メダルが欲しいなら、他人の財布に手を突っ込むな

競い合いは金を知らぬ知らぬ幼児に限る
 五輪を一年延期しただけの追加費用に少なくとも6000億円はかかるだろうと識者は試算している。IOCや東京都は口裏合わせて3000億円と低めに言い逃れる。IOCは五輪中止に備えて保険をかけているのだから、延期に対して費用負担はしないだろう。

 一体メダル一つにいくらかけるのだ。僕が不思議でならないのは、
sports personたちの、「そんなに金がかかるのなら止めよう、少なくとも私は出ない」との健康な発言がないことだ。国民の健康や福祉が未曾有の危機に瀕している時にである。僕は観戦する気にもなれない。
 都民は、国民は一度だって積極的に五輪招致に賛成した事は無い。まして財布を差し出して、「いくらでも使って、もてなしてくれ」とは言っていない。僕は五輪商業化を阻止するために、次のような国際条約を提案したい。

 五輪に公的資金を一切使ってはならない。マスコミのスポーツ支援=支配は禁じる。競技や会議を放映するもしないも自由。五輪運営は、見たい者・出たい者など賛成者の自己調達資金のみによる。会計は1円に至るまで随時公開する。大会役員は絶対無報酬とする。ホテルや交通手段は、エコノミークラスとバス地下鉄自転車。メダルは一切止めて、記録そのもので満足する。種目は減らし、IOCは解散する。
  国体もインターハイもそれに倣う。

「小学区制」に戻れ・・・九月入学より直ちに授業

 今直ちに、教師も生徒も一番近い学校に出向き授業をし、授業を受ける。単位不足や時数不足などは、柔軟に容認する。科目の読み替えも柔軟に。何より肝腎なのは、交通機関を使わないことだ。20歳台以下のコロナ死は世界的に見ても極めて低い。
 コロナ禍は「小学区制」=新制高校の理想に戻る機会ではないか。残念なことに、我が民族は、自ら革命的決意をしたことが無いから、こんな機会を利用するしかない。

 政府にはコロナウイルスから国民の命を守る姿勢はない。一旦は「PCR検査体制の1日2万件への倍増」を表明したが、厚労省の補正予算案では僅か 49億円。これが如何に少ないか、アベのマスクに 466億円計上ことに比べれば分かる。つまり政府は、偽りのコロナ関係統計を作りながら、国民を殺す。

  「PCR関係には49億円の費用が着いている。厚労省にどういう算定なんだと聞いたら、55万件分のPCR検査のお金だと。一日あたりに直すと1500件なんですよ」NHK「日曜討論」(26日放送)で国民民主党の泉健太政調会長発言。
 宗教政党が予算に口を挟めばこのざまだ。命を軽んじるにもほどがある。
 九月入学制度への移行が喧しくなっている。夏までにはコロナ禍も収束すると観て、この際日本も国際社会と歩調を合わせて秋入学にしたらどうだと言う。夏までに都合良く収まるだろうか。
しかしコロナ禍は長引く。万が一収まれば、さっさと秋入学にすれば良い。最初の年度は、四月から九月生まれの若者が増えることを覚悟する必要がある。過密になる。教室は足りなくなる。金も足りなくなる、工事は間に合わない。
 

 そんなことより、僕は偏差値による選別制度こそが世界標準からズレていると思う。選別が遠距離通学を子どもにも教師にも強いている。通勤ラッシュもそれが加速している。
 高校入試の廃止に向けての千載一遇の機会でもあると思う。平等から逃走し格差を
有り難がる風潮からも、解放される。

 例えコロナ禍が収まらなくとも、授業は学年別に午前・昼間・夕方に分け。一斉に登校しないから、一教室の密度は普段の1/3程度。
 「違った偏差値の生徒たち」が混じり合うことの、困難より可能性に期待しなければならない。フィンランドでも一つの教室に様々の「学力」の生徒が混じり合うが、別段フィンランドのノーベル賞が少なかったり、企業の競争力が低いわけではない。逆に日本だけが取り残されている。その元凶は、世にも希な偏差値による選別にある。九月入学が阻んでいるわけではない。
 (大学世界ランキング(タイムズ・ハイヤー・エデュケーション・ランキング)で日本は上位にない。トップ20には、中国6校、韓国5校、香港5校と比べて日本は2校だけ。 経営大学院(MBA)で、トップ100に日本はゼロ。
 科学技術振興財団の調査では、先端151分野の有力論文ランキングの各分野1位は全て米国と中国。最重要分野AIでは、世界10位に過ぎない。
 英語力の欠如が世界で競争できない理由の一つにあげたがるが、調査(EF EPI英語能力指数)対象100カ国中、日本は53位。アジア25カ国中でも11位。韓国6位、ベトナム7位、中国9位。 ノーベル賞学者の数も所詮過去への評価に過ぎない。)
  様々な階層の生徒たちが混じり合うことで、文化的政治的多様性と豊かさも生まれる。
 m先生の生徒が呟いた「私、ソシュールかも」も、こんな教室で大きく生きる。ai機器を駆使した「最新式」の授業より発展の可能性は高い。

 様々な学校からの生徒が集まるのだから、ウイルス塗れで洗濯のきかない制服も廃止したらいい。ジャブジャブ洗えるTシャツのほうが清々しい。
 
 一体どれほどの時間と費用が節約されることだろうか。暇こそは学芸の源なのだ。

言葉を失う / コミュニケーションの絶対的不全

 日本軍が通過すると兵隊の放つ悪臭が数キロ先まで匂ったと言う。食料補給もなく現地農民からの略奪と強姦・殺害の日々。風呂にも入らず洗濯もせず、病気になれば糞尿塗れの体には蛆が湧いた。蛇や人肉さえ口にしながら、理不尽極まる命令系統を維持した。  なぜなのか、大岡昇平の作品を読む度、言いようのない暗く重い絶望感に囚われる。

 世界各国の中学教師が、自分の仕事に満足しているか聞かれた。OECDの統計である。殆どの国が、90%以上の満足度、少なくとも80%台を示している中、遙かに隔たって50%に満たない。 言葉を失う。
 
  アジアの旧日本軍と現在の日本の教師たち共通するのは、コミュニケーションの絶対的不全である。

 日本の中等学校教師たちが労働対象にしているのは、人間そのものではない。だから、知的好奇心を解放し批判精神を通して、文化を共有し人々と連帯することではない。少年を人為的に偏差値別に選別して、数値を競うための短期記憶を注入する。   
 アジアの旧日本軍は、アジア解放を掲げながらアジアを理解しようとしなかった。独善的な皇国史観を上から注入するばかり。 
 コミュニケーション不全は絶対的に生じることになる。
 今学校では、この不全は「指導拒否」と言う言葉によって、常に絶対的に少年の側の咎と処理される。アジア各地における現地民と軍とのコミュニケーション不全は、「スパイ」容疑による抹殺で解決した。

 点数や競争から自由にならない限り、どんな教育理論と方法が華々しく権力発で喧伝されようとも、「自分の仕事に満足できない」蟻地獄は続く。
 先ず少年たちと自由に会話する「覚悟」を固めることだ。何故なら、教委や管理職だけでなく同僚からの眼差しからも自由でなければならないからだ。

 コミュニケーション不全は、discomunication と訳されるが元々英語にはない。鶴見俊輔が使い始めた和製英語である。英語にあるのは、miscomunicationである。 
   misなら修正できる。しかしdisであれば、関係性そのものが成立しない。
   
 駅前の地下商店街に野菜屋が三軒隣り合っている。店主たちは唾を撒き散らしながら、隣に負けてはならぬとばかりに『安いよ、お買い得、ご利用ご利用』と引っ切り無しに、ダミ声を張り上げる。客の知りたいことは何も言っていない。「ブドウは今朝もぎたて」とか「一房500円」等とは決して言わない。地下で空気の通らない場所で、コロナウイルスを考えれば、犯罪的暴挙でもある。余りのうるささにに逃げる人もある。 これはdiscomunicationである。何の効果も無いし危険極まりない、混乱させるだけ。
 もし米屋で「福島の新米だよ、放射能はないよ」と売っていたら、 miscomunicationである。訂正すれば、信用は落ちるがなんとかなる。抗議もし易い。

 学校にも、政治にも、取引にも、discomunicationが蔓延しコミュニケーション不全に陥っているのが日本である。







 

続・僕の病牀六尺


   今僕は、ナッシュ均衡でノーベル経済学賞受賞の数学者、ジョン・ナッシュが悩まされた妄想に興味がある。彼はある不運な事件で学者としてのポストを失うが、それと共に強い妄想に取り憑かれる。その妄想に登場する人物は声や姿だけではなく、触覚まで彼にもたらす。如何に彼が妄想を克服するか、緊迫感がある。
 今僕にとって、例えば安倍晋三がとり憑かれている妄想と如何に闘うか実践的な課題だ。小さな安部は身近にも満ちているからだ。単に真似しているうちに疑似感染してしまう。
 大きなものでは、例えば「70年代の遅くない時期に・・・」との連合政権妄想は青年学生の青春を翻弄し、僕の周りでも多くがそれを或いは信じ或いは批判して不幸な目にあっている。その傷跡は小さくない。
 権力者の「妄想」を自由に批判でき、克服する集団は如何に可能か。それは ←クリック にも書いた。  続く

乞食根性丸出しで「もらえる」「もらう」と言うな

貰い物の勇気でレジスタンスは出来ない
    金メダルplayerの活躍や「芸能人」の登場を見て、「おかげで元気を貰った」「勇気を貰った」と人が言うようになってだいぶ経つ。天皇一族を見かけて涙する者までいる。しまいには、首相が居間で貴族気取りの脳天気な姿を見て、怒るどころか「励まされた」と言う輩まで出る始末。
 漫画や映画に登場した場所を「聖地」と呼んで有り難がり、聖地巡りまで流行る。

 「元気」も「勇気」 も他人から貰うものではない。自分自身の生き方や決意から生みだすもの、自分自身の人生の「主体性」を込めた単語だ。それを他人に載せて有り難がる手軽さ。自分の人生が軽くなったと知るべきだ。漫画やテレビに出た場所を聖地と言うなら、自分の日常の場は何と言うのか。俗地や汚穢地か。そのことに、気付け。個人の尊厳を自ら毀損するこれらの現象の卑屈さに。

 運動会で入賞すると、ノートや鉛筆を校長が手渡しする。あれも「貰」うと言ってしまう。英語ではgetを使って、競技した者の主体性が貫かれる。卒業証書も貰うと言うな、自らの能力でget(獲得)するものだ。だから校長や日の丸に恭しく頭を下げてはならない。
 武将や貴族から下げ渡された「貰い物」を家宝にする詰まらない習慣がある。武将が自分で作ったものならまだしも、民・百姓から巻き上げた金で購った物だ。はっきりそう言え。

  新聞やテレビの景品付き商品の宣伝でも、今なら何々が「貰える」と可笑しな物言いをする。「貰える」の主語は何だ。
 政府の無策で生活を破戒された人々の、必死の叫びと行動で漸く実現しそうな「一律十万円」まで、「貰える」と口走ってしまう。
 宗教政党から「頂戴する」のではないぞ。お前は主権者だ。どこから出る金かよく考えろ。

 そして、「貰った」つもりの元気と勇気を何に使えるか、考えたらいい。そんなものは、紛い物だということに気づくはずだ。
 「貰」という字は「お貰いさん(乞食)」や「ものもらい(眼病)」に使った。乞食になるな、我々は全て主権者なのだ。

仕事を分け合うドイツの「持続可能性」

童話から学んだドイツのサスティナビリティ
   新型コロナウイルス感染症はドイツでも猛威をふるった。しかし、その致死率は、近隣諸国に比べて驚くほどに低い。
 医者の数が、日本は致命的に少ない(人口1000人あたり、日本は2.3人、英国2.8人、仏国3.1人、独国4.1人、米国2.6人)。ことが大きいと書いた。https://zheibon.blogspot.com/2020/04/blog-post_8.html
 だが一人で背負い込まず「働かない」文化=ワークシェアリングを許容し合う豊かさにも注目する必要かある。

 蜂や
蟻は常に忙しげだが、実際に働いているのは2割から3割に過ぎない。しかし危急の事態に力を発揮するのは、怠けているように見える蜂や蟻である。普段から全員が働きづめであればいざという時、集団は疲弊して存続できなくなるのである。あらゆる組織が、働かない者を常に確保しておく必要性があることが分かる。

「残業せず、休暇はしっかり取る」ドイツ。2018年OECD38カ国のデータでは、ドイツの労働時間が最も短い(日本は22位)
   残業はしても「長時間働く人ほど評価が高くなる」わけではない。ドイツ人も働かないというわけではない。
 管理職は仕事内容で給料が決まる、それが労働に於ける世界標準である。彼らは労働時間は決決められていない、残業代もない。しかし、ガツガツ仕事で上を目指す人間は進んで残業するし、家に仕事を持ち帰ることもあるという。

 時間労働者は、1日の上限は8時間、上限を過ぎて働いた分は残業代ではなく時間で補償される。つまり、その分他の日に早く帰ったり、貯まった残業時間で休暇を取ることで還元される。この労働時間管理システムは特殊なものではなく、ドイツで普及しており、「労働時間口座
Arbeitszeitkonto)」と呼ばれる。ただし、大企業以外は事情が異なる。ドイツでは10時間以上の労働は違法となるため、日本同様サービス残業もあるからだ。それでもそれでも「長時間働く人ほど評価が高い」という評価はなく、他の人が帰らないから帰りづらいことはない。仕事の内容が契約で明白だからである。

 個人の長い休暇で、取引に差し障っても社会はまわる。そう社会は構成されねばならない。社会のために個人に我慢を強いることの愚かさを知るべきである。

 ドイツの年間有給休暇は、6カ月勤務で年24日以上。日本は6カ月勤務で年に僅か10日。更に忘れてならないのは、ドイツでは有休休暇と別に病気休暇が制度化されていることである。

 取引相手の担当者が休んでいる時、事情が分かる人が他に居ないか聞くと「その担当は自分じゃないから分からない」と軽くあしらわれる。社内で鍵を保管している人が長期休暇に入ってしまい、書類キャビネットが開けられなくなる。仕事は個人に属するからである。
 客へ迷惑を掛けないシステムを徹底ししない。お互いに迷惑を掛けあい、不便をかこちあいながら生きる社会なのである。

 結局我々日本人は、たかが単なるシステムのために首を絞めあいながら生きている。職場のいじめやパワハラは構造的なのだ。
 迷惑と不便を許容すれば、他人が何をしようと同僚や顧客が自分にどのような評価を下すかも問題にしない。 

 日本なら直ぐ携帯で呼びだすことでも、休みに入った人の携帯にはかけない、それが常識化している。仏国会は勤務時間外の連絡を法で禁じられた。

 皆勤や精勤を式や賞状で褒めることが如何に愚かなことか、今更気付いても既に手遅れ。少なくとも学校は過労死やDVの責任を負わねばならない。
   僕は皆勤が習慣になった生徒たちに、通学電車で都心まで乗り越す
楽しみを教えた、実行も奨励した。平日の都心の雰囲気は、彼らには新鮮な発見だったらしく、暫くは教室の興奮が収まらなかった。
 そうでなければどうして教師が自由に休めようか、ストライキも打てない。それは義務とモノだけが増えてゆくゴミ屋敷的人生。卒業式で皆勤や精勤の生徒が次々と呼ばれることほど恥ずかしいことはない。 
 血が出ても死人が続出しても、「無駄」を徹底的に排除し、社会の持続可能性の根幹を断ち切る起業家や政治家そして教育舎たちは、日本が短期間に疲弊してしまうことを望む「売国奴」に違いない。その証拠にやけにカタカナ語をひけらかす。

ホームズの敵モリアティはなぜ「教授」なのか / 戦争も株価も専門家に任せてはならない

専門家は自由な判断をしない
   シャーロックホームズは、バイオリンを嗜む科学者であり、探偵は余技である。対してモリアティは professorであり、依頼人のために悪の限りを尽くす存在として描かれる。日本ではモリアティを教授と訳しているが、中国語では専家と訳している(彼の表の顔は、大学お雇いの数学教授)。つまりモリアティは、悪で喰う専門家として描かれている。それで喰っているのだから、その悪の依頼主の意向がモリアティの判断の基準となる。
 アメリカでは、雇われた専門家が雇い主の意向に反してまで良心の自由を貫こうとすれば、雇い主は法的に証言を無効に出来る。雇い主に従う義務が専門家=  professorにはある。福島の原発事故で、原子力工学の専門家=professorたちが情けないほど東電の意向からはみ出なかったことを思い起こしたい。
  professorを無闇に有り難がるアメリカや日本に対して、イギリスでは professorは胡散臭い存在として認知される。BBCでも、Oxford大学の教授=professor=専門家たちが不正の虜に成り下がる様を遠慮無く描いている。

 ナチスドイツと孤軍奮闘でソビエと同盟して闘ったチャーチルは、戦争の専門家ではなかった。だからアメリカの外交や戦争の専門家のように利害優先の判断に引き摺られることはなかった。つまりナチスとの同盟で利益拡大を伺う専門家の判断から自由であった。
 その自由の根拠は、英国紳士や文化人の名誉とも誇りともする「教養」と「リベラルな文化」である。米国が、ナチスドイツと組むか英・ソと組むか、その帳簿上の収支を巡って投資や戦争の専門家たちが迷っていたとき、素人リベラリスト・チャーチルの判断は正しかったのである。しかし大戦末期の総選挙で、大戦勝利間近に迫った偉大な英雄チャーチルは意外にも大敗北した。
 英国民には戦争の専門家となったチャーチルはもはや必要なかった。戦争で経済的に疲弊していたにも拘わらず、「揺りかごから墓場まで」の福祉国家を掲げた労働党を選んだのである。(「揺りかごから墓場まで」の基になったビバレッジ報告そのものは、チャーチル率いる保守党によるものであった)

 英国の学者は自費で自宅に研究室や実験室を置き研究して、論文を書き上げ自費出版する伝統がある。出版社や業界の判断から、自己の自由な判断を守るためである。
 日本や米国の学者=professor=専門家は、名誉ある自由で良心的な判断より収入の極大化を求める。

 株価も政府や証券会社などに巣くう専門家が、権力の意向に従っていてはならないのであって。自由な素人の雑多な判断が総合されなければならない。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...