他人の財布で「おもてなし」するこの国の文化構造と学校の闇

  ノルウェーのオスロオリンピック招致委員会は、五輪を辞退。招致合戦では最有力だった。

 国民があきれ憤慨したのが、五輪開催中に必要とされた豪華接待。その内容を地元ベルデンスガング紙の記事から抜粋する。

 / IOC委員への国王面会。式後のパーティー費用はノルウェー王室かノルウェーの組織委員会が持つ。/ 公道に委員専用車線を設ける。/ 各委員のホテルの部屋に組織委員長とホテル支配人の挨拶状と、季節の果物と菓子を届ける(2月のオスロで季節の果物を見つけるのは至難の業だが)。/ ホテルのバーは営業時間を夜遅くまで延長。ミニバーにはコカ・コーラ社の飲料を置く。/ 空港でIOC会長の歓迎レセプションを行う。空港には委員専用の出入り口を設ける。/ 開閉会式には各種アルコールを準備し、競技期間中は会場のラウンジにワインとビールを。/ 委員のホテル出迎えは笑顔で。/ 会議室の温度は常時20度に。/会場のラウンジに温かい食事を用意し、メニューは定期的に入れ替える。

   笑顔まで強制する神経は狂っている。IOCは常に胡散臭さを蔑む冷たい視線を浴びるに違いない。

 呆れるのは、オスロ撤退に対するIOCの声明。「冬季競技の熱心なファンであるノルウェー国民にも、自国で記録を達成する機会を逃すノルウェー選手にも、残念な決定だ」

 カエルの顔によく似たioc会長だが、まさにカエルの面にしょんべんの厚顔無恥ぶり。


 東京大会の招致条件は、オスロと異なって一部が漏れているだけ。それでもはらわたが煮えくり返る贅沢のし放題。

  例えばバッハはじめIOCや各競技団体の幹部は5つ星ホテルでの“貴族生活”が約束されている。東京都は大会期間中最上級4ホテル全室を貸し切り、IOC関係者に提供することを保証。「The Okura Tokyo」には、国内最高額とされる1泊300万円のスイート(720平米)があるが、IOC側の負担額上限は1泊400ドル(約4万4000円)まで、差額は組織委持ち。

 さらに今年4月28日に開かれた政府と組織委、東京都の五輪コロナ対策調整会議で、感染防止のために大会関係者と選手の移動は「新幹線一両貸し切り」「航空機はチャーター」など・・・。 

 勝ち抜けばとメッキの金メダルに煽られ、相部屋の選手村に詰め

込まれコンドームを配布される選手は、何故反乱しないのか。ローマ時代のグラデュエーターと変わらない惨めさにまだ気付かないのか。対して大会関係者はローマ帝国王侯貴族の待遇だ。待遇を享受するだけ。

 どうしてこんな「不条理」が21世紀に再現され、人々は熱狂するのか。無邪気なのか、狂ったのか。

 何故、王侯貴族待遇を嬉々として差し出すのか。自分の財布は開けもせず、「おもてなし」と言う神経はどこで培養されるのか。我々は今なお、農奴なのか、奴隷か。根性は確実にドレイそのもの。

 どんな場面で、我々はドレイか。例えば修学旅行では、旅行会社と教委ののドレイ。3泊4日連続勤務で疲れ果てても、碌に代休も取れない。入学生が決まる前に修学旅行先と日程を決めてしまう。生徒の希望など聞きもしない。旅行代理店に「待ってくれ、せめて学年が始まるまで」と言うと、「この時期の京都は希望が多くて10学級で宿は確保できません」

 見え見えの嘘。旅館に電話すればすぐわかる。先の年の予約を多くすれば、担当者の手柄になるからだ。

 僕が新学年を受け持った時、こう言ってやった。「伸ばせないんだろう、いいよ。そのときは旅行を中止する」。一年伸ばした。何事もなく予約できた。一事が万事この調子だ。例えば駅弁、何年も前に数百個を注文するのに一切割引もせず、定価に一割を上乗せする。しかも弁当は車両ごとに段ボール箱で置くだけ、生徒が配る。手間を幾重にも省いて、割増とはふざけて居る。こんな事例が山ほどある。旅行社はぼったくりし放題だ。このぼったくりで旅行社は、日頃の過当競争の赤字を埋める。だから教師に少しうまい汁を吸わせて、黙らせるに限る。修学旅行の利権のメッカ修学旅行協会は、退職校長の天下り先の一つになっている。

   このことを教えてくれたのは、四谷二中の同級生だ。父兄にはヤクザも弁護士も記者もいた。

 大広間での食事の最中「おい! 知ってるか。なんで今先生たちはいないんだ。別室で旨いもの食ってんだぞ。」数人で僕らは乗り込んだ。確かに格段に豪勢だった。僕らが安っぽいハンバーグ、先生は上等のステーキ。生徒が小皿の刺身で教師は船盛。

 「きたねえよ、先生」一斉に叫んで、大広間でばらした。次の日教師も大広間だったが、訳知りの同級生が「寝る前に先生の部屋の行こうぜ」と知恵を付ける。案の定、酒とおつまみとおにぎりの山盛りがあった。

 浴衣姿の担任達は慌てて「お!お!お前たちも腹減ったろう、食え」と言った。瞬く間に中学生の手が伸びた。旅行社は自分たちの懐に手を付けることなく、不当な手数料やカルテル行為のほんの一部分をはねて教師を飼い馴らすのである。

 こんな馴れ合いの悪習がどんな職場にもある。町内会や町工場にも。病院や警察にも。

 それをさっさと一掃しない限り、政権のIOC特別待遇も無くならない、少しづつ皆どこかで似たマネして片棒担いでしまうのだ。

 僕の高校では学年修学旅行委員会を組織、旅行業者面接・選定は生徒がやった。質問項目はクラスごとにアンケート集計した。各種手数料の細目や原価も手に入れた。航空運賃は保護者の中に日航の管理職がいてかなりの割引率を引き出した。そんな場にも文部省は修学旅行協会を使って横やりを入れてきた。官僚になろうとする者がどんどん減っていった。

 O工で担任していた時、Aさんと大島遠足の下見に行ったことがある。竹芝桟橋に着いた途端、船会社から呼び出しが掛かる。特等室が準備してあると切符を呉れようとする。僕はこういう乞食扱いに滅法腹が立つ。「旅費は出ている、二等二枚」と怒りながら金を払って窓口から切符を受け取った。 大島に着くまで何回船内放送で呼ばれたことか。大島桟橋に着くとタクシーが「お迎えに上がりました」と言うが、路線バスを待った。山頂に着けば、休憩小屋の姉さんに名前を呼ばれたのでうっかり返事をすると、刺身と明日葉のてんぷらの食事とビールの用意がしてあるという。

 「下見の時はいつもこうするの」と聞けば「はい」というではないか、つくづく教師は舐められている。食欲は萎えた。無論断った。ムカムカして予定にない温泉ホテルまで歩いた、ここでは呼び出しはなかった。帰りの船でも、呼び出しは続いた。

 次の日職場新聞に、下見でひどい目に遭ったことを書いた。こともあろうに職員会議で僕は責められてしまった。「これを読めば、まるで今までの下見は、供応を受けていたと言ってるようなものだ。取り消しなさい」驚いた。あるベテラン教師が立って「そんなこと何処に書いてありますか。第一、今まで接待を受けていたのは事実じゃありませんか。取り消す必要はない」と発言して一気に収まった。


 予備校や大学の説明会でも不可解なものを呉れようとする。交通費代わりと言って何やらカードや包みを出したり、両手一杯の土産や弁当を準備する。ある説明会受付でも5000円の交通系のカードらしいものを出すので、「交通費は出ているからいらない」と言うと、急に扱いが丁寧になったことがある。帰る時も覚えていて駆け付けて挨拶をするから「いかがわしいカードより、嘘のないデーターと良い授業をお願いしたい」と言ったら恐縮していた。

 このほかにも、学校では業者との馴れ合い悪習が止まない。その最も大きな要因は、教育が何時までも「完全無償化」されず、私費に依存するからである。数百人から数万の生徒・学生から毎年、毎月集める費用は膨大。旅行代理店は、年に一度、一校の旅行をとりしきれば後は開店休業でやって行ける。そう言って笑ったのは、二中の卒業生で小さな旅行代理店を構える男だった。

追記 日本の最も深い闇といわれたハンセン病療所にも「業界」が存在した。不条理の極致にあって、患者の財布を文字通り盗んで、最も深い闇帝国の支配者たちが互いに「おもてなし」していた。その全貌は未だに暴かれず、誰一人刑事罰を受けたものはない。このことは怒りを込め、追って書く。

日本の医師は病気治療の専門家なのか、教師は授業の専門家ではないのか

 







 ある大きな病院での話である。ある科の医長が、この頃やかましい癌でなくなった。ところが次の医長がまた追っかけるようにして、これは科学的にはっきり原因のつかめない奇病でなくなった。病院では不吉なことだというので、神官を招いて「おはらい」をした。それだけではない、家相のせいかも知れぬとあって、壁をぶちぬいて部屋の模様がえをした、というのである。これが東大系の医師を主流とし、医者はもちろん職員にも高度の教育を受けたインテリのそろっている東京でも一流の病院の話だから、まことに困ったものである。しかし、私はここでただちに神道のはらいそのものを批判するつもりはない。家相云々にしてもその結果しろうと眼にも確かに部屋が明るくなったし、これもまたむきになって非難するほどのこともない。

 私の問題にしたいのは、今日この国の最高の教育を受けたと称する人々のもつ宗教性の、何ともやりきれない程度の低さである。平生、科学万能で、ほとんど宗教などには無関心な人々、他のことになると実に合理的に処置することのできる高度の教育を受けた人々、甚だしいのは常に宗教など迷信視している無神論者までが、ちょっと逆境に立ち、少し不吉な環境が続くと、たちまち平素の合理性はどこへやら、まったくお話にならぬ程度のひくい宗教のとりこになってしまう。  秋月龍珉『公案』ちくま文庫

  彼は、鈴木大拙を嗣ぐ禅の師家である。医大の教授でもあるから、ここに引用した文には格別の重みがある。

 僕にも医者の友人がある。小学校から大学に至る同級同期にそれぞれ医者がいる。そんな縁もあって、医局に何度か入ったことがある。成績のいい連中であったから、医局にも内外の最新の医学誌が溢れていると思い込んでいた。だから漫画や週刊誌が散らかっているのを見たときは、心底驚いた。医学は日進月歩、それを追いかけるには夜も昼もない。そんな先入観が我々にある。緊張で疲れているなら窓から中庭の緑を眺め美しい絵画や写真を掲げ、音楽でリラックスする。そんな職業だと考えていた。

 尤も教師の職員室も褒められはしない。僕が教員になりたての1970年代、古い都立高校の教科職員室は何処も天井まで届く書棚に囲まれ重々しく文献が並んでいた。本棚はおろか机の上から専門の書籍が姿を消し、会議書類のバインダーと部活や行事のHOW TOものだけになるのに大して時間は掛からなかった。

  「・・・今日この国の最高の教育を受けたと称する人々のもつ宗教性の、何ともやりきれない程度の低さ・・・。平生、科学万能で、ほとんど宗教などには無関心な人々、他のことになると実に合理的に処置することのできる高度の教育を受けた人々、甚だしいのは常に宗教など迷信視している無神論者までが、ちょっと逆境に立ち、少し不吉な環境が続くと、たちまち平素の合理性はどこへやら」と言わねばならぬ状況が日本の医者にはある。日本の医師の殆どは個人医院の経営者である。医療に専念する前に医院の経営に関心を奪われてしまう。

      公的病院       民間病院         

日本    約20%       約80%

アメリカ  約75%       約25%

イギリス  大半        一部のみ

フランス  約67%        33%

ドイツ   約66%       約34%                 「諸外国における医療提供体制について」厚生労働省

  イギリスがベヴァリッジ報告に基づいた「ゆりかごから墓場まで」の 福祉制度を可能にしたのは、医師が煩わしい経営から切り離されているからである。

 つい最近日本医師会が社会的pcr 検査にようやく前向きになったのは、彼らの大部分が病院経営者だったからである。     経営のためには、患者の健康は二の次にしている。コロナ分科会の専門家が揃いも揃って政権の愚策に振り回されるのも、彼らの業界が「医院経営」の柵から自由になれないからである。日本の医師はゆっくり患者を診る時間さえない。

 情けないではないか、病気治療の専門家が「ちょっと逆境に立ち、少し不吉な環境が続くと、たちまち平素の合理性はどこへやら、まったくお話にならぬ程度のひくい」判断に流れざるを得ない状況。

 教員も今や授業の専門家とは言い難い。個人経営の部活経営者になってしまっている。日本の知的財産がもう底を見せているのにさえ気付かないのだ。文科省は教師を授業の好きな教科の専門家にはしたくないのだ。

   日本では医者も教師も、雑務に追われて何一つ専門に専念出来ないまま朽ちてゆく。

   教師にも医師にも、重大な弱点がある。教師は受験業界や修学旅行業界との柵を断ち切れない。医師は医薬品業界との癒着を問題にさえしない。この件は追って書く。


福井地方裁判所の建築が目指したもの  なぜ生指部長は生徒が選ぶべきなのか

 

 日本占領軍の勧告にもとづいて企画され、甲府そのほかの地方裁判所の新築が着手されたが、それらのうちの福井地方

福井地裁を、新聞は映画館のような
ぜいたくと書き立てた。
裁判所が模範的に完成したとき、日本の新聞などの世論は必ずしもその意義を理解せず、映画館のような裁判所だとか、ぜいたくな設備だとかの批判もあったので、ぼくは参議院の法務委員会の委員として新築された福井地方裁判所に派遣され、その新しい民主主義的な人権尊重の裁判所の建築が期待された効果をあげているかどうかの実情を報告することとなった。

 民主主義の裁判所の人権尊重の明るい新建築の模範としての福井地方裁判所は、敗戦までの日本の威圧的な、冷酷な、暗い建築が天皇制国家権力に対する人民の服従を強制していた裁判所とはまったく対照的に、いかにも民主主義国家の個人尊重の希望を体現していた。その大法廷の床は明るい色の、やさしく人をむかえるじゅうたんでしきつめられ、被告や傍聴人の座席は高扱映画館なみ。家事審判、家事調停の部屋も、壁には絵、テーブルには花瓶、とホテルのようだ。

 これまでどんなところで家事の審判や調停をしていたか、というと、バラックのガタガタいう板の間にガラスのつい立てをおいて、向こうでも、こちらでもはなしをしていた。向こうのはなしのほうがおもしろいと、こちらのはなしはやめて、聞いている。とてもおちついて調停なんてできるものではない。それがホテルの部屋のように、油絵の額がかかり、花がかざってあり、やわらかいじゅうたんに楽ないす。これはぜいたくか、と現地で調査すると、家事調停は、これまでとちがってほとんどすべて成立するようになったという。新しい、明るい、じゅうたんをしきつめた美しい法廷になってから、一回も紛争がない、本当に模範的だ、と裁判官もうれしそうに語っている。

 最後に、被告が拘置所から裁判所に連れてこられて開廷を待つあいだの控え室を見たい、と要望したぼくが案内されたその部屋には、ベッドがあり、セントラル・ヒーティングの暖房の装置もついている。これはたしかにこれまでの国家権力主義では考えられなかった百八十度の民主主義の改革、人権の尊重だ・・・

 ぼくの恐れていたとおりに、その部屋のドアの下の地面に接するところに穴があいているのだ。これが急所である。最後のところで民主主義をうらぎるのだ。被告の食事弁当を差し入れる入れ口がドアの地面に接するところについている。これは敗戦までの日本の天皇制国家権力主義の人権無視のあらわれであり、警察でも、拘置所でも、刑務所でも、被告や収容されている人の食事をわざと泥土におく卑劣な差別の伝統だ。    羽仁五郎『教育の論理』講談社文庫


    多摩の文字通り平均的な高校にいたとき、ある担任から生徒の「指導」を頼まれたことがある。その教師が担任するクラスのの生徒に、こともあろうに僕が「説教」する。弱った、東京で最もそれに相応しくない人間が僕だ。

 暑い日だった。僕は「何処でやってもいいか、話す中身に制限は付けないか」と念を押して、冷たい飲み物を用意してもらった。

  水辺の鬱蒼とした静かな木陰まで歩いた、担任も一緒。腰を下すと、玉川上水のせせらぎと小鳥のさえずりが聞こえる。  

 「ここを知っているかい」

 「知らない、初めて来た。涼しいね」と怪訝な顔をする。 

 太宰治はここで自殺を図り、四回目で死んだ。太宰はこう書いる。

「生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。」

 「実は何を話そうか、困ってるんだ。きみには言いたいことが一杯ある筈だ。先ずそれを聞こう」

  小柄な少年だった。僕にはこの生徒の何が「指導」に値するのか見当もつかない、聞けば反抗的で教科担任達が手を焼いているらしく、クラスでは浮いている。

  「その自殺した作家の話をしてよ」と少年。担任も頷いている。小一時間やり取りしながら話すうちに飲み物は無くなった。・・・

 「指導じゃなかったな」と言いながら戻った。

 半月が過ぎた午後、件の少年がやってきた。

 「先生、また指導してください」 

 「この前のやつは指導じゃないよ、困ったな。・・・よし今度は君が話すんだ」

  こうして水辺の木陰で何度か話をせがまれる羽目になった。相変わらず彼は聞くだけ。やがて文化祭・体育祭も過ぎ、少年は来なくなった。担任の報告では、クラスに復帰した。彼は僕の説教ではなく、あの木陰が気に入ったのだ。 

福井地裁正面玄関のステンドグラス
 学校の中に緑や文化に囲まれた落ち着く場所はない、隠れる場所もない。福井地裁が目指した環境は、主権者が誰であるのかを国民の皮膚感覚を通して啓蒙するものであった。国家の主人公に仕える僕(しもべ)=servantとは、公僕=public servant であることを誰の目にも明らかにするものであった。(その明示された意図をとらえきれなかった新聞は、新聞の役割が権力の批判であることに未だ目覚めていなかった)地方裁判所に続いて刑務所、少年院、学校・・・公営住宅が続く筈であったが・・・行政はGHQの撤退・朝鮮戦争によって真逆を目指した。

 だから学校の生活指導部は、少年/少女の権利を守り啓蒙する役割から大きく外れてしまったのである。「生活指導」が、懲罰的な成績や体罰に苦しむ高校生の訴えに基づいて行動する「分掌」となり、その責任者の最終的任命権は生徒に委ねられる可能性を秘めていた。児戯にも及ばぬ「模擬」投票のごときが、主権者教育と呼ばれることの不毛性に高校生は怒りを爆発させてよい。

 埃まみれの使い古し教材が雑然と置かれた陽当たりも景色も最悪の部屋で、主権者である少年/少女が威圧的「取り調べ」を受け反省を迫られ監禁される場所が今なお学校にある。羽仁議員が福井地裁で目撃した光景とは似ても似つかぬ世界が「日本国憲法」下で70年も続いたことに僕らは血の涙を流す必要がある。 

現役校長、行政を批判

  大阪市長松井一郎に現役の校長が「大阪市教育行政への提言」と題する文書を実名で送付した。本文を引用。

 豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために 

 子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。

 学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。さらには、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。

 今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はないのではないかとの思いが胸をよぎる。持続可能な学校にするために、本当に大切なことだけを行う必要がある。特別な事業は要らない。学校の規模や状況に応じて均等に予算と人を分配すればよい。特別なことをやめれば、評価のための評価や、効果検証のための報告書やアンケートも必要なくなるはずだ。全国学力・学習状況調査も学力経年調査もその結果を分析した膨大な資料も要らない。それぞれの子どもたちが自ら「学び」に向かうためにどのような支援をすればいいかは、毎日、一緒に学習していればわかる話である。

 現在の「運営に関する計画」も、学校協議会も手続き的なことに時間と労力がかかるばかりで、学校教育をよりよくしていくために、大きな効果をもたらすものではない。地域や保護者と共に教育を進めていくもっとよりよい形があるはずだ。目標管理シートによる人事評価制度も、教職員のやる気を喚起し、教育を活性化するものとしては機能していない。

 また、コロナ禍により前倒しになったGIGAスクール構想に伴う一人一台端末の配備についても、通信環境の整備等十分に練られることないまま場当たり的な計画で進められており、学校現場では今後の進展に危惧していた。3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。

 つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが「がんばった人間」として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。


 「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。そうでなければ、このコロナ禍にも、地球温暖化にも対応することができないにちがいない。世界の人々が連帯して、この地球規模の危機を乗り越えるために必要な力は、学力経年調査の平均点を1点あげることとは無関係である。全市共通目標が、いかに虚しく、わたしたちの教育への情熱を萎えさせるものか、想像していただきたい。

 子どもたちと一緒に学んだり、遊んだりする時間を楽しみたい。子どもたちに直接かかわる仕事がしたいのだ。子どもたちに働きかけた結果は、数値による効果検証などではなく、子どもの反応として、直接肌で感じたいのだ。1点・2点を追い求めるのではなく、子どもたちの5年先、10年先を見据えて、今という時間を共に過ごしたいのだ。テストの点数というエビデンスはそれほど正しいものなのか。

 あらゆるものを数値化して評価することで、人と人との信頼や信用をズタズタにし、温かなつながりを奪っただけではないのか。

 間違いなく、教職員、学校は疲弊しているし、教育の質は低下している。誰もそんなことを望んではいないはずだ。誰もが一生懸命働き、人の役に立って、幸せな人生を送りたいと願っている。その当たり前の願いを育み、自己実現できるよう支援していくのが学校でなければならない。

 「競争」ではなく「協働」の社会でなければ、持続可能な社会にはならない。

 コロナ禍の今、本当に子どもたちの安心・安全と学びをどのように保障していくかは、難しい問題である。オンライン学習などICT機器を使った学習も教育の手段としては有効なものであるだろう。しかし、それが子どもの「いのち」(人権)に光が当たっていなければ、結局は子どもたちをさらに追い詰め、苦しめることになるのではないだろうか。今回のオンライン授業に関する現場の混乱は、大人の都合による勝手な判断によるものである。

 根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。

令和3(2021)年5月17日

大阪市立木川南小学校 校長 久保 敬

 

  対し松井市長は「考え方が違う」と切り捨て、考えの中身には触れない。

 「校長だけど現場が分かってない。社会人として外に出たことはあるんかな」などと批判。教職員が意見を述べることについては

 「意見を言うことは問題ないが、大きな方針は組織として決定事項。決定事項の設計図に伴った職務を遂行してもらうのは当然。それを否定するなら、公務員としての職責を逸脱している」と主張。

 「ルールから逸脱するような形で、教育振興基本計画と違う形で学校運営するとあればルール違反。辞めてもらわな」と処分を匂わせた上に、

 「決めたことをやらないというなら処分の対象。考え方は違うけど、教育振興基本計画に沿って学校運営するのが当然の話。社会人として当然じゃないの?組織の決まったことを覆そうと言うのなら、自ら公約掲げて市長にならないと変えれませんよ」と維新お得意の論法を相変わらず振り回している。政治的少数派であろうが、多数派同様「主権者」であることを、了解しない。松井市長は自らが「civil servant」であることを学ぶ必要がある。

  相対多数を取った者が総取りするのが、彼らの「民主主義」観。政治が博打と同列になっている限り、多様性は在りえない。コスタリカの政治的多様性や生態系の多様性が、少数者や弱者を排除しない「抑制」の上に成り立つている。

 68年大学闘争の最中、大学構内で突然右派学生に取り囲まれたことがある。彼らはこう言った「お前、そんなに日本やアメリカがいやなら、ソ連に行け。」

 僕はこう言った。「君たちが日本人なら僕も日本人だ。僕の立場は「日本国憲法」が保証している。」彼らは余計いきりたった。

 ベトナム情勢が悪化したこのころ、僕はほとんど毎日教室を回り反戦ビラをまきアジテーションを繰り返していた。

 維新の論法はこの頃既にあった。いやなら黙れ、従えないなら辞めろ、出て行け・・・。

 教育の中身については、行政は口出しが出来ない。条件整備だけが任務、それが欧米の「公選制」教育委員会制度である。大阪でも東京でも日本中で、行政が教育の中身に介入している。そのことが憲法違反であるのに、なら憲法を変えろと議員が言う。議員の任務は憲法を擁護する事に尽きる。

 中身のない多数派は、少数弱者の悪口や蔑視感情を煽り立てる事でしか存在を主張できない。


 政治に口を閉ざしていた大阪の市民は、「 #木川南小学校長を支持します」のタグを瞬く間にsns上に溢れさせ始めている。だが周辺の校長たちは口を閉ざし続けている。小学生は口を閉ざす校長たちを「かっこ悪い」と思うだろう。絶好の「道徳」教育になっている。勿論教室で取り上げればだ。

憲法13条『個人として尊重』

  2002年6月21日


 My view is that a child is innately wise and 
realistic. If left to himself without adult suggestion of any kind, he will develop as far as he is capable of developing.  ニール

  

 米国大統領が帰郷し雑貨屋に寄った。店主は居合わせた行儀の悪い子ども達に向かって

 「大統領閣下がおいでになるのだから、粗相があってはならない」と叩き出した。

 これを見ていた大統領はこう言った。

 「あの子達も将来は立派な人物になるかも知れないのだから、粗末に扱ってはならない、尊厳を持って扱いなさい」

 この逸話を話した後要点と感想をKH高生に書いてもらった。殆どは良い大統領だと評価。

 その後、これを批判した神父を紹介した。そして何故神父が大統領の言葉を批判したか、考察させた。

 対偶・裏・逆の論理学的な思考を試みる。

 暫くして、「大統領は愛してないんだ」と言う者あり、多くが頷いた。そう、将来立派になる者ばかりを可愛がる大人は、結局子どもを愛していない。彼は「成果」だけを要求している。愛とは何か、知りたがる生徒たち。


 憲法13条の『個人として尊重』の意味をこうして押さえた。

  立派な人物になるはずのない者も、「正当に=尊厳をもって遇する」とはどういうことか。

  My view is that our students are innately wise and realistic. 

 O工のA先生が「おめえらだってホームレスになるかもよ」と言って社会的敗者への国家による支援の必要性を生徒に説いても、「要らないんじゃないの」とつれない返事だという。

 一体どのようなadult suggestionがO工ではあったのか。

 工高に限らず学校には、政権による suggestionが頻繁かつ広範にある。例えば「中立」。中立の概念はそもそも与件概念ではない。政権が定めた「掟」を何処にも偏らないと規定して、命令や逮捕によって強制する。これはsuggestionどころか思考の停止であり、教育の死に他ならない。教師が思考停止を強制されれば、生徒は判断を畏れる。

 それが、「要らないんじゃないの」とつれない返事として現れる。更に工高など職業高校では、職人的師弟関係が授業に持ち込まれてしまう。生意気さを醸し出す知性は嫌われ、従順な素直さが優先される。文科省は高校生をstudent と見做してはいない。

「Boycott is a right and a duty」

 日本の防衛副大臣中山泰秀は12日、イスラエルとパレスチナの「交戦」を受けて「私たちの心はイスラエルと共にある・・・イスラエルにはテロリストから自国を守る権利がある」と自身のtwitterに書いた。

 イスラエル警察隊によるエルサレム旧市街のイスラム教聖地への突入殺戮を「交戦」と言ってのける神経が危い。


  シカゴに拠点を持つ非営利独立のThe Electronic Intifada(https://electronicintifada.net)は、一貫してパレスチナの視点から報道してきた。

「Boycott is a right and a duty」という記事を掲げたのは、5月12 日。

  Israel’s efforts to demonize the Palestinian call for boycott, divestment and sanctions (BDS) threaten a venerable form of nonviolent resistance.

 These efforts push for the censoring of Palestinian voices and those of our allies, undermining free speech rights and academic freedom while falsely conflating criticism of the State of Israel with anti-Jewish bigotry.

 At first, Israeli leadership acted as if the movement wasn’t a threat to its occupation, the policies and practices of which violate international law.

 But a decade after the launch of the BDS call in 2005, as the movement gained strength internationally, the Israeli government declared war against it.  ・・・

 

 Boycott, Divestment, and SanctionsはBDS運動の略称。「ボイコット、投資撤収、制裁」運動。イスラエルに対し、国際法違反行為を中止させるための政治的・経済的圧力の形成と増強を目的としたグローバルキャンペーン。BDS運動は「イスラエルに国際法を遵守させるまで、様々な種類のボイコット」を行う。BDS運動狙いは、イスラエルによるパレスチナ人の領土(東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区とガザ地区)およびゴラン高原の占領と入植の終結・イスラエル人とアラブ人差別解消・パレスチナ難民の帰還権の承認である。画像には「The global boycott is growing despite attempts to criminalize it.」と添え書きがある。

 

  峠三吉の原爆詩集を思わずにはおれない。

    一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。

   序

ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもをかえせ


わたしをかえせ わたしにつながる

にんげんをかえせ


にんげんの にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ


八月六日

あの閃光が忘れえようか

瞬時に街頭の三万は消え

押しつぶされた暗闇の底で

五万の悲鳴は絶え


渦巻くきいろい煙がうすれると

ビルディングは裂さけ、橋は崩くずれ

満員電車はそのまま焦こげ

涯しない瓦礫がれきと燃えさしの堆積たいせきであった広島

やがてボロ切れのような皮膚を垂れた

両手を胸に

くずれた脳漿のうしょうを踏み

焼け焦こげた布を腰にまとって

泣きながら群れ歩いた裸体の行列

  ・・・ 


 長年の欧米侵略に虐げられる中東・アラブ諸国は、日本をアメリカによる「原爆投下の焦土のから立ち上がった平和国家だ」と敬意を抱いてきた。

 その親日感情が、閣僚の愚かなtwitter投稿で一気に崩れ去る。日本の「平和国家」理念の浅薄さが知れる。原爆投下の将軍ルメイに日本政府は勲一等旭日大綬章をやっているのだから。

 原爆詩集を掲載する教科書「公共」 は現れるだろうか。世界のBDS運動が日本の青少年の行動を促すのはいつのことか。

追記 イスラエルで2日、野党勢力が新政権の樹立で合意.。12年間にわたったネタニヤフ首相の長期政権が終わる。最大野党の中道「イェシュ・アティド」のヤイル・ラピド党首が、8党による連立政権が発足したと発表した。ラピド氏は声明で、ルーヴェン・リヴリン大統領に連立の合意を報告したと説明。「この政府がすべてのイスラエル国民のために働くことを約束する。新政府に賛成票を投じた人、そうしなかった人の両方に対してだ」とした。また、「反対する人のことも尊重し、イスラエル社会のすべての要素を結束しつなげられるよう全力を尽くす」と表明した。BDS運動の広がりは凄まじかった、ただし日本を除いてと言わざるを得ない。

 

五輪選手村にコンドーム大量配布の愚  五輪「ボランティア精神」と天皇制fascism「奉公」の相似性  


「宮城前清掃」「土下座の皇居礼拝」「出征兵士を送る万歳三唱」・・・と、東京オリンピックボランティアには相似性がある。前者が天皇制ファシズムへの追従加担であったならば、後者はIOC Ripoff Baron支配する商業主義スポーツ祭典への盲目奉仕である。国民の犠牲を意に介しない傲慢な無神経さが共通している。

 天皇制ファシズムが「従軍慰安婦」を不可欠の手段としたように、商業主義プロスポーツ祭典も「コンドーム」無料配布へ抜かりがない。

 選手村でのコンドーム無料配布は、性感染症予防を口実に1988年ソウル大会から始まっている。2000年シドニー大会は12万個、08年北京大会は10万個、12年ロンドン大会は15万個、16年リオ大会では45万個が配られた。このリオ大会では選手1人あたり約42個のコンドームが配布された計算になる。

 オカモトKKと相模ゴム工業KKによれば1998年長野五輪の際、大会関係者からの依頼で、3~5万個のコンドームを選手村に配布したという。両社とも「五輪でコンドームを配布することは、「世界中の人々の性の健康を守るための大切なチャンス」」と捉えて、濃厚接触厳禁体制下でも16万個配布する予定。コロナ感染予防など、商業主義スポーツ祭典関係者の眼中にはない。

 緊急事態宣言で行動制限を強要しておきながら、同時にgo to travelキャンペーンで感染を広げた愚かさを狂気のレベルにまで導くものだ。

 五輪関係者向けにファイザー社とビオンテック社からワクチン提供が伝えられたが、選手への接種は義務付けられていない。IOCのバッハ会長は「(ワクチン接種を)必要条件にするというのは行き過ぎ。個人の健康の問題だ。自由裁量に任せる」と説明している。五輪相の丸川大臣も「ワクチンを前提にしない大会の準備をしている」と表明。ワクチン未接種の小学生数十万人を観戦に動員する予定も着々と進んでいる。

 五輪関係者の夜の濃密交歓にはコロナ感染爆発の危険があっても格段の温かい配慮、コロナウイルスに怯え苦しみ公的支援なしに逝く者への視線は冷酷の限り。それが政権運営者の言葉に現れている。曰く「国民の命と健康を守り安全安心な大会が実現できるように全力を尽くす」 

 こうした商業主義プロスポーツ祭典の醜悪さを、教室でどのように喋るべきか戸惑う。まさか日本会議青バッチの政権党議員は「絶好の性教育の機会だ、配布される実物を使ってでもやれ。子どもの性教育とはわけが違う、大人の恋愛は自由だ」とは言うまいな。

 この大量無料配布の事実に、見ざる・聞かざる・言わざるを決め込む世界が恐ろしい。嘗て日本敗戦とともにやってきた占領軍対象対象の特殊慰安施設に、多くの日本人が知らんぷりを決め込んだように、この大量配布にも見て見ぬふりするのを大人の対応とするのか。開会式や閉会式の中継に、オカモトと相模ゴムは、選手への無料大量提供を誇るCMを流せるだろうか。通勤電車の広告に、選手団とゴム製品を写真入りで一斉掲示して胸を張れ。 

 特殊慰安の衛生品の無料配布が、五輪運営に欠かせないのなら、IOC廃絶条約をつくる必要がある。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...