「イカレタ」恰好は、・・・自然に落ち着く      落ち着かなければ、それは正当な「表現」

2002年  5月20日   

「先生おはよう、先生」

  教室に入った途端、私にも声掛けてよと言わんばかりの連呼。

 初対面の日には、お喋りしながら機嫌の悪そうな顔で僕を睨んでいた生徒がそう言う。いつの間にか厚化粧もない。隣のNさんも落ち着いた風貌になった。


 前任校にも「突っ張るのって、疲れるのよ」と宣言した生徒がいた。濃い化粧も茶髪も長いスカートもある朝突然止めて、僕の後ろで笑っていたのだった。

 教師や親から見た「イカレタ」恰好は、放っておくことで自然に落ち着く、大抵は。もし落ち着かないのであれば、それは正当な「表現」と判断して擁護しなければならない。我々は時に、チャタレー裁判弁護に立った正木ひろしを思い出す必要がある。そして「イカレ」ているのは「指導」される側ではなく「指導」する側である事を発見する。発見したからには、普遍化する義務を負う。自分の赴任校や出身校の自慢の種に留めるのは、格差選別に組するに過ぎない。


 仰々しい規制への反発は、少年らしさの証でもある。そこに憎しみと暴力の種を撒けば、「謀反」の芽が育つ。ナチ親衛隊を縦横に駆使して存在しないスキャンダルや陰謀で、敵を殲滅する快感に酔い痴れたハイドリヒを思わずにはおれない。

 幸か不幸か、生徒は3年で解放される。だから現代の「ハイドリヒ」は生き続ける。 

学校に行事がなけりゃ「詰まんない」か

  文科省は「学校行事は、子供たちの学校生活に潤いや、秩序と変化を与えたりするもの」と勝手に定義。指導要領に特別活動名付け、その中身を次のように分けている。

 /儀式的行事(新任式・離任式など)/文化的行事(文化祭、学習発表会、音楽会、クラブ発表会、芸術鑑賞会など) /健康安全・体育的行事(健康診断、避難訓練、運動会など)/遠足・集団宿泊的行事、旅行・集団宿泊的行事 /勤労生産・奉仕的行事(職場体験活動、就業体験活動及び校内美化活動や地域清掃など)

 コロナ禍で「密」を回避するために相次いで中止や延期され、生徒から「つまんない」の声が出ているという。分散させて実施したりの対応で、教師はますます忙しい。


 「行事」とは何か、その主体は誰か、そもそも必要なのか。冒頭の定義は官僚に都合がいいものであることは、その中身に着任式や校内美化=掃除などが紛れ込んでいることで分かる。着任の知らせは昇降口の掲示で済むことだし、掃除は生徒にやらせるものでは無い。行政の怠慢を生徒の義務に転嫁している。米軍の駐留経費を日本政府が負担する構図に似て実に怪しからん。

  生徒の「つまんない」に鋭敏に反応するなら、先ず毎日の授業にこそ注目せねばならぬ。形式的行事は、授業からの逃げ場として教師にも魅力がある。授業の工夫研究は直接個人の資質が問われるが、行事は集団の陰に隠れ逃避出来る。


   小さな共同体の行事には、行政の独善も届かない。教員も生徒も保護者も通りがかりの人も、平等に楽しめる。ここに挙げるのはのはハンセン病療養所最後の運動会。

 1975年、全生園少女舎最後の二人は、一人が新良田教室へ進学。もう一人は 全快して「父親の大きなトラックに、磨り減ったスリッパから使いかけの石鹸まで積み込み元気に」転校していった。怖い病気という固定観念をきっぱり打ち破る爽やかな退院である。少年舎に二人が残った。その運動会。

  運動会         M  中学三年

 ・・・僕は、いつもより早く目がさめていた。・・・白線が引いてある朝の運動場は、とてもすがすがしい気分がした。・・・さて、登美夫の選手宣誓や準備運動も終わり、競技にはいった。競技といってもここでは、体の不自由な人達がいるのであまり激しい運動はしない。

 午前中の競技も終わり昼食の時間になった。木陰に、ござを敷き・・・にぎやかに昼食を食べた。ペんとうの外に、お寿司や焼き鳥をもってきてくれたりする人がいたのでそれらを食べると、とても腹いっぱいになった。

 ・・・午後の第一種目は、仮装行列だ。僕らは、運動会の一~二週間前に、なんとなく仮装行列では過激派の姿をして参加しようということに決めていた。それで工事現場用のヘルメットに、色をつけたり、プラカードに、字を入れたりして準備していた。

 午後の競技が始まろうとするころ僕らは、天野先生の家の前で用意して、まだか、まだかと、待っていた。タオルとサングラスで顔をかくすので暑くてたまらなかった。運動場では、そろそろ仮装行列に参加する人達が集まって並んでいた。僕らは、目立とう根性で本部の後ろの方から、いっせいにワーツと表に飛び出していった。そして「ワッセ、ワッセ」と声を掛けながら入場門の所まで駆けて行った。観衆はみんなおどろいていた。さっそくパレードが始まった。僕らはいちばん後からあいかわらず声を掛け合っていた。それから僕らは本部席の前まで押しかけていき、そこのマイクを奪い「われわれは本部席を乗っ取った。」とか何とか叫ぶと本部席の人達も笑いながら「本部席は、乗っ取られました。」と言っていた。そして僕らがスタート用のピストルを打ち放つと、そこの人達は拍手をして参加賞品を先に僕らに渡してしまった。僕はタオルやサングラスで顔を隠していたので思うぞんぶん声を出すことができた。日ごろのストレスを一気に吐き出してとても気持ち良かった。それに拍手をもらったのは、僕らが一番だろうと思うと何だかはずかしくなってきた。

 ・・・僕は、登美夫らといっしょに特別賞に選ばれた。少々期待はしていたのだが、まさか選ばれるとは思っていなかったのでとてもうれしかった。前に出て賞品を受け取るとき、ちょっとてれくさかった。閉会式も終わり、道具のあとかたづけにはいった。公会堂や学校にテーブルや飛び箱など運んだ。その後のコーラと焼き鳥の味は、うまいの何の、また食べたくなってきた。

 最後に僕がこの運動会で感じた点は、ふだん顔を合わせない人々とちょっとしたきっかけで友達になれるということだ。それで友達になった人が何人か僕の記憶にある。もう一つは、ちょっとはずかしくて書きにくいけど〝賞品がもらえる″ことだ。今までの学校とはちがい賞品をもらったとき「ウヒヒ、僕は入賞したんだ」という、あの実感・・・。

 こうして目を閉じると10月4日の運動会のことの思い出が頭の中に浮かんでくる。足がもつれてたおれそうになった人や、かわいい看護婦さん、おもしろかった仮装行列につな引きの時のみんなの顔、みんな楽しかった思い出だ。こんないい思い出が作れてしあわせだなあ、と思うと床についてからも目がばっちりあいて「ワーツ。」と大声でさけぴたい気分になった。ほんとうに楽しい一日でした。            分教室作品集「青い芽」終刊号


  小さな共同体の小さな学校の凡庸な幸福を、中学三年が見事に描写している。


 この三年生二人に派遣教師二人の他に、全生園患者自治会は、補助教師として天野先生と氷上先生の二人、特定の教科を受け持つ嘱託教師二人を配した。この学校では、生徒にとっても教師にとっても共同体にとっても授業が中心だった。

 こんな運動会は、沖縄の共同売店の楽しみとして残っている。小さな共同体の意義は、ここに極まっている。コンビニやスーパー、教育行政や塾には決してできないものがここには息づいている。それは草の根自治、どう転んでも大規模が似合わない。ささやかな無政府主義。

   巨大な権力に包囲された小さな共同体は、ありったけの知恵を持ち寄らねば消えてしまう。 

  

 

隠れる場所のない校舎

2002年5月15日 

   「うちでは新聞取ってない、TVnewsも見ない。朝は漫画のビデオ」と言っていた生徒が

  「ニュース少し見るようになったよ、一日五分位」と、僕を廊下で掴まえて言う。   

5月17日

 昼休み、三年生がやって来て

  「九条があるのになぜ自衛隊があるのか、自衛と侵略は区別できるのか」などと聞く。

 「修学旅行にお金を持ってきてはいけないと決めておいて、カードは禁止していないとカードを使いまくるのはどうだ」と問題をずらしてみた。

  そこへ別クラスの生徒がやってきて、少し離れて突っ立た。

 「どうしたの」と聞けば

 「私たちにも何か、お話ししてよ」

 近ごろ、昼休みはこうして過ぎる。政治・経済情勢に対する好奇心、自発的学習意欲だろうか。
   そうとは言い切れない。考えてみれば、校内には楽しく「隠れる」場所がない。何処も監視の目ある。 いい校舎には、居心地のいい「隠れる」場所が設計されている。隠れるところがあれば、友達同士で語り合う。

 憲法十四条と、春の叙勲者一覧。小泉純一郎の父が防衛庁長官の時、ヒロシマ長崎に原爆を投下した米軍指揮官に勲一等旭日大綬章を進呈している。なら何故太平洋戦争を始めたのかを問え。わざわざ従属するために真珠湾攻撃を仕掛けたのだから、とんでもない売国奴たちだ。


光田健輔と渋沢栄一は絶対隔離=segrigationの犠牲者に、詫び償ったか。

  ふるさとのこの街に われも母となり 君らと共に生きたかりしに                                       歌人浅井あい 1920年~2005年


 彼女のハンセン病が健康診断で見つかったのは、師範学校在学中の1934年だった。学校は強制退学を言い渡す。 

「わたしが家を出ると、母はわたしのものを全部焼いてしまいました。父と相談して、わたしを死んだことにして、家族がわたしの名前を言うのも一切禁じました」 浅井あい 八重樫信之『写真集 絆』人間と歴史社 p10       

 彼女は、国立ハンセン病療養所草津楽泉園に収容された。特効薬プロミンはあったが使用できないでいるうちに失明。学ぶ夢も母になることも禁じられた。

収監93名中22名を獄死させた
重監房は、光田の念願であった。

 後年、年老いた彼女のために師範学校の級友たちは卒業証書授与式を行った。冒頭の歌はその時に読まれた。痛切である。 君らとは、共に教師を目指して学び教壇に立った学友、浅井あいの講義受けた筈の若者・子どもたちでもある。


  光田健輔と渋沢栄一が扇動画策した絶対隔離=segrigationではなく、当時既に世界的潮流てなっていた相対的隔離=isolation(東大皮膚科や京大皮膚科では、実施されていたが光田ら権力筋の妨害は長く続いた)が受け入れられていれば、浅井あいは通院治療を受けつつ学べたのである。isolation =相対隔離では患者の社会関係は維持され、治癒すれば退院出来る。トメ婆さんも二度死ぬ不条理に曝されることはなかった。

偽りの秩序への疑問が危険思想 / 人為的秩序は必ず破綻する

 

 2002年9月17日(火) 

 「文化祭は満足したかい」と、文化祭の後片づけする三年生に聞いた。

 「全然・・・三年間づーっとつまんなかった・・・・だってさ、この学校じゃ何でも先生が勝手に決めちゃうんだもん・・・今回の日程も最悪」

  「勝手なこと押しつけといて、そんなやつの授業聞けるわけないじゃん」次々集まって不満を言う。

  「言葉遣いが悪いっていう先生がいるけど、なんで尊敬できないやつに敬語使わなきゃいけないの」

  「都合悪くなると逃げちゃうんだもん、信用できない」

 「この学校は先生と生徒の仲が良いと言う先生や生徒もいるね、生徒の教員に対する感想は二極化してるのかな」

 「そんな事無いって、みんなお終いにしたいって、思っている」


 授業も行事もつまらない高校に、何故生徒が毎年入学するのか。何故消滅しないのだろうか。

 それは選別が「秩序」正しく行われるからである。極端な受験競争率の差が形成されないよう恣意的に秩序が作られる。如何なる秩序か。

 ナチスは、先ず虚構の「血」で選別した。その後様々な「選抜」が秩序のためにでっち上げられた。そしてガス室に送られるか、あるいはどの収容所に移されるかは、ちょっとした偶然で決まった。

 「秩序正しい」大量虐殺=ホロコーストの演出にユーゲントは感動し「敵」の殲滅と自らの死さえ誉とした。

 日本の学校の選抜の「秩序」は、何段階にも重ねられた予備選抜によって進む。入塾テスト・模擬テスト・校内進学相談、願書提出・取り下げ・再提出、二次募集・・・。恰も差別的選抜が特権や恩恵のように見えて、「秩序」は間断なく更新される。

 その弊害が指摘されてから長い年月が経つ、だが対策は小手先の「改良」だけ。決して「秩序」そのものを疑うことはない。その人為的秩序は「知能偏差値による選抜」。日本以外のどこの国にもない。その体系は、今や政権中枢を巻き込んだ巨大な産業を形成している。


 ある高校に、重なる改良の切り札として「英語科」が設置された。初めから定員割れした。だからそこには英語嫌いが逆「選抜」されて集まった。嫌いで苦手な科目の授業が多いから、生徒にとっては地獄の三年間だ。

 こんな理不尽が、理数科やスーパーサイエンスハイスクールなど行政お気に入り新規「秩序」の対となって現われる。調度天皇制の対極には被差別部落が残るように。対米従属の裏側にはアジア蔑視が付きまとうように。

 

  「秩序」ある選抜制度「そんな事・・・みんなお終いにしたいって、思っている」・・

  「みんなお終いにしたいって思っている」。だが「思っている」だけなら秩序そのものは続く。

効率だけの世界は滅びる 
怠け者こそが秩序の要
  そんな時、僅か一歩踏み出す、たった指一本を「動か」せば事態が変わる切っ掛けか生まれる。だがみんなその僅かな決意に怯えている。 虚構の「秩序」への疑問はいつも危険思想だった。「正しい」国策「絶滅隔離」や世界に冠たる「国体」に疑いを持った人々がどうなったか。   

 秩序とは何か、いつも即座には現れない。時には意外な場所に追いやられて見えもしない。

ソクラテスは如何に問答していたのか

 2002年7月1日 

 何に疲れ切ったのか、机に突っ伏している生徒に「寝てていいよ」と言うと、「起きます、大丈夫です」と重たそうに顔を上げてペンを握る。授業が終る頃にはすっかり元気になって、質問に寄って来る。

  昼休み教室前の廊下で生徒に捕まる。

 「パレスチナ問題におけるイギリスの役割」といきなりだ。

 互いに喋っている間に一人、三人と寄って来てずーっと聞いている。まるで、聞かずにいるのは損だと言わんばかりだ。

  僕も質問した。

 「授業が始まる前に、茶髪やピアスを注意されたら、授業は半分ぐらいしか入っていかないかい」

  「うぅん、全然、聞かないで寝ちゃう」   

  「・・・化粧がどぎつくなる時の君は、必死で自分の存在を守ろうとしているのかい」と聞くと、長く考えて少し微笑む。友達も聞いている。

 「自分の立っている場所がどんどん無くなって行く、狭くなって行く不安をどうにも出来ないように感じる」隣の生徒が、「そういうことだよ」と呟く。

 本人はじーっと考えていた。


 表現に向かえない不安・不満は、いつか反抗や暴力として現れる。必ず。先ず外へ向けて、そして最後は自分自身に向かって。表現の芽として、生徒たちの不安に向き合う「義務」が教員にはある。

 少年/少女には本来「難しい」こと「分からないこと」はない。分かるように振舞う事が、学校や体制への迎合に思えてしまうのだ。少年期とはそういう時期である。頭も体も不安定だが、精神は猛烈な勢いで藻掻いている。そんな時期に強要された「成果」を求めて、消耗するのは馬鹿げている。

 困難さがあるから、それに立ち向かう。頭を「ふんじばる」ように。

 この生徒たちは極めつけの「低偏差値」。そんなレッテルを張っておいて、教師は「難しい」問題から予め逃げている。どうせ分からないと決めつけている。逃げているのは昔少年であった筈の教師。逃げているうちに考えることを忘れてしまう。

 少年にとって重要なのは、考える価値があるという事実。それを示す役割が教師にはある。難しく複雑なことを、誰にも分かるように構成し直す。それを繰り返すうちに、少年は難しさ困難さをそのまま引き受ける。それまで僕らは待ち続けねばならない。それに数年を要することもある。そうしてソクラテス式問答は生まれたのだと思う。 

  

何故ハンセン病者は死に至る苦難に曝され続けたのか。渋沢栄一は一万円札に値するか。2

 承前

 渋沢栄一と深いつながりのある鹿島組(現鹿島建設)に小冊子「朝鮮人労務者の管理について」がある。冊子は朝鮮人の「短所」として、知能程度が低くて向上心を欠く・国家観念に乏しい・利害に敏感・無抵抗主義の風潮あり・・・などを26項目にわたって挙げている。しかも結びで、「親しんで馴れるな、しかして愛のムチに涙の折檻を忘るる勿れ」と付け加えている。

 渋沢栄一は京仁鉄道社長でもあり、朝鮮初の鉄道工事ほとんどは鹿島組に特命発注している。その際作られた冊子と思われる。朝鮮人蔑視思想は日本帝国主義支配層によって意図的に形成され、関東大震災で組織されたものだ。権力による人災=震災後の流言飛語と無差別殺戮を準備したこの冊子には渋沢栄一の世界観が反映している。 

 そんな人物が一万円札になる。そんな人物の生涯を、日本資本主義の父として「大河ドラマ」に仕立てる風潮を軽薄だと思う。

 しかも渋沢栄一は「ハンセン病」に関して次のように遊説して全国を回っている。

 「これまではただ遺伝病だと思っていたらいが、実は恐るべき伝染病であって、これをこのままに放任すれば、この悪疾の勢いが盛んになって、国民に及ぼす害毒は測り知れないものがある」 

 彼に隔離の必要性を進言したのは、若い野心溢れる養育院勤務の医師光田健輔。養育院は渋沢が設立した「福祉施設」。野心家はある種の使命感に駆られてこう説いている。

 「ハンセン病患者を外来患者として病院が受け入れることは、ペスト患者を外来患者として受け入れることと其理に於て大差(ない)」

   光田と渋沢の執拗な煽動は、ハンセン病におどろおどろしい印象を与えて患者を好奇の目に曝し「ペスト並みの怖い病気」という嘘は、巷に行き渡る。

 渋沢は一時の判断ミスで、光田と行動を共にしたのではない。愛生園園長となった光田は、 1931(昭和6)年記録映像を携え渋沢を訪問している。

 「長島愛生園は子爵のご事業の結晶です。ぜひ一度お訪ねいただきたいのですが、とりあえず活動写真だけでもお目にかけたいと思いまして・・・」と愛生園の様子を映写した。

 渋沢栄一は感歎の声を発し「光田君、よくここまでやってくれた。今後とも頼むよ・・・」と言ったと伝えられている。


  「明治5年東京府知事は「違式註違(いしきかいい)条例」を発令。刺青、男女混浴、春画、裸体、女相撲、街角の肥桶などから、肩脱ぎ、股をあらわにすること、塀から顔を出して笑うこと等76箇条を「文明国」に有るまじと決めつけ、軽犯罪としている。

  ・・・裏声で攘夷を絶叫していた薩長が長英・薩英戦争で敗北、その英国の後押しで政権にありつくや、一転して英国人にとっての「不快」な存在そのものを禁止・排除・抹殺して迎合しご機嫌伺いするのをくい止められはしなかった。敗北してなお保つ小国らしい矜持はここにはない。 植民地的従属性に彩られた全体主義的絶滅思想の腐臭がある。

 こうして叩かれた一つが、ハンセン病浮浪患者だった。彼らの実態は貧困にある。急激な膨張で悪化する「帝都」の衛生状態を放置し、チフス・コレラ・赤痢など伝染病死者が万を越える。それでもお上は貧民・患者救済には目もくれず、慣れない洋装で鹿鳴館通いの乱痴気騒ぎに興じて、御殿造営、軍備増強、爵位・勲章の乱発には抜かりなく、それを文明開化と呼ばせた。

 『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』地歴社刊

  

 養育院の「文明開化」に於ける役割は、「臭いものに蓋」をして欧米人の眼に触れぬよう、巷に横溢する生活困窮者を狩込み加賀藩邸跡に収容することであった。


  「ハンセン病患者を外来患者として・・・受け入れ」ていたのは、他ならぬ東大医学部お雇い外国人医師ベルツであった。彼は皇室始め政財界要人たちの信頼も厚かった。

  彼はこう書き残している。

  「 東京大学の病院の大部屋で、私は20年以上にもわたって常にハンセン氏病患者を、他の患者達の間に寝かせてきた。しかし、患者も医療従事者も誰ひとりハンセン氏病に感染しなかった。潜伏期間が長いために感染の事実が立証できないだけだというよくある反論も、20年を超える時間の長さを前にしては無効である。」

  政府はベルツの帰国を待つように「明治40年(1907)法律第十一号・癩予防に関する件」成立させる。全生病院等5カ所の療養所が開設されるのは1909年。1916年患者懲戒検束権を所長に付与、1925年には衛生局長通達で浮浪癩患者以外も収容。光田健輔念願の全患者隔離は、「癩予防法」「国立癩療養所患者懲戒検束規定」として1931年実現する。

 ベルツだけではない。日本人学者・医師にも絶対隔離を間違いとするものは少なくなかった。東大皮膚科教授大田正雄(木下杢太郎)はこう書いている。

 「なぜ(ハンセン病の)病人はほかの病気をわずらう人のように、自分の家で、親兄弟や妻子の看護を受けて養生することができないのだろうか、それは強力な権威がこれを不可能だと判断するからである。人人は此病気は治療出来ないものとあきらめている。・・・

 然し今までは、此病を医療によって治療せしむべき十分の努力が尽くされたとは謂えないのである。殊に我が国に於ては、殆ど其方向に考慮が費されて居らなかったとい謂って可い。」 


王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...