たかが甲子園で泣くな 野球はgame=あそびに過ぎない

耐えられないときは何時でも泣いて白旗を出そう
 「伝説などは、どんな伝説でもすべてつまらない。・・・しかし伝説をつくりだすひとびとの心も、それを信じたふりをして保存するひとびとの心も、いつも簡単に片づけられない問題をはらんでいる。簡単に片づけられるのは個々のひとびとがもっている迷蒙さだけだが、共同迷蒙さはそうはいかないのである。なぜならばそれは、時代の象徴としての不安、すがりつきたい共同の願望がいつも根底に横わっているからである。共同の迷蒙が伝説にかわるためには、かならずしも個々の人間が迷蒙であることを必要としていない。個々の人間がどんなに賢明であっても共同の迷蒙は成立するのである」吉本隆明『源実朝』

 1945年の夏、学徒動員の中学生が、敗戦の知らせに声を上げて一斉に泣いた。ある文学少年が「何が悲しいんだ、泣くのを止めろ」と叫んだ。皆一瞬はっとして、誰も泣かなくなった。そしてしばらく経ってみると、どうしても泣けない。死にたいと言って泣いていたのに、泣けなくなっていた。いとも簡単に(共同の迷蒙
が消えたのである。

 自決用に配られた青酸カリをただ一人捨てるように、先ず自分自身の迷蒙を断ち切れ。例えば、雪の日に一人決意して雪かきをする、一人決意して部活を週三日に制限する、休暇を取り子どもと遊ぶ・・・のは、(共同の迷蒙
を断ち切る練習である。
 今年の高校野球は、
「球児」が無闇に泣く。それも目立つように、ワーワー泣く。(共同の迷蒙が、五輪騒ぎによって煽り立てられ国際紛争に向かっている。泣くな、事実を見つめろ。

像の白旗
 白い旗は、ガマの中でいっしょに数日を過ごした両手両足を失ったおじいさん、盲目のおばあさんが作ってくれた。「それをもっていけば、ぜったいに安全なのだ。それが世界中の約束だから・・・」と言いながら。

「戦争紙芝居」は小学校の学芸会だけではない。軍の正史までが稚拙な「紙芝居」であった

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 日露戦争では、日本の陸軍も海軍も正確な戦史をつくった。正確な事実の記録なしには、公正で有効な教訓を引き出せない。それが世界の常識であった。だが実際に公表されたのは、日本が世界の強国帝政ロシアをいかに倒したか、という「戦争紙芝居」並の稚拙な「物語」「神話」だった。陸軍大学生や海軍大学生にすら、史実は教えていなかった。海軍の「正しい」戦史は全百冊。三部つくられ、二部は海軍に、一部が皇室に。海軍はその二部を敗戦時に焼却してしまった。
 天皇家に残った「正しい」日露戦史は、昭和天皇死亡直前防衛庁に移された。作家半藤一利はそれを読み、驚いたという。そこに書かれていたのは、それまで国民が信じ込まされていた「物語」や「神話」と全然違うことであったからだ。
 日本海海戦で東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を迎え撃つときに右手を挙げ(当時の海戦の常識を無視した、敵前回頭の指示を指す。このおかげで日本海軍は勝ったことになっていた)したとか、微動だにしなかったとか、秋山真之の作戦通りにバルチック艦隊が来たというのは作り話であることがはっきり書いてある。あやうく大失敗するところだったのだ。
 陸軍も二百三高地戦の悲劇と犠牲を隠蔽し、乃木希典と参謀長を持ち上げ白兵戦と突撃戦法で高地を落としたと偽りの記録を残した。

 実際は、もう戦えない極限状況だった。米国大統領の仲介を得て、なんとか講和にこぎつけたに過ぎない。にもかかわらず「大勝利」と大宣伝して。浮かれた国民が提灯行列で、「弱腰」内閣を罵り焼き討ち事件を起こしてしまう。(東京新聞 2018年2月20日 朝刊 による)

 お手盛りの水増し戦果に浮かれて日本は、原爆を2発も投下される結末を招き寄せている。しかも未だに米軍に占領され、屈辱的な「日米地位協定」支配から脱出する気力も知恵もなく従属を強めるばかりである。

 正しく歴史を書き残し、真実をありのままに国民に伝える事がいかに大切か。(公文書管理法第4条(2011年4月施行)は「(行政機関は)意思決定に至る過程や実績を検証できるよう、文書を作成しなければならない」としている)。歴史が権力によって偽造されれば、国民は操作されいくらでも浮かれる。浮かれているときは、何かが偽造されていると疑わなければならない。クールジャパンに浮かれて、アマチュア精神をかなぐり捨てたスポーツの勝敗に酔い痴れる姿は、最新版「戦争紙芝居」序曲である。
 モリカケ問題における公文書書き換え・破棄。自衛隊・長沼ナイキ、「宴のあと」訴訟など重要な憲法裁判記録の廃棄。これらの歴史偽造に隠され、潜んでいる事実がある。 
  政府が2018年7月1日に閣議決定した集団的自衛権の行使容認に必要な憲法9条の解釈変更について、内閣法制局が内部での検討過程を公文書として残していないことである。

 法制局によると、同6月30日に閣議決定案文の審査を依頼され、翌日「意見なし」と回答した。これは公文書管理法違反である。更に憲法前文の「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」を犯す憲法違反に他ならない。
 従来憲法9条の下での集団的自衛権の行使容認は、自民党政権の下でも「不可能」として解釈されてきた。これを変えるために、内閣法制局がどのような議論を行い解釈の変更を容認したのかという経緯は重要な意味を持つ。法制局は「安保法制懇」と「与党協議会」の資料と閣議決定の案文しか、関連文書として保存していないと居直っている。
 憲法の解釈変更が可能であるのは、国会だけである。それを行政機関に委ねていたことに問題がある。これが許されるとすれば、憲法解釈変更は役所前の掲示板に貼られる文書だけで済んでしまう。

「出来」ても0点をとることの主体性 Ⅱ

偏差値は物語を作れない
 彼らが平然と0点をとったのは、自らを記号として扱うシステム=偏差値出現への拒絶ではなかったか。偏差値の教育への応用は始まったばかりであった。偏差値という外から持ち込まれた無生物が絶対性を帯びる事への違和感は、少年にも親たちにも強くあった。
 学級は家族とともに個々人の成長誌である。映画『二十四の瞳』は美しい映像でそれを見せている。それは文化であり、そこに優劣はない。文化は数値や文字から生まれるわけではないからである。
 我々はそのことを無文字社会から学んだのではないか。ただ嫌悪すべき遅れた社会として知っただけだったのか。だとすれば嫌悪すべきは、効率に囚われた我々自身である。

 偏差値に部活を加えて「文武両道」と名付ければ、あたかも全人格的な成長物語が出現したような錯覚=神話が生まれる。(封建官僚制の中で使われた言葉を濫用する薄っぺらさが、偏差値を招いたとも言える)
 部活的「文武両道」神話における「文」からは、理性が排除されている。「武」にはアマチュアスポーツの自主・平等・公平の精神が欠けている。それはまさしく組織や君主のために、命を鴻毛のごとく軽んじて「己を空しゅう」することに他ならない。つまり「死ぬこと」としての武士道が、「文武両道」神話には生きている。だから組織のために「私情」を抑える事を、親も教師も世間も讃えてしまう。そこには、語る主体としての少年/少女はない。

 学ぶことは生きることと同義でなければならない、結果としての数値で知れるものではない。過程としての物語を核にしている、それは親にとって子の体重や身長の記録が、成長の誌ではあり得ないのと同じである。
 学校が偏差値と「文武両道」神話を拠り所とする限り、学校自体が大量消費の海に溺れてしまうだろう。溺れても藁を掴んではならない。

  「ユーモレスク」に耳を傾ければ、A君たちと過ごした日々が鮮やかに蘇る。音楽の時間に聴いた覚えがある。滑稽で気紛れな気質は教室の笑いを誘い、それでいて悲しく寂しげな表情は
「ユーモレスク」の雰囲気に似ていると思うのだ
 「なぁ、オレの成績とお前の成績をたして2で割れば丁度「3」じゃないか。」周囲が爆笑するなか、Aくんは
 「オレがいるからお前がいて、お前がいるからオレがあるんだ、だよな。だから俺たちは親友だ。」と続けて僕の同意を促した。この時彼は、偏差値と相対評価の理不尽を正確に見抜き、それを僕に伝えていたのだと思う。
 「偏差値に囚われるなよ」と教師は誰も教えなかった。その仕組みの確からしさを言っただけだ。卒業が迫ったある日
 「たわし、俺たちのこと忘れないでくれよなぁ。・・・あぁ・・・お前やっぱり俺たちのこと忘れちゃうだろうな」とべそをかきそうになったのは、効率や偏差値が社会全体を覆い尽す事態に何ら反撃出来ない悲しみであり、親友が偏差値の彼方に吸い込まれる事への警告でもあった。

 
A君の懸念通り偏差値に溺れそうになったのは、進学した僕だった。息をすることも周りを見渡すことも苦しかった。「皇帝」や「ユーモレスク」でA君たちを思い浮かべて気休めした。
 高校が軒並み荒廃の頂点に達した時も、「管理主義」や「毅然たる指導」の言説に惑わされずにすんだのは、彼らの思い出のおかげである。二中を取り巻く歓楽街の子どもたちの荒廃や大学紛争時の青年の
閉塞極まる状況に比べれば、どんなに荒れた教室も僕には「花園」に見えた。

 A君が「頑張れ」ばクラスの平均点は上がるが、別の誰かが「1」を頂戴する羽目になる。

 悦ちゃん←クリック unlearn仕切れない生徒←クリック自分が頑張ってしまえば誰かが「ビリ」になることに、鋭い嫌悪感を持っていたのだと思える、際限のない競争に皆が疲弊することを回避したかったのだこれこそが理性である。
 彼らは抑制の効かない社会に対する孤独なドンキホーテだろうか。ソローではないか。 




敗戦の大政変で、思想犯や政治犯が新政権中枢で活躍出来なかったのは何故か

わたしは反対意見を、苦痛と悲しみをもって訴える
   「憲法改正を伴う大政変では、獄中にあった思想犯や追放された政治犯が新政権中枢で眼光鋭く汗を流す。それが健康な民主制であり、社会と個人が一度失った多様性・全体性を回復する不可欠の過程である。その一環として責任の追求と補償は曖昧さを許さず行われる筈であった。だが敗戦後、重監房帰りの中村利登治、追放の淵にあった島比呂志、追放された「不穏分子」吉川先生らの名が挙げられることはなかった。
 草津重監房扉と三千名の政治犯・思想犯監房の扉を国民自らの手で解錠出来なかったことを、我が歴史の痛恨事として記憶しようとの決意すら無い社会には、隔離と追放の構図が構造的に温存されている。
 三木清は、二度目の投獄を敗戦後の四十日まで生き、豊多摩刑務所で空しく絶命した。彼の死因は疥癬感染による急性腎臓炎。刑務所が疥癬囚人の寝具を消毒せず支給した為である。戸坂潤も敗戦の直前8月9日長野刑務所で疥癬のため死亡。これらは事故ではない。公務員による殺人である。他方で伝染する怖れのない病気には、大仰な消毒・予防措置を数十年に亘って施し、他方で疥癬の消毒を怠って死者を出した。両者に共通するのは、人間の尊厳に対する恐るべき無関心と無知である。隔離政策の愚は、三木清や戸坂潤の獄死とも無縁ではない
」  『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』 p294 地歴社刊
  殺人や窃盗に手を染めて勲章や爵位を得ていた権力者が、自主的に反省することはない、まして自らを罰し生まれ変わるわけはない。だから権力の根拠と構造は根底的に変えなければならない。例えば療養所所長には患者が任命されたり、医師に対する信任権が患者に与えられ、国立大学の学長に助手を選挙で選ぶなどと言うことは構造的にあり得ないのである。
 敗戦は日本の官僚制度を民主的に改革する絶好の機会であった。その機会は1947年にあった。何故失敗したか、そのときのことを都留重人が証言している。

都留重人 ・・・敗戦を予想しておった人も、たくさん日本にはいたんですね。ところがそういう人たちが結集して新しい日本の建設の仕事にあたるという動きが、どうもよわいという感じを敗戟なまぢかにひかえたあのころは考えていたんですね。それに対して、日本の官僚制度はひじょうに強敵で、戦争責任ということに対して無感覚で、また一般国民の側からもそれを糾弾するだけの大衆的な力は起こっていない。そういう事実があった。
 ところがいよいよ占領になりましてね、さらに考えてみると、やはり占領という事態は、旧支配体制の行政機構を利用するという態勢なんですね。したがって、そのあいだに逆に日本の官僚制度を強化したということですね。一つの転機は、昭和22年(1947)10月に法律がとおった新しい「国家公務員法」だと思うんです。
 これにはいろんな経緯がありまして、占領軍からもちろんとおせと言われたんですが、当時はわたしは経済安定本部にいて、占領軍からもち込んできて、とても扱いにくくてやりきれないようなことは、全部、安定本部へもち込まれちゃうんですよ。たとえば大蔵省とかその他の官庁というのは、旧官僚体制で固めていますからね。ですから集中排除というのがあったでしょう、これも理屈をつけて安定本部の管轄にしちゃったんです。国家公務員法もそうです。
 それでわたしらはなかにいて、まったくすじ違いじゃないかというので押し返すのにそうとう苦労した。結果的には扱いませんでしたが、そのかわりひじょうに粗略な扱われかたをして、議会ではほとんど審議らしい審議をせずにとおっちゃったんです。そのときに、中野重治氏が
「わたしは反対意見を、苦痛と悲しみをもって訴える」という名演説をうったんですが、その国家公務員法というものの扱われかたを見てみまして、わたしはやはりもう日本の官僚機構というものを新しくする契機は失われたと感じたんです。
 それからは、官僚機構はますます強化される一方で、現在にまでおよんでみるというと、まさに官僚の古手が内閣を押え、かつ国会においても官僚の古株が重要な地位を占めている。そして現在の行政機構にいる上級官僚というのは、天下りのところへいくか、あるいは自民党に属して立候補するか、という体制でね、日本の古くからの官僚機構につながる支配体制というのが、現在にかけてますます強化されているという感じですね。
『思想の科学』1967.10

 進駐軍は、日本の敗戦前から日本の官僚機構をそっくりそのまま使うつもりでいた。例えばハンセン病療養所における、監禁・虐待・殺人・非合法人体実験・患者財産の窃盗・などの責任をとった官僚も医者もいない。僅かに末端の職員が移動させられたに過ぎない。それも、冤罪が繰り返されるのも、贈収賄が絶えないのも、戦前の官僚制が天皇制と共に残ったためである。残っただけではない。一党支配が続く中で政権党と官僚制は分かち難く結託してしまった。どんなに優れた仕組みであっても、批判勢力と政権交代がなければ腐敗する。公務員制度「改革」の名の下に利権は多様化して強化され、公務員の「全体の奉仕者」としての職能は蹂躙される。他方権力者の犯罪隠蔽は、公然と行われるようになった。政権党に連なる勢力は拡大しその利権は際限なく膨張するばかりである。


 中野重治の反対演説は、このまま社会科資料集に載せる価値のあるものであるから、長いがここに引用する。
  中野重治君 ・・・ 先ず私は、私の反対意見を苦痛と悲しみとを以て訴えるものであります。それは、この法案がこういう姿、こういう不十分な討議手続において現われたことは、日本の民主化がいかに遅れておるか、我が民主革命の仕上げが、いかに前途程遠いか、日本の天皇制官僚組織がいかに險悪に且つ根深く残つておるかを、あからさまに示しておるからであります。この法案の根本性格が、日本從來の官僚組織をば、その主な特徴の殆んどすべてを残しつつ、民主化の名において國民に押付けるところにあるからであります。我々は日本の官僚組織の徹底的民主化を欲する。併しそれは中味を欲するのであつて、看板を欲するのではない。人民の要求するのは薬であつて、能書ではないのであります。即ち清盛に衣を着せるのが問題ではなくして、彼を武装解除するのが問題なのであります。(拍手)若し我々が清盛のために、鎧の上に衣を羽織る手傳いをし、かくて清盛は鎧を脱いだのであると國民に思い込ませるように万が一にも手傳うとすれば、我々は人民の信頼を裏切ることになる外はないと私は固く信じます。(拍手)
 我々は日本の官僚制度の徹底的民主化を欲する。この法案もそれを欲するかのごとくうわべには見えます。そこで仮にこの下書を書いた人々が心からそれを欲していたとしましよう。その際最も大事なことは、目的のために手段を誤まらぬということであります。若し手段を誤まるならば、主観的にはいかようにもあれ、恐るべき結果が生れるのであります。では正しい手段はどこに求められるか。それは日本歴史の中に求められる。日本歴史の具体的現実を踏まへること、これが正しい方法手段を見出すための最初の又最後の基準であります。然るにこの下書は全面的、且つ根本的に日本歴史の現実に背いておる。いうまでもなく我々が徹底的に民主化しようとするのは、日本の官吏制度である、数十年、数百年來すでに民主化された諸外國の官吏制度ではないのであります。では我が官吏制度はどこにその歴史的特徴を持つておるか。その一つは、例えば服從すること、秘密を守ることなどの服務規定の面であります。我が過去の天皇の官吏は、上役人に服從することにおいて人民に抵抗し、人民に公開せらるべきすべてを秘密として独占して、これを一握りの人々に公開し、分けても早耳システムを通してこれを賣捌きさへしたのであります。今この法案を見ますと、これらの服務規定に更に宣誓の規定を加えて、すべてこれを残そうとしておる。從つてその宣誓ほ國民に対する宣誓ではなくて、直属上官乃至最高裁判所長に対するものであります。成る委員の言葉を借りれば、参謀総長、陸軍大臣、教育総監の軍事コンビにさも似た三人委会を更にその頭に戴き、この全ピラミツドによつて人民の利益を抑えようとするものであります。もう一つ更に目を止めて見なければならんのは、労働者階級、農民、この農民というのは、日本の天皇制官僚組織が日本の農民の半農奴的状態に対應していたために、私は特に言い及びたいのでありますが、労働者階級、農民、労働組合、及び民主的政党に対する過去の日本官僚機構の歴史的関係であります。これを我々は見なければならない。併しながらこのことは、我が勤労階級及び議員諸君がその体験を通してよく御存じのことだろうと思います。ただ私は次のことを強調したいと思います。それは準備及び遂行の全戰争期間を通じて、我が官僚組織が完全に軍閥と結託して我が國民に言おうようなき犠牲を強いたという事実、あまつさへ戰後引続きこれを強いておる事実であります。而も同時に一方連合諾國の民主主義的占領政策の助けをも得つつ、我が労働組合及び民主的諾政党が、苦痛に満ちた長い沈黙の後再びその活動を開始したことであります。労働組合及び民主的政党の活動開始は、世界民主主義の方向を日本歴史の現実の上に実現しようとするものである。いわば外からの連合諸國の民主的占領政策、これに内から應ずるところの民主的諸政党及び労働組合の活動、これを措いてどこに日本官僚組織、日本官吏制度の民主化の基本線があるか。(拍手)又あり得るか。労働組合、政党及び議会活動を我々が重んずるのはそのためであります。然るに今この法案は、その全部に亘つて民主的諸政党の官吏制度への影響を閉め出し、苦痛と犠牲とを拂つて得たところの給與その他に関する労働組合の既得権を抹殺しようとして力を集めておるのであります。(拍手)私はこれが日本の歴史に対する叛逆でないかを恐れます。議会制度の前途に忌わしい影を投げるものでないかを恐れます。國民の公僕の名において、この法案は我が全公務員を特定の入の群の奴僕としようとするのではないかを恐れるのであります。私は曾ての警察官のあのサーベルが、いわば民主的な現在の棒に比べてよかつたということ、現在の棒は人を打つのに彼のサーベルよりも現実に力強いということをこの際思い起すものであります。先進民主主義諸國の姿を学ばねばならんということは、これは勿論であります。併しながら我が民主的諸政党と労働組合は、実のところ、まだ幼な兒であります。我々はこれを保護しなければならない。冬を前にしてこれに重ね着をさせねばならんのであります。然るに、冬の後には春が來るであろう。春が來たならば綿入れを脱がして袷に着せかへねばなるまいということを時間的に逆轉させて、今日へ引戻すことによつて、それを目の前の幼な兒に実施しようとする。こういう法案には、我々は農民をも含むところの全勤労君のすべての組織、及びすべての民主的諾政党の諸君と共に、徹底的に反対せざるを得ないのであります。(拍手)これは第一回の國会でありまして、第一回國会の決定は、第二回以後の無数の國会、及び日本人民の將來の全政治生活の運命に非常に大きい影響を及ぼす点において、極めて責任が重大であります。私はこの法案に日本歴史の上に立って反対するものであります。私の反対意見に耳を傾けて下すったことを感謝します。
(拍手)  全文はここ←クリック

  留重人は八高在籍中、中国侵略に抗議のストライキで除籍され米国留学。1940年Havard大学講師となるが、日本の敗戦過程を知るため日米交換船で帰国。片山内閣経済安定本部で進駐軍との折衝にあたった。初めての『経済白書』を執筆している。
 

ドイツ外交、米国要請の武力派遣を断わる / 去年のアフガンでの米+有志軍による民間人殺人は過去最高の3804人

Helgoland号甲板の乗り組み看護婦と治療後のベトナム幼児
 ロイターによれば、ドイツのマース外相は31日、米国が目指すホルムズ海峡の航行の安全確保に向けた有志連合に参加しないと表明した。同地域の状況は極めて深刻で、すべての対応は事態の悪化を防ぐ方向で実施される必要があると指摘。「軍事的な解決はない」と述べた。
 ドイツは外交的な手法でイランとの緊張緩和を目指しているとし、「米国主導の有志連合への参加によって、それが困難になる可能性がある」と述べている。

 ドイツは
兵役の代わりに、病院や福祉施設などで社会奉仕活動に従事する良心的兵役拒否を制度化した。
 良心的兵役拒否者は、年間6万人以上。ドイツ政府は、若者の労働力が不足して痛手となる病院などに補充対策を講じていた。2011年徴兵制は停止された。(徴兵制そのものは廃止せず、 緊迫事態に際して 復活できるよう、憲法上の規定はこる。 代えて志願兵制を導入。同時に徴兵拒否者が社会福祉施設等で担った非軍事役務は停止となったが、代わって連邦ボランティア役務が導入される。)

 ベトナム戦争中も米国はドイツに参戦を執拗に要請したが、ドイツ政府が出した答えは病院船派遣であった。兵隊ではなく、病院船ヘルゴラント号をベトナムに送った。 Helgoland号はジュネーブ条約を遵守、米国の民族皆殺し政策に加担するのではなく、北・南ベトナム双方の民間人を治療したのである。ベトナム人からは、「白い希望の船」と呼ばれ歓迎された。昼は港に入って患者の手当て、夜は安全な沖で待機した。ドイツの医師や看護師たちは、来る日も来る日も手足の切断手術や、ナパーム弾で体全体に火傷を負った人々を治療した、その数千に及ぶ。それは沖縄の米軍基地をベトナム爆撃機発進を断わり、九条国家日本もやるべきことだった。

食料と平和は武器ではなく水がもたらす
 ドイツの病院船派遣は、国家の決断である。ペシャワール会中村医師のアフガン灌漑は、NGOである。中村医師は武力による平和や開発が如何に無効であるかを説いて、参考人として発言した日本国会では与党議員から野次と罵声を浴びた(中村医師には2018年、アフガン大統領から国家勲章が贈られている)

 僅か16日間の五輪騒ぎに3兆円(当初の説明では5000億円)も浪費して碌なことは何もない。灼熱と悪臭と騒音と放射能汚染の、奴隷的メダル稼ぎの愚を止め、中村哲医師を支える方がどれほど緊急の課題であることか。そしてヘルゴラント号に続く病院船団を組織するのが、先の大戦に対する戦争責任の取り方ではないか。その両者の拠点に相応しいのは、米軍を撤退させた独立沖縄である。


追記 アフガン侵略は米国史上最長の戦争となった。国連統計では、2018年の民間人死者数は過去最多、子ども927人を含む少なくとも3804人が死亡。その多数は、米軍主導の連合軍とアフガン政府軍による。嘘で始めた戦争は、何も解決しないどころが犠牲を増やし、憎しみの連鎖は拡大。

沖縄戦・住民を救う手立ては身近にあった

谷川雁 沖縄が壊滅的な打撃を受けている最中に、ぼくは兵隊でした。・・・ただ、あとでぼくが思ったのは、あの南部戦跡のところに日本軍が首里からダーツと下がっていくときに、住民を救う手立てはなかったのかという問題です。 あそこで十万、あるいはそれ以上の住民がまき込まれて死んだわけですから。そのことを考えに考えてみたけどいっこうに解決できなくて、この二、三年前ですよ、もう行かなくちゃわからないというふうに思って、意を決して行ったんです。それまでは、この問題を解かずに、沖縄にどの面さげて行くかと思ってたからね。
 だけど行ってみたら、パーッとなんか感じられたのは、あそこは斎場御嶽というウタキがありまして、そこから久高島という島がよく見えるところがある。あの下の海岸はそんな大きな戦場にならなかったな。だから、もし首里から南部へ日本軍が撤退する瞬間に、白旗を掲げ、軍使を出して、非戦闘員は全部ここからここの海岸に集結させている。したがって、ここだけは攻撃しないでくれと言い、だが軍人たるわれわれは全滅を賭して戦うと通告したら、アメリカはそれを守ったんじゃないかという気がします。これは前から鶴見さんにしてみたかった質問でして、きょう実は、この質問を鶴見さんにすると決めて、ある気持ちを抱いて来たんです。アメリカは学童疎開の船をいっぺん沈めたでしょう。それがわかったら、それからは学童の乗った船は沈めてないですよね。スパイがいたかどうか知らないけども、ちゃんと選んで沈めてないわけで、だから、ぼくの生まれた水俣なんかにも沖縄の学童が疎開してきたんです。
 そういうことから考えると、ぼくは、アメリカ軍にはそこまでほ最低通じたんじゃなかろうかという気がするんですよ。戦後のアメリカの沖縄に対するやりかたはでたらめです。それはぜったい許せないと思っているけれども、あの戦争の緊張のなかで、そこがアメリカに通じたかもしれない。そうすると、それは武士道ですよ。・・・ 
鶴見俊輔 アメリカ軍の作戦が、日本軍の作戦に対応して、別の展開を示したかもしれないということは、確かにそうだと思うのよね。もし日本軍が沖縄の住民をまき込まないという決心をして、そのような陣形をしいて戦えば、アメリカはあの当時ゆとりをもっていたわけで。戦後、そのゆとりをもっていたということを隠そうと一生懸命するけれど。そうでないと原爆を正当化できないから。だから、日本人の頭を撫でるのに、スレスレの戦争だったみたいなことを言って、実にいやらしいんだけども、実はものすごく過剰な戦力をもっていたんですよね。だから、目茶苦茶のなぐりあいみたいに戦争に突入するんじゃなくて、京都は避けるとか、戦略としてゆっくり考えて石を打ってた。
 もし日本軍が住民への被害を避けるために、自分はこういうふうに陣をしくというふうに展開したらは、それに対応して手を打ったと思う。沖縄の住民の四分の一が戦死。・・・
 それに対する想像力をわれわれは依然としてもってないんだけども、いま架空のことで、日本軍がとうぜん軍人としてはやるべき戦略を沖縄で立てていたらどうなったかということなんだけど、立てなかった。そのために、あれだけ沖縄の住民をまき込んじゃった・・・。 1986年 季刊 文藝 特別対談・戦後精神の行方 谷川雁×鶴見俊輔 司会・松本健一

 渡嘉敷村の前島は、一教師の企てにより戦禍を免れた。
 「・・・那覇とは目と鼻の先にある我が前島こそ、その島である。当時、島には渡嘉敷国民学校の分教場があってH先生夫妻が教鞭をとっていた。或日のことS大尉なる者が部下を連れて島へやってきた。・・・先生は住民を守るために来られたのであれば、兵隊が居ること自体が住民の為にならないので、お引取り願いたいと隊長に申し出た。・・・この島にも米軍は上陸してきた。くまなく調べた結果日本軍が居ないことを知った米軍は、この島には一切攻撃はしないから安心して畑にも海にも出てよいと言い残して、その日のうちに引揚げていったとのことである。」  渡嘉敷小学校創立90周年記念誌』(1977.9)
   H先生とは分教場主任の比嘉儀清先生の事である。一介の教師が両軍と交渉して、「非武装」島宣言を実現している。日本国憲法・平和主義の原点に相応しい。事の本質は、小さな部分に先ず宿る事が分かる。

 県民の命最優先が国家や軍の意思であれば、更に壮大な和平の企ては可能であった筈だ。僕はこの逸話を映像化すれば、ロッセリーニの『無防備都市』と並ぶ名作になる可能性があると思う。

 沖縄戦では、牛島中将の最後が特段に美化されて不気味である。スコッチ・ウイスキーのキングオブキングスとパイナップルの缶詰の最後の晩餐の記録には、開いた口が塞がらない。全アジアの戦線で完全餓死・病死に追い込んだ軍参謀たちが、平然とスコッチ・ウイスキーとパイナップルの缶詰の晩餐の記録を残し、斬り込みもせず「自決」する神経。それを「美」談とする感性、名状し難い。

クールジャパンは、日本嫌いを大量生産する / 漱石は「三四郎」で根拠のない日本礼賛に警鐘を鳴らしている

八雲は日本人を天使であるかのように書いて気が狂いそうになった
 上京する三四郎が、広田先生と汽車で向かい合っている有名な場面がある。
  「・・・まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」・・・
  三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
 「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
 「滅びるね」と言った。・・・  ――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。・・・
 「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
 「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。
 「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った
 
 漱石は五高でも東大英文科でも、小泉八雲の後任であった。ことある毎に学生から、小泉八雲と比べられ些か辟易していた。八雲が五高で教えていた時には日清戦争があり、三四郎が五高生の時日露戦争という塩梅である。日本の「偉業」に沸き立つ学生に、八雲の日本礼賛は心地よかったに違いない。
 広田先生の言葉は、流行の日本人礼賛には実体がない事を揶揄して、視野の狭い世間や学生を批判している。
   「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」は、八雲にあてた言葉でもある。
   「この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。」は、学生と日本人に期待した態度である。
 

 東大で八雲の同僚であったバジル・ホール・チェンバレンも『日本事物誌』で
 「来日後、数年の間、彼(小泉八雲)の日本熱は異常なほど昂進した。ハーンは神々の国を発見し、彼の『知られぬ日本の面影』は日本を手放しで絶賛したが、その日本なるものは、実は彼が自分は見たと勝手に思いこんだところの日本にしか過ぎない」と釘を刺している。

 授業が始まって、三四郎は広田先生の家に下宿している学生と知り合う。そこに小泉八雲の事が少しばかり出てくる。

  「赤門をはいって、二人で池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉八雲先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことを言った。なぜ控室へはいらなかったのだろうかと三四郎が尋ねたら、
 「そりゃあたりまえださ。第一彼らの講義を聞いてもわかるじゃないか。話せるものは一人もいやしない」と手ひどいことを平気で言ったには三四郎も驚いた
 小泉八雲が逝去したのは1904年、『三四郎』脱稿は1908年である。汽車の場面が、八雲の日本観への批判であれば、ポンチ絵の男の言葉は、同僚教師八雲の振る舞いへの不満である。 

 
『古代の豊かさを現代に』のなかで鶴見俊輔は
 「非常に感心して日本だけを研究した人は、ある時期を過ぎると反動が起こって日本をものすごく嫌いになる」と語っている。その筆頭が小泉八雲で、彼は後に
 「日本人を天使であるかのように書いた事を考えると気が狂いそうになっ」て日本から脱出しようとしたことをあげている。

 前出のチェンバレン自身、初めは日本に感銘した日本研究者であったが、後にこう書くようになる。

 「東洋人が楽器をギーギー鳴らしたり、声をキーキー張りあげるのは、音楽といえたものではない。だがあの低級な代物をもし音楽と呼ぶことが許されるならば―それはこの美しい語を汚すものであるけれども―もしそれならば、音楽は神代の昔から日本にあったと言ってよいだろう。・・・なにとぞ二十一世紀が来るまでに、三味線、琴、その他あらゆる種類の和楽器が薪に化してしまうことを切に望む。そのお蔭でもし貧乏人が暖を取ることが出来たなら、その方が本来の目的よりも、余程有用な目的に役立つ」『日本事物誌』

 日本に長く友情を持ち続けた文化人、例えばバーナード・リーチは、朝鮮や中国や中東にも関心を持ち、日本に対する相対的で安定した評価を形成していた。

 いま日本政府自体までが、アジアを見下し中国・朝鮮を敵視して鼻持ちならない。偏狭でデマに満ちた組織は、善意の友人を落胆させ離反させるのが常だ。オリンピックの終了と共に反動は一気に押し寄せるだろう。
   漱石が広田先生に言わせた言葉は、時を超えて現代の日本をも照射している。やはり希代の文豪である。

記 政府のクールジャパン戦略は経済産業省にクールジャパン政策課を置き、官民ファンド「クールジャパン機構」を派手に打ち上げて始まったが、早々と2017年3月末時点で約44億円もの損失。出資金693億円のうち、586億円が政府による出資となっている。設立から4年が経過した時点で投資案件の4割が赤字累積状態。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...