ヒトに人格、猫には「猫」格が、犬には「犬」格がある。 パンダにはパンダ「格」が。

  日本では犬にシャツを着せる。これは世界で殆ど日本だけの奇妙な光景。

   文部省唱歌『雪』の二番は

 雪やこんこ あられやこんこ  / 降っても降っても まだ降りやまぬ  / 犬は喜び 庭かけまわり  / 猫はこたつで丸くなる

 何故だ、汗腺のない犬にシャツを着せたがる。犬は肉球と舌だけで汗をかく。シャツはたとえ冬でも不要。南極の冬にもtaroと

jiroは耐えた。反対に猫は寒がりだ。

 犬をワンコと呼び、雌猫を女の子と言い可愛がるが、実態は「虐待」。犬や猫にも尊厳がある。猫には「猫」格が、犬には「犬」格がある。「猫」も「犬」も生物として独立対等であって、「ヒトもどき」や「名誉ヒト」では無い。  

 かって三井物産は社内報「三井海外ニュース」で「ここ数年来、南アと日本との貿易は飛躍的に伸長し、それに伴い名誉白人は実質的白人になりつつある。最近は、多くの日本人が緑の芝生のある広々とした郊外の家に白人と親しみながら、そして日本人の地位が南ア白人一般の中において急速に向上していることはまことに喜ばしく、我々駐在日本人としても、この信頼にこたえるようさらに着実な歩みを続けたい。インド人は煮ても焼いても食えないこうかつさがあり、中国人はひっそり固まって住み、カラードは粗暴無知、黒人に至ってははしにも棒にもかからない済度しがたい蒙昧の徒という印象が強い」と名誉白人扱いを誇った。おかげで日本は1980年代後半から南アフリカ共和国の最大の貿易相手国となった。儲かりさえすればという日本の姿勢は、1988年の国連総会採択の「南アフリカ制裁決議案」名指しで非難されている。


 日本人が猫にシャツを着せないのは、毛が柔らかいから直接撫でたいのだ。飼い主が気持ちがいい。対して犬の毛はゴワゴワで、心地よくはない。

 儲かりさえすれば、自分さえ好ければの思い込みは激しい。自分が善と思い込めば、他者の尊厳は目にも耳にも入らない。広い城跡に住む男を「現人神」と思い込めば、全体が思い込むまで強制し続ける。常に多数は全体。少数は無になるまで拷問を加えられる。

   日本に初めて二匹のパンダ・カンカンとランランがやって来たのは1972年。上野動物園では、国賓級のパンダを一目見

ようと大勢が押しかけたが、その生態は分からないことだらけ。餌も受け付けず、公開の目途もも立てられない。 困り果てた飼育担当者は、ヒトとパンダの壁を乗り越えるように、山形弁で夜も昼も語りかけるが、カンカンは衰弱し命の危機に直面。その間も人々は毎日行列をつくって待ち続け、黒柳徹子も撮影の日程を切り詰めて毎日外で並んだ。 苦心の末漢方薬を飲み笹も食べるようになった一週間目、飼育員が「おめえさ会いてえヒトが・・・」と声をかけて黒柳徹子が顔を出した途端、カンカンは仕切りのガラス際の彼女にすり寄ったのだ。飼育員が「お前、メスのランランに少しぐらい・・・」と言うほどの嬉しがりよう。

 彼女には不思議な能力がある。パンダの独立したパンダ「格」をとっさに承認。パンダの警戒心を解除、対等な関係を結ぶ。それはパンダに限らない、全ての動物、全ての民族、すべてのヒトの尊厳を感じ取る希有な能力に恵まれている。だから「徹子の部屋」はギネス級の長寿番組となった。


 「すべてのヒトの尊厳を感じ取る希有な能力」が最も期待されるのは、教師。若者一人一人の人格を、学校や教師からは独立した尊厳ある存在としてとらえる事が要請される。

 僕だったら黒柳徹子を文部科学大臣兼教師に任命したい。彼女には小学校を1年で退学処分された輝かしい経歴がある。枠にはまらない点で彼女の右に出るひとはない。世の不良・悪童・非行・はみ出し者、そして彼らの悩める親たちに向かい合い語りあえるのは、彼女のみ。


   これには素晴らしい前例がある。ギリシア映画『日曜はダメよ』の主演女優 メリナ・メルクーリ。彼女はギリシャに軍事政権が誕生すると直ちに反政府運動に加わり、全ギリシャ社会主義運動のアンドレアス・パパンドレウ内閣が成立すると文化大臣を務めた。
(映画『日曜はダメよ』の物語自体と主演女優メリナ・メルクーリの役柄そのものが、彼女が何故ギリシアの文化大臣に相応しいかを示している。)

破廉恥な特権。破廉恥を「自慢」する病理・狂気

  宗教政党の誉れ高い衆院選候補O氏は、衆院選公示日の2021年10月19日に、自身の「無修正」性交動画を違法公開。

《なんか、編集したらAVみたいになっちゃった》

などとTwitter投稿。同時にアップロードされたのが性交動画。彼は「法律に引っかかると思っていなかった」と平然と語っていたが、党はコメントなしで比例名簿から削除して幕を引いた。

 参院選出馬予定の元東京都知事が、街頭演説中に同じ政党の女性立候補予定者の体をベタベタと触りまくり。その様子がその党の公式動画で大炎上。

 問題の場面が記録されたのは、YouTube動画。I候補が吉祥寺駅前で東京選挙区予定女性の横で演説する様子が映されている。笑みを浮かべたI氏は女性立候補予定者を紹介しながら、肩や背中や胸元にまで手を伸ばし、複数回にわたって触れているのだ。この党は動画を非公開にした。

 I候補自身はしばらくして《軽率な面がありました。十分に認識を改め、注意をして行動していきたい》とするツイートを投稿して謝罪したつもり。


  K衆院議員(元女性活躍担当大臣)は、ある評論家からのツイート

《K先生、安倍総理殺害に関して、奈良県警からメディアなどへの不確実な捜査中の情報漏洩が起きているように思われます。過去の国会答弁からも国家公務員法の守秘義務違反に該当すると考えられます。適切な対応をお願いできませんか?》

に次のように返事した。

《長官は後輩、かつ知人なので、聞いておきます

 その半日後の同日夕方には、こんなツイートを平然と投稿している。

《警察庁長官に「奈良県警の情報の出し方等万般、警察庁本庁でしっかりチェックを」と慎重に要請致しました。これ以上の詳細は申せない点ご理解を。霞ヶ関を肌で理解する者同士の会話です。皆様の感じられた懸念は十分伝わっています。組織に完璧はありませんが、国益を損なう事はあってはなりません。》


 あるまじき破廉恥を自慢したがるのは、何故なのか。強い者には、世間は味方のように見えてしまうのか。「下々」に許されないことを平然とやるのが心地よいのか。それが強者・勝ち組の特権だと吹聴せずにおれないのだろうか。


 これら最近の破廉恥は、1937年当時のN少尉とM少尉による「百人斬り競争」(南京入城までに日本刀でどちらが早く100人斬るかを競った)自慢話を思わせる。彼らは東京日日新聞の取材に応じたばかりか、銃後の小学生や民衆の前で堂々と語っている。語った本人たちも、それを「前線勇士の武勇談」として喝采した民衆も正気を失っている。

  画像は米軍によるアブグレイブ刑務所でのイラク人虐待場面。女性兵士らは鼻歌で撮影したという。

  こんな破廉恥場面を記録したがる心情を疑う。判断力を失ったのか、狂ったのか、喜びを隠せないのか。まだまだ類例は幾らもある。
 衆院議長のセクハラ電話も正気では無い。彼らは自らの破廉恥を強者・勝ち組の特権と見做している。民主主義は特権の廃止なしには始まらないのだ。どこかに特権が残る限り、弱者の「権利」は必ず切り捨てられる。

 64年東京五輪バレーボール監督は、「東洋の魔女たち」を真夜中に叩き起こして練習させたと言う。金メダルの勝ち組には許される特権と見て、世間はこの「しごき」を容認した。それが今なお続く日本スポーツ界の体罰死を許している。 

 狙撃された元首相による「桜を見る会や加計学園等に連なる幾多の犯罪的不正」も、勝者・権力者の特権と世間は容認した。であれば民主主義を破壊したのは誰かはっきりしている。そして棚上げ切り捨てられた「権利」は夥しい。

ペリー来航は「武力介入」 

 嘗て米上院が米海軍に対して、武力介入の報告を求めたことがある。ニカラグアやアンゴラなどへのArmed interventionに混じって、RyukyuとJapanも報告されている。


  

   琉球では上陸したペリー艦隊水夫が女性に強姦暴行、仏壇の酒や食べ物を盗み、「位牌」を持ちかえり、また恩納村で酒に酔った米兵が住民に向け銃を発砲し、12歳の少年を含む三名の村人を負傷させている。 

 1854年6月12日には、那覇に上陸した水夫たちが酒と女性を求めて人家に押し入っている。強姦した水夫は住民に追われ海に落ちて溺死。

 最高責任者ペリーは、謝罪しないどころか逆に水夫が死んだことを問題にし、犯人の究明を求め、強硬な姿勢で「裁判」を開くよう琉球側に要求。7月7日、ぺリー同席のもとで裁判が行われ、投石した住民が八重山に終身流刑となっている。このリュウキュウへのArmed interventionでペリーは捕鯨船への薪水補給や通商を強要する以外、琉球占拠も画策している。つまり「武力介入=Armed intervention」は「砲艦外交=gunboat diplomacy」すなわち「侵略」と一体であった。


   『嘉永明治年間録』にはペリー艦隊水兵が横須賀市久里浜近郊で起こした暴行事件の顛末が記されている。

 「この度やって来た異国船。六月八日、本牧沖に滞船中は小舟にて諸方を遊覧し、此の時久里浜に住む百姓市之助(年齢約六十歳)と言う者がいて、娘(二十歳)が一人いた。市之助は畑に出て農作業の為家を留守にしていた。娘が水を汲みに出ていると、夷人たちが娘を見つけ、小舟にて漕ぎ寄せてきて、八人が上陸し、市之助宅に侵入し娘を強姦した。物音を聞き市之助が家に戻ると、その様子を見て、天秤棒にて夷人三人を打ち倒し、その他の夷人は船へ逃げ帰った。娘は気絶していて、市之助は娘を介抱し、何とか息が戻った。此の隙に三人の夷人たちも逃げ出した。市之助は久里浜の役所に訴え出たが、役人は穏便に済ますため堪忍してくれと諭し、三百疋を取らせて事を済ました」(原文は漢文)


 琉球で罰を逃れた水兵たちは増長、久里浜でも同じ事件を起こしている事が分かる。注目すべきは「役人は穏便に済ますため堪忍してくれと諭し」た事だ。原爆投下を非難するどころか、占領軍に先んじて原爆被害実態を報道管制・隠蔽した日本軍部を思わざるを得ない。

 ペリーは忽ちのうちに懲らしめるべき「外患」から開港の恩人と持ち上げられてしまう。悪が善に転化する、正常な精神を失っている。強姦された者が、憎むべき強姦犯を「彼は私を愛していた」と妄想するに似ている。 

 おかげで各地にぺりー提督を讃える記念碑が建てられる始末。原爆投下や東京大空襲などの司令官ルメイ(日本本土爆撃が人道に反することを知りつつも戦争における必要性を優先し、現場で効果的な戦術爆撃を考案し実行した。終戦の9月20日に彼は記者会見で「戦争はソ連の参戦が無くても、原爆が無くても2週間以内に終わっていたでしょう。原爆投下は戦争終結とは何ら関係ありません。」と答えている)に、日本政府は勲一等旭日大綬章を贈っているのだ。

 ペリー砲艦外交=gunboat diplomacy以後、日本の権力は強きには屈伏すべしとの価値観に囚われてしまう。安手の鹿鳴館で似合わぬ洋装で下手な踊りにうつつをぬかす有様を錦絵にしたり出来るのもそのためだ。その裏には強者は常に正しいとする世界観が見える。そうでなければ唯一の被爆国が、原爆投下国の核の傘の元にある事の理屈が付かない。 

 強者=正義とする世界観は、朝鮮や中国更に「大東亜共栄圏」政策に反映する。開国した日本は正義であり、鎖国を続ける朝鮮は正義の日本敬意を払って従うべきであり、列強に分割されつつある中国に正義はあり得ないとの筋書きになる。かくして帝国日本は「現人神」に守られ「大東亜共栄圏」を形成、正義を世界に示さねばならない羽目に。ここまで妄想が募ると、昨日までの先進正義・米英は一瞬にして反転「鬼畜」と化す。神国官製の妄想にイライラしていた大衆が開戦の報道に快哉を叫ぶのは妄想の再構成=反転強化に過ぎない。反転した虚像は原爆による敗戦で再び反転した。

 もし日本が自立した誇りある国家であれば、力に屈した自己を恥じ、鎖国政策を維持する李氏朝鮮にこそ敬意を払う。孫文や魯迅が期待した日本像こそ、世界史的実像であった事を知るべきだった。

 それにしても米国は「武力介入=Armed intervention」を21世紀に入っても止める気配がない。貧しい小国ベトナムに徹底的に敗北した一時期は温和しかった。「世界の警察」の妄想から覚めたかにみえた。しかし「我々はベトナムに負けたのではない。国内の反戦運動に押されたに過ぎない」と言い始める。妄想の修正し始める。

 英国から追われるようにして新天地を求めたキリスト教徒たちが、メイフラワー号でプリマスに上陸して以来、彼らは先住インディオ虐殺を神の恩寵の証とする妄想なしには、合衆国建国を正当化出来ないからだ。「神に守られた正義の全能米国」と「万世一系の神国日本は、幼児な妄想という点で共通して互いに依存している。両国とも常に絶対悪として第三項を仕立てねばならなくなる。

 日本各地に乱立するペリー提督像、ペリーを『讃える』記念碑を見る度僕は胸くそが悪くなる。   

1967年のどぶねずみ色の若者たち Ⅱ

 承前  花森安治は兵隊だった頃を思い出す。彼は1911年生まれ、徴兵で中国東北部の部隊に従軍した。


   どうにもならぬほどのどが渇いてくると奇妙に、だれの顔つきも、おなじような感じになった。 

   目が、へんに光っているくせに、それでいて、どこか遠くのほうを見ているような、早くいえば、呆けたような表情になる。

 ひとの顔が、みんなそう見えるのだから、もちろん、こちらなど、とっくにそんな顔つきになっていたのだろう。

 そして、考えていることといったら、あとどれくらい歩いたら、水のある所に行きつくだろうか、などといったことではなくて、それでも、だれか水筒に水をこっそり残していないだろうかと、前後左右の兵隊の腰のあたりで、歩くたびに揺れる水筒の音に、神経をすりへらしているのだ。

 ことわっておくが、こんなことを書くのは、このごろのご連中、みなさまおなじような顔つきをしているのは、心のなかで、よほどのどが渇いているのだろう、などと歯の浮くようなことを言うためではないのである。

 なにかといえば、欲求不満だの挫折感だの劣等意識だの体制だの反体制だのとはやしていて、それで日が暮れるような、そんな甘っちょろいものではない筈だ。

 第一、おなじバカみたいな表情にしても、汗が噴いて乾いて塩が縞のように白くこびりついた兵隊のぎりぎりのアホウ面と、ズボンのポケットに小銭をじゃらじゃら鳴らしている、男性化粧料やけしたアホウ面とが、いっしょになろうはずがなかろうじゃないか。

 そんなことではなくて、あのどうにもならないほどのどが渇いているときでもみんなが、おなじ兵隊服でなく、てんでばらばらのものを着ていたら、それでもやはり、みんなおんなじょうな顔つきになっただろうか、それをふっと考えたからである。

 というのは、そんな生命ぎりぎりのときでなくても、兵隊の顔は、どうにも見わけのつかないものなのだ。

 いつか、行進している部隊の中から、自分の中隊を探そうとして、知った顔を見つけるのに、ひどく苦労したおぼえがある。

 そういうつもりで、一度、このごろの連中の着ているものを、町角に立って、眺めてみたまえ。

 まるで、だれかに命令されたように、みんながみんな、おなじような服を着ている。それが、どぶねずみ色なのだ。

 だいたい、男の背広なんてものは、やれコンチがどうの、アシタがどうのといってみたって、たかだか、エリの巾が何ミリどうなって、胴のダーツが何ミリどうとったなんてことで、ボタンの数がふえたといっても、まさか十も二十もつくわけじゃなし、ズボンをスラックスといいかえてみても、ガニマタが、すらっとするわけでもなし、洋服屋のまわし者がさわぐほどには、大して変りはえのするものではない。女の子の流行の千変万化ぶりにくらべたら、男の背広なんて、いつだって、どこだって、だれが着たって、大して変りのないものだ。

 形がすでに大して変りはないときているところへもってきて、色まで、そろいもそろって、どぶねずみ色なのだから、なんのことはない、これは、もはや一種の兵隊服である。

 それも、兵隊服のほうは、なにも好きこのんで着た奴は一人もいない。馬鹿野郎、服に体を合せるんだ、とどなられながら、どうにかこうにか、体のほうが服に合ってきたものだ。

 もちろん、あの兵隊服には、細部にわたって、なにからなにまで、きちんと規格があって、縫製はもちろん、着方まで、うるさくきめられていた。帯革をしめたとき、ビジョウのどの線が、服のどの線にそろわねばならないか、そのとき出来たシワほ、どこへ寄せなければならないか、そんなことまできめられていた。軍人の制服だから、仕方のないことだった。

 ところがこのごろの連中のどぶねずみ色の服が、やっぱりそれなのだ。

 なにも会社や役所できめたわけでもあるまいし、タダでくれたものでもあるまいに、兵隊服みたいに、ぴったり規格に合って、着方までそろっている。

 ワイシャツは白、ネクタイと靴下は、どぶねずみ色、靴は黒、ハンカチは白ときて、そのハンカチの折り方、胸ポケットからのぞかせる寸法(ミリ単位)、ネクタイの結び方から、カフスボタンののぞかせ方(おなじくミリ単位)、上着のボタンの外し方に至るまで、これがおなじときている。

 古い言葉でいえば、さしづめ、バッカじゃなかろうか、である。

 君、なにを着たっていいんだよ。

あんまり、わかりきったことだから、つい憲法にも書き忘れたのだろうが、すべて人は、どんな家に住んでもいいし、どんなものを食べてもいいし、なにを着たっていいのだ。それが、自由なる市民というものである。

  花森安治「どぶねずみ色の若者たち」 『暮しの手帖90号』

 どうだ、不気味だろう。「 あんまり、わかりきったこと」も憲法に書かねばならぬと言いながら、その実政権党が目指しているのがどんな世界なのかが。

 花森安治は、世界を震撼させた「大学闘争」の前年にこれを書いた。と言うことはここに書かれたどぶねずみ色の若者たちは、団塊の世代のだいぶ前に生まれている。つまり戦中派ではないが戦後派でもない。この微妙な世代のおかしな風俗に、花森安治は怒りを隠さない。

 彼らが国民国民学校に入る頃、教師は敗戦で呆然。昨日まで現人神のために命を捨てろと裏声で叫んでいた男が、教科書の墨塗に励むそんな時代。

 適格審査による教職追放もあったはず。 教職追放は、GHQのCIE(民間情報教育局)が担当した。CIEは、教職追放の方が公職追放より厳しいものになるべきと考えていた。全国130万の小中学校教員、大学教授等を対象に審査し、日本の戦争を肯定する者、積極的に戦争に加担した者、戦後の自由と民主主義を受け入れない者に、除籍を求めた(適格審査の記録はほんの一部しか残っていないが、審査は実に杜撰なものであった)。1946年5月、占領下の文部省は『教職員の除去、就職禁止及び復職の件』を発令。各都道府県に教員適格委員会を設置している。

 少年たちは何を考えただろうか。

 丸山真男は駅ホームの放送「危険ですから白線の内側にお下りください」に腹を立てた。判断する主体はあなたではないということを、政府に代わって数十年間睡眠学習のように聞かせ続けているからである。

 戦前の教育は少年の生活全てから、判断するする知性を奪い尽くした。

 つい昨日まで鬼畜と罵った米兵に一言一句に至るまで唯々諾々と従う。そんな教師を見て、少年たちが再び胸に刻んだのは今までのように「考えない」こと「判断しないこと」だった。そうでなれば「どぶねずみ色の若者たち」の奇態は説明が付かないではないか。


 『暮しの手帖』の魅力は、多種多様な取材対象と執筆陣にある。ノーベル賞受賞者も日雇い労働者も人間国宝も貧乏暇なしも同列に扱われる。この無鉄砲かつ勇敢な編集姿勢は、花森自身の旧制高校時代や「帝大新聞」編集部時代に形成されている。

 だから彼は一方で「どぶねずみ色の若者たち」とは対極の輝かしい青春を経験し、他方で軍馬以下の一兵卒=究極の溝鼠として戦場を彷徨った経験をもった。正真正銘の複眼的切れ味の良さはこうして生まれている。

 

  

1967年のどぶねずみ色の若者たち Ⅰ

 花森安治は、全世界的な学生紛争の勃発する「1968」年の前年に不気味な批評を書いた。

 学校にいるときは、一向に制服を着たがらないでもって、ひとたび世の中へ出たとなると、とたんに、うれしがって、われもわれもと制服を着る、という段取りになっているようだ。

 たとえば、東京でいうなら、丸の内とか虎の門あたり、あのへんを、昼休みにぞろぞろと歩いている、若いサラリーマンたちを、ながめてみたまえ。

 ・・・

 へたな空想科学小説にでてくる、どこかの遊星の、独裁者の意のままに支配されている人民たちみたいに、みんな生気のない顔をして、べつにどこへゆくというあてもなく、みんなが歩いているから、じぶんもそっちへ歩いているといったふうに、動いているのだ。

 真昼の強烈な日光の下で、突如あたりの風景が、すうっとくらくなる、立ちぐらみというのだそうだが、いくらか、それに似ている。

 見ていて、うすら寒いのだ。

 いったい、人なに事かを憂えているときは、顔色に生気があり、日に光りがある。このどぶねずみ色群の、のろのろとした動きには、そのような、大それた気配はない 

・・・

 顔色の生気のないことをいうまえに、顔つきの、だれもかれもおなじように見えること、さながらナンキソ豆の面つきのようであること、それからいうのが、ものの順序だったかもしれぬ。

 なるほど、ひとりずつを離して、ことこまかに観察すると、おのずから多少のちが小はあって、佐藤君を三木君ととりちがえるようなことはない。

 しかし、佐藤君の顔と三木君の顔のちがいは、つまりはナンキン豆にも、皮がこびりついているのもあれは、焦げて苦いのもある、その程度のちがいで、ひっくるめてみれば、このごろの連中の顔は、まったくおなじような感じである。

 むかしは、女性の顔が、こんなふうに、どれもおなじような感じだった。

 リンカクでいうと、面長とか面丸とか色つやでいえは、じゃがいもの皮をむいたのと、むかないのとか、一方はキッネ顔、一方はタヌキ顔といったちがいはあったにせよ、ひっくるめての感じは、どれもおなじだった。二言でいうと、つまりは<良妻賢母>風とでもいうか、内心はともかく、いつも一歩か一歩半ひき下ったような、見たところ、つつましく、たよりなげな顔つきであった。

 どこで、どう回路を引きそこねたか、このごろは、男の連中が、おしなべて、おんなじような顔つきになっている。

 一くせも二くせもありげな、ギョロリとした面がまえは、先日小菅刑務所を見せてもらったが、そこでも見つからなかった。

 まして、のろのろと昼休みのビル街に動いているどぶねずみ色群のなかに、半くせも四分の一くせもありそうな面を見つけようというほうが無理なのだ。

 おしなべて、一見たよりなげで、二見良夫賢父ふうで、三見ケチでずるそうでこれでは、だれの顔を、だれの顔とすげかえてみても、べつになんの差し支えもござりませぬわいなあ、といった顔つきをしている。

 だれの顔つきもおなじだということはみんなのっぺらぼーの顔で歩いている、ということだ。

・・・

 兵隊だったころに経験したことだが、どうにもならぬほどのどが渇いてくると奇妙に、だれの顔つきも、おなじような感じになった。

 しかし、このごろ どぶねずみ色の服を着て、のろのろと、けだるそうに生きているのは、こどもでも老人でもない筈である。

 それとも、このごろの青年は、戸籍面の年令だけが青年で、中身のほうは、ひねくれたこどもか、若年寄りのどちらかなのだろうか。

・・・

 どんなわかりきったことでも、一度じぶんの手で受けとめて、じぶんなりに考えてみて、ほんとにそうなのか、じぶんでたしかめる。もし、そうでなかったらハッキリさせる、そうなるまでたたかおうとする、この抵抗の精神は、青年だけが持っていた筈である。この精神だけが世の中を、すこしでもスジの通ったものにしてゆけたのである。

 みんな、だれの命令でもないのに、どぶねずみ色の服を一生けんめいに着こんで、しかも我ひと共に怪しまない、そんな姿勢のどこに、この青年だけが持っていた<さからいの精神>がみられるというのか。

一体何時から日本はこんな馬鹿げた児戯に力を込め始めたのだ、千歳飴が相応しい


 いまは、天下泰平だという。

 ウソをつけ。世界といわず、日本といわず、いったい、どこが天下泰平なのですか。 いうならば、乱世である。

 お互い、うじゃじゃけ(傷跡などがただれた状態になる。 また、だらしない様子)のかぎりをつくした乱世ではないか。

 まいにちの新聞の見出しをならべただけでも、とても正気な人間の集っている世界とはおもえない。

 それだけに、こう連日連夜、ばかげたことに、十重二十重と取りかこまれていてはくよほど、しっかり立っているつもりでも、足をとられてしまう。まあ仕方がない、とあきらめる。しまいには、それがあたりまえのような気が、してくる。

 あげくの果てが、みんな、のっぺらば一の顔にどぶねずみ色の服だ。みんなが着ているから着ている。

・・・

 たかが、服のことぐらい、、どうだっていいじゃないか、というのか。

 その通りだ。たかが服のことだ。こちらも、それがいいたくて、さっきからうずうずしていたところだ。

 まったく、どうだっていい筈だ。いい筈なのに、どうして、みんな申し合せたみたいに、どぶねずみ色の、ものはしげな服を着ているのだ。

 紺の上衣に、うすいグレーのズボンをはいたっていい筈だ。・・・

 第一背広なんか着なくたっていい筈だ。ジャンパーだっていい筈だ。

 それを、みんながしているとおりにしていたら、まちがいがない、などと横町の年寄りみたいなことを考えて、そう考えるのが、大人の考えというものだ、とおもっているのなら、たいへんな大まちがいだ、。

 たしかに、そういう考え方は、こどもではない。しかし、決して大人の考えでもないのである。それは、ともかく生きているだけ、という老人の考え方にすぎない。

 そんな考え方では、世の中をよくしようなどと大それたことはもちろんだが、この凄じい乱世を、果して乗り切って生きてゆけるかどうか。

 のんでものんでも、のどのかわきのとまらない因果な病人みたいに、ひとのすることばかり追っかけるクセがついてしまったら、ひとが赤旗を振れといえば、うしろの方で目立ぬように赤旗をふり、ひとが鉄砲をかつげといえば、ロの中でぶつぶついいながら、鉄砲かついで船に乗せられてしまいはせぬか。

 どぶねずみ色の服を着せられている諸君よ。たかが服のことだが、このつぎ服を買うときは、ひとのことは気にしないで、じぶんの着たい服を買いたまえ。

 すると、たかがそれくらいのことをするにも、いささかの勇気がいることに気がつく筈だ。

 しかし、君よ。君がねがうところの、親子何人かが、おだやかに暮してゆけたら、というささやかなマイホーム的幸せを手に入れるためには、たぶんその何倍かの、<いささかの勇気>がなければ、だめなのだ。らくなことだけをしたい、いやなことはしたくない、といった臆病者では、到底手に入れることはできない等なのだ。       花森安治「どぶねずみ色の若者たち」 『暮しの手帖90号』     続く

 1967年この年僕は高校三年生になった。既に前年頃から制服や校則に対する火花を散らすような抵抗が、あちらこちらの高校で始まっていた。教室で、廊下で、校庭で、教師と激しい論争が繰り広げられ、大きな人だかりになった。同時にそれはベトナム反戦と密接に絡んでいた。

 花森安治はこうも言う。

 みんながスキーに行くから、おれはゆかない。みんながクルマに熱を上げているから、おれはそっぽをむく。みんなが安ウイスキーをのんで麻雀をするから、おれはのまないし、やらない。

 それがいいとか、わるいとかいうのではない。それが青年なのだ。すくなくとも、青年とこどもがちがうのは、そういうところなのだ。

 そんなことを言っては損だと知っていても、いわなければならないことは、ハッキリと大きい声でいう。そんなことをしてはまずいとわかっていても、しなければならないことは、きっぱりとやる。

 それが青年というものだ。すくなくとも、青年と老人がちがうところは、そこなのだ。

 かりに、世の中がすこしでも進歩しなければならないとしたら(こどもと老人は、そんなことを考えもしないし、信じもしない)それがやれるのは、青年しかない。   

五十三才の老女教師と娘に襲いかかる「勤務評定」

 公選制教育委員会が始まったのは戦後間もない1948年、それが慌ただしくも56年の地教行法(地方教育行政の組織及び運営に関する法律)で首長による任命制教育委員会が強制された。その任命制教育委員会は、先ず何よりも教員に「勤務評定」で襲いかかることに専念した。

 この『暮しの手帖』への投書は、「勤務評定」が教育を如何に荒廃させたかを如実に語りかけている。

  ★母の異動

 二ヶ月ぶりに母から便りがきた。五月も終り近く教員の異動期はとっくに過ぎ、気にかかりながらも、母は新学期を迎えて元気に勤めていると決めていたのだった。しかし便りによれば母は異動組だった。しかも退職勧告を受け、はねたあげくの遠かく地異動。

 片道一時間半汽車に乗り、降りて四十分歩く里程。母は五十三才である。戦争未亡人で四人の子供を成人させ、戦後の日本をカツギ星、土方でくぐり抜けてきた。昭和二十五年、助教諭になり法政大学の通信教育、単位認定講習を七年間受けた。幼い子供をかかえて日曜もなかったこの期間は、どんなに辛かったことだろう。夜中にふとめざめて、洗濯をやっていた母をよく見かけたものだった。

 それにもかかわらず母は明かるい人だ、。ジメジメするのがきらいで私たちは安心して母によりかかっていた。しかし母は誰にもよりかからなかった。頼るは自分のみだった。

 一人娘の私が遠い地へ嫁ぐことも黙って耐えていた。子供をおいて私もまた職業をもつ身であるが、それに耐えかねるとき「子供は大きくなればわかってくれるよ」と言ったが母を支えていたものはこれだったのか……と思う。便りの末尾に「とにかく人のやれないことをやれ……という訳でがんばります」とあった。

 しかし恩給は助教諭だった七年間は年数に認められず、せめて年金を…と働きつづける母に教委は何故、こんな仕打をしたのだろう。老後の補償を自分で得ようとしてこの異動を受理した母が、させた社会が私には悲しいのである。

     松下 雅子『暮しの手帖9号』(1967)


 第一次アメリカ教育使節団(1946年)は、戦前戦中の天皇制軍国主義教育が恰も国民に狭窄衣を着せたようなものであったことを指摘し、日本の教育改革は狭窄衣から教師を解放する事でなければならないと報告書を作成した。この勧告に基づいて独立行政委員会としての公選制教委が教育委員会法によって組織された。

 地方自治体の長から独立した公選制・合議制の行政委員会として公選制教育委員会は、予算・条例の原案送付権、小中学校の教職員の人事権を持った。

 しかし1951年の単独講和暴挙後、占領軍は各地に基地を置き沖縄を占領したまま撤退する。早くも1956年、公選制の廃止と任命制の導入を強制する地方教育行政法が成立している。  

 任命制教育委員会は、一貫して教育と子どもに関心を持たなかったと言って良い。彼らは教育委員会を、政治に従属させ私物利権化を図り今日に及んでいる。「勤務評定」は複雑強権化したに過ぎない。 

権力批判や公正さは何処で消えるのか。

   「ポッカレモン」社がレモン果汁が含まれているかのような宣伝をしながら、中身は100%化学合成品であることを、「暮らしの手帖」が1967年の89号でスクープ。大騒ぎとなった。

コマーシャリズムを排除
し続けた「暮らしの手帖」
  マスコミは、次から次へと他の不当表示も報道し始める。砂糖を使ったはちみつ、粉乳を還元した新鮮牛乳、マーガリンを混入したバター、醸造酢と表示した合成酢、リンゴを混ぜたいちごジャム、オリーブ油を使わないオリーブ石鹸、天然真珠という人造真珠、着色した宝石、背の伸びない伸長機など、次々に事例が報道され、不当表示問題は社会問題化した。しかし責任企業の処分は大甘だった。

 40年後の2008年12月5日、公正取引委員会が「不当景品類及び不当表示防止法」に基づく排除命令を、再びポッカ社に出さねばならなくなる。排除命令の内容は、同社が販売した「ポッカレモン100」等において表示が事実と異なり、一般の消費者に対し実際よりも著しく優良であるとの誤認を招くとするものであった。「ポッカレモン」には「新鮮なレモンのビン詰」、「飲むレモン」、「手軽に使えるレモン以上のレモン」と広告、いかにも天然レモン果汁であるかのように表示。実際にはクエン酸などを使った「レモンもどき」であった。又、同社は原料レモン生果に防カビ剤は使用していない旨の表示を行っていたが、実際には防カビ剤イマザリルが含まれていた。

 同様の不当表示をしていた有力10社にも排除命令が出た。

 ポッカ社ら有力10社は、全国紙に月2~3回全ページ広告。テレビ・雑誌等にカラー広告を活発に用いて、レモン果汁飲料を誤認させる文章や画像をばらまき続けた。

 新聞やTV報道の第一の役割は、真実の追究による権力への批判の筈。巨大企業も権力。その広告を垂れ流した責任を負わねばならない。


 「暮らしの手帖」に始まった騒動に、行政もメーカーもマスコミも何ら反省はなかったことが分かる。

 今や、私企業のTVshoping が日本の電波を占拠。ほぼ一日中国民の健康や老化不安を煽り、怪しい商品を怪しい口調でtvタレントを使って流す有様。電波も国民の共有財産ではないのか。「公」が「民営化」の名の下に私物化されている。「国立」「公立」とは、「国民共有」「自治体共有」の意の筈。それが「行政法人化」の名で、私物化されているだ。そして国家や自治体そのものまで、「パソナ」などの私企業に私物化されてしまった。 

 日の丸・君が代を巡る行政の不当介入で教師が馘首されているのに比べれば、「不当景品類及び不当表示防止法」はまことに恐るべき「ざる法」と言わざるを得ない。当該企業の営業停止・重い罰金や責任者の収監等の実効性ある対策に日本の官庁は踏み切らない。なぜならそこは、彼ら官僚の将来の天下り先だからである。 

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...