Oxfordの大学院生自治会、 Queen Elizabeth II肖像を植民地支配の象徴として撤去








 

Students at an Oxford College voted to remove Queen Elizabeth II portrait.

The MCR committee voted for the portrait to be taken down, claiming it represented an unwelcoming symbol of "recent colonial history”

Queen becomes latest victim of cancel culture as portrait is removed from Oxford college

Students at Magdalen College vote to remove the picture after claiming it represented an unwelcome symbol of 'recent colonial history' 

    Daily Telegraph.co.uk


 しかし何より興味深いのは、学生の行動に対する大学および政府の対応である。

  マグダレン・カレッジのダイナ・ローズ学長は院生「自治会は確か2013年に、女王の肖像写真を購入し、談話室に飾った」が、「最近になって外すことにした。飾ると決めたのも自治会なら、外したのも自治会だ」と指摘。「マグダレン・カレッジは言論と政治的な議論の自由及び学生たちの自治権を断固として支持する」と強調している。

  イギリスでは今、学問の場における言論の自由を保障する政策が推進されている。教授陣や学生、外部の講演者が大学当局に忖度して自由闊達な議論ができなくなることがないよう、英政府は大学当局の言論規制を禁じる法整備を進めている。

 翻って日本では今、植民地支配の責任を明らかにし天皇や政府を追及する動きは死んだかのようだ。加えて学問の場における言論の自由を窒素させる、青バッヂの極右議員が人気を博している。

 過去の罪を直視し学ぶのと、過去を否定し偽造することの差は計り知れない。


専門家とは何か、業界人は腐敗する

  ハンセン病療養所菊池恵楓園に収容されセファランチンを投与されたため、症状が悪化、眉毛は抜け落ち、目も見えなくなった退所者に関する検証会議聞き取りがおこなわれた。

 セファランチンは結核の薬として戦後使われた。若くて軽症の人に投薬され、それによって症状を悪くし、全盲になったり、手足を悪くしたり、亡くなった人さえいる。この薬については学会に報告されたが、失敗例はすべて捨てられ、少し症状が良くなった例や病状に変化が見られないものだけ残された。そのため、学会論文上、犠牲者報告はない。その後、セファランチンはいつの間にか使われなくなり、薬害が明らかにされていない。 ハンセン病問題に関する事実検証調査事業  第4回ハンセン病検証会議   2002年12月9日和泉眞蔵検証会議委員証言                註   和泉眞蔵  国立ハンセン病療養所や京都大学医学部皮膚病特別研究施設で、ハンセン病の診療や教育・研究に従事。国賠訴訟では青松園医長でありながら原告側証人として証言。又医療過誤事件でも原告患者証人として証言、一貫して患者の立場から医療を担ってきた。

 

 ハンセン病者たちは、セファランチンをナオランチンと呼んでいた。  ハンセン病療養所に長い間カルテが無かった。カルテが要らなかったのではなく、都合の悪いデータとして有っては困るものでもあったという驚天動地の構図がここに見える。病気の研究治療に注がれるべき情熱・時間・費用が、愚かに私的に浪費されたのである


 救癩の父と賞賛され文化勲章を受けた光田健輔の、医学者としての見識の程を示す遣り取りの記録がある。

(光田) 「あなた(小笠原登)は、ライは全治すると言っているが、それは間違いだ。全治は不可能です」 

(小笠原) 「では一体先生のおっしゃる全治とは、いかなる規範であるのか、まずそれを承りたい」 

(光田)「それは、患者の躰の中にライ菌が全くなくなり、かつ再発しないことである」 

(小笠原)「それはおかしい。およそ伝染病にして・・・全治した後の体内に菌が完全になくなることはない。いったんライに罹ったら、全治していても、終身患者扱いをすることは誤りである。先生のいわれるような意味で全治を考えたのでは、世の中に全治する病気は一つもないことになりましょう。それとも、何か全治するものが、先生のいわゆる全治する病気がありますか」

(光田)「チブスがそうです」 

(小笠原)「チブスは全治しても、なお患者の躰の中にチブス菌のあることは、内外の文献にも明らかですが」 

(光田)「イヤ、私はライの方は専門に研究したけれども、チブスの方は私の専門外なので、あまり研究していないから 詳しいことは知りません         田中文雄 「京都大学ライ治療所創設者小笠原登博士の近況」『多磨』1967年12月号


 原理主義の恐ろしさは、その幼児性の無知にある。「それは間違いだ」と胸を張っておいて、動かぬ証拠を突きつけられると「専門外なので」と居直り、相手を「間違い」と決めつけたことは決して取り消さない。こうした無知に基づく素早い断定を、頼もしさと見誤ることがある。近代科学の専門家を自認する者が好んで陥った隘路である。自分と同類同質の無知を振りかざす者の過ちに気付くのは難しく、親しみと力強ささえ感じてしまう。無知で傲慢な断定ほどカリスマ性を帯びる所以である。理性的な熟考を、無能な優柔不断と見なす傾向と表裏一体となって機能する。医師光田健輔を、専門家として原理主義者に育て上げた責任が渋沢栄一にはある。

 この構図はコロナ禍の現在、マスメディアを通してむしろ拡大している。 

 賢者は、自分がつねに愚者に成り果てる寸前であることを肝に銘じている。・・・これに対して愚者は、自分を疑うことをしない。・・・そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられる理由がある。・・・愚者はけっして休むことがない。オルテガ


追記 光田健輔と論争した小笠原医師の自信の根底には、分厚いカルテがある。当時ハンセン病医はカルテを録っていない。治療への関心の低さを象徴している。京大「特研」(皮膚科特別研究室)医師小笠原博士のカルテは詳細かつ膨大であった。

 療養所以外でのハンセン病「治療」は、表向きには認められなかった。だが小笠原は、早朝から夜中まで毎日50名前後もの患者を素手で診察、その手の温もりが患者を「死んでもいい」とまで感動させている。

 彼の患者は、入院することも仕事を続けながら通院する事もできた。癩予防法が医師に義務付けたハンセン病患者の届出(即ち療養所隔離)を避けるためカルテの病名欄を空白にしたり、診断書が必要なら「多発性神経炎」とだけ記入。人目を避けて早朝夕方に通院する患者のために診療時間を大巾に延長した。患者の負担軽減のために、自らの研究費や給与も流用している。博士の着衣は、学生時代からの黒い詰襟を繕ったものであったという。彼が治療した患者は3000名にのぼる。

 光田と渋沢の救癩事業が慈善に依存する中で、国民皆保険制度の必要性も説いた。南画や漢詩を嗜む浄土真宗の僧侶でもあった。業界人から最も遠い教養豊かな「人」であった。


「授業をうける権利」と勤評

 「授業をうける権利」とは何か。学校に行くことか、教室に入ることか、よく考えると段々曖昧になる。だが権利の原則に立ち戻って考えてみる必要がある。例えば、宗教を信じる権利。これは特定の宗派あるいは宗教一般を信じる自由を意味するだろうか。

 そうではない、信じないことによっていかなる不利益も被


らない事である。この原則があって初めて特定の宗教を自由に信じることが出来る。だから戦前の日本に信仰の自由はなかった。ある宗教を信じれば、あからさまな弾圧が加えられたからである。アメリカには信仰の自由はない。無宗教は「アカ」と見做され入国さえ危いからだ。

 同じように「授業をうける権利」を考えてみる。それは「授業をうける」または「授業を受けない」ことによって不利益を被らない事である。

 具体的に言おう。僕が小学校六年生の時、クラスは能力別に4つに分断された、一番できるグループは廊下側、二番目が窓側、三番目は廊下側の次、おしまいは窓側と三番目の間。一目瞭然だった、60年が過ぎた今なお「あれは嫌だったね」と同級生たちは口々に言う。この並び方で行われた授業は、毎日業者テストの繰り返し。僕は次第に不満を募らせ、三学期の末怒りを爆発させた。担任が楽しく「お別れ会」をやろうと言った。このクラスは6 年間クラス替えがなくそのうち5 年間がこの担任で、僕は転校生だから2年半だけこのクラスだった。学級委員だった僕は「なぁ、いいだろう、いいだろう」を笑顔で繰り返す担任に、「嫌です」とかみついた。賑やかに、あれをやろう、誰とやろうと盛り上がっていた教室は、突然シーンとなった。

 担任は「何が不満なんだ、みんなが賛成しているのに。このクラスが詰まらなかったと言うのか」

  僕はこの後チャイムが鳴るまでの30分以上を担任と喧嘩した。「みんなが賛成なら僕は出ません」と僕は最後に言って教室を出た。すぐに野球仲間が追いかけてきて「ごめんな、俺も反対だったんだ」「担任が恐くて何も言えなくなっちゃった」・・・僕はリーダーシップもあり、成績もよく担任のお気に入りだったからみんな驚いた。頻繁に行われた業者テストでは毎回千人中の順位が添削とともに記入されいた。僕は一桁の順位だったから、初め不満はなかった。クラスの空気が暗くなったことに気づいたのは二学期になってからだ。

 母は呼び出されて「こんな協調性のない子は初めてだ」とだいぶ小言を食った。僕は祖父母や大叔母や両親から、納得いかない時にははっきり意見を言いなさいと言われ続け実行してきた。

 この顛末が「勤評」だったのかと読めてきたのは、高校生になって「教育問題」を文化祭でとりあげてからだ。

 勤評に怯えた担任によってクラスが「出来・不出来」で分断されたのが、不利益にあたる。勿論僕は一学期に、「こんな不快な席順はやめてください」と言うべきであった。

 教師の日常に煩雑な競争を持ち込むのは、政策vision のない政治屋とって手軽に票を組織する手段である。

 例えば、若者の自殺をなくすことを真剣に考えるなら、少なくとも25年を見据えた社会政策が必要になる。 長く費用の嵩む社会政策を訴えていては、議員4年の任期は瞬く間にすぎてしまう。

 誰もがその門を潜り多かれ影響を受ける学校教師の「資質」や「日教組」の問題と罵れば、「単純で分かり易い」説明を希求する有権者の賛同は得やすい。予算の裏付けも僅かで済む。軍事予算や大規模公共投資に手を付けないで済む。マスメディアへの露出も増える。こうして彼らもまた教育を政治的に取り上げることで、ほぼ永遠に「授業をうける権利」阻害し続けるのである。


  マッカーシーが「赤狩り」にのめり込みアメリカの戦後を混乱のどん底に落としたのも、「単純で分かり易い説明」が有権者に受けたからである。その痛手からアメリカは未だに立ち直ってはいない。

  勤評のような政策を分析する時、我々は大人の世界である経済情勢や政治情勢の分析を好む。しかし僕は、当時の子どもや生徒の記憶を探る研究が無いことを悲しむ。何故ならそれなしに我々は 当事者から見た「授業をうける権利」にたどり着けないからである。

ハンセン病療養所「園券」の深い闇         ここにも渋沢栄一の影

   戦前戦中ちまたでは、「全生園にいけば2、30万はいつでも融通してもらえる」と公然と言われていた。高木敏子「ガラスのうさぎ」に、太平洋戦争末期「1000円といえば、ちょっとした家が一軒建つお金」という記述がある。2、30万円は大変な額である。現在の価値で2億、3億円に相当する。 

 絶対隔離は火葬場の煙とならなければ外に出られない仕組みだった。どんなに金を患者が持っていても、一旦園が強制的に預かってしまえばどう使ってもなんら咎められない。全く自由な400万円近い資金(4000億円に相当する)が、いろいろな方面から重宝されていた。戦前の市中金利は5%から10%で推移していたし、高利貸しの金利は年利100%を越え

患者たちは有り金残らず巻き上げられ・・・  
  
ていたからである。全国のハンセン病療養所は患者の逃亡を防ぐことを理由に、その所持金を園内だけにしか通用しない粗末な「園券」に強制的に交換した。
  しかし敗戦とともに事情は大きく変化した。1925年男子のみの普通選挙権が認められたが、皇族と公的扶助を受ける者は無かった。1947年補欠選挙が開始されるとともに、共産党遊説隊が園内に入り、草津栗生楽泉園ではその晩のうちに懇談会が開かれ患者の怒りは爆発する。(1947年患者の委任を受けた自由法曹団が、園当局の行為は殺人、同未遂、特別公務員暴行凌虐、不法監禁罪を構成するとして前橋検察庁に告訴告発している。それによれば、 庶務課長は重監房運用責任・物資隠匿横領・患者労働賃金のピンはね横領等、炊事主任は患者救済を騙って買い付け横流し、保母は虐待で保育児を死に至らしめている。)
  共産党や社会党も園内に入り、患者たちがハンセン病療養所の実態を村人や町民に訴え始める。長年の悪事が露呈・園当局の尻にも火が付く。患者が持参した金券=「正金」を当局は「保管金」と呼んだが、保管などしてはいない勝手に「運用」していたのだ。

 昭和27(1952)年4月1日「第一分館に於て保管金払出しの際本日より何の報告もなく正金にて払出しているとの情報を得たので、早速園当局に申入れし、正金切替は計画の下一斉に行うにつき、この処置を差しとめさせた」と全生園患者自治会は記録している。自治会が正式に金券への切替を要請したのが3月15日ごろで、切替希望日は4月なかごろである。
 開園から40余年もの間、入園者の所持金をいくら取り上げていくら園券にしたか明細などない。

 「切替えは予定通り始まり14日・・・15日・・・16日・・・17日・・・と順調に進んだが、保管金額に誤りがある疑いが出てきて、切替委員が立ち合って調査したところ、銀行預金の38万円余が見落とされていて、日本銀行券保有高とだいぶ差があることが判明した。・・・自治会では、調査委員会を設けることを決め、翌日には、施設側に現金出納簿の提出を要求してこれを調べたが、出納簿はこの切替えに当たって、都合よく書き換えられたものであったので、原簿の提出を要求。
 ・・・明らかに現金出納簿を改ざんしている等の事実を厳しく指摘し、全くいいかげんな取りあっかいについての釈明を迫った・・・ そして22日・・・園長は自治会に対し、73万5000円余が不足していることを正式に認めた。この不足分を認めたことは、患者の保管金と金券発行額だけ、現金の裏付けが無いということで、そこには明らかになんらかの不正が介在することを認めたわけである。
 ・・・「園券に関する不正責任糾明委員会」が発足したのはその夜。・・・激しい怒りが「園券に関する不正糾明患者大会」に結集された。この日の礼拝堂には、入園者600余人が会場と堂外にあふれ、出席している施設首脳者に怒りの声がしきりに飛んだ。大会決議では「73万余円不足の事実は、過去30有余年の永きに亘り我々患者の血と涙の結晶たる零細なる所持金が、何らの会計検査もなく、無能にして絞滑なる担当者にょり、如何に曖昧模糊たる処理に委ねられ来ったかを自ら暴露せるものであり、我々現存者のみならず不幸なる時代の中に病没した過去の病友の霊と共に断じて許さざる処」と述べ、施設の責任者園長の意志表示、永井と菱川の即時辞任とらい園たらい回し勤務の拒絶、不足金の個人負担、不足の真相調査と公表等を要求した。
 これに対する24日の園長回答は「皆様の所持金縁管に関して慎重を欠き不始末を生じ御心配をおかけしたことは責任者とし注意が足りなかったと痛感すると述べたが、内容はそれとはうらはらでそっけないものだったため、委員会はこれを拒絶して、再回答を要求、26日の再回答では責任を痛感し、永井、菱川両人をやめさせる、両人は辞職を隣い出、他のらい園には勤めない、不足金は個人が支弁し、原因調査は公正を期して本省と地方局に依頼、4月30日に公表するとしたのを、糾明委員会は了承した。
しかし新聞各紙は「患者の金を職員が横領?」 「らい園は伏魔殿」などと興味本位に取りあげ、事件の解決にはほど遠かった。
 4月30日加藤事務官らの本省調査団は糾明委員会に対し、調査の中間報告をしたが、・・・その調査の粗雑さについて糾明委員会からきびしい指摘をうけて、ついには施設、糾明委員会との三者で合同調査をすることになり、その結果は5月6日つぎのように発表された。
○入園者所持金
 有効園券         二三四万〇四五〇円五四銭
 保管金           一〇九万四三六七円五四銭
 互恵会             三八万四四八九円〇九銭
 慰安会               三万〇一四六円四〇銭
 その他                   一八七六円
  合計            三八五万二二二九円五七銭
○園が示した資金
 課長出納簿       二九七万八五二二円七一銭
 菱川保管金           四万八三六四円七五銭
 同立替金             八万一三〇〇円
 振替貯金                 三四〇五円二六銭
  合計           三一一万一五八三円七二銭
○差引不足額         七三万九七四五円八五銭

 そして永井は7月、菱川は8月に結核の施設に転勤となった。
 調査団発表は不足金の確認だけで不足した原因には触れない。施設ではその後も調査を続けているが、林メモによると(6月30日)42万4000円余の所在は、菱川の帳簿もれと解明されているが31万5000円余は不明金としている。前記したごとく裏付け金出納簿は改ざん(または問題ない部分だけはチェック)したものを自治会に提示し、改ざんを追及されてもついに原簿は出さなかった。」
全生園患者自治会編『俱会一処』一光社刊
 国立ハンセン病療養所は国内だけでも13箇所あった。不正横領は全生園だけではない。不正に運用された膨大な「利益」は何処に消えたのか。これも光田健輔と渋沢栄一画策による「絶対隔離」政策が無ければ出現するはずのない深い闇であった。この一事だけで、渋沢栄一が一万円に相応しくないことは明白。
 この後患者たちは長く困難な「ライ予防法」闘争に精魂を傾け敗北する。光田健輔は1951年、文化勲章を胸にした。

 敗戦は憲法改革を伴う「革命」であるべきだった。革命の過程では旧体制で弾圧迫害され投獄された人々が、新しい体制の理想を実現するために政権中枢で汗を流す。それが民主主義的政変である。眼光鋭く旧体制の闇を告発検証して、責任の在りどころを逃さない。そうでなければ新しい体制は実現しない。

 にもかかわらず光田健輔と渋沢栄一の絶対隔離体制は続いた。誰一人処罰されなかった。殺戮も横領も拷問も何も問われなかった。犯人たちは逮捕もされず裁判にも掛けられなかった。旧体制は、より権威主義的に整えられたのである。

ノーベル文学賞川端康成と小説の神様志賀直哉

   

  1968年川端康成がノーベル賞を受けたときの顔には、言うに言われぬ寂しさが凍り付いている。その頃、
彼が「北條民雄が生存しておれば、 私より先にノーベル文学賞を受賞していただろう」と述懐した事が巷間伝えられている。

  作家伊波敏男は米軍統治下の沖縄愛楽園を脱走、密出国。愛生園に設置された県立邑久高等学校​新良田教室を卒業した。彼が愛楽園訪問した川端康成と対話した思い出を語っている。

 

「・・・川端康成さんが文化講演に沖縄に招かれたんですが、主催者側に「講演をするついでに、ハンセン病療養所にいる子どもたちにぜひ会いたい」という。・・・「ハンセン病療養所は人間が足を踏み入れるところじゃない」なんて考える人が、まだまだ多かった時代です。川端さんに届けられた療養所の子どもたちの作文を読んで、川端さんが「この子に会いたい」と、指名したのだそうです。

 ・・・いざ川端さんと対面するために入室しようとしたとき、入り口ですっかり足がすくんでしまいました。その部屋には、白い予防服を着てゴム手袋をして黒い長靴を履いた大人たちが30人近くもずらっと並んでいた。それはいつも見慣れている光景だから気にならなかったんですが、驚いたことに川端さんだけがワイシャツ姿で、袖をまくりあげた格好で、ニコニコしながらそこに置かれた椅子に座っていたんです。それを見て、すっかり怖気づいてしまった。

 校長先生に背中を押されて、しかたなく川端さんのすぐ前に置かれたパイプ椅子に座ったら、「関口君だね」と言って、いきなり手を握ろうとしました。私はとっさに両手を背中の後ろに隠してしまった。川端さんはちょっと悲しそうな顔をして、自分の椅子を引き寄せて、私の太ももを挟み込みました。川端さんが話すと、ツバが顔にかかってしまうくらいの近さでしたよ。そのままいろんな話をしました。

 ・・・「『いのちの初夜』は読みましたか」と聞かれました。読んでいたけども、正直言って中学生の私にとって難しかった。だから「よくわかりませんでした」と答えたんですが、川端さんがまた悲しそうな顔をされたので「あ、また余計なことを…」とあわてて、「でも、先生と北條さんとの往復書簡の中で覚えているところがあります」と言いました。「へー、どっどっどこ?」とせきこむように聞かれたので、「僕には何よりも生きるか死ぬか、文学するよりもそれが根本問題だったのです。人間が信じられるならば、耐えていくこともできると思います」という手紙の一部をすらすらと諳んじて見せました。・・・

 すると、川端さんの大きな目の玉から、シャボン玉みたいに涙がこぼれてきた。私の太ももをパンパンと叩いて、「進君! 関口君! 君は北條民雄の悲しさ、『いのちの初夜』が、わかってますよ」。

 そこで時間切れになりました。川端さんは私の手を握りなおして、こんなことを言ってくれたんです。「進くん。自分の中にたくさん蓄えなさい。そして書きなさい」。この言葉が私の心にいちばん響きましたね。その後もずっと残りました。・・・白い服の人たちと部屋を出て行きかけた川端さんが、最後にもう一度、私に向かって、「進くん! 何か欲しいものはありますか」と聞いてくれました。すかさず「本が欲しいです」と答えたら、大きくうなずいていました。

 それからしばらくして、療養所に木枠の箱がたくさん届いた。開けてみたらどの箱にも児童図書が詰まっていた。それを片っ端から読みました。本の中には夢がいっぱいあった。本がいろんな世界に連れて行ってくれた。そんなこともあって、もっと本を読みたい、もっといろんなことを知りたい、もっと勉強したいという思いが私のなかでどんどん大きくなっていったんですね。」  伊波 敏男(作家) vol.1   https://leprosy.jp/people/iha01/

 

  川端康成の北條民雄宛の7通目の手紙  (1935年12月10日)にこんな記述がある。

  「些細のことが貴兄を力づけ、こんな嬉しい思いをしたことはありません。貴兄の手紙は立派です。そうあろうと推察し、文壇小説はよむな、文藝雑誌は見るなと予あらかじめ申上げたのです。今度の小説は改造か中央公論のようなものに、必ず出して差し上げましょう。しかし、悪ければ返しますよ。原稿の注文は一切小生という番頭を通してのことにしなさい。でないとジャアナリズムは君を滅ぼす。文学者になど会いたいと思ってはいけません。孤独に心を高くしていることです。原稿紙ヤへ見本送る催促出しました。横光(横光利一)曰ク、おれ達と苦労がちがう、ドストエフスキイの死の家(『死の家の記録』)以上だ。肺療院の生活など甘いものだと。・・・」

 七條晃司に筆名北条民雄を与え、『命の初夜』の作品名を考えたのも、訃報を受け真っ先に全生園霊安室に駆け付けたのも川端康成であった。『北条民雄全集』の編纂にあたって川端康成は

「無慙な運命に夭折の天才の文章を出来るだけ多く世に遺すのは、私のつとめであり、全集編纂者の習はしである」

と記している。

 対して志賀直哉は、北条民雄の『命の初夜』の掲載された雑誌にすら手を触れなかったと伝えられる。。戦中に特高警察の探索を笑い飛ばして終戦工作に励んだり、戦後発足したばかりの『世界』の編集に、敢えて中野重治や宮本百合子を入れる提案をした頃の志賀直哉とは、大きな落差を感じる。

 
1955年 土門拳撮影
   写真は川端康成が沖縄愛楽園を訪れる二年前、左端が川端康成。この時二人の間に交わされた会話はどのようなものであったのか。 彼らが夫々贔屓した若い作家・小林多喜二と北条民雄にはその天才性などいくつかの共通点があった。この撮影はその瞬間をとらえていたかも知れない。


 北条民雄の本名が遺族の了解を得て公表されたのは2014年、死後77年経っていた。北条民雄の死因は腸結核。「らい」で絶命することは殆どない、併発した病で死亡している。ハンセン病療養所の使命は解剖ではなかった。

 1972年川端康成は、ガス管をくわえて自殺。ノーベル賞から僅か四年後であった。志賀直哉はその前年1971年、老衰で亡くなっている。

    


 

教えたことを裏切らないという誠実性

  戦中の沖縄愛楽園に県警本部長一行が厳めしくやってきて、居並ぶ患者職員一同に皇民の心得を説いたことがある。

 その時、患者の一人が

 「一家の働き手が収容されて、食うに困る家族を抱えた患者が沢山いる。患者にも死んで皇国に尽くせと言うなら、残してきた家族の支援をして欲しい。それが出来ないのは、ひょっとして陛下の目が濁っているからではないか」

 と神をも畏れぬ大胆極まりない批判をした。

 忽ち職員たちは狼狽、私服刑事が関係箇所を調べる騒ぎに

治療はなかったが解剖は承諾なしでも行われた
なった。彼は師範学校出の若い教員であつたが、職務半ばでハンセン病を発病して収容されたのである。

 同じように一家の働き手を徴兵で失った家族には、僅かながら援助があったのを、この元教師は捉えていた。ハンセン病患者は犯罪者ではないにもかかわらず、収入は断たれ家族は路頭に迷うことになった。

 「教えたことを裏切らない」誠実性はこういうことである。「重監房」送りになっても不思議ではなかった。(光田健輔が虚構の絶対隔離の絶対安寧のために希求したのが、反抗者を死に至らしめる「重監房」=特別病室であった。全国から所長や職員の意に沿わない患者が送りこまれた草津の栗生楽泉園「特別病室」は、冬には零下18度暖房設備はあろうはずもなく、食事は握りめし一日2個と、湯のみ2杯の水。長期間の監禁により1947年(昭和22年)に廃止までの9年間で、延べ93名の患者が収監うち23名が死亡している。)

 この重監房建設には、渋沢栄一の三井報恩会からの寄付があった。繰り返す、渋沢栄一は一万円札に相応しくない。

   この若い元教師のその後は分かっていない。


 

専門と良識

   早く走ったり重いものを持ったり投げて人の役に立てば、その得意技が賞賛されることがある。例えば沖で溺れる人を救助したり、重い瓦礫に埋まった人を助けたり・・・。ただ早い、重いものを持ち上げるだけは、確かに「専門」力量ではあるが、個人の特徴に過ぎない。頭の回転が良かったり、目が大きかったり、体型のバランスが良かったりも、個人の特性。それをスチュワーデス採用の条件にすれば差別。更にその差別によって収入が左右されれば、収入如何で職業を選ぶ風潮を煽り、差別に貴賤の感情を固定してしまう。結果、職業選択の自由が歪んでしまう。

 入学前の偏差値や類似数値を用いての「恣意的」選抜も、僕は差別だと思う。「偏差値や類似数値」を基準にするのは「青い目や金髪」を手掛かりに人間をふるいにかけたナチの「優性思想」と変わらない。差別に基づいて合否を決めるのは、国際人権規約への冒涜と知る必要がある。人権規約は努力目標ではない。

 こうした差別を前提にしての、学校別「校則」に普遍的効果はない。底辺校になるにしたがって急激に校則が懲罰的になる状況を前に、教師たちが「僕のところは幸い底辺じゃないから・・・」と知らんぷりを決め込むのは犯罪に加担するも同然。アウシェビッツの絶滅処理を「知らなかった」とナチ支配下の公職者が言ったに等しい。

 DVが家庭ごとに異なる基準に照らされてはならないように、校則はあらゆる学校の全生徒学生の権利を守るものでなければならない。それを教師はサボってきた。時には管理主義的勢力と一体になって推進さえした。

 だから職場・職種・雇用形態ごとに労働条件が異なり、労働者の統一と団結が何時までも放置されたままなのだ。賃金も労働条件も格差は開く状況に成すすべなく立ち尽くすばかり。多感な少年期を理不尽な校則に縛られたままで過ごせば、正義や公正の概念は絵にかいた餅にもならない。偏見と貧困の連鎖に公教育が貢献しているわけだ。

 毒ガス兵器もV2ロケットも核爆弾も「優秀」な第一級の科学者=専門家が賞賛の嵐の中で生み出している。優性思想も先進的医学者なしには考えられない。しかも彼らは、この兵器で「戦争は終わる」と揃ってうそぶいたのだ。例えば毒ガス開発者フリッツ・​ハーバー博士は「毒ガス兵器で戦争を早く終わらせられれば、無数の人命を救うことができる」。この言葉て周りを大量殺戮に巻き込んだ。彼は盲目的愛国心の持ち主であり、異常なのめり込み方で化学兵器開発の先頭に立

った。(ハーバーの妻クララは女性としてはドイツ初の博士であったが、毒ガス研究にのめり込む夫を諫め、ピストル自殺した)。「無数の人命を救うことができる」は原爆を投下した者たちが初めて使った台詞ではない。専門家が納税者に良識が芽生える前に、あらゆる場面で使われた事が分かる。ベトナム戦争やアルジェリア独立戦争では「良識」そのものを爆撃した。  


  正木ひろし弁護士をおもう。特高支配下にあった 1944年、警察による暴行致死疑惑(首なし事件)があった。彼は取調べ中に死亡した被疑者の遺体を掘り首を返し持ち帰り鑑定、特別公務員暴行陵虐致死罪で警察官を告発する。公然の秘密化していた官憲の拷問に敢然と立ち向かった。件の警察官は1955年に有罪が確定した。

 彼を支えたのは「専門」知識ではない、「良識」である。彼は旧制高校を出ると、旧制中学の教師を続けながら帝大に席をを置いていた。blog「椋鳩十が、快惚として聞き入った正木先生の授業」←クリック

    彼の豊かな「良識」はこうして育っている。

 彼自身思想的には「反共」であったにも拘らず、反天皇制主義の姿勢を明確にし、プラカード事件の弁護では先鋭な言論を展開、三鷹事件や菅生事件では被告人となった共産党員を弁護、反権力派弁護士として幅広い活動を続ける事が出来た。

 教師は授業や研究の専門家だろうか。生徒や保護者には様々な立場の人がいる。第一生徒自身、立場は様々である。彼らは全て国際人権規約のもとにある。そこで有効なのは「専門」ではない。良識である。

 教師はメダルに群れる「専門家」を育てるのではなく、常に権力と対峙する良識を彼らの中に育てねばならない。これを権力は「政治的偏向」と指弾するに違いない。その限りにおいて、教師は政治的たらざるを得ない。「中立」のいかがわしさに教師はいつも翻弄されるのだ。

  「より高く、より早く」はどんなに優れた専門特技であっても、良識にはなりえない。


  志賀直哉は良識の人であった。

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 政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の如き「専門」家たちに僕は初めから信頼を置いていない。予め保健所を閉鎖しながらpcr検査を制限する手法を執った「専門」家に、国民の健康や生命に対する「良識」は感じられない。彼らは最初から五輪の「安全・安心」を根拠なしに到達目標に掲げていた。それは毒ガス開発者フリッツ・​ハーバーが「毒ガス兵器で戦争を早く終わらせられれば、無数の人命を救うことができる」との言葉て周りを大量殺戮に巻き込んだことに相当する。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...