言葉が本当の言葉となるには不可欠の条件がある。それは経験である

森有正はオルガンの名手としても知られていた
   以下はパリに在住しバリに客死した哲学者森有正の1966年の論考である。彼が『世界』長期連載の「パリ便り」は、高校生の時から欠かさず読んだ。この論考は未だに新しい。些か長い。

   「・・・フランスの教育で要点となっているところは、知識の組織的集積と発想機構の整備の二つにしぼることができると思う。知識の集積というと、言うまでもなく記憶が主要な役割を果たす。そしてそれは実に徹底している。たとえば中等教育の歴史科をとってみると、先史時代から現代まで、第六学級から卒業までの七年間に実に膨大な量を注入する。教科書の量から言うと大版の
にギッシリつまった本文二千頁を優にこす分量を生徒は憶えなければならない。ただその知識が、内容を省略せずに、各時代の主要問題、政治、外交、経済、社会、文化を中心に、いわゆる合理的に整理配列され、しかも非常に頻繁なコントロールや宿題、さらに作文によって生徒自身の表現能力との関連において記憶されるようになっている。これは他のすべての課目においても同様で、数学や自然科学にまで作文が課される。こうして実に膨大な量の知識が組織的に蓄積される。日本の中高校の教科書と比べて見ると量だけでもまさに一対五くらいである。ことにその記憶そのものが合理的に統制され、たえずコントロールされている有様を見ると、記憶が単に受動的な機能ではなく、発想機構と密接に結びついた積極的機能であることが前提とされているのがわかる。
 発想機構の整備はフランス語の授業で集約的に代表される。これは小学校入学から中等教育の終了、すなわちバカロレアの試験まで、全教科の中心的位置に置かれて組織的に遂行される。・・・
 
 学年が進むと文法的分析に論理的文体静的分析が加わる。そして作文は、いつも、全体を総括的にコントロールするものとして、中心的位置をしめている。英語、独詩、イタリア語、スペイン語等の外国語、それからことにラテン語、ギリシア語等の古典語が、フランス語との緊密な関連の下に教授され、ラテン語、ギリシア語、フランス語はたいていの場合、同じ教師が教えている。僕はそういう教師を何人か知っているが、かれらの自国語に対する熱意とその知識には頭が下るばかりである。高学年になると、フランス文学史の著名な作家の研究がはじまるが、その方法は、一貫して同じで、徹底的分析と作文による綜合が訓練される。
 歴史、地理、公民科なども、作文が最後のしめくくりになるので、同時にフランス語の教科としての役割をも果たしているのである。そうして文科系では最高学年に哲学が課され、思考の訓練が行なわれる。自己の思索を実践発表する発想機構は最後まで開発習練を受ける。
・・・
 つめ込み主義は誤りである。しかし自分が本当に思索しうるためには膨大な、正しく吸収された知識(ということは、何時でも正確に言葉や文章にして発表しうる知識)を持つことが必要であることは同様に明らかである。・・・
 フランス人がよく使う表現を用いて言うと、自分の中のパッシフな面とアクティフとの均衡の問題である。たくさんのことを覚えても、記憶しても、それが自分の中にそのまま停止しているのがパッシフであり、それを自由に使いこなして表現することができるようになった時、パッシフがアクティフに移ったという・・・
 しかし問題は・・・自分の経験と表現との間にも、やや意味はちがうが、同じような問題が現われてくる。これは経験と表現と双方に欠陥がある場合が多いが、パッシフとアクティフとの間に不均衡が生じ、書けなくなったり、逆におしゃべりになったりする。書けなくなるのはまだ始末がよいが、おしゃべりになったのはまことに手がつけられないものである。
 ・・・要は、正当な経験の場に踏み込むことである。それ以外には、どこにも道がない。ほかの道が一切ないのならば、そこに踏み込むより仕方がないであろう。それでなければすべては単なるおしゃべりになってしまうのである。それならは、その道はどこにあるのか。本当は各人が皆自分の道を知っているのである。知りすぎるくらいに知っているのである。ただ実行しないのである。
 正しい、そして深い経験から出て来る言葉は、形容するのがむつかしい一種の重みをもっている。それは、あるものを表現することばの本当の説明は事柄そのものの中に在るからである。こういう表現の正しい使用は決して容易ではないし、また即席に生れてくるものでもない。ものについてしか思索しない、というアランの信条はこのことを言っているのだとしか思えない。
 言葉には、それぞれ、それが本当の言葉となるための不可欠の条件がある。それを充すものは、その条件に対応する経験である。ただ現実にはこの条件を最小限度にも充していない言葉の使用が横行するのである。経験とは、ある点から見れば、ものと自己との間に起る障害意識と抵抗との歴史である。そこから出て来ない言葉は安易であり、またある意味でわかりやすい。社会の福祉を論ずるにしても、平和を論ずるにしても、その根底となる経験がどれだけ苦渋に充ちたものでなければならないかに想到するならば、またどれだけの自己放棄を要請しているかに思いを致すならば、世上に横行する名論卓説は、実際は、分析でも論議でもなく、筆者の甘い気分と世渡りと虚栄心とに過ぎないのである。

 ・・・ 日本から来る雑誌類を見ていると上に述べてきたおしゃべり、観念の遊戯と体験礼讃との両極の間を右往左往している観がある。・・・現代の文学にいたってはほとんどまったく論外であると言ってよい。あの彪大な戦争と戦時とを扱った文学のどこに戦争の経験があるか。ことごとく、いや全部とは言わない、ほとんどことごとくが体験を多かれ少かれ加工したものではないか。
 ところで永井荷風の戦時の日記は、著者は意識しないにせよ、経験に裏づけられた戦時文学である。なぜかというと、戦争が、かれの全経験の中で巨大な障害として存在し、その障害の前を逃げまわりながら、抵抗し、経験の中でこれを克服して行く姿がはっきりと感得されて行くからである。そこに著者の人間である自我が、その障害を、それと少しも妥協せずに、そこから何か体験をとり出して一芝居うとうというようなさもしい料見なしに、堂々と敵視し、克服して行くのである。
 ところが多くの戦争文学では、「戦争という異常なことがあったので、おれは異常な体験をえて、こういう本を書くことが出来た。戦争よ、あってくれてありがとう」と、無意識的に絶叫している著者の姿が見えすいているのがほとんどすべてである。・・・戦争を人間に対する悪であり、障害である、と公言している連中が、体験の切実さに、読者と共に参ってしまって、悪や障害から結局何かを吸いとり、体験が増大したのを(体験はどんなアホウの中でも機械的に増大する)自己の経験が深まったのととりちがえているのである。中には戦争のおかげで平和主義者になれたような人まである。僕はそういう体験主義は一切信用しないのである。パスカルが、「人間は考える葦である」と言った時、そういう体験主義を根本的に否定しているのである。 

 経験は唯一つしかない。だからそこに個人というものが確認される。あるいはむしろ、経験の全体が一人の人、その一つの生涯を定義するのである。また自由ということばも経験の深まりということによって定義されるのである。僕はこれをほかにして、人間も、自我も、個人も、自由も、それを定義するものは何もないと思っている
」      森有正『霧の朝』「展望」1966.2
 
   日本の教師は、ヨーロッパはおろか世界のどこに比べても忙しい。だが授業で忙しいのではない。授業保ち時数は、諸外国に比べても少ない。生徒管理と行事に文書作りに忙殺され、まるで教師は学校の雑務屋で、授業は余技かと見え教育の専門家ではないかのようだ。行事は学校生活にメリハリをもたらすと言うことがある。それは授業そのものにメリハリが無いことを白状しているし、教師自身が雑務から一時でも解放されたがっていることの証でもある。生活指導のベテラン、修学旅行のベテラン、体育祭や文化祭のベテランなどはあつても、授業のベテランではないのだ。
 それに正しく対応して良き生徒とは、各種行事の良き受益者ではあっても、良き学習者=主権者としては現れてこない。成績抜群であっても、素行が悪ければ評価は下げられる。生徒も教師も、授業の主体ではない。そのような教師を作り上げたこの国の政府は、若者が知的に成熟し自立するのを恐れているとしか思えない。世間が若者のメダル稼ぎに我を忘れている間は、安心なのだ。しかし何時までも続きはしない。
 
追記 森有正は同じ論考の中で「勉強している若い人々と接し、話を交してみると・・・おどろくほど社会の機構に対する無批判的な随順がある。社会をあたかも自然のように、自分を超えるものとして、その中に受動的に自分の位置を見つけ、平衡を見出そうとする。そしてそこに満足して、私生活の充実に向う」と書いている。
 社会科をそのための教科にするため、政府は財界と「社会科」への介入攻撃を戦後一貫して続け、今や「社会科」は死んだも同然である。新教科「公民」売り物のアクティブラーニングは、森有正言うところのおしゃべりに過ぎない。社会的経験を政府も教師も禁じているからである。その上、教師自身が働く者としての経験不当に封じられて、抵抗さえ出来ない有様だ。
 そればかりか、全国的に見ればたいして系統的に教えていたわけではない。にもかかわらず、世間は「詰め込み」の弊害を説いた。お陰で社会科も理科も総単位数はもちろん、個別科目の単位も減り続けたのである。

 森有正が「僕は・・・教師を何人か知っているが、かれらの・・・熱意とその知識には頭が下るばかりである」と言ったのとは逆の光景が、教員間に広がったのである。歴史的知識に欠けた政経教師、地理的教養を持たない歴史教師、倫理しかやれないと言い張る教師は、大学紛争後徐々に増えた。同時に社会的経験を持たない教師も激増した。
 「正当な経験がどこにあるか、本当は教師も若者も知っているのである。知りすぎるくらいに知っているのである。ただ実行しないのである」1966年にはそう言えた。しかし今、若者も教師も本当に知らないのである。

ワシントンは三選より、私人としての生涯を選んだ

鶴見俊輔にとって抵抗も私的行為であった
 「戦前、米国で学生だった頃、私には、ワシントンがなぜ重んじられるのかわからなかった。軍人としても、政治家としても、それほどすぐれた人ではない。しかし、六十余年後の私には、ワシントンの値うちがわかる。彼は、三選が可能だったとき、家庭に戻って私人としての生涯を選んだ。
 ひるがえって日本の現在を見ると、「国連常任理事国になりたい」。常任理事国になって何をするのか、この十年あまり問題にされていない。「大臣になりたい」、「議員になりたい」。なってなにをするのかは二の次である。 ・・・この150年に、日本は崩れた
」                        鶴見俊輔「時の音」 2005年5月17日

  ある年生徒が、逃げ回る校長を捕まえて
 「なぜ授業をしないの」と問うた。彼女は、校長は平教師より優れた教育者であると漠然と思っていた。それを、授業で確認しようとしたのだ。校長はこう答えた。
 「わしは、校長だ。教育委員会から校長の授業は禁じられている。校長には昔からなりたかった」
 面と向かって、こういう質問をするのは、いつも女子である。忖度をする必要が男子に比べて格段に少ないからである。
 彼女はがっかりするとともに「なんて詰まらない奴」と呟いたと言う。
校長になって何をしたいのかが、まるでない。校長であると言う事実だけで、尊敬されると信じて疑わない神経を生徒は悲しんだのである。
 
 だが例外はある。M校長は、数学教育のベテランで民間教育団体にも属していた。彼は、行政の末端であることを拒否して、時間割を組む係と揉めてまで、授業を持った。臨時にではない。一年間、複数のクラスを教えたのである。
 都立高校の校長は退職後、私立高校の校長に天下りをする悪い慣行がある。M先生はそれも嫌がって、女子校のただの講師になった。授業をするためである。

  ヨーロッパでは、閣僚や国会議員を務めた政治家が、小さな村の村長や村議会議員になることがよくある。国と自治体が対等な関係にあるからだ。
 一度頂点に上り詰めると、降りられなくなる。私人としての自分を想像するのが怖い。肩書きのない自分が怖いのは、そもそも自分がないからである。
 天皇が引退したら、上皇と呼ぶという。
大学をやめれば名誉教授、社長を退職すれば会長、会長の次は顧問きりがない。なぜ肩書きを廃した名前だけの「ひと」であってはいけないのか。
 国や社会のTOPが、平凡な国民の穏やかな生活に憧れ手入ればこそ、平和や平等を政策課題と掲げ邁進出来る。
 少ない支持率で多選を目指し、専用機による外遊や友人との料亭豪遊やゴルフにうつつをぬかせば、政策目標が格差拡大と大衆課税の独裁に落ち着くのは必然である。
 

「中途半端」は、豊かな社会が目指すべき「理想」である

 生物がある環境に適応するということは一種の特殊化であり、道具というものを持たない生物にとって、それはしばしは身体の作りかえを待たねはできないことである。その結果、ある環境に適応したということは、もはや他の環境に適応しにくくなったということにひとしくなるのである。だから、その生物にとって残された道とは、その環境への適応を完成するため、ひたすらにその特殊化を発達さすことであるだろう。ここに生物自身の購いとった、進化の方向性がある。                    今西錦司

 人間は、適応に際して身体の作り変えをする代わりに、文化で対応して他の種を遙かに凌駕する分布を実現した。 どんな環境にも衣類・住宅・食料を工夫して適応出来る。だが、知的能力はそうはいかない。衣食住のように環境変化のたびに、直ちに調達するわけにはゆかない。趣味や遊び程度なら何とでもなるが、職業的な能力は十数年から数十年かけて獲得しなければならない。いつでも始められるわけではない。脳の筋肉も、若いうちに開始する必要がある。その十数年から数十年間、我々は特定の能力を獲得しながら、同時に別の可能性を捨てている。我々の脳も身体も同時に幾つも積み込むわけにはゆかない。幾つもの機能を兼ねるわけにはゆかない。
 はしご車に特化した特殊車両は、救急車として使えないように、画家になったピカソを物理学者には出来ない。川縁の風を楽しみながら走るのに、戦車は向かない。
 「ある環境に適応したということは、もはや他の環境に適応しにくくなったということにひとしくなるのである。だから、その生物にとって残された道とは、その環境への適応を完成するため、ひたすらにその特殊化を発達さすことである
 相撲取りになったら、バレリーナにはなれない。ひたすら特殊化を進めて、とても健康体とは言えない体型に突き進んでしまう。せいぜい親方になって、「業界」利権維持のため汗を流し若者を同じ道に引き込むのである。
  ツール・ド・フランスのような長距離自転車競技の選手になれば、足の筋肉はペダルを漕ぐのに特化するから、散歩を楽しむには全く適しない足になる。核物理学で名門で学位を得れば、原発業界で利権に囲まれて生きられるが、放射能の危険性や業界の仕組みに疑問を持っても、今更パイロットになるわけにはゆかない。
 人類は、文化のお陰で昆虫など他の生物のように身体そのものを環境に適応させる時間を節約、素早い発展を可能にした。お陰で身体機能を狭く特化することなく、多様な芸術やスポーツ、科学、思想を豊かに開花させある程度享受している。人類の進化は、過度な特化を人類に望んではいない。
 アインシュタインや湯川秀樹は、理論物理に頭脳を特化せず、バイオリンや古典を楽しむ「半端」さを保ち続けた。それ故、平和運動に知力も体力も注ぎ込めたのである。ラッセルもサルトルも人生を哲学に特化しない生き方を保ち続けて反戦運動の先頭に立てたのである。魯迅は彼らより早く、特定の分野に頭脳を特化させなかったが故に、革命に柔軟に生きられた、僕はそう思う。
  おい高校生、受験勉強や試合に精力を注ぎ込むのは「中途半端」にして、平和や貧困に関心を向けたほうがいい。「半端ない」テクニックの習得に埋没するのは、奴隷根性に過ぎない。

 『ドイツ・イデオロギー』でマルクスは
  「共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。・・・朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく」と未来を描いた。

 その意味は、共産主義社会が実現するまで待て、と言うことだろうか。21世紀の我々にとって肝心なことは、資本主義社会において既にその物質的な条件は成熟している事実である。それがいつまでも実現できないのは、生産関係に手を付けられないからである。日本に限って言えばここ数十年、生産関係は資本に有利になるばかりである。

 
いつの時代も特権階級の王家や皇室だけは、優雅つまり「半端」に生きて、あらゆる可能性を個人的に保持し続けてきた。天皇夫婦のために「ご進講」をする学者たちが、口を揃えて彼ら夫婦の知識の高さを賞賛する。驚くことはない。特化しない教養の見事な鋭さを、専門分野に狭く埋没した彼らは知ることが出来ないのだ。天皇個人の持って生まれた資質だと錯覚している。
 王家や皇室など特権階級から、大相撲横綱や戦闘機の撃墜王は出ない。高見から、病的に特化した身体の持ち主や死ぬことを無上の喜びとする若者に「汝ら臣民・・・」と言葉をかけ、勲章やメダルを乱発するのだ。もちろん勲章もメダルも彼らの手製ではないし、費用も彼らの財布からは支出されない。貰う側が、税金で自己負担しているのに有り難がる。どこまでも目出度い。全ては、民が生産関係に気が付くことのないよう塩梅される。
 

 特化しない教養の見事さは、「怠ける権利」とともに全ての人の権利である。生産関係を見破るのも、特化しない教養である。

ゴーリキーの『母』を読んだ人にとっては、革命家を嫌悪することは、困難となる。桑原武夫

人間は憐れむべきものではない。尊敬すべきものだ
  「たとえは『レ・ミゼラプル』を読んだ人は、現実の免囚に出会ったとき、この小説を読んだことのない人に比べて、より少ない嫌悪、または、より多くの同情をもつに相違ない。もちろん、その読者の免囚に対する行動は、さまざまの現実の条件にょって限定されるが、その限定され方が多少とも違ってくるのである。ユゴーのこの作品が出てから、世界中で免囚保護事業が盛んになったという事実は、私の仮説を支えてくれる。同様に、若いときにゴーリキーの『母』を感動をもって読んだことのある人にとっては、革命家を嫌悪することは、困難となるのである」  桑原武夫『文学入門』
 

 文学に接した数日が人間に大きな感化を及ぼすのだから、豊かな文化に囲まれた級友や教師とともに過ごす数年は徹底的な影響をあたえない筈がない。我々は、よく地域に学ぶといったり、地域の教育力という。だが地域自体が、階層別に分断されている。ある宗教団体は、同じ地域で会合が組織されるのではなく、階層で分けられている。階層ごとに教理が使い分けられるからである。政党も似た組織形態をとるところが多い。

 かつて小中学校は、地域性が濃厚であった。僕の四谷四小には、銀行頭取のお屋敷から通うねえや付きの坊ちゃんから、崖下のバラックに住む子までが同じ教室にいた。四谷二中には、新日鉄重役の孫や高名な弁護士の息子から、新宿南町の木賃宿の子に暴力団員の子、更に日本舞踊の師匠や落語家、子役や歌手までがひしめいて、複雑な影響を与え合っていた。

 お陰で僕は、ヤクザとの会話に慣れた。定時制課程や下町の工業高校では、担任する学級に幾人ものヤクザ子弟がいて面白い経験をしたが、困ることはなかった。むしろ経済や歴史の理解を広めたり深めたりすることが出来て、授業に生かすことが出来たと言ってよい。
 こんな経験は、政治家にも官僚にも学者にも必須だと思う。「原発業界」に科学者が取り込まれることも少なくなる。平凡な父親母親が子どもを育てる上でこそ、良い影響がある筈だ。

 だが今や階層分化は産院から始まる。我々は知らないものを恐れる。恐れて身構え、些細ないことで対立攻撃する。
 様々な階層が交流は、時間をかけて豊かな教養や寛容の精神自体を育む。しかし逆にそれ自体を嫌悪する潮流が勢いを増しているのだ。


 僕はある労働争議団とともに授業をつくり、生徒共々交流したことがある。そこで残念でならなかったことは、厳しい弾圧に十年以上を耐えた逞しい労働者が、子どもの進学には偏差値を優先して憚らなかったことだ。

 闘いの経験は、単なる闘争ではない。階層や世代を超えた文化となる可能性を秘めている。交流とは、階層を忘れることでは無い。連帯や友情は同化からは決して生まれない。階層の文化に誇りを持ち育てた経験を交流するのでなければならない。貧しい階層が豊かな階層の家庭から、本を借りたり言葉遣いや料理の献立を真似ることではない。
 すべての青少年が、愚かな競争に鎬を削るのではなく、地域の学校に権利として進学する。そこに希望を見いだせない社会に希望はない。


 追記  10歳で孤児となったゴーリキーは祖母に育てられるが、その祖母も死亡。自殺未遂の後、新聞記者などをしながらロシア各地を放浪。 1899年長編『フォマ・ゴルデーエフ』を発表。チェーホフやトルストイ並ぶ評価を得る。『どん底』はスタニスラフスキー演出で上演され、ドイツでも評判となる。
 1902年科学アカデミー名誉会員に選ばれるが、ニコライ2世は政治的信条を理由に取り消した。これに抗議して、チェーホフとコロレンコはアカデミーを辞任している。
 第一次世界大戦の際には、ゴーリキーのアパートはボリシェヴィキの事務室になる。十月革命2週間後の手紙にはこう書いた。「レーニンもトロツキーも自由と人権についていかなる考えも持ち合わせていない。彼らは既に権力の毒に冒されている」

友情というのは、いわば「魂のキャッチボール」である

完全試合なんてまっぴらだ
友情というのは、いわば「魂のキャッチボール」である。
一人だけ長くボールをあたためておくことは許されない。
受け取ったら投げ返す。
そのボールが空に描く弧が大きければ大きいほど
受けとるときの手ごたえもずっしりと重いというわけである。
それは現在人が失い欠けている「対話」を回復するための精神のスポーツである。
恋愛は、結婚に形を変えたとたんに消えてしまうこともあるが、
友情は決して何にも形をかえることができない。
     寺山修司「人生なればこそ」


  僕にとって「野球」は 「キャッチボール」そのものである。小学校に入る前から、近所の連中と草野球と言うのも憚られる遊びに励んだ。ルールもバットもなかった。球が無くなると、布の切れっ端や紙を丸めてたこ糸でグルグルに縛ったり、卓球の球や羽子板の羽を羽子板で打ったりした。卓球の球は、思い通りに飛んでくれないので面白かったが飽きるのも早かった。小さい子が混じれば、その子に合わせてルール変更はしょっちゅうだった。


 東京に引っ越すと、バットもミットもルールブックも持つ者がいて少しは草野球らしくなった。それでも、遊ぶ本人たちが自在に「楽しむ」ことが最優先であった。巧すぎる投手や打ち過ぎる打者は、本人さえ面白くない。点差が開きすぎるのは、双方詰まらない。「一人だけ長くボールをあたためておくことは許されない」という精神からすれば、完全試合なんてまっぴらだった。
 

 散々揉めた末に決まった投手指名制や、守備交代制は楽しかった。前者は、打者が相手チームから投手を指名する。何をやっても下手な僕は、指名投手としては人気があった。球が速くないから打ちやすい、打ちやすいが球速がない分球は山なりに飛んでくるから、どうしても打ち上げてしまう。意外にアウトを取れる。内角高めとか外角低めのリクエスト制も喜ばれた。なかなかストライクにならないのが欠点だった。守備交代制は、みんなが順番にすべてのポジションに一回づつ移動する。ショートだけとか投手だけは許されない。守備場所が変わると、勝手が違ってミスが続出して面白かった。
 何よりよかったのは、大人の介入がなかったことだ。大人はみんな忙しかった。だから工夫が生まれたのだと思う。 あれは、少年が「対話」するための精神のスポーツであった。高度経済成長が、すべてをぶち壊したのだ。「完全試合」とは、高度経済成長の悪夢に他ならない。麻薬が効いている間、悪夢は快楽である。
 
 今あらゆるスポーツを
商業資本が覆って、儲けることが勝つことと同義になった。スキー選手は板のメーカー名が見えるように、カメラの前に立つ。惨めである。サッカーはスポンサーの商標の列に囲われて走り回らされる。野球は、TV画面いっぱいに広告が入るように、打者の背景が割り振られて実に汚らしいし、ユニフォームも宣伝だらけで見苦しい。ヨットレースでさえ帆や船体まで宣伝で埋め尽くされて、美観を損ねている。そのうち力士のまわしや水着にも宣伝が入りそうな気がしている。

 走り回れば無数のバッタが飛び立つ空き地での、子どものボール投げ遊びを「野球と言ってよいか。
 S・バトラーは「定義すること、それは観念という茫漠たる土地を言葉の壁で囲うことである」と言った。茫漠たる土地とは、冒険と自由の空間を示している。「野球」になるとは、冒険と自由の空間」を商業資本が囲い込んで、商標が解き放たれることである。自由な空間から、人間が追放されたのである。歴史の法則から見れば、この後に来るのは「持たぬ者」たちの窮乏化である。

 今や金を出す側の意向だけが先走って、player自身は自由に楽しむことを禁じられている。空間だけではなく時間まで奪われている。メダルやメディアによる賞賛は、「隷属と拘束」の日常を、それこそが生きがいと錯覚させる麻薬である。人は商業主義の奴隷である。そこに、友情や対話の気配はない。

規則によって人の自由を奪えば、その人の責任を問うことは出来ない

2.1ゼネスト直前の末広嚴太郞と徳田球一
 「抑圧を下へと譲り渡したに過ぎないために、自らに対して主体的責任を感ずるところがない」 丸山眞男
  体罰を振るって瀕死の重傷や死亡事故を起こした教師が、自ら責任を取るというは滅多に聴かない。危険なタックルを指示した日大監督が、主体的責任をとれなかったのは、日大理事長を頂点とする支配体制から委譲された抑圧を、下に取り次いだに過ぎないからだと、理事長も監督も考えていたからである。体罰が横行する職場には、中学や高校でも同じ構造が形成されている。
  「責任は、自由の基礎の上に初めて成り立つ」と言ったのは、末広嚴太郞である。日大理事長支配下の、監督や教授に反逆以外の自由は無い。従って主体的責任意識は生まれない。
 

  「規則によって人の自由を奪うとき、もはやその人の責任を問うことは出来ないのです」末広嚴太郞『嘘の効用』
 だから無意識のうちに、体罰は隠蔽される。対外的な窓口が、管理職に一本化されて教員の口封じが合意される。そんなとき
 「私は、自由に喋りますよ。そんな口裏合わせより、真相解明をした上で、生徒たちや保護者に説明すべきではありませんか。その場で我々も、それぞれ個人として自由に見解を表明しなければなりません」と言うことは、とても大切なことである。憲法はそれをひとり一人の国民に要請しているからである。憲法を守るとはそういうことだ。
 「第十二条・この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない


  「しかるに、万事を規則ずくめに取り扱う役所なり大会社なりは、使用人の責任までをも、規則によって形式的に定めようとします。その結果、責任は硬化し、形骸化して、全く道徳的根拠を失います」末広嚴太郞 前掲書

  だが現実には「私は、自由に喋りますよ。そんな口裏合わせより・・・」と発言した途端、問題は体罰から離れて、結束を乱す教師の問題になる。結束や一致は、それがどのようなりに基づくかではなく、形式的多数決によって成立する。

  丸山眞男は、戦前戦中の「超国家主義」日本を分析する過程で、「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」という構造を見出した。それは、全ての価値と規範の体系が、最高価値たる天皇からの相対的距離を規準として成立している社会体制であり、そこでは、最高価値に「相対的に近い」上の者から下の者へと抑圧が譲渡されていくようになっている。抑圧した者は上からの抑圧を下へと譲り渡したに過ぎないために、自らに対して主体的責任を感ずるところがない。そして、帰責対象の上昇経路を辿れば天皇がその終着点であるかと思えば、天皇でさえも皇統というより上位の伝統に連なっているに過ぎず、究極の最高価値の地位は抽象的・観念的な伝統によって占められるために、責任は最終的に霧消されてしまうしかない。丸山は、こうした抑圧の移譲構造こそ、近代的主体の存在しない日本社会の病理だと診断したのである。

 「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」という日本の病理は克服されたとは言いがたい。
抑圧の移譲は同調圧力へと姿を変え、SNSの機能を通して、瞬時に集団を対話や討議抜きの画一化へと追い込んでいる。

  末広嚴太郞は初代水連会長として、「練習10則」を作っている。1939年のことである。
 第六則 レース前の練習に当っては毎夕毎晩、体重を測れ。もしも朝の計量において体重の回復が十分でないことを発見したならば練習の分量を減らさなければならない。
 第七則 スランプは精神よりはむしろ体力の欠陥に原因していると思わねばならぬ。いたずらにあせるより、思い切って二三日練習を休む方がよろしい。

 

 彼は戦後GHQの求めに応じて、労働三法制定に尽力し東京都地方労働委員会会長や中央労働委員会会長を務めた。「練習10則」と労働三法は無縁ではない働く権利は、休息する権利と一体である。

修理工がポールを投げ、老運転手が受けとめる。その「一瞬の長い旅路」こそ人間的な伝達の比喩である

軍隊に人間的な伝達はない、言葉の主体が存在しないからだ
 一個のゴムのボールがAからBに投げられる。夕暮の倉庫のある路上での自転車修理工と、タクシーの老運転手がキャッチボールする場合を考えてみよう。修理工がポールを投げると老運転手が胸の高さで受けとめる。ポールが互いのグローブの中で、バシッと音を立てるたびに、二人は確実な何かを渡してやった気分になる。その確実な何かが何であるのかは、私にもわからない。
 だが、どんな素晴らしい会話でも、これほど凝縮したかたい手ごたえを味わうことは出来なかったであろう。ボールが老運転手の手をはなれてから、修理工の手にとどくまでの「一瞬の長い旅路」こそ、地理主義の理想である。
 手をはなれたポールが夕焼の空に弧をえがき、二人の不安な視線のなかをとんでゆくのを見るのは、実に人間的な伝達の比喩である。
 終戦後、私たちがお互いに信頼を恢復したのはどんな歴史書でも、政治家の配慮でもなくて、まさにこのキャッチボールのおかげだったのではないだろうか。 寺山修司「実感の形而上学」

 修理工と老運転手はどういう次第で、キャッチボールすることになったのだろうか。近所の赤提灯で、いつも軍歌を呟きながら管を巻く老運転手を苦々しく避けていた修理工の若者が、たまの早じまいの土曜日、路地に腰を下ろして日向ぼっこをしていた。時間はあるが金も恋人もない、地方出だから言葉に慣れなくて友達も出来ない。地面に折れ釘で落書きをしていると、件の老運転手がくたびれたグローブ二つ持ってやってきたのかも知れない。
 それから
修理工との凝縮した関係が始まる。互いの戦争体験が明らかにされ、老運転手が50にもならないのに老けているのは、徴兵されて留守していた時に、大空襲で家族のすべてを失ったからだということも、軍歌を口ずさむのは他に歌を知らないからということもわかってくる。
 「だからよ、俺は明るく肩組んで軍歌うたってる連中見ると腹が立つんだ。俺の子どもは生きていれば。兄ちゃんと同じ年配なんだ・・・」
 「そうですか、失礼しました。僕の親父は南洋に送られて、それっきりです。遺骨もありません、だから軍歌は嫌いです。母も兄弟たちも苦労しました」

 僕が東京の小学校に転校してきた1958年頃、こんな老運転手や修理工は四谷界隈にもたくさんいて、幾つもの草野球チームを作っていた。日曜日には、方々に残っていた空き地や外苑で試合をして、僕たち子どもと場所の取り合いで揉めたが、交渉すれば済んだ。しかも、管理する役所もないから、すべてタダだった。

 ただ中学に入る頃から、あちこちの空き地や広場に看板が立ち、杭が打たれ金網が張られ「無断立ち入り禁止」になった。その一つが国立競技場である。
 すべてが計画され商業化されて、世代や地域を超えた「凝縮したかたい手ごたえ」がもたらす信頼は、街角から姿を消してしまう。
  学校で「部活」として編成されたキャッチボールや「やきゅう」はカリキュラム化されて「バシッと音を立てるたびに、二人は確実な何かを渡し」す機会を掴めなくなってしまった。
地面に折れ釘で落書きをしている修理工に、思い切って声をかける決意こそが、「一瞬の長い旅路」を生んでいるのだ。「何かを渡」すやりとりの代わりに現れたのは、チームとしての勝敗に一喜一憂することだ。そこには、他者を思いやりながら、人間的伝達関係を築く主体性はない。
 戦争を放棄して、我々が手に入れた主体性をたかがチームの勝敗のために失ってしまったのではないか。そして今やチームを越えて、「国威発揚」が恥ずかしげもなく掲げられている。 
 軍隊という集団から個人が奪い返したものを、再び集団に委ねるのは愚かだ。寺山修司はそう言うに違いない。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...