親は子どもを選べない、教師の生徒選抜はいいのか

 アイデンティティというのは、われわれが自分を他人に理解してもらうようにするということでもあります。一緒に生きている仲間が、隣人が、われわれを理解してくれているかどうか、それはどのようにしてであるか、ということであります。つまり、われわれが、他の諸民族と一緒に生きていけるかどうかということを問う問いであります              (ヴァイツゼッカー、1988年)
 人は努力して学歴と資格を根拠にすれば「なりたい自分」になれるのだろうか。他者からの承認なしに。自分は自分では見えない.
 瀬戸内寂聴が「聖職」とは何かについて面白いことを言っている。

 「明治以後の廃仏毀釈で、・・・がお坊さんに結婚することを認めたのですね。それでみんなおおっぴらに結婚していますが、ほんとうの仏教では、戒律のいちばん厳しいものは、人殺しよりも嘘つくことよりもやはり姦淫をすることじゃないですか。だから、何かひとつ守らないと・・・。
 たとえば、「聖職」という言葉がありますね、清らかな職。だけど、いま聖職者が全部だめでしょう。教師が聖職でしたね、その教師がだめでしょう、それから坊さんがだめでしょう、それから医者がだめでしょぅ、それがなぜかということがいちばん大事なことじゃないかと思うのです。その聖職者というのは人のできないことをしているから一般の人は尊ぶわけでしょう。ところが、いまその三つの人たちは普通の人と同じことをしていますものね、だから尊べなくなったんでしょう。
 坊さんなんて、セックスという人間の最も強い普遍的な本能を断っているから、「ほぉ、できないことをあの人はするんだな、偉いなあ」と思うじゃないですか、いちばんの根本のところは。それが普通にみんなと同じにしていたら、どこに変わりがあるんですか」                   『仏教と倫理』岩波書店
 
 ある僧が、僧自身について「欲はなくさねばならないが、そのことに拘ってもならない」と言ったとき、僕は心底がっかりした。その言葉は、僧が救いを求める人に言うものであっても、自らに向けて言うものではない。僧の「アイデンティティというのは、・・・自分自身を他人に理解してもら」うものである。何かを求めて僧の前にいる人は、僧の後ろに仏を見ているのである。
 教師は、学ぶことと教える事にひたすら傾注して、権力との対決も辞さず個人的成功を遮断しているから、「なかなか出来ないな、偉いな」と思われるのではないか。
 教師の言葉と生き方に学ぶ喜びや真実を見たいと思い、若者は教室に足を運ぶ。その底には、多少なりとも「偉いな」が必要だと思う。
 僧呂、教師、医師にとって求められるのは、聞くことである。聞くとは、それぞれの要求を理解することである。政府や学校の方針にあわせて、時には自分の好みや信念に合わせて個人を矯正することではない。まして成績で選抜することではない。

「YOUは何しに・・・」の不快に既視感

新聞は侵略の実体に蓋をした
それをまた繰り返そうとしている
 このTV番組のタイトルを知った瞬間、不快感を覚えた。ある種の既視感があった。番組の中身は予感を越えて不快であった。どこから来た既視感なのか、手当たり次第調べて、ようやく石川達三の『生きてゐる兵隊』に行き当たった。
   『生きてゐる兵隊』から何カ所か抜き書きをする。
                                                    Ⅰ

  部落をはづれた所の農家の小舎に水牛が繋いであった。それを貰って行かうといふことになって通訳は家の裏手をのぞいて見た。皺だらけの老婆がひとり竃の下で黙々と火をたいてゐた。
 「おい、婆さん」、と彼は戸口に立って言った。「俺達は日本の軍人だが、お前の所の牛が入要だ。気の毒だが貰って行くよ」老婆はきいきいと甲高い馨で反抗した。馬鹿なことをいって呉れては困る。あの牛はやつと先月買ったばかりだのにもって行かれたら私たちは百姓が出来んぢやないか。・・・
 だが、もう日が暮れかかつてゐた。暗くなるとまだ危険は多い。かまはんから持って帰らうと相談はまとまった。  ・・・「どけ」一人の兵は老婆を突きとばして水牛の手綱をとった。「じたばたすると命にかゝはるぜ」しかし彼女は唾を飛ばしてわめき叫びながらなはも抵抗した。この野郎めえ…と通訳は舌打ちして後から彼女の襟首をつかみ、力かぎりに引きたふした。彼女はひとたまりもなく道傍の泥田の中にあふ向けざまに落ちこんだ。兵たちはひどい泥のしぶきを浴びた。中橋は笑って歩き出した。
 「命ばかりは助けてやるぞ。戦争が済んだら牛も返してやるからな」牛はぼくぼくと砂塵の道を歩きはじめた。兵たちは良い気持ちであった。無限の富がこの大陸にある。そしてそれは取るがまだ。このあたりの住民たちの所有権と私有財産とは野生の果物のやうに兵除の欲するがまゝに開放されはじめたのである。
                                                    Ⅱ
 古家中尉が横から口を挟んだ。
 「さうですよ、自分らの村で金鵄を持つとるもんが五名ありますがなあ、みんな女房はしゃんやすわ! やっぱり金鵄を貰はんとあかんですわ。本当だぞ、倉田少尉」
 扉をあけて当番の兵が皿や探皿を両手に捧げて入って来た。
 「食事が出来ました。爾がこさへたんでうまいかどうか分らんですが、……」
 「さうか、爾がやったのかい。毒を入れやすまいな」
 中隊長は水筒をしまひこんで箸を取った。
 「支部料理か」
 「はあ、あひの子みたいなもんです。どうも材料がないんで、うまく行かんです」
 北島大尉は先づ汁を小皿に取って、背を丸めてすゝつて見た。
 「うむ、当番、これあうまいぞ」
 「さうですか、良かつたらまだあります」
 「うむ、爾は中々うまいことをやるなあ。支部人でも使ひ道はあるもんぢやなあ。古家中尉」
 「はあ」と彼は曖味に答へた。
 強制的に徴発されてきた支部人の軍夫たち七八人は下唇をだらりと垂らして炊事場でせらせと働いてゐた。当番の三人の兵が手まねで指図すると無口に従順に、しかも兵たちが首をかしげるほど忠実に働くのであった。すると兵はこの爾たちの同胞を澤山殺して来たことをふと釈明したい気持ちになり、おいと肩をつついて煙草を一本くれてやるのであった。
                                                    Ⅲ
 戦場といふところはあらゆる戦闘員をいつの間にか同じ性格にしてしまひ、同じ程度のことしか考へない、同じ要求しかもたないものにしてしまふ不思議に強力な作用をもってゐるもののやうであった。医学士の近藤一等兵がそのインテリゼソスを失ったやうに、片山玄澄もまたその宗教を失ったもののやうであった。たゞ彼に残ってゐる宗教家の名残りは、経文を知り葬式の形式を知って居るといふだけである。
                                                    Ⅳ
 ・・・この二人の商人は今日の午後市街地を歩きまはって手頃な家を探して来た。勿論支那人の家でその中には家財道具が澤山に残ってゐる。その釘づけにされた扉を開いて自分の店にしてしまふのだ。
 領事館負はこゝで一つのエピソードを語った。昨日も一人の支那人が開店したばかりの日本人を訪ねて、ここは俺の家だし家財もある。入ってくれては困ると言った。日本人はそれに答へた。何を言うか、こゝは占領地区だぞ、虹口一帯の建物一切日本軍の管理下にあるのだ、帰れ。支那人は後をふりかへりふりかへりながら悄然と立ち去って行った。


 「中央公論」(1938年3月号)に掲載された「生きてゐる兵隊」は、納品翌日、内務省警保局図書課から発売頒布禁止処分を通告されている。 編集者たちは、

 「多少予感された危険をおかしてまで、なお掲載に踏みきった私どもの心理のうちには、 奢れる戦争指導者にたいするうっ積した憤りや いわれなき戦争への私どもの不満が微妙に作用していた」という。
   石川達三自身はNHKラジオ「我が文学我が回想・社会派作家50年」(1985年11月放送)でこう語っている
 「生きている兵隊」という作品を書いて、それで、警視庁に呼ばれて、処罰を受けたんですが、あれだって、戦争を、わたしは戦場を見物に行ったわけじゃないんですね。
 その当時は、新聞でも放送でも世間の報道というものは、戦争についての報道というものは、まるで、もう、「勝った勝った」で、おめでたい話ばかり放送しておって、悪いことは何も放送しなかった。
 たとえば、タイジソウというとこは、戦争負けておったらしいけども、負けたとはなんにも言わない。日本の兵隊は神様みたいに尊敬されて・・というふうなことばかり報道しておる。
 「そんなバカな話があるものか」 
 わたしは自分で、本当の戦争を見て、本当の戦争というものを書こうと、そう思って従軍を願い出て、出かけていったんですよ。それで、帰ってきて書いたのが「生きている兵隊」という作品で、そうして、発売と同時に発売禁止をくって、わたしは捕まえられて、取り調べを受けた。だけども、わたしはなぜ処罰を受けるようなことになったかというと、本当の戦争を書いたからイケナイということなんです。その時、わたしが処罰された罪名は「新聞紙法違反」。 「安寧秩序を乱した」ということなんですナ。
 つまり、それまでは、日本の新聞やなんかがイイことばかり書いてて、悪いことはなんにも言わなかった。ところが、わたしは本当の戦争らしきものを書いた。それで、みんながビックリするじゃないかと。これが「安寧秩序を乱した」ということなんですナ。
 それで、わたしは禁固4ヶ月なんていう刑を受けたんですけども、しかし、わたしは裁判の最後まで、判決を受けてその後に至るまで、「悔悛の情」などというものは一切ないですナ。悪いことをした気がないんです。ですから処分をされても、なんともないです。自分自身はちっとも辛くない。拘留されればからだは辛いかもしれないけど、精神はなんともないですね。
・・・わたしは、あいつはバカだと言われた。しかし、わたしは書かずにはいられなかった。
 1938年がどういう年だったかを、「中央公論」編集者の証言から知ることが出来る。1985年のNHKがどんな報道姿勢を持っていたかを、石川達三インタビューは示して興味深い。これらは1940年ナチスのフランス・オランダ侵攻前の情勢とそれ以降の情勢の変化を考える際に役に立つ。

 ここでは Ⅲ の「食事が出来ました。(ニィ=你)がこさへたんでうまいかどうか分らんですが、・・・」 「さうか、がやったのかい。毒を入れやすまいな」の口調が、「YOUは何しに・・・」の口調と同質であることに注目する。『生きてゐる兵隊』には、中国人を「爾(ニィ=你)」呼ばわりする場面が幾つもある。自分の外国語舌足らずを棚に上げて、相手の言葉と態度を嘲笑・蔑視する高慢さは何処に由来しているのか。南京に入った兵隊が「避難民区域から一人の支那人の青年を連れて来」てうどんを作らせながら「「おい、、好姑娘、連れてこいよ」笠原はげらげら笑ってさういう」場面がある。八紘一宇や一視同仁が空念仏であった事が分かる。
 石川達三が同行した部隊が上陸して間もなく「爾(ニィ=你)」呼ばわりは始まっている。であればこの口調は少なくとも上海から南京にかけて展開中の日本軍では既に一般的であったと思われる。

 僕は、「YOUは何しに・・・」に、この南京侵攻部隊の醜悪な仕草と口調を感じる。日本兵が学校で聞かされた「八紘一宇」や「一視同仁」を上陸とともに忽ち忘れたように、番組「YOUは何しに・・・」は、グローバル化やおもてなしのスローガンを視聴率と忖度の底に押し込んで、訪日外国人を見下しながら「いじる」のである。ここには、「外国人の憧れる先進文明ニッポン」という妄想に乗った惨めな傲慢がある。

  『生きてゐる兵隊』では戦争という概念があちこちに使われている。Ⅰの、「命ばかりは助けてやるぞ。戦争が済んだら牛も返してやるからな」 Ⅲの、「戦場といふところはあらゆる戦闘員をいつの間にか同じ性格にしてしまひ、同じ程度のことしか考へない、同じ要求しかもたないものにしてしまふ不思議に強力な作用をもってゐるもののやうであった」 Ⅳの、「何を言うか、こゝは占領地区だぞ、虹口一帯の建物一切日本軍の管理下にあるのだ、帰れ。」
  1937年に始まった日華事変が、日中戦争になったのは1941年蒋介石政権が宣戦布告してからである。

 戦争だからといういい訳は通用しない。集団殺人、集団強奪、集団強姦、集団誘拐、集団放火である。 殺人、強奪、強姦、誘拐、放火などのれっきとした犯罪に、戦争という言葉は兵隊におまじないのように作用した。
 おまじないに蝕まれた精神が、中国人から個人名を奪い「爾(ニィ=你)」呼ばわりしたのである。同時に「爾(ニィ=你)」呼ばわりすることが、これは戦争であるから強奪や殺人ではないという意識を形成している。
 それは、Ⅰの「兵たちは良い気持ちであった。無限の富がこの大陸にある。そしてそれは取るがまだ。このあたりの住民たちの所有権と私有財産とは野生の果物のやうに兵除の欲するがまゝに開放されはじめたのである」という記述に現れている。
 日本軍は戦争が終わっても、牛を返さなかった。軍票の精算をしなかった。鬼畜米英を殲滅出来なかったことへの謝罪の一言すらない。他国を占拠し強奪強姦殺人を尽くしたことの後始末を、何一つやっていないのである。破廉恥はこう言う場合に使わねばならない。

 日中戦争では中国兵戦死者は少なくとも約130万人、民間人犠牲者は500万から1000万人、それはすべて日本軍の侵略に起因する。事実は誤摩化しようがない。
 敗戦後日本人は膨大な財政的負担を負った。戦中の経済的犠牲や戦後の賠償だけではない。旧軍人遺族等の恩給は1953年度から2007年度までで、約47兆円(現在の物価水準に直せば、60兆円余)に達する。他方、賠償・在外財産放棄・経済協力・戦前の債務 その他の合計は、2007年までに約1兆4千億円弱。対外賠償は全体でも、旧軍人遺族恩給費の33分の1に過ぎない。
中国は戦争賠償を放棄している。
記 「体罰」を振るう教師は、「てめえ」とか「貴様」と罵りながら少年たちを殴り足蹴にする。「×○君」や「△◇さん」と個人名を言いながらやるのは難しい。自分の行為が刑事罰を伴う犯罪に過ぎないことが明白になるからである。「てめえ」とか「貴様」という上下関係を含んだ言い回しが、暴行を「体罰」という教育もどきに変えてしまう。

 日頃から教師が生徒を、君付けで呼ぶ環境では言葉か教師の行為を規制する。生徒自治会とPTAは、教師の言葉遣いの点検をする必要がある。

倶楽部の醍醐味は、日々の練習と仲間との語らいにある、試合にではなく。

日が暮れても氷が張っても、内緒で
 一日の練習が終え、息を切らせて草に寝転ぶ。仲間から「今日のアレは良かったね」と褒められたり、批判を受けて克服することは、試合に勝ち進むことの数倍の喜びである。その精神的高揚は、弱いteamにも弱いteamにも公平に訪れる。下手も上手も関わりなく関係を形成できる。試合は、定期試験のように日常の切磋琢磨と友情を中断する災難でしかない。自由な読書や観察実験に打ち込んでいる時の、定期試験も心底恨めしかった。

 僕が小学校級友だけの草野球から部活の野球に移行出来なかったのは、部に公平な人間関係や相互批判の雰囲気がまるでなかったからだ。僕は中学や高校に進学してからも小学校の級友たちに、「野球はどうしてる、試合は」などと聞かれ続けるほど野球が好きだった。
 山岳部や漕艇は、逆に公平性と相互批判及び協働なしには成り立たない。
 

 山岳部は装備のムシ干しと点検から春が始まる、事情通のOB も心待ちにしてやってくる。装備一つひとつの穴や傷に歴史が刻まれていることをOBが新人に伝える場でもある。駄目になった装備を確認し、登山道具屋を回るのも楽しみだった。
 そして一年間の山行計画を練る。同時に地図の読み方、天気図の書き方読み方も始める。この時もOB参加は欠かせない、見たことのない卒業生までやってくる。計画作りが一段落した後の、焼き鳥屋が楽しみでやってくるのだった。
 最初の山行が決まれば、装備の確認と食糧計画を立てる。日を改めて実際に作り試食するのも大切なことだ。高価な食材を寄付する卒業生もやってくる。これは彼らの楽しみだった。
 旨いものや高いものは山行の後にして、荷物を軽くすることを考える僕とは発想が違う。飲み物は麦茶や即席で済ましたいのだが、豆もミルもパーコレーターも自前で持参し、主食なども、帝国ホテルのレトルトを全員分持ち込みたがる。工場勤務で日頃忙しい彼らは、一年間の山行計画に基づいて工場や会社で年休の交渉をして参加する。だから正月や盆並の行事であり、山でこそ旨いものを喰う。増えた荷物と費用は潔く個人で受け持った。
 山行は原則として両夜行だから、仕事で参加出来ないOBが差し入れ片手に真夜中のホームに押し寄せて賑やかだった。新人歓迎の初山行は隊列の組み方から地図の読み取り、足の上げ下ろしから装備の使い方や緊急処置まで伝授確認する。山行の最後は必ず温泉に立ち寄った。

 山行が終わると、部誌の編集に取りかかる。山に登るのは、文学や自然科学にも及ぶ行為だから記録は欠かせない。山岳部は文化部としても機能していた。俳句や和歌、紀行文、地域研究、自然観察を掲載した。
 
 そういうわけで部員同士とOBや教員も含めた人間関係は、個人の都合優先の思いやりが基本になる。ここに効率や競争が入り込む隙間はない。強い弱い、早い遅いなどは問題にせず、如何に友愛的に聡明に振る舞うかが間断なく問われる。
 筈だった。しかし競技化を図りたがる連中が1980年代に現れた。その執拗さに、僕は官僚的統制の匂いを感じた。都立高校山岳部顧問会議に彼らはそれを度々提案したが、長い間受け容れられなかった。しかし何時の間にか、高体連の下部組織に再編され、競技化が進んだ。アマチュア精神の崩壊が始まっていた。
   2017年栃木県高体連登山専門部会主催「春山安全登山講習会」事故(講習会3日目、雪中歩行のラッセル訓練を開始。約30分後に雪崩が発生し、雪崩で48名(生徒40名、教員8名)のうち、県立大田原高校の生ら8名が死亡した)が起きるべくして起こった。事故の分析は、天候や地形と行動計画を中心に行われ、高体連の責任を回避する論理のために長引いた。僕は登山の競技化に伴う官僚化が原因だと思っている。大編成の勝敗を目的とする集団は、官僚化の誘惑を抑えきれない。同時に自律性を失い適切な判断を見失う。それは1902年日本陸軍の八甲田雪中行軍遭難事件に典型的に現れている。適切な判断は上意下達の機構とは相容れない。

 漕艇は隅田川の早慶レガッタ(お花見レガッタ)を除けば観客も僅かで、クラブ自体が少ない。東京では殆どが古くからの名門大学の付属高で、公立工高のボート部は例外である。中学卒業間もない部員には、最初に克服しなければならないことがあった。先輩後輩関係を忘れることだ。平等な関係に彼らは馴れていない、指示されることが楽で気持ちが良いのが困る。

 ひとつのクルー=チームはコックス=舵手を含めて平等でなければ、オールを合わせることも難しい。一旦舵手を含めて紳士的で平等な関係が成立すれば、彼らは顧問の僕らの目を盗んで学校から片道1時間も掛かる戸田の艇庫まで足を運んだ。暗くなれば懐中電灯を舳先に点け、氷が張っても練習を止めようとはしなかった。ボート指導の鉄則も、出来る限り早く生とたちの前から消えることであった。
 
 五輪の熱狂から醒めた時、一時の気まぐれによる「おもてなし」費用の膨大な精算と環境破壊の深刻さは、五輪史上最悪となる。その混乱と非難を食い止めるのは、メダルの数だとJOCは踏んでいる。湿度の高い酷暑の中で競技を強行すれば、ヨーロッパや米国のplayerたちは能力を発揮できない。 そうなれば、暑さに馴れた日本にとってはメダルラッシュとなる。史上最悪の事態に日本国民は浮かれて気が付かない。少なくとも軽く考えるだろうと踏んでいる。

 官僚化がもたらす愚かな判断である。熱狂ほど怖いものはない。蒸し暑い最悪の事態をJOCは心待ちにしているのだと思う。そして日本の中高校生が、勝ち負けと偏差値だけにしか価値を認めないように五輪以前から誘導してきた。そう僕は思う。
  日本が、特に部活が試合優先を克服し、勝敗と偏差値の連鎖から脱することが熱狂を食い止める鍵である。

教育とはね、理屈で教えることとはちがう。海を見せに連れていく愛情じゃろが

カンラクは炭鉱資本の怠慢が造った地形である
・・・閉山にともなってやっとわが子の小学校(の参観日)へ出席できた元坑夫が、教師に注文を出した。
 「先生、むずかしか理屈は教えんでよか。それより、海へ連れてってやんない。うちの子はカンラクを見て、とうちゃん、広か海じゃねえ、と言うたんバイ。教育とはね、海とはどげなもんか、理屈で教えることとはちがう。海を見せに連れていく愛情じゃろが。わしは、閉山になって、やっとそれがわかった。な、そうじゃろが」 森崎和江 「男と女,夫婦,男・男,女・女」

 陥落池(炭鉱の落盤で地表が落ち込んで水が溜まり池となった場所。炭鉱所有者の怠慢が造った地形)のある筑豊から海の見える小倉や門司まで少しも遠くない。彼は海を見知る子ども時代を送った。しかし地獄を見るような仕事を続けるうちに、すっかり落ちぶれた。子どもが陥落池を見て「とうちゃん、広か海じゃねえ」と言ったとき、そのことにやっと気付いた。すべてが落ち込んでしまった責任は、炭鉱資本と政府にある。その横暴と闘い続けた者に責任を押しつけるのは間違っている。まして子どもに責任はない。
 子どもの世界観が狭く貧弱になったことへの遣り切れなさが、元坑夫を苦しめる。彼は「海を見せに連れていく愛情」を持てなかった自分自身の貧困に苛立っている。
  しかし彼には、教育への要求と期待がある。それは救いである。

 下町の工高の担任だったAさんは、応援団長で右翼のクリスチャンでもあった。高校生の頃から警察と揉める生活を繰り返していた。
 担任する中に片親の生徒があった。出席日数が足りなくなりかけ、授業料滞納も長引き進級が危うい。家へ電話しても通じない。生徒に親と話したいと言うと、「お袋は病気だ、うちには来るな」と懇願する、終いには「絶対来るな、来たらぶっ殺す」と凄んだ。
  熱血をよしとするAさんは、週一日の研修日を潰して家庭訪問した。感動の展開があると信じていた。僕は冷ややかに「見ない方がいいこともある」と釘を挿してしまった。
 Aさんは「じゃぁ、どうするんだ」と迫った。
 「こんな時のために、管理職がある。行政との交渉は彼らに任せる。でないとあいつらは余計なことに力を入れるんだ。議員にも選挙以外の仕事をさせたほうがいい」
 「お前はいつも悠長だな。俺に暇はない」そう言って出かけ、見るも無惨に打ち萎れて戻ってきた。


 件の生徒の住まいは、零細工場の建ち並ぶ一角、騒音の響く鉄工場の上にあった。ドアを叩いても返事はない、そっと押すと開いたが、中は暗い。名乗ると、咳が聞こえてごそごそ動く音がした。目が慣れると、仕切りのない板の間に数枚の畳が置かれ、そこに布団があり母親らしい女性が寝ていて起き上がろうとしていた。窓はあっても陽は差し込まない。
 彼は、生徒がぶっ殺してやると凄んだ気持ちが分かりたじろいだ。母親を寝たままにして、ともかく話を聞いた。
 「お恥ずかしい格好でご免なさい。おいでになった訳は、息子の様子で分かります。電話も電気も切られて、ご覧の有様です・・・」と弱々しく語ったという。Aさんは意を決して、生活の細部まで聞いた。息子は母のためにアルバイトで稼いでいた。生活保護も聞いた。親切な人が見かねて区役所に連絡してくれたが民生委員らしき人が来て「ともかく区役所に出向いて下さい」と言ったっきり、起きて歩ける状態ではない。Aさんは出来る限りのことはすると言い残して帰りがけに、ジュースとアイスクリームとパンを買い引き返して届けた。ぶっ殺すと凄んだ生徒との修羅場は、覚悟した。しかし「見なければ良かった」とうな垂れた。
 先ず、卒業生の中に国会議員がいたので、彼に区議会議員を紹介して貰い行政をせっつくことにした。管理職には授業料減免の手続きを頼み、教科担任には事情を話し進級の手立てを探ることにした。件の生徒は、暴れることはしなかったが、長い間Aさんと口をきかなかった。

 この母親は、学校や行政に文句を言う気力も気持ちも持てず「教育とはね、海とはどげなもんか、理屈で教えることとはちがう。海を見せに連れていく愛情じゃろが。わしは、閉山になって、やっとそれがわかった。な、そうじゃろが」の類を言えない。それ故最悪の事態一歩手前であった。
 元抗夫は、総労働対総資本の闘いを知っていた。だから教師に要求できたのである。愛情は闘いである。


 政府が莫大な費用を浪費して新たな基地を造ろうとしているとき、独立とは自治とは何か教えるために辺野古の闘いに加わる。辺野古の海や闘いを見せる、語る愛情が憲法教育じゃろが。な、そうじゃろが。  

「朕はたらふく食ってるぞ」には根拠がある

 敗戦記念日の度に、戦争体験が語られ投書される。その中で多いのは、飢えの苦しみと死別の悲しみである。しかし肝心のことが、常に置き去りにしている。慎重に避けている。 それは誰もが等しく飢え、どの一族も等しく死んだわけでは無いことだ。
   戦中も戦後も、食料と安全は偏在していた。「たらふく食い」「一族の誰も戦災で死なない」者の一群がいつもある。

 1946年5月19日、皇居前広場(当時、人民広場)に25万人を集め「飯米獲得人民大会(食糧メーデー)」が開かれた。

 労組委員長だった松島松太郎は「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」と書いたプラカードを掲げ参加、そして6月14日不敬罪で逮捕され事件となった。このプラカード事件自体忘れられた。プラカードの中身自体に根拠があった事はもっと知られていない。

 飯米獲得人民大会の一週間前5月12日、、世田谷の戦災者住宅で「米よこせ 世田谷区民大会」が開かれた。戦災住宅では、毎日1人多いときは3人が栄養失調で死んでいた。子供がオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら死んだという。
 大会では、18項目の要求((1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など)を決議。天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択、二手に分かれ抗議デモに。一隊は皇居に向かった。押し問答の末、デモ隊は皇居に入った、前代未聞の展開である。彼らは宮内省で「人民の声」を読み上げ、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求。官僚は「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省職員食堂に案内。それでも積み上げられた食料の豊富さは、被災者のど肝を抜いた。

 「50坪ほどの調理場には、120人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ15匹、スズキ1匹、サケ4匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ3、40尾、大ブリ5、6尾、牛肉5、6貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ3つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。 ・・・
  すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。
 このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。

  お通しもの
    平貝
    胡瓜
    ノリ
    酢のもの
    おでん
    鮪刺身
    焼物
    から揚げ
    御煮物
    竹の子
    フキ 」     大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社刊

 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した戦災者住宅の痩せた主婦があった。デモの時は、青白い

顔でよたよたと歩いていた。デモのあと半年、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、この主婦が復員を待っていた夫の「戦死公報」が遅れて届いた。これも『人間記録 戦後民衆史』にある逸話である。
          
 5月19日の飯米獲得人民大会では、世田谷区の主婦代表がおんぶ姿で悲惨極まる食糧事情を訴え、続いて国会議員らとデモ行進。ここで、松島松太郎(田中精機労組委員長)は 件のプラカードを掲げたのである。立派な証拠があっての表現であった。検事局は不敬罪で彼を起訴したが、一審は不敬罪は効力を失ったとして名誉毀損で有罪とした。1947年6月の二審で免訴となった。だが共産党員松島松太郎は、最後まで法廷で闘う決意を捨てなかった。法廷闘争に持ち込めば、食料危機の実体を白日の下に曝すことが出来るからである。

 この時天皇やマッカーサーはどうしたか。 

 5月20日、マッカーサーは「組織的な指導の下に行われつつある大衆的暴力と物理的な脅迫手段を認めない」と声明を出し民主化運動を牽制。
 天皇は、5月24日、『祖国再建の第一歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがいに助け合って、この窮状をきりぬけねばならない』とラジオ放送を行った。何をか言わんやである。


 宮内省役人が、天皇の台所ではではなく職員食堂に案内して「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ3、40尾、大ブリ5、6尾、牛肉5、6貫、平貝一山そのほか沢山 タライ3つの中身麦入りはわずか、大半は銀メシ」を「120人分の夕食用麦飯が三つのタライ、マグロ半身、カレイ15匹、スズキ1匹、サケ4匹のほかイモ、大根など」と的外れの公式発表する神経が、天皇制とは何かを良く表している。彼らは、自分を天皇を頂点とする選良であって「たらふく食っている」ことを隠す必要のないことだと考えていたのだ。彼らのために闘って飢えるのも死ぬのも、皇国民の誉れであり甘受すべきことにしか見えないのである。それは今も続いている。

たかが甲子園で泣くな 野球はgame=あそびに過ぎない

耐えられないときは何時でも泣いて白旗を出そう
 「伝説などは、どんな伝説でもすべてつまらない。・・・しかし伝説をつくりだすひとびとの心も、それを信じたふりをして保存するひとびとの心も、いつも簡単に片づけられない問題をはらんでいる。簡単に片づけられるのは個々のひとびとがもっている迷蒙さだけだが、共同迷蒙さはそうはいかないのである。なぜならばそれは、時代の象徴としての不安、すがりつきたい共同の願望がいつも根底に横わっているからである。共同の迷蒙が伝説にかわるためには、かならずしも個々の人間が迷蒙であることを必要としていない。個々の人間がどんなに賢明であっても共同の迷蒙は成立するのである」吉本隆明『源実朝』

 1945年の夏、学徒動員の中学生が、敗戦の知らせに声を上げて一斉に泣いた。ある文学少年が「何が悲しいんだ、泣くのを止めろ」と叫んだ。皆一瞬はっとして、誰も泣かなくなった。そしてしばらく経ってみると、どうしても泣けない。死にたいと言って泣いていたのに、泣けなくなっていた。いとも簡単に(共同の迷蒙
が消えたのである。

 自決用に配られた青酸カリをただ一人捨てるように、先ず自分自身の迷蒙を断ち切れ。例えば、雪の日に一人決意して雪かきをする、一人決意して部活を週三日に制限する、休暇を取り子どもと遊ぶ・・・のは、(共同の迷蒙
を断ち切る練習である。
 今年の高校野球は、
「球児」が無闇に泣く。それも目立つように、ワーワー泣く。(共同の迷蒙が、五輪騒ぎによって煽り立てられ国際紛争に向かっている。泣くな、事実を見つめろ。

像の白旗
 白い旗は、ガマの中でいっしょに数日を過ごした両手両足を失ったおじいさん、盲目のおばあさんが作ってくれた。「それをもっていけば、ぜったいに安全なのだ。それが世界中の約束だから・・・」と言いながら。

「戦争紙芝居」は小学校の学芸会だけではない。軍の正史までが稚拙な「紙芝居」であった

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 日露戦争では、日本の陸軍も海軍も正確な戦史をつくった。正確な事実の記録なしには、公正で有効な教訓を引き出せない。それが世界の常識であった。だが実際に公表されたのは、日本が世界の強国帝政ロシアをいかに倒したか、という「戦争紙芝居」並の稚拙な「物語」「神話」だった。陸軍大学生や海軍大学生にすら、史実は教えていなかった。海軍の「正しい」戦史は全百冊。三部つくられ、二部は海軍に、一部が皇室に。海軍はその二部を敗戦時に焼却してしまった。
 天皇家に残った「正しい」日露戦史は、昭和天皇死亡直前防衛庁に移された。作家半藤一利はそれを読み、驚いたという。そこに書かれていたのは、それまで国民が信じ込まされていた「物語」や「神話」と全然違うことであったからだ。
 日本海海戦で東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を迎え撃つときに右手を挙げ(当時の海戦の常識を無視した、敵前回頭の指示を指す。このおかげで日本海軍は勝ったことになっていた)したとか、微動だにしなかったとか、秋山真之の作戦通りにバルチック艦隊が来たというのは作り話であることがはっきり書いてある。あやうく大失敗するところだったのだ。
 陸軍も二百三高地戦の悲劇と犠牲を隠蔽し、乃木希典と参謀長を持ち上げ白兵戦と突撃戦法で高地を落としたと偽りの記録を残した。

 実際は、もう戦えない極限状況だった。米国大統領の仲介を得て、なんとか講和にこぎつけたに過ぎない。にもかかわらず「大勝利」と大宣伝して。浮かれた国民が提灯行列で、「弱腰」内閣を罵り焼き討ち事件を起こしてしまう。(東京新聞 2018年2月20日 朝刊 による)

 お手盛りの水増し戦果に浮かれて日本は、原爆を2発も投下される結末を招き寄せている。しかも未だに米軍に占領され、屈辱的な「日米地位協定」支配から脱出する気力も知恵もなく従属を強めるばかりである。

 正しく歴史を書き残し、真実をありのままに国民に伝える事がいかに大切か。(公文書管理法第4条(2011年4月施行)は「(行政機関は)意思決定に至る過程や実績を検証できるよう、文書を作成しなければならない」としている)。歴史が権力によって偽造されれば、国民は操作されいくらでも浮かれる。浮かれているときは、何かが偽造されていると疑わなければならない。クールジャパンに浮かれて、アマチュア精神をかなぐり捨てたスポーツの勝敗に酔い痴れる姿は、最新版「戦争紙芝居」序曲である。
 モリカケ問題における公文書書き換え・破棄。自衛隊・長沼ナイキ、「宴のあと」訴訟など重要な憲法裁判記録の廃棄。これらの歴史偽造に隠され、潜んでいる事実がある。 
  政府が2018年7月1日に閣議決定した集団的自衛権の行使容認に必要な憲法9条の解釈変更について、内閣法制局が内部での検討過程を公文書として残していないことである。

 法制局によると、同6月30日に閣議決定案文の審査を依頼され、翌日「意見なし」と回答した。これは公文書管理法違反である。更に憲法前文の「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」を犯す憲法違反に他ならない。
 従来憲法9条の下での集団的自衛権の行使容認は、自民党政権の下でも「不可能」として解釈されてきた。これを変えるために、内閣法制局がどのような議論を行い解釈の変更を容認したのかという経緯は重要な意味を持つ。法制局は「安保法制懇」と「与党協議会」の資料と閣議決定の案文しか、関連文書として保存していないと居直っている。
 憲法の解釈変更が可能であるのは、国会だけである。それを行政機関に委ねていたことに問題がある。これが許されるとすれば、憲法解釈変更は役所前の掲示板に貼られる文書だけで済んでしまう。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...