『発端に抵抗せよ』

信仰と無縁の風は、倦むことを知らない
 風の強い峠に経典を刷ったタルチョをはためかせれば、その数だけお経を唱えたことになる。マニ車に手を触れて回せばお経一巻を読んだことになる。なんたる手抜きの信心。かと思えば、五体投地でカイラス山一週の旅を一家を挙げて行う、なんたる苦行であることか。
 
開店はるか前のパチンコ屋に早朝からの整然たる行列して一日呆けて遊ぶ、彼らは怠け者なのか勤勉なのか。日本中に一体どれだけの人間がパチンコ屋の前に寒風をついて並ぶのか。
 元旦に天皇一家を見ようと集まった15万人は、天皇を敬愛しているのか、珍奇なものを見たい一心だったのか。もし敬愛しているのなら、天皇が沖縄の戦跡に足を運び頭を垂れたとき、彼らは何故大挙して行動を共にしょうとしなかったのか。

 共通していることがある。皆がやっているからと、自力で思考判断しないで済むことだ、判断は恐怖を伴う。世間や掟に従って目を瞑る。世間や掟とは多数派である、安心だ。安逸を貪ることが出来る。方向さえ見定めず、流され、長いものには巻かれろ。それを日本の政権は建国以来いつも推奨してきた。挙げ句の果てが、原野や雨林で飢え死にして原爆二発。

 どこであれ何であれ行列があれば生真面目に並び、メダルやタイトルを獲得した選手を見るために押し寄せる。彼らは何をしているのか。押し寄せ並ぶ自分自身を確認しているのではないか。多数派であることの心地よい安心感と興奮に浸る。激して涙し絶叫することもある。安逸とはそういうことである。
 
 多数など実在しない。
多数に属することが、何故快感なのか疑った方がいい。フジTVに「どっちでしょう」というゲーム番組があった。「朝食はパン派?ご飯派?」など他愛無い問いに応じて分かれる。分かれて多数派になった側だけが残り、少数派は失格する。初めは60人対40人程度に分かれていたのが、最終的には2対1に絞り込まれる。多数派を選び続けるといつの間にか少数になるという逆説がある。誰も何かがどこかが少数派なのだ。個々の事案では少数者である者の束が多数であるに過ぎない。

 「『発端に抵抗せよ』と『終末を考慮せよ』というあの一対の有名な格言を私は何度も考えてきました。でも、発端に抵抗するためには、それが発端だとわかるためには、終末が見越せなければならないのです。…ニーメラー牧師は、(御自分についてはあまりにも謙虚に)何千何万という私たちのような人間を代弁して、こう語られました。ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた、と」『彼らは自由だと思っていた』(ミルトン・マイヤー 未来社)     ニーメラー牧師は第一次大戦ではUボート艦長であった。ヒトラーが教会を攻撃すると牧師緊急同盟をつくり抵抗。逮捕され強制収容所に終戦まで収容された
  「発端に抵抗せよ」とは、tvゲーム「どっちでしょう」程度の軽い乗りのふざけであっても、排他的意図を見極めて疑い抗うことである。
 戦後の説教で
ニーメラー牧師はこう発言している。
  「私には罪がある。なぜなら私は1933年になっても、ヒトラーに投票したし、また正式な裁判なしに多くの共産党員が逮捕され投獄された時にも、沈黙を守っていました。そうです。私は強制収容所においても罪を犯しました。なぜなら、多くの人が火葬場にひきずられて行った時、私は抗議の声をあげませんでした」

 制服導入への抵抗をためらう教員は少なくない。反対するのは臍曲がりの万年少数派だけだし、生徒の利益にもなると自分に言い聞かせてしまう。導入した以上
毅然と検査もしたくなる。服装を揃えても偏差値が上がらずかえって下がれば、髪型や茶髪にも目が行く。生徒の手前今更反対は言えない。職場の和を乱す少数派に転落するのは怖い。少数派には様々な不利益があり、それが多数派への傾斜を強化する。気が付いた時、理不尽な暴力を振るう教師の側で何も出来ない自分に気が付く。ついに傷害事件が起こりマスコミ沙汰になり箝口令が敷かれる。体罰も同じ経過を辿る。どんどん深みにはまる。自己を偽り多数派に近づき支払ったものは余りに多い、多くを支払ったことを考えれば現状を擁護する羽目になる。だつて臍曲がりどもは、いつの間にか職場から消えている。  『終末を考慮せよ』

Best teacher of the year

投獄された教師を返せと押しかけた児童や父母があった
 Best teacher of the yearを選ぶ習慣が欧米の大学や高校にある。小学校や中学校にさえある。その年の卒業生が、最も「優れた教師」をたたえる。学校に於ける主権者は誰なのかを象徴する光景である。
 いくら主権者教育と力んでも、式では皆勤賞や優等賞など学校や行政側の視点だけで生徒を褒める場面が続く日本だ。主権者や主人公に相応しい場面は絶無に近い。
 

 自治体の中にも教育委員会が「best teacher of the year」賞を設けているところがある。教委が選ぶこと自身が不快であるが、その選定の基準の中にいい教師を育てた教師という項目があって暗い気持ちになる。つまり子どもや授業が好きであるとという条件を外して管理職も対象にしている。それがどうしてbest 「teacher」たり得るのか。
   新聞社が主催するものもある。先ず教師が自己推薦して、その中から校長会が審査選定する。自分の授業を自分で褒める神経は戴けない。仮令そう思っていても胸にしまうのがいい。式などでことある毎に古典の引用をしたがる管理職だ、「剛毅木訥仁に近し」を知らぬか。授業も生徒も苦手な教師の逃げ場としての管理職に救いを求め、「行政の末端」自認し胸を張る者がいい教師を選ぶとは噴飯ものである。新聞社も詰まらぬことを続けるものだ。こんなことで取材情報源を確保するから碌な記事が書けない。
 

 藤野厳九郎は、仙台医専が帝大医学部に昇格すると辞任、故郷で開業した。魯迅は革命成就に立ち会えなかったが、革命後北京医大が藤野先生を教授として招こうとしたことがある。断っている、それでよかったのだと思う。お陰で魯迅も藤野先生も双方の国で敬愛され続けている。教師の消え方には美学がある。

 あるとき、生徒が廊下で僕を捕まえて「先生の授業、逆らって噛み付きたくなる、イライラするの」とえらい剣幕だ。

 「でも逆らえないのよね。言い出す言葉が見つからない。もう腹が立つ」という。
 「楽しそうに言うね」
 「そう、そうなの、このイライラが楽しいの、アハハ」と手を振りながら廊下を駆けて行った。

 敗戦直後の旧制中学生も、このような「腹の立つ噛み付きたくなる」ような気分の中で既成概念を解体したのではないだろうか。

 ある生徒は「先生の授業はいつもチャイムで突然終わる、中途半端で落ち着かない」と答案用紙の裏に書いていた。聞けば
 「普通、話には起承転結があるでしょう。先生の話は起の次にいきなり転が続いて結なしに突然終わったり、突然転から始まってそのまま切れたりする、落ち着かないんだ。どうなるんだどうなるんだって。イライラしたりモヤモヤしたりする」
  「困ったな、起承転結付けた方がいいかな」
 「駄目、駄目、中途半端なモヤモヤのお陰で次が待ち遠しくなる。授業が始まるとホッとするんだから」
  「まるで紙芝居だな」・・・紙芝居作家はそれを営業上やむを得ず意図したのだが、僕の場合はいつの間にかそうなってしまう。美的でない、腹が立って当たり前だ。

  つくづく、面白く難しいものだと思う。
高校生らしさを感じる瞬間である。中学生や大学生ではこうはならない。高校生には僕の授業の欠陥を、自力で埋めようとする意地がある。説明のつかない不安を楽しむ大胆な逞しさがみえる。中学生は、その逞しさが未だ芽ばえず、大学生のそれは枯れかかっている。
 我々の高校生はどんな教師をbest teacher of the yearに選ぶだろうか。教育のために献身し追放された先生を選び讃える覚悟が芽生えるだろうか。

 時代の空気も土壌も、少年たちに覚悟の芽が出るのを許さない。
   1933年の二・四事件では長野県だけで600名余りが検挙された、容疑は治安維持法違反。うち教師が230名、「教員赤化事件」とも呼ばれた。その多くが自由主義教育を掲げる優れた教師で、子どもや保護者たちかの信頼は厚かった。先生をを慕う生徒たちは「同盟休校」し、警察に先生の解放を要求する動きもあった。長野でも東北でも沖縄でも、Best teacherは真っ先に暗い時代の抵抗者となった。

いい授業とは何か Ⅱ

藤野先生は自分の授業をどう考えていただろうか
 選挙はそれまでの政治活動が評価される機会である。だから候補者が駅前に立って「○◇です、よろしくお願いします」という初対面的挨拶は、「何の政治活動もしませんでした」と白状しているに等しい。いい選挙活動とは言い難い。投票日に車を動員して支持者の投票を組織する宗教団体さえある。往生際が悪い。
 投票する側もされる側も、普段の政治活動を盛んにして、選挙期間は静かに日頃の活動を反省考察したい。
 卒業は、もう学ぶことはないことを自他ともに確認した瞬間唐突に訪れる。その個別の瞬間を、同じ時に括る「式」は無茶で無意味である。学びの足りない者も、とっくに超えた者も一括りにして涙で誤魔化す。。
 満腹も個別的である。一斉に満腹するはずがないのに、揃えたがる。死ぬのは更に個別的であらねばならぬ。しかし死までも揃えたがっている。高齢者の終末医療は打ち切れと言い出した者がある。終活の行き着く先は、一斉終末を告げる儀式だろうか。揃えられないものを、効率やケジメという呪いに惑わされ儀式で時期を揃えようとする、絶滅収容所が我々の日常に侵入しているのだ。揃えてはならぬもの、揃える必要のないものは放置する覚悟が必要になっている。

 卒業式は、同窓会と同じように虚像に過ぎない。どちらにとっても、蓄えられた知識や交友が実像である。結婚式は結婚生活に先立って作られる拡大された虚像であり、その虚像に合わせて実生活が営まれる。虚像がきらびやかな程、実生活との裂け目は大きく破綻する。虚像を結ばせるレンズや凹面鏡にあたるのが、仕来りや世間であり既に企業化が極まっている。現実は虚像に追いつかない。

 授業にとって、実像は未来にある。突然あるいは緩やかに授業や教師の生き様が思い出されて、現実を変革したり解釈構想する武器になる時現れるのが実像である。
 魯迅の書斎には藤野先生の写真がかけてあった。「
仕事に倦んで怠けたくなるとき、仰いで灯火の中に、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び正人君子の連中に深く憎まれる文字を書き続けるのである」と言う具合だ。
 行動を促した言葉が、誰の教えであったか全く意識に上らないことも多い。我々が教壇で行うのは、未来の実像=成果を目指して虚像を見せる悲しい作業である。授業が思い出されたとき、我々はとっくに惚けたり死んだりしているのだから。
 藤野先生は、自分の授業をどう思っていただろうか。先生の肖像が
、北京の書斎で魯迅の勇気を奮い起こしているとき、藤野先生はそのことを知る由もなかった。我々は、「正人君子の連中に深く憎まれる」ことで歴史の中の実像に近づきたい。 

常に両側に立って考える公平性

イラク戦争報告に英国は260万字、日本はA44枚
 小型船の片側に乗客が集中すれば、少しの揺れが転覆を引き起こす。そんな危険に直面したとき、我々がなすべきことは、「皆さん、このままでは転覆します。真ん中に重心を移しましょう」などと悠長に語ることではない。先ず自身が咄嗟に反対側へ走ることである。珍しい現象や鯨に見とれている間に、反対側の人が消えたことに気付いて危険を察知・行動するのが「常に両側に立って考えてみる」ことである。

  「片側にだけ立って考えるのではなく、常に両側に立って考えてみる公平さ」寺山修司の視点から言えば、ディベートは現象の両面に広がる実態を見ずに断定する訓練であり、世界を対立と憎悪そして破壊に導く企てである。別の側に立って考えてみることこそ「教養」。
 反知性主義の本場アメリカでディベートが盛んであることは、殺戮が彼等の日常であることに結晶している。ディベートはゲームであるとの言い逃れがあるが、まさしくアメリカ海兵隊にとって殺人はゲームであり、他国の経済的破綻は国際金融独占=ファンドにとってゲームにすぎない。彼等は決して辺野古からものを考えることはない。 
 
 「手紙かメールか」を巡って小学生がディベートをした。ある少女が手紙側に割り振られた。「手紙は切手も封筒も便箋も無駄です」というメール側に反論して「あなたは、人から貰った手紙は捨てるのですか、私は大切にとっておきます」と反論した。そこで担任が思わず「鋭い」と呟いたという。この話は少女の祖母が可愛い孫娘の挿話として投書したもの。mailをとっておく人もあれば、手紙を捨てる人もある。手紙とmail は使い分ければよいものであって、対立するものではない。それをわざわざ言い争いの種にする浅はかさに呆れる。 

 「生徒に人権など認めていたら秩序が無くなる」と学生までが言う。彼らが教員になれば、職員室で生徒をバカにすることになる。尊厳を生徒に認めないばかりか、自分の尊厳にすら気付かない。
 若者が置かれた状況に怒り悲しみを覚えるのでは無く、いち早く管理する側と一体化し「尊厳などと甘ったれたこと」を言う者を見下すことで、ある種の優位を尊厳の代替にしているのではないだろうか。そんな不遜な教師が良き同僚と優しき生徒に恵まれて、生徒の尊厳に目覚めるのを僕はいくらかf

見てきた。しかし今の職場状況では、逆はあり得るが、尊厳に目覚めることは期待できない気がしている。
 慶応の医学部では、患者の尊厳を認めるのに些かでも躊躇いのある学生が専門課程に進学しないよう高い敷居を設けていると聞いた。

   自由の森学園の新任教師採用方法も、教職に適していない者を発見する優れた方法だと思う。採用の最終段階を、授業を受けた生徒に委ねる。ある教科新任募集ではなかなか生徒の信任が得られず、数年間定員が満たせなかったという。教職に適していない者に、転職を促すことは双方の尊厳を守る。教育実習の重要な機能でもある、たった二週間では無理、お互いにお客気分のまま終わる。

 人権を否定する権力者を仮想の相手に、または教師が敢えて人権を否定する側を演じ、生徒は全て尊厳を要求し守る立場に立たせる演習を考えるべきだと思う。皆が教師を説得し、やっつけるのだ。全ての生徒の人権意識を逞しく育てる、憲法はそれを教師に要請している。立憲主義下の公的機関は、憲法の理念を実現することを期待されているのであって、平均としての中立を要請されているわけではない。
 だが現実のディベートでは、生徒を二つに分かって対立を演じさせ、教師は全能の神のように評価だけをになう。生徒は、例えば人権について肯定する側と否定する側が無条件に並列するのが「無色中立」であると捉えることになる。
立憲主義を奉じる教師が、ディベートの見かけの公平中立性に幻惑されて、それを嬉々としてやるから混乱する。

 人権を嫌う政権与党議員が、ディベート的訓練に参加して辺野古側や反原発側から立論する。検察官や警察官が代用監獄制度反対や自白無効の立場に立ち、講評は冤罪被害者が厳しく行い不合格者を任官させない。学校管理職が管理主義反対の立場から討論に参加する。大企業幹部がスト権肯定の立論を試みる。立場上片側からの視点からしかものを見ない職業に就く者たちに、こうした訓練を施す制度が日本には不可欠だと思う。


 イラク戦争開戦から14年、イギリスの参戦経緯と戦後処理を検証した独立調査委員会が発表した報告書(2016)は、ブレア元首相の判断を誤りと断罪している。
 
調査委員会は約2年にわたり約150人の関係者を喚問、260万字にわたる報告書をまとめている。報告書は正確な証拠と緻密な論証で、ブレア政権の大量破壊兵器をめぐるリポートは根拠がなかったと断定。イラクで死亡したイギリス人約200人にも言及。更に、戦争とその後の混乱で死亡した15万人(英国の「Iraq Body Count」によれば、約26万8000人)のイラク人についても21世紀の外交政策の悲劇として記憶されるだろうと述べている。
 報告書は、最重要機密文書の多くも機密解除している。ブレアからブッシュに送られた30通のメモ、覚書、そしてe-mail が公になった。

 対して日本の外務省は、A4用紙4枚のreportを公開しただけである、雲泥の差とはこのことだ。我々日本国民の船としての政府は、片側に重心を置きすぎるばかりか、そもそも現象すら見ていない。

武器を買ったから敵を探そう、いなければ作ろう

 左の写真は、若松機関区で写生をする小学生。女子二人は早速腰を下ろして筆を動かしている。二人の男子は機関車に圧倒されっ放しで落ち着かない。右端の子はスケッチに来たことすら忘れて、画板を頭に乗せてしまっている。
 写生を終えて教室に戻ったとき、女子は完成した作品を出すだろう。男子は長い観察の挙げ句、例えば連結器をようやくかたどっただけかもしれない。ひょっとすると描きたい物が絞れずに白紙だったかもしれない。担任は雷を落とす。


 だがゴッホが、変化して止まない色と光に圧倒されなければ、「星月夜」は生まれない。ゴッホ自体が生まれない。写生とは対象をありのままに写し取ることだ。大きな貨物船や列車の行き交う工業都市若松の子どもであっても、目まぐるしく動く機関区には圧倒される。長距離の牽引から帰ったばかりの機関誌も、火を入れて出発の準備を始めた機関車も、火を落として釜を掃除中の機関車も、給水中の機関車も、機関誌と機関助手や整備士とともに様々に行き交っている。全体を把握するには半日では足りない。興奮状態は夜になっても続き、早起きして早朝の機関区を見に行ってしまう。お陰で遅刻して居眠りして又叱られる。 
 学校は教師の意図を越える動きを喜ばない。指示通りに動くことを求める。

 ある年、二年生が文化祭である企画をした。既存の商品を組み合わせ加工して販売した。1日目の午前中に売り切れてしまった。評判を聞きつけてやってきた小学生が、がっかりして帰って行くのをみて直ちに追加することを生徒たちは決定。担任は怪我で入院中だった。独断で仕入れて加工して再び販売し始めた。又なくなりそうになってきたが、文化祭本部が「企画書にないことをやつてはいけない」と官僚的に即時中止通告、文化祭担当教師も怒った。
 「どれだけの量を準備すれば良いか、計画出来なかったのがいけない」というわけだ。デパートでも自動車会社でも「想定外」は常にあって追加生産・販売する。計画経済が破綻したわけである。

 政府も「想定外」を乱発して追加予算を決めてしまう。経験の乏しい生徒たちだけに、企画書どおりの計画経済が強制される。逆転している。

 昭和天皇は、出来たばかりの日本国憲法99条にあからさまに違反して国事行為を断行。「天皇メッセージ」をマッカーサーに送り自分の地位と沖縄の基地化の交換を懇願した。にもかかわらず天皇制と基地は続いている。
 原発の重大極まる地球規模の「想定外」事故はいとも簡単に許され、被災者の苦難は「自己責任」と言わんばかりに放置される。
 高校生が文化祭で、僅かばかりの見込み違いをすれば居丈高に「中止」が通告されるのだ。

 教師や大人の浅薄な意図を越えるから、少年は成長する。大人の意図通りの青少年だらけにになった社会は
、衰退し破滅する。

 「肖像画にまちがって髭をかいたので、ほんとに髭をはやすことにした。門番を雇ってしまったので、あとから門をつくることにした。
 本質が存在に先行しているのが「学校」の実体です。「本質」にあわせて、無定型の若者たちを、型に押し込めようとしているのです
」              寺山修司


 武器を買ったから敵を探そう、いなければ作ろう。まさに日本はその最中。駅で手荷物検査する構想が始まった。テロを未然に防ぐとの触れ込みだが、テロを誘発するものでしかないことに気付く必要がある。それが「片側にだけ立って考えるのではなく、常に両側に立って考えてみる公平さ」である。政治・経済や現代社会の教材にいい。

 
 

不定期、日程時程なし、総括なし / 予定表からの解放 / 同人誌『山脈』の世界

集会は会議室でなくてもやれる、いつでもどこでも
   日本各地に散らばる教師が、不定期刊行に徹した同人誌『山脈』に集ったことがある。主催したのは白鳥邦夫。旨いものが採れる季節になれば、酒持参しての集会を呼びかけた。

 多様で厄介な生徒たちを相手に、七転八倒しながら授業した記録(どんなに短くてもいい)を、持参することを条件にする研究会をやりたい。研究者編集者の類いが参加を希望すれば、彼らにも
にも七転八倒の実践報告を求める。
 田舎屋敷の一室に車座になり、司会も置かず人が集まれば自然に始まる。時程や日程がなければ不安という脅迫観念から先ず自由になる必要がある。参加者が多くなったら、庭や浜に分散して話を続ける。時間無制限。
 宿の手配も、床を延べるのも、食事の支度も自分でやる。掃除も片付けも。
  議論を滑らかにするために酒はいい、手作りの菓子や茶受けも歓迎する。酔っ払ったら迷惑、自ら退場する。分散会の交流は昼休みや、夕食後に自然に開かれるだろう。討論が終わらないところもあるだろう。近所の農夫や子どもが覗き込むようになればしめたもの。
 まとめや総括の類いはない、終わった途端の総括に碌なものはない。ひとり一人が話し合いの中身を咀嚼し、胸に刻むことが重要なのだ。数ヶ月して自分なりの総括が出来たら、不定期刊行の雑誌に送る。そうすることで、自他の違いが際立つだろう。それが、又あの人たちと語り合いたいという気持ちに繋がる。
 こうした会は、絶対不定期でなければ成立しない。最初の言い出しっぺは必要だが、次からは誰かが言い出すのを待つ。自然消滅も悪くない、継続は力などという呪文に縛られていては、国家の消滅も展望できない。組織は発展継続するだけではない、生成と消滅を繰り返すことも多い。生成と消滅の間には発展も停滞もある。停滞は腐敗さえなければ安定でもある。

 表現企画したいという少年たちの意欲を、一斉の日程に合わせることなどそもそも無理な話ではないか。文化祭や体育祭は、少年たちの表現を組織するのではなく、組織のスケジュール表に少年たちの成長を閉じ込める。

 戦前戦中の体験に懲りて、青少年の成長を組織の都合や利益に合わせるのはいい加減にしたのではなかったか。
 先ず教員自身が、スケジュールから自由に行動する必要がある。その自由を模索する少数の教師が、七転八倒している筈である。それが見えてこない、余程少数なのか。


   であれば、学校の日程や教師の管理から自由になることを青少年が恐れず実行することが先だ。自由は君の目の前にある、それを君が掴めないのは管理が厳しいからではない。君が臆病だからだ。教師は君より臆病なのだ、君たちが彼らを解放するのだ。

疑うことを知らず、それを教えてくれる人もいなかった

戦時下、中学生の身長は6㎝縮んだ。勝てるわけがない
 「わたし(結城昌治)が生まれたのは昭和二年(1927)です。昭和六年に満州事変が始まって、それが日本や侵略戦争の初めだったと思いますが、このとき、ぼくは四歳だったわけです。それから昭和十二年に支那事変が始まって、支那事変はいま日中戦争とよばれておりますが、そのときは小学生です。それから昭和十六年に真珠湾攻撃、これが太平洋戦争の勃発でしたけれども」中学二年生のときで、まだ世の中のことはわからなかった。
 その間の教育というものは、いわゆる軍国主義教育で、滅私奉公とか尽忠報国、皇軍不敗というようなことで、国のために、天皇陛下のために死ぬのが、即ち生きるごとであると…・‥死ぬことが生きることであるというのは、いまの若い人たちにはわからないかも知れませんが、ぼくだって本当にわかってたわけではないけれども、そんなように納得したところがありまして、頭からそう教育されてきました。それは太平洋戦争が始まってからも同じで、わたしが入学したのは、東京・高輪の泉岳寺の隣りにある、あまり出来のよくないのが入る中学で、校長はえらそうなひげを生やした退役の陸軍大佐で、、もちろんばりばりの軍国主義者でした。年中、国のために死ね、天皇陛下のために死ねといわれつづけてきたんです。また、わたしの周囲を見まわしても、それに反対する意見というものはまったく耳に入ってきませんでした。・・・字引をひいても、基本的人権などという言葉はないし・・・デモクラシーのデの字も耳にしたことはありません。・・・いわゆる神州不滅ということ、皇国日本という教育だけをうけて、疑うということを知らなかったし、疑うことを教えてくれる人もいなかったんです
」    (日本戦没学生記念会講演「英霊もしくは死せる虫たち」1972年)

 結城昌治は、死に場所を求めるように特別幹部練習生を志願。朝から晩まで「大東亜戦争勝ち抜き棒」を振り回す下士官に殴られた挙げ句肺病で除隊。敗戦時18歳の彼は、「殆ど無知に近」い状態で焼け野原に投げ出される。


 少年や若者たちの現在と結城昌治らの青春が、瓜二つに見えてならない。低賃金とパワハラの末に過労死に追い込まれながら、対米従属のサムライジャパン精神に酔い疑うことを知らない。日本経済不滅を信じて近隣諸国への蔑視に身を委ね、労働三権や基本的人権に背を向けるのだ。全てが大きな破綻に向かって、抵抗するどころか加担して破綻を糊塗している。

   まるで現実を忘れるために、土日も正月もなく「部活」にのめり込む高校生の姿は、軍国主義教育下の結城昌治とどこが違うのだろうか。スマホを持っていることか。
 だがスマホは少年たちを些かも解放しない。スマホから目を離すと何か大事なことを見逃すのではないかという脅迫観念が、青春を組織に縛り付け個人としての判断を奪っている。

 八王子の女子中学生が、夏休み中の家族旅行を上級生のSNSで咎められ虐めに発展、不登校と転校の末自殺した。
 元気で天気がいい時に休むのが、休暇である。辺野古の座り込みや国会前集会に学校を休んで参加するのは、主権者の権利である。病気で休むのは病欠、悪天候や交通機関のストで休むのは事故欠 であり何ら問題ない。それをスマホは瞬時に奪う。決してsocial media ではない、社会的関係を断ち切る民営公安mediaなのだ。

 教師は、休むとは一体どんなことなのか考え教えているのか。咎めた生徒も自殺した生徒も、病気や怪我でもしない限り休むのはいけないと思い込んでいる。家族の誕生祝いのために早退したり休んだりを当たり前にするのが、文明化というものではないか。  戦中でもないのに、何故教師たちは辺野古の現実を授業で取り上げることに躊躇しているのか。若者の労働条件のために闘うことを何故ためらうのだ。自らも過労死の縁にあると言うのに。
 1980年代、僅か29分の職場集会にさえ「生徒に迷惑をかけない」といって逃げる風潮が拡大した。鉄道労働者のストライキを迷惑視する「良心的」教師も増えていた。

 一体「生徒に迷惑」とは何か。三年生の1/3から1/2が、来年には非正規労働に就かざるを得ない現実ではないのか。 「明日の朝練は中止」と告げて職場集会する理由を語ることを何故しなかったのか。組合員であること、闘うことは隠さねばならぬことなのか。

 結城昌治は地検保護課で働いていたとき、1952年の片面講和条約締結に伴う講和恩赦に関わり、外地の軍法会議判決を読む機会があった。「その軍法会議の記録を読んだときに、初めて軍隊というのはこんなひどいものだったのか、大変なところだったんだな、とびっくりしたんです。たとえば、小説に書きましたけれども、戦闘で傷を負って意識不明になって敵の捕虜になります。しかし、捕虜に.なってもなんとか脱走して原隊へ帰りたいと、スキをうかがって逃げてきた。その兵隊を、「お前は敵前逃亡である」といって死刑にしてしまう。そういう例がいくらもありましてしかも、罰せられているのはほとんど下士官か兵隊で、不思議に思ったのです。なぜ将校は軍法会議にかからないのか」

  「あの戦争にいちばん大きな責任がある者ほど、戦争が負けたのにたくきんもらっています。これはいったいどういうわけなのでしょうか。職業軍人というものは、たとえるなら戦争に負けたら会社が倒産したと同じで、恩給などもらえる義理じゃないはずです。会社が倒産すればその首脳部は、借金を背負って、家を売りとばしても返済しなければならない。ところが日本の場合は、国が負けたら率先して責任のある連中が軍人恩給をもらっています。多くの部下を死なせた当時の将官、佐官などがのうのうと年金をもらっています。一兵卒などほ雀の涙です」
 
 結城昌治も戦艦大和からの少年復員兵渡辺清←クリック も、「天皇陛下のために死ぬのが、即ち生きるごとである」と思い定める「殆ど無知に近い」18歳であった。結城は肺病に冒され四年間の入院生活を送り、渡辺は呆然自失して実家で農作業した。 二人が戦争犯罪について批判的に考えることが出来たのは、無為な日々のあればこそだ。暇がなければ、疑うことも出来ない。

 疑う者が、軍国主義にとって最も憎むべき敵=非国民であった。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...