人生で最も苦しいことは、夢から醒めて、行くべき道がないこと

必要なのは夢であるが、それは現在の夢=革命
 金メダル獲得者や大会優勝者には、次から次に栄誉と賞金や契約金が津波のように押し寄せる。夢が叶った只一人めがけて、あらゆる賞賛がメディアとともに追いかける。だがこの狂乱が大きければ大きいほど、対極に累積する夢破れた敗者の群れは夥しくなる。そして忘れ去られるが、悲惨はなくならない。「アイドル」もその頂点と底辺は、天国と地獄の差がある。大衆がキャーキャーと喚くたびに、頂点だけが高見に持ち上げられ、底辺との格差は絶望的に広がる。その広がる格差の大きさが、更に若者の夢を煽る。学校歴による待遇の格差も、青少年の「夢」を担って巨大産業となったが、虚しく破れた者の日々は底を割った惨状だ。人々の生活が底を割るというのに、すさまじい勢いで「内部留保」は増えて止まないのである。

  「人生で最も苦しいことは、夢から醒めて、行くべき道がないことであります。夢を見ている人は幸福です。もし行くべき道が見つからなかったならば、その人を呼び醒まさないでやることが大切です。唐朝の詩人の李賀、彼は一生を苦しみ通したにもかかわらず、死ぬとき、母親に向かって、「おかあさん、上帝が、白玉楼ができあがったので、祝賀の文章を書かせるために、私を呼んでおります」と、こういったというではありませんか。これはあきらかに、夢であり、たわごとではないでしょうか。しかもなお、ひとりの子とひとりの親、ひとりの死ぬものとひとりの生きるもの、死ぬものは楽しげに死んでゆき、生きるものは安心して生きてゆく。夢やたわごとは、このような場合には、偉大さを発揮するのです。それで、私は思うのですが、もし道が見つからない場合には、私たちに必要なものは、むしろ夢なのであります。
 しかしながら、決して将来の夢を見てはなりません。アルツィバーシェフ(Mikhail Artsybashev)は、自分の書いた小説を借りて、こういう質問を発したことがあります。将来の黄金世界を夢想する理想家は、その世界を作るためには、まず多くの人を呼び醒まして、苦痛を与えなければならない。そこで「諸君は、黄金世界をかれらの子孫に予約した。だが、彼ら自身に与えるものがあるか」と彼はいっております。それは、あるにはあります。将来の希望がそれです。しかし、それにしては、代償があまりにも高すぎます。その希望のためには、人々の感覚をとぎすまさせ、より深く自分の苦痛を感じるようにさせなければならないし、霊魂を呼び醒まして、自分自身の腐れ爛れた屍体を直視するようにさせなければなりません。ただ、夢とたわごとだけが、このような場合に偉大さを発揮するのです。ですから、私は考えます。もし道が見つからない場合には、私たちに必要なのは夢であるが、それは将来の夢ではなくて、現在の夢なのであります。・・・  
 人間は忘れっぽいものです。そのために、自分がこれまで受けた苦痛から次第に離れてゆくこともできるが、その忘れっぽさのために、前人のあやまちを再びおなじように繰りかえすことも珍しくありません。いじめられた嫁が姑になると、やっぱり嫁をいじめたり、学生ぎらいの官吏が、往々にして以前には官吏を痛罵した学生であったり、また、現在、子女を圧迫しているものが、十年前の家庭革命者であったりいたします。これは年齢や地位とも関係することでありましょうが、記憶のよくないということも、大きな原因のひとつであります。その救済法としては、各人が一冊のノオトブックを買ってきて、自分の現在の思想と行動を全部記憶しておき、将来、年齢も地位も変ったときの参考とすることです。たとえば、子供が公園へ行きたがってうるさいと思ったときには、それを取り出して開いてみる。そうすると、「私は中央公園へ行きたい」と書いた箇所がある。そこで、たちまち気持ちがやわらいできましょう。ほかのことでも同様です
」 魯迅 1923年北京女子高等師範学校文芸会での講演「ノラは家出してからどうなったか」
   
  「必要なのは夢であるが、それは将来の夢ではなくて、現在の夢なのであります」と魯迅はこの中で書いている。早々と実行したのは秋瑾である。
 

 彼女は、裕福な家庭を離れ単身日本に留学。 孫文率いる中国同盟会浙江省責任者となる。1905年清国留学生取締に反発、同盟休校の先頭に立ち、反対する学生に死を宣告する激しさを見せた。帰国後、大通学堂を紹興に開設し革命青年に軍事訓練を施し光復軍を結成、武装蜂起を準備した。しかし武装蜂起は失敗、逮捕される。
  2日後の1907年7月15日早朝、紹興繁華街で斬首された。31歳であった。取り調べに際し、「革命党員は死を恐れない。殺したければ殺せ」と叫び、目を閉じ、歯を食いしばって一言も吐かなかった。判決後、足に鎖枷を腕は背後で縛り上げられ刑場に向う秋瑾は疲労でよろめいたが、支えようとする護送兵を「自分で歩く! 手出し無用」と一喝したと伝えられている。
 「秋風秋雨、人を愁殺す」の遺句とともに、彼女の処刑は人々に強い影響を与え、4年後の1911年革命は成就する。辛亥革命である。

 秋瑾が求めたのは、将来の夢=個人の栄光ではなく、現在の革命。革命による平等である。清朝にとって平等こそが危険思想であった。平等は、人々を栄誉獲得に駆り立てない。その代わりに特権をたたき壊すのである。
 我々の生活が底を割るのは、「内部留保」だけが増えて止まない不正があるからだと気が付かねばならぬ。その不正を告発するのが革命である。夢が破れた無数の敗者が直面する「腐れ爛れた」長く続く生活。「腐れ爛れた」生活とは、例えば日大アメフト部部長やコーチ、理事長。体操協会を牛耳るかっての栄光に輝いたメダリストのパワハラの日々も指す。アイドルの夢に早々と破れた少年少女を襲うセクハラ地獄もある。夢を見ていたのは僅か十年足らず、夢から覚めて行くべき道の消えた「腐れ爛れた」生活は、その後の50年以上を覆い尽くすのである。

  メダルや大会入賞と無関係に、健康と交流を楽しむスポーツ。地位や待遇を求めず、学ぶ喜びや驚きに徹する学問。賞賛と収入ではなく、表現の自由を謳歌する芸術。そうした生活が、現在の夢でなければならない。
 かつては生まれや身分が、地位と収入と権力の根源であった。今なおその影は陰湿に残ってはいるが、かなり冷めている。しかし一度手にした特権をなかなか手放そうとはしない。それを一掃しない限り、
人々は将来の夢に魅入られて、現在の夢に気づくことを恐れる。それが危険思想だという観念と事実は、「血筋」に執着する心情の中に抜きがたく残っているからだ。

 追記 秋瑾が処刑された紹興は、彼女の生誕地でもあり、魯迅の生まれ育った街で、『孔乙已』『阿Q正伝』多くの作品がこの水郷を舞台にしている。周恩来ゆかりの地でもある。王羲之ゆかりの蘭亭もある。秋瑾が処刑された跡には、彼女の像が建てられている。

「アジア解放のための戦争」という「お守り」言葉

昭和恐慌の11月、青森の一小寒村だけで六人もの身売りがあった。
身売りの前夜、この少女たちの家族はどんな会話を交わしただろうか
 「言葉のお守り的使用法」とは、「人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場をまもるために、自分の上にかぶせらり、自分のする仕事の上にかぶせたりすること」  鶴見俊輔

  「八紘一宇」「国体」こうした言葉を使えば、その行為があからさまな侵略や虐殺であっても正統化され、非難されない。敢えて「非難」したり異議を唱える者は、「国賊」として獄や死を覚悟しなければならなかった。これが「言葉のお守り的使用法」だ。人々の思考を封じて人民の記憶を禁じた。

  「It is the responsibility of the(state or government)to take care of very poor people who can't take care of themselves.」
 「政府は自分で生活できない人を救うべきか」という貧困と社会の関係を問う質問をしたところ「救うべきだと思わない」と答えた人の割合がイギリスやドイツ、イタリア、中国などはおおむね7~9%、米国は28%、日本は38%。

 自力で生きていけない人たちを、国や政府は助けるべきだとは思わないと言う人の割合。

日本   38%
アメリカ 28%
イギリス 8%
フランス 8%
ドイツ  7%
中国   9%
インド  8% 

ワシントンにあるPew Research Center の報告、95page←クリック   
 

  GDPにしめる生活保護費の比率
OECD加盟国平均2.4%
アメリカ    3.7%
イギリス    4.1%
ドイツ     2.0%
フランス    2.0%
日本      0.3%


 自国の身近な同胞にさえ冷酷無関心な日本人が、遠く「貧しく遅れた」アジア解放のために命を賭けて闘ったなどということがあるだろうか。

 戦争は濡れ手に粟で儲けられるから、他人である貧乏人の命を賭けたのである。費用と損失は勤労大衆に、儲けと栄誉は支配層に。敗戦して戦犯天皇一家には戦死者も怪我人もいなかった、身売りした身内もいない。彼らが、一瞬でも身売りしたりされたりした者に思いを馳せたことがあっただろうか。貧乏人は、天皇家が三井・三菱・住友・安田を凌ぐ大財閥となっていた事実を知る由もなく死んだ。当時労働者階級を、世間は「貧乏人」と一括りにした。これも「お守り」言葉として、人々の批判的思考や行動を不能化した。

 僕の大叔母は、将校の夫と二人の息子すべてを海戦で失った。にもかかわらず「大東亜解放」や「八紘一宇」などという「お守り」言葉に釣られて国防婦人会役員を務め、ふるさとの浜辺で竹槍訓練の先頭に勇ましく立った。戦後独り身になった大叔母の口癖は、「馬鹿の考え休むに似たり」だった。
 
  
現政権以来、加計グループに流された公金は770億円。使い物にならないイージス・アショア2基に6000億。
 北海道地震の支援金には5億4000万円。北海道民は540万人だから1人あたり100円。
 増え続ける現体制「お守り」言葉のなせる技である。曰く「日米同盟」「頑張った者が報われる社会」「自助努力」「自己責任」・・・
 
 教員の日常にも「お守り」言葉が氾濫するようになって、我々の批判的思考を凍結する。「アクチブラーニング」「全員一致」「指導の一環」「熱血」「毅然」・・・。これらの言葉は、ILO条約や憲法の規定さえ不能化する。



「人民の記憶」としての、卒業式答辞

予定が破綻すれば式も長く記憶に残る。都立武蔵丘高
 だいぶ前、生徒を「生従」と誤記する高校生の話を聞いたことがある。大学生にもいたという。字の形が似ている故の間違いではなさそうだった。僕は、これはアバンギャルドではないかと思った。avant-gardeは、直訳して軍隊の「前衛」。奇抜ということではない。前衛は、未来を先取りしてみせる。前衛が壊滅すれば、本体に勝ち目はないのだ。
 少年少女が、子どもの権利条約に定義された子どもとしてではなく、学校などの組織に「従」属して身動きならない存在として現れるのではないか。そういう未来を警告しているのではないか。

 元々生徒の「徒」は、徒党」や「学徒」など、仲間と言う意味とともに、むだ・むなしい・役に立たない・労役といった意味がある。
   「言葉には、それぞれ、それが本当の言葉となるための不可欠の条件がある。それを充すものは、その条件に対応する経験である」と、森有正が言ったことがある。少年少女が学校で出会う経験、それが「生徒」という言葉の中身を形作ってきた。指示されたことを従順に守ることを徳として、反抗すれば叱られ殴られる者として「生徒」の概念は形成されてきた。

   僕が、「学徒」で思い浮かべるのは、学徒動員の暗く陰湿な光景である。学窓で日の暮れるのを惜しんで読書に耽り、黒板を囲んで代数や幾何や物理の世界に一心不乱になるいう光景ではない。そのためには別の言葉を見付けなければならない。student=学生である。
 我々が日常使う言葉は未来を先取りしたり、過去に現実を引きずり込む。

 中学生や高校生までもétudiant=学生と言い、国立行政学院や高等師範学校など国家エリート養成高等教育機関で学ぶ者を「生徒」と呼ぶフランスには、人民の記憶としての「革命」が深く根付いている。行政機関の官僚を、公僕=public servantと位置づける革命の記憶である。勘違いしてはいけない、公「僕」とは国家の従僕という意味ではない。民衆・人民の奉仕者=「僕」のことである。我々には「言葉が本当の言葉となるための経験」が徹底して欠けている。
 だから体育教員室を教
「官」室といつまでも呼び、企業の面接担当者を面接「官」と言ってしまうのである。大学教師やマスコミまでが学生を生徒と呼び、大学生自身が自らを生徒言ってしまうから、若者はデモ一つできないと言ってもよい。言葉がそれに相応しい身体と精神を形成するのだ。
 生徒とは、語源としては弟子から生まれた言葉である。弟子は親方の指示によってのみ動くのであり、何一つ決意出来ない。逆らえば、すなわち破門である。だから中高生の、校則には「指導拒否」による罰則が書かれている。
 森有正の指摘が裏返って、経験が言葉を本当の言葉にするのではなく、逆に言葉が現実を束縛している。天皇の存在や行動に対する過剰な「敬語」は、我々の日常を硬直させ、憲法的平等の意識をいつまでも確立できない。人間に、生まれながら尊い者とそうでない者があると言葉が強制している。それを拒否する経験を、学校の「式」は叩き潰すのである。
 
 戦争における「人民の記憶」は、戦中の経験が総括され戦争の終結とともに現れる。だが日本の戦中は、経験そのものが禁じられた。命じられた行動は犬や馬でもやれる、だから犬や馬に記憶はない。経験を禁じられた人々は、国家の記憶を国民の記憶に置き換えるしかない。

 学校に於ける少年の記憶=「人民の記憶」も日常の経験の総括の積み重ねによって形成され、卒業を契機に表現される。在学中に命じられる行動は少ない、にもかかわらず卒業生の答辞として現れる「人民の記憶」=少年の記憶は、命じられたかのように、型に填まっている。
  例を挙げよう。ある中学校の最近のものである。


  「春の暖かな日差しが体全体に感じられ、校庭の木々の芽もふくらむ季節となりました。本日このよき日、私たち××名は自らの手で夢をつかむため、この○○校を卒業します。私の心の中には数え切れない思い出が昨日のことのようによみがえってきます。
 3年前の春、真新しい制服に少し大人になれたような気がした入学式。不安な中で見たクラス分け発表では知らない人の名前がたくさんありましたが、3年後の今、こんなにもたくさんの人と友達になれたなんてとても幸せです。・・・  初めて友達と一緒に泊まったふれあい学習。多くの友達と交流しながらも、時間を守ることの大切さを教わりました。何もかもが始めてだった1年生の私たちを引っ張っていってくれた先輩。思い返せばとても大きな存在でした。・・・
 そして、今まで私たちを時には厳しく、そして優しくご指導くださいました先生方、本当にお世話になりました。今日までにかけていただいた数々の言葉は私たちの心の支えになりました。本当にありがとうございました。
 お父さん、お母さん。いつもは照れくさくて言えないのですが、この場を借りていいたいと思います。いつも困らせたり心配をかけたりしてごめんなさい。今日まで育ててくれて本当にありがとうございました。これからもまだまだお世話になると思いますが、よろしくお願いいたします」

 虚構で彩られた行事で頑張ったことと、消費行為としての旅行の思い出づくりと、でっち上げの友情が並列されれば、軽い涙と感動が出来上がる。青春の主体性はない。

 計画可能なことは、それが成功するほどに経験からは遠くなる。体罰やいじめや差別が「少年の記憶」として総括され、下級生に受け継がれることはない。すべては卒業生総代たる学校公認のよい子によって水に流され、少年の記憶は生徒の記憶に、次いで生徒の記憶は学校の記憶にすり替わるのである。流された部分が経験であり人民の記憶である。それを欠いた記憶は忘れられ、一年もたたぬ間に忘れられてしまう。卒業生総代が、どちらを向いていたかさえ覚えていない。ほとんどは日の丸と校長に向かって読んでいるのである。記憶の改竄・すり替えの儀式である。

日清戦争に96万円投資して2000万円を得た天皇財閥

人民の記憶それが問題なんだよ
    終戦の詔勅に「敵は新に残虐なる爆弾を使用して、頻に無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所」という箇所がある。これを日本軍が占領支配していた地域の人民がどのように聞いたか。それを考えながら、詔勅を聞いた日本人はどれほどいたか、皆無かと僕は想像した。
 だが、鶴見俊輔は「残虐なる爆弾とは、よく言えたものだ」と怒りを隠していない。南京虐殺や重慶爆撃を、天皇が知らなかった訳がない。敵の行為の残虐性は言い募るが、自分の残虐性にはてんで気がつかない。そんな神経だから、「沖縄メッセージ」を占領軍に献上できるのだ。

 フランスやドイツでは、大戦中ナチスに協力した者たちへの強い怒りが、街頭であからさまに示された。それがニュールンベルグ裁判を支えたのだ。戦争に対する人民の記憶が燃えさかったのである。日本における戦争に対する人民の記憶は、日清日露の昔から常に勝利した国民の記憶、国家の記憶に覆い尽くされてきた。それが、八紘一宇や国体の概念を産み出しアジアの数千万人を、天皇の銃や爆撃機や生物兵器で「残虐」に殺戮したにもかかわらず、国民による戦犯法廷を開くことができなかった。

 日本最初の侵略戦争・日清戦争前後のあからさまな証言が、西園寺公望の日記にある。
 軍備増強には増税は不可欠。山県内閣は、国会に増税案を何度も上程した、がそのたびに否決。山県は、増税反対派議員の買収を考えた。議員歳費を五倍に引き上げ、更に有力議員には直接買収資金与えて、増税案を成立さた。驚くべきは、その買収資金が天皇から出たことだ。当時の額で98万円。当時1000円で都心に一軒家が買えた。今の額で100億円以上に相当する。

 この経緯が西園寺公望の日記に残されている。西園寺は「山県は、国会議員買収のため天皇から受け取った資金を、どうも一部自分の懐にいれているようだ」と書いている。

 増税で軍備増強したお陰で日清戦争に勝ち、清国からせしめた賠償金の特別会計は、1902年度末で総額3億6,451万円。うち二千万円を天皇が受け取った。98万円投資して、あっという間に20倍強に増やしている、開戦前(1893年)の国家予算が、8,458万円である。こんなに旨い投資噺はない。あらゆる戦争の原因はここにある。戦争で巨利を食む連中が権力を握ればこうなる。

 日清戦争の原因が分かりにくいと言うが、なるべく分からないように、朝鮮内部の農民戦争を口実に日清両国が介入したという筋書きを拵えたと言うべきである。

 賠償金特別会計支出の内訳は、日清戦争の戦費が7,896万円21.9%、軍拡費が2億2,606万円62.6%(陸軍5,680万円15.7%、海軍1億3,926万円38.6%、軍艦水雷艇補充基金3,000万円8.3%)、その他が15.5%(製鉄所創立費58万円0.2%、運輸通信費321万円0.9%、台湾経営費補足1,200万円3.3%、帝室御料編入2,000万円5.5%、災害準備基金1,000万円2.8%、教育基金1,000万円2.8%)であった。

 僕が中学で学んだ時の教科書には、賠償金で八幡製鉄所が作られたことだけが誇らしげに強調されていた。だがそれは賠償金の僅か58万円0.2%に過ぎない。軍拡に使った2億2,606万円は、軍を通して死の商人たる財閥へ流れたのである。

  台湾を植民地にし、その最大産業製糖業は三井が独占し台湾製糖を設立、天皇はその台湾製糖第二位の株主になる。台湾製糖の株の配当は10年後に12%、20年後には100%である。侵略戦争・植民地獲得がいかに儲かを如実に示している。これが日本における、戦争の記憶である。
 三井も軍部との関係は深い。台湾製糖の設立には陸軍の児玉源太郎が関わっている。日露戦争後は満州を獲得、満州は世界的な大豆の産地であった。そのほとんどを三井物産が独占、欧州向けにマーガリンを製造輸出、油粕は肥料として国内で販売し巨利を得る。しかし1920年代になると、三井の大豆取扱高は伸び悩む。「張作霖が大豆の買い付けに手を出し始めたので困った」との発言が三井物産支店長会議議事録が残っている。張作霖爆殺事件翌年、三井物産の大豆の取引高は跳ね上がった。 

 財閥は、第一次世界大戦でも膨大な利益をあげた。日本の武器輸出総額は、2億9000万円。銃が93660梃。野砲弾丸410万発。駆逐艦12隻。戦艦2隻。まさに死の商人になった。 大戦中の対ヨーロッパ投資総額、約7億7000万円に膨らむ。
  第一次大戦開始時の三井物産資本金は3.96万円、大戦終結時には36.46万円。こんなに旨い噺はない。ほかの財閥も座視したはずはない。


 「三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが新聞に出ている」渡辺清「敗戦日記」1945.11.10

 戦艦武蔵も大和も三菱製だし、零戦の開発も三菱である。 「軍財抱き合い」と言う言葉があった。財界と軍部の協力体制を示す、傑作な言葉である。 
 こうして天皇家は、三井・三菱・住友・安田を凌ぐ大財閥となった。
  天皇家の銀行関係株
 日本銀行(20万8000株)
 横浜正金銀行(20万9318株)全
発行株数の22%、第二位の株主は2万2000株。皇室がなぜこの銀行の圧倒的筆頭株主となったのか。想像はたやすい。 
 日本興業銀行(4万5450株)
 台湾銀行(3万264株)
 東洋拓殖会社(5万株)
 帝国銀行(2万9110株)

その他諸会社株
 王子製紙会社(6万608株)
 関東電業会社(3万4749株)
 南満州鉄道会社(8万43175株)
 台湾製糖会社(3万9600株)

皇室所有の土地
 森林(318万3287エーカー)
 宮城および御所(2256エーカー)
 農地(9万7637エーカー)
 建物敷地(559エーカー)
 その他(3万502エーカー)


 敗戦時の皇室財産総額は、総司令部発表で約16億円(美術品、宝石類を含まない)、1946年3月の財産税納付時の財産調査によれば約37億円と評価された。いずれも海外に分散された資産は考慮されていない。
 
 ここには、人民の記憶がない。資本の記録と国家の記憶があるだけ。英国にはナチスとの戦いの強烈な記憶があった。国家と国民の記憶ではない。人民の記憶である。米英資本家がナチスドイツと組み、工場や商人たちが軍高官とと結託して物資の横流しで儲けたことを、記憶し続けた。それが、ビバレッジ報告を産み労働党内閣に受け継がれ「揺りかごから墓場まで」の福祉社会を短期間で実現させたのである。

  我が国では、戦争に対する人民の記憶が掘り起こされ定着する前に、朝鮮戦争が始まり「儲かる」戦争は資本と国家の記憶として、またも人民の記憶を覆い尽くしている。

 沖縄だけが、人民の記憶を保ち続けている。

言葉が本当の言葉となるには不可欠の条件がある。それは経験である

森有正はオルガンの名手としても知られていた
   以下はパリに在住しバリに客死した哲学者森有正の1966年の論考である。彼が『世界』長期連載の「パリ便り」は、高校生の時から欠かさず読んだ。この論考は未だに新しい。些か長い。

   「・・・フランスの教育で要点となっているところは、知識の組織的集積と発想機構の整備の二つにしぼることができると思う。知識の集積というと、言うまでもなく記憶が主要な役割を果たす。そしてそれは実に徹底している。たとえば中等教育の歴史科をとってみると、先史時代から現代まで、第六学級から卒業までの七年間に実に膨大な量を注入する。教科書の量から言うと大版の
頁にギッシリつまった本文二千頁を優にこす分量を生徒は憶えなければならない。ただその知識が、内容を省略せずに、各時代の主要問題、政治、外交、経済、社会、文化を中心に、いわゆる合理的に整理配列され、しかも非常に頻繁なコントロールや宿題、さらに作文によって生徒自身の表現能力との関連において記憶されるようになっている。これは他のすべての課目においても同様で、数学や自然科学にまで作文が課される。こうして実に膨大な量の知識が組織的に蓄積される。日本の中高校の教科書と比べて見ると量だけでもまさに一対五くらいである。ことにその記憶そのものが合理的に統制され、たえずコントロールされている有様を見ると、記憶が単に受動的な機能ではなく、発想機構と密接に結びついた積極的機能であることが前提とされているのがわかる。
 発想機構の整備はフランス語の授業で集約的に代表される。これは小学校入学から中等教育の終了、すなわちバカロレアの試験まで、全教科の中心的位置に置かれて組織的に遂行される。・・・
 
 学年が進むと文法的分析に論理的文体静的分析が加わる。そして作文は、いつも、全体を総括的にコントロールするものとして、中心的位置をしめている。英語、独詩、イタリア語、スペイン語等の外国語、それからことにラテン語、ギリシア語等の古典語が、フランス語との緊密な関連の下に教授され、ラテン語、ギリシア語、フランス語はたいていの場合、同じ教師が教えている。僕はそういう教師を何人か知っているが、かれらの自国語に対する熱意とその知識には頭が下るばかりである。高学年になると、フランス文学史の著名な作家の研究がはじまるが、その方法は、一貫して同じで、徹底的分析と作文による綜合が訓練される。
 歴史、地理、公民科なども、作文が最後のしめくくりになるので、同時にフランス語の教科としての役割をも果たしているのである。そうして文科系では最高学年に哲学が課され、思考の訓練が行なわれる。自己の思索を実践発表する発想機構は最後まで開発習練を受ける。
・・・
 つめ込み主義は誤りである。しかし自分が本当に思索しうるためには膨大な、正しく吸収された知識(ということは、何時でも正確に言葉や文章にして発表しうる知識)を持つことが必要であることは同様に明らかである。・・・
 フランス人がよく使う表現を用いて言うと、自分の中のパッシフな面とアクティフとの均衡の問題である。たくさんのことを覚えても、記憶しても、それが自分の中にそのまま停止しているのがパッシフであり、それを自由に使いこなして表現することができるようになった時、パッシフがアクティフに移ったという・・・
 しかし問題は・・・自分の経験と表現との間にも、やや意味はちがうが、同じような問題が現われてくる。これは経験と表現と双方に欠陥がある場合が多いが、パッシフとアクティフとの間に不均衡が生じ、書けなくなったり、逆におしゃべりになったりする。書けなくなるのはまだ始末がよいが、おしゃべりになったのはまことに手がつけられないものである。
 ・・・要は、正当な経験の場に踏み込むことである。それ以外には、どこにも道がない。ほかの道が一切ないのならば、そこに踏み込むより仕方がないであろう。それでなければすべては単なるおしゃべりになってしまうのである。それならは、その道はどこにあるのか。本当は各人が皆自分の道を知っているのである。知りすぎるくらいに知っているのである。ただ実行しないのである。
 正しい、そして深い経験から出て来る言葉は、形容するのがむつかしい一種の重みをもっている。それは、あるものを表現することばの本当の説明は事柄そのものの中に在るからである。こういう表現の正しい使用は決して容易ではないし、また即席に生れてくるものでもない。ものについてしか思索しない、というアランの信条はこのことを言っているのだとしか思えない。
 言葉には、それぞれ、それが本当の言葉となるための不可欠の条件がある。それを充すものは、その条件に対応する経験である。ただ現実にはこの条件を最小限度にも充していない言葉の使用が横行するのである。経験とは、ある点から見れば、ものと自己との間に起る障害意識と抵抗との歴史である。そこから出て来ない言葉は安易であり、またある意味でわかりやすい。社会の福祉を論ずるにしても、平和を論ずるにしても、その根底となる経験がどれだけ苦渋に充ちたものでなければならないかに想到するならば、またどれだけの自己放棄を要請しているかに思いを致すならば、世上に横行する名論卓説は、実際は、分析でも論議でもなく、筆者の甘い気分と世渡りと虚栄心とに過ぎないのである。

 ・・・ 日本から来る雑誌類を見ていると上に述べてきたおしゃべり、観念の遊戯と体験礼讃との両極の間を右往左往している観がある。・・・現代の文学にいたってはほとんどまったく論外であると言ってよい。あの彪大な戦争と戦時とを扱った文学のどこに戦争の経験があるか。ことごとく、いや全部とは言わない、ほとんどことごとくが体験を多かれ少かれ加工したものではないか。
 ところで永井荷風の戦時の日記は、著者は意識しないにせよ、経験に裏づけられた戦時文学である。なぜかというと、戦争が、かれの全経験の中で巨大な障害として存在し、その障害の前を逃げまわりながら、抵抗し、経験の中でこれを克服して行く姿がはっきりと感得されて行くからである。そこに著者の人間である自我が、その障害を、それと少しも妥協せずに、そこから何か体験をとり出して一芝居うとうというようなさもしい料見なしに、堂々と敵視し、克服して行くのである。
 ところが多くの戦争文学では、「戦争という異常なことがあったので、おれは異常な体験をえて、こういう本を書くことが出来た。戦争よ、あってくれてありがとう」と、無意識的に絶叫している著者の姿が見えすいているのがほとんどすべてである。・・・戦争を人間に対する悪であり、障害である、と公言している連中が、体験の切実さに、読者と共に参ってしまって、悪や障害から結局何かを吸いとり、体験が増大したのを(体験はどんなアホウの中でも機械的に増大する)自己の経験が深まったのととりちがえているのである。中には戦争のおかげで平和主義者になれたような人まである。僕はそういう体験主義は一切信用しないのである。パスカルが、「人間は考える葦である」と言った時、そういう体験主義を根本的に否定しているのである。 

 経験は唯一つしかない。だからそこに個人というものが確認される。あるいはむしろ、経験の全体が一人の人、その一つの生涯を定義するのである。また自由ということばも経験の深まりということによって定義されるのである。僕はこれをほかにして、人間も、自我も、個人も、自由も、それを定義するものは何もないと思っている
」      森有正『霧の朝』「展望」1966.2
 
   日本の教師は、ヨーロッパはおろか世界のどこに比べても忙しい。だが授業で忙しいのではない。授業保ち時数は、諸外国に比べても少ない。生徒管理と行事に文書作りに忙殺され、まるで教師は学校の雑務屋で、授業は余技かと見え教育の専門家ではないかのようだ。行事は学校生活にメリハリをもたらすと言うことがある。それは授業そのものにメリハリが無いことを白状しているし、教師自身が雑務から一時でも解放されたがっていることの証でもある。生活指導のベテラン、修学旅行のベテラン、体育祭や文化祭のベテランなどはあつても、授業のベテランではないのだ。
 それに正しく対応して良き生徒とは、各種行事の良き受益者ではあっても、良き学習者=主権者としては現れてこない。成績抜群であっても、素行が悪ければ評価は下げられる。生徒も教師も、授業の主体ではない。そのような教師を作り上げたこの国の政府は、若者が知的に成熟し自立するのを恐れているとしか思えない。世間が若者のメダル稼ぎに我を忘れている間は、安心なのだ。しかし何時までも続きはしない。
 
追記 森有正は同じ論考の中で「勉強している若い人々と接し、話を交してみると・・・おどろくほど社会の機構に対する無批判的な随順がある。社会をあたかも自然のように、自分を超えるものとして、その中に受動的に自分の位置を見つけ、平衡を見出そうとする。そしてそこに満足して、私生活の充実に向う」と書いている。
 社会科をそのための教科にするため、政府は財界と「社会科」への介入攻撃を戦後一貫して続け、今や「社会科」は死んだも同然である。新教科「公民」売り物のアクティブラーニングは、森有正言うところのおしゃべりに過ぎない。社会的経験を政府も教師も禁じているからである。その上、教師自身が働く者としての経験不当に封じられて、抵抗さえ出来ない有様だ。
 そればかりか、全国的に見ればたいして系統的に教えていたわけではない。にもかかわらず、世間は「詰め込み」の弊害を説いた。お陰で社会科も理科も総単位数はもちろん、個別科目の単位も減り続けたのである。

 森有正が「僕は・・・教師を何人か知っているが、かれらの・・・熱意とその知識には頭が下るばかりである」と言ったのとは逆の光景が、教員間に広がったのである。歴史的知識に欠けた政経教師、地理的教養を持たない歴史教師、倫理しかやれないと言い張る教師は、大学紛争後徐々に増えた。同時に社会的経験を持たない教師も激増した。
 「正当な経験がどこにあるか、本当は教師も若者も知っているのである。知りすぎるくらいに知っているのである。ただ実行しないのである」1966年にはそう言えた。しかし今、若者も教師も本当に知らないのである。

ワシントンは三選より、私人としての生涯を選んだ

鶴見俊輔にとって抵抗も私的行為であった
 「戦前、米国で学生だった頃、私には、ワシントンがなぜ重んじられるのかわからなかった。軍人としても、政治家としても、それほどすぐれた人ではない。しかし、六十余年後の私には、ワシントンの値うちがわかる。彼は、三選が可能だったとき、家庭に戻って私人としての生涯を選んだ。
 ひるがえって日本の現在を見ると、「国連常任理事国になりたい」。常任理事国になって何をするのか、この十年あまり問題にされていない。「大臣になりたい」、「議員になりたい」。なってなにをするのかは二の次である。 ・・・この150年に、日本は崩れた
」                        鶴見俊輔「時の音」 2005年5月17日

  ある年生徒が、逃げ回る校長を捕まえて
 「なぜ授業をしないの」と問うた。彼女は、校長は平教師より優れた教育者であると漠然と思っていた。それを、授業で確認しようとしたのだ。校長はこう答えた。
 「わしは、校長だ。教育委員会から校長の授業は禁じられている。校長には昔からなりたかった」
 面と向かって、こういう質問をするのは、いつも女子である。忖度をする必要が男子に比べて格段に少ないからである。
 彼女はがっかりするとともに「なんて詰まらない奴」と呟いたと言う。
校長になって何をしたいのかが、まるでない。校長であると言う事実だけで、尊敬されると信じて疑わない神経を生徒は悲しんだのである。
 
 だが例外はある。M校長は、数学教育のベテランで民間教育団体にも属していた。彼は、行政の末端であることを拒否して、時間割を組む係と揉めてまで、授業を持った。臨時にではない。一年間、複数のクラスを教えたのである。
 都立高校の校長は退職後、私立高校の校長に天下りをする悪い慣行がある。M先生はそれも嫌がって、女子校のただの講師になった。授業をするためである。

  ヨーロッパでは、閣僚や国会議員を務めた政治家が、小さな村の村長や村議会議員になることがよくある。国と自治体が対等な関係にあるからだ。
 一度頂点に上り詰めると、降りられなくなる。私人としての自分を想像するのが怖い。肩書きのない自分が怖いのは、そもそも自分がないからである。
 天皇が引退したら、上皇と呼ぶという。
大学をやめれば名誉教授、社長を退職すれば会長、会長の次は顧問きりがない。なぜ肩書きを廃した名前だけの「ひと」であってはいけないのか。
 国や社会のTOPが、平凡な国民の穏やかな生活に憧れ手入ればこそ、平和や平等を政策課題と掲げ邁進出来る。
 少ない支持率で多選を目指し、専用機による外遊や友人との料亭豪遊やゴルフにうつつをぬかせば、政策目標が格差拡大と大衆課税の独裁に落ち着くのは必然である。
 

「中途半端」は、豊かな社会が目指すべき「理想」である

 生物がある環境に適応するということは一種の特殊化であり、道具というものを持たない生物にとって、それはしばしは身体の作りかえを待たねはできないことである。その結果、ある環境に適応したということは、もはや他の環境に適応しにくくなったということにひとしくなるのである。だから、その生物にとって残された道とは、その環境への適応を完成するため、ひたすらにその特殊化を発達さすことであるだろう。ここに生物自身の購いとった、進化の方向性がある。                    今西錦司

 人間は、適応に際して身体の作り変えをする代わりに、文化で対応して他の種を遙かに凌駕する分布を実現した。 どんな環境にも衣類・住宅・食料を工夫して適応出来る。だが、知的能力はそうはいかない。衣食住のように環境変化のたびに、直ちに調達するわけにはゆかない。趣味や遊び程度なら何とでもなるが、職業的な能力は十数年から数十年かけて獲得しなければならない。いつでも始められるわけではない。脳の筋肉も、若いうちに開始する必要がある。その十数年から数十年間、我々は特定の能力を獲得しながら、同時に別の可能性を捨てている。我々の脳も身体も同時に幾つも積み込むわけにはゆかない。幾つもの機能を兼ねるわけにはゆかない。
 はしご車に特化した特殊車両は、救急車として使えないように、画家になったピカソを物理学者には出来ない。川縁の風を楽しみながら走るのに、戦車は向かない。
 「ある環境に適応したということは、もはや他の環境に適応しにくくなったということにひとしくなるのである。だから、その生物にとって残された道とは、その環境への適応を完成するため、ひたすらにその特殊化を発達さすことである」
 相撲取りになったら、バレリーナにはなれない。ひたすら特殊化を進めて、とても健康体とは言えない体型に突き進んでしまう。せいぜい親方になって、「業界」利権維持のため汗を流し若者を同じ道に引き込むのである。
  ツール・ド・フランスのような長距離自転車競技の選手になれば、足の筋肉はペダルを漕ぐのに特化するから、散歩を楽しむには全く適しない足になる。核物理学で名門で学位を得れば、原発業界で利権に囲まれて生きられるが、放射能の危険性や業界の仕組みに疑問を持っても、今更パイロットになるわけにはゆかない。
 人類は、文化のお陰で昆虫など他の生物のように身体そのものを環境に適応させる時間を節約、素早い発展を可能にした。お陰で身体機能を狭く特化することなく、多様な芸術やスポーツ、科学、思想を豊かに開花させある程度享受している。人類の進化は、過度な特化を人類に望んではいない。
 アインシュタインや湯川秀樹は、理論物理に頭脳を特化せず、バイオリンや古典を楽しむ「半端」さを保ち続けた。それ故、平和運動に知力も体力も注ぎ込めたのである。ラッセルもサルトルも人生を哲学に特化しない生き方を保ち続けて反戦運動の先頭に立てたのである。魯迅は彼らより早く、特定の分野に頭脳を特化させなかったが故に、革命に柔軟に生きられた、僕はそう思う。
  おい高校生、受験勉強や試合に精力を注ぎ込むのは「中途半端」にして、平和や貧困に関心を向けたほうがいい。「半端ない」テクニックの習得に埋没するのは、奴隷根性に過ぎない。

 『ドイツ・イデオロギー』でマルクスは
  「共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。・・・朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく」と未来を描いた。

 その意味は、共産主義社会が実現するまで待て、と言うことだろうか。21世紀の我々にとって肝心なことは、資本主義社会において既にその物質的な条件は成熟している事実である。それがいつまでも実現できないのは、生産関係に手を付けられないからである。日本に限って言えばここ数十年、生産関係は資本に有利になるばかりである。

 
いつの時代も特権階級の王家や皇室だけは、優雅つまり「半端」に生きて、あらゆる可能性を個人的に保持し続けてきた。天皇夫婦のために「ご進講」をする学者たちが、口を揃えて彼ら夫婦の知識の高さを賞賛する。驚くことはない。特化しない教養の見事な鋭さを、専門分野に狭く埋没した彼らは知ることが出来ないのだ。天皇個人の持って生まれた資質だと錯覚している。
 王家や皇室など特権階級から、大相撲横綱や戦闘機の撃墜王は出ない。高見から、病的に特化した身体の持ち主や死ぬことを無上の喜びとする若者に「汝ら臣民・・・」と言葉をかけ、勲章やメダルを乱発するのだ。もちろん勲章もメダルも彼らの手製ではないし、費用も彼らの財布からは支出されない。貰う側が、税金で自己負担しているのに有り難がる。どこまでも目出度い。全ては、民が生産関係に気が付くことのないよう塩梅される。
 

 特化しない教養の見事さは、「怠ける権利」とともに全ての人の権利である。生産関係を見破るのも、特化しない教養である。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...