悪菓?は良菓?を駆逐する

  「企業開発のゲーム」を授業で使う若い教師が増えたという話を聞いた。企業や団体が「開発」する教材やゲームを知って不快になったのは、1970年代終わり。ベトナム戦争に敗北した米国が、あからさまな軍事的侵略にかえて「開発」名目の新たな侵略に動き始めたころだ。

 それで思い出したことがある。東京に転校した1950年代の遅い時期。友達の家でおやつを出された。鹿児島の田舎では、おやつはどこでも「手作り」だった。つくるのに数日を要する手のこんだものから、茹でたり冷やしたりして切っただけのものまで、人手を経ていた。人手をかけることが文字通り愛情であった。貧乏だったが子どもと親の間には、安心と笑顔があった。

 東京の友達の家で見たのは、今スーパーで売られる「袋菓子」だった。企業の開発した画一的「袋菓子」が、家庭の個性的手作り菓子を放逐していた。まさに値札付きの悪菓が値の付けられない良菓を駆逐した。

 東京は豊かなのか、一体誰が豊かなのか、少なくとも「子ども」ではなかった。親の労働が子どもに向けられない。貧乏から抜け出すつもりの雇われ仕事が企業に富を蓄積すれば、貧しくなる者のあることに自治「行政」は気付かねばならない。それが共同体だ。一人では不可能なことを、みんなで補い合う。
 大戦で疲弊しきった英国社会は「揺り籠から墓場まで」を合言葉に、互いに支え合うビバリッジ計画で乗り切った。

 福祉も教育も医療さえ「営利」の対象にしたのが戦後日本だった。お陰で日本の疲弊した社会は、「高度成長」の幻想と再軍備に向けて解体してしまった。


 果物や農作物の土作りや種まきするとき、収穫物のイメージがある。草取り、収穫を経て食べるまでをみることが出来れば楽しい。出荷し人に食べて貰う場面を知る。その全過程が、自分の労働の中に常にあれば充実する。収穫の部分的肉体労働だけがあるとき、そこに収穫の喜びを見いだすことは出来ない、労働は苦役となる。全過程が自分の労働にあるとき喜びとなる。

 これを黒井千次は「労働の人格化」と呼び、Marxは次のように表現した。  

  「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界の価値増大とぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。・・・さらにこの事実は、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、ひとつの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものにほかならない。国民経済的状態(資本主義)の中では、労働のこの実現が労働者の現実性剥奪として現われ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として、(対象の)獲得が疎外として、外化として現われる。・・・すなわち、労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる、ということである。・・・彼がより多くの価値を創造すればするほど、それだけ彼はますます無価値なもの、ますますつまらぬものとなる。・・・彼の対象がよりいっそう文明的になればなるほど、それだけ労働者は野蛮となる。労働が強力になればなるほど、それだけ労働者はますます無力となる」   『経済学・哲学草稿』(岩波文庫 P.86-90)


 親と子の間の愛情の「全過程が自分の労働にあるとき喜びとなる」ように、教師と生徒たちとの間には「信頼」が不可欠。その「過程が自分の労働」から奪われる度に教育は「苦役」に転化する。生徒と教師の信頼は、授業を通してのみ形成される。何故なら行事や式は、組織に対して向かい合うにすぎないからだ。偏差値教育も、数値に縛り付け組織に隷従させるものであり、教師と生徒の個性が火花を散らす多様性に満ちた授業とは相容れない。

 企業の競争力も大学ランキングも各種学力も、OECD諸国の最下位にあえぐのも、一人一人の個性的能力を蔑ろにした事の当然の帰結である。良貨は食いつぶされ、悪貨にしがみ付いている。

誰が「候補者」の質を見極め、鍛えるのか

 「市民たちはいま、候補者の質を見きわめようとしているんです。同時に候補者を鍛えようともしているんですね。このような市民集会は、市長選までに何十回となく持たれるでしょう。そのたびに候補者は市長にふさわしくなっていくわけです。なによりも、現市長批判派は右から左までいろいろですから、こういう集会の討論を通して連合していくわけです。そうして集会で一致するところを見つけては、それを公約にしていく・・・」    井上ひさし『ボローニャ紀行』

 これは立候補予定者を市民が作り上げる過程を見学中の井上ひさしに、ボローニャの通訳が語った「解説」。この「候補者の質を見きわめる」過程に数年かかる事もある。その粘り強さが、ファシズムとナチズム二つの敵と闘ったパルチザン闘争を産んだ。

 井上ひさしはこの時、「イタリアは国貧しけれども民豊なり、日本は国豊かなれども民貧しけりですね・・・」と呟いたとこの旅行の同行者は伝えている。今、日本のほうが遙に貧しい。


 ボローニャは靴も有名。靴屋では二か月掛かると告げられる。了承すれば足の木型を作る。それに合わせてまず片方を縫い上げ一週間歩き回らせる。そして微調整を加えながらもう片方も作るという。ワイシャツだってそうだ、出来合いを袋に入ったまま買うなんて考えられない。家だって何世代も住むのだ、建築家や大工や近隣との対話は欠かせない。それが自治的共同体をつくる。

 「討論する」とは何か。靴やシャツを討論する。住宅と討論する。だから街づくりや制度作りだって、じっくり討論する、それが自治における主権者の在り方だ。民主主義は「面倒」に決まっている。選挙に勝利する為には、元来は互いに矛盾するかのような要求を討議する中で、一致点を見出す必要がある。多様性を損なわないのでなければ「団結」とは言えない。

 日本財団の調査によれば、投票しない理由に「面倒」をあげる18歳は51%もいる。

 政党が、圧力団体が、宗教団体が、利権団体が「候補」を身内で決めていることに問題がある。

 ボローニャのように「候補」を育て鍛える集会が、地域ごとに日常化する共同体を先ず作り上げる。そんな共同体からは、無免許運転を繰り返す者や挨拶文や議会質問文を官僚に作文させる者は、候補になる前に淘汰されるだろう。どの党派との連合がその共同体で最も相応しいかを見極めるのも「討論」の積み上げでなければならない。

 何処か自分たちと無縁の組織が決めた組み合わせを押し付けられるのは、主体ある市民には心地よくはない。ある地域が特定の党派にとって「空白」であったとしても、その共同体は決して空洞ではない。必要なのは当該共同体による自己組織化であって、他地域からの移植であってはならない。

 自然の生態系は地域ごとに多様であって、画一的景観も画一的食事も根付かない。各共同体ごとの地域の多様な自治体が、先ず少数者たちの討論を積み上げ、共同体の未来像とともに候補が鍛えられるべきなのだ。立憲・共産・社民・れいわの合意は、こうした地域ごとの討論を基盤にしてこそ更に広がる可能性を秘めている。それは最も過酷な試練と闘い続けている沖縄か典型を見せている。 

20ヵ月に及んだパルチザン闘争には 25万人が参加。死者は3万 5000人以上、
虐殺された市民は1万5千人に達し、その多くが婦人と子どもであった。
ユダヤ人部隊も勇敢に闘った(右画像)


「圧制は支配される側の自発的な隷従によって永続する」

    「社畜」という言い回しがある。経営者や首長の驕奢を甲斐性と見做す性癖は根強い。

 働く者は薬物も犯罪もやらず、難民や移民でもない、まして犯罪者やその家族ですらない。教育水準も職務技能も決して低くない。勤勉で、長時間労働に耐える。にも拘らず、日本の貧困は世界で際立っている。「これは完全な「政策の過ち」である」と外国の研究者は驚いている。日本でだって心ある人々は絶望で立ち竦んでいる。  

 厚労省作成の「国民生活基礎調査」(2019年)によれば、平均所得(約552万円)を下回る世帯は61.1%、貯蓄がない世帯は13.4%。「生活が苦しい」と答えた世帯は54.4%に上る。


 株は買えないほど貧しいが、会社の株価が気になる。特売品と百円均一しか買えないから、盗まれる物も家も無い。検事総長予定者が賭け麻雀しても逮捕されないが、治安は良いと信じている。賃金も年金も安いが、テロもない。

 「防衛費」をGNP2%=10兆円に爆発させ、その殆どは米国製武器購入に充てられる。国内の工場や企業が生産で潤う筈もないのにそれをGNPに繰り入れる詐欺手法に、隣国が協調しないから「先制攻撃」も当然と拍手する。そして「変えて悪くなるよりは現状維持」と冷たい笑いを浮かべる。   その隙に日本独自のRNAワクチン開発資金が、怪しさ極まる加計学園に消えたことに怒る気配もない。

  日本の極右政権は、これを世界に類例を見ない日本国民の「美徳」であり、政治的「成功」と見做して、我が世の春を謳歌している。

 「完全な「政策の過ち」」が、何故日本国民の「美徳」に容易く転換するのか。大いなる幻魔術。

 まさに天皇制国家体制の「幻魔術」の成果は手っ取り早く手堅い。(嘗ては筆頭戦犯を被害者に見せた幻魔術)日本の君主制の際立った特色は、天皇家の対極として民衆の身近に被差別者を配置したこと。被差別部落、ヘイト言説に曝される朝鮮、技能実習生・・・、これらが君主制への憤怒を反らす役割を担ってしまう。それ故、国民の意識は君主=天皇一族への距離で自発的に階層化されるのである。

 北欧などの王政国家には、対極が存在しない。「被差別」者は、イギリスにとってのインドや南ア、ベルギーにとってのコンゴのように遠い国外に設定される。それ故、国民の中に社会的差別は生まれにくい。何故なら不平等は直ちに君主制への不信と怒りに結びつき、王制消滅を意味するからだ。それ故王家も政権も、国民全体の平等実現に努めざるをえない。

 天皇制がある限り、日本社会の社会的差別は永遠に続く。天皇制廃止なしに、この列島に平等は決して実現しない。従ってこの体制下の日本に人文主義は定着しない。

 16世紀フランスの人文主義者Étienne de La Boétieは『自発的隷従論』で、

 「悪い政治が成り立つのは、国民が進んでそれを受け入れているからだ」・・・「圧制は支配される側の自発的な隷従によって永続する」と述べている。


 同時に彼は、高等法院法官でもあった。人文主義者=humanisteは、古典や聖典の探求に基づいて人間と神の本質を考察したので、教会側は危険思想としてたびたび弾圧した。

 ナチへの不服従も人文主義は呼びかけている。

 体罰による生指や部活の横行がかくも長く続いたのも「支配される側の自発的な従属」があったからではないのか。

 自発的な従属=「民主化抜きの近代化」は驚異的な成長と軍事化を進めはしたが、人文主義者=humanisteの抵抗は稀だった。 

追記 ドイツ語で忖度を表わす言葉は、vorauseilender Gehorsam =先回りした服従 だという。ナチスの暴虐に対してドイツ人が執った行為の本質をよく表している。新自由主義の政権に対する日本メディアの行動は、もはや忖度では言い表せない。

三戸先生の「まくら」は抜群に面白かった

  「まくら」とは 噺の導入部である。

 「先生、教師も芸人かい」と問う生徒が下町の工高にいた。「似ているな」と答えると

 「頼む、俺を弟子にしてくれ」と言う。

 その半年前は「子分にしてくれ」だった。

 一応のテーマは掲げるが、授業としては全編脱線、言わばまくらだけ。クラスがかわれば別のまくらになった。教科書やノート無しで、起立・礼もせず教壇に立つ。それで芸人と定義したらしい。


 桂小三治の高座は「マクラ」が抜群に面白かった。特に彼がヨーロッパ公演で体験した話がいい。まくらの語りを再構成してみる。

 パリの空港で荷物を引きずって難儀していた小三治に、小柄な若者が寄ってきた。

  「ニコニコしながら、『持ちますよ』と言ってくれたんです、その人が」

 「私のことを柳家小三治だって分かって、話しかけて来たり、手伝おうとする人が、中にはいるんです。そういう人は目や、顔の表情で分かります。でも、その若者は私のことを人間国宝だなんて知らないで、『持ちますよ』と言ってきたんだ。これは、彼の表情を見てりゃ分かりました」

 小三治は荷物を持ってもらい、丁重に礼を伝えた。その若者は、「いやあ、いいんです」と言いながら、ずっとニコニコしていた。

  互いに互いを知らないから、話はそこで終わる筈だった。ところが、小三治は荷物を持ってくれた男と再会する。彼は、テレビのなかにいた。パリの若者は2019年秋、ラグビー・ワールドカップに出場していた。

 「あ、あのときの・・・」

 小三治は驚いた。それからというものラグビー日本代表の彼を夢中になって応援した。毎試合その選手が登場すると、テレビに向かって叫んだ。「タナカ!」

 荷物を持ってくれた若い男は、日本代表のスクラムハーフ、田中史朗だった。


 ここにはスポーツ観戦の思想が見事に展開されている。見たいのは、闘う選手の優劣やメダルの数や賞金の額ではない。まして日の丸掲揚ではない。人生を他人の活躍や成功に託すことではない。直接であれ、週刊誌の記述であれ、街頭であれ、自立した個人の出会いの思い出なのだ。負けても勝っても、しみじみ心の奥から湧き上がる出会いの記憶。記憶の中の出会い。

 教師の授業が生徒に思い出されるとき、彼らの胸に去来するのは何だろうか。


 

  石神井高校で三戸先生の講義「世界史」に巡り合う者は幸福だった。先生の「まくら」も長かったし、その日の世界情勢でまくらは縦横無尽に展開した。1960年代から80年は、世界が激動し若者が変革を求めて行動した時代である。聞き手と話し手の息詰まる緊張が教室にみなぎった。 

 しかも先生の授業は終わりの5分間に、受験知識も含めて過不足なく見事にまとめられていた。僕がこの高校に異動したとき先生は既に退職していた。まくらはいつでも聴けるものではない。どんな出来事が彼を待ち受けているか、分からない。だからその日限りの一発勝負と言ってよい。

 僕は先生のまくらを聞きに出かけなかった。何故なら先生の授業のまくらは、先生と生徒たちの関係の中からしか生まれないからだ。真似はきかない。

   都高教研組織者会議が終わったあと、先生とはよく飲んだ。先生を含む数人の読書会も長く続いた。話に集中したくて酔いたくなかったが、旨い酒であった。今僕は全く飲めないが、あの旨さは記憶にある。


 授業が全編まくら噺になったのは、最初の赴任校が私鉄沿線の零細商工業地域の工高定時制課程だったからだ。あの頃定時制は全日制不合格者の溜まり場ではなかった。

 三戸先生の生徒たちに受験知識は差し迫った重大事。零細商工業地帯に「働く青年」たちが求めていたのは、まず職場の春闘方針の総括であった。彼らは組合役員を含む逞しい青年たちだった。僕より年長もいた。

 「先生、会社が儲かっているかどうやれば分かるのか」。咄嗟に財務諸表を持って来いと答えた。

  その経験が授業形式を決定した。だから受験を視野に5 分の授業を組み立てる三戸先生が、羨ましくも遠い存在に思えた。しかしPTAによって高校増設運動が進められ、新設校が続々と開校。働く青年と僕の束の間の幸福な関係は霧散した。


先生、憲法擁護義務違反議員への罰則はないの?

  かつてフランス東芝の労働者が、職場の実態を旧共産党機関誌「ユマニテ」で証言したことがある。東芝は激怒して「東芝には東芝の掟がある」と当該労働者を解雇した。仏政府も裁判所も世論も労働者を擁護した。

 日本の企業は外国内でも、当該国憲法規定より私企業の「掟」が優先すると本気で信じていた。まさに狂気の沙汰。東芝などの企業だけでなく、家庭や学校から組合に至るまで「掟」思考に阿智言ってしまうのか、最後に考える。

 子どもが憲法や法律が認める権利を主張すると、親は「他の家のことは知らん、このうちにはこのうちの考え方がある・・・」と馬耳東風を決め込む。それを親権と勘違いする。

 学校もその多くが「校則がいやなら入学するな」と憲法上の「表現の自由」を一顧だにしない。学校や家庭の「掟」が優先することに皆が極めて「寛容」であった年月が長い。労働組合や医師会などの団体までが、個人の政党支持の自由を踏みにじって特定の政党を組織として支持、団体献金する。憲法軽視は我々の日常に蔓延している。自由は団体や集団にはあっても個人にはないと言わんばかりだ。

 だから中高校生の中にも「先生を続けるなら君が代で立った方が良い」という声は決して少なくない。

 大阪知事時代の橋下弁護士は「君が代を起立して歌うのは当然の儀礼の話」とし、「大阪府教育委員会は2002年から、入学式、卒業式での君が代起立斉唱を教育現場に指導してきた。それでも現場は言うことを聞かない。そこで教育委員会は職務命令まで出した。それでも言うことを聞かない教員がいる。情けない。これは組織マネジメントの話。」と述た事がある。

  しかし彼は議員ではなくなった。自分の発言と99条の関係のいかがわしさから国会議員である限り逃れられないことに気付いたのかもしれない。それ故かワイドショウ発言頻度は過激化している。

  こういう発言を煽る土壌が日本のマスコミにはある。


  僕は教員になるときに、憲法を守る事を誓う旨の文書に署名捺印した。以後新学年の授業のたびにこのことを説明してきた。その日本国憲法は第九十九条で

「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」

と規定している。その際の生徒の質問が忘れられない。彼はこう言ったのだ。「憲法違反の罰則は?」。僕は若者のこうした憲法感覚が好きだ。

 「憲法を尊重し擁護する義務」は、自治体の公務員も例外ではない。条例は憲法や法律に違反してはならないからだ。

 我々は自治体の条例や管理職の職務命令に従う前に、憲法に従わねばならない。国会議員は憲法改正の動議を出すことはできない。憲法改正を前提とした衆参両院の憲法審査会は、違憲と言わなければならない。

  日本国憲法は、米憲法と同じ様に「修正条項」を付け加えるかたちで「発展」させる事のみを国会議員には命じている。改悪を防ぐにはそれしかないことを、憲法自体が見通しているのだ。

  大阪府知事と玉木国民民主党が、「衆参両院の憲法審査会は毎週開いたらいい。議論するために歳費をもらっている。開かない選択肢はない」と発言し始めた。国会開催にも審議にも応じない者がそう言う。

  最近日の丸・君が代に関する職務命令に関して、思想や学問の自由は「内面の自由」であって「表現の自由ではない」との言い方がある。もし表現しない思想や信教の自由があるのなら、「踏み絵」も「焚書」も弾圧ではない事になる。

  

  何故この国では「掟」思考に陥るのか。その一つが、「おおやけ」が「公」と認識されるのではなく「大家」と観念される歴史的後進性にある。例えば東芝という大きな屋根の下に入る事が「おおやけ」の意味であり、その東芝は更ににに三井グループの大きな屋根の下にある。東芝の屋根の下にも数多の系列企業、例えば東芝エレベーターがあり、更にその傘下には東芝エレベーターサービス等が連なって幾重にも「大きな屋根」は形成される。大きな屋根からはみ出す事は出来ないし、させない。自立した企業活動や自由な個人としての意識を芽生えさせない。「大屋根」のもとでは、市民意識は「危険思想」となる。家族の政治活動は勿論、市民運動にまで干渉して恥じない。マスコミや宗教団体までこれらの動きに加担する。

 傘下の人間は、支配や拘束を感じるよりは「庇護」されていると考えたがり背広には社員バッチを光らせる。そして東芝、三菱など企業集団の多くは「株式会社日本」という巨大な屋根のために「経済団体」を形成して政権と癒着してきた。「庇護」に感謝する態度の一つが「君が代」斉唱なのだと彼らは意識して疑わない。

 だが彼らだけが「庇護」し「庇護されている」と考えている中身は、働く者に広く認められるべき「権利」なのである。決して屋根の下の恩恵ではない。


 「民主主義」の概念さえ、こうした「大屋根の下」では珍妙な多数決となる。多数派が事柄を総取りし、少数派は忍従を強いられる。

 大阪府内の私立高校2年生だった織原花子さんは、私学助成予算の大幅な削減を打ち出した当時の橋下徹府知事に仲間とともに計画の撤回を求め面会した。しかしその場で橋下知事はまず「君たちもいい大人なんだから、今日は子供のたわごとにならないように」と威圧し、次いで「日本は自己責任が原則。それが嫌なら、あなたが政治家になって国を変えるか、日本から出て行くしかない」と言い放った。「日本から出て行くしかない」とは暴論でしかないが、こうした口調はtvワイドショウではもてはやされる。 

 当選した首長は多数派だけの代表ではない、無謬でもない。低い投票率による選挙で当選しているから、有権者の3割以下の支持しか得ていない場合も少なくない。票を入れた者も彼の全てを支持しているわけではない。候補者も選挙で全てを語ってはいない。選挙は白紙一任ではない。

 それ故当選者と言えど当選と同時に少数派を含めた全住民の代表を自覚しなければならない。それでようやく民主制である。

 多数決が少数派の抹消であるなら、独裁の手段に他ならない。

 異議を主張する若者たちへの、権力者の見事な対応例をあげておこう。



  『パリをゆるがした30万人の高校生・ブラック校則と闘うために 4』https://zheibon.blogspot.com/2018/01/30-4.html


入学・卒業式での管理職や教委による叱責脅迫は、法が禁じるパワハラではないのか

  2010年6月施行の改正パワハラ防止法(労働施策総合推進法)で相談窓口の設置など対策を大企業に義務付たが、佐川急便の事件では通報はあったものの調査はなく、企業任せの実態が露呈した。

 罰則規定抜きの法いじりはこうした悲劇を繰り返す。繰り返すうちに担当官僚は異動して問題は受け継がれない。異動の際彼らは必ず「在任中は大過なく」と言い残す。彼らは主権者の大過なと眼中にないのだ。

 パワハラについて厚労省は、①優越的な関係を背景とした言動で、②業務上必要かつ相当な範囲を超え、③労働者の就業環境が害される、この3つを満たす威圧的な叱責など精神的攻撃や身体的攻撃を指す場合をあげている。

 労働局等に寄せられた「いじめ・嫌がらせ」相談は増え続け、20年度は7万9190件と9年連続で最多を記録。トヨタ自動車や三菱電機の自殺などは、稀ではあるが労災認定された。

 パワハラ防止法では被害者が自殺や退職に追いやられる案件だけを対象にしてはいない。

 学校の入学・卒業式での管理職や教委による叱責脅迫は、パワハラではないのか。保護者や生徒そして同僚教師の見ている前での管理職や教委による叱責脅迫は何故放置されてきたのか。

 2017年5月大津市のホテルで開かれた県教委と県立学校校長らの懇親会で、県教委の男性職員が男性校長から「君が代斉唱の伴奏が止まった」などと叱責され、人前で土下座していたことが分かった。職員はその後、仕事を休むようになり、昨年度末で退職した。県教委は「職員からの申し出がない」との理由でパワハラに当たるかなどの調査はせず、校長も処分していない。 複数の関係者によると、当日は100人近くの出席者がおり酒類も振る舞われる中、会の終わりごろ研修会で出席者が歌う君が代の伴奏が途中で止まるなど進行が乱れたとして、研修会で進行役を務めた男性職員が校長の叱責を受け土下座した。会場にいた人は「怒鳴り声が聞こえ、2人の間に止めに入った人もいた」と、ほかの出席者も「職員が一方的に怒られていた」、「注意の仕方に配慮が必要だった」と話す。

 男性職員は届けを出し休む状態が続き、退職を申し出た。県教委の聞き取りに対し、「自分の仕事に対する行き詰まりを感じた」との趣旨の話をした、という。懇親会の前は休みがちだった事実はなく、関係者は「まじめで優秀な職員だった」と話す。

   米原高校では2020年、女性教諭が校長の激しい叱責直後に過呼吸に陥り、その後学校を休んだ。県教委によると、校長は昨年同一学年の同一教科を教諭2人に担当させ、2人が別々に定期テストを作成して学級ごとの点差が大きくなると、女性教諭に対し「どう責任を取るんや」と厳しく追及。教諭はその後、医師の診断を受け1カ月休んだ。校長は今年3月にも、生徒に皆勤賞を独自に贈った男性教諭を必要以上に叱責し、「お前らの仕事は遊びや」と侮辱した、という。こちらの場合さすがに県教委も、米原高校長を減給10分の1としている。

ILO総会で、「仕事の世界における暴力とハラスメントの根絶に関する条約」が採択された瞬間



  

 ILO/ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会が学校での〝君が代”強制問題で日本政府に是正を勧告。2018年に採択、2019年に正式に承認し,世界に公表。

 この時ユネスコは、国歌斉唱時に「起立や斉唱を静かに拒否することは,職場という環境においてさえ,個人的な領域の市民的権利を保持する個々の教員の権利に含まれる」と指摘している

 1999年,「国旗及び国歌に関する法律」が制定・施行された時も野中内閣官房長官は

 「式典において,起立する自由もあれば,また,起立しない自由もあろうかと思うし,また,斉唱する自由もあれば,斉唱しない自由もあろうかと思うわけで,この法制化はそれ画一的にしようというわけではない」と公式に言っていた。



 
ところが東京では2003年から,大阪府では2011年から,公立学校の卒業式や入学式の国歌斉唱時に教職員に対して起立・斉唱を命ずる職務命令が出され、そして起立斉唱しない者に対して,懲戒処分が行われてきた。500名を越す被処分者のうち、東京と大阪が8割を占める。

続く


「行政の詐欺を見破る」のは主権者の義務

 大阪は28市町村で待機児童ゼロを達成している、と大阪地域政党は自己宣伝に余念がなかった。大阪作成の数字だけを見ると、大阪府の待機児童問題は大幅に解消されたかに見えた、だが府民の声は違っていた。「待機児童」が意図的に隠されている。「隠れ待機児童」は、潜在的な入所希望者。        

 国は、2001年に待機児童の定義を変更、大阪府はこの定義を利用、四つのケース(・1自治体が独自補助する認可外施設を利用の場合・2求職活動中の一人親で求職活動を休止している場合・3特定の保育所等を希望している場合・4育児休業中の場合)を待機児童に数えなかった。

 どの自治体でも「特定の保育所等を希望している」保護者が最も多いのは当たり前。子どもが兄弟姉妹であれば、「自宅から一番近い同じ保育所に」と考えるのは至極当然。「求職活動を休止している場合」は、子どもを預ける保育所が決まらなければ求職活動ができず、職が決まらなければ保育所に預けられないというジレンマに陥る。やむを得ず求職活動を休止しているケースも多い。それを隠して「待機児童ゼロ」と言うのは、登校していれば虐めはないと言うに等しい。 住民の生活実態に寄り添わない行政を、国の基準で追認と言う仰天。大阪はそれを巧みに利用していた。

 政府定義の待機児童に数えない場合を含めて計算すると、待機児童ゼロと住民を欺いた自治体も、相当数の「待機児童」を隠していた。これは行政による犯罪である。その情報をもとに組み立てられたのが2021年10月衆議院選挙だった。まともな判断を期待する方が間違っている。

 それを見破る学力の上に「模擬投票」を実施しなけれは、投票ゴッコに過ぎない。だから本番では棄権してしまう。

 厚労省の調べでも2016年の認可保育所の待機児童数が2万3553人となる一方、待機児童数にカウントされていない「隠れ待機児童」数は6万7354人。

 大阪府内自治体の隠れ待機児童数は計6568人、それまで待機児童として報告してきた1434人とあわせれば、実際の待機児童数は8002人。


 大阪市は2013年(橋下徹市長)、それまで待機児童として数えていた「自宅で求職活動中」の人の子ども等を待機児童数から除外、前年に比べ待機児童が377人減ったと発表。待機児童隠しを図った。

 2013年5月23日記者会見で「以前の集計のやり方だと大阪市の待機児童数ってものが、ちょっとかなり数が増える」ために「集計のやり方も横浜市に合わせ」たと白状している。

 横浜は、「保育所に入れず育休をやむをえず延長した場合」や、「自宅で求職中の場合」も待機児童から除外している。横浜も大阪も、給食は最低。市長が、中学校給食を視察

左は刑務所、右は大阪給食 
横浜市は給食にしない理由に、「弁当作りがやりがい」「熱烈に作りたい」
という保護者の存在をあげた。しかし市は実際にはそのようなアンケートは取っていない

した際、1年生の生徒から『おっちゃん、これ給食ちゃうで、餌やで』と、中学校給食の本質を突いた鋭い言葉が返ってきたという。

 大阪の地域政党と自称する連中の手口は、結果がすぐ現れる政策に特化させること。その為には「詐欺」紛いの公文書も発表する。

 こうしてまで主権者を欺く自治体(横浜は市長選で敗北して撤退)が、カジノを欲しがった。宣伝向きの成果が華々しく、ギャンブル依存症や犯罪の増加はマスコミを統制すればどうにでもなるからだ。誹謗中傷デマ専門の「Dappi」は政権党の資金を入れた組織であったが、「待機児童」隠しは地方政府と政権党合作の公文書を偽造。主権者の判断を謝らせる犯罪。

 大阪の知事は、国家戦略特区による待機児童解消対策を提案、特区内で保育士の数や保育所の面積基準などを自治体独自決定を狙っている。


 国家の犯罪行為に対する責任は、主権者たる市民のほうが独裁体制下の臣民より重い

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...