいかわらず自分自身よりはかにはなにも売れるものをもっていない大衆の貧窮と、わずかばかりの人々の富とが始まったのであって、これらの人々はずっと前から労働しなくなっているのに、その富は引き続き増大していく」構造は、キリスト教国にあっては疑う余地のない「原罪」=真理として語られている。対して日本では、有難い皇恩として膨れ上がったのである。


 それゆえ日本のブルジョア化は、極めつけの「非対称性」に彩られた。富を悉く手中にして「道徳」面をするには、人として生きる術のすべてを奪われた世界を形成する必要があった。

 伝染性の極めて弱いハンセン病をペスト並みの怖い病気と言いながら、光田健輔と渋沢栄一が二人して日本中を遊説して回ったのは必然のなせる技であった。患者絶滅を夢想した光田健輔と日本資本主義の本源的蓄積を強行した渋沢栄一は、まさしく「非対称性」日本の両極を象徴する双子と言うに相応しい。

 一万円札にしてはならない男である。教科書で礼賛してはならない輩である。

4/7

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 「給料はあたいが手に触れんうちに爺さんが直接受け取っせな、そんまま直さんに送いやったが・・・」笑いながらそう話したのは、父の妹にあたる叔母である、彼女は女学校卒業と同時に勤めた銀行の給料全額を、数年にわたって父に送金した。爺さんとは父の父である。


 叔母が恨みがましいことは何一つ言わず、まるで懐かしい思い出を語るようであったのは、父に対する「畏れ」であったのだろうか。「トメ婆さんは生きとった、直さんが一人で付き添っせーなぁ」と言葉が喉元まで出ていたのではないだろうか。叔母は父を「兄」とは決して呼ばずいつも「直さん」と呼んだ。不思議な距離をおいている。僕を実の子である従兄弟たちと区別なしに可愛がってくれた叔母である。


 トメ婆さんは頑固にハンセン病療養所送りを拒んだ。「どげんしてと言やいやるなら、こん子ば連れていく」と中学生になったばかりの父を抱きしめて離さなかったのではないか。それほど祖母は長男の父を可愛がり、父は「母さんっ子」であった。

 漢文と数学が滅法得意で自宅にも同級生を呼んで教え、自他ともに大学進学を目指していた。しかし生家は士族とはいえ所詮芋侍の末、子沢山で子どもを全て県立中学や女学校に通わせ、家計は楽ではなかった。だから父は授業料の掛らない高等師範学校から文理大学に進学する積りであった。しかし高等師範は広島と東京にしかない。療養所のある熊本には第五高等学校と熊本高等工業学校。しかも高等工業からハンセン病療養所菊池恵楓園までは熊本電鉄で僅かである。父はトメ婆さんと家のために人生を半分捨てたのだと思う。祖父は出来のいい長男を捨て養子に出し、家督を相続したのはトメ婆さんの血筋とは縁のない叔父になった。


 父が熊本を去る決断をしたころ、僕を連れてある映画を見に行った。見終わって繁華街のアーケードを歩きながら僕にこう問いかけたのだ。「今の映画の題名の意味はわかったか」このころ父はたびたび洋画に僕を連れ出した。「無防備都市」や「自転車泥棒」が印象に残っている。「無防備都市って何ね」と僕は聞いた。父の説明は丁寧だった。

 父が問いかけた映画は「4/7」だった。その日僕は映画館の闇の中でこの不思議なタイトルの意味を考え続けていたから、咄嗟に「半分よりちょっといい」と答えた。父は「うん」と頷いて僕の手を曳いた。

 人生の「3/7」を彼はここに埋めた。それは引き返せない青春である。だが、それは「2/7」や「1/7」で終わる可能性もあった。ハンセン病はたやすく回復したり長生きするものではなかった。


 東京行き急行高千穂が、海底トンネルを抜けて暫く夕闇の中を走ると、後ろに門司進行右手に海が開ける。 窓側に僕と妹を呼んで父はこう言った。「あれが九州、見納めだ」                              

 洞海湾を跨ぐ若戸大橋着工の1958年夏てあった。戸畑側の事務所で当時東洋一と呼ばれた橋の測量と設計に明け暮れた父は、着工とともに事務所を東京に移した。この57年~58年は誰にとっても文字通り疾風怒濤の一年であった。 続く

ひとりとみんな

  学校は「君たちは選ばれた特別な存在だ」と若者を扱うべきだろうか。  名門大学受験特別コースが売りのある大規模高校では、特別コースクラスには、冷房完備絨毯敷き詰めの校舎と特別待遇のベテラン教師が割り当てられた。

 それとも「彼らに与えられるものは君たちにも保証する」と言うべきなのか。後者の場合は、闘いを伴うことになる。「彼らにないものを、我々はどう考えるべきか」と問うだけでも相当に顰蹙をかう。

 不都合な現実を曖昧にしたままとぼけて、厄介事から身を隠しているのではないか。「公」教育がそれでいいのか。

 多分彼らは卒業どこかで交じり合う、違いは滲み出る。その時「奴らは特別なんだ」と、行儀よく諦めたり優越感に浸ったりする。それが世の中さと問題を先送りにする・・・それは程度の差はあるが、ユダヤ人・朝鮮中国アジア人差別に繋がっていないか。「ダーバン宣言」から日本全体が逃げている。嫌なものは見なかった知らなかったことにする歴史的習性を培っている。


  「一人はみんなのために、みんなは一人のために」は掛け声に過ぎないのか。 ラグビー精神や人間ピラミッドの理念として語られるが、その中ではチーム以外の個人が視野にありはしない。

枠外にある者を敵視さえする。「「一人はみんなのため」は「一つの目的」のため」になっている。一つの目的とは達成や勝利である。ナチスは「一つの目的」の代わりに「一人の総統」を、大日本帝国は「現人神ヒロヒト」を据えて酔い痴れた。左の画像は「みんな」の実態を捉えている。この時現人神は防空壕に身を隠していた。


 北朝鮮の憲法第63条は「朝鮮民主主義人民共和国において公民の権利と義務は、『一人はみんなのために、みんなは一人のために』という集団主義の原則に基づく」と規定している。みんなとは誰なのか、一人とは誰なのかをよく示している。酔い痴れる材料としての「みんな」と「ひとり」。

 部活でも「一人はみんなのために、みんなは一人のために」はよく聞く言葉だ。その無内容さは、「北」憲法規定といい勝負である。


   前出の大規模高校の大部分は、一般コースであった。授業料は同じなのに待遇は雲泥の差、それでも生徒たちは「彼らは特別、彼らのおかげで学校全体が有名になれる」と満足していた。学校内だけを見れば、全てがwin-winの関係だと見紛う。


 「部分=ひとり」の利益を「全体=みんな」の利益に、限りなく近づけることは不可能ではない。例えばコロナワクチン製造を私企業から切り離して国際管理の下に置くことによって、最貧国でもワクチン接種が可能になる。その一歩として製薬を国営化した国も既にある。

特権の廃止 / 修行は自らするもの

  

   「吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困っている。それだから西洋の文明などはちょっといいようでもつまり駄目なものさ。これに反して東洋じゃ昔しから心の修行をした。その方が正しいのさ。見給え個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった時、王者の民蕩々たりという句の価値を始めて発見するから。無為にして化すという語の馬鹿に出来ない事を悟るから。しかし悟ったってその時はもう仕様がない。アルコール中毒に罹って、ああ酒を飲まなければよかったと考えるようなものさ」


 『吾輩は猫である』の猫の飼い主・苦沙弥先生の同学八木独仙の言葉である。ヤギ髭の哲学者ではあるが、仲間からは『無覚禅師』と呼ばれる悟りきれない「禅坊主崩れ」である。

 独仙が「自由を得た結果・・・みんな神経衰弱を起して、始末がつかなく(なる)」と言うところを、フロイトは

「ほとんどの人間は実のところ自由など求めていない。なぜなら自由には責任が伴うからである。みんな責任を負うことを恐れているのだ。」とストレートに言って見せる。

 「禅坊主崩れ」までが「アルコール中毒に罹って、ああ酒を飲まなければ・・・」と嘆く。だが飲まずにおれない。会食の「自粛要請」しておきながら、その晩には議員仲間や経営者と会食する政権党議員がうってつけの例だ。

 会食は奴らにとって「自由」そのものだ、黒塗り「公」用車を使って公費や接待費で飲むことを唯一の楽しみに議員になった連中である。国民には事実上禁じたものを自分たちには許す。では自粛要請を止めるかといえばそうはしたくない。政治からの逃避と攻撃され次の当選が覚束ない。そこに浮き上がる意識が「特権」である。自分たちだから許されるという都合のいい意識。彼らにとって「自由」とは特権のことでしかない。

 八木独仙の言うように、彼らには修行が足りないのだろうか。そんな上等な話ではない。そもそもなど修行したくないのである。彼らには、修行は自らするものではない。他人に命じるもの。

 修行としての「自由」。そんな大それた課題を自らに課した少女を、たった一人知っている。  

 自他ともに自由が誇りの自由の森学園中から、管理不感症の都立高へ来た少女。不自由の中に身を置いて、「自由」を実践的に学ぼうと決意したのだ。噂を聞いて僕は、闘士をイメージした。だが授業にでてみると、小柄な可愛らしい少女であった。彼女については『ノートは先生と私の共同作品』←クリック  で書いた。


  「光は闇でこそ輝く。不自由が自由を感じさせる。制約があればこそ不満が蓄積され、自由獲得への欲求が高まる。」などと管理職や生活指導部は言いたがる。まるで「自由は、自由のへの行動や意欲を失わせる」と言わんばかりだ。しかしこうした言葉に教育現場は痺れやすい。忽ち中毒する。しかしおかしなことに、政権党議員と同じように、自分を例外扱いにする。特権化=例外扱いの、おかしさに気付かない。気付かないばかりか、それこそが「指導」だと思い込むのである。おかげでこの国の政権党の教育政策は、修行で鍛錬される機会が敗戦直後の一時期を除いてなかった。だからあらゆる分野の国際競争力が、長い間見下げていたアジア各国に追い抜かれても、「クールジャパン」と自画自賛して能天気なのだ。 

 件の少女は、教師たちに果敢に立ち向かった。「修行」を忘れた教師相手に面と向かって授業を批判する姿勢と言葉は、「自由」を知る者の勇ましさに由来していた。

 批判によって自由を希求するのは、自由に伴う責任を引き受ける決意の表明であった。その姿は同学年の少年少女たちに刺激を与えずにはおかなかった。だから件の少女の学年は、他の学年より知的な開拓精神に満ちていた。僕は知的な精神は、集団に伝染することを疑わない。それゆえ、選別にはどうしても同意出来ない。

妙な写真

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 カメラの脇には大叔母がいて「良かねー、もういっき学校やね」と声を掛けている。そのたびに僕は少なくとも身内にとっての「百万ドルの笑顔」になった。妹はすっかり疲れている。

  この妙な写真(上下を切り取ってある)を撮った時期、我が家はどん底。米も買えず、僅か三年余の熊本滞在中に税務署の差し押さえが二度。ろくに家具調度のない長屋に複数の税務署員が上がり込み卓袱台や電球にまで札を張る傍で、母はただ泣くだけだった。食費に窮したおかげで、母のおからとラードを使ったおかずだけが旨かった。当時おからも肉の油もただだった。

   にも拘らずこの写真である。まるで付属小に入学する坊ちゃんのような出で立ち。写真館の費用などあったはずがない。表紙付きの台紙に張られて身近な親戚に配られた。

 学童服は祖母、ランドセルは大叔母、靴と上履き入れはもう一人の大伯母、写ってはしないが机と椅子は祖父、一緒に写っている妹の靴やバッグは叔母。そのお礼にと記念写真を配らせたは祖母である。

   台紙に貼り付けた写真、妹と並んだ入学記念など周囲の誰も撮ってはいない。

 贈り物には一つ一つに物語があって、大叔母か繰り返し語った。学帽は方々を歩き回ったが、頭が大きくてどれも入らない、泣きたくなった。取り寄せる羽目に。どれも大叔母が走りまわった。

 贈り物の一つ一つの由来がはっきりしている、にもかかわらず、帽子の送り主を僕は聴いた覚えがない。例えば学童服は、祖母が「あたいが購うじ、買わんでよかよ」と母に何度も念を押していた。


 学童帽は、恵楓園の祖母の贈り物であったか。写真は恵楓園の祖母のためだけに撮ったのではないか。

 眠ったままの面会は、誰の願いだったのか。

  最大の謎は、わざわざ熊本に住んだことだ。そしてそのどん底生活を、母は何故容認したのか。

 故郷にいれば、いくらか仕事はあった。 叔父の話によれば、国鉄や役場からの誘いがたびたびあり、県内の大きな市からは課長の地位の申し入れもあった。30そこそこの失業技師のどこに目をつけたのだろうか。「兄さんな、なんごち貧乏ば選んだかね。俺には分らんとたい」    続く


スマホやSNSは、信頼や連帯を育てない

  携帯抜きの日常を形成できなくなった高校生と、携帯に依存しない高校生への実験による京大霊長研が、興味深い分析結果を公表したのは2003年だった。


 実験の報酬として五千円を渡された実験参加高校生たちは、互いに面識のない者同士に分けられ、投資をする。五千円すべてを使って相手に儲けさせるかどうかを決める。選択肢は五千円すべてを使って投資するか、全く使わないかの二つしかない。投資をすると投資した側には見返りがないが、投資された側すなわち五千円を受け取った側にはさらに一万円が与えられる。最初に五千円を投資するかどうかを決断した後でもう一人はどうするかを決断する。従って最初に決断する側は、相手がどう振る舞うかを全く知らない。

  非ケイタイ族は、自分自身が最初に決断する側になった場合、約八割が五千円を投資し相手に渡す。対してケイタイ族で同じ決断をするのは二割。

 相手から投資を受けた場合どう振る舞うかでは、非ケイタイ族の95%が相手にも投資するのに対して、ケイタイ族の場合は投資を受けても相手に投資するのは四割弱。相手が投資しなかった場合、非ケイタイ族の半数弱が投資するが、ケイタイ族では僅か5%にすぎない。


  この実験からわかるのは、非ケイタイ族が利他的に行動したこと。そしてケイタイ族はの振舞いは利己的で、相手が利己的判断した場合には応酬的で裏切り的であった。

 自分自身が投資を受けなかった場合でも相手に投資し所持金が零になったとしても、ふたりの合計は増える。結局どちらが得するかを計算すると、平均でケイタイ族が当初の報酬額程度しか得ていないのに対し、非ケイタイ族は約倍の額を得ている。非ケイタイ族が未知の相手に対し冒険的に相手を信頼するのに対し、ケイタイ族は自己の利益に囚われ利己的に振る舞ったにもかかわらず、非ケイタイ派が二倍近い利益を確保しているのである。


 ケイタイに対する依存が、事柄の関連性を破壊断片化するだけでなく、人間的な連帯や関連性さらには社会全体の豊かさまでも砕いてしまう可能性があることをこの調査は示唆している。こうした信頼をもとに形成されるのが「公」の概念であり、その中に自然に生まれる態度が「連帯」である。


 クラスやクラブで利他的かつ自律的に行動する生徒たちが、ケイタイの使用を全くしないか強く抑制している者であることは経験的に断言できる。同じことは答案の質についても言える。


 非携帯派の生徒たちは利他的に振舞うことが出来、結果的には自他ともに利益を得ることができる。

 企業を経営する場合、社員に労組活動や市民活動を保証することは株主や経営者の利益を損なうと考えてしまう。そんなことより政権と癒着することに投資して、竹中平蔵の如く「首を切れない社員なんて雇えないですよ!普通」をパソナで実践し、住民票を米国移動して住民税逃れをすれば、自身は海外資産数千億円を噂される迄になる。しかし彼の提言を受け入れ実践してきた日本の競争力は惨憺たるものとなった。

 

  物事を計画的に実施したり、結果を予想するには、たっぷり時間をとらねばならない。これがなければ、傲慢に振舞う幼稚性から脱却できず、人間らしい理性的判断ができなくなる。

 通信だけでなく、地図による案内、買い物の決済、電車の乗り換え案内など便利な機能が満載のスマホ。授業の板書にも、分からない言葉即座に調べる便利な学習道具でもあり、ゲームの機能まで組み込まれ一時も退屈させない。しかし人間が成長するには「暇」は欠かせない。静かで永い時間が無ければ、ヒトはものを考えられない。「我慢」も時間をかけて考える行為の一つである。だから未来を予想する緊張ある主体的行動となる。


 「お喋り」や「よそ見」を恐れるのではなく、スマホや携帯で断片化される思考を恐れねばならない。

 思考が成立するには長い連続した時間が必要であることを、KH高(当時学区最底辺校と見られていた)で偶然経験したことがある。カリキュラム編成の移行過程で「現代社会」が2単位から3単位に増えた年があった。かつて社会科(政治・経済・社会、時事問題、世界史、日本史、東洋史)すべてが5単位であった。それが今や「公共」と道徳紛いの教科に名まで変え、わずか2単位。すべてが断片化する中で、思考までが断片化されては批判精神の育ちようがない。何故なら批判精神は、それ自身長い歴史の産物なのであるから。


  全盛を極めるケイタイ的世界に学校までが依存している中で、連続的に思考することは困難なことに違いないが、高校生になってそれがどうなっているのか見る。


 僅かな単位数の違いに、生徒たち自身の社会あるいは報道に対するものの見方がどのように変化してきたのかについて述べているものが答案にあった。いくつか抜き書きする。  


◎ 中学生の時なら、私はこの記事を読んでも、日本人が殺されたという事実にしか目を向けなかった。

 彼女は二人の日本人外交官の死を悲しむと同時に、不条理な戦争で殺されている一万人に及ばんとするイラク市民の死について考察を進めている。そして始まる前にこの戦争を止められなかった自分たちについても。


◎  隠しカメラについて。中学生の頃なら私は、国の決めたことだし仕方ないと考えたと思います。今の私はそれはよくないと考えます。街に防犯カメラがあると言うことは、常に国から監視されている事だからです。常に見られているということは、自分自身の自由を損なう事だと思います。・・・常に気を張って、見られていると意識しなくてはならないと言うことは、人間としての自由が無い。

◎  中学時代の私ではこんな事は考えなかったと思います。おそらく犯罪が起こっているのであれば使わなければよいとか、問題のサイトを消してしまえばよいとか考えていたでしょう。

 情報化する犯罪の増加と進化を、社会的弱者にとってのITの有効性とのバランスにおいて考え始めている。


◎  少し前の私だったら、もし家族の誰かがガンになったらどうしようとしか考えなかったと思う。しかし今は自分の将来や患者について様々に考える。 

◎   私は今まで人と話し合うということでは、自分の意見をあまり言わず、人の意見に左右されてきた事が多い。このままでいい、これからもと思ってしまっていた。しかしこれからは少しずつ意見を言おうと思う。意見を言うことで、人とのぶつかり合いもあるかもしれない。その時は自分の考えを曲げることなく、人の意見も取り入れていきたい。相手に自分のことが少しでも解ってもらえればいいし、自分も相手のことが解り一石二鳥。口で言うとこんなに簡単な事が実際はなかなかできない。身近な問題ならともかく、世界や日本のことという大きなテーマでは簡単にいかない。でも、立ち止まって考えることが大切だ。

 この生徒は、家族の問題から世界の問題までが暴力的に処理されつつあることに驚き、報道が伝えない平和的な解決について、もう流されないで考えようとしている。

 『自分の考えを曲げることなく、人の意見も取り入れていきたい』という表現の中に、この生徒の自己形成の悲しみが見えている。人の意見との対話の中で自分の意見も相手もともに成長する経験をしていない。だから人の意見を取り入れることはすべて自分をまげることでしかなかった。


   社会全体が思考を断片化し短いメッセージしか受け入れない時代に、それでもと言いながら抵抗し考え疑い続けるのが青年ではないか。

 メッセージが断片化し、遠い仲間との会話を優先するのは、猿の会話の特性でもあるという。目の前にいる相手の表情を読みながら対話することを避け、ケイタイによって離れたところにいる表情の見えない仲間と絶えずつながっていなければ不安であることは、現代人の知性の終焉を警告しているのかもしれない。

 1970年元旦の朝日新聞が、有識者にアンケート調査したなかに「コンピュータをにくむ人がふえるか?」の項があった。「ふえる」と答えた人が32人。多くの知識人が最先端技術による利便性の陰に危険を予測していたにもかかわらず、我々の社会は有効な対策をもてないでいる。

  なぜものを考えるには永い静かな時間が必要なのか。ゲームなどの依存性の「誘惑」には即座に反応するのに、「考える」ためには、どうも一定のウオーミングアップが必要らしい。それをゲームや通信がいとも簡単に断ち切ってしまう。


ものを・・・正当にこわがることはなかなかむつかしい

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  『ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい』

と言ったのは、寺田寅彦である。それゆえ、彼は人々が無暗に恐れる現象に根拠がないことも見抜くのである。


  「大学の構内を歩いていた。病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄ぐらいの大きさの疣が一面に簇生していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。

 背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。

 そうして、「おとうちやん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした」 寺田寅彦(大正十二年三月)


 科学者には、人々の認識を迷信や魔術から解き放つ社会的任務がある。実態を見抜き本質を追及してこそ科学者である。自由は科学者の属性、僕の父も在野の数学者でもあった。    

 父と祖母の姿も、寺田寅彦の描いた親子のようであった筈。しかし僕は祖母の顔を想像出来ない。表情が浮かばない。顔に症状が現れた祖母に向かって、「ばぁちゃん」と抱き着いただろうか。就学前の僕は無類の泣き虫で、父や母を困らせていた。


 父方の叔母は「直兄さんな、勉強はよく出来やった。ばってん、でひな母ちゃん子でな。妹のあたいから見てん甘えん坊じゃった」そう言いながら古いアルバムを見せてくれた。「でひな」とは、たいそうという鹿児島弁である。写真には坊ちゃん顔をした旧制中学生が、上等そうな小倉の夏服に高下駄姿で庭の石垣に腰かけている。


 祖母の名「トメ」には、子だくさんに悩んだ曾祖父の願いが込められている。

 「松原トメ」の名を、「菊池野」(恵楓園自治会機関紙)に見出した時、眠ったまま面会したのは祖母かも知れないと考え始めた。祖母が父を産み育てた土地の通称が松原であったからだ。

 当時ハンセン病者は、療養所への「収容」と同時にそれまでの衣服も名も捨てさせられた。名を改めたのは手紙で感染の事実が知られ家族に迷惑が及ぶのを恐れたためである。迷惑を恐れて自死する者、親族による射殺や一家心中事件も後を断たなかった。それは偏見が人々にもともとあったからではない。

 全生園ハンセン病図書館に、ガリ版刷りの古い「無癩県運動」一覧表があった。自宅で療養する患者を療養所に囲い込めば、ハンセン病が消えるがごとき動きを行政と専門家が先頭に立ってやったことが「無癩県」という名称に現われている。治療の観点ではなく絶滅隔離の視線が伝染力の極めて弱い病気に投げ掛けられたのである。偏見や差別が先にあったのではない、意図的に作られた結果なのだ。(収容患者の範囲が浮浪患者から全患者に拡大され始めたのは、1925年衛生局長通達からである。狙いは窮乏患者を救うためではなかった。重症患者等の園内重労働の担い手を確保する狙いであった。1931年癩予防法から本格化する。)

 現在の鹿児島県webサイトには、「昭和4年頃からは,各県において,ハンセン病患者を見つけ出し強制的に入所させるという「無らい県運動」がおこり」と、行政の作為を恰も自然現象のように記述している。事実は、県が「無らい県運動」を組織したのである。おかしな話である。療養所に送り込めば、なぜ「無らい県」なのか。

 療養所は厄介者の捨て場としての「外地」なのか。作家島 比呂志は、療養所を『奇妙な国』と呼んだ。その国境内は「日本」ではなかった。この国では滅亡が国家唯一の大理想であり、子孫を作らないために男性の精管を切り取ったのである。子どもも義務教育から除外。やがて死に絶える子どもには未来はないと断定した。

 

 1905年の帝国議会では、ハンセン病をペスト並みと決めつけ隔離を要求する議員に、内務省衛生局長は、

「(伝染病予防法は)急劇ナル伝染病ニ対スル処置デアリマスカラ、或ハ隔離ト云ヒ、交通遮断ノ如キ、其他此多クノ処置ハ、癩病ニ対シテ、直チニ適用ハ出来難イ」と隔離を退けていた。

 ところが初代全生病院長になる医師光田健輔は、渋沢栄一とともに「ペスト並みの怖い病気」という誤った印象形成に精力を傾け全国を遊説したのである。


   これまではただ遺伝病だと思っていたらいが、実は恐るべき伝染病であって、これをこのままに放任すれば、この悪疾の勢いが盛んになって、国民に及ぼす害毒は測り知れない。    渋沢栄一  

   ハンセン病患者を外来患者として病院が受け入れることは、ペスト患者を外来患者として受け入れることと其理に於て大差ない。  光田健輔 

  

 猛毒性のペストを引き合いにした「恐るべき伝染病」という極端な誇張は、資金集めと偏見助長の格好の標語となった。だが言葉の偽造は、我々を真実の発見から遠ざけ、実態や本質を隠蔽する。(コロナ対策行政が、繰り出す「ウイズ コロナ」や「新しい生活様式」などの標語も、コロナの実態と対策から国民の視線を遠ざけている)それを街の煽動屋ではなく専門医と渋沢がやったことに恐ろしさがある。僕が渋沢を新しい日銀券にふさわしくないと主張するのはこのためである。

   1953年からの2年、熊本市黒髪町の龍田寮児童(ハンセン病療養所菊池恵楓園入所者の子弟)通学をめぐる全国的事件があった。龍田寮事件とも黒髪校問題とも言う。この事件の最中僕は、堀に入って遊んだことになる。

 文部大臣や大学が混乱の調停にあたったが、同盟休校にまで発展、 1955年秋から子供たちは、親戚や熊本県内10か所の児童養護施設に極秘に引き取られた。

 この年に開校したての詫間原小学校に入学。この学校と黒髪校は、熊本市中央を流れる白川を挟んで、歩ける距離である。

 そこで、施設から通う三人組の一人と同学級になった。陰あるその子に妙に惹かれて遊びに誘った。しかし放課後になると、「施設のおばさんに遊んじゃいかんと言われとるけん」と三人で逃げるように帰った。校門の上から三人が白川にかかる橋を渡り、丘の麓に見えなくなるまで見ことがある。彼らの一人がひょっとすると「松原」君ではなかったか。父のすぐ下の妹も祖母と同じ時期に戸籍から消えている。ハンセン病療養所の夫婦は断種を強制され子どもを持てなかったが、恵楓園では患者が出産したケースがある。

追記 画像は寺田寅彦、後方に写っている女性が母のアルバムにあった父方の祖母に似ていて気になる。       続く

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...