名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ / 故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月
旧の木は生いや茂れる 枝はなお影をやなせる / 我もまた渚を枕 孤身の 浮寝の旅ぞ
実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂 / 海の日の沈むを見れば 激り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国に帰らん
1898年(明治31年)夏、柳田國男は伊良湖岬の浜で椰子の実を見た。その話を聞き藤村が詩にした。藤村は椰子に枝のないことを知らなかったのだろうか。柳田國男も藤村の詩を読んで変だなと思わなかったのだろうか。もっと気になるのは、日本中の小学校でこの歌を教えた多くの教師も疑問を持たなかったのだろうか。無知なのか無関心なのか。そうではない、自分自身の世界観に疑いを持つことを抑圧され、抑圧され続けた結果が無知と無関心なのである。
戦前戦中に教育を受けた人たちは共通して「私は米英の魔手からアジアを解放する日本の大義を疑うことさえ知らなかった」と言う。知らなかったのではない、知ることを抑圧され続けそれが抑圧であること自体を忘れたのである。この国家的妄想が南京大虐殺や従軍慰安婦強制連行を準備したのである。いまだに妄想を他人に指摘されると怒るひとは少なくない。南京大虐殺や強制連行はなかったと思い込んでいる時に、「それは妄想だ」と指摘すれば、ムキになって「反日だ」と声高になる。
我々は、教えられたこと、報道などから知ったことを疑う習慣を軍国主義教育から引き継いでいるのではないか。戦犯を自ら裁けなかっただけではなく、司法や教育を民主化することにおいて不徹底であった。敗戦と同時に、軍国主義は厳しく糾弾され息を潜めた。だが、第1回教育委員選挙は1949年実施されるが56年には早々と廃止され、教育公務員特例法や松川・下山・三鷹事件、朝鮮戦争特需によって、難なく息を吹き返してしまった。過去の過ちを繰り返さない為にどんな教育をなすべきか、教員や学者の議論にはなったが国民的な議論にはならなかった。まして全て和を「疑う」教育が推し進められることはなかった。様々な民主的教育が試みられたが、子どもにとっては教師を信じてひたすら記憶することに変わりはなかった。討論やディベートの授業でさえも、勝ち負けだけに拘り「真実の発見」に向かわないのである。
平等の原則のないところに福祉の概念は根を下ろさない
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| 我々は平等と画一を区別することを知らない |
「母親の席次を、クラスで付けることに賛成しますか。やるとしたら何を基準にしますか」と問いを投げ返しようやく収まった。
バイキングが南下して、フランスノルマンディーに植民したのは10世紀。911年にカロリング朝のシャルル3世は、バイキングのキリスト教化と臣従を謀り使者を送り「首領は誰か、何処にいる」と尋ねた。バイキングの返事は「そんな者はいない、俺たちはみんな同じだ」とこたえた。しかしフランスとバイキングの交渉はまとまり、バイキングはキリスト教に改宗し領地を受け取ることになった。しかし領地を受け取るには臣従の証として、王の足に口づけしなければならない。馬鹿らしくなったバイキングは、王の足を掴んで引っ繰り返してしまった。初代ノルマン公には、そんな話が伝えられている。これが北欧の民主主義の基礎をなす平等主義の源流だと言われる。
我々日本住民は、何故順位付けされたがるのか。何故平等を忌避するのか。公立高校の選別を煽る政治を報道も父兄も後押しする。週刊誌は毎年、高校別大学合格者を集計する。
希望する者だけが参加し、あらゆる特権を排するならば、競争による順位付けにも僅かな利点があるかも知れない。しかし公立学校の選抜は、教育を受ける権利を持つ国民全てが、避けては通れない関門である。管理や競争の好きな行政や教員の口癖に「そんなに嫌なら受験しなければ良かったのだ」がある。勘違いしてはいけない。知らなかった者には適応されないのを「人権」とは言わない。そこが何処であれ、それが誰であれ適用される概念で無ければ「人権」ではない。
偏差値依存とメダル至上主義と血統信仰は、服従の証であるという点で同一である。なぜなら、賞を与える側と受け取る側、そしてそれを眺めて賞賛拍手するの三者には絶対的落差があるからである。
ノーベル賞騒ぎや甲子園や芥川賞報道も、従属せずにはおれないこの民族の弱点を象徴している。相手が強ければ、どんな無理難題も進んで受け容れ従属し、弱いとみるや言語道断に服従を強いて睥睨する。
平等の原則のないところに福祉の概念は根を下ろさない。それは生活保護に対する国民意識と行政の態度に露骨に表れている。
デンマークのフレデリックⅦ世は戴冠式を廃止した。彼の在位中は、シュレスゥィヒとホルスタイン両州の帰属を巡る隣国ドイツとの危機の最中であった。彼はこの国難に力量を発揮せず凡庸であったと伝えられる。しかし危機の最中に、凡庸でないことほど迷惑なことはない。デンマーク未曾有の国難の意外な展開は「小国主義 1 内村鑑三『デンマルク国の話』抄」に記した。←click
日本の将軍や天皇にこうした気持ちを僅かでも持った者があったか。この国のあらゆる集団に「小天皇制」が蔓延り、人々はそれに憧れる始末だ。何故か、天皇や小天皇の地位を高める程にその周辺に群がる者の「権威」も高まる馬鹿げた効果があるからだ。個人の自立した精神や誇りを組織の名の下に置くことに何の羞恥心も湧き上がらないのは、我々が体の芯から奴隷根性に縛られている為である。
例えば、ある高校の偏差値が高くなれば、そこに通う生徒の「頭」や「精神」の何処が高まるのだろうか。日本の勤め人が企業のバッジやネームタグを付けたがるのは、企業の名にただ乗りを目論む怠惰が個人としての誇りを埋没させてしまうからに他ならない。
学年が僅かに違うだけで最敬礼し上級生を天皇・神様扱いて身の回りの世話や後片付けを「進んで」やることが、少年少女たちの美徳になっている。この国に平等の精神も民主主義は近づけない。
生活保護行政の冷酷さは、我々のこうした平等忌避の日常に根を張り勢いを増すばかり。我々の日常の隅々に「平等」の感覚が行き渡るのでなければ、行政は決して変わらない。教育において最も身近で深刻に平等を破壊抑圧しているものは、選別「体制」である、それが福祉行政学習の基礎でなければならない。
福祉行政を我々が授業で取り上げるとき、選別体制下の諸々の「反平等主義」に触れないわけにはゆかない。福祉行政をせめて世界水準にするためには、我々の身近な生活を覆い尽くす「反平等主義」的慣行や制度を血がでるほど刮ぎ落とす必要がある。小さなことで言えば、新天皇の即位に関する儀式を一切やめると同時に、企業の入社式や学校に於ける離着任式をやめる必要がある。これらを「カルト」だけに特有の馬鹿げた習わしにする決意が求められている。又、毎日の「起立・礼」をやめたい。
追記 画一が好きなら、何故報酬を画一化しないのか。税金は、貧富の差を無視して同一税率が画一的に適用される消費税を「公平」と支持する者が、収入には画一性を排除する。一貫性がない。その一貫性のない主張を支えるのが、偏差値による選別である。数字で序列化されたものに、誤魔化され易い。それに我が国民は子どもの頃から馴らされる。
学級が「home」 roomと呼ばれるのは何故か Ⅰ
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| 言葉は行動から生まれる |
全く口をきかず教室を飛び出し暴れ回る一人に一年以上手を焼き続けたが、彼はある日暴れ回る生徒と一緒に走り回ることにした。生徒が疲れれば、先生は子どもをリヤカーに乗せて校庭を走り回った。走り回ることがどんなに気持ちいいか初めて気が付いた。そうすると不思議なもので、手を焼くのが苦にならない。ある夕方下校する生徒を教室からボーッと眺めていると、件の生徒が突然振り向いて手を振ったのである。嬉しくて眠れなかった。次の朝その生徒は、教室を見上げ初めて口を開いた。「先生おはよー」と言ったのである。しかし、それからも厄介ごとは絶えず、ちっとも教室に落ち着かない。雪の日も校庭を一緒に走り回り、ようやく給食を落ち着いて食べるようになるのに更に一年。
この話をしてくれた教師は「お陰で気が長くなりましたよ、でももうあんなに走り回れません」と頭を掻いた。
学校が僅か一学期間の付け焼き刃や一週間の泥縄で「結果をみせ」ねばならぬ社会になり、実績を見せろと教師が教師を追いつめる。他の教師を追い詰めることが「成果」になるのだ。「結果」は紆余曲折の果てに出るものであって、一日や一週間で出せるものではない。
金融自由化以来、社会全体が短気になった。いじめも体罰もパワハラもそうした雰囲気が作り出す。生徒が動かないからと生徒部は鬼の目して、期限を細分化して成果を担任に迫って生徒を追い立てる。動かないことは、動けないことは犯罪なのか。
長年「底辺校」に勤め各種行事での熱血指導振りが報道で賞賛された教師が、学区一番の進学校に異動を命じられた。底辺校では梃子でも動かない生徒が、進学高では行事も学習も生徒が「勝手に」動く。彼は、突然手持ち無沙汰になった。することがなく詰まらない。妙なことではないか。それまで手を抜いていた教科の研究が忙しくない訳がない。彼は組合活動家でもあった、様々な職場を訪ね、話を聞く重要な任務もある。生徒が選別・分断・隔離される中で、どう闘えば良いのか。どんな教育条件が、あらゆる高校生を自主的にのびのびと活動させるのか。考え闘うことは山積みだったはずだ。
彼は梃子でも動かない生徒を、見事に動かし賞賛されることに生きがいを見出していた。黒子であるべき担任が主人公になってしまった。いつの間にか、生徒が彼の指示で動くこと自体に、喜びを感じていた。生徒が自主的に動くことではない。例えば合唱祭か近づけば6時間目が終わると同時に教室に鍵をかけ、逃げられないようにして合唱の練習をした。その「甲斐」あって合唱祭当日の「涙と感動」の場面は、多くのメディアが詰めかける名物にもなった。これは「奴隷的監禁」ではないか。指示し指示され、その結果にともに涙を流す爛れた関係を構築してしまった。結果さえ「涙の感動」であれば何をしても良いという思考停止の悪い癖が我々にはある。
僕は雨の学徒出陣を撮った映画を思い出した。当時日本中が涙を流しながらこの映画を見て、殺戮の地獄に突入したのだ。僕はこの「奴隷的監禁」の高校と同じ学区で担任をしていたが、文化祭の時クラスで「行事は強制ではない、嫌な者は自由に逃げてもいい。逃げる自由とは、逃げる者を批判せず、仲間という関係を壊さないとだ」と言わずにはおれなかった。進学校と底辺校の間に広がる「秩序」ある広大な闇、その闇に反乱しない生徒と教師をつくっているのが「偏差値」による選別体制なのだ。
生徒が動かないことが前提の養護学校では、担任も追いつめられることは少ない。追い詰めるのはいつも「ランキング」=勤務評定「計量化されて一目瞭然だから、逆らいにくく批判しにくい。
ランキングから外れた養護学校。だから一緒に走り回れた。学校の意図に沿う「涙と感動」を拒否する「底辺」の生徒の方が、実は自主的で知的なのだ。それを読めないから、教師が脳梗塞で倒れ、発狂する。情けない話だ。
学級がhome roomと呼ばれるのは何故か。homeとは盗んでも咎めらず、貢献を強制されず居るだけで喜ばれる領域。「戦場」に向けて出撃して獲物を持ち帰る基地ではない。学級=home roomはそういうものとして構想された、初めは。
「国家が各個人にしいている支配服従の縦の人間関係倫理にたいして、家はすくなくとも国家よりは各個人の人間性を大切にするという意味で横の人間関係の倫理の芽ばえをもっていたわけだが、これは普遍的な倫理の形にまで一般化されることがなかった。サークルは、家の中でなりたっている相互扶助をひろげて行く過程で、よこの倫理を自覚的につかむことができるようにする」鶴見俊輔
国家が、教委が、学校が「個人に強いている支配服従の縦の人間関係」であるのに対して、homeとしての学級は何をなし得るのか。学級担任としての職責は何か。
出世や受験などの成功を懇願する家庭─それはもはやhomeではない。仲間の成立を不可能にする労働─それは労働ではなく苦役。学校の部活、委員会、アルバイトも少年や青年の友情を絶望的なものにしている。進歩的な親や教師すら、部活は生徒学生の要求だと見なしている。宗教組織さえ、寄付や勧誘が「自主的」ノルマ化するのは何故か。人間は順位が決まらないと落ち着かない犬なのか。噛み付くことが習性の爬虫類なのか。甲殻類になって、いつも外敵に備えねば居ても立っても居られないのか。
教師は「個性」をもて、深い思想を示せ
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| 教師は個性も権威も放棄してコードに成る |
教師は先ず明確で優れた質をもった知識を伝達しなければならない。同時に、教師は「個性」をもち、深い思想を示さなければならない。そんな学生の声が記録されている。
「教師には存在感がなければならない。」
「講義は聴く者を考えさせるものでなければならない……あたかも瞑想でもするように……ノートがとれなくても問題ではない。」
「私は、自分の思想を伝え、経験を話してくれる先生が好きです……教師が自分の言っていることを実際に信じているという印象をもっています……教師には人をうっとりさせる魅力が必要です……そこに触れあいがあるのです。」
「まったくの学校的というのではなく、講演のような講義が必要です。」
「権威ある講義が必要です……つまり研究者である教師による、訴えるべきメッセージのある講義でなければならない。」
「明白でよく組織された講義。」
「本を朗読するだけの教師はいらない……教師の個性がはっきりと示されるべきだ。」
「エスプリをもった教師……。」
「明白でノートを取りやすい講義。」
ブルデュー『教師と学生のコミュニケーション』藤原書店
これらの声はフランスの大学生から集めたものだが、国籍と年齢を超えた普遍性がある。ここから我々は何を引き出すべきだろうか。
先ず言えるのは、彼らは、ディベートやアクチブラーニングなど目新しい技術や趣向に何ら期待していないことだ。
それにしても、これら全てを一人の教師が満たすことは出来ない。人は一芸に秀でることで精一杯である。多芸は貧芸や無芸になりかねない。だとすれば、様々な教師が必要だということではないか。
学校全体が単一の授業技術で武装すれば、技術は目立つが教師の特性は後退して影がなくなる。
ある授業技術の高名な指導者が、苛立ちを隠さず「学校中が足並みを揃えれば、全体の学力はもっと向上する」と言う。部分的に実施して大きな成果があるのだから、全校で取り組まねば、全市で取り組まねばならぬと参加に圧力を加える。足並みを揃えない教師を咎めたりの話も耳に入る。技術の未熟な教師が会議で叱られたりもする。
僕はルイセンコ学説の悲劇を思い出してやりきれなくなる。技術の未熟な教師というのは、他の授業に熟達したベテランのことだ。独自の方法を身につけているからこそ、新しい方法に馴染めない。それを叱るとは残忍である。長年にわたって蓄えた経験を殺す技術を文化とは呼べない。ひとり一人の特質を生かして豊かにするから単純な集合より集団化には意義がある、一人ひとりを圧殺して揃えるなら悪夢である。
単一の強情な技術思想に学校が染まれば、教師は個性も権威も放棄してただのコードと成る。短期的な成果のためには好都合と行政は見做すだろうが、コードが質を形成することはない。
時には相反するような様々な教師の様々な方法によって鍛錬されてこそ、少年たちの特性は、軽薄な大人たちの思い込みをこえる。どんなに優れた技術も、それが及ぶ範囲は知れたものであることを承知したいものだ。しかしそれが破壊する領域はその幾層倍も広い。技術の高度化はそうした隘路を絶対に克服できない。
単純な事実がある、それは技術開発や宣伝普及のために要する時間や労力のために、肝心の中身のために費やすべき努力が手薄になることだ。旅館の女将が客室を巡って挨拶するための華美な衣装や時間や費用が、客の宿泊滞在の快適さを損なうのと変わらない。その技術に自信があるなら、自然に広がるのを何故待てないのか。
僕は些か心配である。新郎新婦が結婚式で両親に贈る花束や出生時の体重と同じ重さの米で参列者の涙を誘う国柄だ。葬式や卒業式の稚拙な演出に感動する民族だ。授業の中身はそっちのけで「起立・礼」や髪型に神経を尖らす人間に、「授業の中身」と言って話が通じるだろうか。
結婚式の豪華さではなく困難な日常も互いに助け合える生活、死後の葬式の厳粛さではなく生きている間の人間味溢れる交流、お辞儀やネクタイの点検確認ではなく充実した中身の授業・・・そう言っても十分には通じないかも知れない。愛国心が君が代を歌う口の大きさで確認される時代なのだ、「充実した授業」をそろった服装やお辞儀で確認しかねない行政を我々は許している。 つづく
生徒は先生より先生ぶりたがる
都立S高は体育祭が名物で、nhkが番組を組んだこともある。生徒たちの自慢は大掛かりな応援合戦であった。次第に自慢の種はなくなってきていた。それでも推薦入試の面接で、体育祭見て受験を決めましたと見えすいた嘘をつく者も少なくなかった。入学後聞けば、中学生の時にS高の体育祭をわざわざ見に来た者は殆どいない。選択の最大の根拠はいつも偏差値、次いで服装の自由であった。
それでも巨大なマスコットを竹と紙でくみ上げ、応援合戦を繰り広げる。マスコット作りにも、応援の振り付けにも馬鹿馬鹿しく時間をかけていた。三年生が、一二年生を指導すると言えば体裁がつくが、実際はしごきであった。参加不参加は任意であるにもかかわらず、しごきしごかれる関係に志願する。しごく側の三年生は、バインダーを小脇に抱え竹刀片手にダミ声で威圧するのが常であった。中には白衣を引っかける者もあった。バインダーには練習開始と終了を書いた紙しか挟んでいない。空虚な中身を隠す道具としてのバインダー、白衣、竹刀、ダミ声、全て教師の真似。放課後グランドで部活の生徒を威圧する顧問の戯画であった。
「生徒は先生より先生ぶりたがる」と言ったのは市民運動家だった。バインダーとダミ声が教師らしさとは、教師の権威も落ちたものである。しかし生徒から見て実態はそうなのだ。
「講義は聴く者を考えさせるものでなければならない……あたかも瞑想でもするように……ノートがとれなくても問題ではない」
「私は、自分の思想を伝え、経験を話してくれる先生が好きです……教師が自分の言っていることを実際に信じているという印象をもっています・・・教師には人をうっとりさせる魅力が必要です・・・そこに触れあいがあるのです」
ブルデュー『教師と学生のコミュニケーション』藤原書店
こうした学生の期待に応える努力を怠り、教委の恫喝の前にちぢみ上がった教師の姿を生徒たちは見透かしている。応援団幹部の振る舞いは、権威を失い権力だけにすがる教師のカリカチュアに他ならない。正面切って「先生の授業つまらない」「あなたの指導はうんざりだ」と言えない少年たちが、戯画で笑いのめしているのだ。バインダー抱えて脅し脅される馬鹿げた関係は、体育祭終了後に頂点に達する。円陣を組んで、一人ずつ感想を述べているうちに泣き始めるのだ、下級生はしごかれたことに感謝し、三年生はしごいたことを詫び、抱き合って泣くのだ。批判精神希薄な青春の悲しい光景である。
「・・・軍隊にいる間理由もなくいじめつけたり、殴ったりしたやつのうちを一軒一軒まわり歩いて、あのときのお礼だといって、片っぱしから気のすむほど殴り倒してきたという。西は山口県の岩国から北は青森まで足をのばしたそうだが、その住所は復員するときにちゃんと控えておいて、そのうえ乗車用の復員証明書も余分に何枚か手にいれておいたというから″お礼参り″はかねてからの計画だったらしい。邦夫は煙草に火をつけながら、
「こっちゃよ、懐かしくて訪ねてきたっていうようなこと言ってな、一人一人外へ誘い出してこてんぱんにのしてやったんだ。どいつもこいつも軍隊じゃでっかい面こいていやがったけど、裟婆じゃみんなホトケさんみてえにおとなしくおさまってたぜ。おれたちが鬼ヒゲといっていた百里空の先任班長の野郎は、信州の岡谷だけんど、二週間前式をあげたところだといって新婚ホヤホヤだった。こいつは三度のめしを二度にしても、おれたちを殴るほうが好きだっていうやつでな、訪ねて行ったのは夕方で、ちょうど女と二人だけだったが、こいつは家ン中でのしてやった。いきなり鼻っ柱にメリケンをかっ喰らわしてな、そうしたら女がギャアギャア騒ぎだしやがったから、ついでに女も二つ三つぶん殴ってやった。まあ亭主への恨みだからしようがねえや。中でもザマなかったのは岩空の分隊士だ。こりゃ兵学校出の中尉でな、気狂いみてえな張りきり野郎で、やつに殴られたあと病院に担ぎこまれて四日目に死んじまった同年兵もいるし、おれだって前歯を二本も折られているんだ。こいつはうまいこと阿武隈川の河原におびき出してぶん殴ってやったけど、野郎ときたら河原に手をついてペコペコ頭をさげて泣き言こきやがるんだ。・・・あのときは立場上しょうがなかったんだ、許してくれ、この通りあやまるから許してくれってな・・・こっちゃわざわざ福島くんだりまで、そんな泣き言を聞きにきたんじゃねえやって言って、同年兵の分まで半殺しになるほどぶん殴って血だらけに踏みつぶしてひき蛙のように河原にのばしてやった」
・・・「でもあれだな、これでいくらか恨みは晴らせたんだけんど、気持ちはあんまりさっぱりしねえもんだな。なんだかこう、変にうすら淋しいような気がしちゃってよ、復讐なんていうのはもともとこんなもんかなァ・・・」
・・・それにしても半月間よくも回ったものだ。その執念には感心した」 (渡辺清『砕かれた神─ある復員兵の記録』朝日新聞社)
というようなことにはならないのが残念でならない。集団的な涙=カタルシスには一切を流し浄化する悪い効果がある。オリンピックやワールドカップを政治が利用したがるのはこの効果が計り知れなく都合がいいからだ。低賃金や低福祉、過労死の悲惨の根源への溜まりにたまった鬱憤を、集団の涙で排泄し快感に変えるのだ。そう考えれば、何千億や兆単位の負担は安いものだ。しかも実際に支払うのは涙で悲惨を排泄する連中なのだ。
教育実習生が実習を控えても一向に事前の勉強に関心がゆかず、教材研究に冷淡になったのも「生徒は先生より先生ぶりたがる」からである。「ぶる」のに努力は要らない。
生徒たちから見て、教師が研究や学習にのめり込んでいる様子は見えなくなってしまった。過労死レベルの雑務に振り回されているのだ。見えないのではなく無くなってしまった。かつて学校の図書室には、教員専用の閲覧室が設けられていた。書店の営業職員は、教師たちが個人的に注文した書籍を届けに頻繁に職員室に出入りしていたものだ。
「自分の思想を伝え、経験を話してくれる先生・・・教師には人をうっとりさせる魅力が必要です・・・そこに触れあいがあるのです」
教師の手が空くのを待ち構えて、質問を繰り出したり、話をねだったり、ただ側に居たがったり、そういう光景がなくなった建物をもはや学園とは言えまい。だからこそ少年たちは「先生より先生ぶりたがる」ことで行方不明の教師像を求めてさ迷うのである。
それでも巨大なマスコットを竹と紙でくみ上げ、応援合戦を繰り広げる。マスコット作りにも、応援の振り付けにも馬鹿馬鹿しく時間をかけていた。三年生が、一二年生を指導すると言えば体裁がつくが、実際はしごきであった。参加不参加は任意であるにもかかわらず、しごきしごかれる関係に志願する。しごく側の三年生は、バインダーを小脇に抱え竹刀片手にダミ声で威圧するのが常であった。中には白衣を引っかける者もあった。バインダーには練習開始と終了を書いた紙しか挟んでいない。空虚な中身を隠す道具としてのバインダー、白衣、竹刀、ダミ声、全て教師の真似。放課後グランドで部活の生徒を威圧する顧問の戯画であった。
「生徒は先生より先生ぶりたがる」と言ったのは市民運動家だった。バインダーとダミ声が教師らしさとは、教師の権威も落ちたものである。しかし生徒から見て実態はそうなのだ。
「講義は聴く者を考えさせるものでなければならない……あたかも瞑想でもするように……ノートがとれなくても問題ではない」
「私は、自分の思想を伝え、経験を話してくれる先生が好きです……教師が自分の言っていることを実際に信じているという印象をもっています・・・教師には人をうっとりさせる魅力が必要です・・・そこに触れあいがあるのです」
ブルデュー『教師と学生のコミュニケーション』藤原書店
こうした学生の期待に応える努力を怠り、教委の恫喝の前にちぢみ上がった教師の姿を生徒たちは見透かしている。応援団幹部の振る舞いは、権威を失い権力だけにすがる教師のカリカチュアに他ならない。正面切って「先生の授業つまらない」「あなたの指導はうんざりだ」と言えない少年たちが、戯画で笑いのめしているのだ。バインダー抱えて脅し脅される馬鹿げた関係は、体育祭終了後に頂点に達する。円陣を組んで、一人ずつ感想を述べているうちに泣き始めるのだ、下級生はしごかれたことに感謝し、三年生はしごいたことを詫び、抱き合って泣くのだ。批判精神希薄な青春の悲しい光景である。
「・・・軍隊にいる間理由もなくいじめつけたり、殴ったりしたやつのうちを一軒一軒まわり歩いて、あのときのお礼だといって、片っぱしから気のすむほど殴り倒してきたという。西は山口県の岩国から北は青森まで足をのばしたそうだが、その住所は復員するときにちゃんと控えておいて、そのうえ乗車用の復員証明書も余分に何枚か手にいれておいたというから″お礼参り″はかねてからの計画だったらしい。邦夫は煙草に火をつけながら、
「こっちゃよ、懐かしくて訪ねてきたっていうようなこと言ってな、一人一人外へ誘い出してこてんぱんにのしてやったんだ。どいつもこいつも軍隊じゃでっかい面こいていやがったけど、裟婆じゃみんなホトケさんみてえにおとなしくおさまってたぜ。おれたちが鬼ヒゲといっていた百里空の先任班長の野郎は、信州の岡谷だけんど、二週間前式をあげたところだといって新婚ホヤホヤだった。こいつは三度のめしを二度にしても、おれたちを殴るほうが好きだっていうやつでな、訪ねて行ったのは夕方で、ちょうど女と二人だけだったが、こいつは家ン中でのしてやった。いきなり鼻っ柱にメリケンをかっ喰らわしてな、そうしたら女がギャアギャア騒ぎだしやがったから、ついでに女も二つ三つぶん殴ってやった。まあ亭主への恨みだからしようがねえや。中でもザマなかったのは岩空の分隊士だ。こりゃ兵学校出の中尉でな、気狂いみてえな張りきり野郎で、やつに殴られたあと病院に担ぎこまれて四日目に死んじまった同年兵もいるし、おれだって前歯を二本も折られているんだ。こいつはうまいこと阿武隈川の河原におびき出してぶん殴ってやったけど、野郎ときたら河原に手をついてペコペコ頭をさげて泣き言こきやがるんだ。・・・あのときは立場上しょうがなかったんだ、許してくれ、この通りあやまるから許してくれってな・・・こっちゃわざわざ福島くんだりまで、そんな泣き言を聞きにきたんじゃねえやって言って、同年兵の分まで半殺しになるほどぶん殴って血だらけに踏みつぶしてひき蛙のように河原にのばしてやった」
・・・「でもあれだな、これでいくらか恨みは晴らせたんだけんど、気持ちはあんまりさっぱりしねえもんだな。なんだかこう、変にうすら淋しいような気がしちゃってよ、復讐なんていうのはもともとこんなもんかなァ・・・」
・・・それにしても半月間よくも回ったものだ。その執念には感心した」 (渡辺清『砕かれた神─ある復員兵の記録』朝日新聞社)
というようなことにはならないのが残念でならない。集団的な涙=カタルシスには一切を流し浄化する悪い効果がある。オリンピックやワールドカップを政治が利用したがるのはこの効果が計り知れなく都合がいいからだ。低賃金や低福祉、過労死の悲惨の根源への溜まりにたまった鬱憤を、集団の涙で排泄し快感に変えるのだ。そう考えれば、何千億や兆単位の負担は安いものだ。しかも実際に支払うのは涙で悲惨を排泄する連中なのだ。
教育実習生が実習を控えても一向に事前の勉強に関心がゆかず、教材研究に冷淡になったのも「生徒は先生より先生ぶりたがる」からである。「ぶる」のに努力は要らない。
生徒たちから見て、教師が研究や学習にのめり込んでいる様子は見えなくなってしまった。過労死レベルの雑務に振り回されているのだ。見えないのではなく無くなってしまった。かつて学校の図書室には、教員専用の閲覧室が設けられていた。書店の営業職員は、教師たちが個人的に注文した書籍を届けに頻繁に職員室に出入りしていたものだ。
「自分の思想を伝え、経験を話してくれる先生・・・教師には人をうっとりさせる魅力が必要です・・・そこに触れあいがあるのです」
教師の手が空くのを待ち構えて、質問を繰り出したり、話をねだったり、ただ側に居たがったり、そういう光景がなくなった建物をもはや学園とは言えまい。だからこそ少年たちは「先生より先生ぶりたがる」ことで行方不明の教師像を求めてさ迷うのである。
低賃金低福祉政策のためにつくられる落伍者
江戸霊岸島に不良少年矯正塾があったことが、石塚豊芥子の『街談文々集要』に見える。石塚豊芥子は文化文政年間の巷の四方山話を収録した。左は『街談文々集要』の挿絵の一つ。大田南畝や谷文晁ら百人以上が参加した文化12年の酒合戦を紹介している。醤油や酢まで飲んだらしい。
「文化二乙丑九月霊岸島長崎町忠右衛門店、山下飯之助といふ浪人、世間の放蕩者或ハ悪党なりとも篤実にする事をなす。是ハ右山下飯之助の門弟と成り、何ヶ日の間と定、其間ハ山下方え引移りて、書を読せ或ハ諸禮を習わせ、右日限の間にハ自然と悪念をはらひ、真實の者になしてかへすよし。
いかなる教へ方あるにや、廣き大江戸の事ゆへ親兄弟の申事を聞入ざる不禮の族をハ連来り、相願候者数多有ト云々。 其家造りハ玄関をかまへ、實事論会学堂ト書し看板を出し、槍鉄砲弓具足櫃(ぐそくびつ)其外武具の類ひをかざり、門弟多く皆袴を着し玄関に相詰居候よしなり」
貸家住まいの浪人山下飯之助が、親の手に負えない若者を門弟として自宅に寄宿させ、書物と礼法で見事に立ち直らせ「山下先生のお陰で、悪心を払い真人間になった」と評判が立った。
かなりの費用を要したが、親や親類一同が相談して、次々とドラ息子を連れてくる。
山下飯之助の玄関には、「実事論会学堂」と看板が掲げられ、玄関をはいると槍、弓矢、鉄砲、具足を入れた櫃などの武具が飾られ、袴を着た内弟子がひかえていた。入門と同時に、山下の著述『鏡学経』が渡される。午前は『鏡学経』を学習し、午後は剣術の稽古をしたという。
二、三日で音を上げ逃げ帰る者もいたが、親元に押しかけ連れ戻し足枷などをはめて二度と逃げられないようにした。
それでも、あるいはそれ故門人は増える一方。山下は門弟の親に寄付を求め、あらたな拠点作りを模索し始める。だが文化二年(1805)9月、町奉行所は山下を召し捕らえてしまう。町奉行根岸肥前守鎮衛は次のように言い渡している。
其方儀町方住居浪人の身分にて玄関に槍、長柄等を飾り、具足櫃、弓、其外鉄砲と相見へ候品袋に入飾置、實事論会学堂と申看板を差出し、新規異流の儀を相企、乱心者又ハ放蕩者を教諭ヲ以相直候様奇怪ヲ申触、其上自分取綴候鏡学経と申板本ヲ拵へ弟子共へ為読候のみ申立候へとも、不容易義に候処相認メ、学堂取建候迚弟子共より金子為差出、本湊町にて屋鋪買求、作事場為見廻、町人の弟子共え苗字為名乗、利欲ヲ以蒙昧の者ヲ為迷金子徳用致候始末不届至極に付遠嶋申付候
山下飯之助は遠島、息子や内弟子などが江戸払いなどの処罰を受けた。
蝦夷奉行が置かれたのは1804年、日本近海が騒がしくなり始めていた。しかし蛮社の獄は1839年。
幕府にとっては、庶民が身を持ち崩し落伍者として世間の指弾を浴びさせる方が、封建的秩序維持には好都合だった。犯罪や貧困が政策によって救済されることを快く思わない人々は今も昔も少なくない。自己責任、身から出た錆と言いたがる。
日本経団連会長を務めた奥田碩は「格差があるにしても、差を付けられた方が凍死したり餓死したりはしていない」と平然と言う神経を持っている。目に見える格差や落伍者の存在は、低賃金低福祉社会にとって欠かせないのだ。
山下飯之助もだいぶ怪しい。逃げ帰る者に足枷をはめたり、玄関の武具で威圧したり、大金をせしめたり、某yacht schoolや校長室にトロフィを展示したがる中高校と似た匂いがする。
問題は、「山下先生のお陰」と個々の親子の問題を丸投げしたことにある。
「文化二乙丑九月霊岸島長崎町忠右衛門店、山下飯之助といふ浪人、世間の放蕩者或ハ悪党なりとも篤実にする事をなす。是ハ右山下飯之助の門弟と成り、何ヶ日の間と定、其間ハ山下方え引移りて、書を読せ或ハ諸禮を習わせ、右日限の間にハ自然と悪念をはらひ、真實の者になしてかへすよし。
いかなる教へ方あるにや、廣き大江戸の事ゆへ親兄弟の申事を聞入ざる不禮の族をハ連来り、相願候者数多有ト云々。 其家造りハ玄関をかまへ、實事論会学堂ト書し看板を出し、槍鉄砲弓具足櫃(ぐそくびつ)其外武具の類ひをかざり、門弟多く皆袴を着し玄関に相詰居候よしなり」
貸家住まいの浪人山下飯之助が、親の手に負えない若者を門弟として自宅に寄宿させ、書物と礼法で見事に立ち直らせ「山下先生のお陰で、悪心を払い真人間になった」と評判が立った。
かなりの費用を要したが、親や親類一同が相談して、次々とドラ息子を連れてくる。
山下飯之助の玄関には、「実事論会学堂」と看板が掲げられ、玄関をはいると槍、弓矢、鉄砲、具足を入れた櫃などの武具が飾られ、袴を着た内弟子がひかえていた。入門と同時に、山下の著述『鏡学経』が渡される。午前は『鏡学経』を学習し、午後は剣術の稽古をしたという。
二、三日で音を上げ逃げ帰る者もいたが、親元に押しかけ連れ戻し足枷などをはめて二度と逃げられないようにした。
それでも、あるいはそれ故門人は増える一方。山下は門弟の親に寄付を求め、あらたな拠点作りを模索し始める。だが文化二年(1805)9月、町奉行所は山下を召し捕らえてしまう。町奉行根岸肥前守鎮衛は次のように言い渡している。
其方儀町方住居浪人の身分にて玄関に槍、長柄等を飾り、具足櫃、弓、其外鉄砲と相見へ候品袋に入飾置、實事論会学堂と申看板を差出し、新規異流の儀を相企、乱心者又ハ放蕩者を教諭ヲ以相直候様奇怪ヲ申触、其上自分取綴候鏡学経と申板本ヲ拵へ弟子共へ為読候のみ申立候へとも、不容易義に候処相認メ、学堂取建候迚弟子共より金子為差出、本湊町にて屋鋪買求、作事場為見廻、町人の弟子共え苗字為名乗、利欲ヲ以蒙昧の者ヲ為迷金子徳用致候始末不届至極に付遠嶋申付候
山下飯之助は遠島、息子や内弟子などが江戸払いなどの処罰を受けた。
蝦夷奉行が置かれたのは1804年、日本近海が騒がしくなり始めていた。しかし蛮社の獄は1839年。
幕府にとっては、庶民が身を持ち崩し落伍者として世間の指弾を浴びさせる方が、封建的秩序維持には好都合だった。犯罪や貧困が政策によって救済されることを快く思わない人々は今も昔も少なくない。自己責任、身から出た錆と言いたがる。
日本経団連会長を務めた奥田碩は「格差があるにしても、差を付けられた方が凍死したり餓死したりはしていない」と平然と言う神経を持っている。目に見える格差や落伍者の存在は、低賃金低福祉社会にとって欠かせないのだ。
山下飯之助もだいぶ怪しい。逃げ帰る者に足枷をはめたり、玄関の武具で威圧したり、大金をせしめたり、某yacht schoolや校長室にトロフィを展示したがる中高校と似た匂いがする。
問題は、「山下先生のお陰」と個々の親子の問題を丸投げしたことにある。
沖縄独立と「天皇メッセージ」国家賠償
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| ここは幸福指数世界4位、日本は58位 |
「共同植民地」ニューへブリデスへ入るには、査証が必要だった。イギリス大使館でもフランス大使館でも、どちらでもとれた。空港には二カ国の旗がひるがえり、入国管理の事務所に入れば、右側が「フランス」、左側が「イギリス」、「第三国人」はどっちへ行ってもよい。公用語も二つ、貨幣も二つ、税務署も二つ、フランス人ならフランスの税務署に税金を納めなければならないし、イギリス人ならイギリスの税務署だが、第三国人はどちらか任意の政府のほうに納めた。
日本人など「第三国人」が犯罪をおかせば、例えばフランス人警官にむかって、イギリスに捕まりたいと言うことも出来た。裁判所も二つあった。犯罪が殺人ならイギリスの裁判所選ぶだろう。イギリスには当時既に死刑はなかったが、フランスにはこの当時ギロチンによる死刑があった。軍隊もあって、儀式用の十人程度の軍隊であったが、英仏同数であった。 小田実の『地図をつくる旅』には、この珍妙な統治について、世界をくまなく見て歩いた男らしい面白い記述がある。
深刻な問題も見逃してはいない。小田実は生粋のニューへプリデス人と話してそれを発見した。
その男はイギリス人、フランス人、「第三国人」とちがって黒い肌をもち、髪の毛はちぢれていた。
「つまり、フランス人の面倒は、ここのフランス政府がみてくれるわけですね」
「その通りですよ」
「イギリス人の面倒はイギリス人がみる」
「その通り」
「ポクのような『第三国人』の面倒は、どちらかがみてくれる」
「その通り」
「じゃあ、あなたのような……」
と言いかけて、私は口ごもった。どんなふうに彼のことを言いあらわせばよいのか判らなかったのである。それで、仕方なしに、「現地人」という聞きようによってはまったく人を―その地に生まれ、生きている人間をバカにしたことばを使った。
「現地人の面倒は、どっちの政府がみてくれるんです」
「Nobody」彼は吐きすてるように言った。 1981年 小田実『地図をつくる旅』
それ故ニューへプリデスは、1980年バヌアツとして独立したのである。
沖縄県民投票の結果は明白であった。自民党支持者でさえ辺野古基地反対が多数を占め、18歳19歳の基地反対票率は突出したのだから。天皇在位30周年記念行事に合わせるように県民の意思は突きつけられたのである。
この期に及んでも、日本政府も米国政府も沖縄県民の面倒を見ようとはしないのならば、沖縄はニューへプリデスのように毅然と独立すす以外に選択肢はない。
かつて沖縄は薩摩、清両国に朝貢する独立国であった。
ニューへプリデスにやや類似した統治の仕組みを持って繁栄していた。
日系カナダ人女流作家、Joy Nozomi Kogawaが2009年「ナガサキの日」に、ストックホルムで行ったスピーチ(原文は英語)がある。←click
「東洋に、ある小さな島(沖縄)があります。そこでは、世界で最も長寿で、強く平和な人々が住んでいます。わたしの兄弟は、キリスト教長老派の司祭として、1990年代の数年間を沖縄で過ごしました。彼は私にこんなことを教えてくれました。1815年のこと、大英帝国の軍艦のバジル・ホール艦長が沖縄の那覇に寄港しました。そしてそこで発見した、あることに驚いたのです。話はさらに続きます。英国への帰還の途中、ホール艦長はセント・ヘレナ島に立ち寄り、流刑中のナポレオンと会話を交わしたのです。
艦長は『私は平和の島に行って来たところです』と、ナポレオンに告げました。『その島には一人の兵士もおらず、ひとつの武器もないのです』
ナポレンオンは言いました。『武器がないだって? そんな。でも、剣の二振りや三振りはあるだろうに』
いえ、ありません。剣は王によって禁じられているのです」
その時、『ナポレオンは驚いて』こう言ったそうです。「兵士もいなければ、武器も、剣もない。そこはきっと、天国に違いない。
この戦乱の続く地球という星の、ほんのひとかけらの地上で、ユニークな平和の文化が育っていたのです。 ・・・琉球の人々は従属しない人々(まつろわぬ民)だと、日本は結論づけました。兵士なき王国の存続は不可能なことでした。沖縄はたしかに、その平和の歴史とともに、この地球がようやく持つことのできる天国に近い文化を持ち続けて来たのです。たぶん、それゆえ、憎悪の軍事力の特別なターゲットにされて来たのです」 Joy Nozomi Kogawaは1935年バンクーバー生まれ。大戦中、日系人強制収容所に収容された。
両国朝貢の素手の小国が、平和を保つことが出来た。その持つ深く重い意味を我々は読み取ることが出来るだろうか。
沖縄を永続的軍事基地として占領軍に献上した昭和天皇と青松白砂の沖縄を焦土にして県民15万を犠牲にした日本軍の、そしてその後の日米両政府の統治弾圧の責任は益々限りなく重いのである。制度的責任は息子天皇が善良に被災地を回って相殺される程度の軽い問題ではない。
沖縄は独立して、「天皇メッセージ」の歴史的責任を徹底的に追及して、損害賠償を求めるべきだと思う。僕はそれを支持する。
せっかくだ、竹島や尖閣諸島も共同統治にしたら良い。いがみ合うだけの知恵の無さには呆れるばかりだ。共同統治の例は少なくない。樺太も初めは共同統治だった。北方領土は日露ともに手を引き、北方諸民族の自治領域にすべきである。
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