常に両側に立って考える公平性

イラク戦争報告に英国は260万字、日本はA44枚
 小型船の片側に乗客が集中すれば、少しの揺れが転覆を引き起こす。そんな危険に直面したとき、我々がなすべきことは、「皆さん、このままでは転覆します。真ん中に重心を移しましょう」などと悠長に語ることではない。先ず自身が咄嗟に反対側へ走ることである。珍しい現象や鯨に見とれている間に、反対側の人が消えたことに気付いて危険を察知・行動するのが「常に両側に立って考えてみる」ことである。

  「片側にだけ立って考えるのではなく、常に両側に立って考えてみる公平さ」寺山修司の視点から言えば、ディベートは現象の両面に広がる実態を見ずに断定する訓練であり、世界を対立と憎悪そして破壊に導く企てである。別の側に立って考えてみることこそ「教養」。
 反知性主義の本場アメリカでディベートが盛んであることは、殺戮が彼等の日常であることに結晶している。ディベートはゲームであるとの言い逃れがあるが、まさしくアメリカ海兵隊にとって殺人はゲームであり、他国の経済的破綻は国際金融独占=ファンドにとってゲームにすぎない。彼等は決して辺野古からものを考えることはない。 
 
 「手紙かメールか」を巡って小学生がディベートをした。ある少女が手紙側に割り振られた。「手紙は切手も封筒も便箋も無駄です」というメール側に反論して「あなたは、人から貰った手紙は捨てるのですか、私は大切にとっておきます」と反論した。そこで担任が思わず「鋭い」と呟いたという。この話は少女の祖母が可愛い孫娘の挿話として投書したもの。mailをとっておく人もあれば、手紙を捨てる人もある。手紙とmail は使い分ければよいものであって、対立するものではない。それをわざわざ言い争いの種にする浅はかさに呆れる。 

 「生徒に人権など認めていたら秩序が無くなる」と学生までが言う。彼らが教員になれば、職員室で生徒をバカにすることになる。尊厳を生徒に認めないばかりか、自分の尊厳にすら気付かない。
 若者が置かれた状況に怒り悲しみを覚えるのでは無く、いち早く管理する側と一体化し「尊厳などと甘ったれたこと」を言う者を見下すことで、ある種の優位を尊厳の代替にしているのではないだろうか。そんな不遜な教師が良き同僚と優しき生徒に恵まれて、生徒の尊厳に目覚めるのを僕はいくらかf

見てきた。しかし今の職場状況では、逆はあり得るが、尊厳に目覚めることは期待できない気がしている。
 慶応の医学部では、患者の尊厳を認めるのに些かでも躊躇いのある学生が専門課程に進学しないよう高い敷居を設けていると聞いた。

   自由の森学園の新任教師採用方法も、教職に適していない者を発見する優れた方法だと思う。採用の最終段階を、授業を受けた生徒に委ねる。ある教科新任募集ではなかなか生徒の信任が得られず、数年間定員が満たせなかったという。教職に適していない者に、転職を促すことは双方の尊厳を守る。教育実習の重要な機能でもある、たった二週間では無理、お互いにお客気分のまま終わる。

 人権を否定する権力者を仮想の相手に、または教師が敢えて人権を否定する側を演じ、生徒は全て尊厳を要求し守る立場に立たせる演習を考えるべきだと思う。皆が教師を説得し、やっつけるのだ。全ての生徒の人権意識を逞しく育てる、憲法はそれを教師に要請している。立憲主義下の公的機関は、憲法の理念を実現することを期待されているのであって、平均としての中立を要請されているわけではない。
 だが現実のディベートでは、生徒を二つに分かって対立を演じさせ、教師は全能の神のように評価だけをになう。生徒は、例えば人権について肯定する側と否定する側が無条件に並列するのが「無色中立」であると捉えることになる。
立憲主義を奉じる教師が、ディベートの見かけの公平中立性に幻惑されて、それを嬉々としてやるから混乱する。

 人権を嫌う政権与党議員が、ディベート的訓練に参加して辺野古側や反原発側から立論する。検察官や警察官が代用監獄制度反対や自白無効の立場に立ち、講評は冤罪被害者が厳しく行い不合格者を任官させない。学校管理職が管理主義反対の立場から討論に参加する。大企業幹部がスト権肯定の立論を試みる。立場上片側からの視点からしかものを見ない職業に就く者たちに、こうした訓練を施す制度が日本には不可欠だと思う。


 イラク戦争開戦から14年、イギリスの参戦経緯と戦後処理を検証した独立調査委員会が発表した報告書(2016)は、ブレア元首相の判断を誤りと断罪している。
 
調査委員会は約2年にわたり約150人の関係者を喚問、260万字にわたる報告書をまとめている。報告書は正確な証拠と緻密な論証で、ブレア政権の大量破壊兵器をめぐるリポートは根拠がなかったと断定。イラクで死亡したイギリス人約200人にも言及。更に、戦争とその後の混乱で死亡した15万人(英国の「Iraq Body Count」によれば、約26万8000人)のイラク人についても21世紀の外交政策の悲劇として記憶されるだろうと述べている。
 報告書は、最重要機密文書の多くも機密解除している。ブレアからブッシュに送られた30通のメモ、覚書、そしてe-mail が公になった。

 対して日本の外務省は、A4用紙4枚のreportを公開しただけである、雲泥の差とはこのことだ。我々日本国民の船としての政府は、片側に重心を置きすぎるばかりか、そもそも現象すら見ていない。

武器を買ったから敵を探そう、いなければ作ろう

 左の写真は、若松機関区で写生をする小学生。女子二人は早速腰を下ろして筆を動かしている。二人の男子は機関車に圧倒されっ放しで落ち着かない。右端の子はスケッチに来たことすら忘れて、画板を頭に乗せてしまっている。
 写生を終えて教室に戻ったとき、女子は完成した作品を出すだろう。男子は長い観察の挙げ句、例えば連結器をようやくかたどっただけかもしれない。ひょっとすると描きたい物が絞れずに白紙だったかもしれない。担任は雷を落とす。


 だがゴッホが、変化して止まない色と光に圧倒されなければ、「星月夜」は生まれない。ゴッホ自体が生まれない。写生とは対象をありのままに写し取ることだ。大きな貨物船や列車の行き交う工業都市若松の子どもであっても、目まぐるしく動く機関区には圧倒される。長距離の牽引から帰ったばかりの機関誌も、火を入れて出発の準備を始めた機関車も、火を落として釜を掃除中の機関車も、給水中の機関車も、機関誌と機関助手や整備士とともに様々に行き交っている。全体を把握するには半日では足りない。興奮状態は夜になっても続き、早起きして早朝の機関区を見に行ってしまう。お陰で遅刻して居眠りして又叱られる。 
 学校は教師の意図を越える動きを喜ばない。指示通りに動くことを求める。

 ある年、二年生が文化祭である企画をした。既存の商品を組み合わせ加工して販売した。1日目の午前中に売り切れてしまった。評判を聞きつけてやってきた小学生が、がっかりして帰って行くのをみて直ちに追加することを生徒たちは決定。担任は怪我で入院中だった。独断で仕入れて加工して再び販売し始めた。又なくなりそうになってきたが、文化祭本部が「企画書にないことをやつてはいけない」と官僚的に即時中止通告、文化祭担当教師も怒った。
 「どれだけの量を準備すれば良いか、計画出来なかったのがいけない」というわけだ。デパートでも自動車会社でも「想定外」は常にあって追加生産・販売する。計画経済が破綻したわけである。

 政府も「想定外」を乱発して追加予算を決めてしまう。経験の乏しい生徒たちだけに、企画書どおりの計画経済が強制される。逆転している。

 昭和天皇は、出来たばかりの日本国憲法99条にあからさまに違反して国事行為を断行。「天皇メッセージ」をマッカーサーに送り自分の地位と沖縄の基地化の交換を懇願した。にもかかわらず天皇制と基地は続いている。
 原発の重大極まる地球規模の「想定外」事故はいとも簡単に許され、被災者の苦難は「自己責任」と言わんばかりに放置される。
 高校生が文化祭で、僅かばかりの見込み違いをすれば居丈高に「中止」が通告されるのだ。

 教師や大人の浅薄な意図を越えるから、少年は成長する。大人の意図通りの青少年だらけにになった社会は
衰退し破滅する。

 「肖像画にまちがって髭をかいたので、ほんとに髭をはやすことにした。門番を雇ってしまったので、あとから門をつくることにした。
 本質が存在に先行しているのが「学校」の実体です。「本質」にあわせて、無定型の若者たちを、型に押し込めようとしているのです
」              寺山修司


 武器を買ったから敵を探そう、いなければ作ろう。まさに日本はその最中。駅で手荷物検査する構想が始まった。テロを未然に防ぐとの触れ込みだが、テロを誘発するものでしかないことに気付く必要がある。それが片側にだけ立って考えるのではなく、常に両側に立って考えてみる公平さ」である。政治・経済や現代社会の教材にいい。

 
 

不定期、日程時程なし、総括なし / 予定表からの解放 / 同人誌『山脈』の世界

集会は会議室でなくてもやれる、いつでもどこでも
   日本各地に散らばる教師が、不定期刊行に徹した同人誌『山脈』に集ったことがある。主催したのは白鳥邦夫。旨いものが採れる季節になれば、酒持参しての集会を呼びかけた。

 多様で厄介な生徒たちを相手に、七転八倒しながら授業した記録(どんなに短くてもいい)を、持参することを条件にする研究会をやりたい。研究者編集者の類いが参加を希望すれば、彼らにも
にも七転八倒の実践報告を求める。
 田舎屋敷の一室に車座になり、司会も置かず人が集まれば自然に始まる。時程や日程がなければ不安という脅迫観念から先ず自由になる必要がある。参加者が多くなったら、庭や浜に分散して話を続ける。時間無制限。
 宿の手配も、床を延べるのも、食事の支度も自分でやる。掃除も片付けも。
  議論を滑らかにするために酒はいい、手作りの菓子や茶受けも歓迎する。酔っ払ったら迷惑、自ら退場する。分散会の交流は昼休みや、夕食後に自然に開かれるだろう。討論が終わらないところもあるだろう。近所の農夫や子どもが覗き込むようになればしめたもの。
 まとめや総括の類いはない、終わった途端の総括に碌なものはない。ひとり一人が話し合いの中身を咀嚼し、胸に刻むことが重要なのだ。数ヶ月して自分なりの総括が出来たら、不定期刊行の雑誌に送る。そうすることで、自他の違いが際立つだろう。それが、又あの人たちと語り合いたいという気持ちに繋がる。
 こうした会は、絶対不定期でなければ成立しない。最初の言い出しっぺは必要だが、次からは誰かが言い出すのを待つ。自然消滅も悪くない、継続は力などという呪文に縛られていては、国家の消滅も展望できない。組織は発展継続するだけではない、生成と消滅を繰り返すことも多い。生成と消滅の間には発展も停滞もある。停滞は腐敗さえなければ安定でもある。

 表現企画したいという少年たちの意欲を、一斉の日程に合わせることなどそもそも無理な話ではないか。文化祭や体育祭は、少年たちの表現を組織するのではなく、組織のスケジュール表に少年たちの成長を閉じ込める。

 戦前戦中の体験に懲りて、青少年の成長を組織の都合や利益に合わせるのはいい加減にしたのではなかったか。
 先ず教員自身が、スケジュールから自由に行動する必要がある。その自由を模索する少数の教師が、七転八倒している筈である。それが見えてこない、余程少数なのか。


   であれば、学校の日程や教師の管理から自由になることを青少年が恐れず実行することが先だ。自由は君の目の前にある、それを君が掴めないのは管理が厳しいからではない。君が臆病だからだ。教師は君より臆病なのだ、君たちが彼らを解放するのだ。

疑うことを知らず、それを教えてくれる人もいなかった

戦時下、中学生の身長は6㎝縮んだ。勝てるわけがない
 「わたし(結城昌治)が生まれたのは昭和二年(1927)です。昭和六年に満州事変が始まって、それが日本や侵略戦争の初めだったと思いますが、このとき、ぼくは四歳だったわけです。それから昭和十二年に支那事変が始まって、支那事変はいま日中戦争とよばれておりますが、そのときは小学生です。それから昭和十六年に真珠湾攻撃、これが太平洋戦争の勃発でしたけれども」中学二年生のときで、まだ世の中のことはわからなかった。
 その間の教育というものは、いわゆる軍国主義教育で、滅私奉公とか尽忠報国、皇軍不敗というようなことで、国のために、天皇陛下のために死ぬのが、即ち生きるごとであると…・‥死ぬことが生きることであるというのは、いまの若い人たちにはわからないかも知れませんが、ぼくだって本当にわかってたわけではないけれども、そんなように納得したところがありまして、頭からそう教育されてきました。それは太平洋戦争が始まってからも同じで、わたしが入学したのは、東京・高輪の泉岳寺の隣りにある、あまり出来のよくないのが入る中学で、校長はえらそうなひげを生やした退役の陸軍大佐で、、もちろんばりばりの軍国主義者でした。年中、国のために死ね、天皇陛下のために死ねといわれつづけてきたんです。また、わたしの周囲を見まわしても、それに反対する意見というものはまったく耳に入ってきませんでした。・・・字引をひいても、基本的人権などという言葉はないし・・・デモクラシーのデの字も耳にしたことはありません。・・・いわゆる神州不滅ということ、皇国日本という教育だけをうけて、疑うということを知らなかったし、疑うことを教えてくれる人もいなかったんです
」    (日本戦没学生記念会講演「英霊もしくは死せる虫たち」1972年)

 結城昌治は、死に場所を求めるように特別幹部練習生を志願。朝から晩まで「大東亜戦争勝ち抜き棒」を振り回す下士官に殴られた挙げ句肺病で除隊。敗戦時18歳の彼は、「殆ど無知に近」い状態で焼け野原に投げ出される。


 少年や若者たちの現在と結城昌治らの青春が、瓜二つに見えてならない。低賃金とパワハラの末に過労死に追い込まれながら、対米従属のサムライジャパン精神に酔い疑うことを知らない。日本経済不滅を信じて近隣諸国への蔑視に身を委ね、労働三権や基本的人権に背を向けるのだ。全てが大きな破綻に向かって、抵抗するどころか加担して破綻を糊塗している。

   まるで現実を忘れるために、土日も正月もなく「部活」にのめり込む高校生の姿は、軍国主義教育下の結城昌治とどこが違うのだろうか。スマホを持っていることか。
 だがスマホは少年たちを些かも解放しない。スマホから目を離すと何か大事なことを見逃すのではないかという脅迫観念が、青春を組織に縛り付け個人としての判断を奪っている。

 八王子の女子中学生が、夏休み中の家族旅行を上級生のSNSで咎められ虐めに発展、不登校と転校の末自殺した。
 元気で天気がいい時に休むのが、休暇である。辺野古の座り込みや国会前集会に学校を休んで参加するのは、主権者の権利である。病気で休むのは病欠、悪天候や交通機関のストで休むのは事故欠 であり何ら問題ない。それをスマホは瞬時に奪う。決してsocial media ではない、社会的関係を断ち切る民営公安mediaなのだ。

 教師は、休むとは一体どんなことなのか考え教えているのか。咎めた生徒も自殺した生徒も、病気や怪我でもしない限り休むのはいけないと思い込んでいる。家族の誕生祝いのために早退したり休んだりを当たり前にするのが、文明化というものではないか。  戦中でもないのに、何故教師たちは辺野古の現実を授業で取り上げることに躊躇しているのか。若者の労働条件のために闘うことを何故ためらうのだ。自らも過労死の縁にあると言うのに。
 1980年代、僅か29分の職場集会にさえ「生徒に迷惑をかけない」といって逃げる風潮が拡大した。鉄道労働者のストライキを迷惑視する「良心的」教師も増えていた。

 一体「生徒に迷惑」とは何か。三年生の1/3から1/2が、来年には非正規労働に就かざるを得ない現実ではないのか。 「明日の朝練は中止」と告げて職場集会する理由を語ることを何故しなかったのか。組合員であること、闘うことは隠さねばならぬことなのか。

 結城昌治は地検保護課で働いていたとき、1952年の片面講和条約締結に伴う講和恩赦に関わり、外地の軍法会議判決を読む機会があった。「その軍法会議の記録を読んだときに、初めて軍隊というのはこんなひどいものだったのか、大変なところだったんだな、とびっくりしたんです。たとえば、小説に書きましたけれども、戦闘で傷を負って意識不明になって敵の捕虜になります。しかし、捕虜に.なってもなんとか脱走して原隊へ帰りたいと、スキをうかがって逃げてきた。その兵隊を、「お前は敵前逃亡である」といって死刑にしてしまう。そういう例がいくらもありましてしかも、罰せられているのはほとんど下士官か兵隊で、不思議に思ったのです。なぜ将校は軍法会議にかからないのか

  「あの戦争にいちばん大きな責任がある者ほど、戦争が負けたのにたくきんもらっています。これはいったいどういうわけなのでしょうか。職業軍人というものは、たとえるなら戦争に負けたら会社が倒産したと同じで、恩給などもらえる義理じゃないはずです。会社が倒産すればその首脳部は、借金を背負って、家を売りとばしても返済しなければならない。ところが日本の場合は、国が負けたら率先して責任のある連中が軍人恩給をもらっています。多くの部下を死なせた当時の将官、佐官などがのうのうと年金をもらっています。一兵卒などほ雀の涙です
 
 結城昌治も戦艦大和からの少年復員兵渡辺清←クリック も、「天皇陛下のために死ぬのが、即ち生きるごとである」と思い定める「殆ど無知に近い」18歳であった。結城は肺病に冒され四年間の入院生活を送り、渡辺は呆然自失して実家で農作業した。 二人が戦争犯罪について批判的に考えることが出来たのは、無為な日々のあればこそだ。暇がなければ、疑うことも出来ない。

 疑う者が、軍国主義にとって最も憎むべき敵=非国民であった。

いい授業とは何か Ⅰ

誇れないことを自ら誇る醜さ
 だいぶ前から「おいしい○×屋さん」とか「日本一旨い△◇屋」などと看板を掲げる店が増えた。近寄りたくない程の違和感を覚える。自ら「ブランド化」を画策する生産者団体や企業もある。「天才的外科医」とか「美人講師の塾」などという看板や名刺が流行るのも時間の問題かも知れない。「主任教諭」や「指導教諭」の肩書きを、名刺や自己紹介に印刷したがっているのだから。更に出身校名を入れたくてウズウズする向きもある。  学校が校舎に「△×部関東大会優勝」などと垂れ幕をぶら下げるのが当たり前というならば、自宅に「次男 ×□高校合格」だの「夫 教頭試験合格」の垂れ幕も可笑しくなくなるかも知れない。
 マスメディアや政府が「ニッポン金メダル○個」だの「日本人連続ノーベル賞」と驚喜する、見苦しい光景である。賞賛さるべきは当の個人であり、賞賛する側も個人でなければならない。なぜなら、あらゆる賞には国家的企みが隠されていて、その企みに振り回されるのは全体主義を誘発して危険かつ愚かだからである。集団で浮かれたあげく誇大に自賛して、他国と自国の優劣の比較に用いるのは筋が違う。個人の手柄に集団が乗り移るのは、素朴な手前味噌を越えて国家主義の響きがある。オリンピックのメダル数もノーベル賞受賞数も、人口あたりに換算すれば、騒ぐほどの数ではない。

生産力の分析もなしに、軍艦の数を誇り、不遜な思い込みを高じさせて日中戦争から太平洋戦争に踏み込んだ苦い経験を忘れている。

 ブランド品という特権的名称は、その商品生産者が自ら付与するものなのか。販売と消費の長い実績があって自然に湧き出す品質への評価が「ブランド」と呼ばれ定着するのではないか。広告代理店を使った販売戦略や、タレントによる宣伝でなんとかなる筋合いではない。金さえ出せば、他人任せで済む安易なものではない。長い歳月と汗が染みこんて初めて獲得できるはずのものだった。
 だが金と権力で希な成果を挙げた例が、注目され産業化されるようになる。1970年代の新設都立高校の中には、じもとの中学関係者や塾と結託して初めから偏差値の高い生徒を集めることに成功した例が複数存在している。教育委員会が入試制度を弄んで、中高校生や教員を翻弄したことも度々ある。
 ユーゴスラビアにおける戦争広告代理店の爛れた「成功」は、評価の光景を一変させた。アイドルは、広告代理店によって「プロデュース」されるものとなった。地道に努力した者の多くは振り向きもされない。金と権力による破廉恥な恫喝が詐欺師や窃盗犯を真面目な努力者のように見せる。しかも押しつけがましさを感じさせないような巧妙さがある。極悪人を正義の味方や「圧政の善良な犠牲者」に仕立てるのはお手のもの。しかし偽造には違いない。

 「いい授業」を構想することは、「いい人間」を定義するのと同じ危険を伴う。近くは「管理主義教育」で遠くは天皇制教育やヒトラー青年団による洗脳で散々懲りた筈ではないのか。
 「いい・・・」は「良くない・・・」の排除から始まる。授業に力を入れるのではなく、成績が悪く教室の秩序を乱す生徒を先ず排除するのである。マッカーシーの非米活動委員会がいい例だ。手っ取り早いく分かりやすいからだ。「良くない・・・」の排除は、次第に同調しない者への非難・攻撃を含むようになる。遂には集団の最も優れた知性を追放して、大きな損害をもたらす。

 
 人の生涯や、時代の趨勢を左右しかねない問題が、拙速では取り返しがつかない。判断を誤った場合、頼りになるのは反対派=「良くない」連中である。彼らを排除してはならない。「手っ取り早い」判断が重宝され始めたのは、株式市場が短期的利益を求めて博打化するようになってからである。
 偶に「良くない・・・」の中から「いい・・・」が発見されても、「いい」が多様になることはない。「良くない」部分を徹底的に取り去ることが「いい」ものになる条件だからだ。「いい」の定義は、「いい」と「良くない」の両極がが際立つて来る。「良くない」少年たちは凝縮されて、底辺校が自然現象のように形成される。
 効率や生産性の観点から「何の取り柄もない、危険」な存在と見做された者たちが濃縮される。これは隔離である。

 様々な哲学や思想・教育方法を持った教師が、民主的自治集団を形成する。それが学校と教師が、社会全体を代表して少年たちの教育を条件である。そこに現れるのは、特定のmethodに基づく「いい授業」ではない。平凡で多様な授業である。

追記 はじめ東大卒業生に特権はなかった。←クリック  だから慶應義塾、東京商業学校など実学的教育を施す学校に学生が集まった。国会開設に備え人材を育成する
東京専門学校も、伊藤博文内閣を悩ませた。
 伊藤は、手っ取り早く東大に特権を与え他校を出し抜くことにした。工部省工部大学校、司法省法学校を東京大学に吸収して東京帝国大学と改称。法学部を卒業すれば、高等試験を受けずに高級官吏になり、医学部を卒業すれば無試験で医者になり、教員免状も無試験。この大学を卒業しさえすれば、進路はひらけ、俸給も飛び抜けて高くなるよう仕組んだ。この特権を恥じることもなく大学「紛争」を収束させた東大「確認書」を僕は全く評価しない。
 三菱などの財閥も、官営工場の破格の好条件による払い下げなど、特権に塗れて成立している。日本の近代化を振り返ると、我々は特権を非難する振りをしながら、実はお上によるブランドに依存・期待しているのである。天皇制がなくならないわけだ。

生が終われば死も終わる

岡倉天心の墓は、森の中の簡素な土饅頭
 ある状況についての幻想を捨てたいという願いは、幻想を必要とする状況を捨てたいという願いでなければならない。  マルクス

 生が終われば死も終わる。山口由美子さんは「生と死は比べられない」と書いている。「死は生の次の世界だ」というわけだ。だが、「死は生の次の世界」ではない。 死は、生きている人間の中のイメージでしかないのである。他人の死は「物体」であり「数」である。だけど自分の死はけっして手でさわることはできない。生が終われば、いっしょに死も終わるのである。
 淵上毛銭が書いている。
じつは大きな声では言えないが過去の長さと未来の長さとは同じなんだ、死んでごらんよくわかる
              寺山修司    「時速100キロの人生相談」
 

   寺山に人生相談したのは高校生である。死についての幻想は、若者をも捉えて放さない粘着性の頑固さがある。幻想を必要とする状況を捨てることは、若々しいほど難しいのだろうか。
 幻想から逃れるのが怖ければ、せめて死後ぐらいは平等を実現したらどうだと思う。
 組織宗教は、予め不安と恐怖を流布して置いてしかる後に勿体を付けて「安らぎ」や「愛」を説く。曾て「マッチポンプ」を得意とする政治屋が暗躍したことがある。死後の不安に商機を見出す寺院や宗教団体は、永遠の「マッチポンプ」の観がある。お寺の敷地内に墓石屋が事務所を置き、タレントによるTV宣伝も欠かさない、古い墓石を更新しながら無縁墓石を整理して、詰まらない石を不当な高値で売りつける。時期が来れば又新しい材料やデザインで、「ご先祖様」を出しにして立て替えを促す。
  宗教団体が直轄で広大な墓地を販売すれば、数百億円単位の利益が無税で転がり込む。森林は剥がされ災害を誘発させかねない。


 西武が造成した55万㎡の鎌倉霊園には、一段高い所がある。天皇陵や徳川家墓所を除けば希有の広さを持つ提康次郎の墓である。かつては毎年元旦には、2代目がヘリコプターで乗りつけグループ幹部500人が墓前に手を合わせた。「感謝と奉仕」と称して「奉仕当番」制度もあった。西武グループ内各社社員2名が毎日手弁当で墓地に泊り込み、朝夕の「鐘つき」や清掃などの墓守りをした。まるでヤクザ一家の如き時代錯誤振り。「感謝と奉仕」が提一家の標語であったが、とっておきの場所を自分に確保して置いて、残りを小さく刻んで売り捌き客を睥睨するとはたいした神経であった。「感謝と奉仕」は提義明が顧客にするものではなく、自分がされるものであったのだ。
 寺院はたいてい、一等地を宗祖や代々住職らの大きな墓が恥ずかしげもなく占めている。提一家と同じ構図がある。
 

 2004年、西武鉄道株虚偽記載事件で西武鉄道は上場廃止、提義明は逮捕された。提一家の支配を断ち切った新執行部は「西武はもはや堤家のものではないのだから、そういう人の墓がグループ企業の霊園にあるというのは、会社のコンプライアンス上おかしい」と初代の墓の撤去を通告した。対して西武一家は「墓を撤去するなんて、眠っている人に大変失礼・・・」だと怒り心頭だったと当時の週刊誌は伝えている。どっちが失礼かも分からなくするのが、宗教の効用で
ある。

 

 生物は生を終えれば、全てを森や海に戻し、この惑星の循環の一部となった。
 食物連鎖の頂点にあった人間も、髪の毛から内臓に至るまで、動物と植物の滋養となる。

 その自然の掟を破っているのは鳥葬を除けば人間だけである。
 位牌も墓も戒名も七日毎の法事も、一切根拠はない。位牌は儒教からの借り物。戒名は受戒した者、つまり仏弟子になった証であり死んでから金で買うものではない。初七日から始まる無限に続く法要も、幕藩体制下で増加を遂げた寺院と僧侶の飯の種として考案されたに過ぎない。全てが金銭欲の道連れになっている。
 そんな詰まらぬ仕来りに時と金を浪費するから、ありもしない地獄を格差に満ちた世界に描いて恐怖するのだ。


 一方に堤家の広大豪勢な墓があり、他方に猫の額のような憐れな墓もある。その猫の額ほどの墓も買えなくて、うろたえる人が少なくない。生きれば格差に苦しめられ泣き、死んでも格差を思い知らされる。
 国や自治体が、芝を張った大きな土饅頭を中心にした簡素な霊園を整備し、誰でもそこに平等に祭られるようにしたい。海縁に海葬のための公園を作るのもいい。そのためには、法律を整備する必要もある。

 人々の不安につけこんで怪しい商売が勃興する。いずれ世界的に墓地は足りなくなる。東京都が多磨霊園に共同墓地を構想したが、潰れてしまった。怪しい勢力の暗躍が感じられる。僕は森や海に捨てて腐るに任せて貰いたいが、法が許さない。

 今のところさっぱりしているのは、献体による始末の付け方である。健康な臓器は移植に役立てることも出来る。


 
天皇家は巨大な墓を各地に持っている。提家の比ではない。天皇制を肯定する者は、日本各地の天皇陵に合葬することを政治的要求としてかかげたら良い。巨大な墓地公園になる。僕はそんなところに入れられるのは、まっぴらゴメンだが。
 それで戦争責任や「天皇メッセージ」の歴史的大罪が消えるわけではない。
 

 淵上毛銭は病を得て若くして死んだ。「柱時計」という作品がある。

ぼくが / 死んでからでも/ 十二時がきたら / 十二鳴るのかい / 苦労するなあ / まあいいや / しつかり鳴って / おくれ

勤評闘争か作った「留置場の教師に教え子たちの声援」

教師の勤評への姿勢が少年たちの世界観に影響を与えている
 東京医大の点数加算や減点による不正は、今に始まったことではない。半世紀前の小学校にもあった。
 僕は長く、クラ
ス同窓会に出ていない。出たくないのである。四谷四丁目の小学校では、長屋暮らしの洟垂れから
豪邸住まいの坊ちゃんまでが同じクラス、落語家の子どもも頭取の孫も机を並べて、敗戦後の混乱と多様性を象徴する学校だった。一学年4学級、6年間クラス替えはなかった。それだけではない、この区立小学校には、幼稚園が併設され、クラスの殆ど全員が幼稚園でも同じクラスだった。仲がいいわけだ。毎年、担任を囲んでクラス会を開いている。僕はそこに小4の夏休み明けに転校してきた。
 酒宴が盛り上がると、決まって軍歌が出る。「同期の桜」である。「咲いた花なら散るのは覚悟」という箇所では涙とともに絶叫するという話を聞いた。それを制止しようとせず唱和する担任に呆れ、ますますクラス会に出るのが嫌になった。

 特攻隊の若者は、人生に花を咲かせることなど出来なかった。恋愛も結婚も思いもよらなかった。少年兵に至っては蕾になる前に死んだ。
 第4航空軍司令官富永恭次は、特攻隊員に「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と訓示して隊員をことごとく死に追いやった。しかし富永は逃げ続け、敗戦後も恩給を受け取り生き延びた。敵前逃亡罪にも問われていない。司令官なら見事に「咲いた花」だ。そんな男が部下を死に追いり勲章と恩給を増やたのである。

 教師なら、少年を兵器に仕立てる発想はいかに生まれたのか、そのとき英米はどのような思想で武器をつくっていたのか史実に基づいて教えなければならない。何故イギリスでは戦後、「ゆりかごから墓場まで」の福祉社会が可能だったのか。戦争でイギリスも疲弊していたのである。しっかり教える必要がある。裏切って逃亡した司令官の名を脳裏に焼き付けなければならない、富永恭次だけではない。

 平和教育や生活指導教育の研究会発表に余念のない若い教師が、数年で受験名門校に消える。それを栄達・出世と見て、憧れ評価追従する向きもある。そうした行動言説が、生徒たちにどう受け止められているか、想像を逞しくするする必要がある。

 「偉そうなことを言ってたが、結局俺たちを踏み台にして裏切りやがった」そう言い、裏切った教師個人だけではなく、その属性をも憎むようになる。教師個人を揶揄するのではなく、その教師の属する集団を憎んでしまう。特に当該教師が組合員であった場合は激しい。これが教師がやった実践へのお返しである。
 問題行動が生徒個人によるにもかかわらず、生徒全体に網を掛けて規制したことの皮肉な効果である。
 裏切った教師は異動すればもうそこに存在しないから、生徒の怨嗟の声が届く筈がない。特攻兵の怒りを帯びた叫びが、逃亡した司令官に届かなかったように。
 その属性は同様の例が累積する度に、平和と民主と団結が好きな教師と類型化されて頭に叩き込まれる。民主主義や平和に背中を向ける傾向は、その筋の教師によって作られるから厄介なのだ。
  どこか戦前の「転向」に似ている。個人というものがない。思想が生き方のレベルに達していない。

  僕のクラスは8年間も同じ学級にいたのだから、嫌な思い出がただ一つを除いてない。だから毎年
担任を招待して楽しかった思い出に浸り、高額のお土産を贈り散会する。
 5年に進級した時だ。突然クラスの中が、成績別に4つに分けられた。成績のいい男女は廊下側の二列に、次の男女は窓側に二列、と言う具合に成績の良し悪しが一目瞭然となってしまったのである。
 「あれは、嫌だったね」「たった一つの汚点ね」と皆が言う。あたかも避けて通れない自然災害のように「あの嫌なこと」を言い、急いで記憶の奥にたたみ込むのである。
 あれは、避けるべき教育政策=「勤務評定」が日本の教室を暗くしたのであり、抵抗する教師を政府は徹底的に弾圧した。
 同級生たちは塾に通いはじめ、受験参考書「自由自在」をランドセルに入れて登校するようになった。僕にカンニングをせがむ同級生も現れた。算数や国語の授業は、業者テストの時間であった。教室で実施したテストは、業者に送り採点されて戻ってきた。点数とともに、1000人中何位かが書き込まれていた。これは6年になっても続いた。クラスを暗く重い雰囲気が覆っていた。
  測定可能な成果を出すことを教師が競い始めた。僕らのクラスでは受験体制が強制されたわけだ。その成果は、私立中学進学者の多さとなって現れ、担任への盆暮れの届け物は、子どもの耳に達するまでになった。
  そんな雰囲気が面白い訳がない。6年3学期、クラスのお別れ会をやろうと担任が言い出した。出し物をグループ毎に工夫するのだ。僕は、手を挙げて反対した。担任は激怒した。よい子の筈の学級委員がたった一人で反乱したからだ。担任は言った。
 「このクラスがつまらなかったと言うのか」
 「つまりませんでした」
 「反対してるのはお前一人だけだ」小学生をお前呼ばわりしての異常な罵倒。
 「僕はやりたくありません。やりたい人は勝手にやれば良い。僕は出ません。卒業式にも」と言い切ってしまった。
 一時間近くを一人で反対した。終わると数人が飛んできて
 「ごめんな、おれも反対なんだよ」

 「怖くて手を挙げられなかった」
 「怖かったよ、あんな担任初めて見た」 僕は、一人位は味方がいるだろうと思っていたが、後の祭りだ。
 「もう終わったよ」
 「たわし、おまえ卒業証書いらないのか」
 「式に出なくても呉れるよ」

 翌日は、母までが担任に呼び出され、僕の非協調性を難詰したという。僕の母は、担任に贈り物をしない数少ない保護者の一人だった。母がある日
 「どのうちも先生に付け届けをしてるそうよ。うちもそうした方がいいかしら」と僕に言ったとき
 「止めて」と告げて咄嗟に家出、一日隠れてしまった。うちに帰ったとき母は、オロオロして
 「分かったよ、付け届けはしないよ」と約束した。僕はこの頃から頑固者だった。

  情けないことにこの後、僕は級友たちに「お前が出ないと詰まんないよ」と泣き付かれ、卒業式に出てしまった。後悔した。
 
 このときクラスを暗くしたのが「勤評」であることは、高校生になるまで知らなかった。しかし担任や学校のやり口には腹が立った。私立中学受験生に「5」を多く付けるために、通信簿の操作が行われたことも知った。私立を受験した同級生の通信簿と、僕のそれを比較する機会があって判明したのである。卒業から50年を経てからのことだ。あまりの改竄に同級生も開いた口が塞がらなかった。
 勤評は確かに教育と教師に対する未曾有の攻撃であった。しかし、迫り来る勤評体制に反対するどころか、積極的に適応して学級を競争の場として再編したことに、僕は怒っている。


 高校の担任となってから、僕は成績操作された内申書をいくつか発見した。非常に利発な生徒の内申書が非常に悪いので、呼んで中学校での成績を聞くと、仰天するほどの改竄操作が見つかる。貧困が理由で高卒で就職を決意した優等生の「5」や「4」が、進学校を目指す者に回されるのだ。

 成績別の並び方、「あれは、嫌だったね」「たった一つの汚点ね」としみじみ振り返る同級生はかなりいる。「受益者」である成績の良かった連中や私立進学者たちは、あっさり忘れている。
  我々は、何故憎むべき対象を正視しないのか。戦争犯罪者として最も大きな責任を負うべき者を告発もせず、新憲法下で同じ地位を続けて保証し、その彼が彼の地位を保証した憲法を無視して沖縄を基地として米軍に提供した男の歴史的犯罪を直視しようとはしないのだ。辺野古の大問題も「天皇メッセージ」というスキャンダルの上にあることを確認しなければ始まらない。

  宇高先生は、中野教組委員長として「勤評」体制と闘い逮捕・収監された。先生が収監されたのは中野署、先生が勤務していた中野中央中の隣だった。生徒たちは休み時間になる度、獄窓に向かって「先生、頑張れ」と叫んだ。←クリック  

 クラス会の度に軍歌を教え子と歌うクラスと、獄中の先生に声援が届く学校。勤評に対する教師の姿勢がその違いを生んでいる。

 1966年ILOとユネスコは「教員の地位に関する勧告」出し、教育の目的で最も重要なものは「平和のために貢献をすること」と指摘した上で、「教員の正当な地位」の重要性を強調した。日本政府は 国連中心主義を標榜しながら、未だにこの勧告を無視している。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...