作り方では、日本国憲法は「土人」に遠く及ばない

吹き抜けの開放的小屋が制憲議場
 ギルバート諸島が1978年に独立(いろいろあって独立後は、英連邦のキリバス共和国となった)するとき、憲法制定議会が組織された。
 第一次世界大戦で独国が敗れて日本は易々と戦勝国となり、独国支配下の島々の一部を国際連盟委任統治の名目で占領した。名目にすぎなかった事は、国際連盟脱退後も居座ったことで分かる。ヨーロッパ人が来る前に人は住んでいた。島に生まれた人たちにとって、英国であれ、ドイツであれ、日本であれ、米国であれ「みんな、こちらには断りなしにやって来ましたよ。勝手に自分の国の旗を立てた」闖入者である。日本人は島民をこき使って道や滑走路を作り戦闘機を置きムラをつくりサトウキビ畑を造り、泡盛を作り輸出して儲けた。島始まって以来の「繁栄」を実現したと日本人は胸をはる。挙げ句の果てに米軍と滑走路を巡って殺し合って、玉砕した。島民も数千人が殺された。しかし、島民は、そんなこと頼みはしなかった。
 「あんまり働くと病気になる」という生き方を貫くキリバス人。遠くから高い費用を払って飛んでくるほどの美しい自然の中に、伊勢エビも貝も魚も主食のパンの実もジュースも新鮮なまま溢れている。何時も愉快に歌い、飲み、食べる。
  しかし日本企業の現地社員たちは、彼らを怠け者とは言わない。よく働き優秀だからだ。
 
 たくさんの特徴がある島国だが、何より素晴らしいのは制憲過程である。ギルバート諸島は植民地だったが、自治権を認められ政府を持ち大臣もいた。

 「「憲法制定会議」というからにはいかめしく守衛がとりまいているのかと思ったら、そんなことはまるっきりなかった。シャツに半ズボン、ゾウリバキのスタイルで私もそこに行って、はしっこのゴザに腰を下ろした。誰かがもの静かに話をしていた。残念ながらギルバート語なのでかいもく判らなかったが、なかなか雄弁のように見受けられた。若いのはあまり見えなかったが、年よりもいれば女性の姿も見えて、なかなか多彩な感じがしたが、多彩といえば、ときどき私のようにのぞきに来る野次馬のほうも多彩だった。ゾウリバキも来れば、ハダシも来る。上半身まるはだかのものぞきに来たし、犬もやって来た。そのときには気がつかなかったが、あとで記録用にとっておいたテープをきいてみると、ニワトリの声も演説の声にまじって入っていた。
 三百人はもう一月もそこでそんなふうにニワトリの声の伴奏入りで会議をして来ていたのだが、中部太平洋に大きくひろがって点在するいろんな孤島からやって来ているのだった。いちばん遠いところはタラワ島から三千キロはなれたクリスマス島からやって来ている参加者もいて、そういうのは何日.もかかってはるばるとやって来ているのである。各孤島から五人あて来ていて、 内わけは島のお役所の人ひとり、協同組合からひとり、.あとは老人代表、女性代表というぐあいに、いかにも島の住民代表という感じが強い。
 たしかに見ていると、その「憲法制定会議」は住民大会といった印象がした。ひとにぎりのえらいさんたちがどこかの密室に集まって勝手に方針をきめるというのではなく、住民が集まって、その開けっぴろげのかくしようのない場所で、みんなでチエを出し合って自分たちの未来をきめる。-こういうことは、今ようやく日本でもあちこちで人びとが始めていることだが(小田実がこれを書いたのは1970年代の終わり頃である。1971年美濃部知事が選挙で圧勝、各地に革新自治体が出来、4500万人が革新首長の下で生活していると言われた。遙か昔のような思いに囚われる)、それを国家の規模で、国家の基本をさだめることについてやってのけようとしている。
 「憲法制定会議」を見ているうちに思い出されて来たことがらは二つあって、ひとつは日本のあちこちで見たそうした住民大会の光景だが、もうひとつは、日本国の憲法をつくるにあたって、私たちがこういう住民大会を一度でももったことがあるかということであった。昔の「明治憲法」が、伊藤博文やら何やらが勝手につくり出した憲法であることは言うまでもないことだろうし(第一、国民は憲法発布の日まで、その中身について一言半句も知らされていなかった、当時日本にいた西洋人が、あわれにもこのヤバン国の国民、中身の何んたるかを知らずして発布を祝うと日記に書いていた)、今の「新憲法」だって、中身はわるくないにしろ、でき上るまでの過程は同じようなものだ。とすると、ギルバート諸島と日本、どちらが進んでいて、どちらがおくれていることになるか」小田実『世界が語りかける』

 小さな国の幸福を感じる。

 だが出来上がるまでの過程という事で言えば、高校と言う小さな世界の決まり=校則でさえ、職員会議が勝手に作るものであり続けている。今や管理職が教員の意向さえ無視して一握りの取り巻きだけで作る。守る従順性だけを押しつけ、守らない者を罰する矮小な事が教員の仕事になってしまった。とても先進国や文明国の草の根インテリの仕事ではない。
 我々は小さいことの利点さえ生かせないのか。坂本龍馬や吉田松陰など「偉人」を有り難がっている限り、ひとり一人が自立した思想を持つ用になるのは至難だろう。
 
 キリバス共和国に軍隊はない。

20年後を見通す政策を立案する賢明さはどこから来るか

妊娠中絶合法化で20年後の若者の犯罪率が低下した
 栃木県の認定こども園で、保育教諭らが、2歳児たちに「死んでしまいなさい」と罵り、食事やトイレの際にも「廊下に出ろ」「邪魔」「うるさい」などと暴言を吐き、園児を明かりのついていない教材室に入れたこともあったという。
 こども園は保護者に謝罪、当該園児宅を個別訪問し謝罪した。件の保育教諭2人は退職。園長は「園児や保護者に不快な思いやつらい思いをさせ、申し訳ない。今後は職員間の風通しを良くし、保護者に安心してもらうためのカメラを設置するなどして、再発を防止していく」と話したと新聞などは報じた。   2019年7月31日

 日本では子どもの虐待死が年間50件を超え、2017年度の虐待死は65人。(厚労省社会保障審議会の児童虐待に関する専門委員会)  死亡した子供の年齢は0歳児が28人と最も多い。加害者は実母が25人、実父が14人。また16ケースは「予期しない妊娠・計画しない妊娠」だった。
  2018年度、児童相談所での虐待相談対応件数は全国で前年度比2万6072件増の15万9850件と過去最悪、統計を取り始めた1990年度から28年連続の増加。

 児童虐待によって生じる社会的な経費や損失は、日本国内で少なくとも年間1兆6000億円にのぼるという試算がある(2012年度)

  栃木のこども園では「死んでしまいなさい」と子どもが叱られていたのに園長は数ヶ月も気付いていない。この園長は普段は園のどこにいたのか。子どもや保育の現場が、好きではない事が分かる。風通しや監視カメラの設置で済むわけがない。
 子どもや現場が好きである事と、教育行政が乖離したのが事の発端である。かつて校長や教育委員会の教育長、教育委員会事務局の指導主事にも教育免許状が必要であった。 教育委員の公選制廃止以降も、日本の教師はよく闘って公教育制度の民営化や権力の介入を防いできた。一方ベトナム反戦闘争でも大きな力を発揮して、学生たちを鼓舞して「頭は白いが胴体は真っ赤」と言わしめた。だが、教員組合の組織率の低下は如何ともし難く、教研活動(80年代半ばには、教研集会報告に生活指導が目立ちはじめると共に、教科実践報告が少なくなっていた)も低迷、組合の白くなった頭は教育行政と一体化してしまった。日教組が主任制反対闘争から降りたのは95年、職員会議での採決禁止が98年であった。こども園だけではない、あらゆる公教育機関が、権力と利殖の低次元な舞台と化した事の表れが栃木の事件である。直ちにやるべきは、監視体制の強化ではない、監視体制の行き着いた先が、神戸の小学校教師のいじめ事件である事を知らねばならない。

 教育行政がその姿勢を、教育と子どもに向きを変えなければ、事態は解決に向かわない。教育行政当局が、教育愛に燃える、こんなに絶望的なことがあるだろうか。
 厚労省の報告にあるように、児童虐待の最大の要因は「予期しない妊娠・計画しない妊娠」である。望まない・望まれない妊娠と犯罪率の関係には、スティーヴン・レヴィットの研究(邦訳『やばい経済学 東洋経済』)が既にある。
 
 妊娠中絶が合法のニューヨーク州、カリフォルニア州、ワシントン州、アラスカ州、ハワイ州では、他の州よりも早く犯罪が減り始めていた。凶悪犯罪で13%、殺人事件では23%減少していた
(1994~1997年)
   1973年テキサス州の「ロー対ウェイド」裁判以降、妊娠中絶合法化が全米へと広がり、一年間で75万人の女性が中絶を受け、さらに1980年には160万件まで中絶件数が増えた。その結果、子殺しの件数が劇的に減り、できちゃった結婚も減り、養子に出される子どもも減少。
 そして「ロー対ウェイド」裁判から20年ほど後の1990年代初め、犯罪発生件数自体が劇的に減少したのである。恵まれない環境で、幼少期、少年期を送った子どもたちが、犯罪へ走りがちな若者の犯罪が明らかに減った。

 幼児虐待が効果的に減少するには、「予期しない妊娠・計画しない妊娠」による親の犯罪を直接止めると共に、「予期しない妊娠・計画しない妊娠」によって生まれ十分な愛情の元で育てられなかった世代がなくなるのを待たねばならない。それは少なくとも20年はかかる。
 気の短い議員がマスコミ受けを狙って、行政当局に求める性急な対策は一見効果がありそうだが、当該議員の短期的人気を高める以外の効果はない。20 年以上たって漸く効果が見えてくる政策、それが社会政策である。

便利さは、人間や組織の能力だけでなく倫理も破壊する

分析を外部に依存する政府の元で成長は絶望
 危険な金融商品売買を支えているのは信用格付け会社であると、米上院ウォーレン上院議員が連邦政府の証券取引委員会=SECに警告を発している。ゴールドマンサックス社が引き起こした金融メルトダウンの犯人は,、信用格付け会社である事は米議会が既に指摘していた。その犯人信用格付け会社を監督するのが、連邦政府証券取引委員会。それが規制をサボっているのである。

 その信用格付け会社の格付けが高いというだけで怪しげな金融商品を買い漁る日本の金融機関を日本の行政は放置している。銀行に行けば定期預金の金利は余りに低く、例えば中国の銀行の普通預金口座金利をも遙かに下回っている。
 政策的に金利を下げておいて金利が低いことを根拠に、窓口は投資を勧める。その安全性の根拠にしているのも、米信用格付け会社の格付けである。自社で自分で分析するのではなく、海外の営利機関のランキングを誇らしげに見せつける。そして損益が出れば、自己責任を言う。「説明したでしょう」と言うわけだ。銀行は信用格付け会社の格付けを利用したことの「自己責任」には決して触れない。銀行にとって信用格付け会社の格付けは、顧客を欺すには便利だ。もっと大きな責任は、米国に脅迫されて金融「自由化」に踏み切った政府にある。
 子どもの貧困率は、抜きん出て高い。(前回調査(2012年調査)よりわずかに低くなったことを根拠に、「アベノミクスで貧困が改善した」といい包めた。しかし、相対的貧困率は、全国民の所得の真ん中(中間値)を基準に、その半分の層を「貧困層」と定義し、全体に占める割合を示したもの。2012年から2015年の間に数値が変動したのは、中間層の所得が落ち込んだため、「貧困層」の割合も減ったように見えたためで、困窮の実態は変わっていない。むしろ、中間層が所得を減らし、貧困層は放置されたと言ってよい)。  働くものの賃金はOECD諸国中、日本だけが下がりっぱなし。大学の世界ランキングもアジア諸国にに水を空けられ続けている。

 便利な道具は、企業だけではなく政府の能力や責任感まで奪い去っている。 

 「都教委悉皆」研修、「大学入学共通テスト」の準備のための「思考力・判断力・表現力育成のための定期考査作成」講座は、巨大塾資本ベネッセに丸投げの講座だったという。参加者は都教委の劣化を感じさせる研修だったと言っている。さもありなん、しかし思考力や判断力を狙いとする講習が丸投げとは、冗談としては出来すぎている。(しかもこの「悉皆」研修に、「共通テスト」の受験者がいない高校などは呼ばれていないらしい。受験しない高校生らに思考力や判断力は要らないと教委自身が白状している。指示された事を従順に実行する事だけを期待されているわけだ。「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいい」と言った三浦朱門の言い草は忠実に守られている。)
 文部科学行政自体が、塾資本に乗っ取られているのだからこれは教育の劣化ではなく意図的解体なのだ。塾資本本体が利潤を確保できるなら、公教育の解体崩壊は痛くも痒くもないに違いない。水道民営化を担う資本が利用者の健康や安全に関心はなく、水道料金値上げと経営陣の高額所得や再民営化時の莫大な違約金に意欲を示すように、塾資本は公教育を解体する過程で膨大な利益を狙っている。崩壊や格差が激しいほど短期的利益は大きくなる。第196回国会で成立した改正PFI法は、水道民営化だけを画策したものではない。

 部活指導の激務に疲れ果てる教師を救うふりをして、公教育本体を民営化し平教師を派遣労働者化することを狙っている。

   高機能を売りにする音声翻訳機が勢いを増している。カーナビの出現で我々の地理感覚が低下したように、
高機能声翻訳機の便利さで言語感覚は鈍くなり、母国語の劣化も誘う。
 幕末の蘭学塾の学習環境は極めて粗末であったが、多くの逸材を産んでいる。空気は適度に薄い方が、運動機能を高める。

 アマゾンの手軽さは画期的で、成長も著しい。2017年度の売上高が日本だけで1兆3335億円(前年比14.4%増)となった。そのうち出版物の売上げは5400億円を超している。しかしその裏側では「小田原の物流センターだけでも開設以来4年で、少なくとも5人が作業中に死亡している。

   外部の手軽で便利な機能に頼れば、我々は自らに備わる能力を放棄し、共同体に対する倫理意識も失う。
 戦争指導選良たちの幼稚で狂信的な現実感覚を産んだ「戦争紙芝居」も、手軽で便利な機能であった。←クリック
 

サムライもどきや「文武両道」ごっこに潜む差別

佐野碩は孤立を恐れぬ自由な越境者であった
 「切腹する、見てくれ」と 侍が、人を集めることは考えられない。侍の美学に反するからである。サムライを自称するsport teamや企業開発集団は、記者会見して「どうだ凄いだろう、賞を呉れ」と衆目を集めずにはおれない。元来侍は、自己抑制的である筈だった。(戦国時代までは、侍は少しも事故抑制的ではなかった。見苦しいほどの兜と旗物差を身につけて、大音声で名乗りを上げねば手柄を認めて貰えなかった。皮肉なことだが、その点では現代のサムライの方が、侍の原点に戻っている。だがsport teamや企業開発集団の念頭にあるのは、封建的身分秩序が固定して後の虚構の士なのだ。)
 自己抑制出来ない現代の「サムライ」に残るのは、批判精神を忘れた忠誠心である。つまりご奉公=対話の不可能性という観念であって、充実した労働生活や地域生活からは遊離する。お上に隷属することを誇りにさえしている。

  部活の枕詞になった文武両道にも、その色彩がある。(元々文武両道とは、武士身分が公の事務を独占兼務していたことに由来する。部活する者が「文武両道」と言うとき、俺たちは大学受験を本務としない百姓や職人ではないという驕りを含んでいる)
 もし「武」にも励むのなら、自己抑制の美徳を発揮して学校要覧やhomepageに大会出場歴や大学合格実績を出すべきではない。泰然と構えて動じないのがいい。それでこそ、他者が、「さすが文武両道」と言うかもしれない。しかし大概は、教師も生徒も「文」=日常の学習に打ち込めない実態の隠蔽でしかない。

 現代の文武両道もどきは、新聞社がらみの興行資本が捏造する美辞麗句溢れる秩序を疑わず、一途に序列を駆け上る。そのために、付け文もデートの誘いも寄せ付けず、文学や演劇を毛嫌いすることを「自分に克つ」ことだとかたく信じている。
 青春は、蹉跌しなければ意味はない。「自分に克っ」て、勝ち点を貯めて守銭奴よろしく悦に入ることではないだろう。勝ち点とは、隷属の証に与えられる食えない褒美。友情や恋愛に優劣も勝ち点があるはずはない。
 授業や試合をサボる最初の一歩の不安。人目を避けて土手でデートすれば、夕陽の落ちるのまで止めたくなる。社会科学や哲学の探究と議論に文字通り寝食を忘れる。成績も落ち、遅刻と欠席が増え両親や担任の説教さえ耳に入らない生の充実。少年たちの内側から押し寄せる、青春の意気。これらは大人や組織がコントロール出来ないが故に、何時も不良行為として名高い。
 
  小津安二郎『麦秋』(1951年)に、主人公の男女が晩春の眩しい日差しの中で交わす会話がある。

 「面白いですね 『チボー家の人々』」
 「どこまでお読みになって」
 「まだ4巻目の半分です」
 「そお」
 全部で5巻だから4巻目の半分ならもう読了も近い。それを「まだ」と言う自己抑制がこの場面には隠されている。                    
 『チボー家の人々』を高校生も大学生も読まない、教師も。『ライ麦畑でつかまえて』さえ手にしない。歴史に生きる個人としての決断を物語の中で味わうことさえしないのだ。臆病なのだ、年若くして精神は老いている。臆病者は群れる。

 サムライ意識から我々がこうも自由になれないのは、村落共同体=ムラ解体に代わる仕組みを見いだせないからである。臆病者は不安から逃れるために、群れを渡り歩くことを厭わない。コミューンを形成するための個人の自由を確立出来なかった近代日本は、特権を死守して華族ムラ、高等官ムラ、原子力ムラ、・・・を形成し、崩壊した村落共同体代わりにしてきた。サムライ意識で結束した集団は、特権にすがりつく臆病者に過ぎない。

  「インターナショナル」の歌詞を訳した佐野碩のごとき、あらゆる係累の柵み、党派中枢の裏切りや転向をものともせず自由に生き抜く越境者が少しも珍しくなくなるまで、この国に擬制のムラに群れる者は跡を絶たない。

「成績」による選抜は、倫理に反する

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学習に適した季節は勉強に精進したい
 BBCが報じた 世代間交流プロジェクト「80歳、4歳児と友だちになる!?」を視ながら、考えていたことがある。違った年齢の人間の交流に大いなる成果を見ることが出来るし、又戦災孤児と知的障害者という、違った困難を抱えた者同士の接触も、大いなる効果を生んだ。
 人間は異質の者同士の交流で、互いの能力を高める。そのように出来ているのではないだろうか。もし効果が一切無いとしても、我々は選抜を排して、倫理的である事を選ぶ必要がある。

 同じ年齢、同じ適性、同じ偏差値、同じ階層、同じ障碍、・・・同じ者だけが選ばれて作られる集団の抱える問題。それは如何なる意味で効率的なのだろうか、何処に倫理性を発見できるか。
 川崎のカリタス学園殺傷事件、相模原「津久井やまゆり園」大量殺傷事件、大阪教育大付属池田小殺傷事件、川崎老人ホーム連続殺人事件・・・これらはすべて、成績で揃えれば指導が効率的になるという思考の怠惰が産んだ無差別殺戮である。
 頭のいい子だけを集めれば、いい教育が出来ると本気で考えているのか。障碍を持った人間は人里離れた場所に隔離する、それで効率に富んだ対策が可能になると考えているのか。対策とは問題を起こさないことか。問題や逸脱の中に、成長や発展の契機は潜んでいる。


 もし地位や所得別に教会や寺院が組織されるなら、御利益も神のご加護も階層別だと白状しているのだ。つまりいくら祈っても、効き目は無いから金を出せという脅迫だ。

 公教育に携わる学校が公的支援に頼りながら、能力ある者だけを選抜して得意になる情況を僕は正視出来ない。それは教育内容を誇っているのではなく、宣伝集客戦略を得意がっているに過ぎない。健康保険制度下の病院が、所得や身分で患者を選別するのと変わりなく、非人道的である。
 もし成績の良くない子だけをドッサリ集めて、自慢の良き教育を施し名門大学合格者や数学や物理オリンピックメダル獲得者を排出したというのなら、得意になるのも少しは肯ける。少しと言うのは、もし良き教育が真実効果的であれば、生徒たちは偏差値やメダルに拘ることは無くなるからだ。
 大会出場実績のある若者だけを金に物言わせ集めて、大会出場を告げる垂れ幕で校舎壁面を見苦しく覆ってどうしたいのか。場末の遊女の厚化粧に似て悪趣味だ。
 
 僕がかつて教えていた都立高校と、全く同じ偏差値の私立高校が近所に複数あった。大学入学実績は常に都立校がかなり上回っていたが、面妖なことに両校の偏差値は同一に維持された。僕は私立校と塾と偏差値会社の馴れ合いがあると信じている。
 マスコミはその種のまやかしや絡繰りについて、綿密な調査報道をする義務と責任がある。


 僕が多摩のマンモス都立高校にいたとき、私立中学からの入学生があった。何か問題を起こして追放されたのではない。「自由とは何か、それを自由の中で掴むのはむつかしい。むしろ自由が制限された学校生活の中でこそ知ることが出来るのではないか」と彼女は考えたのだ。一年間の英国留学も終えていた。彼女についてはここに書いた。←クリック  
  僕は彼女の社会科を2年から受け持った。一年生の時から勇ましい話が伝わってきた。つまらない授業を容赦せず、廊下や職員室で抗議する、しかも理路整然と。彼女を受け持つ教師で批判に曝されない者はなかった。だから彼女のいるクラスでは、間の抜けた授業をすることは出来なかった。僕は逞しい女闘士を想像した。しかし2年になって授業に出ると、毅然とはしているが小柄で笑顔の素敵な少女であった。時々準備室にやってきて話し込むこともあった。礼儀正しいのも特徴で、他の生徒たちがノックもせずいきなり「いるー」と覗き込むのとは雲泥の差であった。なるほどこれなら、抗議される教師も乱暴な対応は出来ないだろうなと思わせた。
 圧倒的なのは、彼女のノートであった。僕はノートを適時集めて、質問に答えたりコメントを入れたり間違いを訂正したりしていた。その学校は、他の学校に比べ自由で豊かなノートを作る生徒が多かったが、彼女のものは群を抜いていた。まさしく作品であって、字や図柄の配置までがある種の芸術性を帯びていた。文化祭でも多様なアイディアとリーダーシップを発揮、抜きん出ていた。
 同学級の生徒たちは、いつの間にか授業中の姿勢や質問までが影響され、幼稚さが消えていた。「~は何ですか」や「どうやるんですか」ではなく「~はどこで、何で調べられますか」に変わっていた。
 

 三年生になったある土曜の午後、彼女の私立校での同級生が5、6人やってきて「授業を見せてください」という。
 「今日は土曜だよ」と言うと「あっ忘れてた」と言う。彼女たちは大学生なのだ。一年留学していた件の生徒より早く大学に入っていた。

 即席の授業をした。知的好奇心も凄まじかったが、静寂と賑やかさのけじめが美しく、食い入るような眼差しは僕の目に向けられていると言うより、その奥の大脳を射貫くように鋭かった。次から次へとアイディアや事実が甦り、授業が展開するのに驚きもした。僕はこんな事も蓄えていたのか、それは聴く側の生徒の眼差しや発問が耕し引き出す。                                                           
 僕は、彼女のいた私立校教師の幸福を思った。

 東大生を教育実習で受け入れたことがある。好奇心に溢れ行動的な学生だった。実習に先立って文献を指定すれば、かなり読み込んだ。
  いつもの年は勤務高卒業生だけの実習。指定した文献すら読まない気力のない学生が、この東大生に引き摺られるように読み討論し質問しに来るようになった。更に授業案を互いに批判助言し、研究授業の模擬授業や、研究授業後反省討論まで熱心にやった。時には暗くなるまで、教科以外のことも語り合った。
 教育実習生に、国立大学生や名門私立大生が加わる偶然は
その後なく、研究授業さえ一時間の大半を残して立ち往生する例年に戻ってしまった。
 では東大からの実習生は何を得ただろうか。それは、他大学の実習生や生徒たちにも説明できるよう言葉を選ぶようになったことだ。ある概念を説明するのに、異なる言葉を使い理解を広げることは、自らの中にあった概念を再検討し修正することでもある。同じ学力の学生同士では、その機会はない。説明なしで、あるいは不十分な説明で「分かってしまう」からだ。
 このことが彼らの将来にどのような影響を及ぼすか言うまでもあるまい。
 選別しないことは、双方に大きな効果をもたらす。そのことはすでに明らかになっている。にも関わらず選別を続けるのは、選別事態に重みを持たせるために他ならない。優れた才能が輩出し、国民の学力の底上げが実現するより大事なこと、それは何か。受験産業の繁栄である。まともな国では見られない、受験産業は国民総生産を挙げるどころか、蝕んで腐らせている。なくてもすむものは、廃止すればよい。

 事前の選抜と定員を一切廃止して、やや厳格な進級卒業制度に切り替える。選抜がなくなれば、我々は三学期いっぱい落ち着いて授業に精進できる。秋も春も素晴らしい勉学の光景を生むだろう。今、高校生と大学生は選抜のためにどんなに学ぶ時間を失っていることか。

異質の他者どうしが交流して生まれる幸福感、尊厳、能力の回復・・・

NHKからこうした地道で良質な番組が消えている
 地球ドラマチック「80歳、4歳児と友だちになる!?」
  NHKのホームページは、BBC制作のドキュメント番組をこう紹介している。

「番組は「高齢者の社会的孤立や孤独は、健康に影響を及ぼす深刻な社会の課題の一つ。」という認識からスタート。その上で、「薬ではなく、社会関係や人間関係を改善するだけで、孤独な高齢者をどこまで元気にできるのか?」を科学の視点で検証します。6週間に渡って、高齢者たち、子どもたち、そして専門家が挑戦する、まさに前代未聞の画期的なプロジェクトです。

  ブリストル郊外の高齢者施設に4歳児10人がやってきた!世代間交流プロジェクトを通して、高齢者の幸福感、運動機能、認知機能は、はどう変化するのか?科学的な検証を行う。参加者の一人、77歳のジーナは、夫が認知症になって以来、気分が落ち込み笑顔もほとんどみられない。しかし、プログラムを通して、子どもと手をつなぐなど自然と触れ合う時間が過ぎる中で、ジーナも笑顔をみせるようになる…(イギリス2017年)」
   BBCの番組ではこの取り組みが、僅か6週間で大きな成果を上げたことを伝えている。
 僕が何より関心を持ったのは、英国の老人ホームの「豪華」さである。領主や貴族の館が敷地ごと居心地の良いNursing homeに作り替えている。ベッドや椅子など家具も館の雰囲気を壊さない上質なものであった。日本ならこんな老人ホームに入るには、億を超す一時金と月々数十万円の費用が掛かる。
 英国の[bristol nursing home]を画像検索すればいくらでも出てくる。任意の英国の町名でやっても出てくる。

   英国人労働者は退職後の貯蓄に余り関心を示さないと言われる。45歳以上で預金額が9000ポンド(約140万円)未満の割合は2014年度末で全体の40%。BBCの例、これは特殊な階層向けの施設ではないか、そう思う人もありそうだ。だがそれは詮索が過ぎる。
 英国では誰であろうと国民が老人ホームに入居する場合、住宅、貯蓄、年金などの資産併せて500万円以下なら全てその費用を国が負担する制度になっている。ビバリッジ報告の精神「揺り籠から墓場まで」←クリックは、今尚守られている。長いナチスドイツとの闘いを経た戦後の苦しい生活の中で英国人が獲得した制度だ。ちっとやそっとでは揺るぐはずもない。労働者や福祉嫌いのサッチャーが腕まくりして戦争で国民を騙しても、これは残っている。
 だから英国の労働者は、140万円の貯蓄で悠々と生活できる。出世競争で過労死することはない。中学生や高校生は、日本のように将来に備えた受験競争で鬱になることも、推薦入学を狙って部活で体罰や虐めに耐える必要も無い。
  英国の少年は、政治や環境もに関心を持ち自由に行動できる。演劇や音楽にも夢中になれる。祖父や祖母たちの生活が保証され安定していることが、少年たちを若者らしい正義に導く。だからhate言説にも引っ掛からない。

 英国のNursing homeに比べれば、日本の老人ホームはどう見てもやはりウサギ小屋止まり。大名の館や豪商の屋敷が庭ごと老人ホームになることは想像すら出来ない。ウサギ小屋程度でも順番待ちで、待っている間にあえなく死んでしまう。それが嫌なら月数十万円を負担する必要がある。
 僕は考えた、日本の老人ホームに4歳児が大勢やって来て何処で走り回れると言うのだ。大勢の老人が保育園に出向くのか、どうやって。特別の施設を作らねばならない、何処にどうやって。東宮御所や各地の御用邸をお使い下さいとでも、皇族は言うだろうか。米軍基地や自衛隊基地を無くしてそれに当てようと言う議員は何人だ。

 「80歳が4歳児と友だちになれ」は゛、高齢者の幸福感、運動機能、認知機能が驚くほど改善すると言うことは、取り立てて驚くほどのことはない。異質の厄介な困難を抱えた者同士が、政府の無策無関心から同一箇所に押し込まれ、驚くべき変化が生じたことがある。大戦直後、米本土も多くの難儀に見舞われた。その一つが戦争が産んだ親の無い子たちである。戦災孤児が町に溢れ切羽詰まった政府は、こともあろうに知的障害者の施設に放り込んで厄介払いをした。しかもかなり長期間。
 戦災孤児たちが成長するにつれて、他の青少年に比べ知能が優れていることが次第に分かって本格的調査が始まったことがある。知的障害者の美的特質は偏見が無いこと、飽きないこと、丁寧なことだ。親の無い乳児や幼児の片言の言葉や行動に笑顔で付き合い続けたのである。親に出来ないことを彼らは立派にやってのけた。この意図せざる接触が知的障碍者の自律や成長を促したことも大いに考えられる。
  だが儲からないことや見放された者に、世界の警官を目指す国は無関心であった。

  老人と子どもは相性よく作られている。団塊の世代の僕が鹿児島にいた頃、大人たちか漁や農作業や鉄道や役場なとに出て学校も始まれば、老人と子どもだけが地域に残って賑やかだった。泣いたり、喚いたり、怪我したり・・・。町には幼稚園も保育園もなかった、母親たちはどこも家事で忙しかった、すべてが手作業だった、着物もおやつもおしめも出産も葬式も結婚式も祭りも何もかもが手製であった。
 路地や寺社の境内が、年中無休の即席保育所になり、近所の老婆たちは路地に面した家の縁側で子どもたちを見守りながら手作業し、世間話に余念がなかった。子どもは自由で安全だった。婆さんたちは子どもたちの歓声を聞きながら、「こん衆(し)ゃ、もう戦争に捕られんとじゃな」と何度も語り合った。どこに行っても、老人たちは機嫌が良かった。平和が老人と子どもにとって、最大の福祉であったと思う。子どもたちにとっても老人たちにとっても、黄金時代であった。彼女たちは敗戦間際、浜にかり出されて竹槍で鬼畜米英に立ち向かう訓練をさせられ、夫や息子たちを戦場で失っていた。
 だがその中から、ビバリッジ報告に類する社会福祉的発想は生まれなかった。直ちに戦争で儲けることに躍起になってしまった。そのことについての思想史的考察をしなければならない。貧しかったことが言い訳にならないのは、英国やキューバが歴史の中で証明している。 続く

分からないことが増える楽しみ / 闇を切り裂く勇気

闇を暗いと言う者が血祭りにあげられる
 分かったことと分からないことの二つから世界は構成されていると我々は考えてしまう。そうではない、それ以外に分かるか分からないかすら知り得ない広大な部分がある。
  何があるか想像すら出来ない事柄や世界への好奇心が強ければ、イブン・バットゥータのような冒険家やとなる。

 好奇心を維持して知り得たことを万難を排して伝えようとすれば、ベトナム特派員時代の大森実←クリック や特高に虐殺された小林多喜二のようになるかもしれない。
 想像すら出来ない事柄や世界に怯える人々は、人知をを超えた「崇高な原理」にすがる。
 
 僕は黒板に大きくない丸を描いた。
 「仮にこの黒板を宇宙全体としょう。我々が知っていることをこの丸が示しているとすれば、分からないことはどこだろうか」生徒や学生の多くは円の外側と声をそろえた。
 「そこは、分かるか分からないかすら分からない部分だ。 「分からないこと」とは、「分からないことが分かつている」こと。円を表す細い線の部分だけが「分からないことが分かつている」部分なんだ」
 「ここに描けない部分もある。僕は今これを二次元で書いた。三次元以上で書く方が相応しいが出来ない。世界は分からないことだらけだ。少し分かった途端、その何倍も分からないことが増える。

 アポロ11号の月着陸が疑われることの根拠の中にこれがある。月着陸で分からないことが増えていないからだ。事実なら、月着陸がもたらした新発見によって新しい疑問が山のように湧き出す筈だからだ」
  「もし僕の授業で、分かることがどんなに増えたとしても褒めるに値しない。分からないことが増えなければ、ペテンなのだ」

  津田左右吉もこう言っている。

 「・・・少しずつ、そうして次第次第に、いろいろのことがわかってまいりました。けれども、今日でもまだまだわからぬことが多いのであります。あるいはむしろますます多くなって来たのであります。わかったことが多くなりますれば、それに従って、わからないことが少なくなるように思われるかもわかりませんが―実はそうではなく、わかったことが多くなるにつれて、わからないこともまた多くなるのが、人の知識の性質であり、学問の基づくところでもあります。つまり疑問が深くなり、細かくなり、あるいは大きくなり、いままで気のつかなかった疑問がだんだん出てくるのであります」
 津田左右吉が『古事記、日本書紀の寝研究』で不敬罪に問われた裁判(1940年)に於ける「上申書」の部分である。

 疑うことが弾圧されるのは、疑われた事柄(例えば万世一系の天皇や建国神話、原発の経済性や安全性、沖縄の核兵器・・・)が事実ではないがゆえに体制の根幹を危うくすることを、権力者自身が承知しているからである。教育勅語や皇国史観は、民族や国体の名において疑い得ない前提となるが故に危険なのである。命を捧げることさえ疑わなくなる。自らの命を捧げることを疑わない者は、他民族を殺すことも厭わなくなる。


 分からないことも私的生活の秘密も秩序正しく排除された世界をオーウェルは『1984』に描いた。そこでは戦争が日常化していた。

  分からないことが増えてくるのを楽しみ、敢えて分からない領域に踏み込むことに価値を置くのが教室である。そうでなければ、権力の闇は決して暴かれない。闇を暗いと言う者が、血祭りに上げられる。官邸の記者会見は、すでにそうなっている。

 教科「現代社会」が高校に導入されたとき、当初は教科書無しという画期的方向性もあった。にもかかわらず「現場の強い要求」で教科書が作られたという苦い経験がある。

 教科書通りに「分かっていると権力が認定したことだけ」を教え、板書どおりに憶えて作られる究極の「明るい」格差社会世界をハクスリー『素晴らしい新世界』は書いた。
 分からないことやルールの定まらない未知の事態にワクワク出来なければ、新しい疑問が生じることも、発見も革命も正義も無い。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...