校長の適否は授業を受けた生徒が最終判断すべし

 校長に「何故授業しないの?」と詰め寄った女子高生がいた。真っ当な詰問。
   OECDが国際教員調査「TALIS 2018」で、授業をする校長の割合を国別に調べている。日本の数値は突出して0.0%。東欧諸国は90%台、チェコでは校長全員が授業している。フランス13.2%、フィンランド60.7%、0.0%なんて国は他にない。異常なのだ。ある大学教師もそれを分かりやすく表にまとめている。 http://tmaita77.blogspot.com/2020/08/blog-post_28.html

 女生徒の慧眼は、OECDや大学に先んじていたわけだ。ただ大学の先生は、校長の職務規定に「必要に応じ児童の教育をつかさどる」の文言を加えたらどうかと提言している。

 「校長の適否は授業を受けた生徒が最終判断すべし」でなければならぬと思う。主権者教育とはそういうことだ。そんな学校で思う存分「生意気」を尽くした若者であってこそ、企業で政府で社会で筋金入りの批判的市民となり得るのだ。「公(おおやけ)」はそうした動きがなければ、絵に描いた餅に過ぎない。公は常に更新されねばならぬ。既に存在して「参加」するだけの入れ物ではない。

   校長の職務は、「校務をつかさどり,所属職員を監督すること」(学校教育法37条)で、教員の「児童生徒の教育をつかさどる」という文言がない。それを根拠に法令上授業出来ないと居直る事を恥とも不満とも思わない神経を、涵養しているのが日本の教育行政である。
 
 政権topは世襲の繰り返しで加速度的に劣化。劣化すればするほど
政権topは、短期的成果を求めて現場への独善的介入を繰り返す。思い付きの軽薄な介入が、支持率操作の常套手法となった。批判精神を捨てた愚者を、無分別な行政が選抜し引き上げる構図が定着。学校に限らずあらゆる組織の「長」に、忖度と恫喝以外の能力は要らなくなった。
 冒頭の校長は女生徒を恐れて、校長室に鍵をかけて籠もってしまった。

衛生とは「いのち(生)をまも(衛)る」こと

似島検疫所は当時世界最大級
 衛生を単にsanitaryの訳語=汚物処理だと考える人は多い。明治年間、未曾有の危機から国民を救った国産の造語である。
日清戦争(1894年~1895年)で日本軍は戦勝したものの、大量のコレラ罹患兵を抱えた。 この時期、明治27年の患者数は546(死者314)だったが明治28年1895年には患者数5万5144(死者4万154)と爆発。戦場から多数の患者および保菌者が一気に傾れ込めば、各地はコレラ恐慌に見舞われることは明らかであった。
 その危機に直面して、3カ所の検疫所が計画・建設された。うち呉軍港に近い似島検疫所は、僅か2ヶ月で総建坪22,660坪、401棟の検疫所を完成。当時世界最大級の施設。この検疫で消毒した艦船687隻、総人員232,346人、内コレラ患者総数369人。コレラ罹患が確認された者は直ちに収容され、九日間の療養と再検査の後、故郷に向かった。他の国のように各地に散った帰還兵が病気を蔓延させることは無かった。
 
後にドイツ皇帝は日本の軍医に対し、「この検疫事業は無上の大成功である。日本は軍隊が強大であるばかりでなく、かかる事業を遂行する威力と人才があるとは」と驚嘆を伝えている。 
 このとき、衛生の語を「命をまもる」の意味を込めて造り、計画から建設運営までやってのけたのは、後の東京市長後藤新平である。僕はここで後藤の「功績」を語るつもりは無い。 位階や爵位ある者の義務だからである。
 肝腎なことは、戦傷の苦しみと死の感染症に怯える帰還兵にとって、検疫所の広大な設備と手当てはどんなに心強かったことだろうかという点にある。 人々の安心は、莫大な費用を浪費した挙げ句多くの兵士を死に導いた巨大戦艦の姿や零戦から生じるのではない。

 奮闘(検疫関係者の感染死は50 名を超した)の甲斐あって、1895年9月には患者は激減した。  しかし大流行が収まるには1920年を待たねばならなかった。
  ここでは日中戦争中も検疫が行われ、原子爆弾投下後は被爆者の臨時救護所となった。戦後は厚生省検疫所、1958年閉鎖。広島市内の似島避病院舟入分院は、広島市立舟入市民病院として今も存続している。

 今コロナに怯える我々は、世界最低レベルの検査と不足する貧弱な施設に苦ししめられている。130年前にやれた事さえ出来
ない。遙かに貧しいベトナムやキューバが徹底した医療政策によって、コロナ制圧に成功した事実から何一つ学べない。日本政府には「衛生」=命を守る思想は無いからだ。それ故コロナ対策担当大臣は、厚労相ではなく経産相なのである。国民の命より、利権なのだ。官房長官は「感染防止は個人の責任」と言い捨てる残忍さである。

自分の国を誉め続けるほどの惨めさよ

 自ら滅ぼしつつあるもの、ありもしないことを、誇りたがる癖がこの国にはあった。『武士道』・「天皇=現人神」に続いて「日本モデル」。内閣府による鳴り物入りの「クールジャパン戦略」政策は、新作の「ありもしない」こと造りに気も狂わんばかり。しかし膨大な予算と権力を伴っていることが、現象のケバケバしさの実態を軽々と暴露している。

 例えば『フランス人がときめいた日本の美術館』と言う番組が繰り返されている。だが元になった本の原題は「The Art Lover's Guide to Japanese Museums」、何処にも「フランス人がときめいた」などとは書いていないのに自己賛美。
   『世界が驚いたニッポン! スゴ~イデスネ!! 視察団』 この種の番組が競って称賛する類いの技術・気質・製品は、かつて日本中に溢れて、わざわざ宣伝して誇るほどのものでは無かった。しかしそれらが絶えそうになった時、権力はそれらを保護育成するどころか「近代化の邪魔」と見なして積極的に駆逐したのである。消えそうなにると慌てて、「スゴイ」と「外人」に言わせて悦に入る。


 大金と力を背景に「国の素晴らしさ」を煽らねばならぬほど、この国は衰退してしまった。ナチスが何処にも存在しないアーリアン人種に縋ったように、「何よりダメな」このこの国も虚像に縋る。

 この政権のウリである経済は、発足時498兆円あったGDPは2020年には485兆円。一人当たりの実質賃金は6%も減少。経済競争力も、シンガポール、香港、台湾、中国、韓国、マレーシア、タイの後塵を排する始末である。役立たぬ米国製兵器の爆買いには胸を張る。
 断トツに「何よりダメ」を白状しているのが、「自国による日本スゴイ」現象なのだ。だからこれらの番組では「白人」を多用して、近隣諸国を中傷する。 
   ドイツ言論界では、cool japan風に「自分の国をほめる」という行為は、いかがわしい行為と見られる。多くの言論人、報道関係者は、cool japan風に「自分の国をほめる」記事や特集に眉を顰める。メディアの仕事は批判的な分析という合意があるからだ。
 ドイツに限らず、欧米の言論・報道は「日本スゴイ」が横行するる日本とは異質である。月刊誌も「日本スゴイ」をやれば売れる。だが「日本スゴイ」は、自国に自信を失った証である。自国について自信がああれば、「日本スゴイ」を必要としない。

 フィンランドにはバラエティ番組はない。一番人気は討論番組で、二番目がニュース番組、三番目はドキュメンタリー番組だ。親が夕方の六時ごろに帰宅して、テレビ番組を見ながら子供たちと語り合うと言う。そもそも、午後や深夜にまでtv電波を飛ばして、国民を愚民化する神経を持っていない。静かで安らぎに満ちた時空が、日本から絶滅しつつある。

 「私が若いころ、ジャーナリズムはもっとかっこいいものでした。64年、米国がベトナム戦争に介入を深めるきっかけになったトンキン湾事件が起きました。ニューヨーク・タイムズは米政府の機密文書を入手し、事件が米軍の偽装工作だったことをスクープします。当時、同紙の幹部は社内の会議でこう言ったそうです。「これからタイムズは政府と戦う。圧力がかかり新聞も売れなくなるかもしれない。そうなったら輪転機牽一階に上げて社屋の一階を売ろう。
それでもダメなら二階も売る。輪転機を最上階の十四階まで上げることになっても戦おう」今、こんな気概があるでしょうか。問われているのはジャーナリズムも同じだと思います」森まゆみ

 ジャーナリズムが政権の広報に堕落し太鼓持ち化したことの、重要な部分を高校教師は負わねばならないと僕は考えている。1960年代、高校の新聞部は社研や演劇部などと並んで批判的言論表現活動熱心だった。しかし生徒は政治的評論に躊躇しなかったが、教師たちはいい顔はしなかった。僕は「指導」と言う語句を、この「いい顔はしない」教師たち抜きに思い浮かべることは出来ない。
 そのころ僕は、多感な高校生だった。活動的な生徒自治会やサークルが次々と、(生徒会費凍結などの)兵糧攻めで消滅していた。文部省の意向で、生徒会予算と活動に職員会議が介入したのである、文化祭の会計にも細かく目を光らせ始めた。デモにもカメラを構えた教師が付きまとった。僕たちはいくつかの高校と集まりを続けていたが、「僕たちの高校も、もう一緒にやれなくなった」と寂しく別れを告げる高校が相次いだ。話し合いが終わったあとの夕闇をトボトボと駅に向かった光景を忘れられない。
 自治的言論表現活動に代わるように、担任の「学級通信」が登場する。「学級通信」は初めから広報に過ぎなかった。派手派手しく「学級通信」集が出版され、アッという間に全国を席巻した。日刊だの夕刊だの形式だけが競われ、学校新聞消滅に拍車がかかった。今や担任の「学級通信」も息切れ。snsが席巻しているからだ。少し前 https://zheibon.blogspot.com/2019/03/blog-post_28.html  に書いたものに加筆。

 批判的言論表現活動が絶滅した高校を
、もはや「学園」とは言えない。教師が授業に関心を失い、学校が教育に自信を失ったからこそ、批判的言論表現活動を消滅させたことを識る必要がある。
  自信のない食堂が「美味い」「極上」などと書いたのぼり旗や看板に頼るように、怪しい構造の建て売り住宅が色彩感覚の壊れたのぼり旗で人を欺さねばならぬように、学校正面には、部活や合格実績の垂れ幕が見苦しく乱舞する。
   政策に自信もなく行動も怪しい議員は、電通に媚びメディア露出、
街中にポスターを貼りっ放し景観を壊して恥じない。学者は権力に媚び、論文を窃盗して恥じない。学歴詐称はありふれた現象となった。

   旗立てる事が日本に多くなり  
 と鶴彬が川柳を詠んだのは1932年。上海事変や五・一五事件が起きた。

戦場の「おおい、もう撃ち合い、やめまひょやあ」と 「九条」の精神

〽またも負けたか○○部  / それでは垂れ幕つくれんたい
 明治六年徴兵令、七年には大阪に八連隊がおかれた。大阪人はその八連隊に特別な感慨があると田辺聖子は書いている。
「兵隊に取られて戦争にいった八連隊の男の中には、「大阪の兵隊はな、戦地の敵サンの村へいって徴発なんぞ、せえへん。みな・金払うてきたんやデ」と自慢するのがいた。大阪阪人はケンカが嫌い、よって戦争も嫌い、足腰弱く口ばかり達者、しかし商人(あきんど)であるゆえ、モノをただ持ってくる、ということは何としても天然自然の埋に違う、という気が厳としてある、故に徴発や奪取ということはできない、少しでも代金を払う、というのである。私の小学生時代は日中戦争の頃であったが、人阪人はそんな話を日常の挨拶によく交して笑い合った。
 また、こういうのもあった。大阪出身の兵隊で組織されている部隊が、中国大陸のさる場所で中国軍と対戦中、敵軍からふと、
「おおい、もう撃ち合い、やめまひょやあ」という声が揚がったそうである。日本兵、というより、大阪ニンゲンの兵隊が驚いて、
「オマ工、日本語、うまいなあ」 と叫び返すと、
「へえ、大阪の○○の散髪屋で耳掃除してましてん」という返事、よういわんわ、といったかどうか、この時は銃後の大阪人をいたく喜ばせたものであった。
 子供の私は、大人たちがこれを倦まず人から人へ語り伝えるのを耳にした。・・・戦前の大阪の下町には中国人も多く、仲よく住んでいたから、庶民は対中国戦争に複雑な気持を抱いていた。南京陥落万歳万歳と提灯行列をしながら.一方で、大阪の兵隊は物をタダ取りせえへんのや、と妙な自慢をし大阪の散髪屋(サンパッチャ)の耳掃除のおっさんが、敵の兵隊になっとってなあ、こんなこといいよったらしい、と喜悦し、聞いたほうも、ほんなら、ハイカラ軒のあのおっさん違うか、器用で巧かったけどなあ、故国へかえって兵隊にとられよってんやろか、などと嬉しがっていたのである。
 私が幼女のころは手毯唄に、
   〽またも負けたか八達隊  / それでは勲章くれんたい(九連隊)
  というのがあり、私も花柄のゴム毬をつきつつ、友達とそう唄って遊んだものであった。聞いている大人たちも、当然のことのように聞き流し、べつに咎め立てもせず、八連隊は大阪の兵隊やよって、弱いのやと恥じもせなんだ。(九連隊は京都)
 商いの都市では、〈負ける〉ことはごく日常的営為であって、「よっしや、負けときまっさ、大負けに負けて出血サービスや」とか、「いや、これは負けました、しやァないな」などと口癖になっているから、負けるという言葉に対する拒否反応や刺激は全くない、戦争も商いもいつか、ごっちゃになっているので、郷土の八連隊が負けたとて、豪も痛痒を感じない。情けないとも不名誉とも思うておらぬのであった」。『道頓堀の雨に分かれて以来なり』中央公論社

 大正二年六月発表の徴兵忌避者数は、大阪が全国一位だった。

   とはいうものの、
 「大阪の兵隊はな、戦地の敵サンの村へいって徴発なんぞ、せえへん。みな・金払うてきたんやデ」
の挿話は全体としては、天皇の軍隊が略奪と殺害に明け暮れした実態を暴露するものである。とはいうものの、誰もが略奪する中で、自分だけはしないぞとの決意を誇る姿勢は記録に値する。

 平和な国家、健全な地域、健全な学校は、いろいろな要素が様々に混じり合う中で形成される。民族や国籍別や所得階層や偏差値別に選別構成してはならない。
 それがあっての
「おおい、もう撃ち合い、やめまひょやあ」

である。戦闘を軍隊中枢が決定するのではなく、前線の兵隊が判断する。「九条」の精神はここにある。
 今もなお日本企業の対外交渉では、交渉現場の判断は常に軽んじられ「本社の意向」を伺う始末 。学校も又、現場の判断を恐れ回避してきた。そんな傾向を構造的に打ち破らなければ「九条」は、生活に根を張れない。美しいだけの生け花であってはならない。
   せめて教師に、自分の教室だけは・・・するとの決意を、この挿話は促している。

 学校の正面に、「○○部、××大会出場」とか  「○○部、△君入賞」などと何枚も垂れ幕を下ろす光景は一体いつ頃から始まったのか。負ける側の神経を逆撫でする無神経は、醜悪である。校長室前に優勝盾を陳列するのも下品だし、最近は大学合格者数を書いて垂らす学校まであって見るに堪えない。
 全ての高校生を、替えのきかぬ主権者として愛でる姿勢が無い。冷たい教育である。こんな垂れ幕を見て、受験する中学生や父兄があるのだろうか。

 近所に自由が看板の
古い学校があって、運動部もある。見かけは丸刈りで強そうだが、これが滅法弱い。いつも一回戦で敗退する。だがどうも、根っから運動が好きらしい。練習に疲れ果てて、夏の日差しを避けて日陰の芝で談笑する。
 〽またも負けたか○○部  / それでは垂れ幕つくれんたいと、自ら笑い飛ばしているようで清々しい。

激痛が生む妄想の世界

狩野亨吉は危険思想家を自認した

  帯状疱疹の地獄の痛みが和らぐとともに、奇妙なことに気付いた。 痛みでのたうち回っていた時と痛みが和らいでからでは、ものの見え方がまるで違う。
 うちのベランダから、科学館のプラネタリウムの大きなドームが見える。やや距離を置いて、ドーム沿いにドームと同じ位の高さの針葉樹が一列に広がっている。
  その枝と葉が、僕にはドームの曲面に書かれた前衛書道の筆跡に見えたのである。こんなに下手な書を目立つ場所に書いたセンスのなさに呆れた。数ヶ月もの長い間、そう信じ込んでいた。それがある日、単なる立木の枝葉に過ぎないと気付いた時、僕の痛みは消えかかっていた。

 夜中、壁や天井の模様が浮き上がって、痛みの象徴に見えていた時期もあった。大型の万力で締め付けられるような痛みは、途方も無い罰を受けているからに違いない。罰なら、それは如何なる罪に対応してるのか、と妄想が際限なく押し寄せる。

 それが単なる模様であると自分に言い聞かせるのに途方もなく消耗した。鎮痛薬(リリカ錠)の副作用による妄想は恐るべきものであった。
 再び運転し始めて、更に気付いたことがある。視野が広がり遠くまで見通せるようになったことだ。たぶん見え方だけではなく、記憶や思考力も聴覚や触覚も歪んでいた筈。
 些細なことで激高したこともある、有る筈のないものを感じ、有る筈のものを認知出来ないでいたからだ。

 痛みや不安は、人の認識過程を大きく左右する。不幸や不安が大きければ、世界観は動揺し崩壊もする。言葉や表情に現れるだろう。能能力に致命的傷を与えもする。(ノーベル賞受賞の数学者、ジョン・ナッシュが悩まされた妄想に興味がある。彼はある不運な事件で学者としてのポストを失うが、それと共に強い妄想に取り憑かれる。その妄想に登場する人物は声や姿だけではなく、触覚まで彼にもたらした。←クリック)
 個人が独占する豊かさも、それが消滅する恐怖に苛まれる。
   僕は拷問に堪えかねて、信念を捨て世界観を変えた人たちが味わったものの正体を垣間見た気がした。苦しければ世界が歪む。セクトの査問や企業のハラスメントが、人の世界観を歪め命さえ奪う仕組みを病床で味わった。 

 人類は健全な肉体と感覚を前提に、複雑怪奇な世界を認識している。だが一人一人の肉体や感覚は完全ではない。多かれ少なかれどこかに欠陥を抱える。野球を得意とする者は、詩や絵が分からない。科学に精通すれば、ピアノを嗜む暇はない。それを補い合うから、認識の歪みや欠落を補正することが出来る。社会を健全に保ち発展させるために、人間は連帯し合うよう運命づけられている。                                    
 金のある同士、家柄のいい者同士、偏差値の高い同士が結びあっても、「欠陥」は互いに増幅される。世襲議員が、悉く劣化し急速に腐敗堕落するように。芸能界や経済界も例外ではない。


 1935年、志賀直哉はある対談でこう語っている。

「今の世の中でファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね・・・大体この二三年間、急に日本はまるで日本でなくなったやうな気がするぢゃないか。僕は腹が立って、不愉快でたまらないんだ・・・世の中が実に暗い。外へ出るのも不愉快だ。言ひたいことが言へない世の中などというものは誰にとっても決して有難くないわけだ」    『文化集団』昭和10年11月号「志賀直哉氏の文学縦横談」
 多様な文化思想の人間が混じり合えば、そこでの言葉は明晰性を増す。
 逆にファシストやカルト集団と彼らに忖度する人間だらけの世間ならば、言葉の明晰性は消えてしまう。
 それ故志賀直哉は、戦後発足したばかりの『世界』の編集に、敢えて中野重治や宮本百合子を入れる提案をしている。
 戦争の愚劣を言葉の明晰さが暴く事を、彼は願ったと僕は思う。
 多様性を内包しない結びつきは、動的平衡を保てない。動的平衡の欠けた芸術はあり得ない。

 夏目金之助が博士制度や文芸院に口を極めて反対した所以である。
 安藤昌益の研究者・狩野亨吉は
 「自分は危険思想をもっているので、王者の師傅に適しない」
と皇太子の教育掛を固辞し、帝大総長の地位さえ退け、東京大塚の長屋に「書画鑑定並びに著述業」の看板を掲げた。地位も身分も存在の動的平衡を壊すからである。
 
 学校が選抜に固執すれば、少年たちの生活世界から多様性は消える。教育のそして社会の健全性も発展性も失う。やがて地域は停滞腐敗する。

 長い激痛と妄想の半年余り、恰も僅か一畳余りの独房で絶えざる拷問にさらされたかのようであった。極めつきの柔らかな肌着さえ、針を打ち付けたものに感じられたほど。 何度も絶望した。痛みが無くなるならと自死も考えた。それを止めたのは、甲斐甲斐しく日常を構成し続ける妻の笑顔である。

 コロナ禍の激痛は社会の見え方を歪ませている。検査と治療の徹底ではなく、Go to travel キャンペーンによる感染の拡大に向かわせてしまった。今年の出生数も若者の結婚数も激減する(8月21日、一億総活躍担当大臣は、新型コロナウイルスの感染拡大で、結婚や妊娠・出産に不安を抱く人の増加が、出生数や婚姻数の減少につながっていることを認めた)。最悪の選択に固執するの愚を、この政府は又も選んでいる。
 

漱石の博士号嫌いと「自」由

漱石にとっての平凡な自由
 漱石は「他由」が我慢ならない。1911年2月20日、夏目金之助宛に文学博士号を授与する学位記を文部省通達。 2月21日、漱石は文部省の福原鐐二郎専門学務局長に宛て次のように伝えた。
 「拝啓、昨20日夜10時頃、私留守宅へ(私は目下表記の処に入院中)本日午前10時頃学位を授与するから出頭しろという御通知が参ったそうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病気で出頭しかねる旨を御答えして置いたと申して参りました。学位授与と申すと、2、3日前の新聞で承知した通り、博士会に推薦されたに就て、右博士の称号を小生に授与になる事かと存じます。然る処、小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります。この際御迷惑を掛けたり御面倒を願ったりするのは不本意でありますが、右の次第故学位授与の儀は御辞退致したいと思います。宜しく御取計を願います。敬具」

  漱石は辞退の手紙とともに、学位記を返送。面目を潰された文部省からは、「発令済みでもあり、大臣の命のため辞退をすることは許されない」と学位記が再び届く。漱石は、再度辞退の手紙を出す。4月19日、文部省より「学位記は当局で保管する。辞退されようともすでに発令されているので貴下を文学博士とする」と通知。

   漱石は自己の尊厳のために憤慨したのではない。

  5月18日から20日にわたって『東京朝日新聞』に漱石は『文芸委員は何をするか』を連載している。

 「政府が官選文芸委員の名を発表するの日は近きにありと伝えられている。・・・政府はある意味において・・・少くとも国家を代表するかの如き顔をして万事を振舞うに足る位の権力家である。今政府の新設せんとする文芸院は、この点においてまさしく国家的機関である。従って文芸院の内容を構成する委員らは、普通文士の格を離れて、突然国家を代表すべき文芸家とならなければならない。しかも自家に固有なる作物と評論と見識とのもたらした価値によって、国家を代表するのではない。実行上の権力において自己より遥に偉大なる政府というものを背景に控えた御蔭で、忽ち魚が竜となるのである。自みずから任ずる文芸家及び文学者諸君に取っては、定めて大いなる苦痛であろうと思われる。・・・政府が国家的事業の一端として、保護奨励を文芸の上に与えんとするのは、文明の当局者として固より当然の考えである。けれども一文芸院を設けて優にその目的が達せられるように思うならば、あたかも果樹の栽培者が、肝心の土壌を問題外に閑却しながら、自分の気に入った枝だけに袋を被せて大事を懸ける小刀細工と一般である。文芸の発達は、その発達の対象として、文芸を歓迎し得る程度の社会の存在を仮定しなければならないのは無論の事で、その程度の社会を造り出す事が、即ち文芸を保護奨励しようという政府の第一目的でなければならない事もまた知れ切った話である。そうしてそれは根の深い国民教育の結果として、始めて一般世間の表面に浮遊して来るより外に途みちのないものである。・・・余は政府が文芸保護の最急政策として、何故にまず学校教育の遠き源から手を下さなかったかを怪むのである。
・・・我々は自から相応に鑑賞力のある文士と自任して、常住他の作物に対して、自己の正当と信ずる評価を公けにして憚らないのみか、芸術上において相互発展進歩の余地はこれより外にないとまで考えている。けれども我々の批判はあくまでも我々一家の批判である。もしそれが一家の批判を超越する場合には、批判その物の性質として普遍ならざるべからざる権威を内に具えているがためで、いわば相手と熟議の結果から得た自然の勢力に過ぎない。
 ・・・一家の批判をもって任ずべき文芸家もしくは文学家が、国家を代表する政府の威信の下に、突如として国家を代表する文芸家と化するの結果として、天下をして彼らの批判こそ最終最上の権威あるものとの誤解を抱かしむるのは、その起因する所が文芸その物と何らの交渉なき政府の威力にもとずくだけに、なおさらの悪影響を一般社会――ことに文芸に志す青年――に与うるものである。これを文芸の堕落というのは通じる。保護というに至ってはその意味を知るに苦しまざるを得ない」
   
 漱石が嫌っていたのは、自由な批判や評論に権力が介入することであった。そんなことより「まず学校教育の遠き源」に力を尽くすべきと、至極常識を言っている。まさしく危険思想としての個人主義
である。
 同じ論理で博士制度についても
 「一国の学者を挙げて悉く博士たらんがために学問をするというような気風を養成したり、またはそう思われるほどにも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れている。・・・博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至るとともに、選に洩もれたる他は全く一般から閑却されるの結果として、厭うべき弊害の続出せんことを余は切に憂うるものである。余はこの意味において仏蘭西(フランス)にアカデミーのあることすらも快よく思っておらぬ。」明治44年4月15日『東京朝日新聞』(博士問題の成行)
 こうした精神は、夏目漱石に限ったものでは無い。
 慶応元年生まれの狩野亨吉は、旧制高校校長や帝大総長の地位を未練なく捨てている。←クリック
 鹿児島の片田舎の明治生まれの祖母たちも、海軍砲兵将校であった祖父の苦い経験もあって、共同体を超えた力が日常に介入することに神経質であった。高校の何たるかも知らなかった僕に中学生の従兄弟が、高校の次には大学があってトーダイが一番だぞとけしかけたことがある。帰宅するや、祖母たちを喜ばせようと、「僕トーダイに入るよ」と言うと祖母と大叔母たちは戸惑い怒ったように声を揃えて、そんなものに「ならんでんよか」と言った。ことあるごとに「今のままでいい」と言い、東大や士官学校を出てしまった近隣の知り合いたちがどんな末路を辿ったかを聞かせるのだった。
 父も博士号を頑として拒否し続けた。子どもを何で尊ぶべきか、自分の仕事は何で評価されるべきか強い価値意識が自分たちの中にあって、外部の権威や権力に一元的に従属すべきではないと考えていたのだ思う。
 子どもにとって「僕が大事にされるのは成績や記録のせいではない、ここにいること自体なのだ」と確信できることほど大切なことはない。それが平凡な自由である。

  我々が教師として生徒に向かう会うとき、偏差値や成績や合格実績や大会実績を通していないか。我々が自らを生徒や保護者に紹介するとき、教委や文科省による身分や資格を、色眼鏡として利用していないか。

 主任教諭とか主幹とか統括校長と名刺に書きたくなった時、生徒も授業も遠くに消えてゆく。

病院船・コロナ病床jet機による国際主義という決断

Helgoland号甲板の乗り組み看護婦と治療後のベトナム幼児
 ベトナム戦争中米国は、同盟国ドイツにも参戦を執拗に要請した。だがドイツ政府が出した答えは、病院船派遣。ドイツは武器と兵隊ではなく、病院船ヘルゴラント号をベトナムに送った。ヘルゴラント(Helgoland)号は、遊覧船だったが、病院船に改造されベトナムに向かう。ジュネーブ条約を遵守、米国の民族皆殺し政策に加担して殺すのではなく、北ベトナム、南ベトナム双方の民間人を治療したのである。ベトナム人からは、「白い希望の船」と呼ばれ歓迎された。昼は港に入って患者の手当てをし、夜はより安全な沖で待機。ドイツの医師や看護師たちは、来る日も来る日も手足の切断手術や、米軍のナパーム弾で体全体にやけどを負った人々の治療に励んしだ。

 これは、沖縄の基地をベトナム爆撃に使わせていた日本が率先してやるべきことだった。憲法九条を持つ自称「海洋国家」の何たる失策。世界に反戦運動が盛り上がる1969年、進水した原子力船「むつ」は失敗を重ね、膨大な費用を文字通りドブに捨てた。為にならないことには精を出し、害が明らかになっても中止する判断さえ出来ない。希望がない。
 


独は、伊からのコロナ患者輸送のために、エアバスA310 を改造
 そして今度は、コロナ患者のための世界最高のMedEvacである。高度な施設での治療が必要な患者を、治療を行いながら迅速かつ効率的に医療機関に搬送するICU専用jet 機。ドイツは、イタリアからドイツの病院にコロナ患者を運ぶために、エアバスA310 を改造。この飛行機には44床のベッドがあり、そのうち16床は高集中治療患者向けのもので、最大25人の医療スタッフが搭乗していると。

 病院船も ICU専用jet 機も、現在のコロナ禍日本にこそ必要なものではないか。全国に散らばる離島のコロナ患者や医療破綻自治体の為に、複数のICU専用jet 機と病院船、そして病院列車が、大勢の医療stuffとともに必要だ。
 中国封じ込めのために、阿倍が世界中に専用機でばらまいた資金援助だけで 30 兆円。
 せめて首相専用機をICU専用jet機にしても罰は当たらない。何ら有効活用していない豪華専用機だ。
 莫大なコロナ対策費が、又もドブに投じられ却ってコロナ禍を広げ深刻化させている。
 集団的自衛権行使を容認して積極的平和主と嘯く日本は、いつまでも経っても、失敗を認めない、惨劇を中止出来ない国だ。
 日米欧6カ国首相のコロナ対応策調査を「ケクストcnc」が7月中旬各国1000人対象に行った。プラス評価はドイツのメルケル首相(42%)のみ 、最低は日本阿倍首相のマイナス34%。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...