栄誉から遠く離れて道楽する藤原成通と狩野亨吉  

蹴鞠にはいかなる賞賛も栄達も伴わなかった
 平安時代の公家藤原成通は、二千日間一日も休まず鞠を蹴り続けた。病気をしても寝ながら蹴り、大雨の日は大極殿で蹴るほどの鞠好きであった。父親のお供で清水寺に籠もったときは、清水の舞台の欄干を、鞠を蹴りながら渡ったと伝えられている。普段でも人の三倍は高く蹴あげた。ある日、鞠はつむじ風で吹き上げたように高く舞上がって、それっきり落ちて来なかったという。
 成通はまた、よほど身が軽く、忍者のように塀や垣根の側面を走ったり、屋根の上に寝て転げ落ちても、地面にすっくと立つという技もみせたらしい。鳥羽院から「おまえの早技はなんの役にも立つまい」とたしなめられると、「ええ、さして役に立つことではございませんが、急ぎ宮中に参内するときなど、ぱっと車に飛び乗れて便利です」と、悪びれもせず答えたという。
 この話を伝える『成通卿口伝日記』は 平安後期の僧聖賢の著。『続群書類従』に納められている。

 終いには大納言になったが、栄達が蹴鞠とは関係ないことは後鳥羽院の言葉でもわかる。一銭の得にも出世にもならぬことに、夢中になるのが「遊び」である。蜘蛛合戦からビー玉まで「遊び」は多様である。日が暮れるのも腹が減るのも、忘れて遊ぶ。山登りや探検も金と時間を浪費するだけの遊びであり、謂わば暇人の道楽であった。それがいつの間にか「飲む、打つ、買う」に収束してゆく。ただ好きで夢中になるだけでは、満足できなくなる。金銭や賞賛に結びつかないことは、淘汰されてしまう。

 慶応元年生まれの狩野亨吉は、相当に
本を読んだ。専攻は数学や物理そして哲学と歴史であった。蔵書はいつの間にか10万冊に達したが、自分では書かない。
 誘われて五高教頭を務めた後、僅か34歳で一高校長となり、続いて懇願され京都帝大文科大学の初代学長になるが、神経衰弱を口実に僅か一年で退官。いずれの場合も、短期間の間に後々まで伝えられる学風を残している。僅か15年の学校勤め以後、定職にはつかなかった。1923年東京大塚坂下町の長屋に「書画鑑定並びに著述業」の看板を掲げ、古典と春画の収集研究に打ち込む。一貫して眼前の栄達を、ことごとく退けた。
 それでも知人たちは、狩野を東北帝大総長に押したが固辞。皇太子の教育掛に推されても、「自分は危険思想をもっているので、王者の師傅に適しない」と断る始末。それもそのはず、一高在任中の1899年安藤昌益の『自然真営道』を神田の古本やで見出し、安藤昌益をアナーキーな社会思想家ととらえていた。惜しいことに焼けて残っていない。 
 正木ひろしは「狩野先生こそ本当の国宝的人物だ」と評した。そう、ディオゲネスと並べていい人物である。国家から意識的に離れて自由に、金銭にも賞賛にも結びつかないことに打ち込んだのである。
 僕は狩野亨吉と、蝶を優しく見つめるゴリラは似ていると思う。餌に釣られず、一銭にもならぬことに執着して風格がある。「
王者の師傅に適しない」と 教育掛を辞したが、狩野亨吉の生き方そのものが、既に王者の風格を持っている。
  
 半世紀前まで、昼休みの校庭は遊ぶ子どもでごった返して衝突する程だった。みんなが遊びの王者であった。教師の監視から自由な遊びの王者たちの存在が、いじめを抑制していた。だいぶ前から、昼休みの校庭は閑散としている。小学生までが、様々な全国大会優勝を目指して鎬を削り、遊びを忘れているからだ。

 全日本学童軟式野球が始まり、松坂大輔が「優勝を目指して最後まであきらめずに頑張ってください」と言ったと新聞は伝えている。残忍だと思う。「優勝」などに釣られず、自他に手加減する優しさが、少なくとも小中学生や高校生には必要だと思う。
 全ての野球少年が甲子園を経てプロになれる筈はない。自在に興味を転じて適性を動的に保つ必要もある。音楽や文芸や科学に才能を持つことに目覚める子もある。諦めて頑張らない経験が必要なのだ。新聞社や指導者は、みんなが頑張れば、儲かるし手柄になるだろう。体を壊し足り過労死するほどの頑張り方を、回避する習慣を知らねばならない。高校生だってそうだ。このことと、絶えることのないヘイトスピーチは、直に関係している。自分も相手も自在に変化する快感を経験すれば、取るに足りない優越性に浸ることはない。

 ローマ帝国の
剣闘士は、大観衆の歓声の中で殺し合いで勝たなければ生き延びられなかった。平安時代の蹴鞠は、大観衆の歓声も栄誉もなかったが、お陰で平安時代の日本に、死刑はなかった。
 

愛はすべて不器用である。器用な愛などある筈がない

中曽根康弘がTVにでると、スリッパでひっぱたいている
 「愛はすべて不器用である。器用な愛などある筈がない。
 子供を愛しても、親を愛しても、どんな人を愛しても、地球を愛しても、そこから素晴らしい結果が生まれることはあり得ない。
 夢想の中では愛は器用である。どんなに大掛りな期待も、必ず成就されて、裏切られることはない。
 その夢想は屡々崩れずに現実の中へ流れ込むが、その時愛は突然ぎこちないものになる。それを承知で人を愛し物を愛するのは愚かである。
 悧巧に生きていたければ、自分に厳しく愛することを禁じなければならない。
それでもなお、夢想の中で横柄に育った愛は、退くことを知らずに愛する。ひたすら不器用に」串田孫一『 不器用な愛 』
 串田孫一は、若い頃から山を愛し思索した。1965年から1994年までFMラジオ番組「音楽の絵本」←クリック で自作の随想や詩を読んだ。ビバルディ協奏曲第4番「冬」の第二楽章の暖かな調べに乗せた穏やかな語りを、僕は高校生の頃から30年間聴いてきた。どんなに刺々しい怒りを溜めた日も、彼の語りを聴けば心穏やかになった。だから彼が、「中曽根康弘がテレビにでると、スリッパで顔をひっぱたいている」と語った時には、驚きもしたが力づけられ妙にホッとした。串田孫一は串田万蔵(三菱銀行会長)の子でもあるからだ。

  ある年の5月5日にはこう語っている。

    端午の節句の人形どもは / どれもこれも勇ましい連中だから / そこに鍾馗が髭ぼうぼうの顔で並んでいても別段不似合いではない / しかしその剣は外した方がいい /  疫病神を追い払うのにそれはいらない / 君は優しい筈である
  「中曽根康弘がテレビにでると、スリッパで顔をひっぱたいている」と語ることと、「愛はすべて不器用である」と語ることは、「その剣は外した方がいい /  疫病神を追い払うのにそれはいらない / 君は優しい筈である」を媒介にして、見事に調和している。

  目連の母親青提女の逸話【目連は釈迦の弟子、神通第一と言われた。ある日、亡くなった実母である青提女が天上界に生まれ変わっているかを確認したところ、青提女は餓鬼界に堕し地獄のような責め苦に遭っていた。驚いて供物を捧げたところ供物は炎を上げて燃え尽きた。目連は釈迦に相談する。釈迦は亡者救済の秘法を目連に伝授し、目連は教えに従って法を施すとたちまちのうちに母親は地獄から浮かび上がり、歓喜の舞を踊りながら昇天したとことになっている。青提女は、多くが飢えている中、幼い目連だけに食事を与えた、それが業となった、その報いにより餓鬼道に落ちたわけである。こういう話もある。青提女は目連のため、一心不乱に働き、量目をごまかす悪徳商法や阿漕な貸金業に手を染めていたと】は、いずれも、後に中国仏教で加えられたものだが、一途で不器用な愛が何をもたらすかを示唆している。

 愛は計画出来ない。恋愛を、出会い頭の事故に例えたり、天使のいたずらのせいにするのも、それがなぜ起こったか合理的な説明が出来ないからである。好きになったばかりに、賞や成功の機会を逃してしまうことはざらにある。祖父母や子どもの病状が急変して、慌てて駆けつけ大儲け出来なくなったり全財産を失ったり、資格がフイになったりもする。好きになったばかりに、相手を殺す羽目に陥ったりもする。一途に思い詰め、周りも相手も自分自身さえ見えなくなるからだ。都合のいい時だけに、愛を設定することはできない。
  「五族協和」や「八紘一宇」も、当時の日本なりの思い上がった東洋支配への「愛」であった。いや明治維新の「四民平等」さえ傲慢な差別社会への「愛」でしかなかった。植民地主義のお先棒を担いだ教会も「愛」を掲げずにはおれなかった。まさに「夢想の中では愛は器用である。どんなに大掛りな期待も、必ず成就されて、裏切られることはない」

 愛は計画できないと同時に、計画出来るものは愛ではなく夢想に過ぎない。だから「夢想は屡々崩れずに現実の中へ流れ込むが、その時愛は突然ぎこちないものになる」。
「五族協和」や「八紘一宇」が、現実の政治過程に転化するや否や「愛」は支配や搾取の暴力性をむき出しにする。満州開拓の「理想」は中国農民の土地略奪であり、抵抗する者への弾圧殺戮であった。それでも「五族協和」や「八紘一宇」を信じる者は、ただの愚か者である。「夢想の中で横柄に育った愛は、退くことを知らず」一億総玉砕を叫んで死んだ。

 明治150年を迎えて、「あれは、見事に計画された器用な、東洋に対する愛であり、夢想ではなかったのだ」とTVも新聞も言い始めている。耳を眼を覆いたくなる。
  串田孫一は「断想集」で

「人類は結局愚かであった。もう結論は出てしまった。人類は悧巧ぶることは出来たが、そのために悧巧になれなかった」と書いている。

    2020年五輪と戦争出来る国家体制目指して、「夢想」は「どんなに大掛りな期待も、必ず成就されて、裏切られることはない」よう計画され、都合の悪い事実は次々に隠蔽されている。

   学校もこの計画に、優等生として組み込まれて身動きもならない。学校はもともと「愛」や「器用」な計画性に染まりやすい世界である。夢想が横柄に育ってしまうのである。学校や若者を救うのは、「愛」や「器用」な計画性からの逸脱である。不良精神を忘れるな。

先駆者の孤立と苦難、団結・連帯とは何か

水浸しの作業場での洗濯も患者作業であった。死者も出た。

  野間宏は、ハンセン病療養所を日本の最も暗い闇」と呼んだ。その闇を、楽園と呼び賞賛した医者が林 文雄である。
 「療養所は美しいものとなって来て居る。如何にして病院はかくも天国の如くなったか。その一原因は、伝染の危険なき程度のものも解放しなかった事である。
 療養所には作業がある。その健康に応じて彼等の作業は必要欠くべからざるもの二四種を越えて居る。例へば、大工がある。そして彼等の手で病棟、消毒室、何でも建設せられる。付添が要る。
 彼等は重症者に日夜侍して大小便の世話から、食事の世話から親身も及ばぬ看護をする。註 そして千五十人の収容者中半数は相当重症でも何らか作業をし、人のため為す所あらんとして居る。これは一方彼等の疾病療法の一たり得るのである。そして、そのなかには中枢として、印度、ハワイあたりでは、当然解放すべき軽症者が働いて居るのである。当院の如きは作業が多くてする人が少ない。
 この軽症者が重症者のために犠牲的に働くと云ふことが今の療養所をして監禁所に非ずして楽園とした・・・。
 全治者を退院せしめよの声は古くから何回も叫ばれた言葉である。しかしもしこの軽症者を退院せしめる時は、この作業のために健康者を雇ひ入れねばならぬ。今日の日本、癩救済の貧弱な予算でどうしてそれを雇ひ得よう。患者は一日三銭、多くて十銭で全力を注いで働くのである。しかも同病相憐れむ心から、癩患者自身が癩救済の第一線に働くてふ使命感からの愛の働きである。・・・
 痛みつつも猶鋤をになふ作業、病友のために己を捧げて働く愛、それが療養所を潤し、實に掘りを埋め、トタン塀を除き、楽園を作らしめたのである」 1930年 林文雄 『醫海時報』
                                             
 アンパン一つが3銭の時代である。重い炭俵を担いで氷雪に凍てつく断崖を血の跡を残しながら登るのも、大きな石を運び道普請するのも患者作業だった。神経が麻痺した患者は、例えば釘を踏み抜いても疲労が限度を越えても気付くことなく労働に精を出した。こうして過酷な強制労働は、患者の命を縮めた。
 それがいかに過酷な労働であったかを語る挿話がある。


 1960年、不自由舎(不自由な患者の病舎)での患者付添(不自由舎付添は、一室7人の病人を住込み一人で面倒を見た。昼も夜もなく、週休も有休も祭日もなく、一年を通して働いたのである)が、患者労働から職員看護に切り替わる。
 だが、労働の担い手が病人から健康な職員になったにも拘わらず、あまりの激務に過労とノイローゼで倒れる看護婦が続出し、週刊誌沙汰になった。「重症者に日夜侍して大小便の世話」をするのが如何に過酷か、この時職員は初めて知るのである。患者による患者付添の過労は美しき愛の働き、職員看護のそれは過酷。ここに横たわる人間観・世界観を、吉川四郎の『牢獄か楽園か』という題名が捉えている。林は肉親に囲まれて「コンナコーフクナモノハナシ」と書いて最期を迎えている。光田や林が、強制的に隔離して肉親から切り離された患者たちの淋しくやるせない最期を、彼らはどう考えていたのだろうか。
   患者労働を楽園のように描いた林論文は、患者の隔離に反対し「治療解放」を主張する青木大勇 長崎皮膚科病院長の論文への反論として掲載されている。論争の背景には、療養所の役割が「隔離・監禁」から「治療・研究」へ変化する国際的潮流に目を背け、絶対隔離に拘る日本癩学会の姿勢がある。

   林文雄は北大を出て、将来の教授を嘱望されたが、全生病院に勤務、光田健輔の全幅の信頼を得る。研究者としての業績もあり、診療、文化、生活でも患者との日常的接触に努力。昭和初期は、林のような青年クリスチャン職員たちが増え、患者との間に隔てを置かぬヒューマニスト的生き方は、患者の心をのびやかに明るくするものであったと『倶会一処』は書いているが、彼らの動きは数年で幻のように消えた。

  全患協(ハンセン病者の全国組織)が、予防法廃止と隔離政策による損失補償等を要求する運動方針を採択したのは1963年。方針に基づいて「らい予防法改正要望書」を提出、予防課長は協力を約束したが、事態は捗るどころか療養所の統合再編等の構想が出るなどまさしく逆向きであって、入所者の厚生官僚に対する不信は募るばかりであった。

  1985年全生園介護職員5名が「危険手当」(患者との接触度(感染の危険率)による職員給与の調整給  様々な困難に手当があるのは当然であって、それが虚偽の(感染の危険率)に基づいていることが差別であり不当なのである)への異議を申し立て、法務局に手当額を供託している。24%もの特権的手当を不当として、職員の側から予防法に問題提起した英断の歴史的意義は大きい。だが支援も広がらず5人は退職に追い込まれたと聞く。1982年全生園自治会は東村山市に対患者危険手当撤廃要求を出している。5人の提起はこれを受けてのことであったのか、先覚者の孤立・苦難である。

   僕は、高校生がこういう人々を尊敬する社会を作りたいと考えてを授業を組み立てていた。「地の塩」に気づくのは難しいとつくづく思う。

 隔離政策に決定的突破口が開かれるのは、それから10年後の1994年。らい予防法廃止の意向を元医務局長が公表、「大谷見解」と呼ばれる。入所者の処遇を維持・継続しながら、予防法は全面廃止し関係機関の反省を求めるという至極常識的なものである。しかしこれを画期的と言わざるを得ない歴史的無念がある。
 大谷藤郎は療養所課長在任中、課長室に患者を招き入れ一緒にお茶を飲み、予防法遵守の不必要性を示唆した行動的人権感覚の持ち主であった。それでも予防法廃止には踏み切れないでいた。入所者の処遇改善予算要求には、予防法の隔離条項を強調するのが便利だった。強制隔離と処遇改善は表裏一体という論理である。官僚側にも、入所者の側にもそれはあった。  しかし、表裏一体論は、官庁内交渉技術でしかない。内輪の手法を、主権者の人権よりも優先させて恥じない風潮は官庁街を闊歩して止むことを知らない。「大谷見解」は、彼の退職後である。退職後の私的見解という点に、この「業界」のおぞましさがある。

   翌1996年、国会は予防法を廃止。「癩予防に関する件」制定からは89年もの歳月を浪費したのである。だが、断種・新生児・胎児殺し・・・いずれも自然現象ではない、れっきとした犯罪である。誰一人起訴さえされていない。医師免許を返上していない。そればかりではない。 予防法が廃止されてなお、危険手当は支給され、行政の責任も明記されず、癩業界は自らの恩恵は死守した。
                                                   
 あろうことか、自己批判を口にしたその舌の根も乾かぬうちに、ハンセン病学会(らい学会改め)会長高屋豪瑩弘前大学教授は「「らい予防法」の廃止は間違いである」「患者の人間性とか社会生活なんて関係ない」との見解を『東奥日報』(1996年8月31日夕刊)に投書。追求する毎日新聞記者に「もしあなたがハンセン病患者なら、私はすぐ逃げるよ」と発言、学会会長職だけを辞した。この時、彼は「偏見の解消は学会ではなく患者が努力すべき問題だ」とも言って恥じなかった。


追記 1941年洗濯場事件。穴の開いた長靴で作業していた相撲取りのような青年が、敗血症で死んだ。主任の山井道太は、穴の開いていない長靴を要求したが、全生園当局は拒否。洗濯場は、抗議のサボタージュに入る。園当局は山井と妻を草津の「重檻房」に送り、殺してしまった。全国の反抗的患者を懲らしめるために、光田健輔が作らせたのが「重檻房」である。冬は零下20度にもなる過酷な環境と劣悪な待遇のため、収監された93名中22名が死亡した。

救癩とは、患者を多く殺すこだ。・・・ぼく(沖縄愛楽園早田園長)は任期中に百何名か殺した、だから金鵄勲章もんだ

治療はなくても解剖は行われた、瓦礫の中での「報国」
  「救癩」の父にして絶滅隔離の発案者、光田健輔は自らの仕事を戦時体制にも関係付けている。
 「軍人は国のために屍を満州の野に晒すを潔しとし、進んで戦場に赴いた。同じく癩患者も村の浄化のために、・・・進んで療養所に行かなくてはならない」 藤楓協会編 『光田健輔と日本のらい予防事業』

 進んでハンセン病療養所に入って何をするのか。
   沖縄戦下のハンセン病療養所沖縄愛楽園では。三百名弱が死亡した。

 「早田園長が、ぼくは救ライに大きな功績を残した、・・・救ライということはライを撲滅させることだから、患者を1人でも多く殺すことは救ライにつながっているんだと。・・・ぼくは任期中に百何名か殺したと。だからこれが戦後、金鵄勲章もんだといってですね、いばるんですよ」 『沖縄県史10巻沖縄戦記録 2』 p965
 「冗談だったのかも知れないが、きつく響いた」と証言者は、続けている。 しかし早田は那覇大空襲では 
「敵の爆弾で負傷し、日本の薬で治療するとは何事だ。利敵行為ではないか」
と発言しているのだ、これが医者の冗談と言えるか。
 
生産力・兵力として力を発揮することだけが価値あることで、健康に欠ける者は社会に負担を強い、害を及ぼすものとされたのである。
 従って療養所医師の役目は治療を施すのではなく、「患者を1人でも多く殺すこと」であった。患者からみれば、一日も早く死ぬことが、「報国」であったのだ。
 「(1939年)5月・・・少年寮に入れられました。少女寮や学園もありました。国の定めた学校ではありませんが、生徒は男女40人ぐらいいて、教室は三つ。どの教室も複式学級で、3人の先生も皆同じ病気(ハンセン病)の人でした。子供たちにもいろいろイヤなことがありました。特に私がイヤだったのは、「文化人」や僧侶たちの講演でした。講演会があると、子供たちは会場の最前列に坐らされ、逃げ出すこともできません。話はきまって「お前たち患者は戦争の役に立たないどころか、じゃまな人間だ。非国民だ。日の丸の汚点なんだ」というのでした。私は子供心にも、ずいぶん悔しく思いました。
 翌年春、私も内緒で迎えにきた姉の手引きで全生園を脱出しました。「あそこは人間の住む所じゃねえ」と言う父のいいつけでした」谺雄二 
谺さんは、1999年原告として東京地裁に「らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟」を提訴した詩人である。
 たかが療養所職員の異動や昇進昇格の祝いにまで、子どもを並ばせ欠席は許さかった。座った子供の目の高さに、壇上のエライ人や職員のスリッバが見えたという。常に一段低い場所に置かれたのである。
 エライ人は、「お前達は役立たない」と言うたびに、自分が美しき皇国の股肱である気分に浸れた。根拠のない優越感に浸るために他を見下げ毀損する。これは、人間関係から国家関係に至るまで対等平等の視点を持てない近現代日本のアジアに対する一貫した姿勢でもある。  

  「映画会の時など、礼拝堂の一段高い席にいた職員の子どもたちから、落花生のカラや、キャラメルの空き箱を投げ付けられたり「かったいは、汚い、臭い」と蔑まれたこともあります。一段高い職員席には、分厚い木の欄干があって、患者は立ち入り禁止だったので、私も他の子どもも一言も言い返せず、くやし涙をこぼしました」 冬敏之(作家)
             
 戦時下、子どもたちは、少年少女団に組織された。下着にも不自由するというのに、国防色のお仕着せ・靴下・靴だけは救癩団体が支給。引換に皇族や名士が来る度に並び、頭を下げ、万歳する。木枯らしでも炎天下でも同じ団服の下は、ボロボロの下着。神経を傷めて立つのも大変な足で、長時間整列。皇居遥拝は敗戦まで毎月、その上病人で子どもだというのに教練が月に二度あった。沖縄戦下の愛楽園の子どもたちは愛楽突撃隊に組織され、日本精神徹底と戦意高揚の掛け声で、防空壕堀と修理、開拓や草刈りなど重労働に狩りだされた。
 院長や職員は、団服に身を整えた、規律正しい少年少女団員たちを、よく管理され平和な全生病院のシンボルとして、ショーウインドウの人形として外来者に誇らしげに見せつけたが、それらの少年少女たちが「病気を持つ子供」だということを本当に考えたことがあっただろうか。                    
 行事から逃げる知恵や術のない従順な少年たちは、体を痛めて青年になる前に死んだという。おまけに、式や行事の「主催」だけは少年団というイカサマもあった。「主催」とは、お国のため療養所のため自らすすんで叱られ蔑まれ、病気を悪化させ、一刻も早く死んで国土浄化のお役に立つことに他ならない。
 療養所では、子どもの親権者は園長であった。その園長の官舎一棟建設に、療養所全体の家屋建築予算の一割もが使われた。親権者である園長は、「聖者」と讃えられ豪勢な住宅の温かく柔らかな布団に包まれた。「日の丸の汚点」と罵られ病状悪化に苦しむ子どもは重く湿った煎餅布団で寂しく死を迎える。この非対称的現実こそ、若き林医師賞賛の「楽園」の構図であった。
 

   僕は「アスリート ファースト」を聴くたびに、胸くそが悪くなる。ここには、人間には役立つ者と役立たない者があり、役立たない者の価値は認めないという思想がある。
 ハンセン病者を差別し続けた100年を思い出す。なぜ、人間優先と言えないのだ。メダルを量産する競技選手を優先して、「生産性」のない国民を揶揄する言葉が堂々と新聞やTVで流されている。戦時下と同じ雰囲気が満ちている。あろうことか国会議員や閣僚が「生産性」のない社会的弱者や少数者に向かって「いつ死ぬのか」「早く死んでいただきたい」などと言う。重大な憲法違反である。
 憲法99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務」を負う知らないとでも言うか。
 オリンピック招致は、一体どこで決めたのだ。都民も国民も知らぬ間に、「招致委員会」が勝手に招致したのである。
誰が招致委員会を選んだのだ。勝手に出かけて、勝手に招致しておいて、「おもてなし」と浮かれながら他人の財布に手を突っ込むのは掏摸である。犯罪である。招致委員の個人財産でオリンピックはやれ。福祉予算や医療費に手を付けるな。弱者を苦しめて何がスポーツの祭典だ。何が子どもたちの「夢」だ。招致関係者は、子どもを山車にしていつの間にか自分たちの夢=事務所の建て替えまでやっている。


追記 冒頭の写真は、爆撃後の沖縄愛楽園での解剖。真ん中で執刀しているのが早田。患者は死んで初めて「報国」出来たことになる。しかし解剖がどれだけ行われても、治療には生かされていない。

ハンセン病療養所には、ハンセン病のカルテが無かった

                                               『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊
「ライは不治ではない」小笠原登博士
 第15回日本らい学会(1941年)での小笠原学説(一貫してハンセン病患者の隔離政策を反対し続けた京大医学部助教授)をめぐる論争も、真理の発見という学会に課せられた任務から著しく逸脱していた。患者のために、誠実に検証し対話討議するのではなく自派の勝ち負けにこだわる様は、「らい業界」と呼ぶに相応しいものであった。 
 論争がこうであれば、研究はどうだったのか。1955年国立ハンセン病療養所菊池恵楓園に収容され、セファランチンを投与されたため、症状が悪化、眉毛は抜け落ち、目も見えなくなった退所者に対するハンセン病検証会議聞き取りがある。一部を引用する。

 「セファランチンは結核の薬として戦後使われた。若くて軽症の人に投薬され、それによって症状を悪くし、全盲になったり、手足を悪くしたり、亡くなった人さえいる。この薬については学会に報告されたが、失敗例はすべて捨てられ、少し症状が良くなった例や病状に変化が見られないものだけ残された。そのため、学会論文上、犠牲者報告はない。その後、セファランチンはいつの間にか使われなくなり、薬害が明らかにされていない」和泉眞蔵検証会議委員        
 

   ハンセン病療養所に長い間、ハンセン病のカルテが無かったわけである。カルテが要らなかったのではなく、都合の悪いデータや記録として有っては困るものでもあったという驚天動地の構図が見える。病気の研究治療に注がれるべき情熱・時間・費用が、愚かに私的に浪費されたのである。

 救癩の父光田健輔の、医学者としての見識の程を示す遣り取りの記録がある。  小笠原登博士との対談である。
 
  (光田)  「あなたは、ライは全治すると言っているが、それは間違いだ。全治は不可能です」
  (小笠原) 「では一体先生のおっしゃる全治とは、いかなる規範であるのか、まずそれを承りたい」
  (光田) 「それは、患者の躰の中にライ菌が全くなくなり、かつ再発しないことである」
  (小笠原)「それはおかしい。およそ伝染病にして・・・全治した後の体内に菌が完全になくなることはない。いったんライに罹ったら、全治していても、終身患者扱いをすることは誤りである。先生のいわれるような意味で全治を考えたのでは、世の中に全治する病気は一つもないことになりましょう。それとも、何か全治するものが、先生のいわゆる全治する病気がありますか」
  (光田) 「チブスがそうです」
  (小笠原)「チブスは全治しても、なお患者の躰の中にチブス菌のあることは、内外の文献にも明らかですが」
  (光田) 「イヤ、私はライの方は専門に研究したけれども、チブスの方は私の専門外なので、あまり研究していないから 詳しいことは知りません


 光田は、絶対隔離政策の発案者であり、戦前でさえ違法であった患者の強制堕胎・断種に手を染めたにもかかわらず、国は彼に文化勲章を贈っている。患者の怒りが如何ほどのであったかは、光田の銅像が患者の手で打ち壊されたことでわかる。


 原理主義の恐ろしさは、その幼児性の無知にある。「それは間違いだ」と胸を張っておいて、動かぬ証拠を突きつけられると「専門外なので」と居直り、相手を「間違い」と決めつけたことは決して取り消さない。こうした無知に基づく素早い断定を、頼もしさと見誤ることがある。近代科学の専門家を自認する者が好んで陥った隘路である。自分と同類同質の無知を振りかざす者の過ちに気付くのは難しく、親しみと力強ささえ感じてしまう。無知で傲慢な断定ほどカリスマ性を帯びる所以である。理性的な熟考を、無能な優柔不断と見なす傾向と表裏一体となって機能する。

 もちろん学校も、データー改竄や証拠隠滅を日常としている。僕自身の小学校での成績改竄は、二つの証拠を揃えることが出来た。だが既に担任の消息が不明。もう一件は、かつて僕が担任した生徒の中学三年時の成績改竄。これも証拠がある、これは当人が直接謝罪させた。
 こうした小さな改竄や、隔離された世界での改竄・証拠隠滅を、自分たちの問題として捉え追求してこなかったことが、今政権の巨大な「嘘」の山を築いている。蟻の一穴という言葉がある、どんな小さな問題にも直ちに反応するのでなければならない領域である。これは、人権の問題だと謂わば条件反射的に反応するのでなければならない。いま若者は、そのエネルギーと時間を「競争」だけに向けさせられている。教師には既に時間もエネルギーも尽きかけている。
 かつてハンセン病療養所で、理不尽の限りが罷り通っていたとき、それを憲法違反だと告発出来なかった。
我々はその報いに、今になって直面している。

追記 小笠原博士は、いつも学生時代の詰め襟を繕って着ていた。京大医学部からの報酬は、すべてハンセン病患者のために使ったからである。病棟での人手が足りなければ、実家である愛知県円周寺から人を送って貰っていたという。持ち家もなく、大学教授であった兄の家に居候していた。

虐殺の現場を保存し、学ぶ者の主体性を喚起すること

ナチによる虐殺を伝えるためオラドゥール村はそのまま残された
 フランスの夏休みは7月始めから9月第一週までの2ヶ月、しかもフランスの学校には「部活」はない。宿題もない。両親のバカンスも5週間と長いが、職種によっていつどれだけとれるか一様ではない。だから、子どもと一緒に休みを取れない家族のために、様々な組織がプログラムを用意する。例えば小学校では、Centres de Loisirsが、運営される。余暇センター。開設時間は、およそ午前8時30分から午後6時30分。給食があり、バスに乗って森へピクニックに出かけたり、気球に乗ったり、プールで遊んだり。自治体もボランティア団体も、多様な活動を展開する。
  中には、ドイツやポーランドの強制収容時で一週間を過ごすブランもある。日本の広島修学旅行や沖縄修学旅行とは大いに趣が異なっている。人数で様々な作業や奉仕を通して、ひとり一人が歴史と対話することに重点をおく。以下に挙げる感想は、パリの隣、ブローニュ・ビヤンクール市のプログラムで、中学生と高校生が、アウシェビッツへ出かけた時のものである。『イル・サンジェルマンの散歩道』から引用。

レア 17歳
「記憶する義務を持続し、人は最悪のことをなし得るのだということを決して忘れないことが絶対に必要」
マチルド 16歳
「これが繰り返されるのを避けるために、僕たちは批判精神を発揮し、憎悪と暴力を見過ごしにしないようにしなければならない」
セリア 15歳
「私たちは現実を目の前にして、嫌悪、悲しみ、恐れを強く感じた。その意味で、この旅は私たちに信じがたいほどの恩恵を与えてくれた」
クリストフ 15歳
「昔の強制収容者の証言は、僕をより強くした」
イネス 14歳
「僕たちは、過去の過ちを学び、どの様な状況に置かれてもそれに距離をとり、記憶しなければならない」

 以下は、日本の中高生の平和作文コンテストでそれぞれ自治体や官庁の賞を取ったもの。

福島県大玉村 中3 W君
  実際、折り鶴を見ているともう戦争のような争い事は、なくなってほしいという思いが強くなりました。今、当たり前に生活できることに感謝しなければならないと思う気持ちになりました。・・・争いをなくすために、一人一人が人を思いやり国と国が仲良く平和になる日が来ればいいのにと願うばかりです。そして、被爆体験者の方々の経験を無駄にしないように・・・。
綾部市 中3  I君
 ・・・戦争、私は同じ人間として戦争は絶対におこしたくない。もう二度と悲しい戦いはしてほしくない。そして、世界平和を願いたい。同じ地球に生きている一人の人間として・・・。
大津市 中2  Y君
  ・・・たった一人では小さすぎる力でも,大勢の人間が一人一人努力すれば大きな力になるのだから,無駄な事など何もない。だから私はどんな些細な事でも人のために,人の役に立つ事をしていきたい。そしていつかは,人として本当に正しい道を選べる人間になりたい。

 フランスの少年たちが、自分たちの具体的な課題を見据えているのに対して、日本の少年たちは「願い」や「~したい」のレベルに止まっている。自分の国の平和まで、人間を超えた力や他者に依存しているのだ。日本の平和教育が、少年ひとり一人の決意や主体的選択に支えられていないからである。
 
  いくつか例を挙げて考えたい。


 1944年6月10日土曜日の朝、フランス中部のオラドゥー
ル・シュル・グラヌ村にナチス親衛隊が突然現れ、「武器や弾薬を調査する」と村民に通告。男性は数カ所の納屋に、女性と子どもたちは教会に集められた。親衛隊は先ず、足を狙って一斉に射撃、逃げ出せないように。次いで納屋と教会に火が放たれ、逃げ出す者には機関銃が向けられた。村の建物328戸が全焼。人口の約99%である642人が死亡、生き残ったのは僅か26人。この事件に関与した親衛隊関係者のうち裁判を受けたものは、すべて釈放されている。攻撃命令を下した指揮官ハインツ・ラマーディングは戦後企業家として成功、一度も起訴されることなく1971年に死去した。
  ド・ゴールは、ナチス占領の実態を後世に伝えるため、オラドゥール村を再建せず遺構として残すことを決定。1999年には、オラドゥール村における虐殺を伝えるCentre de la mémoireが開設された。
 
  ヒットラーは政権奪取と同時にギロチン15台を作らせ、その1台がベルリン西郊プレッツェンゼー処刑場に置かれた。ナチスが政権下の12年間、この部屋で2500人の市民の命が奪われた。床には流れた血の色が今もとれずに残っている。1945年4月、ソビエト軍がベルリンに入り市街戦の銃声が響くなかでも処刑はまだ続いていた。処刑場はプレッツェンゼー記念館として残されている。
 プレッツェンゼー処刑場については、小田実の言葉が残っている。

 「一番胸に響いてくるのは、ここが普通のドイツ市民が殺されたところだということです。外国の放送を聴いただけで、あるいはヒットラーの悪口を言っただけで、ちょっと冗談をささやいただけで、もちろん抵抗すれば、抵抗した市民たちが、すべてがここに連れて来られて殺された。
・・・一番残忍な方法で殺すために、肉屋の牛肉を掛ける吊り輪のようなものに引っ掛けて殺すとか、あるいはギロチンとか、まだ血の跡が床に染み付いて残っているぐらいですね、一日に大変な数を殺す、そういうことを繰り返していくわけです、私がここで一番恐るべき光景の一つとみたのは、もちろんギロチンとか、その写真とか、あるいは吊り輪の実物とかですが、それともう一つはただの紙切れなんです、紙切れなんですね、何の紙切れかと言いますと死刑された人に対する請求書なんですね、請求書、死刑手数料です、それに家族に対して送りつけるんです、死刑された人たちの請求書、いろんな費用がかかったら払えというのです、家族が拒否すると今度はもちろん彼らがここに連れてこられてまた殺される、それで泣く泣く彼らは払ったのに違いないのです、このは非常に恐るべき紙切れと私はここで見たのです・・・そのような残酷な独裁政治のなかで人々は生きていたのです、そして処刑されますと、判決書に死に処す、ドイツ国民の名においておまえを死に処すという判決文も掲示され、死刑にした場合には個人の名前を書いたものをいろいろな所に掲示する・・・そういうことなんです。
 私はここに来ると、非常に粛然とした気持ちにもちろんなるのですけれど、ただその中で、すごい独裁政治の中で闘って死んだ人がいるということは・・・私にとって・・・非常に・・・
感動的なんです・・・私は、まあ、とにかくここに時々来て、自分の精神が衰えたときとか・・・心が弱くなったときは・・・ここに来るんです、ここに来ます・・・というのは、これを見てますと、この光景を見てますとですね、わたしは逆に生きる勇気が出てくるのですね・・・こうやって・・・すごい独裁政治の中で・・・・それでも闘って死んだ人がいる・・・闘って死んだ人・・・・自由と解放のために闘って死んだ人たちのことを考えますと、かえって、私は勇気が出てくるのです・・・
 その意味で私はここによく来たのです・・・・いろんな残虐の跡をたどりながらここに来て、そしてこの残虐の極致である場所に来たときに・・・私はかえってこのような残忍な光景の中で・・・しかし闘って死んだ人がいた、十分に生きた人がいた、ということを私は知るのです・・・そして、私はたいへん勇気を得た気持ちになるのです・・・私はそこで、自分の一番大切な場所として、ベルリン滞在のあいだは時々ここに来ました」   「わが心の旅、小田実、ベルリン:生と死の堆積」(1993年、NHK制作)小田実自身の語り。
 「・・・」が多いのは、そのたびに小田実の胸が詰まったからである。小田実もここで「自分の精神が衰えたときとか・・・心が弱くなったときは・・・ここに来るんです、・・・自由と解放のために闘って死んだ人たちのことを考えますと、かえって、私は勇気が出てくるのです・・・」と言っている。

 ベルリンの路上や建物の壁には、抵抗運動でナチスに虐殺された人々を忘れないための金属板が埋め込まれている。ベルリンだけではない、欧州の至る所に。パリでは、抵抗運動で銃殺された少年の名が、地下鉄の駅名となっている。←クリック

  例えば、小林多喜二が拷問され殺された取調室が残されて公開させることが考えられるだろうか。旧築地署に近い地下鉄駅やバス停の名称に多喜二が付けられる可能性があるか。関東大震災の朝鮮人虐殺の現場に、ひとり一人の名前や虐殺の日時を書いた金属板を貼り付ける運動が可能か。
 広島長崎の原爆や、沖縄の戦火や、無差別爆撃で命を落とした人々の名前や死亡に至った経緯を明記したプレートを町中に埋め込もう。
 戦争の歴史は、固有名詞とともに記憶される必要がある。固有名詞を通して初めて過去の惨劇は、ひとり一人の中に深い対話として蘇るのである。


 体罰死の現場である学校施設にも、過労死の現場である職場にも、個人名と経緯を記した金属板を埋め込まねばならない。「忘れない」でと願うのではなく、忘れさせない決意を形にすることが必要なのだ。

朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする

生きた現実的人間として思索せよ

人間とは区別された哲学者となることを欲するな、・・・思想家として思索するな、生きた現実的人間として思索せよ、・・・実存において思索せよ」          フォイエルバッハ
 人は、特に教員は、与えられた任務を期待通りにこなせば、「有能」と他人から評価されると思い込んでいる。教務の時は教務らしく、生指の時は生指らしく「存在」することを期待される。さらに進学校では進学校らしく、底辺校では底辺校の教師らしく振る舞うことも期待されると思い込む、。勤務校と分掌が替われば、言うことだけでなく振る舞いや顔付きまで変わる。自分の「思い込み」に自分自身が支配され、実存として存在し得なくなっている。「人間とは区別された」教師に成ることを欲し、期待される。自分の生き様を、他人の期待に委ねてしまうのである。戦時下の教師は、天皇制軍国主義の期待に過剰に応えて、若者を殺し合いに導いている。
 「生き様を、他人の期待に委ね」ることは、教師本人も面と向かって問い詰められれば、「やむを得ぬ世過ぎの手段」だと顔を歪めて、一瞬「実存」に立ち返る。だが同時に、「他にどうしろと言うのだ」という居直りも強める。生活指導や進路指導では、「やむを得ぬ世過ぎの手段」としての生き方がアドバイスの一つとしてではなく、選択の余地のない「真理」として押しつけるようになる。


 青少年個人の主体的判断はこうして奪われてゆくのである。世界の中で日本の若者が、あらゆる国際的意識調査で見せる「判断停止」の際だった多さと不満のレベルの高さは作られたものだと考えねばならない。
 不満のレベルが高ければ、「判断停止」層は減少して明確な意思を表明する筈である。なぜそうならないのか。それは、不満の認識が個人レベルに止まり、集団や階級の課題とはならないからである。他人に先駆け自分は頑張ってしまう。他人と自分が、生きた現実的人間の要求において同一の仲間であることを認めたくないのだ。逃げている、後ろ向きでは、対象の実態を捉えることは出来ない。追いかけてくる足音だけが不安を煽る。だから組合の組織率は低下する一方。

  オルテガは「存在する」という言葉は静的なものであるから、人間の実存を言い表わすにはまったく不適当と考えた。われわれは人間が「存在している」と言うことはできない。人間はあれこれの者になる途上にあるとしか言えないのだと彼は主張する。実存主義者たちの見解、人間の実存の核心は可能性にあるという見解の意味を見事に言い表わしている。実存とはあらゆる瞬間にそれ白身を超越する存在なのでる。特定の分掌に人間そのものを支配させてはならない。

 実存としての教師が、実存である青少年を「指導」するとはどういうことなのか。「あらゆる瞬間にそれ白身を超越する存在」としての青少年を、「あらゆる瞬間にそれ白身を超越する存在」としての教師が、如何にしてそれを行いうるのか。あたかも光速度で走りながら、光を捉えるような難行である筈だ。たかが会議で決められる筋合いではない。
  だとすれば、指導は対話によるしかない。対話とは、立場を捨てなければ始まらない。立場を捨てて対話することは如何にして可能か。オルテガもフォイエルバッハも答えてはいない。

  マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で 

「共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。・・・朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく」と未来を描いた。   
  「人間とは区別された哲学者となることを欲するな、・・・思想家として思索するな」とは、「各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨き・・・朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく」「生きた現実的人間」として思考し行為する。
 それはいかなる条件の下になし得るのか。

  資本論第3部第48章はこう書く。

「この必然性の国の向こう岸で、人間の能力の発展それ自体を自己目的とする真の自由の国が始まる。しかし、それは必然性の国を基礎として、その上でのみ開花することができる。その根本条件は労働日の短縮である」
  その実現性は、ポール・ラファルグの説を待つまでもなかった。にも拘わらずラファルグの説から150年を経てなお、この国では過労死克服の手掛かりもつかめない有様だ。
 
 既に、知的好奇心と労働時間は逆比例の関係にあることも証明されている。知的好奇心(新しいことに挑むのか好きだという人の割合)が40%前後とOECD諸国で最も低いのは、最も労働時間の長い日本と韓国。知的好奇心が90%前後と最も高いのは、北欧諸国と仏・伊・独でいずれも労働時間の短さはトップクラスである。
  好奇心が低いから、メダルに惹かれるのである。順位にこだわるのは、好奇心が枯れているためだ。好奇心とは、枠からはみ出すことである。排他的な活動領域から自由に逸脱して、任意の諸部門で自分を磨かずにおれないのが好奇心である。そこでは「ご褒美」などいらない。むしろ自由な好奇心の妨げでしかないからだ。
 
追記 少年の時期から、今日は海、明日は山、明後日は球技、明明後日は天文、さらに文芸に、絵画に、演劇にと日を変えるごとに、時が過ぎるごとに、好奇心を自由に走らせる日々を送らねばならないと思う。でなければ、我々は過労死から脱出できない。
 山形の山間にある小さな私立高校では、一学年が30人に満たないのに多くのクラブがあり、一人が三つのクラブに入っているのも珍しくないという。
 僕がこの僻地の高校で気に入っていることは、二つある。一つは教員が30年前の生徒を固有名詞で覚えていること。もう一つは下級生が上級生を呼ぶとき、~君と呼ぶことだ。「必然性の国の向こう岸で、人間の能力の発展それ自体を自己目的とする真の自由の国」を彷彿させるではないか。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...