人はひとを評価出来ない  ② active learningと国際化

仇をとってやりたい、少年は机を蹴飛ばした
 志賀直哉の『流行性感冒』にこと寄せて、「人はひとを評価出来ない ① 教科「道徳」を嗤う」を書いた。これはその続きである。

 多摩の典型的な普通高校にいたことがあり、担任するクラスに八百屋の倅K君がいた。人見知りの少年で、知らない者、特に権威的教師に対しては余所余所しかった。真っ直ぐ向かい合って座ることも、目を見て話すこともしなかった。
 あるとき些細なことで謹慎処分を受けることになった。教頭が処分を告げる時も、斜めに腰掛け目も
下を向いたまま。教頭は些細な処分事実よりも、その態度が気に入らなかったらしく執拗に咎めた。K君は身じろぎもしないで、床を見つめ続けた。教頭の怒りは、親に向かった。この様子では、担任にも攻撃が回るかと思ったところでチャイムが鳴った。
 僕は、『流行性感冒』を再読して、石の態度がK君にうり二つであると気づいた。石が暇を解かれて女中を続けることになっても、彼女は決して主人公に詫びない。嫁入りのために、主人公一家と上野駅で別れるときも、まるで怒ってでもいるかのように後ろを向いたまま去って行く。
 もしあの教頭が
『流行性感冒』の主人公なら、石が詫びようとしないことを執拗に難じたに違いない。後ろを向いたまま別れの一言も発しない石に向かって、「挨拶をしなさい、こちらを向きなさい」と怒鳴っただろう。
 石の心が、幼い左枝子と別離する悲しみに押し潰され、どう振る舞えばいいのか何と言えばいいのかにさえ思いが至らない。気取りのない剥き出しの感情を、石は必死で表そうとすればするほど戸惑う。
 出来合いでそつのない挨拶や仕草をたたき込まれた教師には、石のむき出しの感性は、粗野で矯正すべき人間としか映らない。
 

 厳粛であるべき処分言い渡しの場でのK君の振る舞いは、教頭としての自尊心を打ち砕いてしまった。取るに足りない逸脱そのものより、自分の権威をハナにもかけない態度の方が許せなかったのだ。しかしその程度の薄っぺらな人間観の男がhead teacherで、更に校長になりたがっているのだから困る。生徒との対話に心を砕くのではなく、管理職試験の答案練習に励むのである。生徒による校長と教頭の直接選挙は、こうした管理職を一掃するに有効だ。

 K君を僕は謹慎中に訪ねた。「謹慎」にあたるものを英語ではsuspensionといい、登校停止である。ここには授業こそが学生・生徒の権利であるとの理解がある。権利をsuspensionすることが罰となり、個人の私生活には踏み込まない。しかし日本では授業は身分的な恩恵であり、謹慎は恩恵を思い知らせるために「家に閉じ籠め、品行を慎ませる」ことである。個人の内面にまでズカズカ入り込む 。謹慎は、権力的罰である。罰は指導ではない、指導は権威の機能であり生徒にとっては権利なのだ。それを理解しない日本の教師の好きなおかしな言い回し「指導の一環としての処分」は、自家撞着であることに気付きさえしない。

 僕はK君が父親を手伝いながら、ぼそぼそと話し合う光景を期待していた。向かい合って話すのが苦手な少年にとっては、協働はうってつけである。互いに向き合えないとき、共通の対象に向かって働きかけることで互いの心が同調する機会を期待できる。
  K君は二階で、しょんぼりしていたが僕が帰る頃には
 「おれ、八百屋になるよ。売るのは野菜だけどさ、店にジャズを流して内装も工夫したいんだ」と少し笑顔が見えた。僕は何を彼に話しただろうか。思い出せない。おしまいに
 「お父さんとお母さんに、教頭の失礼を謝っておいてくれないか。ここに上がる時には、店には客が立て込んでいて言えなかったんだ」と言い残して、買い物客で賑わう夕暮れの通りに出た。

 ある日の授業で、K君が突然机を乱暴に蹴飛ばして「ちきしょー」と呟いた。ベトナムや中国で、日本軍が何をしたのかをやや詳しく実話を読んでいる最中だった。みんな驚いて静まった。
 「だって酷いじゃないか、おれ日本軍が許せない。仇をとってやりたい」と続けて机を睨んでいた。。
 僕が下町の工高で教えているとき、こうした剥き出しの反応が同時に何人も、時には集団的に、度々あったことを話した。多摩の生徒たちは、「スゲー」と笑った。


 active learningや国際化が流行って久しい。僕はそんな言葉で新しがるより、民族を超えて「仇をとつてやりたい」と机を蹴飛ばす生徒が続出する授業を望む。

追記 冒頭の写真は、上海南駅への日本軍による爆撃跡で泣く赤子を中国人写真家が撮ったもの。「LIFE」誌が掲載、「読者の選んだ1937年ニュースベスト10」に選ばれている。
  

怒れ!高校生! 模擬投票ごっこは君たちに何をもたらしたのか

政治的権利は大人だけのものではない
 若者の笑いが変わってきている。レストランでも電車の中でも無遠慮に高笑いをする。周りの迷惑など素知らぬ風に、会話の内容にかかわらず笑ってみせるのだ。どんなに下らない無内容なことでも一律に高笑いをする。高笑いで座を盛り上げているつもりだろうが、仲間の顰蹙さえ買うこともあって、咎められ一時静まるのだがしばらくすると、無神経な高笑いが始まる。あちこちで不快な高笑いを耳にするようになり、若いサラリーマンが出入りする店は近寄りたくない。
 TVのバラエティ番組は、笑いの内容や質ではく「形式」を変えて、不快な高笑いを煽っている。 
 バラエティ番組では、無闇に大勢のお笑いタレントが雛壇に並んでいる。低質な番組をコメントで盛り上げる役割を担わされているが、タレント自身にtalentが無いから雛壇に並ぶ数は膨れ上がる一方。気の利いた知的コメントは出来ないから、目立つために言葉以外で優位を保とうとする。椅子から落ちたり、パワハラめいた内輪ネタを叫んだりする。その一つが、場を制する馬鹿笑いである。内容や質によって笑いをとるのでは無く、高笑いという形式で番組を制しているのだ。TVそのものが、質の高い対話や笑いを提供する力や見識を失い、その代わりに笑いの形式を変えてしまったのである。高笑い以外に芸が無いから、レストランでも対話のない高笑いが続く。
 ディレクターは政権に忖度する広告代理店に首を掴まれ出来るのは視聴率を高めるという絶望だけなのだ。怒れ高校生!笑い方までTVに指図されるな。笑いの中身を君たちが作れ。君たちを支配するものを笑いのめせ。
 
 朝日新聞大阪版に、元特攻志願兵の投書があった。引用する。
 特攻志願「お前たち馬鹿だ」無職 加藤敦美(京都府 88)
 世論調査では、18~29歳の自民党支持や改憲への賛成が他世代に比べて異様に多い。兵隊にされ、戦場に送られる世代ほど、そうしようとしている勢力を支持している。寒気がする。
 私自身、16歳で特攻死しか待っていない予科練(海軍飛行予科練習生)だったからだ。死ぬための志願。あれは何だったのかと今も思う。冬の夜、山口県の三田尻駅(現・防府駅)に入隊の旅を終えて、灯火管制の真っ暗闇の中、不安と緊張に凍え、皆が黙りこくって待った。突然、若々しく朗らかな声がした。「海軍なんか志願して、お前たち、馬鹿だなあ」。迎えにきた海軍の下士官だったのだ。
 街という街は廃墟となり、次々と人は殺され、少年兵は゛恨み死に″した。戦場帰りの下士官は知っていたのだ。「お前たち、馬鹿だ」 馬鹿だった。無心にあどけない幼子まで、母の胸に抱かれて焼死体になった。誰が幼子を殺したのか。私たちが死ぬのは自分の勝手だ。だが小さい子たちまで道連れにする。わかっている。だから憤怒する。わざわざ自分を兵隊にする改憲をしたがるお前たち、馬鹿だなあ…。18~29歳。自分が何をしているか、わかっているのか。

   ヌーの大群は、まるで集団自殺するかのように、先行する仲間がワニに襲われ次々に絶命しても川に飛び込む。 若者は己の絶滅を目差す政策を支持してしまう。何故だ。ヌーの群れも日本の若者たちも、独立した判断能力を集団に投げ出しているからである。

 18歳選挙権が、若者の政治行動と高校教師の学問・教育の自由を圧迫・恫喝しながら唐突に導入され、現場は妙な雰囲気に包まれながら色めき立った。自分の模擬投票授業光景をマスコミに売り込んだり、自治体から本物の投票箱を借りたり、自ら投票結果を官庁に報告に出向くなど浮ついた行動が目立った。実態はお寒いもので、政権や保守系の議員らに忖度して投票の判断材料は、選挙公報の類いのみ。形式ばかりが整えられ、投票行為を通して政治の実態に肉薄するという中身は忘れられるのは、バラエティ番組と変わらない、番組編成の実権は最早現場にはないのだ。
 馬鹿にしているではないか、もし株や投資の模擬売買授業をやるのに、会社のパンフレットと証券会社の案内だけが配られるとしたら、どんな判断が出来るのだ。証券会社のカモを育てるばかりだ。選挙公報は「公」報とは言うものの、候補者のどんなはったりもそのまま掲載され、事後の検証は日本では問題にすらなっていない。そんな怪しげなものだけで、模擬投票が行われる。嘘を言い法螺を吹く政党が有利なわけだ。
 高校や大学のクラブ活動に「選挙公報・検証委員会」を作らねばならない。文化祭に相応しい展示になることは間違いない。これこそ、主権者を育てる政治教育である。だから議員たちは、襲いかかるように潰しにかかるだろう。

 校長や生活指導部長の信任投票、担任に対する拒否権の行使など、高校生を政治的主体に育て上げる種はいくらでも転がっている。そこに目を向けさせないのは、取りも直さず教員に政治的経験も決意も欠落しているからに他ならない。
 模擬投票ごっこは、政治参加の入り口をたった一カ所に限定し形式だけを整えて見せた。お行儀のいい高校生をつくって。君たちは知っているか、真っ先に首を切られたり、無過労死させられるのは、おとなしく従順な人だということを。

 若者が自らの権利のために立ち上がる手段は、ひとつではない。政治的行動は「清き一票」だけではない。闘うべき対象が持つ力は、多様かつ巨大である。新聞やテレビ放送網を持ち世論操作はお手の物、大量の株を保有することは、会社を支配するだけではなく株価を通して世界を牛耳り戦争を勃発させる力さえ持つ。財閥と学閥と閨閥は互いに結び合いあらゆる関係に入り込んで、我々を精神的に支配している。宗教やスポーツ・芸能も例外ではない。選挙で成立した政権を、税金で調達した武力を用いて転覆して関係者を大量虐殺することも珍しくない。
 それらの不条理に抵抗するのに、数年に一度の「一票」は重要だが余りにひ弱で、無知で闘いの矛先を攪乱させられてしまう。そのために、新聞社も株も家系も持たぬ者たちに「清き一票」以外の闘いの手段が蓄えられて来たのだ。結社やサボタージュやストライキを正当な権利として認めさせるためには、多くの血と汗が流されたことを方がいい。デモや集会に参加することが、文字通り命がけであった時代もある。文学や演劇の表現が逮捕・拷問の口実にもなった。18歳になって初めて君たちの政治的権利が生じるわけではない。高一の少年にも小学生にも、政治的要求を掲げて行動する自由は元々ある。60年安保の時は、小学生のデモもあった。その事実を大仰な模擬投票で誤魔化されちゃいない。18歳選挙権は、始まりではない。単に投票への参加に過ぎない。
 クラブ顧問の横暴や、生活指導部の理不尽な頭髪検査に意義を唱えて交渉することも、立派な政治行為だ。昼休みの外出を禁じるのなら食堂を設置しろというのは、温和しい控えめな要求だ。
 教師は「模擬投票ごっこ」騒ぎの総括をする必要がある。

人はひとを評価出来ない ① 教科「道徳」を嗤う/ 志賀直哉の慧眼

スペイン風邪は日本でも猛威を振るい48万人が死んだ
 志賀直哉に「流行感冒」という短編がある、1919年の作。流行感冒とは、世界的に流行したスペイン風邪をさす。世界で5億人が感染、死者5,000万から1億人を出した。日本での死者は最新の研究では48万人、当時の日本人口の1%が死んでいる。今で言えば、100万人の死者である。
 

 主人公には妻と幼い女の子があり、女中が二人いる。晩秋の我孫子が舞台で流行性の感冒が近づく。主人公夫婦は娘の健康に臆病なほど気を遣って、二人の女中にも人混みに近づかぬよう厳しく言いつけていた。ところが、女中の石が町にやってきた芝居を見に行ってしまう。問い詰めても嘘を言い張り、もう一人の女中きみにも嘘をつかせる。腹を立てた主人公は、石に暇を出すことにする。しかし妻は、自分たちも後悔することになると反対して、石は奉公を続けるのだが依然として嘘を認めない。そうこうしているうちに、スペイン風邪が流行り出す。主人公も妻も感染して、看護婦を二人雇う。その看護婦の一人もきみも感染して、幼い娘の左枝子まで感染してしまう。

 「今度は東京からの看護婦にうつった。今なら帰れるからとかなり熱のあるのを押して帰って行った。仕舞に左枝子にも伝染って了って、健康なのは前にそれを済ましていた看護婦と石とだけになった。そしてこの二人は驚く程によく働いてくれた。
 末だ左枝子に伝染すまいとしている時、左枝子は毎時の習慣で乳房を含まずにはどうしても寝つかれなかった。石がおぶって漸く寝つかせたと思うと直ぐ又眼を覚んて暴れ出す。石は仕方なく、又おぶる。西洋間といっている部屋を左枝子の部屋にして置いて、私は眼が覚めると時々その部屋を覗きに行った。二枚の半纏でおぶった石がいつも坐ったまま眼をつぶって体を揺っている。人手が足りなくなって昼間も普段の倍以上働かねばならぬのに夜はその疲れ切った体でこうして横にもならずにいる。私は心から石にいい感情を持った。私は今まで露骨に邪慳にしていた事を気の毒でならなくなった。全体あれ程に喧しくいって置きながら、自身輸入して皆に伝染し、暇を出すとさえ云われた石だけが家の者では無事で皆の世話をしている。石にとってはこれは痛快でもいい事だ。私は痛快がられても、皮肉をいわれても仕方がなかった。ところが石はそんな気持は気振りにも見せなかった。只一生懸命に働いた。普段は余りよく働く性とは云えない方だが、その時はよく続くと思う程に働いた。その気特は明瞭とは云えないが、想うに、前に失策をしている、その取り返しをつけよう、そう云う気持からではないらしかった。もっと直接な気持かららしかった。私には総てが善意に解せられるのであった。私達が困っている、だから石は出来るだけ働いたのだ。それに過ぎないと云う風に解れた。長いこと楽しみにしていた芝居がある、どうしてもそれが見たい嘘をついて出掛けた、その嘘が段々仕舞には念入りになって来たが、嘘をつく初めの単純な気持は、困っているから出来るだけ働こうと云う気持と石ではそう別々な所から出たものではない気がした。
 私達のは幸に簡単に済んだが肺炎になったきみは中々帰って来られなかった。そして病人の中にいて、遂にかからずに了った石はそれからもかなり忙しく働かねばならなかった。私の石に対する感情は変って了った。少し現金過ぎると自分でも気が咎める位だった。
 一カ月程してきみが帰って来た。暫くすると、それまで非常によく働いていた石は段々元の杢阿弥になって来た。然し私達の石に対する感情は悪くはならなかった。間抜けをした時はよく叱りもした。が、じりじりと不機嫌な顔で困らすような事はしなくなった。大概の場合叱って三分あとこは平常通りに物が言えた


 石に縁談があって、実家に戻る。このとき主人公は四谷に引っ越していた。

 「いよいよ石の帰る日が来たので、先に荷を車夫に届けさして置いて、丁度天気のいい日だったので、私は妻と左枝子を連れて一緒に上野へ出かけた。停車場で車夫から受け取った荷を一時預けにして置いて、皆で動物園にいった。そして二時何分かに又帰って改札口で石を送ってやった。
 私達には永い間一緒に暮した者と別れる或気持が起っていた。少し涙ぐんでいた石にもそれはあったに違いない。然しその表れ方が私達とは全く反対だった。石は甚く不愛想になって了った。妻が何かいうのに禄々返事もしなかった。別れの挨拶一つ云わない。そして別れて、プラットフォームを行く石は一度も此方を振り向こうとはしなかった。よく私達が左枝子を連れて出掛ける時、門口に立っていつまでも見送っている石が、こうして永く別れる時に左枝子が何か云うのに振り向きもしないのは石らしい反って自然な別れの気持を表していた


 この無愛想でかたくなな石の一途な心情を、なんと言うべきだろうか。傾慕と言う単語が浮かんで、僕は唐突に「坊ちゃん」の下女 清 を思った。夏目漱石は「坊ちゃん」で清を随分書いているが、坊ちゃんが幼児の頃のことは書いていない。清のモデルは漱石の友人の祖母である。だから墓は養源寺実在するが「清」のでは無い。
 志賀直哉はかたくなで一途な下女の心情を、漱石に増して書き込んでいる。

 
 「然し私達の石に対する感情は悪くはならなかった。間抜けをした時はよく叱りもした。が、じりじりと不機嫌な顔で困らすような事はしなくなった。大概の場合叱って三分あとこは平常通りに物が言えた」の件もいい。主人公の人間が出来てきたのである。
 人に「己をもって人を律す」類いの説教を垂れるたがる人間にこの箇所は読ませたい。特に学校の教師、分けても校長や教頭に。「背負うた子に教えられ」とはよく言うが、「叱る相手に教えられ」ことには及びもつかない。大抵気分が激しているからである。
 

 「私は・・・眼が覚めると時々その部屋を覗きに行った。二枚の半纏でおぶった石がいつも坐ったまま眼をつぶって体を揺っている。人手が足りなくなって昼間も普段の倍以上働かねばならぬのに夜はその疲れ切った体でこうして横にもならずにいる。私は心から石にいい感情を持った。私は今まで露骨に邪慳にしていた事を気の毒でならなくなった。・・・石だけが家の者では無事で皆の世話をしている。・・・私には総てが善意に解せられるのであった

 もの言わぬ石の左枝子への傾慕が、主人公の人格を静かに淘汰している。無言のうちに
「己をもって人を律す」ことの危うさを主人公に教えたのだ。
 文部行政の「売り」教科「道徳」のせっかちで浅薄な人間観の中では、石を咎め反省させる以外の結末は無い。皆が不満たらたらで不幸になる。何も学べない、従って誰一人成長しない。そのどこに教育があるか。  続く

人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ、保護することは、すべての国家権力の義務である

  
人間の尊厳は不可侵と宣言し、それをを守る覚悟
ベトナム戦争中、米国は同盟国ドイツにも参戦を執拗に要請した。だがドイツ政府が出した答えは、病院船派遣。ドイツは兵隊ではなく、病院船ヘルゴラント号をベトナムに送った。ヘルゴラント(Helgoland)号は、遊覧船だったが、病院船に改造されベトナムに向かう。ジュネーブ条約(武力紛争に際し、戦闘行為に参加しない民間人や、戦闘行為が捕虜、傷病者などの保護を目的としてつくられた条約。ジュネーブ条約がつくられたのは、武力紛争の最中であっても、人道をふみはずす行為は許されないという世論があってのこと)を遵守した。
 ドイツは米国の民族皆殺し政策に加担せず、南北ベトナム双方の民間人を治療した。ベトナム人からは、「白い希望の船」と呼ばれ歓迎された。昼は港に入って患者の手当てをし、夜はより安全な沖で待機。ドイツの医師や看護師たちは、来る日も来る日も手足の切断手術や、米軍のナパーム弾で体全体にやけどを負った人々の治療に励んだ。沖縄の米軍基地を爆撃に使わせるのを断って、日本が病院船を派遣すべきだった。沖縄とベトナムなら補給や重傷者の移送も迅速に行われたはずだ。憲法九条を持つ国にそれが出来なくて、ドイツには可能だったのか。
 
    ドイツ憲法第1条
   人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ、保護することは、すべての国家権力の義務である。

    日本国憲法第十三条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

  「人間の尊厳」とは、その存在の尊さ言う。存在の無条件の承認である。何かが出来るから、名門に合格したから尊いのでは無い。大会を勝ち抜いてメダルを囓る姿が素晴らしいのでは無い。生きている事実そのものが尊い。
 そんなことは言われずとも分かっている筈なのに、我が子や我が校が一歩でも抜きん出ることを目指してしまう。  


 「だのに何故、歯をくいしばり、君はゆくのか、そんなにしてまで・・・」。映画「若者たち」の主題歌は、そう歌っていた。貧しい兄弟たちは、助け合い罵り合いながら、平等と正義を求めて苦闘した。しかし、食うや食わずからの貧しさからほんの少し抜け出して見れば、助け合いや平等への熱情は冷めるばかり。競争とは無縁の高校生のクラブ活動分野にまで、無理矢理競争が持ち込まれている。連帯と友情の影はきれいさっぱり消えている。

 映画「若者たち」に、気に入りの場面がある。兄弟唯一の大学生サブが、破綻せんばかりの悩みに打ち萎れる友達に、工面したなけなしの金を貸し、笑いかけながらこう言うのだ。「いっちょう揉んでやるか」、そして、二人して
大学の森を駆け抜けてグラウンドに向かう。サブはラグビー好きだったが、学費のためのアルバイトと学生運動で、クラブに属する贅沢は出来ない。しかしどこからかボールを調達して来て、芝を駆け回る。スポーツは、こんな働く青年たちのものである。たまの偶然に出来た僅かの時間に楽しめる、そんな開放的仕組みがあっての「人間の尊厳」だろう。
 
 資金と時間を持つ者だけが特権的にグラウンドを占領し、当局の補助とマスメディアの称賛をあてにメダルを目指す。貧しい者たちは、見るだけ、憧れるだけ。ここに個人の尊厳は無い。メダルを稼ぐ奴隷と、賃金奴隷だけだ。

 尊厳が組織や集団のものとなれば、個人は組織に属することを誇るようになる。組織が尊厳の単位になれば、外部を排除する意識は生まれやすい。それが民族単位になれば、排外主義となる。
 
 日本国憲法では、権利の対象をわざと「国民」に限定している。戦中は強制同化して「日本人」
としての死を強要した諸民族を、都合よく「尊厳」ある人間から排除して恥じない。日本を見苦しくアジアから隔離する意識が、13 条にはある。
 戦犯としてのけじめもつけぬ「天皇」を、
憲法本文の冒頭に置いたのでは、「人間の尊厳は不可侵」を掲げた憲法とは言い切れまい。だから日本国憲法第十三条は歯切れが悪い。
 第一条と第十三条とでは、覚悟が違うのだ。「公共の福祉に反しない限り」を挿入して、権利そのものの範囲を恣意的に限定することも可能にしてしまったのである。
 ドイツ憲法第1条と日本国憲法第十三条は似てはいる。しかし状況によって逆方向を向いてしまう。
 
 例えば、我々は公立学校の選別体制が、「人間の尊厳」に関わる桎梏と捉え闘ってきただろうか。それを憲法を守ることとして覚悟してきたか。
 制服や持ち物から個人情報が即座に読み取られてしまうのだ。創立100周年偏差値72 のA高校という情報を体の表面に貼り付けた少年と、定員割れで閉校寸前の偏差値38のZ高校という袋を被せられた少年の、3年または6年、場合によっては死ぬまでの生涯が、どんな格差を孕んでいるか分からない奴らにひとを指導する資格はない。高校生にとっては、偏差値が僅か「1」違うことが蔑視や劣等感の根拠となって、映画「若者たち」的青春を遠いものとしているのだ。その悔しさ悲しみを想像出来ないか。

 すべての青少年が「尊厳」ある存在であるためには、選別は許されない。生徒の尊厳を守るために選別体制廃止を主張し闘う覚悟を、日本の教師や学生は持ったことがあるだろうか。生徒には、学校や教師の尊厳を強要して「起立・礼」を強制したでは無いか。
東大闘争は、選別体制に一瞬でも立ち向かったか。尊厳を我々は分かっていない。
 「公共の福祉」を盾に一人一人の尊厳を押しつぶす行政の理不尽を、若者の意識に初めて植え付けるのは学校なんだ。

 人としての尊厳は不可侵であることを前提として、public =「公」の概念は形成される。そこに「公共の福祉に反しない限り」を被せれば、公=「おおやけ」は集団を覆う何重もの大きな屋根としての「大家」に過ぎなくなる。だから世界のどこでも許されていない米軍の理不尽や無法が、広義の「公共の福祉」としてまかり通るのである。(未完)

SNSの「いいね!」は、君の社会性も人間らしさも破壊している

facebookのザッカーバーグは我々を監視する
 僕が携帯を持たないわけの一つは、電源を完全に切ることが簡単では無いからだ。着信音を阻止して、観劇や音楽鑑賞の妨げにならないようには出来るが、どこにいても追跡される機能は生きている。「誰それは今誰と一緒です」と、頼みもしないのに教える機能まである。位置情報は便利そうだが、監視の手段だ。
 どこで何をしているかは、個人の尊厳にとって重要なことだ。だから監視も追跡もされたくない。facebookでは友人関係までが一目瞭然であり、それを便利・親切と思わされる。誕生日も、知り合いに自動的に知らされ「おめでとう」が強制される。

  SNSに漂う怪しげな空気を、facebook開発者の一人パリハピティヤは、言葉や映像などの発信に対する「ハート」や「いいね」の仕組みを例に挙げ、こう言っている。
 「私たちが作り上げた、スパンが短く、ドーパミンの分泌によって駆り立てられるようなフィードバックのループが、社会を壊しています・・・そこにはソーシャルな会話や協力がなく、情報の欠落と曲解された不正確な言動が存在します

 facebook社のCEOザッカーバーグは、米議会公聴会で、facebookがfacebookユーザー以外の情報も集めていることを認めている。これは、facebookの「いいね」ボタンが設置されているサイトを閲覧すると、「いいね」をクリックしなくても閲覧に使ったパソコンやスマホに残る履歴などはfacebookサーバーに自動送信されるからだ。

  「いいね」には、更にあきれた拡張機能「どうでもいいね」がGoogle Chromeによって提供されている。これは、Facebookのタイムライン上に表示された投稿を良し悪しに関係なく、まとめて「いいね」する。

 
 忠告や批判は、友情と民主主義の基礎である。それを先端を気取った便利な道具が、軽薄な「いいね」で破壊している。個人のfacebookにはたいてい、少なくとも数百人が友達として登録されている。こんなに大勢の「友達」に、各々の悩みや喜怒哀楽に応じた対応が出来るわけがない。

 ある財閥系巨大企業の人事部長を務めた友人は、一人の課長が面倒をみることが出来るのは10 人でも多いが口癖だった。部下には数人の家族がある、その一人一人にまで目を配ってこその管理職なんだ。友達も同様だ。何百人も「友達」登録すれば、結果的にすべての「友人」に無関心にならざるを得ない。すべての「友人」に同じメッセージを送るとは、誰の心配も出来ないと言うことなのだ。だから、何を見た、買った、食べた、どこに行った、などという私信だけが一方的に発せられ、機械的に「いいね」が累積される。

 「いいね」が気になるとfacebook 上は本人が自覚出来ぬほどの極軽い「嘘」で「いいね」を増やそうとする。トランプのSNSだけがfakeなのでは無い。SNSの機能上の必然なのだ。誰もが、少しづつfakeなのだ。
 ホワイトアウトした雪の平原で、気づかぬ間にワンデリングを繰り返して遭難するように、僅かな目に見えないfakeも積み重ねれば、自分自身の心積もりとは逆を向いてしまう。最早そこに「真実」は無い。
 悩みや苦しみが見えない真実は、所詮fakeに過ぎない。
 facebook社を去ったパリハピティヤは、自身がその成長に関わったFacebookについて「とてつもない罪悪感」を感じている、なぜなら「社会が機能する機構を分断させるツールを私たちは作ってしまっと発言している。

 政府がオーウェルの描いた『1984』的になるのを多くの人は懸念している。しかし今や懸念では無い。便利さに釣られて自発的にプライバシーを権力に向かって開け放しているのだ。一連の「戦争法」は人々が権力に向かって無防備になったことの結果た。
 我々は公的な役割を担う企業が便利さを餌に、プライバシーを奪うことに不用心すぎた。新聞の紙面が、通販のえげつない宣伝に汚され、国民の公共財たる電波が数多くのTVshoppingに占領されているのに、それを便利だと錯覚している。便利になったのではない。便利で身近な商店街が大型商業施設に駆逐された結果としての不便さにつけ込んだに過ぎない。そして新たな搾取体系が生まれ、貧困は更新・拡大再生産される。
『1984』的世界の貧しさは、こうして出来する。

サムライジャパンへの違和感 / たかが行事で泣くな、怒れ

南京大虐殺 / 殺される側に身を置いて、怒れ!
  「・・・それは、たとえば、『葉隠』という書物のどこに私自身がいるか、ということだ。なかにこんな話があった。中野杢之助という名前の武士が涼みに小舟に乗って隅田川に出る。ならず者が同じ舟に乗ってさんざん乱暴を働く。 武士はならず者が小便するところを見はからって首を切る。首は川に落ちたが胴体は舟に残る。人気のないところに埋めてくれれば金をたくさんやると船頭を言いくるめて、その残った胴体を埋めさせる。そうしておいてから、武士は船頭の首を切る。そのあと、もちろん、世の中には何の噂も流れない。」問題は「この話のなかのどこかに、私はいるのか。この話に出て来た三人の登場人物のうちの誰が私なのか」ということだ、と私は書いた。私はその自分の問いに対して答えを次のように書いた。「私がこの話を読んでたちどころに自分を同一化したのは、船頭だった」「彼にはまず名前がなかった。そして、彼は日々のくらしに忙しくて、生きることにまず追われていて、(葉隠が説く武士のカガミのように)『毎日のように死を考える』余裕はなかった。その(死の準備の)ために化粧してまで、日常を美的に生きる余裕などはなかっただろうと私は思う。
 私にとって、三島氏たちはこの話のなかでの「武士」だった。あるいは「武士」の側に身をおこうとしている人たちだった。同じことは、彼らの死によって衝撃を受け、「自分たちの側に三島氏を出さなかったことは自分の敗北だ」と彼らの行為をとらえた「全共闘」運動の指導者にも言えた。あるいは「三島事件はこのどうしようもなくくさりきった時代に対する警鐘だ」という投書に端的に見られるような当時の一種の三島氏らの行動への暗黙の支持の風潮にも、それは言えた。・・・「たとえ、それが精神的な意味あいにおいてであろうと、たとえば、武士たちがどのように美しさにみち、けだかい狂気にみちたものであろうと、そうした生き方を示していようとも、私はそこに身をおきたくない。それは私のひとつの決意であり、その決意を、私の生き方、考え方の基本にすえようと思う」・・・

(船頭の)「その死に、自分の生き方、考え方、感じ方の根本をすえることだった。私がそうするのには、一つには、私自身が私なりに体験した過去の戦争体験があるにちがいない。」「船頭」の死は、まさに私が体験したなかでおびただしく見た「難死」だった。・・・「私の戦争体験が私に強いた認識は、私があわれな船頭以外の何物でもないという事実だった。その事実を認識することから、私は、自分の反戦運動への参加の原理、そして参加そのものへの基盤をつくり上げて行った
」 小田実『「ベ兵連」回顧録でない回顧』p581

 都立S高校では、体育祭が名物であった。応援団が縦割りで組織される。三年生が一年生二年生をしごく。彼らはバインダーを必ず小脇に抱えた。中の書類に何が書かれているかは、分からない。何も入っていないかもしれない。練習の最中、それを開ける者はないのだから。マッカーシー議員の内ポケットに隠され、全米が戦いた国務省内共産党員のリストのように真っ白かもしれなかった。 それでいいのだ、それは権威の象徴であったから。何しろこの国では、権威はいつも空虚なものであった。

   そのバインダーを片手に応援団リーダーは、下級生しごきを謳歌した。夕闇が迫り学校を追い出されても、近所の公園や空き地でダミ声を張り上げた。一年生は暗闇の中を、しごきへの反感を抱えてヘトヘトになって帰宅した。
 僕はこの応援団が、嫌いである。体育祭も嫌いだった。体育祭や応援団の振る舞いは、全体主義そのものだったからだ。しかし中学生は、S高校伝統の体育祭応援合戦に憧れて入学する。数週間のしごきは、体育祭当日の本番に続く後夜祭で興奮の坩堝と化す。団ごとに円陣を作り感想を言い合い、いつまでも泣くのである。
 集団の涙には、妙な浄化作用があって、しごいた三年生に対する反感や恨みを洗い流して声を挙げて泣くのである。そして翌日から、先輩後輩関係が強化更新される。理不尽な暴力に対する怒りは、こうして体制内化する。
 

 昔、侍はよく泣いた。坂本龍馬も西郷隆盛もよく泣いたらしい。新撰組も吉田松陰も泣いた。全共闘もよく泣いていた。泣くことで、論理は置き忘れられ、情緒が幅をきかすのである。
 革命家は、泣かない。泣くのを止め、怒るところから革命は始まる。泣きながら武器を振り回してはならない。
 応援団のバインダーは、侍の刀に相当していたと思う。行動の上からは邪魔ではあるが、応援団リーダーとしての価値付けに欠かせない。白衣を着たがる教師や、医者でもないのに白衣に執着する臨床心理士に似て滑稽だ。だが、本人は胸を張るから余計可笑しい。

 市ヶ谷で三島由紀夫たちは、特注の制服を着用し日本刀を帯びて絶叫した。応援団リーダーは、揃いのバインダー片手のダミ声に自己陶酔したのである。

 僕は、高校生の応援団や「侍ジャパン」にいやなものを感じる。彼らは常に『葉隠』に於ける武士に、自己を同一化している。決して、切られる船頭の側の立場に立ってみることはない。侍であることを信じて疑わないのである。雇い主や「くに」のために命を賭けて闘う自分の姿に「武士道とは死ぬことと見付けたり」と得意がり、斬られ殺される側に身を置くことはないのだ。
 南京大虐殺や慰安婦問題でも、殺され虐待される側に身を置いて想像することがない。せいぜい「小心な善意」傍観者なのだ。

 だから敗北した途端、皇居前に土下座して泣き、占領軍として敵が上陸する前に、「特殊慰安施設」を整えた歴史的恥辱を感じることも無い。
 自らを戦場に駆り立てた者への怒りを抑圧して、自らが為した虐殺や虐待を告発する者達を憎悪するのだ。それ故、未だに占領行為を暴力的に継続する米軍への従属・へつらいを止められないのである。

日本の最も暗い闇としてのスルガ銀行

日本の最も暗い闇は我々の日常にある
 大島軍曹は即座に上官の鶴の一声に従い、 
 「では、列の最後尾にいる者から順番に刺突することにする。最後尾にいる者は前へ出ろ」と怒鳴った。しかし、誰も前に出る者はいない。私たちの間にざわめきが起こった。列にビリにいるのは馬場二等兵にきまっている。その馬場はすっかり臆してしまって前へ出ないのだ。 
 「最後尾にいるのは馬場二等兵だな。馬場、前へ出んか!」大島軍曹がまた怒鳴った。しかし、馬場は返事もしなければ前へもでない。たまりかねた亀岡兵長が馬場二等兵のもとへ飛んで行って、
 「馬場二等兵、貴様、班長殿がおっしゃっていることが聞こえんのか」と、馬場二等兵の胸ぐらをつかんで、前へ引きずり出した。
 「さあ、銃剣を構えるんだ。そして標的めがけて突進するんだ。なにも恐れることはない」亀岡兵長はいちいち馬場二等兵の手をとって、どうにか銃剣を構えさせた。
 「突っ込め!」 兵長は馬場の肩を力一杯押した。だが馬場は二、三歩前へよろめき出ただけである。
 「貴様、なぜ、突っ込まんのか!」兵長はさらに馬場の肩を押した。だが馬場は再びよろよろと二、三歩前へ出ただけで、
 「かんにんしとくなあれ」と泣き声で言った。
 「なんだ、かんにんしとくなあれとは、なんだ。このボッサリめ。上官の命令をなんと心得ているんだ」兵長は馬場の横面に続け様に往復ビンタをくらわした。だが、馬場は頑として動かない。
 私たちは固唾を呑んでその有様を見守った。いつもなら馬場がなにかへまをすると、同年兵から一斉に笑い声が起こるのだが、この時ばかりは誰も笑わない。
 今度は大島軍曹が馬場の前へ飛んで行った。そしていきなり馬場の胸倉をつかむと、
 「貴様、内務班長の俺に恥をかかす気か。さあ、銃剣を構えろ。そして突っ込むんだ!」と馬場をけしかけた。しかし馬場は
 「かんにんしとくなあれ」を繰り返すばかりで、動こうとしなかった。
 「このボッサリめ!」大島軍曹はいきりたって、拳固で馬場二等兵をなぐりつけた。馬場は鼻血を出してぶっ倒れた。それを見ていた青木少尉は、
 「大島軍曹、もういい。その馬場二等兵はあとで処分することにする。こうなったら、もう整列の順序などどうでもよろしい。われと思わん者から先に突かせろ」といらいらした口調で怒鳴った。それを受けた大島軍曹は、
 「よし、率先して名乗り出た者から、刺突をおこなうことにする。希望者は手をあげて名前を言うんだ」と私たちの隊列を睨みつけて言った。しかし、誰も手をあげる者がいない。きまずい沈黙の時間が、一分、二分、三分と流れた。                 
     井上俊夫『初めて人を殺す 老日本兵の戦争論』、岩波現代文庫

 スルガ銀行の捏造融資事件では、「偽装のない案件は100件中1、2件」だったという。すでに死者を出している。日弁連のガイドラインによる第三者委員会が実施した行員アンケートは、スルガ銀行の実態を炙り出している。

 毎月、月末近くになってノルマが出来ていないと応接室に呼び出されて「バカヤロー」と机を蹴ったり、テーブルを叩いたり、1時間、2 時間と永遠に続く。/
 過度な営業目標があり、目標は必達であり、達成出来ていない社員には恫喝してもよいという文化があります。
「なぜできないんだ、案件を取れるまで帰ってくるな」といわれる。/ 首を掴まれ壁に押し当てられ、顔の横の壁を殴った。/ 数字ができないなら、ビルから飛び降りろといわれた。/
 毎日2~3時間立たされて詰められる、怒鳴り散らされる、椅子を蹴られる、天然パーマを怒られる、1 ヶ月間無視され続ける等々。/ 死んでも頑張りますに対し、それなら死んでみろと叱責された。/ 数字ができなかった場合に、ものを投げつけられ、パソコンにパンチされ、お前の家族皆殺しにしてやるといわれた。

 僕はこれを聞いて、戦時中の日本軍兵営をおもいうかべた。似ているからでは無い。スルガ銀行の方が何倍も理不尽で過酷であるからだ。日本軍でさえ、兵士に「お前の家族皆殺しにしてやる」とか「ビルから飛び降りろ」とは言っていない。驚くべきことだが、この連隊では、捕虜刺殺を命じられても「かんにんしとくなあれ」が、滅茶苦茶に殴られはするが、ある意味で通じたのである。だから、「よし、率先して名乗り出た者から、刺突をおこなうことにする。希望者は手をあげて名前を言うんだ」と私たちの隊列を睨みつけて言った。しかし、誰も手をあげる者がいない。という事態が出来するのである。
 野間宏の『真空地帯』に倣って書けば、金融界を目指す若者は、「コノナカ(銀行)ニアッテ、人間ノ要素ヲ取リ去ラレ」スルガ銀行員となるのである。日本の最も暗い闇と呼ぶに相応しい企業は、ヤクザではない。
 同じ地域の住民に死に至る不正を仕掛けることを、同じ職場の人間に「お前の家族皆殺しにしてやる」と言いながら強制する狂気。それを戦時でも無いのに、平然とやってのけるこの国の「民」。戦時であれば、遠い国の見知らぬ民が相手であれば、更に残虐な手段を執ることは目に見えている。我々は武器や軍隊を持ってはならない。
 スルガ銀行の実態やスポーツ界と学校に蔓延するパワハラを知れば、街にあふれるアジアや沖縄に対するヘイト言説を見れば、南京大虐殺は無かったなどとは断じて言えない。大戦中の惨劇を雄弁に語るのは、現在の我々の日常なのだ。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...