沖縄独立と「天皇メッセージ」国家賠償

ここは幸福指数世界4位、日本は58位
 ニューへプリデス諸島は、英仏二カ国の共同統治であった。
 「共同植民地」ニューへブリデスへ入るには、査証が必要だった。イギリス大使館でもフランス大使館でも、どちらでもとれた。空港には二カ国の旗がひるがえり、入国管理の事務所に入れば、右側が「フランス」、左側が「イギリス」、「第三国人」はどっちへ行ってもよい。公用語も二つ、貨幣も二つ、税務署も二つ、フランス人ならフランスの税務署に税金を納めなければならないし、イギリス人ならイギリスの税務署だが、第三国人はどちらか任意の政府のほうに納めた。
 日本人など「第三国人」が犯罪をおかせば、例えばフランス人警官にむかって、イギリスに捕まりたいと言うことも出来た。裁判所も二つあった。犯罪が殺人ならイギリスの裁判所選ぶだろう。イギリスには当時既に死刑はなかったが、フランスにはこの当時ギロチンによる死刑があった。軍隊もあって、儀式用の十人程度の軍隊であったが、英仏同数であった。 小田実の『地図をつくる旅』には、この珍妙な統治について、世界をくまなく見て歩いた男らしい面白い記述がある。
 深刻な問題も見逃してはいない。小田実は生粋のニューへプリデス人と話してそれを発見した。
 
 その男はイギリス人、フランス人、「第三国人」とちがって黒い肌をもち、髪の毛はちぢれていた。
 「つまり、フランス人の面倒は、ここのフランス政府がみてくれるわけですね」
 「その通りですよ」
 「イギリス人の面倒はイギリス人がみる」

 「その通り」
 「ポクのような『第三国人』の面倒は、どちらかがみてくれる」
 「その通り」
 「じゃあ、あなたのような……」
 と言いかけて、私は口ごもった。どんなふうに彼のことを言いあらわせばよいのか判らなかったのである。それで、仕方なしに、「現地人」という聞きようによってはまったく人を―その地に生まれ、生きている人間をバカにしたことばを使った。
 「現地人の面倒は、どっちの政府がみてくれるんです」
 「Nobody」彼は吐きすてるように言った。
                              1981年 小田実『地図をつくる旅』

  それ故ニューへプリデスは、1980年バヌアツとして独立したのである。

 沖縄県民投票の結果は明白であった。自民党支持者でさえ辺野古基地反対が多数を占め、18歳19歳の基地反対票率は突出したのだから。天皇在位30周年記念行事に合わせるように県民の意思は突きつけられたのである。
 この期に及んでも、日本政府も米国政府も沖縄県民の面倒を見ようとはしないのならば、沖縄はニューへプリデスのように毅然と独立すす以外に選択肢はない。

 かつて沖縄は薩摩、清両国に朝貢する独立国であった。

ニューへプリデスにやや類似した統治の仕組みを持って繁栄していた。
 
 日系カナダ人女流作家、Joy Nozomi Kogawaが2009年「ナガサキの日」に、ストックホルムで行ったスピーチ(
原文は英語)がある。←click

 「東洋に、ある小さな島(沖縄)があります。そこでは、世界で最も長寿で、強く平和な人々が住んでいます。わたしの兄弟は、キリスト教長老派の司祭として、1990年代の数年間を沖縄で過ごしました。彼は私にこんなことを教えてくれました。1815年のこと、大英帝国の軍艦のバジル・ホール艦長が沖縄の那覇に寄港しました。そしてそこで発見した、あることに驚いたのです。話はさらに続きます。英国への帰還の途中、ホール艦長はセント・ヘレナ島に立ち寄り、流刑中のナポレオンと会話を交わしたのです。
 
 艦長は『私は平和の島に行って来たところです』と、ナポレオンに告げました。『その島には一人の兵士もおらず、ひとつの武器もないのです』 
 ナポレンオンは言いました。『武器がないだって? そんな。でも、剣の二振りや三振りはあるだろうに』 
 いえ、ありません。剣は王によって禁じられているのです」 
 その時、『ナポレオンは驚いて』こう言ったそうです。「兵士もいなければ、武器も、剣もない。そこはきっと、天国に違いない。
 
 この戦乱の続く地球という星の、ほんのひとかけらの地上で、ユニークな平和の文化が育っていたのです。 ・・・琉球の人々は従属しない人々(まつろわぬ民)だと、日本は結論づけました。兵士なき王国の存続は不可能なことでした。沖縄はたしかに、その平和の歴史とともに、この地球がようやく持つことのできる天国に近い文化を持ち続けて来たのです。たぶん、それゆえ、憎悪の軍事力の特別なターゲットにされて来たのです」
 Joy Nozomi Kogawaは1935年バンクーバー生まれ。大戦中、日系人強制収容所に収容された。

 両国朝貢の素手の小国が、平和を保つことが出来た。その持つ深く重い意味を我々は読み取ることが出来るだろうか。

 沖縄を永続的軍事基地として占領軍に献上した昭和天皇と青松白砂の沖縄を焦土にして県民
15万を犠牲にした日本軍の、そしてその後の日米両政府の統治弾圧の責任は益々限りなく重いのである。制度的責任は息子天皇が善良に被災地を回って相殺される程度の軽い問題ではない。
 沖縄は独立して、「天皇メッセージ」の歴史的責任を徹底的に追及して、損害賠償を求めるべきだと思う。僕はそれを支持する。


 せっかくだ、竹島や尖閣諸島も共同統治にしたら良い。いがみ合うだけの知恵の無さには呆れるばかりだ。共同統治の例は少なくない。樺太も初めは共同統治だった。北方領土は日露ともに手を引き、北方諸民族の自治領域にすべきである。



偏差値と勤評 Ⅲ 何故教育現場は「平穏に」後退し続けるのか

 ・・・教師と学生は、教育が危機に瀕しており、この危機の責任は相手にだけあると決まり文句のようにくりかえしている。しかし、彼らは自分たちが抱いている不安の原因を全く理解していない。
我々の教育システムに対する最もありふれた診断は、それにあるスローガンを与えて、その機能不全を耐えられるものにしようという一種の正当化にほかならない。もし教育的行為の多くがその目的を達成しておらず、しかもその当事者たちが反乱を起こすこともないというのが本当なら、〔大学教育に対する不満から生ずる〕呪いによってしか、また〔ある特定の〕イデオロギーによってしか告発されない理解不全の社会的、心理的機能を問い直してみるのも意味のないことではあるまい。
 今日のフランスの大学の機能を圧迫している多くの物質的困難が、その教育的関係の悪化に、決定的とも言える大きな影響を与えていることは疑いない。だが、教育的関係が一つのシステムであるということを認識しょうとしないなら、現実の状態を変えることは不可能であろう。つまり、その担い手たち〔学生と教師〕の態度が機能的に相互に結合されている限りにおいて、また彼らの〔主体的〕態度が教育の物質的、制度的な条件との相互に因果的な関係を維持する限りにおいて、それはシステムとして (よきにつけ悪しきにつけ)機能し続けるのだ。高等教育がかくも強固に革新に抵抗するのはなぜかと言えば、それは目に見える緊張と対立を越えて、おそらく高等教育がもたらす実際の安全と、この高等教育が生み出すフラストレーションとの均衡を保つように、高等教育が一つのシステムとして機能しているからである。要するに、教師と学生間の言語的理解不全の原因の研究は、高等教育がこのシステムの永続化に寄与している諸機能の研究と切り離しがたいのである。より一般的に言えば、システムにたいする〔主体的〕態度の変更を伴わないようなシステムの改革を目指すいかなるこころみも(また逆に、システムの改革を伴わない態度変更も)失敗に終わらざるを得ないということである。
                  ブルデュー『教師と学生のコミュニケーション』藤原書店


 これは、ブルデューが『教師と学生のコミュニケーション』藤原書店 でフランスの高等教育に現れる困難について調査分析した論考である。これを日本の教育全般に読み替えてみる。
 読み替えてみると、日本の教育危機のただならぬ広汎な広がりに驚く。例えば
  「教師と学生は、教育が危機に瀕しており、この危機の責任は相手にだけあると決まり文句のようにくりかえしている」。 
 ブルデューは、「彼らは自分たちが抱いている不安の原因を全く理解していない」と苛立ちを隠していない。だが僕は「危機の責任は相手だけにある」と言い合う関係が成立するフランスの大学をうらやましく思う。なぜなら「不安の原因を全く理解していない」が「不安が、そこにあることは、共通の認識になっている」からである。
 我が国では、例えば、偏差値による選別体制が成立して半世紀が流れたが、それが実に頭の痛い問題であることの共通理解はない。むしろ相互依存・共犯関係にある。子どもや親にとって「偏差値による選別」は不利な選択をしないためにメリットがあり、学校にとっては「劣った少年」を排除するメリットがある。少なくともそう考えて、まるで金縛りに遭ったように思考を停止している。思考停止のうちに現状を維持出来るリットは、偏差値体制の上位者と上位校ほど大きい。偏差値体制を廃棄するのではなく、偏差値だけを効率的に上げることを目指してしまう。授業内実や体制を充実させてそれをやり遂げるには時間も費用も要する。親や少年にとっても、興味あることに熱中することは危険が伴う。名門校の入試に失敗するかもしれないからだ。アインシュタインは日本には生まれないし、南方熊楠は英国に旅立たねばならなかった。

 地道な努力より、目立つことが効果を生む社会である。例えば国会議員であれば、中野重治的調査演説活動に精魂費やすよりTVタレント化して風狂な言動に徹する方が票になるのだ。

 計量化された票とは彼らにとってまさに「偏差値」なのだ。(このことを象徴する事件がおこった許りだ、 2019年2月国会の野党議員による統計不正を追及に、首相は「選挙5回勝ってる」と逆ギレヤジを飛ばしている。)数値だけが事柄を判断する材料とななってしまった。国民生活の実態や真実にこだわった話が理解されるには長い時間と辛抱がいるが、風狂な言動は即座にはじけて軽薄な効果を見せる。まさに悪貨は倦まず弛まず良貨を駆逐する。日本のトップ大学が、基礎研究に興味を失い枕を並べて国際的な評価を急激に下げていることでもそれは分かる。
 偏差値体制を憎むべき立場にある親や少年たちは、自分や子どもの困難が何処に由来するか、それすら見いだせないでいる。丁度帝政ロシアの農奴が圧政の根源がツアーの独裁体制にあることを「血の日曜日」まで見いだせなかったように。
 困難を抱えた少年たちを目の前に悩む「善意」の教師たちすら、問題の根源を見失っている。補習で偏差値を上げさえすれば問題は解決すると本気で考えているのだ。

  「今日のフランスの大学の機能を圧迫している多くの物質的困難が、その教育的関係の悪化に、決定的とも言える大きな影響を与えていることは疑いない」
  

 この文章の「フランスの大学」を「日本の学校」に置き換えてみよう。「「日本の学校」の機能を圧迫している多くの物質的困難が、その教育的関係の悪化に、決定的とも言える大きな影響を与えていることは疑いない」学級規模や学校規模は、日本の学校の質を下げ荒廃させるのに貢献してきた。低く保たれた質は、物質的困難が解消されるに伴い向上する筈だったが、少しも向上していない。管理主義的生活指導は、生徒の従順化を奇貨としてむしろ強化され、脱社会化と非政治化はその極みに達している。何故なのか。高校学園紛争を経験した教師たちは、「あんなことはまっぴらだ。二度と経験したくない」と顔を曇らせ、生徒たちは学校の偏差値が上がることで推薦入学が有利に運ぶことを希望した。見かけの秩序に依存する点で、教師と生徒は同盟関係にあったし、今もある。教育の内実の充実を伴わない偏差値だけの上昇は、学校に対する勤務評定として双方に支えられつつ機能してきたのである。
 ブルデューは続ける。「その担い手たち〔学生と教師〕の態度が機能的に相互に結合されている限りにおいて、また彼らの〔主体的〕態度が教育の物質的、制度的な条件との相互に因果的な関係を維持する限りにおいて、それはシステムとして(よきにつけ悪しきにつけ)機能し続けるのだ」


 ただ(よきにつけ悪しきにつけ)機能し続けるのではなく、悪化し続けるのだ。秩序は拡大し職員会議の自由な討論と採決は、教委と管理職の秩序に飲み込まれ、学校儀式は日の丸・君が代を通して国家秩序にまで拡大してしまった。
  自衛隊の軍隊化が完成すれば、この秩序は一気に米国の世界秩序に飲み込まれることになる。
 あたかも教育が、時代を押しとどめ逆行させる重しとして、機能しているかのようである。

 「教育がかくも強固に革新に抵抗するのはなぜかと言えば、それは目に見える緊張と対立を越えて、おそらく高等教育がもたらす実際の安全と、この高等教育が生み出すフラストレーションとの均衡を保つように、高等教育が一つのシステムとして機能しているからである。・・・より一般的に言えば、システムにたいする態度の変更を伴わないようなシステムの改革を目指すいかなるこころみも失敗に終わらざるを得ないということである」

 1968大学闘争時のことだ。「機動隊が来たら、『ピンク大のやつらを前に行かせろ、ピンク大は前へ』なんて叫んでいましたね」と言う不愉快な証言がある。blog『極鬼舎 2019/02/23』  ピンクとは桃山学院大学。
同志社大全共闘元闘志の語るところによれば、関西の場合、作戦立案は京大学生、現場指揮は同志社大、前線の逮捕の恐れのある危険な場所には桃山学院大やそのほかの学生が割り当てられたという。東京にも似た構造があった。大学解体を絶叫しながら、選別の構造と論理は温存した。ナロードニキ真逆の構造が、大学紛争の中に構築されたのだ。それが権力の階層構造と瓜二つであったことに無神経な者たちがシステムの破壊を担えるわけはなかった。

 戦後社会を規定し続ける偏差値による選抜と人事評価=勤務評定に基づく全システムの廃止を伴わないいかなる試みも失敗に終わる。

ある台湾人日本軍兵士が見た南京大虐殺 

 日本の植民地だった台湾に兵役法が適用されたのは1943年、徴兵検査実施は1945年から。だから敗戦の年まで台湾に徴兵は存在しなかった。にもかかわらず
 ・・・それがネ、いきなりヨ。突然警察から呼び出しが来た。「何月何日、印鑑持参で警察に出頭せよ」 こういう呼び出し状が来た。警察いえば、普通の人はやっぱり怖いヨ。・・・
 行ったらすぐに身体検査証渡されるんだ。これにサインしなさい、と。まだこの時も何があるのかわかってないのヨ。ワケわかんないから、みんな戸惑っている。それでボク訊いたんだ。
 「何でサインするんですか?」 そしたら、こう答えた。
 「郡役所行けばわかる」
 郡役所、日本で言えば県庁みたいなものネ。当時としては、ボクたちとまったく縁のないところヨ。ずっと上みたいなところ。しょうがないからサインして、判押した。行ってた連中みんな押してたな。・・・その日、夜になって特別車でそのまま台南連れていかれた。
 台南の連隊入れられたのヨ。呼び出されたその日にヨ。ウチに何の連絡もなくヨ。家じゃもう行方不明ヨ。これにはビックリした。まったくコッチには教えてくれない。どこに行ってどうするのか。で、台南の連隊で初めて身体検査ダ。そこでボク甲種合格。・・・翌日は早速湖口訓練所に送られて、基礎訓練みっちりやらされた。この台南出る時にウチに連絡できたの。手紙出した。これが着いてウチの人安心したらしいけど、それまで随分心配したそうヨ。
 訓練所での訓練が三ケ月続いた。これが昭和十二年の……十月から十二月。ボク、まだ十九歳だった。

 翌年の一月、湖口出て、上海から上陸して、南京に向かった。前の年の十二月に南京攻略されて、その頃は大虐殺の最中ヨ。道でも川の土手でも死体がゴロゴロしてた。山になって積んであるのヨ。
 正直言うとネ、そういった風景見て、ボクがっかりきたんだ。台湾の教育いうと「日本は神の国」教える。それはシッカリ叩き込まれるのヨ。さらに、この戦争は「聖戦だ」と。警察に呼ばれるまで、そのことは強く信じていたヨ。イヤ、信じていたというより「そういうもんなんだな」って思ってた。台湾での生活の中でもいっぱいイヤなことあったし、ヒドイ目にも遣わせられたヨ。でも、どっかでそのこと信じていたのも事実ネ。結局、軍隊にほうり込まれてもまだ「そうかもしれない」って思ってた。
 その実態がアレよ。人間のやることじゃない、本当に見てられないのヨ。今までほんの少しでも信じてたことが、完全に崩れ落ちたネ。全くの嘘だということがハッキリわかった。
      林歳徳(
「ある台湾人兵士の密航」『戦争拒否 11人の日本人』晶文社 )


 これは警察を使った強制連行である、それを日本は志願兵であると強弁した。わけも分からず判子を押してはいけない、絶対に。
 台湾生まれの林歳徳さんは、学校で「日本は神の国」と叩き込まれ、この戦争は「聖戦だ」と強く信じていた。
 問題は「日本は神の国」と教えた同じ日本人が、平気で強制連行する神経である。根っからの嘘つきなのか、「人間のやることじゃない」ことをするために、「神の国」という言葉を発して自らに呪いをかけたのか。だとすればなんと安普請の精神であることか。

 それ故、マッカーサーに「感謝状」を送り、沖縄を米軍基地として占領する「天皇メッセージ」を許してしまうのだ。平気で他民族を見下げ騙す国民は、見苦しいまでに支配民族に 迎合し進んで騙されるのである。

    林歳徳さんが、日本軍による兵役を逃れて日本にたどり着いて驚いたことの一つに、砂糖の値段がある。安いのだ。生産地台湾の1/3。日本の砂糖が安かったわけではない。それにはからくりがある。

 台湾では米が年二回とれる。が、その米は台湾人の口には入らない。主食はサツマイモを千切りにして干した「バンショウケン」だった。お椀の中はいつも真っ黒である。彼らにとっての食事とは、その真っ黒なお椀を意味していたという。
 リンさんの家はそれほど大きくないが地主だった。父親は広いサトウキビ畑を持ち、精糖工場を経営していた。かなり手広くやっていたのだが、リンさんが物心つくかつかないうちに、日本の財閥に取られてしまう。
 ある日突然だった。朝、父親がいつものように自分の畑に仕事をLに行くと、そこには日本の財閥の名が大書された三寸角の柱が立てられていた。「ここは今日より○○の土地である」と。
そんなものに従うことはできない。看板を引き抜き、仕事を始めた。と、すぐに警察がやって来て、父親は連行される。何日にもわたって拷問が繰り返された。
 警官は命令口調でこういったという。とにかく一言告げるだけでいいのだ。あの土地は自分のものではない、と。しかし父親は頭として受けつけなかった。最後に警察は彼の妻と息子であるリンさんを連れてきて、その目の前で父親の拷問を行なった。父は気絶してしまう。その間に母が書類にサインをし、父の指をもち、栂印を押させた。
 その日から父は一労働者としてサトウキビ畑で働かされることになった。
 サトウキビ畑での労働は、肥料はすべて借り受ける形になっていた。その値段も政府が勝手に決める。穫れたサトウキビの値段も勝手に決められる。さらにサトウキビの計量にも立ち会えない。
 台湾入は労働力のみを提供し、彼らが得る報酬もすべて日本側の事情によって決められた。
 また、自分の畑でサトウキビを食べても罰金を払わせられた。リンさんはその罰金が十円だったと記憶している。一日働いて得る報酬が三十銭ほどであった当時である。少ない収入とそれに見合うだけの食物しかない毎日が続いていた。しかしリンさんたちはサトウキビ畑に入り、サトウキビをしゃぶることはしなかった。いや、できなかった。たとえ自分のところの畑であろうと、たとえそれが子供であろうと、サトウキビをとることは罰金十円の犯罪となったからだ。
 リンさんが日本の小学校にあたる公学校三年の時だった。ずっと自転車が欲しいと思っていた。
父親にねだっても「まだ小さいから」という理由で買ってもらえなかった。実際は「小さいから」という理由よりも、当時百円という高額が問題だったのだろう。が、三年になった時に父親は買ってくれると言う。リンさんは嬉しくて嬉しくてたまらなかった。父親にしてみれば、その年のサトウキビは豊作で、十トン貨車三十台分が収穫できた。肥料代を差し引いても四百円は下らないだろうと予想していたのだ。
 リンさんは父親の帰りを待つのももどかしく、一緒に精糖工場まで出かけていった。そして精糖工場の会計課が、父親の収穫したサトウキビを計り、それに値をつけるのを二人でジッと待っていた。期待に胸ふくらませる子供の思いは、いつの時代でも、どんな土地でも一緒だ。リン少年もワクワクする気持ちを抑えるのに必死だった。
 父親が会計課に呼ばれた。ややこしい計算がなされた紙切れの末尾に、金額が書きこまれていた、五十円。
 自転車どころの話ではない。これだけの収入では家族の生活さえ危ぶまれる。父親はしつこく食い下がったが、相手にされなかった。
         
「ある台湾人兵士の密航」『戦争拒否 11人の日本人』晶文社  

 台湾人は日本の植民地支配に感謝しているという風説が繰り返し流される。無知は恐ろしい。戦中の台湾製糖や台湾銀行最大の株主は天皇だった。植民地支配と戦争から最も利益を得て、身内から一人として戦死者を出していない天皇一家である。土下座で済むレベルではない。

追記 共産党穀田国対委員長が20日の記者会見で、政府主催の天皇在位30年記念式典に党として出席しないことを明らかにしたと言う。遅すぎる決断であるが、僅かに片頬が緩む。  

日本にナロードニキはいなかったのだろうか

承前←click
 大学生や貴族が、過酷な犠牲を伴うナロードニキ運動に身を投じざるをえなかったのは何故か。社会の最底辺にあって困窮の極みにあった農奴たちが解放が進まない理由を、ツァーの暴政に見出すことが出来なかったからである。「愛する父なるツァー」の善政を妨げるのは、官僚や貴族たちの私利私欲であるとの正教的世界観に浸りきっていた。無知蒙昧を宗教が組織していたのである。
 ロシアの農民たちが、ツアーの暴虐極まりない実像を知るのは、この30年もあと1905 年「血の日曜日」であった。保守的青年僧侶に率いられ「神よ、ツアーを恵み給え」と平和裏に請願行進する群衆に、ツァー政府による無警告一斉射撃が浴びせられ死者500名負傷者3000名を数えた。これがロシア革命の烽火となる。
  今、生活苦に喘ぐ老若男女も、政権中枢の首相らの頑張りを信じて疑わない。ステルス戦闘機100機を米国に注文するに及んでも、改革が進まないのは抵抗する官僚たちのせいだと信じている。

  何時の何処の困民に比べても、現在の日本の非正規労働者や外国人労働者が幸福であるとは思えない。過酷な労働から逃れるには、過労死しかない有様に打つ手もない。いつまで生きるつもりかと閣僚に恫喝され、孤独死を遂げる老人。どこが恵まれているか。現代の日本的ナロードニキの出現があって当たり前の状況である。それを妨げる巨大な社会的ダムがある。古くて更新を続ける3Sである。スポーツ・セックス・スクリーンは、学校もマスメディアも政策も覆い尽くしている。日本の青年が1870年代のロシア青年に比べて、倫理性や論理性において著しく劣っているとは思えない。
 違うのは、時代を注視して深く思考し仲間と討論交流する時間と精神である。それが組織的に奪われ粉砕されている。

 昔も今も運動に身を投じるのは困難の極みである。困難の最たるものは、自身の貧困である。ロシアの農奴も日本の小作農も、立ち上がる前に疲弊し切ってしまっていた。空腹の余り、子どもは熟していない梅の実を口にして死んでしまう。そんな中で、ものを考え本を読むことが出来るのは、地主や小地主の子弟たちであった。農民運動家の山口武秀さんは、17歳で中学を出ると、孤立無援のまま五里霧中で、農民運動に身を投じた。

 「農民が地主に土地を取り上げられる。すると、わたしが周りにいる青年を引きつれ、地主のところに談判にいく。大衆団交をやりに行くんだ。談判のすえ、取り上げられていた土地をこちらの手に押さえ、その農家に返してやる。そういうことをやっていた」           山村基毅『戦争拒否 11人の日本人』晶文社

  組織はないが言うことはしっかりしている。地主たちの目は光り始め、検挙も重なりそのたびに半年近く留置された。1937年には思想犯として逮捕され懲役三年の刑を食らう。赤紙も来る。しかし彼は徹底的に不服従を貫き。敗戦を迎え戦後も農民運動を続けた。

勤評と偏差値 Ⅱ

 オレオレ詐欺に邁進する「優秀な」若者があとを絶たないという。金持ちの老人を騙して何が悪いと言わんばかりに、真面目で特性の無い勤め人を装う「老人食い」。怪しい業界に若者が「身を投じる」のにまたがねばならぬ敷居は極めて低く、特段の決意を要しない。しかしそこから足を洗う「一歩」が難しい。進むのは簡単だが後戻りは出来ない仕組みが備わっている。 

 ドストエフスキーはラスコリニコフにこう言わせている。


 「ふむ・・・そうか・・・人間というやつは、いっさいを手中にしているくせに、弱気ひとつがたたって、みすみすそのいっさいを棒にふっているわけだ・・・こいつはまちがいなく公理だぞ・・・だいたい人間は何をいちばん恐れている? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それをいちばん恐れているじゃないか」(江川卓訳『罪と罰』)

  狂人ラスコリニコフの戯言と捨て置くべきなのか。並外れた鋭さを持つ精神の警告として受け取るべきなのか。僕は後者を取る。我々は疲れ果てて、精神を顧みることさえないからだ。
 人は、新しい一歩を恐れている。例えば高校生にとって部活をやめるのは、気楽な「新しい」一歩ではなく「人生初めての」個人の決意を伴った「新しい一歩」、恐怖の一歩である。部活に加わるのは、風に柳がなびくような、決意とは無縁の集団的惰性に従っているに過ぎない。部活だけをやめることなのに、人間関係が根本から崩れてしまう恐怖。 調子に乗っていじめに加わるのは簡単だが、自分一人やめることには相当の決意を要する。いじめそのものをやめさせるには、更に大きな覚悟と時間を要する。
 僕は担任をしていた頃、部活を止める決意をした生徒たちの長い面倒な闘いを幾たびも見てきた。簡単なことに無駄な時間と力を浪費してしまう。簡単なことだ、何も変わらない、変えさせない、と言ってやりさえすれば、呪いが解けたように高校生は楽になる。入学式でも、PTAでも説明すれば良い。部活の顧問に「そんなことを言われては困る」と脅されても、職場で孤立しても言い続ければ良いのだ。面倒は担任が引き受ければよい。それさえやろうとしないのは何故なのだ。我々が自分自身に呪いをかけているからだ。「止めることはいつでも出来る。継続は力なり」と。

 まったく「だいたい人間は何をいちばん恐れている? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それをいちばん恐れているじゃないか」 生徒に対する持ち物検査や服装頭髪検査は、集団の掟として始めるのには決意は要らないが、自分だけやらないことには格別の決意と新しい言葉を要する。

 重営倉で瀕死の状態となった兵を連隊長から、「処置せよ」といわれて、リンゲル液を持って川島中尉は手当てしようとする。ところが怒気を含んだ声を浴びせられたのだ。
  「何をするんだ貴様。処置せよ、と命令したんだ!」
  「ですから死なないように処置して、助けるのです」
  「貴様!上官の命令に反抗するのか!処置せよ」
 「ですから点滴で栄養補給の処置をしますっ! それとも『殺せ』の意味ですか?」

      (古川愛哲著『原爆投下は予告されていた』講談社刊)

 敗色迫る日本軍では、手足まといになる負傷兵や捕虜を殺害することを「処置」と呼んでいた。「殺せ」と命じれば、責任を問われる。正しい言葉を使うこと自体が「いっさいを棒にふ」ることになった。無難なのは「特性のない」兵士であり続けることであった。
 
 勤評が始まったとき、教員にはどんな選択肢があっただろうか。そもそもあの時期の教師たちに、選ぶという経験があっただろうか。戦争を始めたのも、無抵抗の農民を殺すのも、強姦するのも、自ら選んだことではない。死んだ戦友を食ったのも選択の結果ではない。そして教師になったのも主体的選択の結果ではない。食い詰めて街をさまよっている時に教員募集の貼り紙が目に入ったのだ、選択の余地はない。敗戦の現実を直視して、これからの教育では「国のために死ね」と言う必要は無い、平和と自由のために教職を選んだ者は、迷うことなく「勤評」に立ち向かった。
 公然と反対すること、それが最も危険であった。宇高申先生は闘いを組織し逮捕された。←click 無難なのは「特性のない」人々の一人になることであった。とはいえ、雇われ人としての特性からは逃げがたく、教委の意向に振り回される。

ナロードニキ

 ナロードニキ逮捕の瞬間を描いたイリヤ・レーピンの作品
 ロシア革命の口火を切ったナロードニキ運動に身を投じたのは、おおむね大学生であった。貴族、将軍、大地主も参加している。富商の家に生まれ、外国に遊学した者も少なくない。クロポトキンは公爵。「革命の祖母」エカテリーナ・プレシコフスカヤは、貴族の出。アレクサンドル二世の暗殺者ソフィア・ベロフスカヤの祖父は文部大臣、父はベテルプルグ総督。憲兵司令官メゼンツェフ将軍を刺殺したクラフチンスキーは、陸軍将校であった。美貌と勇敢とをもってテロリスト運動の花とうたわれ、22年間を要塞監獄に送ったヴェーラ・フィグネルは、カザン県の貴族の家に生まれ、その祖父はナポレオン戦争に勇名を馳せた将軍であった。彼女とともに軍隊事件に連坐した多くの陸海軍将校のうち、死刑に処せられた海軍中尉フォン・ストロンベルグは男爵であった。カラコーゾフは、巨万の財産を所有したにかかわらず数人の同志と一室に住み、おのおの1ヶ月10ルーブルを出ない生活を送り、その財産はナロードニキ運動に投じた。
 彼等は父母との家庭、社会的地位、快適な生活、世俗的な悦楽をふり捨て、「人民のなかへ行き、彼等から不正に奪ったものを彼等に返せ」と叫んで、労働者、徒弟、役場書記、小学校教師、産婆、看護婦の資格で町や村に入り込んだ。鍛冶屋や小農場をつくり、彼等は毎日、労働大衆と直綾に接して教育宣伝に従い、その啓蒙と福祉のために献身した。モスクワでは富裕な階級出身で、チューリッヒ大学に学んだ若い娘たちが、紡績工場に入って1日14時間から16時間も労働し、工場のバラックに住んで惨めな生活を送った。一方では、同情者または後援者の数も夥しい。例えば治安判事ヴオイナロスキーは約4万ルーブルの全財産をナロードニキ運動に寄付した。チェルニゴフ県の司法委員会議長で地主のコヴァリクは、ナロードニキを援助したために捕えられてシベリア流刑に処せられた。「党の聖人」と呼ばれたドミトリー・リゾグープは、1879年の8月にオデッサで処刑されるまでに、全財産40万ルーブルをナロードニキに投じている。
 彼等の運動は当初、極めて平和な教育運動であった。彼等は明白な具体的革命的綱領をもっていたのではなく、文盲の農民や労働者に読み書きを教え、初歩的な知識を与え、迷信的な治癒の奇蹟に頼っている病人に医療を施し、彼等の悲惨暗黒な境涯の緩和に直撃献することを目的とした。そして人民が自身のカで圧制から解放され、正しい自由と幸福とを獲得するのを、援助しょうと熱望していたのである。  (数字や人名は、主として荒畑寒村『ロシア革命運動の曙』によった)

 彼らがこうした過酷な犠牲を伴う運動に身を投じたのは何故か。農奴たち自身が解放が進まない理由を、ツァーの暴政に見出すのではなく、「愛する父なるツァー」の善政を妨げる官僚や貴族たちの私利私欲に帰していたからであった。ロシアの農民たちが、ツアーの暴虐極まりない実像を知るのは、この30年もあと1905 年「血の日曜日」であった。保守的青年僧侶に率いられ「神よ、ツアーを恵み給え」と平和裏に請願行進する群衆に、ツァー政府による無警告一斉射撃が浴びせられ死者500名負傷者3000名を数えた。これがロシア革命の烽火となる。


 ナロードニキの軍法会議に於ける陳述も伝えられている。

「私を殺せ。だが、諸君は人民の自由と幸福、正義と廉直の勝利、そして友愛、平等、自由の理想がもはや空しい響きではなく、真の生活に具体化された時代が到来する私の信念を、決して殺せない。かかる未来のために、個人の生命を犠牲とすることこそ幸福なのである」 
 マリア・スピリドーノワは眼球が飛び出さんばかりに拷問を受け血にまみれ、喀血しながら叫んだと記録されている。

 「私はミーンが自由の先駆者を殺し、モスクワの街上に無辜の血を溢れさせたが故に、彼を射殺した。私たちをこのように戦わせるのは政府である。私たちを暗黒と窮乏と牢獄に閉じこめ、流刑と懲役に処し、数十人、数百人を絞殺、銃殺する権利を、誰が諸君に与えたか。諸君は力ずくでこの権利を握り、自身の法律で正当化し、僧侶がそれを神聖とした。だがいまや、諸君の非人道的な権利よりもはるかに公正な、新しい人民の権利が起っている。そして諸君はこの権利に、生死の戦いを宣言したのである」
   ジナイーダ・コノブリャーニコワは、絞首台に上るや自ら絞索をしめ、踏み台を蹴飛ばし最期を迎えている。いずれも女性である。

勤評と偏差値 Ⅰ

ファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね
 「自分の考えを表明するということは、それに対し責任を取るということ」これは、必然的に個人の判断や決意を促す。判断も決意も言語化して初めて相手に通じ、相手からも学び合意を共有する。
 日本では、学校や組織の決まりや「掟」が、個人の「判断と決意」を代替して「忖度」を受け入れる素地をつくってしまう。忖度は、言語化を回避する。
 僕は明治生まれの祖父母や大叔母たちから、「人の顔色をみてものを言ってはいかんよ、思った通りを言いなさい。殴られても引き下がってはいけない」と繰り返し厳しく諭された。
 いじめっ子が現れれば、言葉で対決しなければならない。暴力で決着しようと目論んだ上級生のいじめっ子たちは、言葉での対決に一瞬たじろぎ、「お前と話すと頭が痛くなる」と言って退散するのであった。殴られたことは一度も無い。お陰で遊び仲間からも、学校や地域でも「ちょっと生意気・ひねくれ者」と思われたが、それが咎められるようになるのは、「勤評」以降である。
 

 「勤評」は、教師を権力に順化し、担任は生徒に従順と譲歩を強いて成績に拘るようになった。生活指導はこの風潮に乗り、官民双方から広がった。僕の記憶の中にある生活指導が目指したのは、民主的秩序ではなく組織の秩序に過ぎなかった。少年たちが、教師や上級生と言い争うことも増え、それは68年の学園紛争で頂点に達した。だが、一気に萎えてしまう。「個人の判断決意」という点で、日本の大学紛争は脆さを内包していたからである。それ故「紛争」後、大学闘争の戦士たちは一転して企業戦士となったのである。

    言葉が明晰性を失う事を、小説の神様は嫌った。それ故
小林多喜二の文学を高く評価しながら、文学が政治や思想の道具となる事を批判したのであった。
 1935年、志賀直哉はある対談でこう語っている。
「今の世の中でファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね・・・大体この二三年間、急に日本はまるで日本でなくなったやうな気がするぢゃないか。僕は腹が立って、不愉快でたまらないんだ・・・世の中が実に暗い。外へ出るのも不愉快だ。言ひたいことが言へない世の中などというものは誰にとっても決して有難くないわけだ」
   『文化集団』昭和10年11月号「志賀直哉氏の文学縦横談」
 

 多様な文化思想の人間が混じり合えば、そこでの言葉は明晰性を増さざるを得ない。ファシストとファシストに忖度する人間で世間が埋め尽くされてしまえば、言葉の明晰性は消えてしまう。
 それ故志賀直哉は『世界』の編集に敢えて、中野重治や宮本百合子を入れる提案をした。戦争の愚劣を言葉の明晰さが暴く事を、彼は願ったと僕は思う。最も明晰な言葉が日常日本語でないのは確かである。
 例えばフランスの教科書には、文章だけで構成された美しさがある。言語への自信と信頼があるからだ。対して日本の教科書は、字の書体や色や太さを変え、漫画を配置、カタカナ語を乱用してまるで歌舞伎町や渋谷駅前の乱雑さである。そうすることでしか、事柄を伝えられない構造を日本語は持っている。


 教室から明晰さが後退する切っ掛けは、勤評にあった。それは当時生徒であった僕の実感である。偏差値の概念自体は世界中にある。しかしそれが教育を翻弄し、教育がそれに依存しきっている国は日本だけである。その根源が「勤評」と拘わっていると僕は睨んでいる。 続く

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...