人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ、保護することは、すべての国家権力の義務である

  
人間の尊厳は不可侵と宣言し、それをを守る覚悟
ベトナム戦争中、米国は同盟国ドイツにも参戦を執拗に要請した。だがドイツ政府が出した答えは、病院船派遣。ドイツは兵隊ではなく、病院船ヘルゴラント号をベトナムに送った。ヘルゴラント(Helgoland)号は、遊覧船だったが、病院船に改造されベトナムに向かう。ジュネーブ条約(武力紛争に際し、戦闘行為に参加しない民間人や、戦闘行為が捕虜、傷病者などの保護を目的としてつくられた条約。ジュネーブ条約がつくられたのは、武力紛争の最中であっても、人道をふみはずす行為は許されないという世論があってのこと)を遵守した。
 ドイツは米国の民族皆殺し政策に加担せず、南北ベトナム双方の民間人を治療した。ベトナム人からは、「白い希望の船」と呼ばれ歓迎された。昼は港に入って患者の手当てをし、夜はより安全な沖で待機。ドイツの医師や看護師たちは、来る日も来る日も手足の切断手術や、米軍のナパーム弾で体全体にやけどを負った人々の治療に励んだ。沖縄の米軍基地を爆撃に使わせるのを断って、日本が病院船を派遣すべきだった。沖縄とベトナムなら補給や重傷者の移送も迅速に行われたはずだ。憲法九条を持つ国にそれが出来なくて、ドイツには可能だったのか。
 
    ドイツ憲法第1条
   人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ、保護することは、すべての国家権力の義務である。

    日本国憲法第十三条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

  「人間の尊厳」とは、その存在の尊さ言う。存在の無条件の承認である。何かが出来るから、名門に合格したから尊いのでは無い。大会を勝ち抜いてメダルを囓る姿が素晴らしいのでは無い。生きている事実そのものが尊い。
 そんなことは言われずとも分かっている筈なのに、我が子や我が校が一歩でも抜きん出ることを目指してしまう。  


 「だのに何故、歯をくいしばり、君はゆくのか、そんなにしてまで・・・」。映画「若者たち」の主題歌は、そう歌っていた。貧しい兄弟たちは、助け合い罵り合いながら、平等と正義を求めて苦闘した。しかし、食うや食わずからの貧しさからほんの少し抜け出して見れば、助け合いや平等への熱情は冷めるばかり。競争とは無縁の高校生のクラブ活動分野にまで、無理矢理競争が持ち込まれている。連帯と友情の影はきれいさっぱり消えている。

 映画「若者たち」に、気に入りの場面がある。兄弟唯一の大学生サブが、破綻せんばかりの悩みに打ち萎れる友達に、工面したなけなしの金を貸し、笑いかけながらこう言うのだ。「いっちょう揉んでやるか」、そして、二人して
大学の森を駆け抜けてグラウンドに向かう。サブはラグビー好きだったが、学費のためのアルバイトと学生運動で、クラブに属する贅沢は出来ない。しかしどこからかボールを調達して来て、芝を駆け回る。スポーツは、こんな働く青年たちのものである。たまの偶然に出来た僅かの時間に楽しめる、そんな開放的仕組みがあっての「人間の尊厳」だろう。
 
 資金と時間を持つ者だけが特権的にグラウンドを占領し、当局の補助とマスメディアの称賛をあてにメダルを目指す。貧しい者たちは、見るだけ、憧れるだけ。ここに個人の尊厳は無い。メダルを稼ぐ奴隷と、賃金奴隷だけだ。

 尊厳が組織や集団のものとなれば、個人は組織に属することを誇るようになる。組織が尊厳の単位になれば、外部を排除する意識は生まれやすい。それが民族単位になれば、排外主義となる。
 
 日本国憲法では、権利の対象をわざと「国民」に限定している。戦中は強制同化して「日本人」
としての死を強要した諸民族を、都合よく「尊厳」ある人間から排除して恥じない。日本を見苦しくアジアから隔離する意識が、13 条にはある。
 戦犯としてのけじめもつけぬ「天皇」を、
憲法本文の冒頭に置いたのでは、「人間の尊厳は不可侵」を掲げた憲法とは言い切れまい。だから日本国憲法第十三条は歯切れが悪い。
 第一条と第十三条とでは、覚悟が違うのだ。「公共の福祉に反しない限り」を挿入して、権利そのものの範囲を恣意的に限定することも可能にしてしまったのである。
 ドイツ憲法第1条と日本国憲法第十三条は似てはいる。しかし状況によって逆方向を向いてしまう。
 
 例えば、我々は公立学校の選別体制が、「人間の尊厳」に関わる桎梏と捉え闘ってきただろうか。それを憲法を守ることとして覚悟してきたか。
 制服や持ち物から個人情報が即座に読み取られてしまうのだ。創立100周年偏差値72 のA高校という情報を体の表面に貼り付けた少年と、定員割れで閉校寸前の偏差値38のZ高校という袋を被せられた少年の、3年または6年、場合によっては死ぬまでの生涯が、どんな格差を孕んでいるか分からない奴らにひとを指導する資格はない。高校生にとっては、偏差値が僅か「1」違うことが蔑視や劣等感の根拠となって、映画「若者たち」的青春を遠いものとしているのだ。その悔しさ悲しみを想像出来ないか。

 すべての青少年が「尊厳」ある存在であるためには、選別は許されない。生徒の尊厳を守るために選別体制廃止を主張し闘う覚悟を、日本の教師や学生は持ったことがあるだろうか。生徒には、学校や教師の尊厳を強要して「起立・礼」を強制したでは無いか。
東大闘争は、選別体制に一瞬でも立ち向かったか。尊厳を我々は分かっていない。
 「公共の福祉」を盾に一人一人の尊厳を押しつぶす行政の理不尽を、若者の意識に初めて植え付けるのは学校なんだ。

 人としての尊厳は不可侵であることを前提として、public =「公」の概念は形成される。そこに「公共の福祉に反しない限り」を被せれば、公=「おおやけ」は集団を覆う何重もの大きな屋根としての「大家」に過ぎなくなる。だから世界のどこでも許されていない米軍の理不尽や無法が、広義の「公共の福祉」としてまかり通るのである。(未完)

SNSの「いいね!」は、君の社会性も人間らしさも破壊している

facebookのザッカーバーグは我々を監視する
 僕が携帯を持たないわけの一つは、電源を完全に切ることが簡単では無いからだ。着信音を阻止して、観劇や音楽鑑賞の妨げにならないようには出来るが、どこにいても追跡される機能は生きている。「誰それは今誰と一緒です」と、頼みもしないのに教える機能まである。位置情報は便利そうだが、監視の手段だ。
 どこで何をしているかは、個人の尊厳にとって重要なことだ。だから監視も追跡もされたくない。facebookでは友人関係までが一目瞭然であり、それを便利・親切と思わされる。誕生日も、知り合いに自動的に知らされ「おめでとう」が強制される。

  SNSに漂う怪しげな空気を、facebook開発者の一人パリハピティヤは、言葉や映像などの発信に対する「ハート」や「いいね」の仕組みを例に挙げ、こう言っている。
 「私たちが作り上げた、スパンが短く、ドーパミンの分泌によって駆り立てられるようなフィードバックのループが、社会を壊しています・・・そこにはソーシャルな会話や協力がなく、情報の欠落と曲解された不正確な言動が存在します

 facebook社のCEOザッカーバーグは、米議会公聴会で、facebookがfacebookユーザー以外の情報も集めていることを認めている。これは、facebookの「いいね」ボタンが設置されているサイトを閲覧すると、「いいね」をクリックしなくても閲覧に使ったパソコンやスマホに残る履歴などはfacebookサーバーに自動送信されるからだ。

  「いいね」には、更にあきれた拡張機能「どうでもいいね」がGoogle Chromeによって提供されている。これは、Facebookのタイムライン上に表示された投稿を良し悪しに関係なく、まとめて「いいね」する。

 
 忠告や批判は、友情と民主主義の基礎である。それを先端を気取った便利な道具が、軽薄な「いいね」で破壊している。個人のfacebookにはたいてい、少なくとも数百人が友達として登録されている。こんなに大勢の「友達」に、各々の悩みや喜怒哀楽に応じた対応が出来るわけがない。

 ある財閥系巨大企業の人事部長を務めた友人は、一人の課長が面倒をみることが出来るのは10 人でも多いが口癖だった。部下には数人の家族がある、その一人一人にまで目を配ってこその管理職なんだ。友達も同様だ。何百人も「友達」登録すれば、結果的にすべての「友人」に無関心にならざるを得ない。すべての「友人」に同じメッセージを送るとは、誰の心配も出来ないと言うことなのだ。だから、何を見た、買った、食べた、どこに行った、などという私信だけが一方的に発せられ、機械的に「いいね」が累積される。

 「いいね」が気になるとfacebook 上は本人が自覚出来ぬほどの極軽い「嘘」で「いいね」を増やそうとする。トランプのSNSだけがfakeなのでは無い。SNSの機能上の必然なのだ。誰もが、少しづつfakeなのだ。
 ホワイトアウトした雪の平原で、気づかぬ間にワンデリングを繰り返して遭難するように、僅かな目に見えないfakeも積み重ねれば、自分自身の心積もりとは逆を向いてしまう。最早そこに「真実」は無い。
 悩みや苦しみが見えない真実は、所詮fakeに過ぎない。
 facebook社を去ったパリハピティヤは、自身がその成長に関わったFacebookについて「とてつもない罪悪感」を感じている、なぜなら「社会が機能する機構を分断させるツールを私たちは作ってしまっと発言している。

 政府がオーウェルの描いた『1984』的になるのを多くの人は懸念している。しかし今や懸念では無い。便利さに釣られて自発的にプライバシーを権力に向かって開け放しているのだ。一連の「戦争法」は人々が権力に向かって無防備になったことの結果た。
 我々は公的な役割を担う企業が便利さを餌に、プライバシーを奪うことに不用心すぎた。新聞の紙面が、通販のえげつない宣伝に汚され、国民の公共財たる電波が数多くのTVshoppingに占領されているのに、それを便利だと錯覚している。便利になったのではない。便利で身近な商店街が大型商業施設に駆逐された結果としての不便さにつけ込んだに過ぎない。そして新たな搾取体系が生まれ、貧困は更新・拡大再生産される。
『1984』的世界の貧しさは、こうして出来する。

サムライジャパンへの違和感 / たかが行事で泣くな、怒れ

南京大虐殺 / 殺される側に身を置いて、怒れ!
  「・・・それは、たとえば、『葉隠』という書物のどこに私自身がいるか、ということだ。なかにこんな話があった。中野杢之助という名前の武士が涼みに小舟に乗って隅田川に出る。ならず者が同じ舟に乗ってさんざん乱暴を働く。 武士はならず者が小便するところを見はからって首を切る。首は川に落ちたが胴体は舟に残る。人気のないところに埋めてくれれば金をたくさんやると船頭を言いくるめて、その残った胴体を埋めさせる。そうしておいてから、武士は船頭の首を切る。そのあと、もちろん、世の中には何の噂も流れない。」問題は「この話のなかのどこかに、私はいるのか。この話に出て来た三人の登場人物のうちの誰が私なのか」ということだ、と私は書いた。私はその自分の問いに対して答えを次のように書いた。「私がこの話を読んでたちどころに自分を同一化したのは、船頭だった」「彼にはまず名前がなかった。そして、彼は日々のくらしに忙しくて、生きることにまず追われていて、(葉隠が説く武士のカガミのように)『毎日のように死を考える』余裕はなかった。その(死の準備の)ために化粧してまで、日常を美的に生きる余裕などはなかっただろうと私は思う。
 私にとって、三島氏たちはこの話のなかでの「武士」だった。あるいは「武士」の側に身をおこうとしている人たちだった。同じことは、彼らの死によって衝撃を受け、「自分たちの側に三島氏を出さなかったことは自分の敗北だ」と彼らの行為をとらえた「全共闘」運動の指導者にも言えた。あるいは「三島事件はこのどうしようもなくくさりきった時代に対する警鐘だ」という投書に端的に見られるような当時の一種の三島氏らの行動への暗黙の支持の風潮にも、それは言えた。・・・「たとえ、それが精神的な意味あいにおいてであろうと、たとえば、武士たちがどのように美しさにみち、けだかい狂気にみちたものであろうと、そうした生き方を示していようとも、私はそこに身をおきたくない。それは私のひとつの決意であり、その決意を、私の生き方、考え方の基本にすえようと思う」・・・

(船頭の)「その死に、自分の生き方、考え方、感じ方の根本をすえることだった。私がそうするのには、一つには、私自身が私なりに体験した過去の戦争体験があるにちがいない。」「船頭」の死は、まさに私が体験したなかでおびただしく見た「難死」だった。・・・「私の戦争体験が私に強いた認識は、私があわれな船頭以外の何物でもないという事実だった。その事実を認識することから、私は、自分の反戦運動への参加の原理、そして参加そのものへの基盤をつくり上げて行った
」 小田実『「ベ兵連」回顧録でない回顧』p581

 都立S高校では、体育祭が名物であった。応援団が縦割りで組織される。三年生が一年生二年生をしごく。彼らはバインダーを必ず小脇に抱えた。中の書類に何が書かれているかは、分からない。何も入っていないかもしれない。練習の最中、それを開ける者はないのだから。マッカーシー議員の内ポケットに隠され、全米が戦いた国務省内共産党員のリストのように真っ白かもしれなかった。 それでいいのだ、それは権威の象徴であったから。何しろこの国では、権威はいつも空虚なものであった。

   そのバインダーを片手に応援団リーダーは、下級生しごきを謳歌した。夕闇が迫り学校を追い出されても、近所の公園や空き地でダミ声を張り上げた。一年生は暗闇の中を、しごきへの反感を抱えてヘトヘトになって帰宅した。
 僕はこの応援団が、嫌いである。体育祭も嫌いだった。体育祭や応援団の振る舞いは、全体主義そのものだったからだ。しかし中学生は、S高校伝統の体育祭応援合戦に憧れて入学する。数週間のしごきは、体育祭当日の本番に続く後夜祭で興奮の坩堝と化す。団ごとに円陣を作り感想を言い合い、いつまでも泣くのである。
 集団の涙には、妙な浄化作用があって、しごいた三年生に対する反感や恨みを洗い流して声を挙げて泣くのである。そして翌日から、先輩後輩関係が強化更新される。理不尽な暴力に対する怒りは、こうして体制内化する。
 

 昔、侍はよく泣いた。坂本龍馬も西郷隆盛もよく泣いたらしい。新撰組も吉田松陰も泣いた。全共闘もよく泣いていた。泣くことで、論理は置き忘れられ、情緒が幅をきかすのである。
 革命家は、泣かない。泣くのを止め、怒るところから革命は始まる。泣きながら武器を振り回してはならない。
 応援団のバインダーは、侍の刀に相当していたと思う。行動の上からは邪魔ではあるが、応援団リーダーとしての価値付けに欠かせない。白衣を着たがる教師や、医者でもないのに白衣に執着する臨床心理士に似て滑稽だ。だが、本人は胸を張るから余計可笑しい。

 市ヶ谷で三島由紀夫たちは、特注の制服を着用し日本刀を帯びて絶叫した。応援団リーダーは、揃いのバインダー片手のダミ声に自己陶酔したのである。

 僕は、高校生の応援団や「侍ジャパン」にいやなものを感じる。彼らは常に『葉隠』に於ける武士に、自己を同一化している。決して、切られる船頭の側の立場に立ってみることはない。侍であることを信じて疑わないのである。雇い主や「くに」のために命を賭けて闘う自分の姿に「武士道とは死ぬことと見付けたり」と得意がり、斬られ殺される側に身を置くことはないのだ。
 南京大虐殺や慰安婦問題でも、殺され虐待される側に身を置いて想像することがない。せいぜい「小心な善意」傍観者なのだ。

 だから敗北した途端、皇居前に土下座して泣き、占領軍として敵が上陸する前に、「特殊慰安施設」を整えた歴史的恥辱を感じることも無い。
 自らを戦場に駆り立てた者への怒りを抑圧して、自らが為した虐殺や虐待を告発する者達を憎悪するのだ。それ故、未だに占領行為を暴力的に継続する米軍への従属・へつらいを止められないのである。

日本の最も暗い闇としてのスルガ銀行

日本の最も暗い闇は我々の日常にある
 大島軍曹は即座に上官の鶴の一声に従い、 
 「では、列の最後尾にいる者から順番に刺突することにする。最後尾にいる者は前へ出ろ」と怒鳴った。しかし、誰も前に出る者はいない。私たちの間にざわめきが起こった。列にビリにいるのは馬場二等兵にきまっている。その馬場はすっかり臆してしまって前へ出ないのだ。 
 「最後尾にいるのは馬場二等兵だな。馬場、前へ出んか!」大島軍曹がまた怒鳴った。しかし、馬場は返事もしなければ前へもでない。たまりかねた亀岡兵長が馬場二等兵のもとへ飛んで行って、
 「馬場二等兵、貴様、班長殿がおっしゃっていることが聞こえんのか」と、馬場二等兵の胸ぐらをつかんで、前へ引きずり出した。
 「さあ、銃剣を構えるんだ。そして標的めがけて突進するんだ。なにも恐れることはない」亀岡兵長はいちいち馬場二等兵の手をとって、どうにか銃剣を構えさせた。
 「突っ込め!」 兵長は馬場の肩を力一杯押した。だが馬場は二、三歩前へよろめき出ただけである。
 「貴様、なぜ、突っ込まんのか!」兵長はさらに馬場の肩を押した。だが馬場は再びよろよろと二、三歩前へ出ただけで、
 「かんにんしとくなあれ」と泣き声で言った。
 「なんだ、かんにんしとくなあれとは、なんだ。このボッサリめ。上官の命令をなんと心得ているんだ」兵長は馬場の横面に続け様に往復ビンタをくらわした。だが、馬場は頑として動かない。
 私たちは固唾を呑んでその有様を見守った。いつもなら馬場がなにかへまをすると、同年兵から一斉に笑い声が起こるのだが、この時ばかりは誰も笑わない。
 今度は大島軍曹が馬場の前へ飛んで行った。そしていきなり馬場の胸倉をつかむと、
 「貴様、内務班長の俺に恥をかかす気か。さあ、銃剣を構えろ。そして突っ込むんだ!」と馬場をけしかけた。しかし馬場は
 「かんにんしとくなあれ」を繰り返すばかりで、動こうとしなかった。
 「このボッサリめ!」大島軍曹はいきりたって、拳固で馬場二等兵をなぐりつけた。馬場は鼻血を出してぶっ倒れた。それを見ていた青木少尉は、
 「大島軍曹、もういい。その馬場二等兵はあとで処分することにする。こうなったら、もう整列の順序などどうでもよろしい。われと思わん者から先に突かせろ」といらいらした口調で怒鳴った。それを受けた大島軍曹は、
 「よし、率先して名乗り出た者から、刺突をおこなうことにする。希望者は手をあげて名前を言うんだ」と私たちの隊列を睨みつけて言った。しかし、誰も手をあげる者がいない。きまずい沈黙の時間が、一分、二分、三分と流れた。                 
     井上俊夫『初めて人を殺す 老日本兵の戦争論』、岩波現代文庫

 スルガ銀行の捏造融資事件では、「偽装のない案件は100件中1、2件」だったという。すでに死者を出している。日弁連のガイドラインによる第三者委員会が実施した行員アンケートは、スルガ銀行の実態を炙り出している。

 毎月、月末近くになってノルマが出来ていないと応接室に呼び出されて「バカヤロー」と机を蹴ったり、テーブルを叩いたり、1時間、2 時間と永遠に続く。/
 過度な営業目標があり、目標は必達であり、達成出来ていない社員には恫喝してもよいという文化があります。
「なぜできないんだ、案件を取れるまで帰ってくるな」といわれる。/ 首を掴まれ壁に押し当てられ、顔の横の壁を殴った。/ 数字ができないなら、ビルから飛び降りろといわれた。/
 毎日2~3時間立たされて詰められる、怒鳴り散らされる、椅子を蹴られる、天然パーマを怒られる、1 ヶ月間無視され続ける等々。/ 死んでも頑張りますに対し、それなら死んでみろと叱責された。/ 数字ができなかった場合に、ものを投げつけられ、パソコンにパンチされ、お前の家族皆殺しにしてやるといわれた。

 僕はこれを聞いて、戦時中の日本軍兵営をおもいうかべた。似ているからでは無い。スルガ銀行の方が何倍も理不尽で過酷であるからだ。日本軍でさえ、兵士に「お前の家族皆殺しにしてやる」とか「ビルから飛び降りろ」とは言っていない。驚くべきことだが、この連隊では、捕虜刺殺を命じられても「かんにんしとくなあれ」が、滅茶苦茶に殴られはするが、ある意味で通じたのである。だから、「よし、率先して名乗り出た者から、刺突をおこなうことにする。希望者は手をあげて名前を言うんだ」と私たちの隊列を睨みつけて言った。しかし、誰も手をあげる者がいない。という事態が出来するのである。
 野間宏の『真空地帯』に倣って書けば、金融界を目指す若者は、「コノナカ(銀行)ニアッテ、人間ノ要素ヲ取リ去ラレ」スルガ銀行員となるのである。日本の最も暗い闇と呼ぶに相応しい企業は、ヤクザではない。
 同じ地域の住民に死に至る不正を仕掛けることを、同じ職場の人間に「お前の家族皆殺しにしてやる」と言いながら強制する狂気。それを戦時でも無いのに、平然とやってのけるこの国の「民」。戦時であれば、遠い国の見知らぬ民が相手であれば、更に残虐な手段を執ることは目に見えている。我々は武器や軍隊を持ってはならない。
 スルガ銀行の実態やスポーツ界と学校に蔓延するパワハラを知れば、街にあふれるアジアや沖縄に対するヘイト言説を見れば、南京大虐殺は無かったなどとは断じて言えない。大戦中の惨劇を雄弁に語るのは、現在の我々の日常なのだ。

「寄り添ってくれる人はどこにいるのか」/ 『狂人日記』から百年

寄り添ってくれる人はどこにいるのか
 「謎の湿疹が出来て、皮膚科で癌の治療歴を伝えると「主治医の指示に従ってくれ」と全然診察すらしてくれず3軒も皮膚科に行ったけどどこも診てくれませんでした…。
主治医は皮膚科に行けと言ったのに…
ってだけで差別されてる感じで悲しくなりました。
そして、医者って本当に患者の事なんかまるで考えてくれてないって感じました。…それにしても、どこにいけば患者に寄り添ってくれる医師に出逢えるのでしょうね?なので最近は「主治医は自分」と思うようにしてます
」知り合いのmailである。

 僕の妹が卵巣癌で死んだ。癌そのものによる死亡と言うより、度重なる検査とそのための車による移動に消耗・出血して衰弱し果てたような気がする。検査の度に血を抜かれ、様々な先進医療機器のために麻痺のある体に過酷な姿勢をとらされ、「いたい、いたい」と叫ぶ。医者は「他の患者に迷惑だ。声を出すな」と叱るばかり。妹はそのたびにすっかり疲れて戻った。一日に二往復したこともある。医療とは人間の尊厳を奪うことか。 

   多くのの友人に囲まれていたが、衰弱が始まるとともに、友達に会おうとしなくなった。尊厳を失った姿を見られたくなかったのだ。
 医者による家族に対する説明は、真夜中でも丁寧だった。これでは医者も疲れるだろうとつくづく思う。知り合いが勤める大病院の医局のドアを開け、啞然としたことがある。僕は、医学関係の雑誌や論文が積まれているだろうと考えていたのだ。漫画と週刊誌が占領していた。友達は「どこもこんなもんだよ」と肩をすくめた。医者も患者も疲れ果てて、社会そのものが健康から遠ざかるばかり。医療費は増え、疾病保険だけが儲かる仕組みだ。この構造がある限り。医師の過労は、患者の苦難とともに放置され続けるに違いない。

 冒頭と同じmailに「娘は
就職してません。何か差別を受けたようです。それから就活やめてしまいずっとバイト生活です
 娘さんは、誰もが羨ましがる大学に通っていた。あらゆるところにハラスメントが待ち受けている。学生も勉学の途中ですっかり消耗してしまうのだ。大学も高校も、教師自体が消耗し切ってまともに考えられない。生徒や学生に向き合うことすらままならないのだ。
 
 妹の苦難の始まりも、高学歴者の非正規労働による過労であった。「そのうちに正式採用」と言いくるめられ、いいようにこき
使われてきた。官庁、出版社、新聞社を転々とした挙げ句、いくつもの大学や研究機関を掛け持った。英語とフランス語を駆使、world watch 日本語版の編集を一人でこなした。頻繁に飛行機で日本中を飛び回り、大学や高校時代の友人からの相談もひっきりなしで、真夜中に飛び出すこともあった。ゆっくり論文を書く暇はなかった。少しでも暇が出来れば、出版社や学会の幹部を接待する始末。休めない体と心が出来上がってしまった。

 彼女は利発で面倒見の良い子だった。僕が小三の時、妹は同じ小学校の一年生。朝礼があるたび、何か賞状を貰う。まるで学校中の賞状を独占していたかのようだった。一年生のくせに、司会の先生に呼ばれれば怖じもせず手を上げて「はい」と言いながら、堂々と登壇する姿を見て、僕は頭を抱えてしゃがみ込んだ。友達が僕の肩をたたいて「また、おまえの妹だ。見ろよ」と促すが、僕は壇上の栄光より、鶏の世話やや風呂焚きのほうが落ち着くのだった。妹の活躍は東京でも、
大学院を出ても変わらなかった。倒れるまで。
 妹は、人目を浴びるとそれを成長のエネルギーに変換する気質だったのか。逆に僕は、注目を浴びることを回避し続けてきた。妹にとって、外部から与えられる刺激は、殆ど無条件で取り込まねばならぬ課題であり続けた。能力の限界を察知してブレーキをかける機能が壊れていたのだ。
 彼女は自分自身の中にdoctor  stop をかける「主治医」を持たなかった。だから、入院しても点滴をしたまま病室を出て携帯で仕事の連絡をし続け、そのまま脳梗塞を起こしたのである。自分自身の中に「主治医」を持っていれば、最悪の事態に至らないための選択が出来たはずだ。「ショウジョウ」なんか一つで十分だったのだ、まして症状なんかいらない。たとえ最悪の事態になったとしても、自分の 「主治医」が心の中にあれば、リハビリを自ら工夫して病態を克服したはずである。

 リハビリは、医師や療法士の指示通りにやっても効果は薄く限定的である。これは、僕自身のいくつもの経験から自信を持って言える。自分自身の体の中でどんなことが起こっているのかを自ら冷静に感知し、不具合の出た箇所の正しい機能と動きや反応と比べ、どのような食い違いが出たのか探らねばならない。機能している部分と、ままならない部分を様々に動かしながら探り、その箇所の正しい動きを、妻に手伝って貰って繰り返し動かす。どの筋肉とどの関節がどのように動くのか試した。横になって目を瞑りイメージトレーニングを数回すると、疲れてしばらく眠る。うまくいった時は、目が覚めると動かなかった部分が動いた。自転車も強く禁じられたが、サポーターをはめ、サドルを下げ跨がり、緩やかな坂を下った。頭の中では失敗のイメージだけが繰り返されるのだが、それを体が裏切るのである。数日のうちに、自転車で病院へ出かけた。医者も療法士も半ばあきれ半ば怒った。
 僕がリハビリ病院で見たのは、お喋りに時間を浪費する老人と療法士であった。専門書を読んでも参考にはならなかった。ただ一つ尤もだと思えたのは、脳梗塞を起こした療法士が自ら多くの仲間と討論と実技を繰り返しながら奮闘した記録である。

 僕は、ある意味で頑張ることを蔑視してきた。避けてもきた。しかしリハビリだけは、異常に頑張った。半身が麻痺した時、はじめ本が持てて読めればいいと思っていた。まっすぐ歩くことも、本を左手で持つことも出来なかった。季節が変わる頃には、自転車を漕ぎ車も運転した。車のハンドルさえ握れなかったし、一度握ったら離せなかったから回すこともままならず、変速機に至ってはどうすればいいのかさえ分からなかった。頭は事故のイメージを造り執拗に繰り返し、僕の動きを止めようとしたが、実体験が気持ちよくそれを裏切った。動きが脳を説得しているなと思った。

 耳が聞こえなくなったときも、歯が痛くて困ったときも、リハビリで克服できる部分があるはずだと考えて、実行した。人間の体はそうできていると思う。専門家に依存する前に、自分で考え実行する、実行しながら修正を加える。それが理論の形成される道筋である。科学でも運動でも、まずは指導者の厄介にならず自分でやってみる。僕は山スキーをやるが、人に教わったことは一度も無い。自転車も泳ぎもパソコンも教わったことは無い。自転車やパソコンは、分解し改造を施すごとに理解することが出来た。体も故障して、漸く仕組みが分かると思う。海外旅行も、一から手探りした。だから僕は、学校の部活にイライラする。丁寧な板書を自慢されるとイライラする。教委の講習会にも余計なお世話だという気持ちを抑えられない。学校にあふれる「予行」など事前指導には怒りさえ感じる。自立と自立をお節介が妨げているのだ。
 オリンピックに出るような者たちまでが、大勢のコーチや専門家に依存している様にもあきれている。金銭的精神的ドーピングだと僕は思う。すべてを自分でやれない者は、大会に出る資格は無い。食事や会場の設営ゃ運営も他人に任せてはならない。だから何から何までおんぶにだっこのオリンピックもワールドカップも嫌いだし、あらゆるプロスポーツに反対する。
個人の健康と精神の自立が妨げられるからだ。
 三度の食事まで自炊させた科挙は、その点素晴らしい。

 病院の医局に専門書が無いように、学校の職員室からも専門書が消え、クラブのルールの説明書や文化祭のアイディアブックの類いが行政からの通達を分厚く挟んだバインダーとともに並んでいる。 学びの自律性は瀕死の状態だ。行政と受験産業が結託して、教育を殺している。医療もスポーツも教育も企業も政府も、人が人の幸福のために作った仕組みだが、それが人を苦しめ殺している。

  魯迅は『狂人日記』を次のように締めくくった。
 「千年間、人食いの歴史があるとは、初めわたしは知らなかったが、今わかった。真の人間は見出し難い。
人を食わずにいる子供は、あるいはあるかもしれない。救えよ救え。子供…
 
『狂人日記』は、 100年前の1918年書かれた。人食いの歴史とは、戦争と搾取の4000年のことだ。我々は、寄り添ってくれる人をどこに求めればいいのか。

教師が「答案」を書き、生徒が審査する

  岡潔だったか、次のようなことを言ったことがある。
我々には、ボーッとするための自由な時間と空間が欠かせない
  
 「答案が合っているかどうか、普通生徒にはわからない。○や×がついた答案を見て初めてわかる。大事なことは、答が正しいことを教師に保証してもらうことではない。自分でそれを確認することが大切なのだ。生徒も教師も、それがわかっていない。
 答案を生徒に書かせるより、教師が「答案」の例を書いて、生徒がそれをが調べるほうが判断力は身につく

  別の解き方を考えるのもいい。立派な答案は書けなくても、「つじつまが合わないこと」や「怪しさ」はわかることが大事。それは、国語も理科も社会科も変わらない。ただ数学や物理は、定理に従えば誰でもおおよそのことはやれる。

 異議を唱えるとは、そういうことだ。知識において、財力において、権力において圧倒的な差があるとき、「答案は書けなくても、「つじつまが合わないこと」や「怪しさ」はわか」ったり、矛盾が見えた時点で瞬発的に異議を唱える、それが「抗議」に於ける民主的公平性である。異議を申し立てた側に、十分な説明をし納得させる義務が、力を持つ側にはある。
  「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものであってはならない、社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。そうではなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。・・・市民は橋をわがものにせねばならない。このときはじめて、いっさいが可能となるのである」とフランツ・ファノンが言ったことの意味はここにある。「市民の筋肉と頭脳」によって事柄の本質が見え、「市民がそれをわがもの」として理解納得して自ら行動するまで、権力的振る舞いはしてはならないのだ。どんなに「良い」ものであっても、異議を潰してしまっては依存と反感を作り出してしまう。

 岡潔は、こうも言っていたと思う。

 「試験では答案を書き終って、間違ってないかどうか十分に確かめた上に確かめて出す。出して外に出た途端「しまった、間違えた」と気づく
 外に出た開放感で緊張が解けたとき、全き自由な思考が始まるのだ。必死になって間違いがないか確かめているとき、自由な思考は働くものではない。だから入試や定期試験はやめた方がいい。僕の経験では、ノートを自由にとらせ(そのためには、板書らしい板書はしてはならない)、意見を異議を歓迎するのがいい。照れ屋の高校生にはもってこい。なるべく訂正や感想、質問への感想を入れて早く返す必要があって忙しくなる。中には手元に残したくなるものもあって、交渉するのだがそういうものに限って、生徒の側も手元に置きたいらしく呉れない。欲しいものは残らない。


  官僚や学者が開発計画などを作り上げ、国会や公聴会の説明で緊張しているとき、間違いはないか懸命ななる。なればなるほど、自由な思考は働かない。外に出た途端に、間違いに気が付くのではこの場合遅すぎる。異議を唱えられ間違いを指摘されて腹を立ててはならない。全き自由な思考を誘う有難い一瞬なのだ。民主制にとって異議申し立ては、千金を以てしても購えない価値がある。
 全き自由な思考、それは予定や計画を忘れて、庭をボーッと眺めたり、釣り糸を散れていたりするときに不意に始まる。だから学校や職場には、自由な時間と広く静かな庭と池と心地よい喫茶室が絶対的に必要なのである。
 それがない学校や職場は、自由な思考にとって闇である。自宅にそれを持つものは、幸運である。それがない者のために、公園は人権を構成する。

人生で最も苦しいことは、夢から醒めて、行くべき道がないこと

必要なのは夢であるが、それは現在の夢=革命
 金メダル獲得者や大会優勝者には、次から次に栄誉と賞金や契約金が津波のように押し寄せる。夢が叶った只一人めがけて、あらゆる賞賛がメディアとともに追いかける。だがこの狂乱が大きければ大きいほど、対極に累積する夢破れた敗者の群れは夥しくなる。そして忘れ去られるが、悲惨はなくならない。「アイドル」もその頂点と底辺は、天国と地獄の差がある。大衆がキャーキャーと喚くたびに、頂点だけが高見に持ち上げられ、底辺との格差は絶望的に広がる。その広がる格差の大きさが、更に若者の夢を煽る。学校歴による待遇の格差も、青少年の「夢」を担って巨大産業となったが、虚しく破れた者の日々は底を割った惨状だ。人々の生活が底を割るというのに、すさまじい勢いで「内部留保」は増えて止まないのである。

  「人生で最も苦しいことは、夢から醒めて、行くべき道がないことであります。夢を見ている人は幸福です。もし行くべき道が見つからなかったならば、その人を呼び醒まさないでやることが大切です。唐朝の詩人の李賀、彼は一生を苦しみ通したにもかかわらず、死ぬとき、母親に向かって、「おかあさん、上帝が、白玉楼ができあがったので、祝賀の文章を書かせるために、私を呼んでおります」と、こういったというではありませんか。これはあきらかに、夢であり、たわごとではないでしょうか。しかもなお、ひとりの子とひとりの親、ひとりの死ぬものとひとりの生きるもの、死ぬものは楽しげに死んでゆき、生きるものは安心して生きてゆく。夢やたわごとは、このような場合には、偉大さを発揮するのです。それで、私は思うのですが、もし道が見つからない場合には、私たちに必要なものは、むしろ夢なのであります。
 しかしながら、決して将来の夢を見てはなりません。アルツィバーシェフ(Mikhail Artsybashev)は、自分の書いた小説を借りて、こういう質問を発したことがあります。将来の黄金世界を夢想する理想家は、その世界を作るためには、まず多くの人を呼び醒まして、苦痛を与えなければならない。そこで「諸君は、黄金世界をかれらの子孫に予約した。だが、彼ら自身に与えるものがあるか」と彼はいっております。それは、あるにはあります。将来の希望がそれです。しかし、それにしては、代償があまりにも高すぎます。その希望のためには、人々の感覚をとぎすまさせ、より深く自分の苦痛を感じるようにさせなければならないし、霊魂を呼び醒まして、自分自身の腐れ爛れた屍体を直視するようにさせなければなりません。ただ、夢とたわごとだけが、このような場合に偉大さを発揮するのです。ですから、私は考えます。もし道が見つからない場合には、私たちに必要なのは夢であるが、それは将来の夢ではなくて、現在の夢なのであります。・・・  
 人間は忘れっぽいものです。そのために、自分がこれまで受けた苦痛から次第に離れてゆくこともできるが、その忘れっぽさのために、前人のあやまちを再びおなじように繰りかえすことも珍しくありません。いじめられた嫁が姑になると、やっぱり嫁をいじめたり、学生ぎらいの官吏が、往々にして以前には官吏を痛罵した学生であったり、また、現在、子女を圧迫しているものが、十年前の家庭革命者であったりいたします。これは年齢や地位とも関係することでありましょうが、記憶のよくないということも、大きな原因のひとつであります。その救済法としては、各人が一冊のノオトブックを買ってきて、自分の現在の思想と行動を全部記憶しておき、将来、年齢も地位も変ったときの参考とすることです。たとえば、子供が公園へ行きたがってうるさいと思ったときには、それを取り出して開いてみる。そうすると、「私は中央公園へ行きたい」と書いた箇所がある。そこで、たちまち気持ちがやわらいできましょう。ほかのことでも同様です
」 魯迅 1923年北京女子高等師範学校文芸会での講演「ノラは家出してからどうなったか」
   
  「必要なのは夢であるが、それは将来の夢ではなくて、現在の夢なのであります」と魯迅はこの中で書いている。早々と実行したのは秋瑾である。
 

 彼女は、裕福な家庭を離れ単身日本に留学。 孫文率いる中国同盟会浙江省責任者となる。1905年清国留学生取締に反発、同盟休校の先頭に立ち、反対する学生に死を宣告する激しさを見せた。帰国後、大通学堂を紹興に開設し革命青年に軍事訓練を施し光復軍を結成、武装蜂起を準備した。しかし武装蜂起は失敗、逮捕される。
  2日後の1907年7月15日早朝、紹興繁華街で斬首された。31歳であった。取り調べに際し、「革命党員は死を恐れない。殺したければ殺せ」と叫び、目を閉じ、歯を食いしばって一言も吐かなかった。判決後、足に鎖枷を腕は背後で縛り上げられ刑場に向う秋瑾は疲労でよろめいたが、支えようとする護送兵を「自分で歩く! 手出し無用」と一喝したと伝えられている。
 「秋風秋雨、人を愁殺す」の遺句とともに、彼女の処刑は人々に強い影響を与え、4年後の1911年革命は成就する。辛亥革命である。

 秋瑾が求めたのは、将来の夢=個人の栄光ではなく、現在の革命。革命による平等である。清朝にとって平等こそが危険思想であった。平等は、人々を栄誉獲得に駆り立てない。その代わりに特権をたたき壊すのである。
 我々の生活が底を割るのは、「内部留保」だけが増えて止まない不正があるからだと気が付かねばならぬ。その不正を告発するのが革命である。夢が破れた無数の敗者が直面する「腐れ爛れた」長く続く生活。「腐れ爛れた」生活とは、例えば日大アメフト部部長やコーチ、理事長。体操協会を牛耳るかっての栄光に輝いたメダリストのパワハラの日々も指す。アイドルの夢に早々と破れた少年少女を襲うセクハラ地獄もある。夢を見ていたのは僅か十年足らず、夢から覚めて行くべき道の消えた「腐れ爛れた」生活は、その後の50年以上を覆い尽くすのである。

  メダルや大会入賞と無関係に、健康と交流を楽しむスポーツ。地位や待遇を求めず、学ぶ喜びや驚きに徹する学問。賞賛と収入ではなく、表現の自由を謳歌する芸術。そうした生活が、現在の夢でなければならない。
 かつては生まれや身分が、地位と収入と権力の根源であった。今なおその影は陰湿に残ってはいるが、かなり冷めている。しかし一度手にした特権をなかなか手放そうとはしない。それを一掃しない限り、
人々は将来の夢に魅入られて、現在の夢に気づくことを恐れる。それが危険思想だという観念と事実は、「血筋」に執着する心情の中に抜きがたく残っているからだ。

 追記 秋瑾が処刑された紹興は、彼女の生誕地でもあり、魯迅の生まれ育った街で、『孔乙已』『阿Q正伝』多くの作品がこの水郷を舞台にしている。周恩来ゆかりの地でもある。王羲之ゆかりの蘭亭もある。秋瑾が処刑された跡には、彼女の像が建てられている。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...