1967年のどぶねずみ色の若者たち Ⅱ

 承前  花森安治は兵隊だった頃を思い出す。彼は1911年生まれ、徴兵で中国東北部の部隊に従軍した。


   どうにもならぬほどのどが渇いてくると奇妙に、だれの顔つきも、おなじような感じになった。 

   目が、へんに光っているくせに、それでいて、どこか遠くのほうを見ているような、早くいえば、呆けたような表情になる。

 ひとの顔が、みんなそう見えるのだから、もちろん、こちらなど、とっくにそんな顔つきになっていたのだろう。

 そして、考えていることといったら、あとどれくらい歩いたら、水のある所に行きつくだろうか、などといったことではなくて、それでも、だれか水筒に水をこっそり残していないだろうかと、前後左右の兵隊の腰のあたりで、歩くたびに揺れる水筒の音に、神経をすりへらしているのだ。

 ことわっておくが、こんなことを書くのは、このごろのご連中、みなさまおなじような顔つきをしているのは、心のなかで、よほどのどが渇いているのだろう、などと歯の浮くようなことを言うためではないのである。

 なにかといえば、欲求不満だの挫折感だの劣等意識だの体制だの反体制だのとはやしていて、それで日が暮れるような、そんな甘っちょろいものではない筈だ。

 第一、おなじバカみたいな表情にしても、汗が噴いて乾いて塩が縞のように白くこびりついた兵隊のぎりぎりのアホウ面と、ズボンのポケットに小銭をじゃらじゃら鳴らしている、男性化粧料やけしたアホウ面とが、いっしょになろうはずがなかろうじゃないか。

 そんなことではなくて、あのどうにもならないほどのどが渇いているときでもみんなが、おなじ兵隊服でなく、てんでばらばらのものを着ていたら、それでもやはり、みんなおんなじょうな顔つきになっただろうか、それをふっと考えたからである。

 というのは、そんな生命ぎりぎりのときでなくても、兵隊の顔は、どうにも見わけのつかないものなのだ。

 いつか、行進している部隊の中から、自分の中隊を探そうとして、知った顔を見つけるのに、ひどく苦労したおぼえがある。

 そういうつもりで、一度、このごろの連中の着ているものを、町角に立って、眺めてみたまえ。

 まるで、だれかに命令されたように、みんながみんな、おなじような服を着ている。それが、どぶねずみ色なのだ。

 だいたい、男の背広なんてものは、やれコンチがどうの、アシタがどうのといってみたって、たかだか、エリの巾が何ミリどうなって、胴のダーツが何ミリどうとったなんてことで、ボタンの数がふえたといっても、まさか十も二十もつくわけじゃなし、ズボンをスラックスといいかえてみても、ガニマタが、すらっとするわけでもなし、洋服屋のまわし者がさわぐほどには、大して変りはえのするものではない。女の子の流行の千変万化ぶりにくらべたら、男の背広なんて、いつだって、どこだって、だれが着たって、大して変りのないものだ。

 形がすでに大して変りはないときているところへもってきて、色まで、そろいもそろって、どぶねずみ色なのだから、なんのことはない、これは、もはや一種の兵隊服である。

 それも、兵隊服のほうは、なにも好きこのんで着た奴は一人もいない。馬鹿野郎、服に体を合せるんだ、とどなられながら、どうにかこうにか、体のほうが服に合ってきたものだ。

 もちろん、あの兵隊服には、細部にわたって、なにからなにまで、きちんと規格があって、縫製はもちろん、着方まで、うるさくきめられていた。帯革をしめたとき、ビジョウのどの線が、服のどの線にそろわねばならないか、そのとき出来たシワほ、どこへ寄せなければならないか、そんなことまできめられていた。軍人の制服だから、仕方のないことだった。

 ところがこのごろの連中のどぶねずみ色の服が、やっぱりそれなのだ。

 なにも会社や役所できめたわけでもあるまいし、タダでくれたものでもあるまいに、兵隊服みたいに、ぴったり規格に合って、着方までそろっている。

 ワイシャツは白、ネクタイと靴下は、どぶねずみ色、靴は黒、ハンカチは白ときて、そのハンカチの折り方、胸ポケットからのぞかせる寸法(ミリ単位)、ネクタイの結び方から、カフスボタンののぞかせ方(おなじくミリ単位)、上着のボタンの外し方に至るまで、これがおなじときている。

 古い言葉でいえば、さしづめ、バッカじゃなかろうか、である。

 君、なにを着たっていいんだよ。

あんまり、わかりきったことだから、つい憲法にも書き忘れたのだろうが、すべて人は、どんな家に住んでもいいし、どんなものを食べてもいいし、なにを着たっていいのだ。それが、自由なる市民というものである。

  花森安治「どぶねずみ色の若者たち」 『暮しの手帖90号』

 どうだ、不気味だろう。「 あんまり、わかりきったこと」も憲法に書かねばならぬと言いながら、その実政権党が目指しているのがどんな世界なのかが。

 花森安治は、世界を震撼させた「大学闘争」の前年にこれを書いた。と言うことはここに書かれたどぶねずみ色の若者たちは、団塊の世代のだいぶ前に生まれている。つまり戦中派ではないが戦後派でもない。この微妙な世代のおかしな風俗に、花森安治は怒りを隠さない。

 彼らが国民国民学校に入る頃、教師は敗戦で呆然。昨日まで現人神のために命を捨てろと裏声で叫んでいた男が、教科書の墨塗に励むそんな時代。

 適格審査による教職追放もあったはず。 教職追放は、GHQのCIE(民間情報教育局)が担当した。CIEは、教職追放の方が公職追放より厳しいものになるべきと考えていた。全国130万の小中学校教員、大学教授等を対象に審査し、日本の戦争を肯定する者、積極的に戦争に加担した者、戦後の自由と民主主義を受け入れない者に、除籍を求めた(適格審査の記録はほんの一部しか残っていないが、審査は実に杜撰なものであった)。1946年5月、占領下の文部省は『教職員の除去、就職禁止及び復職の件』を発令。各都道府県に教員適格委員会を設置している。

 少年たちは何を考えただろうか。

 丸山真男は駅ホームの放送「危険ですから白線の内側にお下りください」に腹を立てた。判断する主体はあなたではないということを、政府に代わって数十年間睡眠学習のように聞かせ続けているからである。

 戦前の教育は少年の生活全てから、判断するする知性を奪い尽くした。

 つい昨日まで鬼畜と罵った米兵に一言一句に至るまで唯々諾々と従う。そんな教師を見て、少年たちが再び胸に刻んだのは今までのように「考えない」こと「判断しないこと」だった。そうでなれば「どぶねずみ色の若者たち」の奇態は説明が付かないではないか。


 『暮しの手帖』の魅力は、多種多様な取材対象と執筆陣にある。ノーベル賞受賞者も日雇い労働者も人間国宝も貧乏暇なしも同列に扱われる。この無鉄砲かつ勇敢な編集姿勢は、花森自身の旧制高校時代や「帝大新聞」編集部時代に形成されている。

 だから彼は一方で「どぶねずみ色の若者たち」とは対極の輝かしい青春を経験し、他方で軍馬以下の一兵卒=究極の溝鼠として戦場を彷徨った経験をもった。正真正銘の複眼的切れ味の良さはこうして生まれている。

 

  

1967年のどぶねずみ色の若者たち Ⅰ

 花森安治は、全世界的な学生紛争の勃発する「1968」年の前年に不気味な批評を書いた。

 学校にいるときは、一向に制服を着たがらないでもって、ひとたび世の中へ出たとなると、とたんに、うれしがって、われもわれもと制服を着る、という段取りになっているようだ。

 たとえば、東京でいうなら、丸の内とか虎の門あたり、あのへんを、昼休みにぞろぞろと歩いている、若いサラリーマンたちを、ながめてみたまえ。

 ・・・

 へたな空想科学小説にでてくる、どこかの遊星の、独裁者の意のままに支配されている人民たちみたいに、みんな生気のない顔をして、べつにどこへゆくというあてもなく、みんなが歩いているから、じぶんもそっちへ歩いているといったふうに、動いているのだ。

 真昼の強烈な日光の下で、突如あたりの風景が、すうっとくらくなる、立ちぐらみというのだそうだが、いくらか、それに似ている。

 見ていて、うすら寒いのだ。

 いったい、人なに事かを憂えているときは、顔色に生気があり、日に光りがある。このどぶねずみ色群の、のろのろとした動きには、そのような、大それた気配はない 

・・・

 顔色の生気のないことをいうまえに、顔つきの、だれもかれもおなじように見えること、さながらナンキソ豆の面つきのようであること、それからいうのが、ものの順序だったかもしれぬ。

 なるほど、ひとりずつを離して、ことこまかに観察すると、おのずから多少のちが小はあって、佐藤君を三木君ととりちがえるようなことはない。

 しかし、佐藤君の顔と三木君の顔のちがいは、つまりはナンキン豆にも、皮がこびりついているのもあれは、焦げて苦いのもある、その程度のちがいで、ひっくるめてみれば、このごろの連中の顔は、まったくおなじような感じである。

 むかしは、女性の顔が、こんなふうに、どれもおなじような感じだった。

 リンカクでいうと、面長とか面丸とか色つやでいえは、じゃがいもの皮をむいたのと、むかないのとか、一方はキッネ顔、一方はタヌキ顔といったちがいはあったにせよ、ひっくるめての感じは、どれもおなじだった。二言でいうと、つまりは<良妻賢母>風とでもいうか、内心はともかく、いつも一歩か一歩半ひき下ったような、見たところ、つつましく、たよりなげな顔つきであった。

 どこで、どう回路を引きそこねたか、このごろは、男の連中が、おしなべて、おんなじような顔つきになっている。

 一くせも二くせもありげな、ギョロリとした面がまえは、先日小菅刑務所を見せてもらったが、そこでも見つからなかった。

 まして、のろのろと昼休みのビル街に動いているどぶねずみ色群のなかに、半くせも四分の一くせもありそうな面を見つけようというほうが無理なのだ。

 おしなべて、一見たよりなげで、二見良夫賢父ふうで、三見ケチでずるそうでこれでは、だれの顔を、だれの顔とすげかえてみても、べつになんの差し支えもござりませぬわいなあ、といった顔つきをしている。

 だれの顔つきもおなじだということはみんなのっぺらぼーの顔で歩いている、ということだ。

・・・

 兵隊だったころに経験したことだが、どうにもならぬほどのどが渇いてくると奇妙に、だれの顔つきも、おなじような感じになった。

 しかし、このごろ どぶねずみ色の服を着て、のろのろと、けだるそうに生きているのは、こどもでも老人でもない筈である。

 それとも、このごろの青年は、戸籍面の年令だけが青年で、中身のほうは、ひねくれたこどもか、若年寄りのどちらかなのだろうか。

・・・

 どんなわかりきったことでも、一度じぶんの手で受けとめて、じぶんなりに考えてみて、ほんとにそうなのか、じぶんでたしかめる。もし、そうでなかったらハッキリさせる、そうなるまでたたかおうとする、この抵抗の精神は、青年だけが持っていた筈である。この精神だけが世の中を、すこしでもスジの通ったものにしてゆけたのである。

 みんな、だれの命令でもないのに、どぶねずみ色の服を一生けんめいに着こんで、しかも我ひと共に怪しまない、そんな姿勢のどこに、この青年だけが持っていた<さからいの精神>がみられるというのか。

一体何時から日本はこんな馬鹿げた児戯に力を込め始めたのだ、千歳飴が相応しい


 いまは、天下泰平だという。

 ウソをつけ。世界といわず、日本といわず、いったい、どこが天下泰平なのですか。 いうならば、乱世である。

 お互い、うじゃじゃけ(傷跡などがただれた状態になる。 また、だらしない様子)のかぎりをつくした乱世ではないか。

 まいにちの新聞の見出しをならべただけでも、とても正気な人間の集っている世界とはおもえない。

 それだけに、こう連日連夜、ばかげたことに、十重二十重と取りかこまれていてはくよほど、しっかり立っているつもりでも、足をとられてしまう。まあ仕方がない、とあきらめる。しまいには、それがあたりまえのような気が、してくる。

 あげくの果てが、みんな、のっぺらば一の顔にどぶねずみ色の服だ。みんなが着ているから着ている。

・・・

 たかが、服のことぐらい、、どうだっていいじゃないか、というのか。

 その通りだ。たかが服のことだ。こちらも、それがいいたくて、さっきからうずうずしていたところだ。

 まったく、どうだっていい筈だ。いい筈なのに、どうして、みんな申し合せたみたいに、どぶねずみ色の、ものはしげな服を着ているのだ。

 紺の上衣に、うすいグレーのズボンをはいたっていい筈だ。・・・

 第一背広なんか着なくたっていい筈だ。ジャンパーだっていい筈だ。

 それを、みんながしているとおりにしていたら、まちがいがない、などと横町の年寄りみたいなことを考えて、そう考えるのが、大人の考えというものだ、とおもっているのなら、たいへんな大まちがいだ、。

 たしかに、そういう考え方は、こどもではない。しかし、決して大人の考えでもないのである。それは、ともかく生きているだけ、という老人の考え方にすぎない。

 そんな考え方では、世の中をよくしようなどと大それたことはもちろんだが、この凄じい乱世を、果して乗り切って生きてゆけるかどうか。

 のんでものんでも、のどのかわきのとまらない因果な病人みたいに、ひとのすることばかり追っかけるクセがついてしまったら、ひとが赤旗を振れといえば、うしろの方で目立ぬように赤旗をふり、ひとが鉄砲をかつげといえば、ロの中でぶつぶついいながら、鉄砲かついで船に乗せられてしまいはせぬか。

 どぶねずみ色の服を着せられている諸君よ。たかが服のことだが、このつぎ服を買うときは、ひとのことは気にしないで、じぶんの着たい服を買いたまえ。

 すると、たかがそれくらいのことをするにも、いささかの勇気がいることに気がつく筈だ。

 しかし、君よ。君がねがうところの、親子何人かが、おだやかに暮してゆけたら、というささやかなマイホーム的幸せを手に入れるためには、たぶんその何倍かの、<いささかの勇気>がなければ、だめなのだ。らくなことだけをしたい、いやなことはしたくない、といった臆病者では、到底手に入れることはできない等なのだ。       花森安治「どぶねずみ色の若者たち」 『暮しの手帖90号』     続く

 1967年この年僕は高校三年生になった。既に前年頃から制服や校則に対する火花を散らすような抵抗が、あちらこちらの高校で始まっていた。教室で、廊下で、校庭で、教師と激しい論争が繰り広げられ、大きな人だかりになった。同時にそれはベトナム反戦と密接に絡んでいた。

 花森安治はこうも言う。

 みんながスキーに行くから、おれはゆかない。みんながクルマに熱を上げているから、おれはそっぽをむく。みんなが安ウイスキーをのんで麻雀をするから、おれはのまないし、やらない。

 それがいいとか、わるいとかいうのではない。それが青年なのだ。すくなくとも、青年とこどもがちがうのは、そういうところなのだ。

 そんなことを言っては損だと知っていても、いわなければならないことは、ハッキリと大きい声でいう。そんなことをしてはまずいとわかっていても、しなければならないことは、きっぱりとやる。

 それが青年というものだ。すくなくとも、青年と老人がちがうところは、そこなのだ。

 かりに、世の中がすこしでも進歩しなければならないとしたら(こどもと老人は、そんなことを考えもしないし、信じもしない)それがやれるのは、青年しかない。   

五十三才の老女教師と娘に襲いかかる「勤務評定」

 公選制教育委員会が始まったのは戦後間もない1948年、それが慌ただしくも56年の地教行法(地方教育行政の組織及び運営に関する法律)で首長による任命制教育委員会が強制された。その任命制教育委員会は、先ず何よりも教員に「勤務評定」で襲いかかることに専念した。

 この『暮しの手帖』への投書は、「勤務評定」が教育を如何に荒廃させたかを如実に語りかけている。

  ★母の異動

 二ヶ月ぶりに母から便りがきた。五月も終り近く教員の異動期はとっくに過ぎ、気にかかりながらも、母は新学期を迎えて元気に勤めていると決めていたのだった。しかし便りによれば母は異動組だった。しかも退職勧告を受け、はねたあげくの遠かく地異動。

 片道一時間半汽車に乗り、降りて四十分歩く里程。母は五十三才である。戦争未亡人で四人の子供を成人させ、戦後の日本をカツギ星、土方でくぐり抜けてきた。昭和二十五年、助教諭になり法政大学の通信教育、単位認定講習を七年間受けた。幼い子供をかかえて日曜もなかったこの期間は、どんなに辛かったことだろう。夜中にふとめざめて、洗濯をやっていた母をよく見かけたものだった。

 それにもかかわらず母は明かるい人だ、。ジメジメするのがきらいで私たちは安心して母によりかかっていた。しかし母は誰にもよりかからなかった。頼るは自分のみだった。

 一人娘の私が遠い地へ嫁ぐことも黙って耐えていた。子供をおいて私もまた職業をもつ身であるが、それに耐えかねるとき「子供は大きくなればわかってくれるよ」と言ったが母を支えていたものはこれだったのか……と思う。便りの末尾に「とにかく人のやれないことをやれ……という訳でがんばります」とあった。

 しかし恩給は助教諭だった七年間は年数に認められず、せめて年金を…と働きつづける母に教委は何故、こんな仕打をしたのだろう。老後の補償を自分で得ようとしてこの異動を受理した母が、させた社会が私には悲しいのである。

     松下 雅子『暮しの手帖9号』(1967)


 第一次アメリカ教育使節団(1946年)は、戦前戦中の天皇制軍国主義教育が恰も国民に狭窄衣を着せたようなものであったことを指摘し、日本の教育改革は狭窄衣から教師を解放する事でなければならないと報告書を作成した。この勧告に基づいて独立行政委員会としての公選制教委が教育委員会法によって組織された。

 地方自治体の長から独立した公選制・合議制の行政委員会として公選制教育委員会は、予算・条例の原案送付権、小中学校の教職員の人事権を持った。

 しかし1951年の単独講和暴挙後、占領軍は各地に基地を置き沖縄を占領したまま撤退する。早くも1956年、公選制の廃止と任命制の導入を強制する地方教育行政法が成立している。  

 任命制教育委員会は、一貫して教育と子どもに関心を持たなかったと言って良い。彼らは教育委員会を、政治に従属させ私物利権化を図り今日に及んでいる。「勤務評定」は複雑強権化したに過ぎない。 

権力批判や公正さは何処で消えるのか。

   「ポッカレモン」社がレモン果汁が含まれているかのような宣伝をしながら、中身は100%化学合成品であることを、「暮らしの手帖」が1967年の89号でスクープ。大騒ぎとなった。

コマーシャリズムを排除
し続けた「暮らしの手帖」
  マスコミは、次から次へと他の不当表示も報道し始める。砂糖を使ったはちみつ、粉乳を還元した新鮮牛乳、マーガリンを混入したバター、醸造酢と表示した合成酢、リンゴを混ぜたいちごジャム、オリーブ油を使わないオリーブ石鹸、天然真珠という人造真珠、着色した宝石、背の伸びない伸長機など、次々に事例が報道され、不当表示問題は社会問題化した。しかし責任企業の処分は大甘だった。

 40年後の2008年12月5日、公正取引委員会が「不当景品類及び不当表示防止法」に基づく排除命令を、再びポッカ社に出さねばならなくなる。排除命令の内容は、同社が販売した「ポッカレモン100」等において表示が事実と異なり、一般の消費者に対し実際よりも著しく優良であるとの誤認を招くとするものであった。「ポッカレモン」には「新鮮なレモンのビン詰」、「飲むレモン」、「手軽に使えるレモン以上のレモン」と広告、いかにも天然レモン果汁であるかのように表示。実際にはクエン酸などを使った「レモンもどき」であった。又、同社は原料レモン生果に防カビ剤は使用していない旨の表示を行っていたが、実際には防カビ剤イマザリルが含まれていた。

 同様の不当表示をしていた有力10社にも排除命令が出た。

 ポッカ社ら有力10社は、全国紙に月2~3回全ページ広告。テレビ・雑誌等にカラー広告を活発に用いて、レモン果汁飲料を誤認させる文章や画像をばらまき続けた。

 新聞やTV報道の第一の役割は、真実の追究による権力への批判の筈。巨大企業も権力。その広告を垂れ流した責任を負わねばならない。


 「暮らしの手帖」に始まった騒動に、行政もメーカーもマスコミも何ら反省はなかったことが分かる。

 今や、私企業のTVshoping が日本の電波を占拠。ほぼ一日中国民の健康や老化不安を煽り、怪しい商品を怪しい口調でtvタレントを使って流す有様。電波も国民の共有財産ではないのか。「公」が「民営化」の名の下に私物化されている。「国立」「公立」とは、「国民共有」「自治体共有」の意の筈。それが「行政法人化」の名で、私物化されているだ。そして国家や自治体そのものまで、「パソナ」などの私企業に私物化されてしまった。 

 日の丸・君が代を巡る行政の不当介入で教師が馘首されているのに比べれば、「不当景品類及び不当表示防止法」はまことに恐るべき「ざる法」と言わざるを得ない。当該企業の営業停止・重い罰金や責任者の収監等の実効性ある対策に日本の官庁は踏み切らない。なぜならそこは、彼ら官僚の将来の天下り先だからである。 

「小さな町」の「なべて貧しい人々」の「矜持」

 

「二時間後にタンタを去るとき、私の心は快く温まっていた。タンタでの二時間は、エジプトでのもっとも充実した時間であった。

 まず、帰りの切符を買おうと、例の紙片を持って窓口を探す。外国人の訪れない駅だからローマ字表記など一切なく、すべてアラビア文字ばかりである。うろうろしていると、そのあたりにたむろしていた一人が案内してくれる。13時13分発の指定券は満席で、15時47分発のしかなかったが、無事に帰りの切符が買えたので、チップを渡そうとすると、手を振って受けとらない。

 駅前の露店をプラプラしていると、私に全然わからない言葉で話しかけ、タバコをすすめる男に出会う。自分について来いという身振りをするので、不安を覚えながら後に従うと、モスクがあって、彼は自慢げに説明する。もちろん何を言ってるのかわからないが、それでおしまいで、駅へ戻ってくる。案内料をくれといった素振りはまったくない。

 駅のホームに布を敷いて母子らしい二人がパンや菓子を売っている。一EP紙幣を出してパンを買う。・・・釣銭は硬貨や小さな皺くちゃの紙幣が一握りほどもある。数えるのも面倒なので財布に押しこみ、ベンチで固いパンをかじっていると、さっきの店の男の子が走ってきて、何やら言うと、私の掌に小さな硬貨を三つ押しっけていった。釣銭の計算をまちがえたので、追加分を届けに来たのである。」 宮脇俊三 1981年『週刊文春』


 旅行作家はエジプトの汽車に乗る企画でカイロを訪れた。

小さな町には共同体が残っている
だが、外国人向け現地旅行社の横柄且つ官僚的な対応のおかげで、アレキサンドリアに行く機会を失ってしまった。不快な気持ちで時間つぶしに歩いたのは、小さな町「タンタ」であった。古くて小さな町タンタには連帯する共同体=コミュニティが成立している。日本の自治体は無闇に合併を繰り返し巨大化して、共同体=コミュニティとしての機能は無いに等しい。

 この作家を訪れた偶然の経験は、本編の鉄道乗車記より面白い。文化人としての作家が「旅行記」を書くのに、その舞台設定を他人に任せる。現地旅行社には雑誌社を通して日本大手旅行社経由で話をしている。そこに生まれる大名旅行が面白い筈がない。ガイドと運転手付きの『旅行』に安心する悪癖は、一切他人任せの修学旅行と遠足に起源がある。自分で決断しない・させない行動は、個人の倫理感を惹起させない。「旅の恥は掻き捨て」意識はそこから生まれる。

 小さな町の物売りや少年たちのさり気ない行為が、自立した個人に見えて頼もしい。

 しかし我々の日本の自治体は、決断と連帯を産まない構造になっているからだ。身分や上下関係で動く社会に横に拡がる連帯は生じない。命令と忖度と賄賂が幅を効かせる。面白い訳がない。教師と親に依存した「部活と生指と偏差値」の少年時代を過ごす人間に、他者に共感し連帯する世界観は生まれる筈がない。格差が一切を破壊する。  

 小さな自治体には共同体=コミュニティが成立しやすい。貧しい人々に判断する市民としての矜持が満ちているのなら、「豊か」になるのも大きくなって競争に勝ち抜くのも考え物だ。

「共和制は、憲法改正の対象となりえない。」イタリア憲法第 139 条

 イタリアでは憲法が、大戦後20回にわたって改正されている。これを根拠に、我が国でも改憲が必要との論調が勢いをつけている。イタリアの場合の主なものをあげる。

63年2月(上下院議員定数院、上院の任期)

89年1月(大臣弾劾裁判制度を国会から通常裁判所へ移行)

93年10月(議員の不起訴特権の一部廃止)

99年11月(刑事被告人の権利保障)

2000年1月(在外投票権の保障)

01年10月(中央と地方との関係の抜本的改正)

03年5月(男女平等の促進)

22年2月(生態系と生物多様性保護)

 

 イタリアの憲法改正は、各議院で3か月以上の期間をおいて引き続く2回の会期により議決される。第2回目の議決にあっては、各議院で総議員の絶対多数により承認されなければならない。

 憲法改正案は、公布後3か月以内に一議院の5分の1、50万人の有権者または5つの州議会の要求があるときには、国民投票に付される。ただし、前記憲法改正案が第2回目の議決で総議員の3分の2以上の多数により承認されたときは、国民投票に付されない。 

 憲法改正が、かなり頻繁・多項目に及んでいることが分かる。

 しかしイタリア憲法は最終条項の第 139 条で 

共和制は、憲法改正の対象となりえない。 

と釘を刺していることを忘れはならない。

Bella ciaoは1943年から1945年まで続いた
反ファショレジスタンスで唄われた

 1943年7月24日ムッソリーニ政権は崩壊したが、ファシストに協力し伊国王エマヌエー
レⅢ世は戦争継続に固執。抗してムッソリーニ体制を倒したレジスタンス勢力=臨時政府・国民解放委員会は王制の是非を問う国民投票を実施。伊王制は崩壊し、民主共和制国家のイタリア共和国が成立した。民主共和制は、革命の成果であったことを最終条項第 139 条が宣言しているのである。

 24回の憲法改正を経ているフランスも、共和制を憲法改正の対象から外している。

  イタリアやフランスの民主共和制革命にあたるのは、日本で言えば憲法三原則、分けても9条である。

 まともな国家の憲法は、その中心理念を変更しない条項を持つ。

 日本国憲法も、前文で

 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

と明確に宣言している。

 何度も繰り返す必要がある。 

われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 



自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない

  常識ある者の世界では、身体的・精神的苦痛で意思を変えさせることを「拷問」と呼ぶ。入管では意思を変えさせる過程でこの15年間で17人が死亡。

 何故日本政府は「難民」認定を極度に渋り、拷問虐待を続けてきたのか。一転してウクライナ避難民への大歓迎ぶりはどういうことか。入管の源流は戦前の特高警察の外事係である。特高は日本の「国体」を手掛かりに様々な事件をでっち上げた。でっちあげた嘘を守るために嘘は膨れ上がり、どんなに物が無くとも日本は「現人神」の君臨するから・・・と遂に原爆二発を喰らった。喰らったうえに自ら属国になり喜んでいる。確かに「世界に類の無い」愚かな国だ。 

我々は自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない


 転勤新任教師として壇上で紹介されるとき、僕は埴谷雄高の言う「自同律の不快」にみまわれていた。

 前任校で、僕は職場の教研委員を4年続ける機会に恵まれた。おかげで新任早々、職場を外側から見る事が出来た。各職場の僅かな違いが、高校教育と教育界の全体構造を見せてくれた。それは、付き合いや交流の範囲の拡大と共に明瞭になった。嫌なものも、目についてくる。

 嫌悪したのは「生活指導」にのめり込む一群の教師たちの

特高課の部屋は職員室に似ている
「使命感」。当時生活指導運動活動家は、実存主義にかぶれてサークルをつくり傲慢だった。

 僕には「指導」という言葉が、軽薄な教師による「少年の領分」への介入に過ぎないと思った。個人の表現や態度、に介入できると思い込んでいる姿は、まさに「特高」。いたずらに生徒と教員の間に壁を作る浅知恵なのだ。

 埴谷雄高の言う「体系のなかに入ってしまうと、自分のしていることの非道さ」も無意味さも、分からなくなる。僕自身もそのなかの一人であるのが嫌だった。

  転勤が決まり、転勤先に打ち合わせに行った時のこと。僕は渡り廊下で、三年生らしい二人組と対峙した。二人はニャッと顔を見合わせ、ジーパンから煙草を取り出しふかし始めた。春休みだから人気はない。この頃ぼくはヒョロヒョロに痩せていた。逃げるわけには行かない。君ならどうする?・・・

 すれ違いざま、彼らは「勝った」と思ったに違いない。僕は前を向いたまま「うまいか」と声をかけた。

 「アッ・すいません。・・・アッ・イヤ吸いました」とあっけなく降参した。

 「君たちが睨んだ通り、明日から僕はここで教える。だから今日は忙しい。いちいち君たちの担任に言いつける暇は無い。自分の判断で担任に報告しろ」

「ハイッ!  ハイ!」

 たちまち噂が飛んだ。「あいつは空手の有段者だ・・・」誤解もいいところだ。 確かに僕は、学園紛争で火焔瓶や機動隊の放水が飛び交い、セクトによる殺人さえ起きる生活を四年も続けていたから、怖さに鈍感になっていた。

 翌日の着任式で昨日の三年生を見つけながら、こう言った。

 「君たちは、この若造は何なんだ、どういう奴なんだと考えているだろう。・・・嘗めちゃいけないよ・・・、とは言わない。なめてもいいよ。そうしなければ味はわからない」。

 生徒達はざわめき始めた。教室に戻っても「あいつは何を言いたいんだ、何者なんだ」と静まらなかったらしい。


 学校は「自分のしていることの非道さがわからない」の連続である。「なめるんじゃない」はそうした中で「指導」の言葉として多用されてきた。僕は、生徒たちにはなめる権利があると思う。

 この話をK高校のTさんが、受け持ちの生徒たちにした。休み時間に小便をしていたら、後ろでしゃがんで眺める生徒がいて「先生ながいね」と笑っていたという。教室で片手を前列の生徒の机について話を始めたら、手の甲に妙なものが当たって振り向くと、そこの生徒が「先生、しょっぱいね」と言ったと聞いた。

 はじめ僕は「不快」を、教師と生徒の問題だと考えていた。そうではない、学校を越えた支配=被支配の問題であったのだ。だとしたら我々は自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない。時には自分と、自分を取り巻く歴史も含めて、憎まねばならぬ。


王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...