行動を伴わない「民主主義」の虚妄

如何なる民主主義かそれが問題だ
 投票はそれだけで民主主義だろうか。表現・行動を伴わない投票は民主主義ではあり得ない。ある国を旅行していた日本人大学生が、広場の芝生で円くなって学生達が熱く議論するのに出会った。何を議論しているのかと問えば「民主主義についてだ、君はどう考えるのか」と言う。「勿論賛成だ」と答えると笑い声が漏れた。「我々が論じているのは、如何なる民主主義かだ」と切りかえされて日本人学生は言葉が出なかった。それを見た相手の学生たちも呆れ絶句した。
 広場で議論していたのは、軍事政権下の高校生である。1970年代の光景。  日本の若者にとって民主主義は、いつでも交換可能な用語。だから18歳選挙権は「コスパ感覚」で売り買いされているのだ。

  議論や行動を伴わない投票を民主主義と言えない。教室で政治を語ることすら二の足を踏む状況下の、選択の余地を奪われた投票は、大政翼賛装置でしか無い。
 少なくとも選択肢を討議し修正する機会が、政治的主権者にゆだれねばならない。候補者はその過程で自ずから現れてくる、それが自立と自律。与野党馴れ合いの候補が出現
市民の意向を混乱させる京都市議選のように。
 生徒部が生徒会選挙に介入することに根拠があるか。人事課が労組選挙を牛耳る職場に民主主義はない。如何なる善意に基づこうと上から与えられた候補は根付かない。教師が黒板の前で主権者教育や模擬投票の意義を絶叫しても、虚しさが残る。
 高校生は未来の主権者では無い。既に現在の正当な主権者である。

桜を見る会に現れた千年前の供御人

千年経っても現れる現れる亡霊
 供御人(くごにん)という号は、中世日本で朝廷に山海の食料や手工芸品などを貢納した集団に与えられた。供御人は、貢納物の原料採取・作業・交易のため関銭・津料などの交通税を免除され諸国往来御免であった。国役免除や給免田付与もあり、供御人の号を求めて人は群がった
 天皇に繋がっていることが特権の根拠であり、特権は書き付けや腰につける幡で証明した。堂々たる偽ものも作られたという。

 「桜を見る会」の招待状や首相らとの写真を示して、公然と詐欺を働き摘発を逃れる者も出た。繫がりを誇示してメディア露出を図る者、票や地位を買う者も続出。彼らは先ず「桜を見る会」主催者への忠誠を出版物や番組で示す。芸や知識教養に実体がないから、虚偽虚飾をまとうしかない。が、その御利益は直ちにあらわれるから「会」の規模は膨張した。

 彼らは現代の「供御人」である。実体のない政策の政権を持ち上げることが「貢納」に当たる。招待状や写真は、幡にあたる。諸税の免除は、諸公文書の紛失によって実現している。
 民主主義は特権の廃止を伴う。特権の復活は朝廷や英雄が闊歩する時代への逆行=反動である。道理でこの国では世界の潮流に反して,命の価値が軽くなる、個人の尊厳が消える。
 支配者を気取る者が、憲法や国会の決定より自らの言葉を上位に置き、快感に酔いしれるのは現代の「供御人」に取り巻かれているからである。
記  公立学校すら自校の特権維持拡大に目の色を変え、平等化による権利を目指そうとはしない。指定校推薦枠拡大やSSH指定、進学重点校指定に何時までも鎬を削るのである。入試の廃止は,日程にも上がらない。大学解体を叫んだ大学闘争でさえ、結局東大確認書では自校の特権を確認したに過ぎない。
  この国に階級意識が定着しないことと、亡霊のように立ち上がった千年前の供御人が跋扈することは同根なのだ。自校の特権にこだわる者は、主権者としての労働者階級と共に歩む資格は無い。
   それ故、日本の労働時間(短さ)が2018年OECD38カ国のデータでも日本は22位となり、フィンランドが賃金低下なしに「週4日、6時間労働」を目指しているときに、日経平均株価に意識をさらわれ無限の労働強化に向かうのである。
 記者クラブまでがあらゆるジャーナリストの権利ではなく、特定新聞社とTV局の特権になり、懇意なメンバーだけが首相との会食に参加出来る構造は、供御人と朝廷の関係を彷彿とさせる。同時に我々に深い絶望感をもたらす。

最後の患者教師・天野秋一先生が亡くなった

分教室跡の記念碑
最後の生徒たちが自作した
 96歳だった。生涯を全生分教室教育に捧げたと言っても過言では無い。絶滅隔離下のハンセン病療養所「患者教師」の全貌を知る最後の人でもあった。
 僕が天野先生を知ったのは2003年。全生分教室校舎が残っていることを知ってからである。手掛かりを求めて園内を右往左往しているとき、全生園患者自治会事務局で、「患者教師の一人が、ここにいますよ」と紹介されてからである。話を聞き園内に残る資料文献を読むうちに、過去を話したくない人、「なぜ私の話を聞かないか」と怒る人等もあって一時立ち往生した。
 温厚さと記憶の鮮明さから、天野先生とハンセン病図書館の山下道輔さんと草津栗生楽泉園の谺雄二さんを繰り返し訪ねることになった。

 天野先生が分教室(東久留米町立小中学校全生分教室で教え始めたのは1961年である。先生は学校出の経歴と誠実さをかわれて、患者自治会の書記を引き受けていた。患者教師生活は自治会より多忙で夜も遅くなった。楽しみは、放課後の職員室で時を忘れて読書できることだった。

  先生の記憶に鮮やかに残った取り組みがある。
 一つは、教師が教科書から指定した範囲を、生徒が授業する。言わば生徒による模擬授業。生徒たちはライバル意識をむき出しにして丹念に調べ、少年舎の上級生や大人たちにも助けを求め念入りに準備をする。聞く側は先生役の仲間を立ち往生させようと、良く聞き良く発言質問した。質問にこたえられなければ、次回までの宿題になる。失敗しても人数が少ないから再挑戦の機会はすぐにやって来る。どの学期も何れかの教科がこうしたやり方に取り組んだ。
・・・
 分教室年間行事予定を広げると、毎年秋には定期学習発表会がもたれて、野上先生たちが手探りで始めた学芸会が受け継がれている。準備には二ヶ月以上が費やされ、授業と関連するものは授業中に作業することもあったが、大部分は放課後が使われた。夏休みもその為に登校したという。高揚してくると休み時間も、作りかけの作品が置かれた廊下で作業に熱中したという。学年ごとの取り組み、学年を超えたもの様々だったという。誰もが幾つもの作品に取り組んだ。
 1963年度の発表会では、国語は習字、社会は煙草の消費量の研究、理科が模型飛行機の翼の研究、美術では共同制作・洗濯場の立体模型・金色堂、家庭科で食事の栄養価が披露されている。年度によってはダンスや劇も上演された。ここでも、子ども全員に何度も出番があった。発表会は始め図書館で開催していたが、公会堂に会場を移すほどの賑わいになっている。そうなれば尚一層子どもたちは張り切った。
 人数の少ないことが全国の療養所内分校派遣教師に共通する嘆きの種だったが、全生分教室ではその欠点を逆手にとって活かしている。これもまた自治の賜物だろう。これが2つ目。
  もう一つは、生徒一人ひとりの学習歴や将来の進路や興味などを詳しく記録したノートを教師たちが共有、個別指導に役立てたことである。一人8頁ほどになったという、教育上のカルテである(このカルテを求めて方々を探したが,行方不明)。
 1960年には全国の療養所が分校を閉鎖し、子どもたちが全生園に集中し始める。・・・分教室は学力差のある子どもたちを、一挙に抱えることになるのだが、この天野先生が始めたカルテが多いに役にたち、多様な子どもたちに対応することが出来たのである。「社会」で「落ちこぼれ」が問題化するのは1970年代はじめだが、・・・分教室はその適切な対策をすでに持っていた。

・・・ 
 天野先生の記憶に、極度に「引込み思案」の子どもが分教室にいた数年がある。見違えるように明るく積極的な子どもに成長、病気全快と共に元の学校に戻った。一体どんな教育をしたのだ、それはどこの学校かと、教師たちは知りたがり、見学をしたいと頻りに親に尋ねたという。
 感嘆すべきは、教科指導だけではなかった。教師全国会議で話題になった家庭学習が、全生園少年少女舎では三木療父らの努力あって続いていた。毎日上級生が下級生の学習を手伝い遊ぶ姿があって、子どもの世界を形成してこの「引込み思案」の少年の成長を促した。
 
 「年長の者が年少の者を世話している・・・その気風は、やがて日本の都会ではおとろえてゆくが、療養所の中には残っていた。このことが、児童作品を見るとわかる。 友達のきずな、姉妹・兄弟のきずなは、外の社会よりも、ここではいきいきとしている。 高度成長が一九五五年にはじまったとして、それから五十年が現代である。この半世紀の日本文化とはちがう特色を、ハンセン病療養所の児童文化はもっている。自分の心の中に記憶の残像を保ちつつ、その上に自分の感覚をつみあげてゆくという特色である。 日本の都会の児童が、「早く、早く」という母親の言葉にせきたてられて、こども自身の納得をとびこえて、情報を積み重ねてゆく流儀とはちがう」    鶴見俊輔 『ハンセン病文学全集10巻児童作品』  皓星社 
            
 子どもを親兄弟から引き裂き、大人からは子どもを生み育てる喜びを奪った非人間的・反教育的環境を、療養所の大人たちは自力で克服してきたのである。貧しいが豊かな教育環境がある。1956年から1959年にかけて、愛生園、愛楽園、青松園などでは、経済的理由から相次いで補助教師を廃止している。全生園自治会の教育に対する配慮がしのばれる。

  1953年までは全生園に専門の教育者はいなかった。しかしその教育は、子どもたちの学力を全国の療養所内分校の例外としたのである。

 一人では手に負えない問題や途方に暮れるような課題でも、仲間の力を借りればやれるようになる。それは、やがて力を借りず自力でやれるようになり学力として定着する。この事実に注目した「再近接領域」と呼ぶ概念があって、フィンランドやキューバの成功を理論づけている。 これが素朴な形で分教室にあったのではないか。
  科学、文芸、体育、芸能が教科の枠を超えて、自治活動としても位置づけられ、複式授業の特性を生かして、学年を超えた教えあい・協力の関係を組織している。実験や工作では、それに試行錯誤の楽しみが加わる。武先生だけではなく、氷上先生や天野先生も時を忘れて放課後を、子どもと一緒に楽しんでいる。
 生徒による模擬授業でも、一人では理解出来ないことがあれば年長者や先生たちに助力を求めて歩く。年長者も教師も歩けるところにいる、重要なことだ。調べ学んだことをまとめてまた聞きに行き、教室で授業する。友達の質問で立ち往生すれば、「次までに調べます」と宿題になり、尚一層熱が入る。仲間に鍛えられて豊かになるだけではなく、学ぶことと学んだことを共有できる。又仲間の思考の筋道を知れば、事柄に対する新しい物の見方が出来る。助ける方も助けられている。人間観も人間関係も豊かになる。互いに、仲間の頭脳を借りると言ってもよい。こうした学び方は、個別指導でもあるから多様な個性や能力の子どもに対応できる。教育環境もいつの間にか子ども中心に整っていく。
 肝腎なのは、こうした学習形態に専門的教育を受けた教師もいらないし、高度の理論体系も方法も要しない点である。ただ自由な自治だけが要請される。
 このような素朴で豊かな教育は、大量生産や画一性や効率とは相入れず、「社会」(ハンセン病関係者は、療養所外を「社会」と呼ぶ。絶対隔離時代の名残である)では退けられ消滅しつつあった。      『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』から引用加筆した

 この優れた取り組みの中心にあったのが天野先生である。
 教委は一片の感謝状をよこしたのみ。教員組合や学会にも顕彰の気配すら無かった。業績を検証した新聞や放送も無い。
 新聞社の主催する教育賞の殆どは,現役教師の自薦でを条件にしている。自分を称賛する文書を平気で書ける者に碌なものはいない。
 だから『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊 は先生に捧げるつもりで書いた。
 先生の墓は、清瀬のハンセン病資料館脇にある。

記 「・・・生命あるものは、そのなかに不断に成長する自己形成する力をもっている。(この力を信じないものははじめから教育に手を出すべきではない。)しかし、その成長を遂げるためには、成長に必要な栄養が外から補給されねばならない。幼い生命は、自らそれを確保する能力がない。だから、これを助けるものが要る。ただし、助ける仕事は、何を与えるかだけでなく、与えたものがじゅうぶんにかみ砕かれ、そしゃく吸収されて血肉になることに心をくばらねばならない。 学校教育の核心である授業は、単に必要な栄養物を与えるだけでなく、それがそしゃくされ、吸収同化されて血となり肉となる作業がじゅうぶんに保障される場なのである。 教育を私は、基本的には、人間の子の人間として成長するのを助ける仕事だと考えている。だから、生命にたいする畏敬を欠けば、教育は成立しない」  林竹二のこの言葉は、天野先生にこそ相応しい。

戦争の根源 Ⅱ 富の偏在が戦争を生む

 承前 
軍隊内にも物資の偏在は及んだ

 国家予算を遙かに凌駕する富が、特権層の手元に死蔵されるのは、何時の時代であれ確かな事実である。それが敗戦間際に接収貴金属として現れた。
 仮にそれが戦争以前に貧しい庶民の手にあれば、直ちに現金化され、購買に向かい国民経済を潤したはず。それは開戦回避の力強い条件となる。
 どんなに安い賃金で良質な製品を大量に造っても、買う者が貧しければ売れない。売れない商品の山は、国内市場を諦め海外を目指す。日本が売り込む海外市場は、既に列強の支配下にあった。武力の衝突は不可避。こうして植民地を巡る戦争が始まる。そこに動員され殺され飢え死にする兵士は,自分たちが生産した製品すら買えない労働者であった。
 戦争は富の偏在が仕掛ける。社内留保が増え続ける(資本金10億円以上の大企業の内部留保は1918年度末で449兆1420億円に達し過去最高を更新)一方、実質賃金は減り続けている。購買力が伴うわけがない。大衆課税すればなおさら。この現実に恐怖すべきなのだ。
 
 僕は当blog『日清戦争に96万円投資して2000万円を得た天皇財閥』にこう書いた。
 近代日本最初の侵略戦争・日清戦争前後のあからさまな証言が、西園寺公望の日記にある。 軍備増強には増税は不可欠。山県内閣は、国会に増税案を何度も上程した、がそのたびに否決。山県は、増税反対派議員の買収を考えた。議員歳費を五倍に引き上げ、更に有力議員には直接買収資金与えて増税案を成立さた。驚くべきは、その買収資金が天皇から出たことだ。当時の額で98万円。当時1000円で都心に一軒家が買えた。今の額で100億円以上に相当する。・・・ 増税で軍備増強したお陰で日清戦争に勝ち、清国からせしめた賠償金の特別会計は、1902年度末で総額3億6,451万円。うち二千万円を天皇が受け取った。98万円投資して、あっという間に20倍強に増やしている、開戦前(1893年)の国家予算が、8,458万円である。こんなに旨い投資噺はない。・・・ 
 「三菱財閥がかつて東条大将に一千万円を寄付したということが新聞に出ている。これをみると、「戦争中軍閥と財閥は結託していた」というのはやはり事実のようだ。それにしてもこんな気の遠くなるような大金を贈った三菱も三菱だが、それを右から左に受けとった東条も東条だ。表では「尽忠報国」だの「悠久の大義」だの「聖戦の完遂」だなどと立派なことを言っておきながら、裏にまわって袖の下とはあきれてものも言えない。・・・天皇にもそれ相応の寄進があったのではないかと疑いたくもなる。いずれにしろ、おれたちが前線で命を的に戦っていた最中に、上の者がこんなふらちな真似をしていたのかと思うと、ほんとに腹がたつ。と同時に、これまでそういう連中をえらい指導者としててんから信じきっていた自分がなんともやりきれない。」渡辺清「敗戦日記」1945.11.10
 戦艦武蔵も大和も三菱製、零戦の開発も三菱である。「軍財抱き合い」と言う言葉があった。財界と軍部の協力体制を示す傑作な言葉である。儲かるから三菱は東条に献金したのである。巨大な大量殺戮装置は、株の配当を通して天皇を潤した。生き神を信じた兵士たちが、木の根やミミズしか口に出来ず死に絶えている時に。 
 こうして天皇家は、三井・三菱・住友・安田を凌ぐ大財閥となった。

 敗戦時の皇室財産総額は、GHQ発表で約16億円(美術品、宝石類を含まない)、1946年3月の財産税納付時の財産調査によれば約37億円と評価された。いずれも海外に分散隠匿された資産は考慮されていない。(この年の靴磨き10銭)

 天皇制の欠陥は、天皇個人の「誠実」な仕草や皇族の笑顔によって相殺される類いのものでは無い。天皇制の構造が本質的に戦争と親和的なのである。

戦争の根源   Ⅰ 占領軍御用の「強盗」

哲学者のギャング体験
 「人に話したこともめったにないけれどもね。ぼくは終戦直後に京都から疎開した。・・・四国の多度津・・・そこに二ヶ月くらいいたかなあ。そのあいだ、国鉄の四国鉄道局の嘱託として・・・占領軍の鉄道輸送部だが、の通訳をしていた。・・・確か十月の中旬か下旬だったと思うが、マッカーサー司令部が命令を出して、全国の銀行を捜査したことがあった。金貨銀貨を銀行が隠してもっているだろうという疑いで、急に摘発をやったんだな。全国いっせいに指令が来てね。いわば銀行襲撃ですよ、ギャングみたいなもんだな。 ・・・隊長がぱくを呼んで、おまえ戦争中何をしとったと聞くから、ぱくはファシズム反対の雑誌に関係していて、そのため二年間ほどほうり込まれていたと言ったら、よし、そんならいっしょに行こうといって、握手を求めて手を差し出した。・・・兵隊たち十数人といっしょにトラックに乗って町の銀行を急襲Lにいった。何という銀行だったかな、多度津の第何とかいう銀行ですよ。兵隊たちは自動小銃をかまえてまさに銀行ギャングですな。お客さんは震えているし、支店長出てこいといって、ぼくがいちいち隊長の通訳なんだ。そして、支店長室に案内させてね、支店長、震えとったなあ。・・・そして金貨銀貨を隠しているはずだ、出せ、とこういうわけですよ。事実案内されて土蔵みたいなところへいくとそこにありましたよ、白い布袋につつんだ銀貨が。で、勘定してレシートを書いて支店長にわたして引きあげました。そんな事件があったですよ」 
 これは哲学者の真下真一が、鶴見俊輔との対談で語った体験である。

 地方銀行の支店でさえこうした事件が有った。大都市や東京の銀行ではもっと大きな事件=銀行強盗があったと考えられる。
 米軍占領直後の1945年9月30日日曜夜8時頃、日銀本店を兵士を乗せた米軍装甲車が取り巻いた。着剣の兵士を従えたGHQ経済科学局クレーマー大佐であった。名目は銀行観察で日銀首脳部も集合を命じられ別館に待機した。彼は、日銀内部の各室を巡視する筈だったが、肝腎の鍵をもつ看守に帰宅を命じてしまった。月曜からの監察は厳重だったが、クレーマーの機嫌は悪く焦った表情で、時々怒鳴り声が聞こえた。だが地下の大金庫を見て、彼の機嫌は直り笑みさえ浮かべたらしい。金庫が空けられた後は、役員も遠ざけられ詳細な調査がおこなわれ、午後四時半頃までかかった。その有様は、当時の日銀総裁渋沢敬三が書き残している。
 そこには日銀本体の他に、「資金統合銀行」と名付けられた組織の大金庫があった。敗戦直前の1945年5月設立されている。日銀の別動部隊と言われ,多額の資金がここから軍需関係に注ぎ込まれたと推測されている。推測されていると書くのは、実態は闇に包まれ現在に至っても解明されていないからである。

 クレーマー大佐の怪しげな査察以降、不思議な事件が相次ぐ。先ず、GHQで接収貴金属管理をしていたマレー大佐事件。米本土で軍事裁判にかけられ、10年の判決を受けたが詳細は日本には知らされなかった。容疑は日本から10万カラットとも言われる大量のダイヤを持ち出したことにあった。マレー大佐も日銀を調べたが、終えて帰国した時,ダイヤが発見されたからだった。彼はそれ以前にも休暇で帰国した際、妻に着服したダイヤを渡したり現金に換えていたことが分かっていた。名前が知られている事件ではヤング大佐事件がある。日本航空スチュワーデスが関与した事件もある。また、退蔵貴金属調査に関わった重要人物の不審死事件もあった。真下真一が関わった地方銀行支店に於ける「強盗」事件は、報道も記録も無い。

 一体日本にはどれだけの貴金属があり、どれだけ持ち出されたのか。「接収貴金属等の処理に関する法律」は1959年。
   第一条には「この法律は、連合国占領軍に接収された貴金属等で、その後連合国占領軍から政府に引き渡されたもの等について、公平適正かつ迅速に、返還その他の処理をすることを目的とする」と書いてある。

 この法が成立した時点で、日銀地下の接収貴金属はダイヤに換算して16万1283カラットと発表された。
 貴金属が集められたのは1944年夏から年末。集めた軍需省は「ダイヤモンドは目標の9倍、白金は2倍」と発表したが、肝腎の目標額は伏せられたまま。松本清張は買い取りに使った資金から逆算して、138万4615カラットにはなると推理している。
 1949年国会で、マッカート資金と言われる金が鉄道会館や造船業界に流れてはいないかという質問が出ている。マッカートは、GHQ経済科学局長でありクレーマーやヤングの上司であった。
 このマッカート資金=M資金と噂されるものには,フィリピンやインド関係の「財宝」までが含まれるようになる
 「M資金」がどのように実在し虚偽であるかは、今尚不明。だがそれ故に、この情報に児玉誉士夫や小佐野賢治らが群がり、全日空や富士製鉄までが巨大で荒唐無稽な詐欺に引っ掛かってしまう。 
 続く

他人の痛みはいくらでも我慢出来る

女の子の背中には人形が背負われている
彼女は自分の痛みも知らない
 偏頭痛が持病になったのは20代。七転八倒の苦しみを誰も理解しない。痛みの最中、自殺を考えた。医者も平然と「痛みで死んだ人はいません」と言う始末。確かに震えながら吐き数時間寝れば、酒が飲めるほど快活になりはする。 偏頭痛の治療法が劇的に進化したのは、京大病院の頭痛専門医が偏頭痛を発症してからだ。彼は言った「偏頭痛の痛みがどんなに激しく苦しいものか、やっと分かった」と。 酷い話である。「他人の痛みはいくらでも我慢出来る」のだ。 

 妹が嚥下出来なくなった。飲み込ませようとして、介助者が「はいゴックン」と言う度に、妹は「ゴックン」と言うだけ。口の中に食べ物が溢れた。喉を通らなければ栄養は、点滴やチューブに頼るしか無い。どんどん衰弱する。
 「入院が必要です、それでも数週間の命でしょう」と医者は言う。しかし妹は、点滴やチューブによる延命を頑なに拒んだ。
 嚥下には、喉の筋肉と神経が関わっている筈。夜分医者を訪ね、尋ねた。喉にある神経の塊の機能を、喋ることで促すことが出来るのでは無いかと。入院は取りやめになった。
 次の日妹に「飲み込むためには喉の筋肉を動かす必要がある。喋ることと飲み込むことにはきっと繫がりがある。何でもいいから喋れ」と促した。彼女は「何でもいいの」と、とりとめなく喋り始めた。 昼が近付き、水を飲ませると飲み込んだ。本人も周りも驚いた。流動食も飲み込んだ。
 嚥下について、専門家たちが毎日患者を目にしていながら、「あーん、ゴックンしましょう」で済ますことに恐怖を覚えた。
 妹はそれから一年生きた。造血機能も働かなくなり輸血なしでは生きられないところまで生きた。輸血を拒否して妹は眠るように亡くなった。

 職場や地域での自身の自治活動から逃げていた者が、分掌によって生徒たちの「自治」指導をすることに強い違和感がある。嚥下機能を無くした年寄りに「はい、あーんして、ゴックン」と言うような心許なさを覚える。
 「米軍がイラン革命防衛隊スレイマニ司令官を殺害。イランは報復宣言」の報道を受けての、世界と日本のTwitterのトレンド差に注目が集まった。 TwitterのトレンドとはTwitter内で使われた用語の頻度のことである。つまりTwitterを利用する人々の関心は何かを知ることが出来る。 
  2020 年 1 月 05 日 の各国twitterトレンド1位 アメリカ・カナダ・イギリスでは Iran 
 ドイツ・フランス・ロシアではWWⅢ(第三次世界大戦) 
 日本ではBABA嵐 (人気タレントによる「ババ抜き」遊びの中継)   日本のTwitterトレンドには29位まで、中東関係の用語は一つもない。
 ラクビーで日本中が酔い、口にした「ワンチーム」の実態はこの程度のものである。現実逃避の幼児的自己愛に過ぎず、底が浅い。それに相応しくこの国の首相は、この重要な期間をゴルフとグルメ三昧で過ごし、恥じていない。

 自治活動を学校で「指導」しているのは日本だけ。その成果が、世界的危機への徹底した無関心として現れている。

 嚥下出来ない老人に「あーん・・・」を繰り返し、点滴とチューブに依存させるのを指導や医療とは言わない。だが依存させる側には、虚妄の満足感が残る。虚妄の満足経験は累積して「指導」の体系を作る。
 文科省が指導要領で自治活動の指導を義務づけているのは、その効果が無いばかりか逆効果である事を熟知しているからだ。

 停退学などの処分をする権限を持つ部署が自治指導を兼ねるのを、なぜおかしいと思わないまま今日まで来たのか。憲兵が労組や政党を導くような不気味さを感じる。
 戦前の内務省的発想から、学校は未だに解放されていないからだ。思想や素行の善導意識が蔓延る。

君は疲れている

病に倒れて知る 鉢の中にも宇宙
 深い豊かさが、君の文章から消えた。単調で鋭さがない。それには誰より君自身が気が滅入っているに違いない。
  
 ずっと昔のことだが、僕にも誰より早く登校し誰より遅く下校して、仕事を抱え込んだ時期がある。学校内外の仕事が次から次に押し寄せても、軽々とこなしているつもりだった。

   ある日、職員会議で発言しようと立ち上がった瞬間、雲に乗ったように上下左右の感覚を失い倒れ込んでしまった。そのまま入院。病院に三ヶ月、自宅静養の三ヶ月を過ごした。入院初期は、一日毎に500g 体重が減った。突発性難聴という診断だった。後遺症で今も右耳の聴覚は無く耳鳴りが残る。
 この入院を含め三度の半年近い病休を経験した。二度目は殆ど自宅で寝たままの日々を過ごした。病床から見えるのはベランダの鉢に生えた雑草と空だけ。最後の入院は大学で講義中、意識を失った時。半身不随になり、完治に半年を要した。
 思えば、体が休むことを命じたのだ。休む回路を壊した僕を病で寝込ませて、肉体と精神の回復を待つしか無句なった。休まないことは美徳だと思い込んでいた。ストライキの時だけは説明して休講したが、
授業を休んだことは無い。 授業すれば精神も肉体も甦るような錯覚に酔ったのだ。弱い自分を見ない、不遜。

 自宅の病床から見えたのは、来る日も来る日もベランダの鉢と空だけ。快適さ便利さは消えたが、気が付くと草の伸びる速さに体が同期し始めている。鉢と雑草の世界もまた宇宙である、不思議な感覚だった。学校を辞めるのも悪くないと思う頃、僕はゆるゆる回復し始めた。
 病気になることで、命の瀬戸際を逃れる。自らを救う仕組み・能力が人間のどこかにある。学級に危機が迫ったとき,生徒たちの中から人間関係=集団を修復・再建する動きが自然に生まれるように。
 その仕組みが、回りへの気兼ねや組織に対する義務感で壊れたり弱くなっているとき、過労で倒れてしまうのだ。この仕組みの脆弱さは、三度も入院した事で分かる。

 何人もの友人を過労で失った。友人の家族の悲しみに暮れた表情が僕の中にたまり続ける。 

 君は疲れている。
 僕は鋭く豊かな君の語りを再び聞きたい。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...