ハンセン病療養所「園券」の深い闇         ここにも渋沢栄一の影

   戦前戦中ちまたでは、「全生園にいけば2、30万はいつでも融通してもらえる」と公然と言われていた。高木敏子「ガラスのうさぎ」に、太平洋戦争末期「1000円といえば、ちょっとした家が一軒建つお金」という記述がある。2、30万円は大変な額である。現在の価値で2億、3億円に相当する。 

 絶対隔離は火葬場の煙とならなければ外に出られない仕組みだった。どんなに金を患者が持っていても、一旦園が強制的に預かってしまえばどう使ってもなんら咎められない。全く自由な400万円近い資金(4000億円に相当する)が、いろいろな方面から重宝されていた。戦前の市中金利は5%から10%で推移していたし、高利貸しの金利は年利100%を越え

患者たちは有り金残らず巻き上げられ・・・  
  
ていたからである。全国のハンセン病療養所は患者の逃亡を防ぐことを理由に、その所持金を園内だけにしか通用しない粗末な「園券」に強制的に交換した。
  しかし敗戦とともに事情は大きく変化した。1925年男子のみの普通選挙権が認められたが、皇族と公的扶助を受ける者は無かった。1947年補欠選挙が開始されるとともに、共産党遊説隊が園内に入り、草津栗生楽泉園ではその晩のうちに懇談会が開かれ患者の怒りは爆発する。(1947年患者の委任を受けた自由法曹団が、園当局の行為は殺人、同未遂、特別公務員暴行凌虐、不法監禁罪を構成するとして前橋検察庁に告訴告発している。それによれば、 庶務課長は重監房運用責任・物資隠匿横領・患者労働賃金のピンはね横領等、炊事主任は患者救済を騙って買い付け横流し、保母は虐待で保育児を死に至らしめている。)
  共産党や社会党も園内に入り、患者たちがハンセン病療養所の実態を村人や町民に訴え始める。長年の悪事が露呈・園当局の尻にも火が付く。患者が持参した金券=「正金」を当局は「保管金」と呼んだが、保管などしてはいない勝手に「運用」していたのだ。

 昭和27(1952)年4月1日「第一分館に於て保管金払出しの際本日より何の報告もなく正金にて払出しているとの情報を得たので、早速園当局に申入れし、正金切替は計画の下一斉に行うにつき、この処置を差しとめさせた」と全生園患者自治会は記録している。自治会が正式に金券への切替を要請したのが3月15日ごろで、切替希望日は4月なかごろである。
 開園から40余年もの間、入園者の所持金をいくら取り上げていくら園券にしたか明細などない。

 「切替えは予定通り始まり14日・・・15日・・・16日・・・17日・・・と順調に進んだが、保管金額に誤りがある疑いが出てきて、切替委員が立ち合って調査したところ、銀行預金の38万円余が見落とされていて、日本銀行券保有高とだいぶ差があることが判明した。・・・自治会では、調査委員会を設けることを決め、翌日には、施設側に現金出納簿の提出を要求してこれを調べたが、出納簿はこの切替えに当たって、都合よく書き換えられたものであったので、原簿の提出を要求。
 ・・・明らかに現金出納簿を改ざんしている等の事実を厳しく指摘し、全くいいかげんな取りあっかいについての釈明を迫った・・・ そして22日・・・園長は自治会に対し、73万5000円余が不足していることを正式に認めた。この不足分を認めたことは、患者の保管金と金券発行額だけ、現金の裏付けが無いということで、そこには明らかになんらかの不正が介在することを認めたわけである。
 ・・・「園券に関する不正責任糾明委員会」が発足したのはその夜。・・・激しい怒りが「園券に関する不正糾明患者大会」に結集された。この日の礼拝堂には、入園者600余人が会場と堂外にあふれ、出席している施設首脳者に怒りの声がしきりに飛んだ。大会決議では「73万余円不足の事実は、過去30有余年の永きに亘り我々患者の血と涙の結晶たる零細なる所持金が、何らの会計検査もなく、無能にして絞滑なる担当者にょり、如何に曖昧模糊たる処理に委ねられ来ったかを自ら暴露せるものであり、我々現存者のみならず不幸なる時代の中に病没した過去の病友の霊と共に断じて許さざる処」と述べ、施設の責任者園長の意志表示、永井と菱川の即時辞任とらい園たらい回し勤務の拒絶、不足金の個人負担、不足の真相調査と公表等を要求した。
 これに対する24日の園長回答は「皆様の所持金縁管に関して慎重を欠き不始末を生じ御心配をおかけしたことは責任者とし注意が足りなかったと痛感すると述べたが、内容はそれとはうらはらでそっけないものだったため、委員会はこれを拒絶して、再回答を要求、26日の再回答では責任を痛感し、永井、菱川両人をやめさせる、両人は辞職を隣い出、他のらい園には勤めない、不足金は個人が支弁し、原因調査は公正を期して本省と地方局に依頼、4月30日に公表するとしたのを、糾明委員会は了承した。
しかし新聞各紙は「患者の金を職員が横領?」 「らい園は伏魔殿」などと興味本位に取りあげ、事件の解決にはほど遠かった。
 4月30日加藤事務官らの本省調査団は糾明委員会に対し、調査の中間報告をしたが、・・・その調査の粗雑さについて糾明委員会からきびしい指摘をうけて、ついには施設、糾明委員会との三者で合同調査をすることになり、その結果は5月6日つぎのように発表された。
○入園者所持金
 有効園券         二三四万〇四五〇円五四銭
 保管金           一〇九万四三六七円五四銭
 互恵会             三八万四四八九円〇九銭
 慰安会               三万〇一四六円四〇銭
 その他                   一八七六円
  合計            三八五万二二二九円五七銭
○園が示した資金
 課長出納簿       二九七万八五二二円七一銭
 菱川保管金           四万八三六四円七五銭
 同立替金             八万一三〇〇円
 振替貯金                 三四〇五円二六銭
  合計           三一一万一五八三円七二銭
○差引不足額         七三万九七四五円八五銭

 そして永井は7月、菱川は8月に結核の施設に転勤となった。
 調査団発表は不足金の確認だけで不足した原因には触れない。施設ではその後も調査を続けているが、林メモによると(6月30日)42万4000円余の所在は、菱川の帳簿もれと解明されているが31万5000円余は不明金としている。前記したごとく裏付け金出納簿は改ざん(または問題ない部分だけはチェック)したものを自治会に提示し、改ざんを追及されてもついに原簿は出さなかった。」
全生園患者自治会編『俱会一処』一光社刊
 国立ハンセン病療養所は国内だけでも13箇所あった。不正横領は全生園だけではない。不正に運用された膨大な「利益」は何処に消えたのか。これも光田健輔と渋沢栄一画策による「絶対隔離」政策が無ければ出現するはずのない深い闇であった。この一事だけで、渋沢栄一が一万円に相応しくないことは明白。
 この後患者たちは長く困難な「ライ予防法」闘争に精魂を傾け敗北する。光田健輔は1951年、文化勲章を胸にした。

 敗戦は憲法改革を伴う「革命」であるべきだった。革命の過程では旧体制で弾圧迫害され投獄された人々が、新しい体制の理想を実現するために政権中枢で汗を流す。それが民主主義的政変である。眼光鋭く旧体制の闇を告発検証して、責任の在りどころを逃さない。そうでなければ新しい体制は実現しない。

 にもかかわらず光田健輔と渋沢栄一の絶対隔離体制は続いた。誰一人処罰されなかった。殺戮も横領も拷問も何も問われなかった。犯人たちは逮捕もされず裁判にも掛けられなかった。旧体制は、より権威主義的に整えられたのである。

ノーベル文学賞川端康成と小説の神様志賀直哉

   

  1968年川端康成がノーベル賞を受けたときの顔には、言うに言われぬ寂しさが凍り付いている。その頃、
彼が「北條民雄が生存しておれば、 私より先にノーベル文学賞を受賞していただろう」と述懐した事が巷間伝えられている。

  作家伊波敏男は米軍統治下の沖縄愛楽園を脱走、密出国。愛生園に設置された県立邑久高等学校​新良田教室を卒業した。彼が愛楽園訪問した川端康成と対話した思い出を語っている。

 

「・・・川端康成さんが文化講演に沖縄に招かれたんですが、主催者側に「講演をするついでに、ハンセン病療養所にいる子どもたちにぜひ会いたい」という。・・・「ハンセン病療養所は人間が足を踏み入れるところじゃない」なんて考える人が、まだまだ多かった時代です。川端さんに届けられた療養所の子どもたちの作文を読んで、川端さんが「この子に会いたい」と、指名したのだそうです。

 ・・・いざ川端さんと対面するために入室しようとしたとき、入り口ですっかり足がすくんでしまいました。その部屋には、白い予防服を着てゴム手袋をして黒い長靴を履いた大人たちが30人近くもずらっと並んでいた。それはいつも見慣れている光景だから気にならなかったんですが、驚いたことに川端さんだけがワイシャツ姿で、袖をまくりあげた格好で、ニコニコしながらそこに置かれた椅子に座っていたんです。それを見て、すっかり怖気づいてしまった。

 校長先生に背中を押されて、しかたなく川端さんのすぐ前に置かれたパイプ椅子に座ったら、「関口君だね」と言って、いきなり手を握ろうとしました。私はとっさに両手を背中の後ろに隠してしまった。川端さんはちょっと悲しそうな顔をして、自分の椅子を引き寄せて、私の太ももを挟み込みました。川端さんが話すと、ツバが顔にかかってしまうくらいの近さでしたよ。そのままいろんな話をしました。

 ・・・「『いのちの初夜』は読みましたか」と聞かれました。読んでいたけども、正直言って中学生の私にとって難しかった。だから「よくわかりませんでした」と答えたんですが、川端さんがまた悲しそうな顔をされたので「あ、また余計なことを…」とあわてて、「でも、先生と北條さんとの往復書簡の中で覚えているところがあります」と言いました。「へー、どっどっどこ?」とせきこむように聞かれたので、「僕には何よりも生きるか死ぬか、文学するよりもそれが根本問題だったのです。人間が信じられるならば、耐えていくこともできると思います」という手紙の一部をすらすらと諳んじて見せました。・・・

 すると、川端さんの大きな目の玉から、シャボン玉みたいに涙がこぼれてきた。私の太ももをパンパンと叩いて、「進君! 関口君! 君は北條民雄の悲しさ、『いのちの初夜』が、わかってますよ」。

 そこで時間切れになりました。川端さんは私の手を握りなおして、こんなことを言ってくれたんです。「進くん。自分の中にたくさん蓄えなさい。そして書きなさい」。この言葉が私の心にいちばん響きましたね。その後もずっと残りました。・・・白い服の人たちと部屋を出て行きかけた川端さんが、最後にもう一度、私に向かって、「進くん! 何か欲しいものはありますか」と聞いてくれました。すかさず「本が欲しいです」と答えたら、大きくうなずいていました。

 それからしばらくして、療養所に木枠の箱がたくさん届いた。開けてみたらどの箱にも児童図書が詰まっていた。それを片っ端から読みました。本の中には夢がいっぱいあった。本がいろんな世界に連れて行ってくれた。そんなこともあって、もっと本を読みたい、もっといろんなことを知りたい、もっと勉強したいという思いが私のなかでどんどん大きくなっていったんですね。」  伊波 敏男(作家) vol.1   https://leprosy.jp/people/iha01/

 

  川端康成の北條民雄宛の7通目の手紙  (1935年12月10日)にこんな記述がある。

  「些細のことが貴兄を力づけ、こんな嬉しい思いをしたことはありません。貴兄の手紙は立派です。そうあろうと推察し、文壇小説はよむな、文藝雑誌は見るなと予あらかじめ申上げたのです。今度の小説は改造か中央公論のようなものに、必ず出して差し上げましょう。しかし、悪ければ返しますよ。原稿の注文は一切小生という番頭を通してのことにしなさい。でないとジャアナリズムは君を滅ぼす。文学者になど会いたいと思ってはいけません。孤独に心を高くしていることです。原稿紙ヤへ見本送る催促出しました。横光(横光利一)曰ク、おれ達と苦労がちがう、ドストエフスキイの死の家(『死の家の記録』)以上だ。肺療院の生活など甘いものだと。・・・」

 七條晃司に筆名北条民雄を与え、『命の初夜』の作品名を考えたのも、訃報を受け真っ先に全生園霊安室に駆け付けたのも川端康成であった。『北条民雄全集』の編纂にあたって川端康成は

「無慙な運命に夭折の天才の文章を出来るだけ多く世に遺すのは、私のつとめであり、全集編纂者の習はしである」

と記している。

 対して志賀直哉は、北条民雄の『命の初夜』の掲載された雑誌にすら手を触れなかったと伝えられる。。戦中に特高警察の探索を笑い飛ばして終戦工作に励んだり、戦後発足したばかりの『世界』の編集に、敢えて中野重治や宮本百合子を入れる提案をした頃の志賀直哉とは、大きな落差を感じる。

 
1955年 土門拳撮影
   写真は川端康成が沖縄愛楽園を訪れる二年前、左端が川端康成。この時二人の間に交わされた会話はどのようなものであったのか。 彼らが夫々贔屓した若い作家・小林多喜二と北条民雄にはその天才性などいくつかの共通点があった。この撮影はその瞬間をとらえていたかも知れない。


 北条民雄の本名が遺族の了解を得て公表されたのは2014年、死後77年経っていた。北条民雄の死因は腸結核。「らい」で絶命することは殆どない、併発した病で死亡している。ハンセン病療養所の使命は解剖ではなかった。

 1972年川端康成は、ガス管をくわえて自殺。ノーベル賞から僅か四年後であった。志賀直哉はその前年1971年、老衰で亡くなっている。

    


 

教えたことを裏切らないという誠実性

  戦中の沖縄愛楽園に県警本部長一行が厳めしくやってきて、居並ぶ患者職員一同に皇民の心得を説いたことがある。

 その時、患者の一人が

 「一家の働き手が収容されて、食うに困る家族を抱えた患者が沢山いる。患者にも死んで皇国に尽くせと言うなら、残してきた家族の支援をして欲しい。それが出来ないのは、ひょっとして陛下の目が濁っているからではないか」

 と神をも畏れぬ大胆極まりない批判をした。

 忽ち職員たちは狼狽、私服刑事が関係箇所を調べる騒ぎに

治療はなかったが解剖は承諾なしでも行われた
なった。彼は師範学校出の若い教員であつたが、職務半ばでハンセン病を発病して収容されたのである。

 同じように一家の働き手を徴兵で失った家族には、僅かながら援助があったのを、この元教師は捉えていた。ハンセン病患者は犯罪者ではないにもかかわらず、収入は断たれ家族は路頭に迷うことになった。

 「教えたことを裏切らない」誠実性はこういうことである。「重監房」送りになっても不思議ではなかった。光田健輔が虚構の絶対隔離の絶対安寧のために希求したのが、反抗者を死に至らしめる「重監房」=特別病室であった。全国から所長や職員の意に沿わない患者が送りこまれた草津の栗生楽泉園「特別病室」は、冬には零下18度暖房設備はあろうはずもなく、食事は握りめし一日2個と、湯のみ2杯の水。長期間の監禁により1947年(昭和22年)に廃止までの9年間で、延べ93名の患者が収監うち23名が死亡している。

 この重監房建設には、渋沢栄一の三井報恩会からの寄付があった。繰り返す、渋沢栄一は一万円札に相応しくない。

   この若い元教師のその後は分かっていない。


 

専門と良識

   早く走ったり重いものを持ったり投げて人の役に立てば、その得意技が賞賛されることがある。例えば沖で溺れる人を救助したり、重い瓦礫に埋まった人を助けたり・・・。ただ早い、重いものを持ち上げるだけは、確かに「専門」力量ではあるが、個人の特徴に過ぎない。頭の回転が良かったり、目が大きかったり、体型のバランスが良かったりも、個人の特性。それをスチュワーデス採用の条件にすれば差別。更にその差別によって収入が左右されれば、収入如何で職業を選ぶ風潮を煽り、差別に貴賤の感情を固定してしまう。結果、職業選択の自由が歪んでしまう。

 入学前の偏差値や類似数値を用いての「恣意的」選抜も、僕は差別だと思う。「偏差値や類似数値」を基準にするのは「青い目や金髪」を手掛かりに人間をふるいにかけたナチの「優性思想」と変わらない。差別に基づいて合否を決めるのは、国際人権規約への冒涜と知る必要がある。人権規約は努力目標ではない。

 こうした差別を前提にしての、学校別「校則」に普遍的効果はない。底辺校になるにしたがって急激に校則が懲罰的になる状況を前に、教師たちが「僕のところは幸い底辺じゃないから・・・」と知らんぷりを決め込むのは犯罪に加担するも同然。アウシェビッツの絶滅処理を「知らなかった」とナチ支配下の公職者が言ったに等しい。

 DVが家庭ごとに異なる基準に照らされてはならないように、校則はあらゆる学校の全生徒学生の権利を守るものでなければならない。それを教師はサボってきた。時には管理主義的勢力と一体になって推進さえした。

 だから職場・職種・雇用形態ごとに労働条件が異なり、労働者の統一と団結が何時までも放置されたままなのだ。賃金も労働条件も格差は開く状況に成すすべなく立ち尽くすばかり。多感な少年期を理不尽な校則に縛られたままで過ごせば、正義や公正の概念は絵にかいた餅にもならない。偏見と貧困の連鎖に公教育が貢献しているわけだ。

 毒ガス兵器もV2ロケットも核爆弾も「優秀」な第一級の科学者=専門家が賞賛の嵐の中で生み出している。優性思想も先進的医学者なしには考えられない。しかも彼らは、この兵器で「戦争は終わる」と揃ってうそぶいたのだ。例えば毒ガス開発者フリッツ・​ハーバー博士は「毒ガス兵器で戦争を早く終わらせられれば、無数の人命を救うことができる」。この言葉て周りを大量殺戮に巻き込んだ。彼は盲目的愛国心の持ち主であり、異常なのめり込み方で化学兵器開発の先頭に立

った。(ハーバーの妻クララは女性としてはドイツ初の博士であったが、毒ガス研究にのめり込む夫を諫め、ピストル自殺した)。「無数の人命を救うことができる」は原爆を投下した者たちが初めて使った台詞ではない。専門家が納税者に良識が芽生える前に、あらゆる場面で使われた事が分かる。ベトナム戦争やアルジェリア独立戦争では「良識」そのものを爆撃した。  


  正木ひろし弁護士をおもう。特高支配下にあった 1944年、警察による暴行致死疑惑(首なし事件)があった。彼は取調べ中に死亡した被疑者の遺体を掘り首を返し持ち帰り鑑定、特別公務員暴行陵虐致死罪で警察官を告発する。公然の秘密化していた官憲の拷問に敢然と立ち向かった。件の警察官は1955年に有罪が確定した。

 彼を支えたのは「専門」知識ではない、「良識」である。彼は旧制高校を出ると、旧制中学の教師を続けながら帝大に席をを置いていた。blog「椋鳩十が、快惚として聞き入った正木先生の授業」←クリック

    彼の豊かな「良識」はこうして育っている。

 彼自身思想的には「反共」であったにも拘らず、反天皇制主義の姿勢を明確にし、プラカード事件の弁護では先鋭な言論を展開、三鷹事件や菅生事件では被告人となった共産党員を弁護、反権力派弁護士として幅広い活動を続ける事が出来た。

 教師は授業や研究の専門家だろうか。生徒や保護者には様々な立場の人がいる。第一生徒自身、立場は様々である。彼らは全て国際人権規約のもとにある。そこで有効なのは「専門」ではない。良識である。

 教師はメダルに群れる「専門家」を育てるのではなく、常に権力と対峙する良識を彼らの中に育てねばならない。これを権力は「政治的偏向」と指弾するに違いない。その限りにおいて、教師は政治的たらざるを得ない。「中立」のいかがわしさに教師はいつも翻弄されるのだ。

  「より高く、より早く」はどんなに優れた専門特技であっても、良識にはなりえない。


  志賀直哉は良識の人であった。

   blog「志賀直哉と天皇制廃止 / 政治はたまにやるのがいい」←クリック             blog「志賀直哉の終戦工作」←クリック 

 政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の如き「専門」家たちに僕は初めから信頼を置いていない。予め保健所を閉鎖しながらpcr検査を制限する手法を執った「専門」家に、国民の健康や生命に対する「良識」は感じられない。彼らは最初から五輪の「安全・安心」を根拠なしに到達目標に掲げていた。それは毒ガス開発者フリッツ・​ハーバーが「毒ガス兵器で戦争を早く終わらせられれば、無数の人命を救うことができる」との言葉て周りを大量殺戮に巻き込んだことに相当する。

予め自著を説明すれば、その価値を局限してしまう。「他人が自著を説明してくれるのを待つ」

アンガージュマンの概念はジイドが先んじていた。

 

 

他人に向つて自分の書物を説明するに先立って、私は先づ、他人が私の書物を私に説明してくれるのを待ってゐる。あらかじめ自分の書物を説明しようとすることは、とりもなほさず、その書物の意味を局限してしまふことである。その理由は、よし私たちは、自分達の書物の中でいはうと思ったことが、何であるかば承知してゐるとしても、果して私たちが、それ以外のものは云はなかつたかどうかは知らないのだから。事実また、人は常にそれ以上のことを言ってゐる。 - そして、私に一番興味のあるところは、実にこの自分でも知らずに言ったことなのである、- この意識しなかった部分、私はそれを神の分け前と呼ぼうと思ふ。一つの書物は、常に必ず合作だ、そして、その書物が値打のあるものであればあるだけ、作者の分け前は小さく、神のとりなしが大きい。 - いたるところに萬物の啓示を持たう、読者から、吾等の著作の啓示を待たう。アンドレ・ジイド『パリュウド』 角川文庫 堀口大学訳

 僕は『パリュウド』本文より、本文の前に置かれたこの文章が気に入っている。

 大学入試に作品を引用された作家が、問題文の「作者の気持ち」や「作者の考え」に正解出来ないことがある。問題が間違っていると異を唱えたり、からかったりする。入試作成者の考える「作者の気持ち」や「作者の考え」を問うているに過ぎない。作者自身が答えられないのなら、受験生は猶更答えられないだろう。ジイドの言うがごとく「私に一番興味のあるところは、実にこの自分でも知らずに言ったこと」だからだ。そして「一つの書物は、常に必ず合作だ・・・書物が値打のあるものであればあるだけ、作者の分け前は小さい。

  正解は無い。

 ある時、こんなことを訴える生徒がいた。

・・・ 「(自由の森学園)でも先生たちの多くは、どこから板書が始まりそれがどこに飛ぶのか予測がつかない。先生の言葉のどこがどう展開してどの単語や図に結びつくのか、とても緊張したの」 ・・・  

 「自分の考えと先生の言葉が頭の中で混ざり合う、時には友達の考えや言葉、質問、それが一つのまとまったものとして出てくる。だから私のノートは先生と私の共同作品」 

 ノートが生徒にとって僕と彼女の共同作品なら、僕にとって授業そのものの全過程が共同作品である。息遣いやおしゃべりまでが同調して来るのである。 

 「ではこの学校の先生の板書は、ある意味で完璧だから困るんだ」 

 「そうなの、教科書を箇条書きにしてきれいに要約してあるから、それさえ写して暗記すればテストもほぼ満点。なーんにも考えないで済む。そして何にも考えなくなる。それを先生たちに言っても理解してくれないの」 

 「君にとって完璧な板書は、思考の妨害か」  

blog『ノートは先生と私の共同作品』 ←クリック                            彼女は『パリュウド』を読んでいたのだろうか。

 学校で大切なのは、入学前の知識ではない。入学してどれだけの知識を獲得できるかであり、それは学生自身が判断するもの。試されているのは大学や高校の授業の質である。従って入試は要らない、有害無益。

  『ソヴィエト旅行記』や『コンゴ紀行』でジイドは、極めて広い範囲の激しい評論を受けた。時には脅迫と捉えられかねないものもあった。我々に必要なのは、何を「発信」したかを受け取る側の反応を通して知る事なのだ。穴埋め式の手軽な問題で、生徒学生に「正解」を強いるのはまさしく知的成長を妨げることにしかならない。

 アンガージュマンは単に社会参加することではない、自らを民衆の中に「投機」視線を広げ変える事である。他者の思考を自らの中に取り込む事なのだ。そうしなければ我々は「完璧な板書による思考妨害」から脱出出来ない。 

学道の人は最も貧なるべし

 

 「学道の人は最も貧なるべし。世人を見るに財ある人はまづ瞋恚(しんい・逆らう者への嫌悪)恥辱の二つの難定めて来るなり。宝らあれば人是を奪ひ取らんと思ふ、我は取られじとする時、瞋恚たちまちに起る。或は是を論じて問答対決に及びつゐには闘諍合戦をいたす。かくの如くのあひだに瞋恚も起り恥辱も来るなり」 『正法眼蔵随聞記』四ノ四   

   『正法眼蔵』を論ずる禅僧も、この問題だけは避けて通りたいと言う。キリスト教に於ける「駱駝と針の穴」の喩えと同じように、都合の良い解釈が次から次へと生まれる。

 学僧までがこう言う。「最も貧なるべし」とは物欲を捨てよということではなく、ただ単に「物欲に囚われる」ことを戒めているのだと。なら、僧は要らない。

 悩み多い凡人に、そう説いて一時の安心を与えるのは方便とも言える、しかし禅僧が自身の生き方について堂々とそう言うのは逃走である。少なくとも最大限の羞恥に身を捩りながら言う必要がある。ただ単に「貧なるべし」と言っているのではなく、「最も貧なるべし」と言う。

 であれば「最も貧」を強いられ、しかも敢えてそれを再び選び取ったハンセン病療養所の「学道の人」からしか我々は学べない。

 全生園初代自治会委員長土田良雄は見事に「最貧」を選び取っている。そのために死期を早めさえしている。彼は日中戦争で八路軍の捕虜になり、その政策処遇に感銘を受け共産党員に。多くの若い患者たちが、その穏やかで理知的な人柄に惹

かれて集った。画期的治療薬プロミン予算獲得闘争では行動や交渉の先頭に立ち、誰もが第一の功労者と認めたが、土屋委員長はそう見られることを頑なに拒んだ。ために病状は急激に悪化し、命を落とした。望みさえすれば、私費による優先接種も可能だった。今なお毎年、見事な花を付ける桜並木などの植栽整備も彼の仕事の一つ。公正で控え目な人柄は良い仕来りと共に残った。 

 どうして我々は旧体制下で苦難の限りを味わった人々を、新憲法下の政権中心に置かなかったのか。政権が変わるとは如何なることなのか、我々は想像すらできないのか。

 患者のための予算で御殿のような園長官舎を建て続けた行政、それを放置し続けた我々。

「日本資本主義の父」渋沢栄一と「救癩の父」光田健輔のいかがわしさ


 ハンセン病療養所の死因統計を見ると、昭和 30 年代までは結核死が 3 分の 1 から半数近くに達している。劣悪で過密な居住環境の中で結核が蔓延、死亡者が続出したからだ。園に収容されなければ結核感染から免れた患者も少なくない。肉親から切り離され悲痛な最後を遂げた強制収容者はおよそ2万3800人、違法な堕胎嬰児殺害3000人。膨大な数が、「隔離」政策故に殺されたのである。 

 光田は何のために死ぬまでの隔離、絶対隔離に拘ったのか。

 12 畳半の大部屋に 8 人の患者が昼も夜も雑居する事が如何に過酷か。しかも過酷な「作業」を負わされて。彼らは如何なる意味でも罪人ではない。反抗も不服従も処罰の対象になった。

    国立療養所患者懲戒検束規定 昭和6年1月30日認可

第1条 国立癩療養所ノ 入所患者ニ対スル懲戒又検束ハ左ノ各号ニ依ル

        1 .譴責 叱責ヲ加誠意改悛ヲ誓ワシム

        2. 謹慎 30日以内指定ノ室ニ静居セシメ一般患者トノ交流ヲ禁ズ

        3. 減食 7日以内主食及副食物ニ付常食料ニ分ノ一マデヲ減給ス

        4. 監禁 30日以内監禁室ニ拘置ス

        5. 謹慎及減食 第2号及第3号ヲ併科ス

        6. 監禁及減食 第4号及第3号ヲ併科ス

 監禁は前項第4号ノ規定ニ拘ラズ特ニ必要トミトムルトキハ其ノ期間ヲ2ヶ月迄延長スルコトヲ得


  アンパン一つが三銭の時代。重い炭俵を担いで氷雪凍てつく断崖を血の跡を残しながら登るのも、大きな石を運び道普請するのも患者作業だった。神経が麻痺した患者は、例えば釘を踏み抜いても気付かない。肉体の限度を越えても自覚がなく労働に精を出す。こうして過酷な強制労働は、患者の命を縮めた。

 「不自由舎の付添は一室七人の病人を住込みで一人で面倒を見た。昼も夜もなく、週休も有休も祭日もなく、一年を通して働いたのである」(松本馨『多磨』一九六八年一一月号)

 一九六〇年、不自由舎(身体の自由がきかない患者の病舎)での患者付添が職員看護に切り替わる。あまりの激務に過労とノイローゼで倒れる看護婦が続出し、週刊誌沙汰になった。 

 これを賛美する医師があった。

 療養所は美しいものとなって来て居る。如何にして病院はかくも天国の如くなったか。その一原因は、伝染の危険なき程度のものも解放しなかった事である。

 療養所には作業がある。その健康に応じて彼等の作業は必要欠くべからざるもの二四種を越えて居る。例へば、大工がある。そして彼等の手で病棟、消毒室、何でも建設せられる。付添が要る。

 彼等は重症者に日夜侍して大小便の世話から、食事の世話から親身も及ばぬ看護をする。そして千五十人の収容者中半数は相当重症でも何らか作業をし、人のため為す所あらんとして居る。これは一方彼等の疾病療法の一たり得るのである。そして、そのなかには中枢として、印度、ハワイあたりでは、当然解放すべき軽症者が働いて居るのである。当院の如きは作業が多くてする人が少ない。

 この軽症者が重症者のために犠牲的に働くと云ふことが今の療養所をして監禁所に非ずして楽園とした…。

 全治者を退院せしめよの声は古くから何回も叫ばれた言葉である。しかしもしこの軽症者を退院せしめる時は、この作業のために健康者を雇ひ入れねばならぬ。今日の日本、癩救済の貧弱な予算でどうしてそれを雇ひ得よう。患者は一日三銭、多くて十銭で全力を注いで働くのである。しかも同病相憐れむ心から、癩患者自身が癩救済の第一線に働くてふ使命感からの愛の働きである。…

 痛みつつも猶鋤をになふ作業、病友のために己を捧げて働く愛、それが療養所を潤し、實に掘りを埋め、トタン塀を除き、楽園を作らしめたのである。    林文雄『醫海時報』1930年                                           

 「重症者に日夜侍して大小便の世話」をするのが如何に過酷か。患者による無償の患者付添の過労は美しき愛の働き、職員看護のそれは過酷な賃労働。ここに横たわる倒錯した人間観・世界観を『牢獄か楽園か』というタイトルが捉えている。林文雄は家族に見守れる中「コンナコーフクナモノハナシ」と書いて最期を迎えた。彼は 北大医学部を出て、将来の教授と期待されたが、全生病院に勤務、光田健輔の全幅の信頼を得る。研究者としての業績もあり、診療、文化、生活でも患者との日常的接触に努力。昭和初期は、林のような青年クリスチャン職員たちが増え、患者との間に隔てを置かぬ生き方は、患者の心をのびやかに明るくするものであったと『倶会一処』は書いているが、彼らの動きは数年で幻のように消えた。何故優秀な専門家が揃いもそろって「絶対隔離」や殺戮の鬼になるのか。 

 冒頭の画像は、国立としては最初のハンセン病療所「愛生園」園長官舎である。患者の地獄に「愛生」と名づける神経を僕は疑う。初代園長は光田健輔。大河ドラマ『天を衝け』で日本資本主義の父と持ち上げられ、飛ぶ鳥落とす勢いの渋沢栄一と共にハンセン病を「ペスト並みのおそろしい病気」と遊説して回った光田健輔の住居である。

 渋沢が日本資本主義の父なら光田は救癩の父。 

 各地の療養所=絶対隔離収容所にも豪勢な官舎が建てられた。大工仕事は患者作業によったから、材料費だけで済む。それでも、療養所建設に要した費用の一割をつぎ込んでいる。シーツの洗濯からアイロンがけ、窓磨きから庭木の剪定も、ある仕事は患者作業、ある仕事は患者作業で負担が軽くなった職員がになう。

 後に林文雄が園長となった星塚敬愛園には、「安村事件」(1936年)という醜聞がある。同意のない断種に公然と反対した54歳の患者の両義足を外して、山中の河原に置き去り追放した事件である。この時、林文男は、「本人はすでに無菌であり、善良な入園者を煽動して園の秩序を乱すので本人に言い含めて出てもらった」と説明している。未必の殺意と言うべきである。

  「天国」とは主を自称する者と彼を賞賛する者だけから構成される。自由な批判ある空間で、賞賛する者だけが集うわけがない。反抗する者や批判する者を先ず排除、次いで懐疑する者や自立する者まして生まれた「天国」である。

 主を自称する者は賞賛者に囲まれるうちに幼稚なカリスマ性を獲得、自らの世界のための安寧のために「罰」を生み出す。

 光田健輔が虚構の絶対隔離の絶対安寧のために希求したのが、反抗者を死に至らしめる「重監房」=特別病室であった。全国から所長や職員の意に沿わない患者が送りこまれた草津の栗生楽泉園「特別病室」は、冬には零下18度暖房設備はあろうはずもなく、食事は握りめし一日2個と、湯のみ2杯の水。長期間の監禁により1947年(昭和22年)に廃止までの9年間で、延べ93名の患者が収監うち23名が死亡している。 

 このあからさまな殺人を新憲法下の警察は、捜査すらしていない。誰一人罰を受けていない。それどころか 光田は1951年には文化勲章を受けている。このほかにも重大な犯罪行為がある。

 間違いは、極めて感染しにくいハンセン病を「ペスト並みの恐い病気」と偽ったことに始まっている。 光田健輔と渋沢栄一である。

 渋沢栄一は一万円札の肖像としては全く相応しくない、

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...