文人も教師も調子を合わせるべきではない

文人は調子を合わせることのできないものでもある
 しかし私はここで、文人は傲慢であるべきだ、或いは倣慢であってもよいと主張しているわけではない。
ただ、文人は調子を合わせるべきではないと言いたいだけである。そして、文人は調子を合わせることのできないものでもある。調子を合せることのできるのは、とりもち役だけだ。しかしまた、この調子を合わせないということは、決して廻避することではない。ただ是とする所を歌い、愛する所を頒え、そして非とする所、憎む所のものにかかり合わない。彼は是とする所のものを熱烈に主張するのと同じように、非とする所のものを熱烈に攻撃し、愛する所のものを熱烈に抱擁するのと同じように、憎む所のものを更に熱烈に抱擁しなければならない。あたかもヘラクレスが巨人アンタイオスを、その肋骨をへし折るために、かたく抱きしめたように。
  魯迅「二たび「文人相軽んず」を論ず」


 文人も教師も、人に指針を示すことを期待される。指針が情勢や政権を忖度していては、指針としての価値はない。文人が「調子を合わせるべきではない」なら、教師はもっとそうであり、そもそも「調子を合わせることのできないものでもある」と言うべきである。なぜなら文人が大人を相手にするのに対して、教師は少年を教え導く事で食っているからだ。指導要領が変わるたびに、調子を合わせ注釈書を読まずにいられないのは、少年たちを導くための自前の羅針盤がないと言うことだ。

 そんな者は、ただの伝声管になればいい。伝声管には自分の主張も意見も要らない、ただ言われたとおりに伝えればいい。ある校長は、「私は行政の末端です」と胸を張った。僕は聞き間違えかと思った。「私は行政の末端です」といい、打ち萎れるなら筋が通る。続けて「上から、授業を禁じられている」と言ったのには文字通り開いた口が閉まらなかった。それ以前にも似た事を言う管理職はいたが、恥ずかしげに言ったものだ。彼は堂々と胸を張ったのである。
 

 かつて裁判官は、裁判所長をボーイ長と呼び蔑んでいた。裁判に専念できず雑務に翻弄される立場は、まさにホテルや船のボーイ長。政権に忖度して所長になる裁判官を誰が尊敬するか。裁判官は法の番人であって、政権の「とりもち役」ではない。
 
 若い時には、授業や生徒との関わりに夢を描いていた教師も、夢破れて授業は行き詰まり生徒や保護者との関係も閉塞する。事務に逃げ込み校長と呼ばれるのは、彼には救いなのかも知れない。

 とりもち役になることが自慢すべき事に当たるという神経は、「中央との太いパイプ役」と自分を売り込む地方議員にはもともとあった。しかし恥ずかしい生き方である。学校では校長が退職するたびに、○○先生を囲む会が作られる。これは、教委など業界への「とりもち役」を退職校長に期待しているからである。親戚や同窓生には顔が立ち、時期が来れば勲章が待っているのだ。

 少年たちの成長のために「是とする所のものを熱烈に主張するのと同じように、非とする所のものを熱烈に攻撃」しなければ、生きた教師ではない、なんのとりえもない物質=伝声管に過ぎない。「立ってください」「口を開けなさい」「これは職務命令です」と言うのを誇らしく感じる人間がいるのだと言うことを知って情けなくなった。伝声管に過ぎないのに、その声の主の代理人になった気の幼稚な夢想家である。江戸時代にも、将軍や藩主の書き付けに頭を下げさせ「上意」と叫ぶ者があった。それを真似て得意になれる神経を嗤う。

古在由重「わたしの先生たち」

党派を裏切るか友だちを裏切るか、二つに一つ
 十数年の戦争がおわって、一年後か二年後のことだった。ある日、駿河台の明治大学の講堂で講演会が開かれ、わたしも講師のひとりだった。おそらくその主題はながい暗黒時代のこと、そして希望にみちた今後のあたらしい展望ということだったようにおぼえている。聴衆はいっぱいだった。最後の請演者として、わたしは話をおわって、講堂を出ようとした。その瞬間、ドアの所にたちどまっているひとりの老紳士と顔をあわせた。60歳ぐらいの、スマートな服装の人である。
 「わしがわかるか」という声に、すぐ「中村先生じゃないですか」とこたえた。「そうじゃよ」という返事。「ああ、やっぱりそうですね。奥さんもお丈夫ですか」。「妻(さい)も元気じゃ」という言葉が返ってきた。ほんのしばらくの立ち話によって、三十年あまり昔の小学校時代のこの先生も、いまは教師をやめて千葉県の市川で歯医者をしているとのことだった。その途端に、おたしは主催者の側から急に別室に呼び出されて、「それでは、いずれゆっくり」といったままわかれてしまった。まったくうっかりというほかないが、正確に住所すらたずねるのも忘れて。ただ、「君も苦労したのう」という身にしむねぎらいの言葉が耳に残っている。おもえば、これが最後の再会となった。
 村の小学校の・・・六年生のわたし(わたしたち)がその魅力に全身ひきつけられたこと、当時はまだめずらしかった女教師のひとりとの恋愛によって双方が首を切られ、これに抗議したわたしたち六年生が三日間ほどの授業放棄をしたことだけをつけくわえておく。「妻(さい)」というのはそのときの女の先生である。この中村常蔵先生は、なみなみならぬ硬骨漢だった。わたしとしては、「人生は努力じゃ」ということを先生の実生活と教室での話から胸にたたきこまれた。あの暗黒の時代のわたしのことについても、気にかけて承知しておられた様子だったのに。

 幾何学の秋山武太郎先生。京北中学の三年生になったとき、この先生によってわたしは幾何学と数学一般に異常な興味をおぼえ、日曜日などにはたびたび先生の家をたずねた。いまおもえば、旧制中学の三、四年生のときに、すでにかなり高級なことを教室で教えられ、ときにはカジョーリの英語の数学史のページをめって、少年パスカルが円錐曲線についての定理を発見したときの、父のおどろきの光景を読みあげた。「ザ・ファーザー・ウォズ・サープライズド」という先生の音声などはいまでも耳にのこっている。そのほかフォイエルバハの九点円の定理、円に外接する六角形の対角線が一点に会するというブリアンションの定理なども、記憶にあざやかである。 
  「民主主義教育」1980年冬号

 人が学校の思い出に式や行事の涙を書くのが、僕には不快である。特に教師や文化人がそう書くのをみると身の毛がよだつ。

 古在由重は、小学校の中村先生の硬骨漢ぶりと旧制中学の秋山先生の授業を書いている。印象深かっただけではなく、哲学者古在由重の生き方に強い影響をもたらしている。
 僕は行事と式が、小学校入学から嫌いだった。準備は手伝っても当日はサボった。日常が浮き上がった雰囲気が軽薄に感じられたのだ。だから中学校以後、自分の卒業式に出た事はない。結婚式もやらなかった。賞の授与式にも行かなかった。式という式はできる限り回避した。その分自分の日常を楽しみたかった。
 式や行事が感動的であればあるほど個人の尊厳が、集団に埋め込まれるような不快感が漂うのだ。仮令小さくとも独立した全体である個人が、大きく感動的な行事や式の部分となることに僕は組みしたくない。どんなに運営が「民主的」であっても、歯車となって筋書き通りに動く自分自身を体験したくはない。

 中村先生の硬骨漢ぶりと秋山先生の鮮やかな授業は、古在由重少年の日常と人格に影響して、彼の尊厳を揺籃している。日常とは、ここでは時代の空気に忖度せず節を曲げない生き方であり、興味溢れる学びの時空である。たとえそれが後の暗い時代の過酷な運命に繋がっていたとしても。
 だから中村先生は、暗い時代の古在由重を思い「君も苦労したのう」と身にしむねぎらいの声をかけることが出来たのだ。「君も」には、中村先生の「苦労」が下敷きになって万感の思いが込められている。誰もが言え、誰もの身にしむ台詞ではない。

 中村先生の授業のどこにも「アクチブ」な装いはない。国家や民族の軛を越えた定理の美しさを淡々と教えて、中身が濃く充実している。こうして感動は、一人の独立した教師とと、自立した若者の間に形成され、時に応じて思い出されるのである。

 世界大恐慌の1929年、古在由重は東大総長の次男であり政治的に無色なことを買われて「思想善導」の教官として東京女子大で「倫理学」を教える事になる。
 この頃、優秀な青年たちが大学でマルクス主義を知り実践に飛び込んでいた。文部省は、対策として旧制高校や大学に「思想善導」の教官と講義を置いた。哲学倫理を正しく教育すれば、学生がアカになるのを防げると権力は考えた。
 皮肉な事に、古在由重は吉田先生譲りの頑固で善良な教育者であったが故に、講義を受けたモップル(国際赤色救援会)の女学生のオルグに共感し、「理論と実践の統一」へと人生の決断をする。ここには、定理や理論の美しさを少年古在由重にたたき込んだ秋山先生の薫陶も見える。
 世間は、東大総長の息子がアカになったと色めき立った。新聞沙汰の大事件となり、1933年に逮捕されている。
 これが、「君も苦労したのう」の一言に込められているのである。
 感動的な行事と式は、所詮人工の産物である。そこに時代に抗して闘う個人の出会いが作る、深みは生まれない。

 学校から行事とその膨大な準備を追放するだけで、学校の抱える諸問題は大方軽くなる。部活を軽く柔らく短くすれば、少年たちは社会に興味を持ち始めるに違いない。

追記 モップル(国際赤色救援会)は、このとき資本主義諸国の個人会員129万人、団体会員202万人。ソ連支部の会員823万人。会員の42%は非党員であったと言われている。現在の日本国民救援会。この組織以前の日本には、解放運動犠牲者救援会があった。

増え続ける「多数派・派」がヘイトスピーチや自発的従属を生む

鶴橋大虐殺を叫ぶ女子中学生の動画から
 エドゥアルド・ウヘス・ガレアーノ(1940~2015)はその代表作『収奪された大地 -ラテンアメリカ五百年』(1971年刊)で、ラテンアメリカの富がいかに奪われたかを、丁寧に余さず描いて「われわれラテンアメリカ人が貧しいのは、われわれの踏んでいる大地が豊かだからだ」と証明した。ガレアーノは14歳の時、自らの評論をウルグアイ社会党に売り込んでいる。1973年には、軍部クーデターにより逮捕投獄されアルゼンチンに亡命。アルゼンチンでもクーデターが勃発、死を宣告されスペインへ再亡命した。1985年帰国。

 スペイン人たちのインディアスに於ける虐殺があまりにも凄絶なので、金・銀強奪が目当てなのだということが霞む程だ。植民地における富の略奪の内実を、ガレアーノは無数の例を引いて語る。
 驚くべきは、インディアスからスペイン人が奪った金・銀はスペイン王国を潤すことはなかったという報告。当時のスペインはバブルに浮かれていたが、実際は莫大な負債がヨーロッパ各国にあり、インディアス強奪した金・銀はその返済にまわったのだ。その「三分の一近くはオランダ人とフランドル人の手にあり、四分の一はフランス人が握り、ジェノヴァ人が20%、イギリス人が10%、ドイツ人が10%弱を牛耳っていた」 

  イエズス会とスペイン軍は、祖国にさえ恩恵をもたらしていない。負債を返却するために大量虐殺と窃盗に励んだのだ。金銀の工芸品も跡形を残さず、全て鋳つぶして負債の支払いに充てたのである。
 インディオ虐殺も桁が外れている。インディオのせいでスペイン人一人が死ねば、それは大抵正当防衛であったが、インディオ100名を殺害するとの掟をもうけ、その決まりに従って秩序正しく殺戮を実行した。100万を越える人口が数百人に激減したり絶滅したりは、日常茶飯事の正義となった。インディオの神殿を打ち壊した石材はイエズス会の教会に使われ、インディアスは人命も、労働も、文化も、つまり歴史の全てを抹殺されたのである。そんな修道士や兵士が聖人や英雄と呼ばれ、勲章と爵位の山を築いた。修道士たちの中には、ラス・カサスのように「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を教皇宛てに書き告発した者もあったが、教皇は報告を棚晒しにしてしまう。
  
 「上司から会社のためにはなるが、自分の良心に反する手段で仕事を進めるように指示されました。このときあなたはどのように行動しますか」

 これは日本生産性本部が、毎年新入社員に実施する調査の一項目である。 

                            2018   2017 2016        男    女
1.指示の通り行動する  36.8   39.2 45.2    40.1 29.5
2.指示に従わない    14.4   13.1 10.6    14.5 14.2
3.わからない     48.8   47.7  44.2   45.4 56.3

 2016年度が「自分の良心に反」していても指示の通り行動する新入社員のピークであった。日本の集団では「わからない」は、多数に流されるということだから9割が、「従う」のである。そうでなければ、昇降口で洗髪させるなどと言う常軌を逸した頭髪指導が罷り通る訳がない。非正規労働者に対する冷酷さが放置され続ける訳がない。ヘイトスビーチを繰り返す議員が当選する筈はない、沖縄米軍基地を擁護する政権の無理無体が通る筈がない。
 反対する者を罵り押し黙らせるのは、判断保留の多さなのだ。自身の選択は放棄して、常に多数に付こうとする「わからない」の連中を、僕は「多数派・派」と呼ぶ。戦争に敗北した途端、民主主義者に変身して少年たちの怒りと軽蔑の対象になったのは、この「多数派・派」なのだ。状況が厳しくなると、急激に増える。
 良心に反しても「指示の通り行動する」割合が減少し「指示に従わない」が増えているとしても、「わからない」の多数派・派は増え続けて、自発的従属へとなだれ込む。報道や学者も労組活動家や学生まで卑屈にするは、この
自発的従属である。
 ラス・カサスの時代と異なって現代は宗教による支配からも、軍隊による強制からも自由な筈だが、このざまだ。

鈴木 2013年夏、・・・日本外国特派員協会に呼ばれたんですよ。日本の排外主義のデモについて話しました。外国人の記者がいっぱい来ていたんですが、その中でびっくりしたのが、あるアメリカ人記者の質問です。
 「3・11以降、世界中が日本に同情し、尊敬していた。ところが、今年二月、大阪・鶴橋で行なわれたヘイトスピーチの集まりでの女子中学生の発言が、世界中の日本に対する見方を変えた」と言うんです。「それ以来、日本に批判的になった」と。
 そのときまで僕はその中学生の発言を知らなかったんです。特派員協会での会見のあと映像を見ました。
坂本 僕も見ました。ひどいものですね。

鈴木 女子中学生が拡声器で
   「鶴橋にいる在日の人たちが憎いです。みんな殺したいです。南京大虐殺があったんだから、鶴橋大虐殺をやります。それが嫌だったら、日本から出てってください」ということを言ぅ。普通だったら、誰かが止めるじゃないですか。それを止めないで、周りにいる人たちは「やれやれ」みたいな感じで。僕たちが「日本ではこれは例外的だ」と思っても、世界に流れたら、事実なんです。
    

坂本 龍一/鈴木 邦男対談  『愛国者の憂鬱』金曜日(2014)

  「止めないで、周りにいる人たちは「やれやれ」みたいな感じ」それが、多数派・派の機能である。ラス・カサスやイエズス会修道士たちも、軍隊の狼藉は止めないで「やれやれ」と傍観していた。そればかりではない、軍隊と植民者たちが入り込み支配しやすいように、事前の宣撫工作に励むのが彼らの任務だった。

 だから、僕は生徒会活動や学級活動が「多数決」形成に流れ、政治教育が模擬投票ごっこに溺れるを正視出来ない。教師が
「多数派・派」に逃げ込めば、少年が明晰な決意や行動をする「恐れ」は小さくなる。それが政権の狙いでもある。
  エドゥアルド・ウヘス・ガレアーノもホセ・ムヒカも
「多数派・派」から最も遠い位置にいた。

追記 女子中学生がヘイトスピーチする動画は、youtubeにもある。警官隊が彼女を守っているのも印象的だ。
 

「第一線の研究者」とは何か / 批評は誰が誰にすべきか

斎藤喜博は校長になっても教室に押しかけ授業した
生徒の批評は辛らつであったが、それが喜博の楽しみだった
 「法隆寺には鬼がいる」と言われたことがある。宮大工の西岡常一である。法輪寺三重塔に鉄骨補強をしろという学者にかみついて「そんなことしたら、ヒノキが泣きよります」 (「斑鳩の匠 宮大工三代」 平凡社) と反論したのである。もちろん今、三重の塔にも五重の塔にも鉄筋は施されていない。それが我々の誇りになっている。
  「学者は様式論です。・・・あんたら理屈言うてなはれ。仕事はわしや。・・・学者は学者同士喧嘩させとけ。こっちはこっちの思うようにする・・・結局は大工の造った後の者を系統的に並べて学問としてるだけのことで、大工の弟子以下ということです」(「木のこころ・仏のこころ」春秋社)
 自分で鋸や鉋を握って建物を作ったこともない者が、千年の経験を蓄積した棟梁を差し置いてものを言うのに西岡常一は我慢がならなかった。
 青少年を相手にろくな授業をしたことのない学者や、生徒と教室から逃走した者が「研究者」顔して、「大工の弟子以下」の講評をたれるのを「現場の教師」たちはどうして有り難く拝聴するのか。何故、「現場」の鬼になって噛み付かないのか。

  「・・・○×科教育学会に行ってきました。一線の研究者に自分の授業を批判してもらえるのは、よい機会でした・・・」若い教師からの便りにあった。仮に彼をT君と呼ぼう。
  T君によれば、小中高教員言うところの「一線の研究者」すなわち大学教員は、学校で教える教師を「現場の教師」と言うらしい。自分たち大学研究者を「一線」と自認しておいて、それとは異なる「現場」で教える教師があると言うわけだ。
 第一線とは、つまりfrontである。では一体何に対して前線なのか。全ての教育関係者にとって、frontは日常の教室でなければならない。それは国民の教育権の主体が、先ず何を置いても生徒自身であることから自明のことだ。だとしたら、「現場」から離れた研究者こそその論考を、「現場」教師から批評されねばならぬ。しかしそうなら、研究室はなぜ問題が長年にわたって多発する学校にないのだ。なるほど教員養成系の大学は、多くの付属校を擁している。しかしどこに偏差値の底辺に位置する付属校を抱える大学があるか。

 そんなことを試みたのは、林竹二だけだ。だが個人であって、組織ではないから持続性はない。○×△☆科教育学会が、独自に困難高の中に、研究室を置こうとした気配すらない。一線とは、問題を抱えた学校から「遠く離れている」とういことに過ぎないのか。有能な一線の研究者が、自ら望んで底辺高に赴任して戻らないという話もない。それどころか、論文や研究発表好きの「現場」教師たちは、ことあるごとに問題を抱えた学校から離れて「栄転」するのだ。まるで逆転防止装置付きのネジ回しのようだ。
 もし本当の「一線の研究者」が実在するならば、自分の研究に対する「現場教師」に批評を乞い、困難と烙印される現象のただ中に身を置くに違いない。かつて島小の校長斎藤喜博は授業中の教室に入り、求めて「僕ならこうやる」と授業をやって見せたという。生徒たちが「校長先生の方がわかりにくい」と言うことも屡々だったという。それを楽しんでこそ「第一線の研究者」である

 問題を抱えた底辺から「遠く離れ」てネクタイを締め革の鞄を抱えるのが「一線の研究者」ならば、問題に翻弄されて過労気味の「現場教師」は、土人と言うことになる。そんな現場教師は、論文を書く暇も、学会に出る暇もない。日々消耗するのだが、磨きをかければ玉のような輝きに満ちた体験、第一線の研究者が思いもよらないような体験を内に秘めている。秘めていて本人は気付きもしない。そこに「第一線」の研究者は、足繁く通い詰めなければならないのに、そっぽを向いて去って行く。

 選別体制の極まった日本の教育を総体的に捉えるためには、付属学校や教委の指導重点校など粒のきれいにそろった集団を相手にして埒があくわけがない。
 生活にも学力にも問題を抱えた多様な生徒が内部矛盾を引き起こし、それを自ら克服する過程にこそ「アクチブ」な教育のヒントがある。

 もし第一線が「学会」での論文数や発表実績による地位や評価を意味するとすれば、例えば医学のfrontは病床や手術室にはないことになる。なるほど「白い巨頭」で描かれた教授回診が横行すれば、frontは教授会ボスにある。しかし現実の病床や手術室、そこには絶えず生死をかけた問いが渦巻き、定石や権威が通用しない、何が起きるか予測がつかない、緊張がある。町医者がそこに目を向けないで、「一線」の権威の批評を有り難がるとしたら患者は去る。権威の後ろに付いて歩く医者に信頼は置けない。                           
 教員が第一線の研究者の言葉を有難く拝聴するとしたら、それは教師が「第一線の研究者」の後ろに並んでいると言うことだ。研究者の前や横や後ろには、文科省や教委の肝煎りがいるかも知れない。

 教室が怖くて校長室に逃げ込んだ管理職も、定年退職して大学に迎えられれば「現場での経験を買われてその地位に就いた」と紹介されるから厄介である。しかしここでは「現場」と言う言葉は、授業も生徒も怖かった素性を糊塗する隠れ蓑として機能するのである。二重に「現場」を愚弄している。

  T先生、「一線」の研究者に君の教室で授業をさせ、批評してやるといい。何人が手を上げるだろうか。うち何人がT先生の勤務校を聴いても手を上げたままだろうか。返事は聴かずとも分かる。先ずこう言うのだ。「イヤー先生たちの苦労には平素敬意を抱いております」と持ち上げておいて、そして「とても私のような非力な人間に出来る仕事ではありません」と逃げるのである。


 この問題にどうしても欠かせない厄介がある。それは、「教科教育法」という分野の人気のなさである。大学生で「教科教育法」に積極的に興味を持ち大学院で専攻しようとするものがあるだろうか。実に面白さに欠ける、特に社会科教育法には魅力がない。その分野に多くの現職教員や研究者が集まるのは、積極的な探求の対象として「社会科教育法」が注目を集めるのではなく、学校という現場からの逃避の手段になっているからではないか。そうでなければ、この分野の「学会」員たちの、自発的従属性を説明できない。
 
追記
 僕の父は酒癖が悪かったが、戦後の大規模橋梁や鉄道建設の構造計算と設計には大方携わった。始まりは洞海湾をまたぐ若戸大橋だった。新幹線トンネル、駅舎、橋梁の構造計算をするとき、手回し計算機が何十台も事務所でうるさかった。トラス構造各部分にかかる力を計算するのは特に厄介で、数学の得意だった父は数値を求める近似式を作り促されて特許を取った。数学に特許があると聞いてびっくりしたものだ。この種の設計では盛んに使われ、作業を大幅に簡略化した。が、父は特許使用料を取ったことがない、取るのを潔しとしなかった。小学生だった僕は、なんて勿体ないと思ったものだ。そのせいか、父を破格の給与で雇うという巨大コンサルタントが現れ、父の事務所は大荒れに荒れた。父と数人の友人で立ち上げた事務所だ。仕事の殆どは父に来ていた。父が抜ければ事務所は潰れ、数十人が路頭に迷うかもしれない。それから数週間、毎晩事務所の社員が入れ替わり立ち替わりやってきて夜遅くまで、父に嘆願を繰り返した。お陰でうちの所得は上がらなかった。別荘・運転手付きの生活の夢は瞬く間に消えた。僕が中学生になると、父に博士号を取れと勧める人たちが現れた。その頃、父は土木学会の理事も務めて、大きな土木プロジェクトには大抵拘わって論文もたくさん書いていた。父は、それも固辞し続けた。終いには土木学会の重鎮も登場して、論文は今まで発表したものでいい。外国語による抄訳もこちらで準備すると申し出た。それでも父は首を縦に振らなかった。最期のプロジェクトは瀬戸大橋だった。
 何故酒癖の悪い父は、旨い話を断ったのか長く疑問だった。だが、西岡常一の一件でようやく納得出来るようになった。父が巨大プロジェクトで接するのは、父を除けば国鉄や公団の課長たちだった。彼らの肩書きは立派だったが、仕事は父に投げられた。それが国鉄や公団の仕事となって、父の事務所に下請けに出された。実力を伴わない肩書きに怒りを持っていたのだ。父の特許を指定して、父に仕事を頼む会社もあったが、それが目の前のうらぶれた父であることを知るものはなかった。
 西岡常一の生活は貧しかった。宮大工は神社仏閣以外の仕事はしないというしきたりに忠実な頑固者だったからだ。父も頑固だった。鹿児島に帰るたび、叔父や叔母がその頑固さで僕たち家族がいかに窮したかを話してくれたものだ。米を買えないどころか、税務署の差し押さえは二度もあった。電球にまで札が貼られたのを覚えている。夜逃げという言葉を4歳にならぬうちに知った。 頑固者は酒に溺れ貧乏を家族に強いるが、外から見れば世の中を痛快に見せる効用があるのかも知れない。   

無政府主義は無秩序ではない。権力によらない秩序、すなわち自治である。何故、残留孤児は拾われたのか。

尊厳は自と他の間に生まれる。
 黒沢明の「羅生門」の終わりに、赤ん坊が登場する。鳴き声を聞きつけた下人が抱きかかえてくるが、
 「どっちみちこの着物は誰かが剥いでいくにきまっている。俺がもっていくのが、何が悪い。俺が鬼なら、こいつの親はなんだ。てめぇ勝手が何が悪い。人間が犬を羨ましがる世の中だ。てめぇ勝手じゃなきゃ、生きていけねぇ世の中だ」と言い捨てて、赤ん坊を包んでいた物を剥いで消え去る。
 雨の羅生門に、途方に暮れる僧侶と木こりと産着の赤ん坊が残る。しばらくして木こりが赤ん坊を抱き、
 「うちには6人子がある。6人も7人も苦労は同じじゃ」と目を細めて言う。それを聴いて僧侶は
 「ありがたいことだ。お主のおかげで、私は、人を信じていくことができそうだ」と手を合わせる。雨が上がり、木こりは宝を抱えるようにして家路につく。

 僕は、中国に残された孤児たちを引き取った中国人たちを考えるとき、志村喬が演じた子だくさんの
貧しい木こりを想う。下人のように身ぐるみ剥ぎ、扱き使った者もあったかも知れないとしても。
 方正県の松花江沿いの村に泊まったことがある。そこでも、孤児を巡る話は聞こえてきた。

 女と子どもだけで逃げ惑ったことに、悲劇の最大の要素がある。残留子女たちが共通して言うのは、「軍隊は国民を守らない」である。関東軍当局は、保護すべき満州開拓民を徴兵、ソ連に対する防壁として国境に動員して、自分たちはいち早く逃げ去ってしまった。悲劇は、戦争に伴う自然現象ではない。日本軍の作為の結果なのだ。

 実に様々の動機が、孤児を貰う側にも、預ける側にも、捨てる者にもあった。
 無一物の捨て子に木こりや満州の中国人が見たのは、人間の「尊厳」そのものだった。財産も家柄もない、放置すれば確実に死が襲いかかる。判断を促すのは、尊厳だけだ。

 中国革命には、無政府主義の影が濃い。毛沢東にそれがあると言うばかりではない。幾たびもの長い革命を経る度に、人々は権力によらない秩序を作り上げてきたのだ。無政府主義は無秩序ではない。自治である。
 江戸では孤児が出ると、長屋の大家が知恵を絞った。しかしこれは自治ではない。幕府の命令・指示が町年寄を通して降りてきたものである。指示を待ち伺いを立てる性癖からは、尊厳は導き出せない。

 西安を東西に貫く大通りの夏の昼下がり、年寄りたちが
突然座り込んだのに出くわしたことがある。30年も昔だ。瞬く間に交通は渋滞し、警察もやってくる。しかし、年寄りたちは動じる様子もない、小さな椅子を持ってその数は増える一方だ。僕は路線バスの真ん前でこれを見ていた。どうなるのかどうするのか、興味が湧いて暫くは高見の見物と決め込んだ。10分もしただろうか、頬杖をついて座り込みを眺めていたバス運転手が、意を決したように大型バスを歩道に乗り上げ、裏道に出て現場を大きく迂回した。驚いた。日本の路線バスは、停留所を僅かに移動させるにも数ヶ月前に申請して当局の許認可を得なければならないからだ。中国で路線バスが、迂回する場面にはよく出くわす。
 数時間後用を終えて、同じ現場を歩きながら通りかかると、座り込みは依然として続いていた。警察は話を聞いてはいるが、年寄りを排除はしなかった。TVカメラもやってきていた。夕方の番組と翌朝の新聞によれば、再開発に対する異議申し立てであった。市民も鉄道のストライキに出くわした日本人のように、「迷惑だ」などとは言わない。この点では、中国の方がヨーロッパに近い。


 この一件でこの国に対する僕の印象は大きく変わった。八路軍が階級を廃止した歴史的決断も、すんなりと理解できるようになった。「農民の物は針一本取ってはならない」と言う徹底した倫理性は、人間そのものへの尊厳の観念と一体である。

 
 中国のホテルも鉄道も食堂も、実に幅広く素早い臨機応変の対応をする。上の判断をいちいち仰ぐことがない、現場・個人の判断が明確で速い。夜行列車で暗いうちにホテルに着いても、部屋の様子を確かめるとすぐに入れてくれる。すぐに風呂を浴び一眠りして、街に出て朝飯を食べて近所を一巡りしてきても、午前中だ。始め僕はてっきり午前中の使用分は一泊として請求されるとていたが、「不要」と笑顔で言う。これはどの街に行っても、最近になっても変わらない。日本の宿は、何があろうと3時にならないと入れない。時間前に着いた客がロビーに溢れてもだ。

 人間そのものに尊厳を認めない。決まりが絶対であって、決定権は人間にないのだ。僕らのこの社会は、家柄や財産に、学歴に、組織に尊厳を見出す。だから茶髪を禁じるなどと言う理不尽が通るのだ。教科書をつくる権利や職員会議で採決する権利を奪われた我々は、生徒が服装や頭髪を決定する権利を奪い「憂さ」を晴らしているかのようだ。

   中国社会の深くに、自治を促す無政府性の秩序がある。違いを前提とした日常的揉めごとが多発してこそ、公=publicの概念は成立する。それなくして巨大な国土と人口を維持出来ないだろう。残留日本人孤児の引き取りも、その中では、自然な流れだった。何しろ多民族国家でもある。
 羅生門の木こりが生き生きとしているのは、赤ん坊と自身の尊厳を守る決定権を手放さないからである。尊厳は自と他の間に生まれる。

 
追記 1957年、積極的に日中国交正常化をはかる石橋湛山首相が僅か65日で退く。替わって日米安保成立を目指す岸信介が就任。日本の対中政策は一転。台湾国民政府の大陸回復支持を表明、日中関係は悪化する。1958年に集団引揚は打ち切られる。翌1959年、日本は戦時死亡宣告制度を導入。たとえ中国で生存している可能性が高い者であっても、在日親族の同意さえ得られれば、戸籍から抹消しても構わないことになった。悲劇が政府によって加速するのがこの国だ。
 

シモーヌ・ヴェーユもソクラテスもいた教室

 一年前、このブログに「私がビリでもいいでしょう」を書いた。部分を再録する。

 「二年生「現代社会」の自習課題に「欲しいものを一つ書きなさい」と出した。
 悦ちゃんのこたえ

     「トビキリ美人のお姉ちゃんが欲しい。私にはお兄ちゃんがいるけど、威張って命令ばかりしている。だからお兄ちゃんはいらない。お下がりをくれたりする優しいお姉ちゃんが欲しい。でも私には弟がいる、よく考えれば弟から見れば私はお姉ちゃんだ。トビキリ美人というのは無理だけど、それ以外で優等お姉ちゃんになれるように頑張ろう」

 悦ちゃんは成績会議の常連だった。
 「誰かがビリにならなきゃいけないんだったら、私がビリになってもいいでしょう」と微笑むさまは爽やかだった。頑張るという言葉が、彼女の前ではあっさりズレた響きを持つのだ。クラスの誰もが、彼女を悦ちゃんと呼んでしまうのも不思議だった。
 このこたえを、すべてのクラスで読んで一時間話した。・・・

 僕は美人とは彼女のことだと思う。素樸で何一つ付け加える必要がないが、妙な癖があった。緊張するとしゃっくりが始まるのだ
」

  シモーヌ・ヴェイユを再読して、僕は悦ちゃんを思い出した。 シモーヌ・ヴェイユについては、「不満が改革や革命ではなく「破局」に行きつくのはなぜか・2 」←クリックに書いた。

  直接の要点だけを抜き書きする。
 
シモーヌ・ヴェイユは「物質的条件だけでは、仕事の単調さ、非人間性、不幸を打ち破ることはできないと結論付けた。そうしてたどり着いたのは、単調さに耐える一つの力としての「美」。生活の中の光としての美または詩である。シモーヌ・ヴェイユはその根源を神に求めた」     

 夏目漱石は、シモーヌ・ヴェイユのように「神」を通してではないが、同じことを「草枕」の冒頭で言っていた。
「・・・智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい
」
 我々はこれを理解しているとは言いがたいが、なんとなく口ずさむことが出来る。

  シモーヌ・ヴェイユも夏目漱石も、生きにくさに耐える手掛かりを、「美 」に求めている。

 悦ちゃんは、逃れられぬ日常に「美」を見出している。彼女はシモーヌ・ヴェイユが、高等師範で得た教授資格を放棄して工場に女工として飛び込み、思索を重ねてようやく辿り着いた結論にいとも簡単に立っていたのだ。
 あの時悦ちゃんは、高二だった。高校二年生は、少年が青年になる。知的に飛躍を遂げる一瞬を内包した、かけがえのない時期だ。

 まだ30代だった僕は、悦ちゃんの決意を美しいとは思った。だがその深い思想性までは至らなかった。
 「誰かがビリにならなきゃいけないんだったら、私がビリになってもいいでしょう」と屈託なく微笑むさまを、今もありありと思い浮かべることが出来る。観音菩薩が笑えば、こんな風だろうと思える穏やかな雰囲気があった。

 僕らは高校生に教えることに意識をとられ、彼らから学ぶ力を捨てている。一体何人の
シモーヌ・ヴェイユやソクラテスを捉え損なったのだろうか。悔やみきれない。

追記 シモーヌ・ヴェイユが女工となったのは、職業選択の自由の行使の結果だろうか。彼女は職業選択の自由を放棄して、自由を得たのではないだろうか。

IT革命賛美と市場原理一辺倒の新教科「公共」指導要領を嗤う

「市場理論で人間関係は解けない」
 自由主義経済理論の開祖・ハイエクに求められ今西錦司が対談したことがある。この対談でハイエクは、今西錦司に全く歯が立たなかったのだが、対談そのものは長い記録となって残っている(『自然・人類・文明』NHKブックス)。それを受けて中沢新一と山極寿一が『現代思想』2018年9月号で議論している。テーマは「生きられた世界を復元できるか」。
 
 新教科「公共」指導要領を批判するのに、教育や社会科学以外の論客を引用するのは、所詮教養というものは、「事柄をずらす」ところからしか始まらないからである。教育も経済も、競争と効率から抜け出そうとしない。

中沢新一 ・・・現在のわれわれの世界は、ITとマーケットでもって決定されています。政治家の決定などは、二次的・三次的な茶番みたいなものです。実際はマーケット上での覇権をどう調整していくかということをもとに動いていて、政治家の言語はその上で一種の茶番のようにして展開しています。そしてその根幹にあるマーケット原理でこの地球をすべて運営していこうとしているのです。それを円滑に動かそうとしているのがAIという技術です。そういう地球に対して、ハイエク的な市場世界に対して、今西さんはノーと言っているわけです。
山極寿一 よくわかります。今西さんの考えの根幹になるのは、実体あるものはすべて界面を持っている、つまり個体性を持っている、ということです。そして、界面のないものは言語がつくり出した幻想だと。そうなると、コミュニティもマーケットもすべて幻想です。
かたや、生物にしろ石にしろ、実体のあるものはすべて界面を介して関係性が生じる。人間あるいは生物の社会も、そういう個体性を介して成り立っているわけであって、それを計算できるわけがないということになりますね。それはおそらくレンマとも通じると思います。
 ハイエク的経済の思想は、個の決定権が外から見える、あるいは操作できるというものです。マーケットとはそういう話ですよね。
だからこそAIが登場できるわけです。AIは自律的なものではなく、外から操作可能なものですから。人間個体あるいは生物個体それぞれの、ある政治的な決定の瞬間を見れば、票として数えることができる。あるいは、ゼロサムとして、分布として、考えることができる。そういうふうに落とし込んでいかないと、計算できないからです。あるいは、分布を政治空間のなかに固定してしまって、それが別の空間にどう移り変わっていくかという微分積分の話をしてもよいのですが、とにかくそういうふうに数式化しないと、経済として予測ができない。
 しかし、個がゼロサムでもなければ独立しているものでもなく、なおかつ価値を中心に捉えることもできないものだとすればどうでしょう。今の幸福論によれば、お金を持っているから幸せというわけではなく、あるいは物質的なものたちに囲まれているから裕福と感じるわけではなく、人間自身がどういう条件が幸福であると考えるかはそれぞれで違っています。いわば、いろいろなコミュニケーションを経て人間が決定した結果は揺れ動いているのです。ですから、マーケット理論では人間関係は解けないのです。AIでも解けない。そこに思いを馳せないと、人間の社会がどうなっていくかとか、個人個人がどういうふうになっていくかということは予想できないのではないでしょうか。
 今よく言われているのは、かつて人間は社会に生きていた、今は経済に生きている、ということですが、それは経済が社会を豊かにする、経済こそが社会の根底に座っていて、社会は経済によってよくも悪くもなる、と思っているからです。しかし、そもそもは逆だったはずです。経済は社会を豊かにする方法の一つにすぎなかったはずなのに、経済指標を目標に掲げ、「右肩上がりの経済」とどこの国でも言っている。そして政治家はみんな経済を気にする。それはまさに資本主義と現代科学が手を取りあった結果です。そういう社会の見方は根本から改めないといけない。
もう限界に来ているのですから。


  「政治家の決定などは、二次的・三次的な茶番」であれば、新教科「公共」の論旨は五番煎じの後の出がらしにもならない。
 文部科学省による「高等学校学習指導要領解説 公民編」2018 を見て驚くのは、その量だ。pdfファイルにして173ページもあることだけだ。
 その中で「労働基本権」はたった一カ所、次のように触れられるのみ。
 「このような現状を踏まえて、それぞれの事情に応じた多様な働き方・生き方を選択できる社会の在り方について、労働保護立法の策定や労働組合の果たす役割、労使協調などにより雇用の安定を確保するという考え方と、規制緩和による就業形態の更なる多様化、成果主義に基づく賃金体系、労使の新しい関係などにより労働力を効率的に活用するという考え方とを対照させ、年齢で区分せずに能力や意思があれば働き続けられる雇用環境の整備、さらに仕事と生活の調和の観点などから探究できるようにする。
その際、例えば、勤労の権利と義務、労働基本権の保障、労働組合の役割などを基に、正規・非正規雇用の不合理な処遇の差や長時間労働などの問題、派遣労働者やパートタイマーなど非正規労働者、女性や若年者、高齢者、障害者などの雇用・労働問題、失業問題、外国人労働者問題など具体的な事例を取り上げて自分の考えを説明、論述できるようにすることが考えられる」
 「ILO」「カルテル」「談合」「不当労働行為」に至っては全く言及がない。このことだけでも「公民」「公共」の正体は知れる。

 経済分野について解説は次のように書いている。

 職業選択、雇用と労働問題、財政及び租税の役割、少子高齢社会における社会保障の充実・安定化、市場経済の機能と限界、金融の働き、経済のグローバル化と相互依存関係の深まりなどに関わる現実社会の事柄や課題を基に、公正かつ自由な経済活動を行うことを通して資源の効率的な配分が図られること、市場経済システムを機能させたり国民福祉の向上に寄与したりする役割を政府などが担っていること及びより活発な経済活動と個人の尊重とを共に成り立たせることが必要であることについて理解すること。

 「職業選択」については、産業構造の変化やその中での起業についての理解を深めることができるようにすること。「雇用と労働問題」については、仕事と生活の調和という観点から労働保護立法についても扱うこと。「財政及び租税の役割、少子高齢社会における社会保障の充実・安定化」については関連させて取り扱い、国際比較の観点から、我が国の財政の現状や少子高齢社会など、現代社会の特色を踏まえて財政の持続可能性と関連付けて扱うこと。「金融の働き」については、金融とは経済主体間の資金の融通であることの理解を基に、金融を通した経済活動の活性化についても触れること。「経済のグローバル化と相互依存関係の深まり」については、文化や宗教の多様性についても触れ、自他の文化などを尊重する相互理解と寛容の態度を養うことができるよう留意して指導すること。

 公正で自由な経済活動を通して市場が効率的な資源配分を実現できるのはなぜか、市場経済において政府はどのような経済的役割を果たしているか、活発な経済活動と個人の尊重をともに成り立たせるにはどうしたらよいかなどの問いを設け、他者と協働して主題を追究したり解決したりする活動を通して、「公正かつ自由な経済活動を行うことを通して資源の効率的な配分が図られること、市場経済システムを機能させたり国民福祉の向上に寄与したりする役割を政府などが担っていること及びより活発な経済活動と個人の尊重とを共に成り立たせることが必要であることについて理解」できるようにすることを主なねらいとしている

 職業選択については、現代社会の特質や社会生活の変化との関わりの中で職業生活を捉え、望ましい勤労観・職業観や勤労を尊ぶ精神を身に付けるとともに、今後新たな発想や構想に基づいて財やサービスを創造することの必要性が一層生じることが予想される中で、自己の個性を発揮しながら新たな価値を創造しようとする精神を大切にし、自らの幸福の実現と人生の充実という観点から、職業選択の意義について理解できるようにする。
その際、「産業構造の変化やその中での起業についての理解を深めることができるようにすること」(内容の取扱い)が必要であり、グローバル化や人工知能の進化などの社会の急速な変化が職業選択に及ぼす影響を理解できるようにするとともに、新たな発想に基づいて財やサービスを創造する必要が予想される中で、社会に必要な起業によって、革新的な技術などが市場に持ち込まれ経済成長が促進されるとともに、新たな雇用を創出するなど経済的に大きな役割を果たしている企業もあることを理解できるようにすることが考えられる。
なお、実際に職業を選択する前には、特別活動などにおいてインターンシップに参加することなどによって働くことの意義について「具体的な体験を伴う学習」を通して考察することが考えられる。その際、「この科目においては、教科目標の実現を見通した上で、キャリア教育の充実の観点から、特別活動などと連携し、自立した主体として社会に参画する力を育む中核的機能を担うことが求められることに留意すること」が必要であり、企業についての情報を十分に集めるなどの事前の準備が大切であること、また、インターンシップへの参加によってどのように職業観が変わったかなどについて振り返る活動が必要であることに留意する必要がある。
 職業選択...に関わる具体的な主題とは、例えば、人工知能の進化によって、労働市場にはどのような影響があるか、技術革新や産業構造の変化によって、働き手に求められる能力はどのように変わるか、といった、具体的な問いを設け主題を追究したり解決したりするための題材となるものである。
その際、例えば、働くことには賃金を得るだけではなく、自己の能力を発揮し、社会に参加するなどの意義があること、職業を選択するには各自の興味や適性、能力を知る必要があるが、これらは経験を積み、学習を深めることにより変化すること、などの観点から多面的・多角的に考察、構想し、表現できるようにすることが考えられる。

 
 文体そのものが、人に読んで貰うことを前提としていない、一方的に周知させたいことのみを、だらだらと羅列する。「指導要領」の「指導」が戦前の「戦争指導大綱」や「戦争指導要領」で使用した「指導」の範疇を一歩も出ていない。この言葉を唾棄しなかったことも、敗戦に伴う痛恨の極みとしなければならない。

  「労働基本権」の代わりに多用される言葉が「職業選択」であることが分かる。あたかも選択が自由を保障しているかのような気分にさせる狙いが潜んでいる。選択が「自由」の範疇であれば、死刑囚にも無限の自由があることになる。なぜならば、刑執行前の何時舌を噛み切って死のうが、絶食して死のうが無限の選択肢があることになるからだ。
 労働者はここでは、「グローバル化や人工知能の進化による労働市場や技術革新や産業構造の変化」に応じて「選択」迫られる受け身の存在になる。それをあたかも自然現象であるかのように、「公正で自由な経済活動を通して市場が効率的な資源配分を実現できる自由な市場経済」を説明し理解させようとしている。


追記 対談の中で「レンマ」という用語が使われている。言葉だけではとらえきれない多次元的で複雑な世界を、直感的に把握する「とる」「受け取る」というギリシャ哲学や仏教の方法をさす。
 分析的手法で読み込めば、そのたびに欠落するものがある。迎合する者や忖度する者がやれば尚更のことだ。要素に分解して分析したものから全体を再生させることは出来ない。分解して再構成したものからは、技術しか出てこない。戦後、膨大な教育技術がこれ見よがしに提唱されたが、その殆どは消えた。それは分析によって、人間と教育の全体性を見失ったからである。   

王様に貰ったミカン

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