教養は丸腰に限る

真実は武器では守れない
 『アラバマ物語』 主人公一家の父親アティカスは、田舎町の弁護士。白人貧農の娘メイエラ暴行の容疑で逮捕された黒人青年トム・ロビンスンの弁護を引き受けている。公判を明日に控えて、トムは街の保安官事務所に移された。リンチから青年を守るために、アティカスは保安官事務所前のポーチで寝ずの番をしている。
 子どもたち(主人公のスカウト、その兄ジェム、夏だけ隣家にやってくる友達のディル)は好奇心を抑えられず様子を見に行く。そこに案の定、憎悪に燃えた男たちがライフル片手に押しかけ、トムを渡せとアティカスに迫り一触即発の状態。子どもたちは、群衆をかき分けてアティカスの脇に立つ。
 そこにスカウトは銃を持った知り合いを見出す。


 「あら、カニソガムさんじゃない?」 私の声がきこえないらしかった。
 「今晩は、カニソガムさん。・・・おぼえていないの・・・私ね、ウォルターといっしょに学校へいってるのよ・・・あれ、あなたのこどもでしょ ね、そうでしょう?」 カニソガムさんは、やっとうなずく気になったらしい。
 「私と同級なのよ、とてもよくやってるわ、いい子よ」私はつけくわえた。「ほんとにいい子だわ。いつかお昼ご飯に、うちにつれてきたことがあるわ。私のこと話したでしょう。私は一度なぐったけど、そのときの態度は、すごく立派だったわよ。よろしくいってね」
 彼はやがて、妙なことをした。というのは、かがみこむと私の両肩をつかまえたのだ。
 「息子に伝えときますよ、お嬢さん、あなたがよろしくおっしゃったとね」そう彼はいった。
 そして立ち上がると、大きな手をふって、「引き上げよう、さあ行こう」
 彼らはきたときのように、一人、二人と足を引きずってがたがたの車のところへもどった。ドアがばたんとしまり、エンジンがうなって、男たちはいってしまった。

      『アラバマ物語』暮らしの手帖社刊 より抜粋
 

   僕はこの場面を、「教養とは何か」の講義で使った。「教養」とは「再構築」する事である。事態が膠着して険悪な状況にあるとき、自他をずらす。ずらして見え方を変える。
 スカウトはその場の抜き差しならぬ空気を、全く場違いな話で転換する。武装した農民たちと主人公一家との間にあった険悪な睨み合いの固い壁が、スカウトが持ち出した話ですっと消えてしまう。視線がずれたのである。リンチしようといきり立っていた気持ちは魔法のように消えて、カニンガムは握っていた銃を置きスカウトの肩に手を置き誓う。「息子に伝えときますよ、お嬢さん、あなたがよろしくおっしゃったとね」と。

 交渉は何であれ、こうでなくてはいけない。これを可能にさせたのはアティカスの丸腰である。

 スカウトの咄嗟の語り掛けはそれだけに止まらず、カニンガムの何かを変える。そこが教養のradicalなところだ。
 トムの陪審裁判は翌日、町の法廷で開かれた。町中の大人が押しかけ立錐の余地もない。アティカスの見事な弁論でトムの無罪は明白になったが、陪審員の審理は長引き彼に有罪を宣告する。しかしここで印象的なのは、トムをリンチする集団を率いていたカニンガムがトムの無実を言い立てて審理が長引いたことである。 『アラバマ物語』はHarper Leeの子ども時代の実体験を元にしている。(絶望したトムは逃亡を謀り射殺される。アティカスの判断では上告すれば十分勝訴出来た)。

 もう一つ大事な場面がこの中にある。これも良く授業で使った。保安官事務所のポーチでスカウトの兄ジェムは、アティカスからスカウトとディルを連れて帰れと強く言われる。それまで父の命令に逆らったことの無いジェムが、この時初めて「嫌だ」と抵抗する。現場に残り父と共にリンチを目論む銃の前に立つ決意をする。そして裁判を境に、ジェムは口数が少なくなり勉強に打ち込むようになる。法を学ぶ決意をしたのである。
 我々の周りでは学校も家庭も、少年/少女を社会的事件の現場から隔離することを教育や指導と考えて譲らない。アティカスは子どもたちの決意を尊重した、たとえ親であっても立ち入ることの出来ない精神の領域である。自立や成長は安全と相容れない場合もある。そう生徒や学生に伝えるためにいい挿話だ。

 我々は安全を口実に、少年/少女たちの社会的成長と自立を妨げる。その結果が低賃金と過労死と憎悪ではやりきれない。大人も教師も臆病だ。

 政府が先頭になって近隣諸国との険悪な空気を煽る。丸腰の教養が要請される事態に、ミサイルや航空母艦を配置する愚かさである。子どもの知恵にも劣る者が、国の中枢にいて愚か者を増長させるばかりだ。

 日本の青少年は、スカウトやジェムのように振る舞うことから余りにも長く隔離された。周りにはメイエラの父親ユーイルのような、無知で偏見に満ちた粗暴な大人が蔓延している。国会で政府側に座る者たちの姿勢と顔付きがユーイルそっくりである事に驚く。(メイエラがトムを誘惑したのである。その現場を目撃したユーイルが激怒して娘を殴ったことを、アティカスは弁論で白日の下に曝した。それを恨んだユーイルは、復讐のために兄妹を襲い兄は瀕死の重傷を負う)

授業における現実性=リアリティ

この衣装は洗濯を繰り返してボロボロにしてある
汗と血糊は付いていない
 『椿三十郎』の出だしと結末が気に入らない。 先ず初っ端。味方だと思っていた老中一味に包囲された若侍たちは、危ういところを浪人者に助けられ、新たな決意を固め「こうなりゃ死ぬも生きるのも我々九人」と誓い合う。
 それを聞いた浪人者は言う。
 「いや!十人だ!てめえらのやることは危なくて見ちゃいられねえや」

 どうもしっくりこない、いかにも押しつけがましい。こう言わせる。

 「おめえら、命をかけての結束もいいが、ちょっとはここも使いな」と頭を指さし
 「こんな物騒な所は真っ平だ、あばよ」と去ろうとする。若侍たちは、何やら言い合った挙げ句
 「どうか、何卒我ら一党にご指南を」
 「命がいくつあっても足りねえや、・・・しかし放ってもおけまい。・・・条件は何だ」
 「何なりと」
 「そうはいくめえ、条件は飯と風呂だ」と言わせる。

 結末。
 室戸を斬り倒した椿三十郎に、若侍の井坂(山本周五郎の『日日平安』では井坂十郎太)
 「お見事!」と言う。椿三十郎
(『日日平安』では菅田平野)か゛
 「バカ野郎!利いた風なことをぬかすな!気をつけろ!俺は機嫌が悪いんだ!」までは同じ。こう付け加える

 「お前たち城代家老に言われて、オレを呼び戻しに来たんだろう。」
  「はい、直ちにお戻り下さるよう」
 「見たとおりオレは頭から足袋まで血まみれ、風呂に入りたい。
刀はこの通り、研がねばならぬ。城代に斬られるかも知れんからな。しばらく待って貰おう。誰か馬を貸してくれ、もう歩けん」そして死体のように横たわって馬に乗る。
 2日後、血糊を落としたヨレヨレの着物を肩に、研ぎなおした刀に目をやり

 「この刀も細くなりやがった。待たせたな、そろそろ行こうか」と若侍に告げ、城代の待つ屋敷に赴く。
 座敷に案内され、しかし座りもせずこう言う
 「おい城代、室戸にオレを斬れと命じたのはお主だな。オレが旅立てば、他藩や幕府に内紛が漏れはせぬか気掛かり、しかし事情を知った者を仕官させるのも厄介」城代は一瞬言葉を失う。
 「ア・ハハ・・・図星でござる。・・・参りましたな、二本も三本もとられ申した。さぁこちらへ、せめてこのたびのご助力に感謝はせねばなりませぬ故、さぁこちらへ」と立ち上がろうとする。
 「この部屋は息が詰まりそうだ。お主らと酒を飲めば、オレまで室戸になる。別れを言いに来たんだ。料理と褒美は、お主たちより勇敢なあのお女中(『日日平安』ではこいそという名)にやりな。オレの口には合わん」と踵を返す。こいそは背景の末座に控えている。
 
若侍たちは、慌てて追いすがる。決闘した場所まで来て、椿三十郎は立ち止まり
 「室戸は俺によく似ていた、あいつもオレも鞘に入らぬ刀。でもな奥方によれば、いい刀は鞘に入ってる。だが、役には立たん。おまえたちも大人しく鞘に入ってろよ。これ以上追ってきたらたたっ切るぞ、今日も機嫌が悪いんだ。城代に伝えておけ、オレを黙らせたければ、浪人や女郎が出ない政道を心がけろってな。洗いざらしのボロは気持ちがいいぜ、あばよ!」

  『七人の侍』撮影現場ではこんなことがあったという。わずか2秒のちょい役仲代達也がカメラのまえをチョコチョコ歩いた時、黒澤明は『なんだあの歩き方は』と朝9時から大勢の役者を待たせてやり直しの連続、終わったのが午後3時。それほどまでリアリティにこだわった黒澤明が、どうしたことかと思う。返り血をたっぷり浴びればまともに歩けるわけがない。『日日平安』では、浪人菅田平野は、返り血を浴びてもいないのに井坂十郎太を丸め込んで風呂にも入り髭も月代も剃っている。僕は椿三十郎より、こちらに活きた人間を感じる。


 役柄の現実性は、演じる世界への想像を掻き立てる。
 少年/少女たちは、常に教師の授業の非「現実性」を暴きその偽善性を白日に曝そうと待ち構えている。
非「現実性」と偽善性が見えたとき、生徒たちは授業から逃亡し居眠りしお喋りするのである。
 それに立ち向かい、教壇に立つ我々の言葉の背後に活きた「現実性」を感じさせる為には、我々自身が常に活きた「現場」で、事柄の匂いを嗅ぎ音や温度を肌で感じる必要がある。
 例えば戦場の爆風や匂いを伝えるとき「鼻につく」という句を用いる。積み重なる死体や血だまりの匂いが「鼻につく」とはどういうことか。「においが鼻に残って離れない」ことではない。何の匂いを嗅いでもその匂いが蘇って来る事である。食事をとろうとしても、果物を口にしてもそのにおいが蘇り何も口に出来なくなる。もし鼻につくのが、バラやチョコレートの香りであったら良いのだろうか。梅干しで白米を口にする度に、バラの香りが押し寄せてきたらもう、沢山だ勘弁してくれと言うだろう。芳香でさえそうなのだ。嫌な匂いなら嫌な光景と共に寝ていても襲ってくる。
夜中に汗びっしょりになって飛び起きる。戦場の匂いを現実のものとして再現しないために、それを心底から嫌悪する必要がある。そのために想像力はあり、現実性という手法はある。

 戦場の匂いでなくてもいい、鼻につくほどある匂いの中に閉じ込められてみる。そうすれば、何の匂いであれ「もう沢山だ勘弁してくれ」という感覚を伴って「鼻につく」を伝えられる。文学がその代わりをすることもある。しかし元になるのは経験だ。教材研究が必要とするのは、そういう身体「感覚」である。
 731部隊の医者や研究者は、捕虜を丸太と呼んで生体解剖や実験と言う名の殺戮の日々を送った。にもかかわらず、同じ敷地内にある快適な「官舎」に帰れば、子どもや妻と水入らずの夕餉のひとときを享受したのだ。彼らには、丸太の血のにおいが、鼻に付かなかったのか。 そこに彼らの生活の異常性がある。

 辺野古のそして沖縄の現実を許しながら「cool japan」や「侍japan」に浮かれ、「天皇メッセージ」が無かったかのように改元騒ぎを演じるのは、同じように異常なのだ。
 
 嘘っぽい授業は、する方にだって力がこもらない。聞く方は尚更だ。そのためには教師も少年/少女も、自由で暇でなければならない。

田代三良が「教師の質の低下」を指摘したのは1975 年だった  / 何が「質の低下」をもたらすのか

雪舟天橋立部分
 後の雪舟が京都相国寺に入り、等楊の名を与えられたのは12歳の時。絵の師は周文であった。ある分野の「質の低下」は何がもたらすのか。松本清張が、『小説日本芸譚』で興味深い考察を加えている。

 周文は、・・・牧谿を絵手本として頻りと摸していた。牧谿の柔らかい気分描写はこの時代の人に好かれたし、舶載の絵の中でも最も多かった。それで彼らは牧谿様の柔らかい美しい仕上げに得意であった。同様に馬遠や夏珪の緻密で繊細な筆様も摸していた。要するに彼らは、明の文人画に未だなずまず、専ら宋元の端正な院画風な絵を手本としていた。
 等楊はどのように努力しても、絵がきれいにかけなかった。それは生来の彼の無器用さによるのだ。・・・ 等楊は己の才能を疑って、何度か絶望した。・・・


 十年の後、等楊はその画技において、宗湛(兄弟子)と争うまでになっていた。
 絵の仕上げは相変らず器用でない。しかし等楊は、その欠点を補う途を見つけていた。それは構図の妙であった。
一体、舶載されてきた宋元の画には大幅が無く、殆どが小品であった。それで日本の画家は布置の変改を試みようにも、狭小な絵手本の内容に縛られて工夫の見当がつかなかった。ここを彼処に、彼処を此処に置き変えるという創意の余地がなかったのである。殆ど真蹟通りの模倣であった。・・・それも小品の原図の引き伸しであった。それで、その欠点は、茫平として纏りのない、ふやけた結果となって顕われている。周文ほどの者すら、画面に改変の創意を加えることまで及ばなかった。

 日本の風土とは全く異質の・・・実地を見たこともない画家たちは、専ら「画本」による概念しか得ていなかった。その、あやふやな観念に固定されているから、原図の呪縛から一寸も離れることが出来ない。だから部分的な作意の挿入も大そうな冒険で、怕くてやれなかった。その限りでは、悉く模倣から出ることはなかった。

 享徳3年(1454年)、
勘合貿易で賑わっていた山口に移り、機会を得て遣明船に乗ることが出来た。 応仁元年(1467年)の事である、49歳になっていた。約2年間を寧波から北京と水墨画修行に励んだ。 帰国船の中で、友人に明で何を得たかを問われ答える。

 「画本でなく、実際の風景に接したということさ」
 これだった。今までの概念的な知識でしかなかった宋元画の山水が、この眼で実地に見て具象的に実体を把握したことである。内面の充実がそこにある。何千何首と舶載画を見ても、頼りなげな観念は手本の画に縛りつけられたままである。実地に踏み入って確実に視覚で捉えた自信だけが、抜きさしならない手本の桎梏から解放されたのである。


 教職は、模倣の殿堂である。それも貧弱な。例えば地歴科教育法を学んでも、歴史学を学んだことにも教育学を学んだことにもならない。運良く世界史教師として採用されても、歴史学専攻でない限りあやふやな生煮えの知識のまま教壇に立たざるを得ない。
 経済学も政治学も知らない「政経」教師、哲学も思想史も学んだことのない「倫理」教師はざらだった。「社会常識」があれば事足りると、担当する人間自身が嘯いていた。免許は社会なのに英語や数学をねばならぬ教師も少なくなかった。
 これらの教師は、高校の授業の記憶や教科書そして指導書に頼ることになる。せいぜい新書本や他人の実践集を使う事になりかねない。新書や実践集はそれ自体が安易な模倣か引き写しに過ぎない事が多い。社会の現実からは遠く離れる。文献による場合も原典を読むことはなく、簡単な解説に頼ってしまう。
 それ故「日本の(教師)は・・・狭小な・・・手本の内容に縛られて工夫の見当がつかなかった・・・殆ど・・・模倣であった。・・・それも小品の原図の引き伸しであった。それで、その欠点は、茫平として纏りのない、ふやけた結果となって顕われ」る有様は、学校に溢れる。
 それでも60年代までは、1教科が5単位であったから週に5時間教える事ができた。工夫すれば一科目だけを3クラスか4クラス持てば済んだから、他の科目を合わせて教える事は殆ど無かった。ある程度教材研究に時間をとれた。生活指導に追われることもなかった。田代三良が「教師の質の低下」を指摘したのは1975 年、この頃教師の教育労働の構造が変わったのである
 一教科あたりの単位数は減り続け、現在は2単位科目が目白押し。一人の教師が3つも4つも科目を担当する羽目になった。年度毎に受け持つ科目が変わることもある。部活や生活指導にも時間はとられ、研究する暇はなくなってしまった。
 だから、授業がふやけた模倣の又その模倣になっている。
 現実の現象や原典に直接あたって、観察研究することなど想像も出来ない。生徒の実体も表面的にしか捉えられない。だから益々ハウツーものを読んで得意になった管理職や声の大きな教師に振り回されることになる。
 日本の教師はますます「実地に踏み入って確実に捉えた自信」を持つ事が出来ない。

 雪舟の時代の絵師にとっては、水墨画の実際の山水から地理的に隔絶している事が、緊張感の無い模倣を産んだ。現在の教師たちが陥っているふやけた模倣は、意味の無い繁忙の無限地獄がもたらしている。                                 
 2019年6月19日の報道によれば、OECD国際教員指導環境調査で日本の教員の長時間勤務が群を抜いていることが改めて判った。1週間の仕事時間は小学校54.4時間、中学校56.0時間で、ともに参加国・地域の中で最長。一方で職能開発にかける時間は小中とも最短だった。
 ある学者は「長時間労働のもたらす最大の弊害は、能力開発の機会喪失である」と指摘している。これまでも同じ指摘は何度もあり、改善は遅遅として進まず徒に過労死を増やしてきた。思い切って声を上げ行動に移せば、過酷な処分が待ち構える状況は江戸時代と変わらない。


 無駄な暇が無ければ、ヒトも創意工夫は出来ない。地球上の生命は全てそう出来ている。無駄を敵視する政権の元で、日本の知性は着実に衰退している。 

思考停止を誘う「お守り言葉」としての「サムライ」「ナデシコ」

新渡戸武士道は、実在の武士を無視した虚像
 1580年武田勝頼は駿河に攻め入った時、「千本松原」と呼ばれた広大な松原を合戦の邪魔と伐採。お陰で防風林を失った農作物は、風害と塩害で壊滅的な被害を被った。このために農民は貧窮した。旅の僧長円が心を痛め、衆生済度の大願をかけてここに松苗を植え続けたと言い伝えられる。初めは潮風を受けて松苗は枯れてしまったが、植林に工夫を重ね5年の歳月をかけて松を根付かせたという。長円の美談は武田勝頼の乱暴狼藉なしにはあり得ない。長円を讃えて像を建立すると同時に、勝頼の乱暴を告発する碑を立てる歴史意識を持つ必要がある。

 内村鑑三の『デンマルク国の話』の副題は「信仰と樹木とをもって国を救いし話」である。長円の逸話は、『デンマルク国の話』のダルガスを思わせる。 長円像は沼津の千本松原に増誉上人として立っている。
  内村鑑三は、長円を知り『デンマルク国の話』をしたのだろうか。武田勝頼の狼藉を知った上で『武士道』を書いたのだろうか。

 「サムライ日本」「ナデシコ・ジャパン」騒ぎは、一体どんな人間像を念頭に浮かべてのことだろうか。
   古来「小さな女の子」や「愛らしい子供」を表した撫子に、清楚で凜とした美しい女性の姿を表したつもりか。僕は職場の花の役割を演じ続けて、家制度に奉仕する日陰の存在としての女性を思い浮かべる。職場の花とは、枯れても季節が過ぎても取り替えて捨てられる飾り物ということだ。

 侍には、領国拡大に躍起になる武将と彼に盲従して畑を荒らす乱暴者を想起する。その延長線上に、過労死の地獄を男の戦場と錯視して、社畜を目指す現代の就活生がある。
 ナデシコもサムライも広告代理店が操作する虚像である。
 騒ぎの頂点オリンピックには巨額の税金が湯水のごとく投入され、弱者に向けられる筈の
貧弱な予算までが簒奪される始末である。
 長時間労働も低賃金も低福祉も過労死も自己責任の言葉で放置されたままである。それでも国民の目は、虚像のサムライとナデシコに注がれ、弱者が目に入らない。
 
 鶴見俊輔は、敗戦後間もなく「言葉のお守り的使用法について」を論文にまとめ、大衆は何故太平洋戦争へと突き進んだのかを考えた。
  「大量のキャッチフレーズが国民に向かって繰り出され、こうして戦争に対する『熱狂的献身』と米英に対する『熱狂的憎悪』とが醸し出され、異常な行動形態に国民を導いた
 (大量のキャッチフレーズとは「現人神」「八紘一宇」「鬼畜米英」「皇道楽土」「神国日本」など) 政府も新聞も雑誌も、憑かれたようにこれらの「お守り言葉」を繰り出し、支配と戦争の実体を隠蔽した。おかげで、大衆を思考停止とヒステリーに導き黙従させたのである。
 僕は 「サムライ日本」「ナデシコ・ジャパン」などの聞き心地良い言葉が、「美しい国」「つくる平和」「アベノミクス」「クールジャパン」などと共に「お守り言葉」として、若者から年寄りまでに思考停止をもたらしていると考えている。

 大正年間には、静岡県の千本松原伐採計画があった。反対運動の先頭に立ったのは若山牧水、計画を断念させている。
  「腕かぎり泳ぎつかれて休らはむ此處の松原かげの深きに」牧水


 

1960年京都四条をデモで駆け抜ける高校生たち

60年安保改定に反対して京都四条を駆け巡る高校生
 高校生が街を駆け巡ったのは、京都だけではない。松本・大阪・飯田・静岡・愛知などでも高校生は安保改定反対を訴えた。中には一校で千人を超える規模のデモもあった。手をつないで道路一杯に広がるのを、警官隊が規制する気配もない。
 こうした光景がなくなってしまったのはのは、社会的要求を掲げる行為が無効だからだろうか。そうではない、大いに有効であったからだ。

 「表現、就業、結社、集会、もしくはデモを妨げる行為は、共謀及び脅しを用いた場合は1年の禁固刑及び1万5千ユーロ(約208万円)の罰金、暴力及び損壊行為によるによる妨害の場合は3年の禁固刑及び4万5千ユーロ(約625万円)の罰金に処す」 フランスは刑法431条1項で、人民大衆の自由を妨害する行為を、罰金付きで厳しく戒めている。
  (ただし、公道で実施されるデモや集会については、3日前までに警察に届ける。デモの禁止は『重大な問題が起きる実際上の危険性が認められ』かつ『デモの禁止以外に公の秩序を維持する有効な代替手段が無い』場合に限られる)
 フランスの警官にも労働組合があって、デモの届けに来た高校生に効果的なデモの方法を伝授する。それがフランスデモである。

 日大の古田会頭の口癖は「全国の大学で唯一、学生運動のない大学」だった。1978年5月国税庁が、日大の使途不明金22億円を公表したのが日大闘争の発端である。日大の施設は劣悪なもので、ぎゅう詰めにしても90人は無理な教室の定員は150人、9000人の学生を抱える経済学部図書館の椅子はたったの250席、学部食堂の定員は50人。学生の政治活動はもっての外で、集会・ビラ・立て看などは許可制、如何なる学生運動セクトも入り込めなかった。自治会にあたる学生会は御用組織に過ぎなかった。後に全国を震撼させた日大全共闘秋田明大は、経済学部学生会委員長として使途不明金を話し合う集会願いを出している。
 集会は不許可、無届けの抗議集会になりそれでも300名が集まった。そこに体育会学生が「赤狩りだ」と殴り込み暴行

。翌々日、素人臭い抗議の200mのデモがあり最後に歌われたのは、日大校歌であった。如何に日大生が闘争に不慣れな羊であったかが判る。

  もしこの時、フランス刑法431条1項並の法規が日本にもあれば、日大闘争はあらゆるセクトを排した愛校的色彩の中で進んだ可能性が高い(学生側の要求は、古田会頭以下前理事の退陣・経理の公開・使途不明金に関する話し合いの三点のみであった)。しかし日大当局と体育会は校舎をロックアウト。学生の反発を煽った。体育会は暴力団と一体になり、負傷者を出すようになる。
 東大安田講堂攻防戦や浅間山荘事件で指揮を執った佐々淳行は

 「警視庁は最初・・・「これじゃ日大の学生が怒るのも無理はない」と秋田明大・・・率いる学園民主化運動に理解を示していた」(『東大落城』文春文庫)と書いている。
 もしそれが事実であるならば早い時期に、集会を体育会や暴力団から守らねばならなかった。フランス並みの刑法がなくとも、憲法がその役割を直接務めねばならぬ。警官も国民に奉仕する公僕である。

 日大闘争支援弁護団がまとめた数字によれば、逮捕者1608名(うち拘留595名、起訴132名)、死亡1名、負傷7717名、(うち重傷713名、失明3名) 
 民主化闘争が実現していたなら、これらの犠牲は無い。
 激しいぶつかり合いの後の9月末日、日大講堂に3万5000人の学生が集まり「大衆団交」が行われた。会頭は体育会による暴力や一旦約束した団交の拒否や機動隊導入、などについて「大いに反省」と言い「弾圧を・・・自己批判する」と署名した。体育会については、解散を口頭で宣言したが、不正経理による闇給与については逃げた。
 10月3日の大衆団交に、必ず出席するとの約束で一旦幕は閉じた。だが、佐藤首相が総裁、古田会頭が会長を務める日大と政財界人を繋ぐ「日本会」は、自らの怠慢(民主化を求める御用学生会の民主化の動きを弾圧する古田を放置し続けた事) は棚に上げ激怒、全ては反故にされ、秋田明大らに逮捕状が出された。

 株式会社日大の暴力的独裁体制は温存され、2018年アメフト部タックル事件で一気に表面化した。

 京都の高校生が四条を駆け抜けた時代の影響は、彼らが大学に進学し就職した後も、投票行動や市民活動で様々に残った。
 美濃部東京都政以降全国に広がった革新自治体が、70年代には続いたし、1986年迄は所得税最高税率75%は維持された。日本の少年/少女の数学学力が世界で、中学一位、高校二位だったのは1987年だった事も忘れてはならない。組合がまだ影響力のあった時期、学力は高かったのである。
 我々は、高校生がことある度に街に出て訴える自由を保障する必要がある。それが経済制度の格差を縮め政治の民主的平和的安定を保つ事を、1978年に由来する事件の数々が教えている。
 
 

引き籠もりはいけないか、僕は励まし賞賛したい

『ポアンカレ予想』を解いたペレルマンは
現在も引き籠もる、キノコが趣味
 「私思うの、プータローでも引き籠もりでもいい。過労死したり、会社で犯罪に手を染めたりするよりずっといい。戦争で人殺ししたり、死んだりするより立派。きちんと進学して就職しろとは言えないのよ」定年間際の女性教師が、そう言ったのはもう15年前の事である。彼女は進路指導部長を務めていた。僕は強く同意した。
 取り壊し寸前の重厚な校舎には、リベラルな校風に相応しい風貌の人物があった。だが頻繁な強制異動を通して、リベラルな校風は一挙に消え、制服と偏差値が跋扈するつまらなぬ学校になった。そして引き籠もりは、病と見做されるようになった。

 「引き籠もり」そのものに
問題はない。「引き籠もり」の少年と、そうではない(部活に熱心で明るい)少年の断絶が絶対的に大きいことだ。他の社会(過去の日本や欧米)のようには二つの類型の間が連続していない。連続していれば深刻な問題を抱えた者も絶望しない。先頭を行く者と連続して会話出来るのだ。いま二つの類型の間がますます遠く離れてしまっている。(学校内でも学校間でも)あいだに挟まれた層が両極分解してしまった。その分解を促進したのは、学校の指導と脅迫だ。
 両極に離れて互いに姿も見えず声も届かない。互いの姿も声も届かなければ、理解し連帯することは出来ない。それが「政権」者の狙いである。


 彼らは怠惰な臆病者であるか。老後の資産に悩む老人を騙して粗悪なアパート経営に引き摺り込んだスルガ銀行従業員は、経営陣にとっては勤勉であったが、専門家としての自制心に欠けていた。オレオレ詐欺の若者は弱者に対しては不敵であったが、不正に対しては盲目であった。「モリカケ」問題で関係公文書を「破棄」・「偽証」した官僚は政権にとって「使える」という意味で能吏であったが、主権者にとっては臆病な公僕である。

 組織にとって活動的なこの「能吏」たちが、すべて徹底的に「引き籠も」る勇気を持つことを願わずにはおれない。

 結婚や子育てもままならない賃金・過労死ラインを超える労働・迫り来る戦争の危機に対して、怯え「引き籠もる」のはホモ・サピエンスとして真っ当な反応である。自らを死に導く指示に対して拒否の姿勢をとる青少年を、励まし支援すべきではないか。
 曾て我々の国は、天皇のため死んで帰ってこいと若者に告げ戦地に送り出し、無垢の市民を殺し放火し強姦することを勇敢と賛美した痛恨極まる経験を持っている。あのとき若者が「引き籠も」れなかったことこそ問題にすべきではないか。

 政治がなすべきは、「引き籠もり」の青少年と、そうではないと見える青少年の隔たりを具体的に埋めることである。
相談の窓口を設けることではない。そのためには賃金格差は補填し、公共住宅を整備し、社会保障制度を整えることである。つまり日本版現代ビバリッジ報告を早急にまとめ、「揺り籠から・墓場まで」の政策を短期間に実現することである。ナチスドイツと徹底的に闘い経済的に疲弊し気っていた英国に可能であったことが、現在のこの国に不可能なわけがない。現在と未来の生活の
隔たりがなくなれば、対話は可能になり理解は進む。引き籠もる理由は消える。
 引き籠もりを単独で政策対象にしてはならない、引き籠もりを含む政策でなければならない。個別の問題に限定すれば、そこに新たな隔たりや社会的分断を産む。 

 僕の学級に「引き籠もり」寸前の少年が、クラス替えで来た事がある。学年をまたいで断続的に彼の不登校は続いた。 彼は「先生なんかには、オレの辛い気持ちは分からないんだ」そう言って涙をこぼした。僕には判る気はしたが、為す術はなく途方に暮れた。(僕が引き籠もり気味になったのは
、高三から浪人にかけてであった。非常に辛かった。周囲の全てが壁に見え、深い谷に滑り落ちる気分に囚われた。だから引き籠もりの気分は少し判る)
 その彼を学級に導いたのは、級友だった。引き籠もり気味の少年を、その少年自身が考えている以上に心配する者たちがいて、なんとかしようと相談を繰り返していたらしい(放課後一旦帰宅して河原や土手に集まり、煙草を吹かしながら話し合ったという話を後から聴いた。少年にとって逸脱とは何かを考える格好のエピソードだと思う)
 彼らの結論は、既に練習の始まっていた文化祭の舞台に引きずり込む事だった。彼らはこう言った

 「やっぱりお前が入ってないと、何か抜けているようで詰まんないんだよ」時間をかけて口説き落としたのだ。はじめその話を聞いた時、いいアイディアだと感心したが、実現は無理だと思っていた。だがいつの間にか主役の一員として欠かせない仲間になっていた。恥ずかしげに照れながらの演技が印象に残っている。 
 社会的「引き籠もり」を耳にするたび、彼らを思い出す。教師や行政の目線や言葉による対策は乱暴で無効だとつくづく思う。


記  フェルマーの最終定理の証明を360年後完結させたAndrew wilesは、屋根裏に7年以上引きこもった。Marcel Proustは 3000ページ以上の大著『失われた時を求めて』執筆のため、死の直前まで引き籠もった。Yakovlevich PerelmanはFields賞も100万ドルの賞金も拒否して、今尚籠もっている。
 狩野亨吉も偉大な引き籠もりである。←クリック である。

たった一人で理不尽に立ち向かった高校生

六百戸もの町家を取り壊して何の重要文化財か
 将軍家斉には、53人も子があり、その半分が成人した。その全てを大名家に受け取らせた。家斉の子女は、知能不足や虚弱・障碍児が多かったとも言われる。事がすんなり運ぶ筈はない。至る所で無理が生じ、各大名家には騒動が起る。将軍の子を婿に押しっけられた大名は、涙を呑んで実子を廃嫡しなければならない。実子を守り育てた家臣たちは、密接な利害関係者であるから、将軍家の横車に怨嵯の声もあがる。
 家斉の姫を嫁に押し付けられれば、莫大な費用が掛かり藩財政が疲弊するだけではない。夫人が、良人よりも頭が高く尊大になり、大奥から付いて来た女中たちは、藩士を見下すのである。
 加賀の前田斉泰は、14歳の溶姫を妻に迎えた。江戸上屋敷には、新たに丹塗の門が設けられ内側には壮麗無双の主殿及び庭園が造られた。庭園を造るだけでも、半年もの間毎日百人の人足が働いた。敷地から巨石がが出て、その片づけだけで千二百五十両を要した。その
ために六百戸もの町家が取り壊されている。 新築の主殿に溶姫が引き連れて来た人数は、大上臈一人、小女臈一人、介添二人、御年寄二人、中年寄三人、御中臈頭一人、御中臈八人、御小姓一人、表使い三人、御右筆三人、御次六人、呉服間五人、御三ノ間七人、御末頭二人、御中居三人・使番三人、小間使い三人、御半下二十人。さらに男が、御用人二人、御用達し一人、侍八人、医師一人が付いた。百万石も、この嫁取りで一挙に財政が傾いたと柴田錬三郎は書いている。

 佐賀藩主鍋島斉直は、嗣子直丸に家斉の盛姫を押しつけられた。その掛かりの大きさに参勤交代道中の費用もなくなり、病気と称して出府を半年のばす始末。三十五万七千石の大名が、財力も尽きるほどの迷惑であった。 

 阿波藩に世継ぎとして押しつけられた斉祐は12歳であったが、7、8歳の知能も有しなかったという。
 

 それでも藩の迷惑はたかが知れている、民百姓に転嫁される負担の過酷さを思うべき。体制は潰れさえすればいいのだ、できるだけ簡単に。民百姓は生きなければならない。
 必要なときに変えられない仕組みは、根底において腐っている。生きてはいない、生きているとは反応することなのだ。

 下町の工高に朗らかで体格もよく頭脳明晰な少年が入ってきた。成績は抜群で担任によれば、内申書は「5」や「4」が多く、小さな町工場の跡取りになることを決意していた。僕は彼の「現代社会」を受け持った。 人をまとめる聡明さの片鱗を見せてくれた。
 ところが学期末成績に一つだけ「1」が付いた。 教科担任によれば、白紙で名前もないという。少年は「あの先生の授業は授業ではない」という。二学期も三学期も、白紙が続いた。三学期になると「名前さえ書けば単位はやる」と教師は言った。
 僕がこの学校に着任する前、同じ事があったことを聞いた。ただそれは一年生ではなく、三年生であった。

 「寿司屋に入ったら、先ず玉子をたのめ」と、その教師の授業は毎年同じように始まる。初めのうち、生徒は感心している。凄い物知りだと、学級日誌に書く。だが次第に「今日も寿司の話だった」と書くようになる。そして授業は、名門大学に進んだ子どもの自慢から、息子の会社の自慢、世界に広がる一族の自慢に続く。その三年生も答案を白紙で出した。三学期になって青ざめたのは、件の教科担任であった。名前さえ書けば単位はやると譲歩した。しかし三年生は頑として応じなかった。「あいつからだけは単位を貰いたくない」が彼の言い分だった。
 朗らかな一年生の主張は「名前を書いたら、まるでこっちが悪いみたいな事になる。悪いのは授業をしないあいつだ」だった。
 原級留置が決まる成績会議で、僕は単位制でありながら学年制である事の矛盾を述べずにおれなかった。しかし、僕の問題提起への支持はいつもない。
 彼は最後に、社会科準備室に来て「先生、ありがとう。先生の授業は忘れないよ。・・・オレ親父と相談したんだ。高卒の資格を検定で取って大学に行くよ。高卒で十分だと思ってたけど勉強することは一杯あるね」
 
件の教師は退学することを条件に、単位を出した。検定試験が楽になる。

 何かを断じてしない事、で筋を通す。ガンジーならばハンスト。授業しない教師の理不尽に、たった一人で立ち向かう青年らしい抵抗が尊い。

 僕は理不尽な授業を受けた生徒が、一斉に白紙無記名の答案を出すことが高校生らしい自治行動だと思う。ボイコットして座り込み、そして街に出ろ。理不尽な振る舞いをする側が、様々に結束しているのに遠慮することはない。そうでなければ過労死社会は潰れない。 
 涙の行事を教師の指導の下で繰り広げることが自治ではない。部活で校長室のトロフィを増やすことが誉れではない。納得がいかない理不尽を変える、それが青年の特権である。
 過労死と戦争の待ち構える己の未来は祈りや歓声では変えられはしない。 

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...