高校生と学校が争った判例・ブラック校則と闘うために 3

承前         拙著『法律をつくった高校生』国土社刊から抜粋・再構成


,「学生権利法」は,1974年度マサチューセッツ州法
第82条から第85条として成立した
 60年代頃まで、アメリカのほとんどの中学・高校でも髪形や服装のきまりがあった。男生徒の肩に届く長髪は禁じられ、女生徒を床にひざまずかせて、スカート丈を見る服装検査もあった。裁判になった例をあげよう。

△1969年、ブリーン対カール事件-2人の高校生が校則にそむいて長髪を続けたために、違反の長髪をやめるまで登校禁止処分をうけた。
 校則は「頭髪は洗われ、櫛がとおされていなければならない。また、後部においては、襟の線より下にさがらないこと。両側面においては、耳にかぶさらないように、また、前部においては、まゆ毛より下に垂れないよう整髪してお
くこと、ひげはそられていなければならないし、もみあげの長いものは許されない」というものであった。

△1972年、アーノルド対カーペンター事件-インディアナ州のある高校では服装規定が、高校生・教師・管理職によって構成される委員会によってつくられ、高校生の投票によって採択されていた。
 それを知りながら、カーペンターは親の了解のもとに、長髪を続けたため、級友と授業から隔離された。

△1965年、ティンカー事件-メアリ・ベス・ティンカーは、ベトナム戦争への抗議のために、黒い腕章をつけて数人で登校した。これはベトナム戦争への、クウェーカー教徒の抗議運動の1つであった。ティンカーらは、帰宅を命じられ、この抗議行動が終るまで登校を禁じられた。

△1971年、ロレッタ事件-アメリカにはN.H.S.(National Honor Soclety)とよばれる組織がある。成績・奉仕・人格・指導性のすべてがすぐれた高校生を推薦し、奨学金・大学入学など特典を与えられ、卒業式では特別席にすわることができ、大変な名誉と考えられている。ロレッタ・ワートは、3年生の時に学費を自ら稼ぎながら、オールAの成績をとり、N.H.S.会員になり懸命に活動をしていた。だが4年生になって、未婚のまま妊娠したロレッタは、「妊娠した以上人格・指導性に疑いがある」と校長からN.H.S.を脱会しなければ除名すると通告をうけた。

△1970年、スコヴィル対ジョリエット町教育委員会事件一学校当局の認可をうけていない新聞を、校内で配布したとして、2人の高校生が退学処分をうけた。

 ここにあげた裁判の判決をみてみよう。

△1969年,ブリーン対カール事件一学校側は,校則違反は学校を混乱させ,学校の権威を傷つける,教育は権威への敬意を教えねばならぬと主張した。判決は,男子生徒の長髪が,注意散漫や成績低下をもたらすことは,立証されていないとしたうえで,長髪を選ぶ生徒の権利は,合衆国憲法の保障する表現の自由,個人の自由,プライバシーの権利に属するとした。さらに判決は,学校は憲法上の権利を制限する場合には,それにより優越する利益の根拠を示さねばならないとし,生徒側の勝訴となっている。

△1972年,アーノルド対カーペンター事件一判決は,たとえ校則採択手続きに生徒が参加した民主的なものであっても,頭髪の自由など憲法上の権利を制限するにあたっては,それを理由づける根拠-たとえば学校環境の重大な混乱の合理的予測が必要として,高校生側の権利を認めた。

△1965年,ティンカー事件-1992年の大統領選挙戦で,クリントン候補が学生時代ベトナム反戦活動をおこなったことが,ブッシュ陣営にとりあげられ問題化したことに示されるように,アメリカでも自国の戦争に,堂々と反対を表明することは,難しいことであり,非常に勇気を要することである。13歳の少女がそれを地域社会の非難の中やってのけたのは,まさに戦争中のことであった。
 同じような事件は他でもおこった。この事件の判決は,1969年連邦最高裁で確定している。この判決で中学生や高校生にも,一般市民と同じように合衆国憲法修正1条の保障する表現の自由があることを,連邦最高裁は認めた。中学生,高校生も自己の言論,表現の自由を校門の外においてくる必要はないのである。大人がベトナム反戦の意志をあらわす,腕章やバッジ,ゼッケンをつけて歩けるように,中学生もまた,学校で反戦の意見を,バッジや腕章で表明できるのである。←クリック

△1971年,ロレッタ事件一口レッタは,妊娠がN.H.S.会員資格を失うほどのことなのか,また妊娠した女の責任は追求されるのに,なぜ妊娠させた男は問われないのかと疑問を提示し,N.H.S.からの脱会に応じなかったために,除名された。事件は ロレッタの提訴により法廷に持ちこまれ,3年後,連邦裁判所は妊娠を理由にN.H.S.からの除名は性差別であり,除名処分は無効であるとした。

△1970年,スコヴイル対ジョリエット町教育委員会事件-ティンカー事件の判決は,高校生の憲法上の権利が制約されるのは,教育活動に実質的な混乱が生じることを,学校側が証明できる場合に限るとした。この事件でも判決は,高校生は憲法上の権利の主体であると認め,退学処分を違憲であるとしている。

 Massachusettsの高校生も,憲法や法廷が高校生の権利を守ることを,知らなかった。知らなければ,不当な扱いをうけても不本意ながらあきらめるか,不満をかかえてイライラして八ツ当りしたり,社会を恨んで破壊的な行為にはしりたくもなる。
 自分を守る法や制度があることを知るだけで希望が持て,自分や社会への誇りと信頼感を失わずにすむのである。
 この法を取り上げた記事は、こう書いている。
 「『学生権利法』という州法を作るのがいちばんいい,と高校生たちは考えた。紹介議員になってくれる人をさがし,法案をまとめ,議会を傍聴し・・・。半年後『学生権利法』が成立した(1974年)。『生徒自身が身をもって民主主義を学んだのです』」 (朝日新聞 1986.2.26)

 アメリカ合衆国憲法は,教育には一切言及していないことから,教育は,州にまかせられた事項であると考えられている。したがってアメリカの公教育は,州ごとにまたは市ごとに郡ごとに特色を持ち多様である。
 法案は,議員提出によるものと,政府提出のものがあるが,アメリカは連邦議会,州議会ともに圧倒的に議員立法が多い。高校生たちは,州議会に足をはこび,「学生権利法」への理解を求め,法案提出をひきうけてくれる紹介議員を,さがしたのである。高校生たちの熱心な説得に,議員たちは支持を約束した。
 その間に高校生のつくった法案は,より整理されたものに練り上げられ,議会にかけられその審議過程を高校生は,熱心に傍聴したのである。
 こうして,「学生権利法」は,1974年度のマサチューセッツ州法第82条から第85条として成立した。
 高校生評議会の結成が1972年,法の成立が1974年,わずかの間に,これだけのことをやりとげることができたことに注目したい。

 高1でこの間題にかかわった高校生が,卒業する前に成果を見ることができる。今,生徒たちが日本の高校で何か改革を目指しても,手続きと裁判に時間がかかりすぎて,在校中に解決というのは絶望的に難しい。だからいつもしらけてしまう。


Massachusetts「学生権利法」はどうつくられたか・ブラック校則と闘うために 2

承前    拙著『法律をつくった高校生』国土社刊から抜粋・再構成
 
教科書「民主主義」は閣僚・裁判官・官僚・議員
が読み、国民がその学習具合を点検しなければならない
 Massachusetts『学生権利法』が生まれたのは、高校生たち自身の取り組みの結果。70年代はじめ、各地で高校が荒れていた。校内暴力、中退者の増加、異人種の生徒間の暴力事件……。学力の低下も深刻だった。
 1949年の調査によると、アメリカの高校長の悩みといえば、「虚言と不敬」が最も重大な問題で、数のうえでは「無作法な行為」「廊下を走る行為」などが問題となる程度でしかなかった。
 1956年の調査では、大都会教師の28%が、1年間に教師に対する生徒の暴力を目撃したことを示し、校内暴力持にスラムにおけるそれの始まりをとらえている。
 1977年FBIは、青少年犯罪の増加を報告している。15~18歳の青少年による殺人・強姦・強盗・傷害という対人犯罪の逮捕率が、1953年には10万につき85人であったのが、1974年には295人に増加している。また同年代による建造物侵入・窃盗・器物破損・放火の対財産犯罪は、1953年に10万人あたり160人であったものが、1974年には520人にふえ、その影響は学校も例外でなくなった。
 アメリカでは、麻薬の大部分は、学校内で購入することができる。アメリカは、十代の麻薬問題で最も大きな悩みをかかえている。
 非行による損害額は、1970年から73年当時年間5億ドルにも達していた。
 またニューヨーク市の統計によれば、1973年から74年にかけて、学校関連犯罪の増加率は次のとおりである。
  窃盗 136.2%
  麻薬使用  86.5%
  性犯罪  52.6%
  暴力行為  44.9%
  不法侵入  42.1%
  強盗  33.5%
  武器所持  26.4%
 1972年1年間だけで、ニューヨーク市では、496件の教師を襲う事件が報告されている。警官が学校によばれたケースは、1973年の1月から7月までで5530件。
 そのために教員連盟は「教師と生徒の安全確保のための手引き」を1974年に作成して、高校生に襲われた場合の措置をマニュアル化したほどである。1973年にフロリダ州は、学校内暴力による器物破損、運営妨害に年間185万ドルを支出している。

  なぜ荒れるか高校生自身が考える

 アメリカでは教育行政は、州単位。マサチューセッツ州は、荒れる高校を前にして、管理を強めるという方法をとらなかった。なぜ荒れるのか。それを生徒たち自身に考えてもらう方法を選んだ。きわめて異例、当時の教育長が進歩的な人だったからでもある。教育委員は住民による公選であるから、教育に対する住民の意志は、教育行政に直接反映する。
 かつて日本でも、戦後民主化政策の一環として、自治体の教育委員は、住民による選挙で選出されていた。1955年、知事による教育委員の任命、教育委員会の長である教育長については、さらに文部大臣による承認を要することになった。そればかりか、教育委員会の予算原案の提出権まで奪われたのである。
 このことは荒廃する学校・高校生に対し押しなべて管理的方法が導入された日本と、マサチューセッツのちがいの条件となっている。
 マサチューセッツ州には400ほどの高校がある。各高校から選出された代表によって構成する生徒評議会が結成されたのは1972年。
 全体会を月1回、地域ごとの会合は、頻繁に開かれた。とくに暴力のひどかったボストン市中心部の高校では暴力行為のリーダーを評議員として意識的に選んだ。

 欧米では、学校や教育行政に父母・生徒・学生・住民が直接関与するシステムがある。
 たとえば、フランスやイタリアの高等学校では、学校評議会が学校内の最高決定機関であることが、法律で定められている。その構成員は、行政・事務代表・教員代表・親の代表・高校生の代表・地域の代表からなっており、教員評議会はその下部組織となっている。
 カリキュラム編成・高校生の処分の他、学校予算・決算も学校評議会の権限である。(フランスの制度は1989年のジョスパン法によってさらに前進、後述するがこの前進は、フランスの高校生が自ら闘いとったものである。)
 アメリカでは、地域によって様々な高校生参加方式が、こころみられている。たとえばニューヨークでは、市内の高校に教員・高校生・父母のそれぞれ5名から構成される諮問委員会を設置し、高校生が学校運営に参加している。
 マサチューセッツ州では、教育政策決定に高校生が参加する公式の仕組みがつくられ、高校生の代表が、教育委員会と同じやり方で論議を重ね、その結論を教育委員会に提案する。提案された事柄がどう取り扱われたかについて、高校生は公式の回答をうけとることが定められている。
 こうした民主的風土の中で、話し合いが開かれたのである。
 どんな話し合いが開かれたのか、想像するしかないが、代表の中には優等生も、暴力行為のリーダーも含まれていたのだから難行したに違いない。優等生にとって、暴力をふるい学校の秩序を乱し、名誉を傷つける高校生は、単に勉学の妨げでしかなかったかもしれない。処分を重くし、管理を強化することを望んだ意見も、少なくなかっただろう。
 「話しあううちに、学校がちがっても、抱えている悩み、問題は同じだ、ということがわかってきた。ひとことでいえば、生徒の不満は『生徒が人間として尊敬されていない』ということだった。

  今日本で、ブラック校則が問題になるのは、高校生が荒れているからではない。
 警察庁の調査によれば、2015年中に刑法犯として検挙・補導された少年(14~19歳)の人数は約3万8,900人で、12年連続の減少となり、戦後最低を更新している。
 荒れていることを理由に、管理を強めることでさえ正当とは言えない。まして荒れてはいないのに、ブラック校則は増殖して偏在する。ブラックな校則は、いったい誰のどんな行為や態度に対応しているのだろうか。こんな理不尽があるだろうか。『人間が人間として尊敬されない』状況が作り上げられているのではないか。  つづく

 

Massachusetts「学生権利法」・ブラック校則と闘うために 1

18歳は投票するだけか。法をつくりそれを行政や学校に
守らせる主体でもある。それが主権者であるということだ。
 拙著『法律をつくった高校生』国土社刊から抜粋・再構成した。
① 表現の自由 生徒には新聞、出版物を通じてする発言、生徒会で直接する発言の自由が保障される。 
② 外見の自由 生徒は、健康・安全・清潔を侵さない限り、頭髪と服装の自由が保障される。 
③ 校外での行動 校外で何か罪を犯して逮捕されても、それを理由に退学・停学になったり、登校を拒否されることはない。妊娠した場合も同様。 
④ 法の遵守 各学校は、この学生権利法に準拠して校則を決めなければならない。

 これは、1974年にアメリカ、マサチューセッツ州で成立した「学生権利法」(Right and responsibilities of public secondary school student)と通称される正規の法律である。わずか4条で構成されている。
 注目すべきは、これが高校生自ら非行や麻薬・暴力で荒れる高校をたてなおすために、まとめあげたものだという点である。高校生はまとめ上げた法案を議会に持ち込んで議員を説得、議員たちが取り上げ審議して可決したのである。その州法に学校運営は拘束されることになった。憲法も法律も、人々を縛るものではない。権力を行政をコントロールする、民衆の武器でなければならない。

 「みんなの努力でお互の幸福と繁栄とをもたらすようにするのが、政治の最高の目標である。・・・それが民主羊義である」(注)とすれば、荒廃した自分たちの学校を再建しようと才能や長所を発揮し、高校生たちの幸福を実現する行為は、民主主義の学習であると同時に実践である。 

 「民主主義は、本で読んでわかっただけでは役に託たない。・・・人間の生活の中に実現された民主主義のみが、ほんとうの民主主義なのだからである」(注)

 注目すべき点はまだある。高校生たちの討論が組織されたのは、1972年。州法として成立したのは1974年であることだ。Massachusetts州だけではなく、現在ほとんどの州に同様の州法がある。
 我が国では、たかが靴下の色や刺繍をかえるのに三年以上かかったりする。これを「民主主義は時間がかかる」と言って賞賛する向きもあるが、かえって「民主主義に期待しない」層を増やしてしまう。それは投票率の低さに表れている。                                                                         つづく

 (注)1948年から1949年にかけて当時の文部省が、高校一年生に向けて発行した教科書「民主主義」から引用した。敗戦直後の文部官僚の姿勢は、現在の文科省からは想像だに出来ないほど進歩的であった。

(Right and responsibilities of public secondary school student)の州政府によ解説はここにある。


『反乱するメキシコ』 2  cuba革命思想的淵源

承前
もし先生の教えをうけなかったならば、
私は自分が見てきた事柄をまったく理解できなかったのではないか。
 リードはビリャの印象的な言葉や行動を記録して、『反乱するメキシコ』に効果的に散りばめている。その中に、ラテンアメリカの革命に共通する精神を見ることが出来る。

 ビリャの説明によると士官は教育があるのだから、もっと善悪の判断がつくはずだと言う。しかし、政府軍の兵卒は釈放した。その理由は、彼らの大部分が徴兵されたのであり、当人たちは祖国のために戦っていると考えていたからであった。・・・
 「戦争法規」のことなど、聞いたこともなかったにもかかわらず、ビリャ軍はメキシコの軍隊のなかで唯一の効果的な野戦病院列車を備えていた。それは内部をエナメルで塗装した40台の有蓋貨車からなり、手術台と最新式の外科器具を備え、60人を超える医者と看護兵が乗り込んでいた。戦闘のあった日には、重傷者を満載した列車が、前線とパラール、ヒメネス、チワワの基地病院の間を往復した。彼は自分の部下とまったく同様に、政府軍負傷兵の面倒も看た。
補給列車の前には、もうひとつ別の列車が走った。この列車は、ドウランゴ市とトレオン市周辺一帯の餓死寸前の住民に施すため、2000袋の粉と、コーヒー、とうもろこし、砂糖、煙草などを積んでいた。

 兵卒たちは、ビリャの勇敢さ、粗野でぶっきらぼうなユーモア故に、彼を崇拝した。いつも使う赤い車掌車の中で、床や椅子やテーブルにくつろいでいる20人ほどのぼろ服の兵卒たちと、簡易ベッドに前かがみに坐りながら親しげに冗談をたたいている彼の姿をよく見かけた。
 部隊が乗車したり下車したりする際には、ビリヤ自らカラーのついていない古い汚れた服を着て現れ、ラバの腹を蹴とばしたり馬を押したりして、家畜用貨車に乗せたり降ろしたりした。
  
 ビリャが情熱を傾けたのは学校だった。民衆への土地分配と学校が、文明社会のあらゆる問題を解決するだろうと、信じていたも彼は学校にとりつかれていた。ビリャが言うのを私はよく聞いたものだ。「今朝、どこそこの街を通ったら子どもたちが大勢いた。あそこに学校を建てよう。」
 チワワ市の人口は4万たらずだった。そこヘビリャは、いろんな機会に、50以上の学校を建てた。
 チワワ州政府を掌握するとすぐさま、軍に発電所、市街鉄道、電話、水道、それにテラサス家の製粉所を運営させた。没収した大農園にも兵士を派遣して管理させた。屠殺場にも兵士を配置し、テラサス家の牛肉を売って政府の収入にした。1000人の兵士を警察官として市場に配し、死刑をもって盗みや軍隊への酒の販売を厳禁した。酔った兵士は射殺された。彼は兵士を使って醸造所さえも運営しようとしたが、専門のこうじ職人が見つからず、失敗した。「平時に兵士たちをうまく扱う唯一の方法は、働かせることだ。暇な兵隊は、いつも戦争のことばかり考える」とビリャは言った。

  もしビリャが暗殺されなければ、・・・と思わずにはいられない。そしてコスタリカやキューバにおける教育と医療の成功は、ビリャの政治的感覚に流れるものと通底しているからこそではないか。

   リードがハーバード大学の恩師に宛てた書簡がある。
  「・・・もし先生の教えをうけなかったならば、私は自分が見てきた事柄をまったく理解できなかったのではないかと考えずにはおられませんでした。
 ・・・すなわち先生の話に耳を傾けることは、目に映つる世界の背後に隠された美を見出す術を学ぶことであり、また先生の友人であることは、知的に誠実であろうと努めることなのだと。・・・」
                                      ジョン・リード『反乱するメキシコ』大学恩師への献辞

  雨のように銃弾が飛び交い夜を徹して歌い踊る農民兵士たちの喧騒の中で、何がこの革命の実態で本質なのかを咄嗟に記憶して構成記録する、ジャーナリストとしての基礎を彼は大学で磨いた。我々が生徒に保証べき学力も、こうでありたい。

『反乱するメキシコ』 1  常備軍廃止の思想的淵源

 

  ジョン・リードは『世界を揺るがした十日間』で1917年のロシア革命を生き生きと世界に伝えた。だが彼は、それより前1910年から10年以上も続いたメキシコ革命も取材している。それが『反乱するメキシコ』である。革命と貧農の結びつきが、生き生きと捉えられている。
 フエルナンド大尉は、立憲革命を目指すマデーロ派である。リードは彼らに仲間として迎えられる。

 フエルナンド大尉は身を乗り出して私の腕を軽くたたいた。
 「さあ、お前はこの男たちの仲間だ。われわれが革命に勝ったら、この男たちによる政府ができるだろう金持ちによる政府じゃない。われわれは今この男たちの土地を進んでいる。この土地は以前は大金持ちのものだったが、しかし、いまじゃわたしや仲間たちのものだ。」
 「そして君らが正規軍になるのかい」と私はたずねた。
 「革命が勝ったら」と驚くべき返答があった。
 「もう軍隊はなくなるだろう。みんな軍隊にはうんざりしているのさ。ドン・ポルフイリオが俺たちから搾り取ったのも軍隊があったからさ。」
 「でも、もし合衆国がメキシコに侵入するとしたら?」
 嵐のような反応があちこちに起こった。
 「俺たちはアメリカ人よりずっと勇敢だぜーいまいましいアメ公どもはフアレス市より南には来られまいよ。来るなら来てみるがいいさ。俺たちは奴らを国境を越えて追い返し、あくる日には奴らの首都を焼きはらってやるから!・・・」
「いや」とフエルナンドが言った。
「君たちの方が沢山金を持ってるし、兵隊も多い。しかし民衆は俺たちを守るだろうな。俺たちに軍隊は無用なんだ。民衆は自分の家や女たちのために戦うだろうよ。」
 「あなたたちは何のために戦っているんです?」と私はたずねた。旗手のフアン・サンチェスが不思議そうに私をみつめた。
 「なぜって、戦うのはいいことだ。もう鉱山で働かなくてもすむからな・・・!」(注1)
  ・・・一人の男が単調で、調子外れの歌をうたいだした。

 ・・・男が半分歌い終った頃には、部隊全員が曲に合わせてハミングしていた。そして歌い終ると、余韻の中で一瞬シーンとなった。
「俺たちは自由のために戦っているんだ」とイシドロ・アマヨが言った。
「自由とはどんな意味だ?」
「自由とは、自分でしたいことができるってことだ」
「しかし、それが他人を傷つけるとしたら?」
 彼はベニト・プアレスの偉大な金言で私に切り返した。
「平和とは他人の権利を尊重することである!」
 私はそのような答をまったく予期していなかった。この裸足のメスティーソのいだく「自由」の概念に私はびっくりした。
 「自分のしたいことをする!」これが自由の唯一の正しい定義であると私は述べたい。アメリカ人はそれを、メキシコ人の無責任さの例として勝ち誇ったように引用する。しかし私はわれわれアメリカ人の自由についての定義、つまり自由とは法廷が望むことを行なう権利であるという定義-よりも優れた定義であると思う。メキシコの学校の生徒は、だれでも平和の定義を知っており、それがなにを意味するかもかなりよく知っているように思える。にもかかわらずメキシコ人は平和を望まないと人は言う。それは嘘だ。しかも馬鹿げた嘘だ。アメリカ人よ、マデーロ派の革命軍のところまで来て、平和を望んでいるかどうか聞いてみるがよい! 民衆は戦争にうんざりしている。 ジョン・リード『反乱するメキシコ』


  フランシスコ・パンチョ・ビリャは、エミリアーノ・サパタと共にメキシコ革命を代表する天才的農民軍指導者である。彼は、妹を犯した役人を殺した16歳以来、22年もお尋ねとして政府に追われていた。学校に通ったことはないが、生来の正義感と明敏さで、革命の中心地チワワ州の軍政官になった。リードは、チワワでビリャにも会っている。

  ビリャもリードに次のように語っている。
 「新しい共和国が樹立された時には、もうメキシコには軍隊はなくなるだろう。軍隊は独裁の最大の支柱だ。軍隊がなけりや、独裁者もありえんね」
・・・「われわれは、軍隊を働かせるつもりだ。(注2)共和国全土に、革命軍の古参兵を集めた軍人入植地を作るつもりだ。州が耕地を与え、大きな工場をつくって古参兵を働かせる。
週のうち三日は、軍人は徹底的に働く。真面目に働くことは戦うことより重要で、真面目な労働だけが、立派な市民をつくるんだ。そして残りの三日間は、軍事教練を受けたり、全人民に戦争の仕方を教えに出かけたりする。
そして祖国が侵略をうけた時には、メキシコ市の大統領官邸から電話がありさえすれば、半日でメキシコの全人民が起ち上がる、畑から、工場から、十分に武装し、装備も整い、よく組織された人民が、子供や家庭を守るために起ち上がるのだ」     ジョン・リード『反乱するメキシコ』

 画期的なのは、それまでは各個バラバラに政府軍と戦っていた革命ゲリラ軍指導者が会議を開いたこと、そして満場一致で将軍ビリャを革命軍総司令官に選んでいることである。
 この将校と将軍の言葉から、暴政に対するもっとも効果的な武器は、軍隊ではなく武装した人民であるということを、cuba革命やvietnam戦争より50年も前に、夜通しバラードを歌い踊り、ぼろをまとった、勇猛で陽気な農民兵士たちが、よく理解していたことを我々は学び知るのである。
 僕は、1948年12月1日、コスタリカ元首ホセ・フィゲーレスが、
 「コスタリカの常備軍すなわちかつての国民解放軍はこの要塞の鍵を学校に手渡す。今日から ここは文化の中心だ。第二共和国統治評議会はここに国軍を解散する」
 何故このように演説出来たのかが掴めないでいた。あまりにもあっさりしているからだ。
 だが、メキシコ革命軍の大尉と将軍の言葉から、ホセ・フィゲーレスの宣言が、いかに重いものであるかを知ることが出来る。そして中南米初の社会革命の精神が、根強く中南米各地の革命に受け継がれていることがわかる。つづく

(注1) 「チワワ滞在中に、リードはアメリカ人の経営する鉱山に行き、そこで以前に見たこともない貧しいメキシコ人労働者を見た。熟練工はみなアメリカ人で、度々起こるメキシコ人労働者のストライキを力で押えているということであった。リードは、その場を去る際に支配人から「アメリカ人の干渉を批判するようなことを書いたら、お前も生かしてほおかんぞ」とおどされたのであった」   『反乱するメキシコ』草間秀三郎・解説

(注2) 「皆さんのなかで、七月二六日にシエラ・マエストラへ行ったことのある人は、まったく知られていない二つのことを目撃したはずだ。オリエンテ州の、つるはしと棒きれで武装した軍、革命記念日には精一杯の誇りを持って、つるはしと棒きれを構えて行進に参加する軍、その一方で、銃を構えて行進する民兵の同志たち。」←クリック                                ゲバラ 1960年 公衆衛生省研修所での演説


子どもを学校に合わすのではなく、学校を子どもに合わせる

子どもを学校に合わすのではなく、学校を子どもに合わせる。
summerhillの授業、左奥の白髪老人がAlexander Sutherland Neil
 「ソ連は教育上の自由、自治、創造を、大々的に振りかざして出発した。だがその後しだいに変化してきた。政府は次のような意味のことを言った。「これは大そうけっこうである。しかしわれわれは社会主義文明の建設を急いでいる。われわれは熟練した労働者、すなわち技師、教師、医師、支配人等々を必要とする。われわれは暇にあかして完全な自由を発展させることはできない・・・これはソ連がソ連の新制度を打破しょうとする多数の敵に取りまかれている結果であると、ソ連の支持者は考えようとする」ニイル著作集4                     
  「すべての理性的存在者は、自分や他人を単に手段として扱ってはならず、つねに同時に目的自体として扱わねばならない」カント
 人は、他と引き換えがきかない、序列化出来ない。つまり尊厳性がある。カントの定言命法を、軽々しくも社会的要請が退ける。確かに人類的社会的と言える要請が、個人を命を賭しての行動に駆り立てることがある。しかしそれは、個人の決意によるものでなれればならない、絶対に。
 社会が、会社に、クラスに、班になってゆく。集団がどんなに小さくなっても、個人は集団に寄与することを求められる。「個人主義」が組合でも教研でも否定的に語られ続けたのはそのためだ。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉は、みんなの「尊厳」を個人の「尊厳」の集合としてしまった。1個人の尊厳+1個人の尊厳=2個人の尊厳ではない。全員の尊厳-1個人の尊厳=ゼロなのだ、全員が一人であろうと1万人であろうと変わらない。
 自由が、あきるほどの暇があって漸く実現するものであれば、それは永遠に特権者の奇貨としておかれ続ける。
 
 70年代都立高校で、服装規制が「基本的生活習慣」の確立を旗印に流行り始めた。これを主導する教員の多くが、自らを「民主的」と強く自認していた。しかしその中身は、多数決による管理強化にすぎなかった。 
 「外見の自由は基本的人権であり、特定の高校に属することを理由に奪うことは出来ない、名門校や難関校だけが自由服となれば、服装が特権になるのではないか」大学を出て間もない僕は、彼らに噛み付いた。
 「今の基本的生活習慣の乱れは目に余る、何らかの規制がなければ秩序が保てない。緊急避難だ」という反論が直ぐにあった。大学で共に活動した仲間にも同じことを言い出す者があり、中にはこともあろうに「特別権力関係論」を言い出すものまであった。とても正気の沙汰とは思えなかった。
 事実全国的に高校が荒れはじめ、特に工業高校の荒廃の凄まじさが、マスコミを賑わさない日は希だった。工高に就職してまもなく退職する若い教師も少なくなかった。青少年の「荒れ」の現象の目まぐるしさに惑わされて、その実態や本質をつかめない不安が、教師の中にあった。「基本的生活習慣」という言葉が、すべてを説明し混迷極まる事態を解決する万能の呪いのように思えたのだ。
 「基本的生活習慣」と言う漠然としたものが、なぜ服装で身に付くのか。何一つ自力で具体的に思考したものではなかった。
 「学校が毅然として一致して生徒に迫るには、目に見える目安が必要、心の乱れは服装の乱れとして現れる」と支離滅裂なことを言う。ではいつ解除するのかと食い下がった。「4・5年」という。自由を奪われたまま卒業する生徒たちが続出するのではないかと切り返すと「 2・3年」と言った。
 こうして学校は、生徒の外見に気を取られ、授業の充実から逃避し始めた。教師の「実践レポート」から授業が目立って減り始めたのである。
 もうあれから40年にもなる。一体どこの学校が服装や頭髪などの規制を解除したのか。生徒の生活の乱れを規制しているつもりが、いつの間にか教師の内面を権力が規制しているのだ。

追記 工業高校がどこでも荒れていた訳ではない。この頃僕の勤務していた王子工高は、制服はなく生徒たちは私服であった。教師たちは定期的に校内で研究会を開き、授業と自治活動の改善に取り組んで、自由な「秩序」も保たれていた。それ故普通高校のベテラン教師までが、リベラルな職員集団と自由な生徒たちを実際に見て、自ら希望して転任してきていた。荒れている学校でもすべての生徒たちが荒れていたわけではないのだ。
  子どもを学校に合わすのではなく、学校を子どもに合わせる。ニイル

表現の不能・言論の不自由としてのヘイトスピーチ

僕にとって今年一番のnews は、「国際平和ビューロー」(IPB)が
2017年の平和賞を翁長知事ら「オール沖縄会議」に授与したことだ。

   暴走族は、誰に何を言いたいのだろうか、誰かを何かを憎んでいるのだろうか。ホームレスを襲う中学生はどうか。
 彼らの言葉を聞き・表現を受け止めるのは大人の義務であることを「子どもの権利条約」は宣言した。にもかかわらず世間は「非行少年」を厄介者扱いし厳罰を求め続ける、明らかに憎悪している。
 若者を日々抑圧疎外している面白くない現象、例えば親の失業・貧困、些細なことでの退学処分、居たたまれない選別の状況(近所や同級生・親戚の憎悪の眼差し・・・)は悪化するばかり。彼らのイライラ不安は募る。だが、それを言い当てる言葉を発見できない。現象の中に実態を掴み言語化することが出来ない。怒りや不安をぶつけるべき対象さえ見えない。たとえ言葉をぶつけるべき相手を前にしても、それを伝えることが出来ない。
 出来ないよう、学校も報道機関も行政も事柄の現象だけを扇情的に追う。カリキュラムがそう構成されている。少年たちは、正体不明の大きな力に取り囲まれ、しかも憎まれている。少年たちは、その不安・憤懣・恐怖を払拭するために、社会的弱者・周辺の人々に殊更攻撃的になるか、沈黙する。なぜなら、彼ら「社会的弱者・周辺の人々」こそが、少年達の未来を暗示して、少年達が最も意識したくない存在であるからだ。
 「私たちは、彼ら「社会的弱者・周辺の人々」ではない。なぜならその証拠に奴らを憎んで攻撃しているからだ。見てくれ、攻撃しているぞ」、という訳だ。でなければ無関心であろうと努める。無関心も深い闇を形成する。本来なら言葉を共有して、共通の相手に立ち向かうべき仲間を攻撃する。学校で家庭で職場で態度や外見をとやかく言われるたびに、自分に注目する華々しい場面や行為に走る。ヘイトスピーチの若者達は、こうして育てられ集う。
 ここにあるのは表現の不能であり、言論の不自由である。支配する側には、堪らなく「おいしい」光景である。それ故政府はヘイトスピーチを、表現の自由を持ち出して放置・擁護する。これが「遅れた」「反日」国家に向けられて、「愛国」意識を募らせ、平和への反感と戦力の誇示による大国意識を醸成することになる。この時日本を植民地のように隷従させている国への視線は、靴を舐めるような卑屈さに彩られる。闘う言葉の教育は焦眉の急務。言論の不自由の中に青年を隔離し続けてはならない。
 闘うとは、まずは知ろうとすること。既存社会に適応させる為に叱咤し「そんなことでは駄目だ」と恐怖させるのではない。
 就活へのアドバイスはもういい説教は聞き飽きた、仕事自体を求めて彼らと街へ出て歩き交渉しよう。言論の不自由に、大胆に駆け寄って言い分を引き出し聞こう。
 不正に「成功」した勝ち組の戯れ言に立ち向かい批判抵抗する言葉を青年が獲得すること、それは当面は身近な親や教師への怒りとして表出するかも知れない。彼らの言葉を聞き共に歩くことをしなかった大人への正当な怒りである。

 「彼ら」が憎しみに満ちて破壊的衝動に駆られるのは、世界から学校から家庭から職場から受け入れられず評価されず立ってさえいられないからである。だから破壊的憎悪の集団が、彼を取り込む。唯一の居場所となっている。
 我々は彼らを受け入れるに、根拠をを求めてはならない。例えば成績や行いがよくなったら、権威ある人物のお墨付きが出たら、・・・等という前提一切なしに受け入れねばならない。そうでなければ「社会参加」はあり得ない。
 自己が対象を定義するから主体的であり得る、対象が自己を決定してしまえば参加は義務と化す。今、学校の地域の企業の行政の「参加」は義務である。戦争という忌まわしい国家犯罪を、参加と呼ばせるのだ。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...