ソクラテスは如何に問答していたのか

 2002年7月1日 

 何に疲れ切ったのか、机に突っ伏している生徒に「寝てていいよ」と言うと、「起きます、大丈夫です」と重たそうに顔を上げてペンを握る。授業が終る頃にはすっかり元気になって、質問に寄って来る。

  昼休み教室前の廊下で生徒に捕まる。

 「パレスチナ問題におけるイギリスの役割」といきなりだ。

 互いに喋っている間に一人、三人と寄って来てずーっと聞いている。まるで、聞かずにいるのは損だと言わんばかりだ。

  僕も質問した。

 「授業が始まる前に、茶髪やピアスを注意されたら、授業は半分ぐらいしか入っていかないかい」

  「うぅん、全然、聞かないで寝ちゃう」   

  「・・・化粧がどぎつくなる時の君は、必死で自分の存在を守ろうとしているのかい」と聞くと、長く考えて少し微笑む。友達も聞いている。

 「自分の立っている場所がどんどん無くなって行く、狭くなって行く不安をどうにも出来ないように感じる」隣の生徒が、「そういうことだよ」と呟く。

 本人はじーっと考えていた。


 表現に向かえない不安・不満は、いつか反抗や暴力として現れる。必ず。先ず外へ向けて、そして最後は自分自身に向かって。表現の芽として、生徒たちの不安に向き合う「義務」が教員にはある。

 少年/少女には本来「難しい」こと「分からないこと」はない。分かるように振舞う事が、学校や体制への迎合に思えてしまうのだ。少年期とはそういう時期である。頭も体も不安定だが、精神は猛烈な勢いで藻掻いている。そんな時期に強要された「成果」を求めて、消耗するのは馬鹿げている。

 困難さがあるから、それに立ち向かう。頭を「ふんじばる」ように。

 この生徒たちは極めつけの「低偏差値」。そんなレッテルを張っておいて、教師は「難しい」問題から予め逃げている。どうせ分からないと決めつけている。逃げているのは昔少年であった筈の教師。逃げているうちに考えることを忘れてしまう。

 少年にとって重要なのは、考える価値があるという事実。それを示す役割が教師にはある。難しく複雑なことを、誰にも分かるように構成し直す。それを繰り返すうちに、少年は難しさ困難さをそのまま引き受ける。それまで僕らは待ち続けねばならない。それに数年を要することもある。そうしてソクラテス式問答は生まれたのだと思う。 

  

何故ハンセン病者は死に至る苦難に曝され続けたのか。渋沢栄一は一万円札に値するか。2

 承前

 渋沢栄一と深いつながりのある鹿島組(現鹿島建設)に小冊子「朝鮮人労務者の管理について」がある。冊子は朝鮮人の「短所」として、知能程度が低くて向上心を欠く・国家観念に乏しい・利害に敏感・無抵抗主義の風潮あり・・・などを26項目にわたって挙げている。しかも結びで、「親しんで馴れるな、しかして愛のムチに涙の折檻を忘るる勿れ」と付け加えている。

 渋沢栄一は京仁鉄道社長でもあり、朝鮮初の鉄道工事ほとんどは鹿島組に特命発注している。その際作られた冊子と思われる。朝鮮人蔑視思想は日本帝国主義支配層によって意図的に形成され、関東大震災で組織されたものだ。権力による人災=震災後の流言飛語と無差別殺戮を準備したこの冊子には渋沢栄一の世界観が反映している。 

 そんな人物が一万円札になる。そんな人物の生涯を、日本資本主義の父として「大河ドラマ」に仕立てる風潮を軽薄だと思う。

 しかも渋沢栄一は「ハンセン病」に関して次のように遊説して全国を回っている。

 「これまではただ遺伝病だと思っていたらいが、実は恐るべき伝染病であって、これをこのままに放任すれば、この悪疾の勢いが盛んになって、国民に及ぼす害毒は測り知れないものがある」 

 彼に隔離の必要性を進言したのは、若い野心溢れる養育院勤務の医師光田健輔。養育院は渋沢が設立した「福祉施設」。野心家はある種の使命感に駆られてこう説いている。

 「ハンセン病患者を外来患者として病院が受け入れることは、ペスト患者を外来患者として受け入れることと其理に於て大差(ない)」

   光田と渋沢の執拗な煽動は、ハンセン病におどろおどろしい印象を与えて患者を好奇の目に曝し「ペスト並みの怖い病気」という嘘は、巷に行き渡る。

 渋沢は一時の判断ミスで、光田と行動を共にしたのではない。愛生園園長となった光田は、 1931(昭和6)年記録映像を携え渋沢を訪問している。

 「長島愛生園は子爵のご事業の結晶です。ぜひ一度お訪ねいただきたいのですが、とりあえず活動写真だけでもお目にかけたいと思いまして・・・」と愛生園の様子を映写した。

 渋沢栄一は感歎の声を発し「光田君、よくここまでやってくれた。今後とも頼むよ・・・」と言ったと伝えられている。


  「明治5年東京府知事は「違式註違(いしきかいい)条例」を発令。刺青、男女混浴、春画、裸体、女相撲、街角の肥桶などから、肩脱ぎ、股をあらわにすること、塀から顔を出して笑うこと等76箇条を「文明国」に有るまじと決めつけ、軽犯罪としている。

  ・・・裏声で攘夷を絶叫していた薩長が長英・薩英戦争で敗北、その英国の後押しで政権にありつくや、一転して英国人にとっての「不快」な存在そのものを禁止・排除・抹殺して迎合しご機嫌伺いするのをくい止められはしなかった。敗北してなお保つ小国らしい矜持はここにはない。 植民地的従属性に彩られた全体主義的絶滅思想の腐臭がある。

 こうして叩かれた一つが、ハンセン病浮浪患者だった。彼らの実態は貧困にある。急激な膨張で悪化する「帝都」の衛生状態を放置し、チフス・コレラ・赤痢など伝染病死者が万を越える。それでもお上は貧民・患者救済には目もくれず、慣れない洋装で鹿鳴館通いの乱痴気騒ぎに興じて、御殿造営、軍備増強、爵位・勲章の乱発には抜かりなく、それを文明開化と呼ばせた。

 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊

  

 養育院の「文明開化」に於ける役割は、「臭いものに蓋」をして欧米人の眼に触れぬよう、巷に横溢する生活困窮者を狩込み加賀藩邸跡に収容することであった。


  「ハンセン病患者を外来患者として・・・受け入れ」ていたのは、他ならぬ東大医学部お雇い外国人医師ベルツであった。彼は皇室始め政財界要人たちの信頼も厚かった。

  彼はこう書き残している。

  「 東京大学の病院の大部屋で、私は20年以上にもわたって常にハンセン氏病患者を、他の患者達の間に寝かせてきた。しかし、患者も医療従事者も誰ひとりハンセン氏病に感染しなかった。潜伏期間が長いために感染の事実が立証できないだけだというよくある反論も、20年を超える時間の長さを前にしては無効である。」

  政府はベルツの帰国を待つように「明治40年(1907)法律第十一号・癩予防に関する件」成立させる。全生病院等5カ所の療養所が開設されるのは1909年。1916年患者懲戒検束権を所長に付与、1925年には衛生局長通達で浮浪癩患者以外も収容。光田健輔念願の全患者隔離は、「癩予防法」「国立癩療養所患者懲戒検束規定」として1931年実現する。

 ベルツだけではない。日本人学者・医師にも絶対隔離を間違いとするものは少なくなかった。東大皮膚科教授大田正雄(木下杢太郎)はこう書いている。

 「なぜ(ハンセン病の)病人はほかの病気をわずらう人のように、自分の家で、親兄弟や妻子の看護を受けて養生することができないのだろうか、それは強力な権威がこれを不可能だと判断するからである。人人は此病気は治療出来ないものとあきらめている。・・・

 然し今までは、此病を医療によって治療せしむべき十分の努力が尽くされたとは謂えないのである。殊に我が国に於ては、殆ど其方向に考慮が費されて居らなかったとい謂って可い。」 


何故ハンセン病者は死に至る苦難に曝され続けたのか。渋沢栄一は一万円札に値するか。1

 どうしても合点の行かぬ事がある。わが民族は津波などによる理不尽な物故者を、何時までも忘れまいと涙ぐましい努力をする。遠い外国で行方不明になれば、捜索の邪魔になると制止されても現地に駆け付ける。身内も世間もそれが美徳と煽りたてる。葬式も疲れ果てた親族に過酷で大仰な形式にしなければ、世間が承知しない。


 悲嘆に暮れる身内をそっと見守れないのか、英国のように。現場に駆け付けたり、葬式の段取りで疲れ果てたりさせはしたくない。理不尽さ残忍さを早く忘れる。理不尽を忘れる事と個人の思い出を忘却することを混同してはならない。

 その根幹には、悲しみを社会全体が共有する仕組みがある、と僕は思う。それがビバレッジ報告の思想を支えている。身内も財産も失った者が、何一つ無くとも平穏のうちに暮らせる福祉制度がある。例えばこの国の病院には支払い窓口はない。病院を利用した者が交通費を受け取る窓口はある。

 以前英国の老人ホームについて書いたことがある。https://zheibon.blogspot.com/2019/09/blog-post_26.html


   英国の老人ホームは重厚である。領主や貴族の館を敷地ごと居心地の良いNursing homeに利用している。ベッドや椅子など家具も館の雰囲気を壊さない上質なもの。日本ならこんな老人ホームに入るには、億を超す一時金と月々数十万円の費用が掛かる、並みの国民が到底準備出来る額ではない。


[bristol nursing home]を画像検索すればいくらでも出てくる。任意の英国の町名でやっても出てくる。

 この国では誰であろうと国民が老人ホームに入居する場合、住宅、貯蓄、年金などの資産併せて500万円以下なら全てその費用を国が負担する制度になっている。ビバリッジ報告の精神「揺り籠から墓場まで」は、今尚守られている。長いナチスドイツとの闘いを経た戦後の苦しい生活の中で英国人が獲得した制度だ。ちっとやそっとでは揺るぐはずもない。労働者や福祉嫌いのサッチャーが腕まくりして戦争で国民を騙しても、これは残っている。

 だから英国の労働者は、140万円の貯蓄でも悠々と生活できる。出世競争で過労死することはない。中学生や高校生は、日本のように将来に備えた受験競争で鬱になることも、推薦入学を狙って部活で体罰や虐めに耐える必要も無い。

 英国の少年は、政治や環境もに関心を持ち自由に行動できる。演劇や音楽にも夢中になれる。祖父や祖母たちの生活が保証され安定していることが、少年たちを若者らしい正義に導く。だからhate言説にも引っ掛からない。

 安心とはこういうことだ。


  ところがハンセン病者に対して、我々はどう振舞ってきたのか。病気が見つかっただけで、社会から徹底的に排除しなかったか。死んだことにして戸籍から抹消さえした。 伝染の可能性が殆ど無いのに、大げさに消毒したり家ごと焼き払った。療養所で生きているのに見舞いもしない。遺骨になっても引き取らない、たとえ引き取っても列車の網棚に放置した。

 津波や火山爆発や地震の犠牲者は、いつまでも「忘れない」と官民ともに泣き悲しみ続けるのに。

 どうしてハンセン病者は、こんなに早く忘れられたのか。母親に「海に入って死のうか」と懇願されたり、保健所職員から「殺しなさい」と脅迫された子どもも少なくない。身内に殺されたり一家心中した例も数えきれない。新憲法下でも同じ構図が繰り返されてきた。

 一旦収容されれば、死に至る虐待や違法行為が放置され、その犯人=職員が処罰されたことは一度も無い。

 どうして彼ら患者=犠牲者を供養する地蔵や記念塔は、療養所の内にしかないのか。

 江戸時代にこんなにまで残酷な扱いをした病気の記述はない。他の病気同様に苦難を強いられた。明治初期には「らい」専門病院も街中に複数開設され、治癒するという前提で取り組んでいた。この漢方医たちの取り組みは、後の公立・国立療養所に比べても妥当なものであった。


 ここに日本ハンセン病学会(日本らい学会)の自己批判がある。世界の趨勢からあまりに遅れていた様子が良く書かれており、引用する。

                           日本らい学会の自己批判 

 ・・・らい患者(ハンセン病患者)、・・・の年次推移は、1897年から1937年にいたるまでに、急速な減少・・・を示している。・・・疫学的に見たわが国のらいは、隔離とは関係なく終焉に向かっていたと言える。つまり、このような減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染源の隔離を目的に制定された「旧法」(癩予防法・1931年)も、推計学的な結果論とはいえ、敢えて立法化する必要はなかった。・・・    

 ハンセン病治療は、当初から外来治療が可能であり、ときには対応が困難とされたらい性結節性紅斑やらい性神経炎も、現在では十分管理できるようになった。・・・

 また、ハンセン病医学の現状をみると、・・・特別の感染症として扱うべき根拠はまったく存在しない。・・・

 「現行法(らい予防法)」はその立法根拠をまったく失っているから、医学的には当然廃止されなくてはならない。・・・

 隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、らいの恐怖心をあおるのを先行してしまったのは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであった。この誤りは、日本らい学会はもちろんのこと、日本医学会全体も再認識しなくてはならない。1995.4.22     

                             

 「日本らい学会」予防法検討委員会委員長としてこの「自己批判」起草に関わった成田稔医師は、更に断言している。                                    

 はっきりといってわが国の癩対策は、予防的効果において自然減を越えたとは考えられず、癩による災いを本質的に取り除いたわけでもないから救癩でもなく、それに産業系列から生涯隔離したのでは救貧にもならない・・・・

・・・はっきりいえば、多くの患者はまさに見殺しにされていた・・・。 


 日本のハンセン病政策は、その始まりから間違っていた事が分かる。

 1897年というのは、第一回国際らい会議がベルリンで開かれた年である。会議ではハンセン病が伝染病であることを確認し「恐ろしい病気」との認識は無く、資力のない貧しい患者には町中の病院に相対隔離=isolation を推奨している。相対隔離とは絶対隔離=segrigation とは異なり患者の社会関係は維持され、治癒すれば退院出来た。第二回会議(1909年)では絶対隔離の必要性は認められず、第三回会議(1923年)強制隔離の非人間性を指摘、第七回東京会議(1958年)では強制隔離政策の破棄を勧告している。

  国内外に絶対隔離批判的見解が台頭しても、日本のハンセン病の権威と行政は聞く耳をもたず、人道・人権・開放・早期発見早期治療の世界的潮流から頑迷に孤立し続けたのである。 


 世界から孤立してまで、頑迷に犯罪的絶対隔離政策を推進し、数万に及ぶハンセン病者を地獄の底に送ったのは誰なのか。

 一人は「救らいの父」と持ち上げられ、文化勲章に輝く光田健輔医師、もう一人は大河ドラマの主人公・新一万円札の顔、正二位勲一等子爵渋沢栄一である。

  続く

団体交渉権ある組織を持つ意義

 何故欧米では、個人が自立して権力や組織に対して堂々と発言出来るのか? 父が子に躾けるべきは、忖度が最も卑しい行為と諭すことと言われるのか。

 忖度は日本の新聞とtv番組の名物となった。何故報道を装ったバラエティ番組では、芸を失いそうな人物が広告代理店や政権にすり寄るのか。tvショッピングで恥ずかしく惨めなコメントと姿を曝すのか・・・。

 例えば合州国には、SAG-AFTRA(Screen Actors Guild - American Federation of Television and Radio Artists)「テレビ・ラジオ芸能人と映画俳優労組」がある。組合員16万人、劇場やテレビはSAG-AFTRAと労働協約を結ばなければならない。それゆえ、強大な映画会社やTV局とも対等に交渉できるから、俳優らの生活・権利が向上し自由な政権批判も可能となる。

 そればかりではない、吉本のような芸能事務所が巨大な支配力を持たないよう、その機能は法的に分離制限されている。「マネージャー」業務(タレントのスケジュール管理や世話)、「エージェント」業務(仕事斡旋や契約)、「プロダクション」業務(企画・制作)は一つの組織で独占出来ない。

 俳優労働組合がないのは、主要国では日本だけ。海外各国には複数の俳優労組がある。 日本には「日俳連」約2,600名が加入する組織があるが、労組とは言い難い。日本の俳優は個人事業主と見做されTV局や制作者と対等に出演契約を結ぶことは難しいからだ。最低賃金さえないに等しい。契約書もないまま撮影が進んでしまう。団交も争議もできないからだ。  

    9万5千人の芸能人が所属した日本唯一の芸能人向け年金制度業界団体が潰れたのは2009年、36年間運営して解散した。これも自由化政策がもたらした改悪によるもの。

 

  しかし労災保険法改正が実現、 2021年4月から芸能人にも労災保険が適用される。言葉の正しい意味での法律の「改正」は長い間なかった。自由化や国際化問う名目で公然と「改悪」「後退」が画策・強行されてきた。去年の労働者協同組合法成立とともに明るい出来事と言える。


 いわゆる芸能人は、番組や作品で酷い労働環境に曝され続けてきた。性格の弱い芸人を虐め笑いものにする番組さえ作られたのだから、日本の俳優たちの労働環境は狂っている。その劣悪な環境でのし上がった「芸能人」をTVは多用して、政権に忖度している。政権党から立候補する芸人もいる。

 彼らが欧米の俳優たちように、報道機関のように誇り高く立ち上がるのはいつの日か。


   今我々が危惧しなれればならないのは、日本の教師も労働組合のない状況に置かれている事だ。まともな国で教員にスト権も断交権もないのも日本だけ。おかげで教員は権利や生活のために権力に忖度する事を考え、人間らしい感覚を失っている。

 良心に基づいた授業や指導が「孤立」し勝ち。生徒や父母に背を向け、主幹教諭や主任教諭に逃げる始末だ。

 演劇も教養も忘れた電通御用吉本芸人やtvショッピングタレント並みになってはいないか。誇りを取り戻さねば、早晩教育者とは呼ばれなくなるだろう。

 日本のTV局や新聞社が政権や広告代理店に忖度して取材しないスキャンダルも、欧米メディアは警察の制止を振り切って堂々と取材する。彼らの取材もその国の労働組合が守るのだ。

 

自治と「他」治 / 「指導」の実態は「妨害」に過ぎない

  承前

 件の高校生が、答案の裏に書きっ放しでは収まらないとわざわざ謝りに来たと言う。口先の語句だけでは責任は示せない、彼も国会中継を見ていたのだろうか。 

 やはり彼は、少年から青年へ成長したのだと思う。政治家も官僚も社長も、党籍離脱や口先や入院で当面の風当たりりをしのごうとする醜さは、少年たちの反面教育に大いに役立っている。

 国会中継を見て幼児が「母ちゃん、あれはバカだね」と言う光景が広がるに違いない。


 しかし好事魔多しという。M先生は生徒会を背負って立つているかに見える高校生に「期待しているよ」と声をかけた。

 「期待しないでください。私はそんな力がないです」と言われて、先生は「しまった」と後悔した。若い教員の過剰な自信と生徒の自信のなさとのギャップの大きさに日頃から驚いていた先生らしい。件の高校生は重荷に喘いでいたのだ。

 医者は肉親が患者になると誤診をする。重荷になるからだ。

 「しまった」は興味深い。

 先生がそのあと続けて「・・・実は僕も力不足でね、教室に入るとき胃が痛くて困ってるんだ」と返せばどうだっただろうか。二人の間に「共感」が生まれたかも知れない。

 評価すれば嬉しくてますます張り切る者もある。評価が重荷になる者もある。評価されるたびに傲慢さを増す者もある。正当に評価することは難しい。すぐさま「しまった」と気付いたことが、さすがと思う。


 日本の学校では、自治が「他」治でしかない。上から目線の指導が好きなんだ。サッカー好きの大人は自らチームを組んでゲームに汗すればいいと思うが、なんと多くの大人が少年サッカー「指導」に押し寄せる。子どもより指導する大人のほうが多いことすらある。

 しかし彼らが指導や自治を知っているとは思えない。第一、学生時代に自治会を経験したことがない、地域の自治活動もない。組合の役員にも学生運動経験者は、吃驚するほど少ない。そのことが、先生の言う「若い教員の過剰な自信と生徒の自信のなさとのギャップの大きさ」に繋がる。つまり自治も指導も、知識だととらえているから妙な自信に満ちる。 

 自治は多かれ少なかれ「独立」への志向を含んでいるから、安定と秩序を求める「当局」の妨害や弾圧に曝されやすい。それゆえ自治意識に磨きがかかるとも言える。進路に有利なんてことは在りえない。

 再就職するサラリーマンが面接で「何がやれますか」と聞かれて、「管理職なら」と口走る話は昔から有名。上に立ち、指示を出す快感が好きなんだ。


 やるもやらぬも決定権は我にあり。それが自治の根底になければならない。文化祭も体育祭も学校行事なら生徒自治会がやってはいけない。毎年その行事ごとに、有志の独立実行委員会を作らねばならない。独立とは決定権を持つという事。集まらなかったら流す。生徒会の目的は自治、学校との交渉が任務。下請けじゃない。


  学生運動や労働運動・社会運動が盛んなヨーロッパにもAALA諸国にも、教師による生徒「指導」はない。    「罰」する機能は管理職にはあるが、教員は係わりを持たない。

 処分する分掌が同時に自治指導する体制は常軌を逸している。そんな関係の下で教師の待遇改善要求に生徒が、生徒の権利獲得に教師が夫々連帯することが出来ようか。

 ここから我々が認識すべきは、我々が「指導」と思い込んでいるのは、実は「妨害」に過ぎないという実態だ。

 そうでなければどうして、大学は生徒会経験者を推薦入試で優遇するのか。生徒会役員経験者は、企業や大学など組織への奉仕を期待されているのさ。舐められるな高校生、反乱しろ。


人格陶冶 / 「みんなで」から「たとえ一人でも」へ

  埼玉のM先生からmailがあった。要点だけを引用させてもらう。

 今日、テストがあり、その解答用紙の裏に、次の文を書いてくれた生徒がいました。

<<たくさん勉強しても点が取れないけど、がんばりを認めてくれたのは先生が初めてです。うれしかったです。・・・。どんなにボロクソな点をとっても勉強をがんばったって認めてくれて本当に本当にうれしかったです。・・・。>>

 <<1学期の件 素直に認められずすみませんでした。自分の非を認められなかった幼稚な考えを改めます。本当にすみませんでした。>>

 同じことを繰り返して書いてあって、そんなにうれしかったのか・・・  (後半の部分は)授業で彼の行動を私が注意したことです。書かなくても、謝らなくてもすむのに。

  M先生はmailで高校の状況をこう書いている。

  <<今、教員は、生徒との「共感」が、授業でも授業以外でも少ない感じました。>>


   教室に授業に共感の空気が流れていれば、褒められても叱られても嬉しいに違いない。そこで生徒も教師も、自己を再発見するからである。自分の本当の姿になかなか人は気付かない、それが欠点であればなおさらのことだ。

 M先生は来年教壇を降りる。彼は日々の授業を、生徒たちとの対話を中心に構成してきた。だからいつも笑いやお喋りに満ちている。ところが去年、何時までもお喋りが止まない。堪りかねた知り合いは、苦言を呈した。

 すると、以外にも「叱ってくれた」ことに嬉しさの感情を見せたのである。ただ甘っちょろくで生徒に迎合するだけの教師ではないときづいたのだ。

 更にこの生徒の場合は、集団として𠮟責されたことを、個人の問題としてとらえ直している。   

 ここにみられるのは、少年から青年への成長である。
 中学生的「みんな」意識に心身ともに拘束される段階から、「みんな」や他人がどうであれ「僕個人」は・・・と自立した価値観を形成する段階への移行という重要な成長の課題がここにはある。高校の前半がこの時期に当たる。静かで深い思索を伴う、しかも個別的で一斉ではない。

 この時期を、日本の少年は軍国主義や集団主義的思考と行動で明治以来奪われてきた。だから官僚も経営者も軍人も「みんな」がしている式の「無責任」が標準となる。国家自体までが歴代の侵略行為に対して「無責任」を貫いてしまっている。


   M先生は、少年の倫理的成長という課題に的確に対応しておられる。高校と中学が互いに独立している意味を教師は深く静かに考えねばならない。受験や部活の便宜のために、人格の陶冶を軽んじてはならない。

 今学校には共感の居所はない、競争による傲慢と絶望が蔓延して学園物のドラマも消えた。tvドラマで描かれるのは犯罪と警察だけになった。

 画像は白バラ抵抗団の一人、医学生だったがナチによって二人の友とともに処刑。彼らはナチス少年団という巨大な「みんな」から知的に自立し、命を賭して闘った。最後に彼らの一人・ゾフィは、命だけは助けようというナチスに向かってこう言った。 

「私は自分が何をしたかを理解しています。機会があるならばもう一度同じことをします。私は間違ったことをしていません。間違ったことをしているのは、あなたたちです」

  この時もなお人々は、ヒトラーの言葉に酔い痴れていた。経済が回っていたからである。


 


無編集の国会中継は最良の政治教育

  衆議院も参議院も中継のweb-site を持っている。視るだけで 首相や大臣の言語能力が如何に貧困か、官僚がどこまで国民を舐めているか良くわかる。新聞やテレビで編集される前と後はどう違うかも一目瞭然。

 昼休みも放課後も見せよう。与党議員がどんなに浅ましい迎合発言をして時間を潰すか。情報公開法に基づいて国会に提出される文書が黒塗りだらけであることも、スマホで暇つぶしする議員がいることも知ることができる。


 ここまで酷い閣僚や官僚の発言を目の当たりにすれば、昔はどうだったのか、外国の国会はどうなっているのか知りたくてウズウズする。まともな議員や政治家はいたのか。

亀次郎の演説にはいつも数万の島民が押し寄せた

 彼らはどんなことをし、どんな目にあったのか。

 公僕と呼ばれる官僚は何に忠誠を尽すべきなのか。

 選挙制度はどのように変化してきたのか。

 授業で展開すればいい。

 石橋湛山や中野重治・羽仁五郎そして山本宣治がいかに権力に抗したか、思い起こす必要がある。瀬長 亀次郎に関心を寄せる者も少なくないはず。沖縄と憲法の関係も分かり易くなる。


 日本と同じ議院内閣制のドイツの国会には、大きなテーマを扱う「大質問」、毎週政府が議員の質問に答える「質問時間」や「時事討論」などがある。ここ10年ほどをとると、問件数で野党が占める割合は大質問で98.4%、質問時間で80.7%、時事討論で99.1%。ほとんどすべてを野党が占めている。ドイツでは国会の主な役割を「立法と政府統制」と位置づけ政府への厳しい質問は不可欠。野党を重視するのが、国際的な常識となっている。  どの国も野党に対し、質問の時間や件数を議席の比率よりも多く配分している。議会には政府をチェックする役割を担うからである。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...