ぶれなければ、落下する

  電線の鳥、自転車、二足歩行の人は、何故落ちたり倒れたりしないのか。一見安定して静止しているように見えてはいるが、絶えず重心を動かしたり、倒れる方向にハンドルを回したり足を踏み出しているからである。絶えず平衡を崩しては修正を図っている。完全に静止した状態がどんなに危ないか、電線に鳥の形をした薄焼きの陶器を乗せる苦労をしてみればわかる。陶器は美しくても「死」んでいる。「正常」に生きている証が、動く事である。それは、時には大胆な動きにもなる。
 「「正常」というのは、平凡かつ起伏のない感情の寄せ集めでできているものではない。それぞれの感情を一つ一つとりあげれば「異常」にうつるかもしれないが、それらの感情(+の狂気、-の狂気)をまとめると、全体としてみれば、プラスマイナス零となる。そういった状態が「正常」というのであろう」『ラッセル短篇集』中央公論社                  
  単に「ぶれない」事を、善しとする傾向がある。宗派や党派や個人にも抜きがたく潜在して、折に触れて噴出する。学生運動セクトの僅かな路線の違いが、殺しあいにまでなる。ソビエトの核を巡る原水爆禁止運動の分裂は、人々をウンザリさせ、市民活動家が次第に距離を置くようになった。意見の違いには寛容な姿勢で臨み、互いに学び合う事で成長しているのが国民に実感出来ないのであれば、誰がそんな政党に政権を任す気になるだろうか。仲間内の小さな違いに目くじらをたてていがみ合うのなら、仲間内でない大衆の異論・反論にどんな態度を取るのかと、怪しんで離反するのは当然だろう。
 例えばフランスの共産党大会には、トロツキストや第四インター系の党派や脱党したかつての仲間も招かれていた。大分昔からである。僕は、森 有正の『パリだより』(「世界」岩波書店)で読んで、嘆息した。70年代だったと思う。 お終いには互いに肩を組んで、インターナショナルを歌う。ここまであって、初めて言論の自由・結社の自由それ自体が社会化していると言えるのである。日本では、袂を分かったかつての友を口を極めて罵ることが、己のぶれない正しさを証明するが如き惨状である。社民党大会に共産党書記長が顔を出したのは、漸く去年のことだった。余りにも遅い。この不毛な啀み合いが、どんなにか政権党を利した事か。

 この忌むべき体質が、あらゆる党派、あらゆる組織に潜むのは何故だろうか。そのことと、左翼党派の「転向」体質、ハンセン病の絶滅隔離政策、偏差値に依拠した選別体制、疑似血縁関係をを拡大する血統信仰、・・・は密に絡んでいる。更に我々の日常に抜きがたく染みついているものがあって、不毛な啀み合いの培養器になっている。例えば、メダルや勲章を有り難がり、あらゆる事をランキングせずには措かない性癖、勝っても負けても泣きじゃくる不思議な感性。
 僕は何度か学級担任をした。その度ごとに閉口したのは、通信簿に学級内席次や学年席次を入れて欲しいという圧力だ。生徒がそう言うのだから困る。東京にある何百という学校のランキングさえ辟易しているのに、学校内の、学級内の順位を知りたがる。人格・人権の概念が根付かないわけだ。先ず、ここを抉らない限り「憲法感覚」はこの国に広まらない。
 我々は、何かを持つが故に尊いのではない。同時に何も持たないが故に卑しめられてはならない。権利という概念は「何かが出来る」というだけではなく、同時に「何かをした事を理由に、不利益を被らない」ことなのだ。
 ある時期、むやみにやる気を失い全てに落ち込んだとしても、反対に信じられないほどの頑張りをみせ誇りに満ちあふれたとしても、やってプラス・マイナスにぶれていることが「正常」なのである。あるときは輝くばかりに美しく、誰からもチヤホヤされて得意の絶頂だったのに、自殺したいほど自分の風貌が醜く想えみんなから無視されても心配はいらない。それが成長している証なのだ。党派の判断がぶれる、画家の作風がぶれる、作家の文章がぶれる・・・。それらは全て、彼らが生きた社会に生きて、活動している証である。存分に相互批判・批評の機会だと楽しむべきである。ぶれない党派・組織に成長はない。ぶれているのに、その事実を頑固に否定する個人を信頼する者はない。

 高校生の頃、フェリーニの『8・1/2』を僕は立て続けにみた。何もかもわからない。わからなさが僕を鷲づかみにして離さない。映画雑誌もパンフレットも読んだが、わからない。『甘い生活』も何度も見返した。わからない。イタリア語を知ればわかるのかもしれない。シネチッタに留学したいと思った。教員になっても『8・1/2』は見続けた。いつの間にか気づけば、当時のフェリーニと同じ年配になっていた。そして突然全てを了解した。理解したのではなく、了解した。『8・1/2』の主人公は、フェリーニ自身をモデルにしたグイド。グイドの愛人、友人、制作関係者との関係が膠着して、映画の構想が全く浮かばない、膠着しているのは現関係ばかりではない、イタリア社会の精神状況も混乱している。しかし次作を期待され追い詰められ、グイドの精神は千々に乱れ、「ぶれる」。全てが面倒になり、放り出してしまう。全てを放り出してみると、全ては変わらないまま、グイドを受け入れている。「これでいいのだ」と。散々ぶれて、天才監督は次作の構想に取りかかろうとする。
  その永い思索の過程で読んだ何かに、マルチェロ・マストロヤンニは自分の顔を嫌っていた、というような文を見つけた。どこで読んだのが思い出せないが、多くの俳優・女優が自分の顔に違和感を持っている事も知った。容貌の根幹は表情である。表情は自分と対象の相互関係である。その変化に気付きもせず、絶対不変の自信を持っている者があれば、見る気にはならない。そんな役者に演技の進歩など期待できない。


格差の連鎖ではなく、制度的格差そのものが問題なのだ

 《所有》=(own)と《債務を負う・恩恵を被る》=(owe)、《当為》=(ought)との間には語源的つながりがある。  身体・能力の所有(own)を社会への責務関係(owe)から切断したところで、近代に特異な「自己所有権」の主張がかろうじて成り立っている。
 僕の高校の校長は隣の大学の農業経済学者で、月に一度やってきて中庭で話をした。哲学者然とした風貌と、学ぶ者・知識ある者の社会的責務を淡々と説く姿に見せられて、多くの生徒が大学の研究室を訪ねた。いつも若者で賑わっていた。 彼は、社会への責務=当為を我々に説いて、我々の目と耳を広く社会に世界に向けさせたのだった。そのせいばかりではないだろうが、様々な集会やデモには上級生と同級生たちの姿があった。

 人々が競って所有したがり見せびらかしたがる能力や財がある。他方隠し捨てたくなるマイナスの財や能力もある。この誰もが捨てたくなる財や能力など、厄介なものは自然消滅するだろうか、廃棄出来るのだろうか。嫌がるものは捨てて、みんなが欲しがるものだけ増やすわけにはいかない。この相反するものは同時に生まれる。同時に存在する。一方が大きく輝けば、他方は暗く沈む、仕組みがそうなっている。爵位と特権を欲すれば、同時に貧民と窮乏はつくられ拡大する。維新で爵位はつくられたが、被差別身分がなくなる事は構造上あり得なかった。それどころか、戦争のたびに貴族は増えている。東京の貧民街が拡大するわけだ。
 人々が高い偏差値の学歴を欲し実現すれば、低い偏差値の学校やその学歴保持者は、望まなくとも同時に同じだけ生まれる。
 それは全く正確にそうなのである。その値は一つひとつ個人・組織に対応しているから、隠し捨てたければ人や組織そのものを捨てなければならない。さもなくば偏差値そのものを廃止しなければならない。貧民をなくすには、あらゆる特権を廃止しなければならないように。

  北欧などまともな国では、例えばオリンピックのメダリストが学校で教えていても、誰も特別扱いしない。彼が尊重されるのは、記録の故ではない、その存在ゆえだからである。 本人も特別扱いを求めることはない。特定の能力が特権を生むことはない、同時にその能力の欠落が不利を生むこともないのである。

 一旦特権を得たものは、それを維持増大させたがるし、それがあたかも当然の自然現象であるかの如振る舞う。特権の対極に立たされた側は、特権を持つ者に憧れて我が身の不運と諦めてしまう。この構造を我々が肯定する限り、受験地獄も格差もなくなりはしない。格差の連鎖が問題なのではない、格差そのものが問題なのだ。格差の連鎖を無くすと言いながら、行政が中学での課外補習に予算を組んでも、たとえ成功しても連鎖そのものは移動するだけで消えはしない。塾産業の利権を太らせ、格差は新たに広がるに過ぎない。
  イタリアブランドの高価な制服を決めて、悦に入る公立小学校校長がでるのも、新たな格差を求めての無能者の愚かな「見果てぬ夢」に過ぎない。彼は公立学校校長の「社会的責務」から自らを切断して「所有権」だけを声高に言えるほど知性を欠いている。まともな大人なら、恥ずかしくて穴に入る。

追記 僕らの校長が、月に一度昼休みの僅か2・30分語りかけた事が、我々を身近な差別や貧困そして遠い沖縄問題やベトナム戦争に関心を向けさせ、積極的な「社会参加」に誘った事は、考察に値する。参加型学習に僕は、胡散臭さを感じている。

独裁は、若い知性を恐れている


行方不明になった若者たち
 アルゼンチン映画 "Night of Pencils"の原題は、La nocha de los lápices ←(クリック) で、「『鉛筆たち』の夜」。アルゼンチン国軍による、民主的活動家の誘拐殺害作戦名である。「lápices」=「Pencils」とは、高校生や大学生・知識人活動家に対する兵士の蔑称で謂わば「鉛筆野郎」であった。
 1976年3月24日、アルゼンチン陸軍司令官ホルヘ・ラファエル・ビデラが、クーデターで政権を掌握し、5日後には「大統領」に就任。その数ヵ月後から7年間で約20万人の若者や知識人などが拉致・殺害された、Guerra Sucia、汚い戦争と呼ばれる。殺害の犠牲者の数は、3万人。多くが死亡場所および死亡時刻が確定できない「行方不明者」である。

 映画の舞台は、1975年のアルゼンチンの地方都市ラプラタ市。高校生のパブロ・ディアス(Pablo Díaz)とそのガールフレンドのクラウディア・ファルコーネ(Claudia Falcone)と、オラシオ、ダニエル、パンチョ、クラウディオ、マリア・クララらは、デモなどの運動により、学割定期券を実現したり地域活動を展開していた。
 しかし1976年3月24日の軍部クーデターが発生。軍の活動家誘拐作戦により、事態は一変。仲間が誘拐されはじめる。パブロも覆面の男に自動小銃を突きつけられ、拉致される。連行された競技場では拷問のすえ銃殺された活動家らしい男の姿を目撃する。パブロ自身も拷問を受ける。移された刑務所でクラウディアも含め誘拐された仲間と再開。クラウディアは兵士に強姦されていた。パブロは更に別の刑務所に移され、数年後釈放されたが、クラウディアら他の仲間は行方不明のままである。
  拉致され高校生パブロ・ディアス(Pablo Díaz)の実話を綴った著作 "Noche de los Lápices" が、1986年に映画化されたものである。登場人物は、かつて実在した少年たちである。
  
  僕はこれを視て、日本軍大本営が計画的に行った、シンガポールにおける華人大虐殺を想い浮かべた。1942年3回にわたる「大検証」(粛正)で、シンガポールの華人約5万人が殺された。「学校教師・新聞記者・専門職・社会的地位のある者」のほか、学歴所有者「財産を5万ドル以上持っている者」なども含まれ、日本軍に犯行を企てる可能性のある知的要素のある者全てが対象だった。謂わば、シンガポールの「鉛筆野郎」である。犠牲者たちは、1961年12月まで発見されなかった。
                          
  アルゼンチンのGuerra Sucia、汚い戦争中、「軍と癒着した大企業が、経営に邪魔な人間の拉致を依頼していた」事や「軍部が、妊娠している女性をさらって子供を産ませてから殺し、子供のいない軍の幹部に赤ちゃんを売り渡していた」ことも発覚している。殺害は残忍で、纏めて飛行機から冷たい海に突き落すなど常套手段だった。

  軍事政権時代から、行方不明者の生還と真実の究明を訴えつづけてきた「五月広場の母たち」がある、行方不明者の母親たちを中心に結成され、毎週木曜日、大統領府前の五月広場を、白いハンカチを頭に巻いて、無言の「抗議の行進」を続けてきた。立ち止まったり、声を挙げれば逮捕されたからである。
「五月広場の母たち」がつくった大学がある。 Universidad Popular de Las Madres de La Plaza de Mayo  運営は基金を募って、学生は無償で授業を受ける事が出来る。
  独裁者が嫌うのは、若い知性である。若い知性が増えることが、軍事独裁の芽を摘む事になる。
 アルゼンチン最高裁は軍事独裁の国家犯罪を裁くために、2005年には「恩赦法」を違憲と判断している。「恩赦法」とは、拉致や殺害に関わった元軍幹部らのために制定されたものである。ここには、歴史修正を断じて許さない決意がある。

  大学や高等学校のカリキュラムが、政権の要求を反映して作り替えられているとき、それが若者の知性をどちらに向けようとしているのか、見極めねばならない。

非行や犯罪の範囲はどこで誰が判断しているのか

 東南アジアの海賊は、5世紀には記録に登場している。主な略奪品は、交易の積み荷や沿岸部の商品であったほか、労働力としての奴隷も主要な略奪の対象であった。多くは、ヨーロッパの植民地勢力がやってきてから規模が拡大している。
 「海賊は、同時に漁民であり交易商人であった。かれらは生業が不振になれば、海賊業にいそしむ以外になかった。ヨーロッパ植民地主義者がこの地域に多くの海賊を発見するのは、かれら自身の交易独占政策が発生させた結果を、それと気づかずに眺めたにすぎない。 かれらは、この土地の正当な抵抗者を身勝手にも海賊と呼んだのである。海賊は確かに植民地主義に対抗する抵抗の一つの型であった」 鶴見良行『マラッカ物語』 時事通信社
  僕がN工の定時制課程にいたのは、大学卒業直後の数年間だった。その後半、S工全日制課程から数人の転校生があった。何かの事情でいくつも落第点が付き退学を勧告されたのだが、転校を条件に落第点が取り消され単位を認められてやって来たのだった。何れも素直な少年で、生活も成績も問題なく進級して卒業した。
 当時僕は、組合の教研委員を務めていた。毎週金曜日の午後、各職場持ち回りで、支部教研の例会をもっていた。どの職場でも教研委員の金曜午後は、授業を開けてくれていた。僕はS工全日制の教研委員に、転校してきた生徒は何れもいい少年であったことを告げて、それとなく退学勧告が間違いではないのかと仄めかした。しかし、次の年も、S工全日制から同じ事情の転校生が数名あった。何れも問題はなかった。この頃からこうした転校生が、どこでも増えた。生徒減に悩む定時制にとっては、渡りに舟と歓迎する傾向もあった。僕は他の高校ではどうなのか、それぞれの職場の状況を聞いて、あきれ果てた。 
 「そもそも、自分のところでは赤点だが、転校するなら合格にするというのは失礼ではないか。うちはレベルが高くて無理だが、そちらはレベルが低いからいいだろうと言っているのと同じだ」と噛み付いた。
 「そんなつもりはない。環境を変えることが、生徒のプラスになればとの判断なんだ」と年配の生活指導のベテランを自任する教師は抗弁した。
 「転校生たちの生活上の問題も、学力上の問題もそちらの方が熟知しているはず。次から次へと退学や転校させて、一クラスの人数は減っていると言ったのはあなただ。彼らの指導に向いているのは、あなたたちだ。環境を変えるのではなく、やり直しを認める事を考えるべきではないか。それを教育と言うのではありませんか」次の年から、転校生は来なくなった。
 学力であれ、生活であれ、個々の生徒とその学校や教師との関係から生まれる。その分析もせず、対策もとることなしに、厄介者扱いをする。
 「植民地主義者がこの地域に多くの海賊を発見するのは、かれら自身の・・・政策が発生させた結果を、それと気づかずに眺めたにすぎない」
  我々教師が、学校における「海賊」をつくっていたのではないか。「正当な抵抗者を身勝手にも海賊と呼んだので」あれば、先ず己の侵略行為をこそ糾弾しなければならない。

  ソマリアの「海賊」も、ヨーロッパ漁船による乱獲、違法操業するようになってから始まった。

なぜ入試は点数の高い者から選抜するのでしょう   「自同律の不快」

少年埴谷は植民地台湾で支配側の自己を感じていた
  「「自同律の不快」も一種の自己語なんですよ。これは疑似哲学ことばです。自同律を問題にして、それが不快だと決めつけるのは、ふつうの言語ではできないんです。 自同律を不快の異常論理へ引きずりこむ出発点は、偶然ぼくが台湾という植民地に生まれたということです。植民地でも日本人の町に生まれたらだめです。田舎の工場へ行くと、実際に台湾人を使っていてぶん殴るわけですから、それを、子どものときから見聞きしていないとわからない。台湾人が野菜を売りにきて「奥さん、これ十銭よ」と言うと、日本人のおばさんが「いや八銭、八銭」と言って八銭しか払わないんですよ。日ごろはいいおばさんが、植民地の体系のなかに入ってしまうと、自分のしていることの非道さがわからない
              埴谷雄高
 新任教師として壇上で紹介されるとき、僕は埴谷の言う「自同律の不快」にみまわれていた。
 新卒の前任校で、僕は職場の教研委員を4年続ける機会に恵まれた。職場を、外側から見る事が出来たからである。各職場の僅かな違いが、高校教育と教育界の全体構造を見せてくれた。それは、付き合いや交流の範囲の拡大と共に明瞭になった。嫌なものも、目についてくる。
 特に嫌悪したのは「生活指導」にのめり込む一群の教師たちの「使命感」であった。「指導」という言葉は、軽薄な教師による「少年の領分」への介入に過ぎないと思った。いたずらに生徒と教員の間に壁を作る浅知恵なのだ。埴谷雄高の言う「体系のなかに入ってしまうと、自分のしていることの非道さ」も無意味さも、分からなくなる。僕自身もそのなかの一人であるのが嫌だった。

 異動後の着任式で、僕は「君たちは、この若造は何なんだ、どういう奴なんだと考えているだろう。嘗めちゃいけないよ、とは言わない。なめてもいいよ。そうしなければ味はわからない」とだけ言った。いつまでも生徒達はざわめいていた。教室に戻っても「あいつは何を言いたいんだ、何者なんだ」と静まらなかったらしい。学校は「自分のしていることの非道さがわからない」の連続である。「なめるんじゃない」はそうした中で「指導」の言葉として多用されてきた。しかし僕は、生徒たちにはなめる権利があると思う。
 都立K高校でTさんが小便をしていたら、後ろでしゃがんで眺める生徒がいて「先生ながいね」と笑っていたという。教室で片手を前列の生徒の机について話を始めたら、手の甲に妙なものが当たって振り向くと、そこの生徒が「先生、しょっぱいね」と言ったと聞いたのは大分昔の事だ。

 はじめ僕は「不快」を、教師と生徒の問題だと考えていた。そうではない、学校を越えた支配=被支配の問題であったのだ。我々は自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない。時には自分と、自分を取り巻く歴史も含めて、憎む事になる。

なぜ入試は点数の高い者から選抜するのでしょう。低い者の方が学ぶ必要があるのですから、低い者から順に入学を認めるべきではないでしょうか。金曜日、合格発表で、何も受け取らずに肩を落として帰る中学生を見て、僕は、自分でも驚いたことに、涙が止まりませんでした。これが選別の現場だ。僕は何と犯罪的なことをしているのか。でも、管理職とほとんどの教師は、受付で「おめでとうございます!」などと連呼していて、落ちた方は眼中にない。これでは、教師が共感や連帯を伝えられるはずもない」 Aさんからの便りである。

 「自同律の不快」が、Aさんの中では止まらない涙として、受付の「おめでとうございます」連呼への嫌悪として現れたのだと思う。
 いつの間にか選別体制への怒りが、現場教師から消えている。自らが選別されていることへの怒りと闘いの意志も消えて、選別されて上昇することに参入する。この事実を「保守化」と言わずして何というか。
 国民の教育権は人権であって、友愛・連帯の精神は「階層横断」的文化と教養に依らねばならない。それは選抜の否定抜きにはあり得ない。個人の能力開発だけを「教育権」の内容としていては、Aさんが涙を止め得なかった光景を永続させるだけだからである。「階層横断」的文化教養は、成績や毛並みの良さを自他共に認める者にこそ必要なのである。不合格に打ちひしがれて帰る中学生に涙を止められなかった話題が、霞ヶ関や証券街で日常的になるように。
 無論「階層横断」的文化と教養を以て「共感や連帯」を学び実践すべき者の第一は教員である。

 高校入試は勿論、大学入試も必要ない。受験と学歴を利権化した者たち以外には何の不都合もない。
 阪大や京大入試問題の些細なミスが大問題であるかのように騒がれる。恰も「公正な」入試問題がどこかにあって、それに近づけば「正しい」選抜が出来ると言わんばかりだ。授業に参加し、ともに展開出来さえすれば良いのだ。進級と学位認定は厳格にして、就職斡旋は大学や高校の関与を排して当事者本人に任せなければならない。

他人の死を怖れる人の方が好きだ。生命の価値を知っている証拠だ。

 「エドレル・・・なぜそんなに夢中になって穀し屋のまねをしたいのかね。殺し屋になるのは、想像力の乏しい連中だ。生命というものがどんなものか、ぜんぜん頭にないので、人殺しを重要なことと思わないのだ。他人の死を怖れる人の方がわしは好きだ。それは、生命の価値を知っている証拠だ。 
 ユゴー 僕は生きるためにつくられてはいないのです。生命とはなにか、僕は知りませんし、知る必要を感じません。僕は余計者なんだ。この世の中に、僕の居場所は無く、そして僕の存在は人に迷惑をかけるのです。誰ひとり僕を愛してはいません。誰ひとり僕を信頼してはいないんです。 
 エドレル わしは君を信頼する。 
 ユゴー あなたが 
 エドレル そうだ。君は骨折って大人になろうとしている若僧だ。もしも君の行為の障害がとり除かれたら、君は誰からも喜ばれる人間になるだろう。わしがやつらの爆発缶や爆弾から脱れられたら、わしは君を手許において、力になってあげよう。 
 ユゴー なぜ僕にそんな事をされるんです なぜ僕に今日おっしゃるんですか? 
 エドレル・・・専門家でない限り、冷静な男を穀せるものではないことを君に証明してみせたかったのだ・・・」    サルトル全集 劇作集『汚れた手』人文書院 p103

  若き革命党員ユゴーは、指導者エドレル博士を裏切り者と見做して暗殺を目論み博士の秘書として乗り込んだ。エドレルは元国会議員、ナチと結ぶ体制に絶えず命を狙われている。エドレルの人格に圧倒されたユゴーは決行をためらいはじめる。大戦末期のある東欧王制国家を舞台としたサルトルの作品『汚れた手』
 「僕は余計者なんだ。この世の中に、僕の居場所は無い・・・誰ひとり僕を愛してはいません」というユゴーの言葉は、疎外に苦悩する全ての青少年のものである。
 高校生の取るに足らぬ逸脱と、暗殺を目論む若者の悩みとが、同じように存在そのものを賭けた哲学的「骨折り」であることを僕らは感じ取らねばならない。そして、それを打開に導くのが相も変わらず古典的な信頼であることも。罰や栄誉などではなく古くさくもある信頼。しかしそれこそは時代と個人に即して、同時に時代を繋ぎ越える。生徒の遅刻やサボりのの中に命と思想の課題と捉える知性と洞察力が、教師に要請されている事を肝に銘じねばならない。
 たかが遅刻に、いかれた服装と髪形に、若者の存在を賭けた苦悩が秘められていることもある。そうでないこともある。それを読み解く能力に欠ける教員の、短い断定的セリフが職場に満ちている。
  
 エドレルの科白「なぜそんなに夢中になって穀し屋のまねをしたいのかね。殺し屋になるのは、想像力の乏しい連中だ」は、倫理であれ国語であれ歴史であれ平和教育であれ、授業の中で徹底的に論じ尽くさねばならぬ。僕は教師同士で「なぜそんなに夢中になって(生徒の自主性の)穀し屋のまねをしたいのかね。(生徒の自主性の)殺し屋になるのは、想像力の乏しい連中だ」と読み替えたい。
 結局エドレルは殺される。政治の世界も学校も、想像力を持つ者を失い続けてきた。だが希に、その死が新しい力に受け継がれることもある。 

   今この国の人々は、煽られた憎悪の感情をつのらせ「人間の喜怒哀楽の感情は、本人にしかわからない」という絶望の中に立ち尽くしているかのようだ。だから若者たちは、共同の疑似体験に無理矢理涙して絶叫するのではないか。部活に、行事に「やった者にしかわからない」共同の快感を求めて。
 「感情は、本人にしかわからない個人に特有なものではなく、時を越え国境を越えて、分かち合うことができる」ことを忘れている。僕は学力の中で最も重要なのはこの共感能力だと考えている。ともかく日本では議論すらあまりしない概念だ。

軍事基地は追い出せる、ビエケス島反基地闘争。代替基地はいらない

  第二次大戦参戦直前、米軍は中南米各地に基地を置いて、英国に代わって大戦後の世界制覇権の準備をしている。チャーチルがルーズベルトに「貴方は大英帝国を無くそうとしているとしか思えない」と言ったのは、このときのことである。プエルトリコ南東の小島ビエケス島も1941年、米国基地となる。
 大戦後、民族意識高揚に伴い米軍基地は中南米各地から撤退したが、パナマ・キューバのグアンタナモ・パナマの軍事基地は残された。そしてビエケス島は、海軍演習に使われてナパーム弾、枯れ葉剤、劣化ウラン弾などの最初の発射実験に使われたのである。              
 島の産業である砂糖栽培・精糖と漁業は絶え間ない射撃訓練のために衰退し,島の失業率はつねに50%を超え、貧困者は人口の72%に達した。珊瑚礁は破壊され、海は弾薬に使用した劣化ウランで汚染。ガン発症率はプエルトリコの他地域に比べ27%も高かった。何度も米海軍とプエルトリコ政府間で協定が結ばれるが、常に海軍が反故にしてきた。理由には、「他に代替基地がない」を挙げるのだった。

 反基地運動には長い歴史がある。70年代末には、子供の遊ぶ海岸に艦砲射撃がおこなわれ犠牲者が出て、抗議のため漁師たちは、座り込み闘争を始め参加者21名はまもなく逮捕さた。そのうちの一人アンヘル・ロドリゲスは獄中で変死を遂げている。
 1999年には海兵隊のミサイル誤射による住民死亡事件が起き、若者の決死の抗議団が基地内で座り込みをはじめ、闘争は一気に緊迫した。このとき、いつもと違うことが起きた。

  いつもなら軍の要請を受けた警察が出動、若者達を排除してお終いだった。だがプエルトリコ知事は、抗議団の行動に理解を示し米軍を非難、「米軍による軍事演習が環境を破壊し,9400のビエケス島民の経済発展を阻害している」と記者会見で言ってのけたのだ。プエルトリコ議会も全会一致で,米国海兵隊の爆撃演習の即時中止を求める決議を採択。こうして基地撤退の機運はプエルトリコ全体に広がる。政府・議会の姿勢に力づけられた青年達は,現地に団結小屋を建設、米本土からも青年たちが続々と結集。 独立党委員長は、ビエケスの闘いにその存在のすべてをかけ
 「米軍が撤去するか,私が逮捕されるまで、ここにとどまりつづける」と宣言した。彼は大変なエリート弁護士で影響力は大きく、演習場内には9つの団結小屋が、漁民組合、教員組合、教会関係者、社会主義者などによって建てられた。団結小屋の事務局長役はイスマエル・グアダルーペ、1952年には合衆国議会乱入事件に参加し,長い獄中生活を送った老婦人戦士である。
 海軍寄りといわれたビエケス市長も「海軍のもたらしたさまざまな災難に驚いている」と、基地占拠闘争を是認。島民集会では、25の団体5万人が参加、海軍と米国大統領、国連およびプエルトリコ知事への「最後通牒」を採択した。
  ハーバード大学では40人の教授がビエケスの闘いに賛同して署名、ガルブレイズや複数のノーベル賞受賞者も。ゴア副大統領、フロリダ州知事、ニューヨーク市長、ヒラリー・クリントンも海軍撤退を支持するに至り、米下院はプエルトリコ海軍基地を半年以内に閉鎖するという基地再編案を承認。 ブッシュ大統領をして「住民に被害が出たし、住民は基地を望んでいない。代替地は米軍が後で探せばいい」と言わしめるに至ったのである。
  海軍基地は2003年に撤退。現在、この島は、海辺はリゾート地、内陸部は野生動物の保護区になっている。しかし島には基地の汚染された土地が放置されたままである。米は浄化の膨大な費用を負担しない。
                                        
追記 「何度も米海軍とプエルトリコ政府間で協定が結ばれるが、常に海軍が反故にした。理由には、「他に代替基地がない」が挙げられたのは、代替基地があれば移転すると言う事ではない。ブッシュがいみじくも言っているように必要なら「代替地は米軍が後で探せばいい」のであり、「住民に被害が出たし、住民は基地を望んでいない」という事実だけが重要なのである。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...