倶楽部の醍醐味は、日々の練習と仲間との語らいにある、試合にではなく。

日が暮れても氷が張っても、内緒で
 一日の練習が終え、息を切らせて草に寝転ぶ。仲間から「今日のアレは良かったね」と褒められたり、批判を受けて克服することは、試合に勝ち進むことの数倍の喜びである。その精神的高揚は、弱いteamにも弱いteamにも公平に訪れる。下手も上手も関わりなく関係を形成できる。試合は、定期試験のように日常の切磋琢磨と友情を中断する災難でしかない。自由な読書や観察実験に打ち込んでいる時の、定期試験も心底恨めしかった。

 僕が小学校級友だけの草野球から部活の野球に移行出来なかったのは、部に公平な人間関係や相互批判の雰囲気がまるでなかったからだ。僕は中学や高校に進学してからも小学校の級友たちに、「野球はどうしてる、試合は」などと聞かれ続けるほど野球が好きだった。
 山岳部や漕艇は、逆に公平性と相互批判及び協働なしには成り立たない。
 

 山岳部は装備のムシ干しと点検から春が始まる、事情通のOB も心待ちにしてやってくる。装備一つひとつの穴や傷に歴史が刻まれていることをOBが新人に伝える場でもある。駄目になった装備を確認し、登山道具屋を回るのも楽しみだった。
 そして一年間の山行計画を練る。同時に地図の読み方、天気図の書き方読み方も始める。この時もOB参加は欠かせない、見たことのない卒業生までやってくる。計画作りが一段落した後の、焼き鳥屋が楽しみでやってくるのだった。
 最初の山行が決まれば、装備の確認と食糧計画を立てる。日を改めて実際に作り試食するのも大切なことだ。高価な食材を寄付する卒業生もやってくる。これは彼らの楽しみだった。
 旨いものや高いものは山行の後にして、荷物を軽くすることを考える僕とは発想が違う。飲み物は麦茶や即席で済ましたいのだが、豆もミルもパーコレーターも自前で持参し、主食なども、帝国ホテルのレトルトを全員分持ち込みたがる。工場勤務で日頃忙しい彼らは、一年間の山行計画に基づいて工場や会社で年休の交渉をして参加する。だから正月や盆並の行事であり、山でこそ旨いものを喰う。増えた荷物と費用は潔く個人で受け持った。
 山行は原則として両夜行だから、仕事で参加出来ないOBが差し入れ片手に真夜中のホームに押し寄せて賑やかだった。新人歓迎の初山行は隊列の組み方から地図の読み取り、足の上げ下ろしから装備の使い方や緊急処置まで伝授確認する。山行の最後は必ず温泉に立ち寄った。

 山行が終わると、部誌の編集に取りかかる。山に登るのは、文学や自然科学にも及ぶ行為だから記録は欠かせない。山岳部は文化部としても機能していた。俳句や和歌、紀行文、地域研究、自然観察を掲載した。
 
 そういうわけで部員同士とOBや教員も含めた人間関係は、個人の都合優先の思いやりが基本になる。ここに効率や競争が入り込む隙間はない。強い弱い、早い遅いなどは問題にせず、如何に友愛的に聡明に振る舞うかが間断なく問われる。
 筈だった。しかし競技化を図りたがる連中が1980年代に現れた。その執拗さに、僕は官僚的統制の匂いを感じた。都立高校山岳部顧問会議に彼らはそれを度々提案したが、長い間受け容れられなかった。しかし何時の間にか、高体連の下部組織に再編され、競技化が進んだ。アマチュア精神の崩壊が始まっていた。
   2017年栃木県高体連登山専門部会主催「春山安全登山講習会」事故(講習会3日目、雪中歩行のラッセル訓練を開始。約30分後に雪崩が発生し、雪崩で48名(生徒40名、教員8名)のうち、県立大田原高校の生ら8名が死亡した)が起きるべくして起こった。事故の分析は、天候や地形と行動計画を中心に行われ、高体連の責任を回避する論理のために長引いた。僕は登山の競技化に伴う官僚化が原因だと思っている。大編成の勝敗を目的とする集団は、官僚化の誘惑を抑えきれない。同時に自律性を失い適切な判断を見失う。それは1902年日本陸軍の八甲田雪中行軍遭難事件に典型的に現れている。適切な判断は上意下達の機構とは相容れない。

 漕艇は隅田川の早慶レガッタ(お花見レガッタ)を除けば観客も僅かで、クラブ自体が少ない。東京では殆どが古くからの名門大学の付属高で、公立工高のボート部は例外である。中学卒業間もない部員には、最初に克服しなければならないことがあった。先輩後輩関係を忘れることだ。平等な関係に彼らは馴れていない、指示されることが楽で気持ちが良いのが困る。

 ひとつのクルー=チームはコックス=舵手を含めて平等でなければ、オールを合わせることも難しい。一旦舵手を含めて紳士的で平等な関係が成立すれば、彼らは顧問の僕らの目を盗んで学校から片道1時間も掛かる戸田の艇庫まで足を運んだ。暗くなれば懐中電灯を舳先に点け、氷が張っても練習を止めようとはしなかった。ボート指導の鉄則も、出来る限り早く生とたちの前から消えることであった。
 
 五輪の熱狂から醒めた時、一時の気まぐれによる「おもてなし」費用の膨大な精算と環境破壊の深刻さは、五輪史上最悪となる。その混乱と非難を食い止めるのは、メダルの数だとJOCは踏んでいる。湿度の高い酷暑の中で競技を強行すれば、ヨーロッパや米国のplayerたちは能力を発揮できない。 そうなれば、暑さに馴れた日本にとってはメダルラッシュとなる。史上最悪の事態に日本国民は浮かれて気が付かない。少なくとも軽く考えるだろうと踏んでいる。

 官僚化がもたらす愚かな判断である。熱狂ほど怖いものはない。蒸し暑い最悪の事態をJOCは心待ちにしているのだと思う。そして日本の中高校生が、勝ち負けと偏差値だけにしか価値を認めないように五輪以前から誘導してきた。そう僕は思う。
  日本が、特に部活が試合優先を克服し、勝敗と偏差値の連鎖から脱することが熱狂を食い止める鍵である。

教育とはね、理屈で教えることとはちがう。海を見せに連れていく愛情じゃろが

カンラクは炭鉱資本の怠慢が造った地形である
・・・閉山にともなってやっとわが子の小学校(の参観日)へ出席できた元坑夫が、教師に注文を出した。
 「先生、むずかしか理屈は教えんでよか。それより、海へ連れてってやんない。うちの子はカンラクを見て、とうちゃん、広か海じゃねえ、と言うたんバイ。教育とはね、海とはどげなもんか、理屈で教えることとはちがう。海を見せに連れていく愛情じゃろが。わしは、閉山になって、やっとそれがわかった。な、そうじゃろが」 森崎和江 「男と女,夫婦,男・男,女・女」

 陥落池(炭鉱の落盤で地表が落ち込んで水が溜まり池となった場所。炭鉱所有者の怠慢が造った地形)のある筑豊から海の見える小倉や門司まで少しも遠くない。彼は海を見知る子ども時代を送った。しかし地獄を見るような仕事を続けるうちに、すっかり落ちぶれた。子どもが陥落池を見て「とうちゃん、広か海じゃねえ」と言ったとき、そのことにやっと気付いた。すべてが落ち込んでしまった責任は、炭鉱資本と政府にある。その横暴と闘い続けた者に責任を押しつけるのは間違っている。まして子どもに責任はない。
 子どもの世界観が狭く貧弱になったことへの遣り切れなさが、元坑夫を苦しめる。彼は「海を見せに連れていく愛情」を持てなかった自分自身の貧困に苛立っている。
  しかし彼には、教育への要求と期待がある。それは救いである。

 下町の工高の担任だったAさんは、応援団長で右翼のクリスチャンでもあった。高校生の頃から警察と揉める生活を繰り返していた。
 担任する中に片親の生徒があった。出席日数が足りなくなりかけ、授業料滞納も長引き進級が危うい。家へ電話しても通じない。生徒に親と話したいと言うと、「お袋は病気だ、うちには来るな」と懇願する、終いには「絶対来るな、来たらぶっ殺す」と凄んだ。
  熱血をよしとするAさんは、週一日の研修日を潰して家庭訪問した。感動の展開があると信じていた。僕は冷ややかに「見ない方がいいこともある」と釘を挿してしまった。
 Aさんは「じゃぁ、どうするんだ」と迫った。
 「こんな時のために、管理職がある。行政との交渉は彼らに任せる。でないとあいつらは余計なことに力を入れるんだ。議員にも選挙以外の仕事をさせたほうがいい」
 「お前はいつも悠長だな。俺に暇はない」そう言って出かけ、見るも無惨に打ち萎れて戻ってきた。


 件の生徒の住まいは、零細工場の建ち並ぶ一角、騒音の響く鉄工場の上にあった。ドアを叩いても返事はない、そっと押すと開いたが、中は暗い。名乗ると、咳が聞こえてごそごそ動く音がした。目が慣れると、仕切りのない板の間に数枚の畳が置かれ、そこに布団があり母親らしい女性が寝ていて起き上がろうとしていた。窓はあっても陽は差し込まない。
 彼は、生徒がぶっ殺してやると凄んだ気持ちが分かりたじろいだ。母親を寝たままにして、ともかく話を聞いた。
 「お恥ずかしい格好でご免なさい。おいでになった訳は、息子の様子で分かります。電話も電気も切られて、ご覧の有様です・・・」と弱々しく語ったという。Aさんは意を決して、生活の細部まで聞いた。息子は母のためにアルバイトで稼いでいた。生活保護も聞いた。親切な人が見かねて区役所に連絡してくれたが民生委員らしき人が来て「ともかく区役所に出向いて下さい」と言ったっきり、起きて歩ける状態ではない。Aさんは出来る限りのことはすると言い残して帰りがけに、ジュースとアイスクリームとパンを買い引き返して届けた。ぶっ殺すと凄んだ生徒との修羅場は、覚悟した。しかし「見なければ良かった」とうな垂れた。
 先ず、卒業生の中に国会議員がいたので、彼に区議会議員を紹介して貰い行政をせっつくことにした。管理職には授業料減免の手続きを頼み、教科担任には事情を話し進級の手立てを探ることにした。件の生徒は、暴れることはしなかったが、長い間Aさんと口をきかなかった。

 この母親は、学校や行政に文句を言う気力も気持ちも持てず「教育とはね、海とはどげなもんか、理屈で教えることとはちがう。海を見せに連れていく愛情じゃろが。わしは、閉山になって、やっとそれがわかった。な、そうじゃろが」の類を言えない。それ故最悪の事態一歩手前であった。
 元抗夫は、総労働対総資本の闘いを知っていた。だから教師に要求できたのである。愛情は闘いである。


 政府が莫大な費用を浪費して新たな基地を造ろうとしているとき、独立とは自治とは何か教えるために辺野古の闘いに加わる。辺野古の海や闘いを見せる、語る愛情が憲法教育じゃろが。な、そうじゃろが。  

「朕はたらふく食ってるぞ」には根拠がある

 敗戦記念日の度に、戦争体験が語られ投書される。その中で多いのは、飢えの苦しみと死別の悲しみである。しかし肝心のことが、常に置き去りにしている。慎重に避けている。 それは誰もが等しく飢え、どの一族も等しく死んだわけでは無いことだ。
   戦中も戦後も、食料と安全は偏在していた。「たらふく食い」「一族の誰も戦災で死なない」者の一群がいつもある。

 1946年5月19日、皇居前広場(当時、人民広場)に25万人を集め「飯米獲得人民大会(食糧メーデー)」が開かれた。

 労組委員長だった松島松太郎は「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」と書いたプラカードを掲げ参加、そして6月14日不敬罪で逮捕され事件となった。このプラカード事件自体忘れられた。プラカードの中身自体に根拠があった事はもっと知られていない。

 飯米獲得人民大会の一週間前5月12日、、世田谷の戦災者住宅で「米よこせ 世田谷区民大会」が開かれた。戦災住宅では、毎日1人多いときは3人が栄養失調で死んでいた。子供がオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら死んだという。
 大会では、18項目の要求((1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など)を決議。天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択、二手に分かれ抗議デモに。一隊は皇居に向かった。押し問答の末、デモ隊は皇居に入った、前代未聞の展開である。彼らは宮内省で「人民の声」を読み上げ、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求。官僚は「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省職員食堂に案内。それでも積み上げられた食料の豊富さは、被災者のど肝を抜いた。

 「50坪ほどの調理場には、120人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ15匹、スズキ1匹、サケ4匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ3、40尾、大ブリ5、6尾、牛肉5、6貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ3つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。 ・・・
  すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。
 このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。

  お通しもの
    平貝
    胡瓜
    ノリ
    酢のもの
    おでん
    鮪刺身
    焼物
    から揚げ
    御煮物
    竹の子
    フキ 」     大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社刊

 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した戦災者住宅の痩せた主婦があった。デモの時は、青白い

顔でよたよたと歩いていた。デモのあと半年、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、この主婦が復員を待っていた夫の「戦死公報」が遅れて届いた。これも『人間記録 戦後民衆史』にある逸話である。
          
 5月19日の飯米獲得人民大会では、世田谷区の主婦代表がおんぶ姿で悲惨極まる食糧事情を訴え、続いて国会議員らとデモ行進。ここで、松島松太郎(田中精機労組委員長)は 件のプラカードを掲げたのである。立派な証拠があっての表現であった。検事局は不敬罪で彼を起訴したが、一審は不敬罪は効力を失ったとして名誉毀損で有罪とした。1947年6月の二審で免訴となった。だが共産党員松島松太郎は、最後まで法廷で闘う決意を捨てなかった。法廷闘争に持ち込めば、食料危機の実体を白日の下に曝すことが出来るからである。

 この時天皇やマッカーサーはどうしたか。 

 5月20日、マッカーサーは「組織的な指導の下に行われつつある大衆的暴力と物理的な脅迫手段を認めない」と声明を出し民主化運動を牽制。
 天皇は、5月24日、『祖国再建の第一歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがいに助け合って、この窮状をきりぬけねばならない』とラジオ放送を行った。何をか言わんやである。


 宮内省役人が、天皇の台所ではではなく職員食堂に案内して「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ3、40尾、大ブリ5、6尾、牛肉5、6貫、平貝一山そのほか沢山 タライ3つの中身麦入りはわずか、大半は銀メシ」を「120人分の夕食用麦飯が三つのタライ、マグロ半身、カレイ15匹、スズキ1匹、サケ4匹のほかイモ、大根など」と的外れの公式発表する神経が、天皇制とは何かを良く表している。彼らは、自分を天皇を頂点とする選良であって「たらふく食っている」ことを隠す必要のないことだと考えていたのだ。彼らのために闘って飢えるのも死ぬのも、皇国民の誉れであり甘受すべきことにしか見えないのである。それは今も続いている。

たかが甲子園で泣くな 野球はgame=あそびに過ぎない

耐えられないときは何時でも泣いて白旗を出そう
 「伝説などは、どんな伝説でもすべてつまらない。・・・しかし伝説をつくりだすひとびとの心も、それを信じたふりをして保存するひとびとの心も、いつも簡単に片づけられない問題をはらんでいる。簡単に片づけられるのは個々のひとびとがもっている迷蒙さだけだが、共同迷蒙さはそうはいかないのである。なぜならばそれは、時代の象徴としての不安、すがりつきたい共同の願望がいつも根底に横わっているからである。共同の迷蒙が伝説にかわるためには、かならずしも個々の人間が迷蒙であることを必要としていない。個々の人間がどんなに賢明であっても共同の迷蒙は成立するのである」吉本隆明『源実朝』

 1945年の夏、学徒動員の中学生が、敗戦の知らせに声を上げて一斉に泣いた。ある文学少年が「何が悲しいんだ、泣くのを止めろ」と叫んだ。皆一瞬はっとして、誰も泣かなくなった。そしてしばらく経ってみると、どうしても泣けない。死にたいと言って泣いていたのに、泣けなくなっていた。いとも簡単に(共同の迷蒙
が消えたのである。

 自決用に配られた青酸カリをただ一人捨てるように、先ず自分自身の迷蒙を断ち切れ。例えば、雪の日に一人決意して雪かきをする、一人決意して部活を週三日に制限する、休暇を取り子どもと遊ぶ・・・のは、(共同の迷蒙
を断ち切る練習である。
 今年の高校野球は、
「球児」が無闇に泣く。それも目立つように、ワーワー泣く。(共同の迷蒙が、五輪騒ぎによって煽り立てられ国際紛争に向かっている。泣くな、事実を見つめろ。

像の白旗
 白い旗は、ガマの中でいっしょに数日を過ごした両手両足を失ったおじいさん、盲目のおばあさんが作ってくれた。「それをもっていけば、ぜったいに安全なのだ。それが世界中の約束だから・・・」と言いながら。

「戦争紙芝居」は小学校の学芸会だけではない。軍の正史までが稚拙な「紙芝居」であった

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 日露戦争では、日本の陸軍も海軍も正確な戦史をつくった。正確な事実の記録なしには、公正で有効な教訓を引き出せない。それが世界の常識であった。だが実際に公表されたのは、日本が世界の強国帝政ロシアをいかに倒したか、という「戦争紙芝居」並の稚拙な「物語」「神話」だった。陸軍大学生や海軍大学生にすら、史実は教えていなかった。海軍の「正しい」戦史は全百冊。三部つくられ、二部は海軍に、一部が皇室に。海軍はその二部を敗戦時に焼却してしまった。
 天皇家に残った「正しい」日露戦史は、昭和天皇死亡直前防衛庁に移された。作家半藤一利はそれを読み、驚いたという。そこに書かれていたのは、それまで国民が信じ込まされていた「物語」や「神話」と全然違うことであったからだ。
 日本海海戦で東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を迎え撃つときに右手を挙げ(当時の海戦の常識を無視した、敵前回頭の指示を指す。このおかげで日本海軍は勝ったことになっていた)したとか、微動だにしなかったとか、秋山真之の作戦通りにバルチック艦隊が来たというのは作り話であることがはっきり書いてある。あやうく大失敗するところだったのだ。
 陸軍も二百三高地戦の悲劇と犠牲を隠蔽し、乃木希典と参謀長を持ち上げ白兵戦と突撃戦法で高地を落としたと偽りの記録を残した。

 実際は、もう戦えない極限状況だった。米国大統領の仲介を得て、なんとか講和にこぎつけたに過ぎない。にもかかわらず「大勝利」と大宣伝して。浮かれた国民が提灯行列で、「弱腰」内閣を罵り焼き討ち事件を起こしてしまう。(東京新聞 2018年2月20日 朝刊 による)

 お手盛りの水増し戦果に浮かれて日本は、原爆を2発も投下される結末を招き寄せている。しかも未だに米軍に占領され、屈辱的な「日米地位協定」支配から脱出する気力も知恵もなく従属を強めるばかりである。

 正しく歴史を書き残し、真実をありのままに国民に伝える事がいかに大切か。(公文書管理法第4条(2011年4月施行)は「(行政機関は)意思決定に至る過程や実績を検証できるよう、文書を作成しなければならない」としている)。歴史が権力によって偽造されれば、国民は操作されいくらでも浮かれる。浮かれているときは、何かが偽造されていると疑わなければならない。クールジャパンに浮かれて、アマチュア精神をかなぐり捨てたスポーツの勝敗に酔い痴れる姿は、最新版「戦争紙芝居」序曲である。
 モリカケ問題における公文書書き換え・破棄。自衛隊・長沼ナイキ、「宴のあと」訴訟など重要な憲法裁判記録の廃棄。これらの歴史偽造に隠され、潜んでいる事実がある。 
  政府が2018年7月1日に閣議決定した集団的自衛権の行使容認に必要な憲法9条の解釈変更について、内閣法制局が内部での検討過程を公文書として残していないことである。

 法制局によると、同6月30日に閣議決定案文の審査を依頼され、翌日「意見なし」と回答した。これは公文書管理法違反である。更に憲法前文の「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」を犯す憲法違反に他ならない。
 従来憲法9条の下での集団的自衛権の行使容認は、自民党政権の下でも「不可能」として解釈されてきた。これを変えるために、内閣法制局がどのような議論を行い解釈の変更を容認したのかという経緯は重要な意味を持つ。法制局は「安保法制懇」と「与党協議会」の資料と閣議決定の案文しか、関連文書として保存していないと居直っている。
 憲法の解釈変更が可能であるのは、国会だけである。それを行政機関に委ねていたことに問題がある。これが許されるとすれば、憲法解釈変更は役所前の掲示板に貼られる文書だけで済んでしまう。

「出来」ても0点をとることの主体性 Ⅱ

偏差値は物語を作れない
 彼らが平然と0点をとったのは、自らを記号として扱うシステム=偏差値出現への拒絶ではなかったか。偏差値の教育への応用は始まったばかりであった。偏差値という外から持ち込まれた無生物が絶対性を帯びる事への違和感は、少年にも親たちにも強くあった。
 学級は家族とともに個々人の成長誌である。映画『二十四の瞳』は美しい映像でそれを見せている。それは文化であり、そこに優劣はない。文化は数値や文字から生まれるわけではないからである。
 我々はそのことを無文字社会から学んだのではないか。ただ嫌悪すべき遅れた社会として知っただけだったのか。だとすれば嫌悪すべきは、効率に囚われた我々自身である。

 偏差値に部活を加えて「文武両道」と名付ければ、あたかも全人格的な成長物語が出現したような錯覚=神話が生まれる。(封建官僚制の中で使われた言葉を濫用する薄っぺらさが、偏差値を招いたとも言える)
 部活的「文武両道」神話における「文」からは、理性が排除されている。「武」にはアマチュアスポーツの自主・平等・公平の精神が欠けている。それはまさしく組織や君主のために、命を鴻毛のごとく軽んじて「己を空しゅう」することに他ならない。つまり「死ぬこと」としての武士道が、「文武両道」神話には生きている。だから組織のために「私情」を抑える事を、親も教師も世間も讃えてしまう。そこには、語る主体としての少年/少女はない。

 学ぶことは生きることと同義でなければならない、結果としての数値で知れるものではない。過程としての物語を核にしている、それは親にとって子の体重や身長の記録が、成長の誌ではあり得ないのと同じである。
 学校が偏差値と「文武両道」神話を拠り所とする限り、学校自体が大量消費の海に溺れてしまうだろう。溺れても藁を掴んではならない。

  「ユーモレスク」に耳を傾ければ、A君たちと過ごした日々が鮮やかに蘇る。音楽の時間に聴いた覚えがある。滑稽で気紛れな気質は教室の笑いを誘い、それでいて悲しく寂しげな表情は
「ユーモレスク」の雰囲気に似ていると思うのだ
 「なぁ、オレの成績とお前の成績をたして2で割れば丁度「3」じゃないか。」周囲が爆笑するなか、Aくんは
 「オレがいるからお前がいて、お前がいるからオレがあるんだ、だよな。だから俺たちは親友だ。」と続けて僕の同意を促した。この時彼は、偏差値と相対評価の理不尽を正確に見抜き、それを僕に伝えていたのだと思う。
 「偏差値に囚われるなよ」と教師は誰も教えなかった。その仕組みの確からしさを言っただけだ。卒業が迫ったある日
 「たわし、俺たちのこと忘れないでくれよなぁ。・・・あぁ・・・お前やっぱり俺たちのこと忘れちゃうだろうな」とべそをかきそうになったのは、効率や偏差値が社会全体を覆い尽す事態に何ら反撃出来ない悲しみであり、親友が偏差値の彼方に吸い込まれる事への警告でもあった。

 
A君の懸念通り偏差値に溺れそうになったのは、進学した僕だった。息をすることも周りを見渡すことも苦しかった。「皇帝」や「ユーモレスク」でA君たちを思い浮かべて気休めした。
 高校が軒並み荒廃の頂点に達した時も、「管理主義」や「毅然たる指導」の言説に惑わされずにすんだのは、彼らの思い出のおかげである。二中を取り巻く歓楽街の子どもたちの荒廃や大学紛争時の青年の
閉塞極まる状況に比べれば、どんなに荒れた教室も僕には「花園」に見えた。

 A君が「頑張れ」ばクラスの平均点は上がるが、別の誰かが「1」を頂戴する羽目になる。

 悦ちゃん←クリック unlearn仕切れない生徒←クリック自分が頑張ってしまえば誰かが「ビリ」になることに、鋭い嫌悪感を持っていたのだと思える、際限のない競争に皆が疲弊することを回避したかったのだこれこそが理性である。
 彼らは抑制の効かない社会に対する孤独なドンキホーテだろうか。ソローではないか。 




敗戦の大政変で、思想犯や政治犯が新政権中枢で活躍出来なかったのは何故か

わたしは反対意見を、苦痛と悲しみをもって訴える
   「憲法改正を伴う大政変では、獄中にあった思想犯や追放された政治犯が新政権中枢で眼光鋭く汗を流す。それが健康な民主制であり、社会と個人が一度失った多様性・全体性を回復する不可欠の過程である。その一環として責任の追求と補償は曖昧さを許さず行われる筈であった。だが敗戦後、重監房帰りの中村利登治、追放の淵にあった島比呂志、追放された「不穏分子」吉川先生らの名が挙げられることはなかった。
 草津重監房扉と三千名の政治犯・思想犯監房の扉を国民自らの手で解錠出来なかったことを、我が歴史の痛恨事として記憶しようとの決意すら無い社会には、隔離と追放の構図が構造的に温存されている。
 三木清は、二度目の投獄を敗戦後の四十日まで生き、豊多摩刑務所で空しく絶命した。彼の死因は疥癬感染による急性腎臓炎。刑務所が疥癬囚人の寝具を消毒せず支給した為である。戸坂潤も敗戦の直前8月9日長野刑務所で疥癬のため死亡。これらは事故ではない。公務員による殺人である。他方で伝染する怖れのない病気には、大仰な消毒・予防措置を数十年に亘って施し、他方で疥癬の消毒を怠って死者を出した。両者に共通するのは、人間の尊厳に対する恐るべき無関心と無知である。隔離政策の愚は、三木清や戸坂潤の獄死とも無縁ではない
」  『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』 p294 地歴社刊
  殺人や窃盗に手を染めて勲章や爵位を得ていた権力者が、自主的に反省することはない、まして自らを罰し生まれ変わるわけはない。だから権力の根拠と構造は根底的に変えなければならない。例えば療養所所長には患者が任命されたり、医師に対する信任権が患者に与えられ、国立大学の学長に助手を選挙で選ぶなどと言うことは構造的にあり得ないのである。
 敗戦は日本の官僚制度を民主的に改革する絶好の機会であった。その機会は1947年にあった。何故失敗したか、そのときのことを都留重人が証言している。

都留重人 ・・・敗戦を予想しておった人も、たくさん日本にはいたんですね。ところがそういう人たちが結集して新しい日本の建設の仕事にあたるという動きが、どうもよわいという感じを敗戟なまぢかにひかえたあのころは考えていたんですね。それに対して、日本の官僚制度はひじょうに強敵で、戦争責任ということに対して無感覚で、また一般国民の側からもそれを糾弾するだけの大衆的な力は起こっていない。そういう事実があった。
 ところがいよいよ占領になりましてね、さらに考えてみると、やはり占領という事態は、旧支配体制の行政機構を利用するという態勢なんですね。したがって、そのあいだに逆に日本の官僚制度を強化したということですね。一つの転機は、昭和22年(1947)10月に法律がとおった新しい「国家公務員法」だと思うんです。
 これにはいろんな経緯がありまして、占領軍からもちろんとおせと言われたんですが、当時はわたしは経済安定本部にいて、占領軍からもち込んできて、とても扱いにくくてやりきれないようなことは、全部、安定本部へもち込まれちゃうんですよ。たとえば大蔵省とかその他の官庁というのは、旧官僚体制で固めていますからね。ですから集中排除というのがあったでしょう、これも理屈をつけて安定本部の管轄にしちゃったんです。国家公務員法もそうです。
 それでわたしらはなかにいて、まったくすじ違いじゃないかというので押し返すのにそうとう苦労した。結果的には扱いませんでしたが、そのかわりひじょうに粗略な扱われかたをして、議会ではほとんど審議らしい審議をせずにとおっちゃったんです。そのときに、中野重治氏が
「わたしは反対意見を、苦痛と悲しみをもって訴える」という名演説をうったんですが、その国家公務員法というものの扱われかたを見てみまして、わたしはやはりもう日本の官僚機構というものを新しくする契機は失われたと感じたんです。
 それからは、官僚機構はますます強化される一方で、現在にまでおよんでみるというと、まさに官僚の古手が内閣を押え、かつ国会においても官僚の古株が重要な地位を占めている。そして現在の行政機構にいる上級官僚というのは、天下りのところへいくか、あるいは自民党に属して立候補するか、という体制でね、日本の古くからの官僚機構につながる支配体制というのが、現在にかけてますます強化されているという感じですね。
『思想の科学』1967.10

 進駐軍は、日本の敗戦前から日本の官僚機構をそっくりそのまま使うつもりでいた。例えばハンセン病療養所における、監禁・虐待・殺人・非合法人体実験・患者財産の窃盗・などの責任をとった官僚も医者もいない。僅かに末端の職員が移動させられたに過ぎない。それも、冤罪が繰り返されるのも、贈収賄が絶えないのも、戦前の官僚制が天皇制と共に残ったためである。残っただけではない。一党支配が続く中で政権党と官僚制は分かち難く結託してしまった。どんなに優れた仕組みであっても、批判勢力と政権交代がなければ腐敗する。公務員制度「改革」の名の下に利権は多様化して強化され、公務員の「全体の奉仕者」としての職能は蹂躙される。他方権力者の犯罪隠蔽は、公然と行われるようになった。政権党に連なる勢力は拡大しその利権は際限なく膨張するばかりである。


 中野重治の反対演説は、このまま社会科資料集に載せる価値のあるものであるから、長いがここに引用する。
  中野重治君 ・・・ 先ず私は、私の反対意見を苦痛と悲しみとを以て訴えるものであります。それは、この法案がこういう姿、こういう不十分な討議手続において現われたことは、日本の民主化がいかに遅れておるか、我が民主革命の仕上げが、いかに前途程遠いか、日本の天皇制官僚組織がいかに險悪に且つ根深く残つておるかを、あからさまに示しておるからであります。この法案の根本性格が、日本從來の官僚組織をば、その主な特徴の殆んどすべてを残しつつ、民主化の名において國民に押付けるところにあるからであります。我々は日本の官僚組織の徹底的民主化を欲する。併しそれは中味を欲するのであつて、看板を欲するのではない。人民の要求するのは薬であつて、能書ではないのであります。即ち清盛に衣を着せるのが問題ではなくして、彼を武装解除するのが問題なのであります。(拍手)若し我々が清盛のために、鎧の上に衣を羽織る手傳いをし、かくて清盛は鎧を脱いだのであると國民に思い込ませるように万が一にも手傳うとすれば、我々は人民の信頼を裏切ることになる外はないと私は固く信じます。(拍手)
 我々は日本の官僚制度の徹底的民主化を欲する。この法案もそれを欲するかのごとくうわべには見えます。そこで仮にこの下書を書いた人々が心からそれを欲していたとしましよう。その際最も大事なことは、目的のために手段を誤まらぬということであります。若し手段を誤まるならば、主観的にはいかようにもあれ、恐るべき結果が生れるのであります。では正しい手段はどこに求められるか。それは日本歴史の中に求められる。日本歴史の具体的現実を踏まへること、これが正しい方法手段を見出すための最初の又最後の基準であります。然るにこの下書は全面的、且つ根本的に日本歴史の現実に背いておる。いうまでもなく我々が徹底的に民主化しようとするのは、日本の官吏制度である、数十年、数百年來すでに民主化された諸外國の官吏制度ではないのであります。では我が官吏制度はどこにその歴史的特徴を持つておるか。その一つは、例えば服從すること、秘密を守ることなどの服務規定の面であります。我が過去の天皇の官吏は、上役人に服從することにおいて人民に抵抗し、人民に公開せらるべきすべてを秘密として独占して、これを一握りの人々に公開し、分けても早耳システムを通してこれを賣捌きさへしたのであります。今この法案を見ますと、これらの服務規定に更に宣誓の規定を加えて、すべてこれを残そうとしておる。從つてその宣誓ほ國民に対する宣誓ではなくて、直属上官乃至最高裁判所長に対するものであります。成る委員の言葉を借りれば、参謀総長、陸軍大臣、教育総監の軍事コンビにさも似た三人委会を更にその頭に戴き、この全ピラミツドによつて人民の利益を抑えようとするものであります。もう一つ更に目を止めて見なければならんのは、労働者階級、農民、この農民というのは、日本の天皇制官僚組織が日本の農民の半農奴的状態に対應していたために、私は特に言い及びたいのでありますが、労働者階級、農民、労働組合、及び民主的政党に対する過去の日本官僚機構の歴史的関係であります。これを我々は見なければならない。併しながらこのことは、我が勤労階級及び議員諸君がその体験を通してよく御存じのことだろうと思います。ただ私は次のことを強調したいと思います。それは準備及び遂行の全戰争期間を通じて、我が官僚組織が完全に軍閥と結託して我が國民に言おうようなき犠牲を強いたという事実、あまつさへ戰後引続きこれを強いておる事実であります。而も同時に一方連合諾國の民主主義的占領政策の助けをも得つつ、我が労働組合及び民主的諾政党が、苦痛に満ちた長い沈黙の後再びその活動を開始したことであります。労働組合及び民主的政党の活動開始は、世界民主主義の方向を日本歴史の現実の上に実現しようとするものである。いわば外からの連合諸國の民主的占領政策、これに内から應ずるところの民主的諸政党及び労働組合の活動、これを措いてどこに日本官僚組織、日本官吏制度の民主化の基本線があるか。(拍手)又あり得るか。労働組合、政党及び議会活動を我々が重んずるのはそのためであります。然るに今この法案は、その全部に亘つて民主的諸政党の官吏制度への影響を閉め出し、苦痛と犠牲とを拂つて得たところの給與その他に関する労働組合の既得権を抹殺しようとして力を集めておるのであります。(拍手)私はこれが日本の歴史に対する叛逆でないかを恐れます。議会制度の前途に忌わしい影を投げるものでないかを恐れます。國民の公僕の名において、この法案は我が全公務員を特定の入の群の奴僕としようとするのではないかを恐れるのであります。私は曾ての警察官のあのサーベルが、いわば民主的な現在の棒に比べてよかつたということ、現在の棒は人を打つのに彼のサーベルよりも現実に力強いということをこの際思い起すものであります。先進民主主義諸國の姿を学ばねばならんということは、これは勿論であります。併しながら我が民主的諸政党と労働組合は、実のところ、まだ幼な兒であります。我々はこれを保護しなければならない。冬を前にしてこれに重ね着をさせねばならんのであります。然るに、冬の後には春が來るであろう。春が來たならば綿入れを脱がして袷に着せかへねばなるまいということを時間的に逆轉させて、今日へ引戻すことによつて、それを目の前の幼な兒に実施しようとする。こういう法案には、我々は農民をも含むところの全勤労君のすべての組織、及びすべての民主的諾政党の諸君と共に、徹底的に反対せざるを得ないのであります。(拍手)これは第一回の國会でありまして、第一回國会の決定は、第二回以後の無数の國会、及び日本人民の將來の全政治生活の運命に非常に大きい影響を及ぼす点において、極めて責任が重大であります。私はこの法案に日本歴史の上に立って反対するものであります。私の反対意見に耳を傾けて下すったことを感謝します。
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  留重人は八高在籍中、中国侵略に抗議のストライキで除籍され米国留学。1940年Havard大学講師となるが、日本の敗戦過程を知るため日米交換船で帰国。片山内閣経済安定本部で進駐軍との折衝にあたった。初めての『経済白書』を執筆している。
 

王様に貰ったミカン

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