オレオレ詐欺に邁進する「優秀な」若者があとを絶たないという。金持ちの老人を騙して何が悪いと言わんばかりに、真面目で特性の無い勤め人を装う「老人食い」。怪しい業界に若者が「身を投じる」のにまたがねばならぬ敷居は極めて低く、特段の決意を要しない。しかしそこから足を洗う「一歩」が難しい。進むのは簡単だが後戻りは出来ない仕組みが備わっている。
ドストエフスキーはラスコリニコフにこう言わせている。
「ふむ・・・そうか・・・人間というやつは、いっさいを手中にしているくせに、弱気ひとつがたたって、みすみすそのいっさいを棒にふっているわけだ・・・こいつはまちがいなく公理だぞ・・・だいたい人間は何をいちばん恐れている? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それをいちばん恐れているじゃないか」(江川卓訳『罪と罰』)
狂人ラスコリニコフの戯言と捨て置くべきなのか。並外れた鋭さを持つ精神の警告として受け取るべきなのか。僕は後者を取る。我々は疲れ果てて、精神を顧みることさえないからだ。
人は、新しい一歩を恐れている。例えば高校生にとって部活をやめるのは、気楽な「新しい」一歩ではなく「人生初めての」個人の決意を伴った「新しい一歩」、恐怖の一歩である。部活に加わるのは、風に柳がなびくような、決意とは無縁の集団的惰性に従っているに過ぎない。部活だけをやめることなのに、人間関係が根本から崩れてしまう恐怖。 調子に乗っていじめに加わるのは簡単だが、自分一人やめることには相当の決意を要する。いじめそのものをやめさせるには、更に大きな覚悟と時間を要する。
僕は担任をしていた頃、部活を止める決意をした生徒たちの長い面倒な闘いを幾たびも見てきた。簡単なことに無駄な時間と力を浪費してしまう。簡単なことだ、何も変わらない、変えさせない、と言ってやりさえすれば、呪いが解けたように高校生は楽になる。入学式でも、PTAでも説明すれば良い。部活の顧問に「そんなことを言われては困る」と脅されても、職場で孤立しても言い続ければ良いのだ。面倒は担任が引き受ければよい。それさえやろうとしないのは何故なのだ。我々が自分自身に呪いをかけているからだ。「止めることはいつでも出来る。継続は力なり」と。
まったく「だいたい人間は何をいちばん恐れている? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それをいちばん恐れているじゃないか」 生徒に対する持ち物検査や服装頭髪検査は、集団の掟として始めるのには決意は要らないが、自分だけやらないことには格別の決意と新しい言葉を要する。
重営倉で瀕死の状態となった兵を連隊長から、「処置せよ」といわれて、リンゲル液を持って川島中尉は手当てしようとする。ところが怒気を含んだ声を浴びせられたのだ。
「何をするんだ貴様。処置せよ、と命令したんだ!」
「ですから死なないように処置して、助けるのです」
「貴様!上官の命令に反抗するのか!処置せよ」
「ですから点滴で栄養補給の処置をしますっ! それとも『殺せ』の意味ですか?」
(古川愛哲著『原爆投下は予告されていた』講談社刊)
敗色迫る日本軍では、手足まといになる負傷兵や捕虜を殺害することを「処置」と呼んでいた。「殺せ」と命じれば、責任を問われる。正しい言葉を使うこと自体が「いっさいを棒にふ」ることになった。無難なのは「特性のない」兵士であり続けることであった。
勤評が始まったとき、教員にはどんな選択肢があっただろうか。そもそもあの時期の教師たちに、選ぶという経験があっただろうか。戦争を始めたのも、無抵抗の農民を殺すのも、強姦するのも、自ら選んだことではない。死んだ戦友を食ったのも選択の結果ではない。そして教師になったのも主体的選択の結果ではない。食い詰めて街をさまよっている時に教員募集の貼り紙が目に入ったのだ、選択の余地はない。敗戦の現実を直視して、これからの教育では「国のために死ね」と言う必要は無い、平和と自由のために教職を選んだ者は、迷うことなく「勤評」に立ち向かった。
公然と反対すること、それが最も危険であった。宇高申先生は闘いを組織し逮捕された。←click 無難なのは「特性のない」人々の一人になることであった。とはいえ、雇われ人としての特性からは逃げがたく、教委の意向に振り回される。
ナロードニキ
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| ナロードニキ逮捕の瞬間を描いたイリヤ・レーピンの作品 |
彼等は父母との家庭、社会的地位、快適な生活、世俗的な悦楽をふり捨て、「人民のなかへ行き、彼等から不正に奪ったものを彼等に返せ」と叫んで、労働者、徒弟、役場書記、小学校教師、産婆、看護婦の資格で町や村に入り込んだ。鍛冶屋や小農場をつくり、彼等は毎日、労働大衆と直綾に接して教育宣伝に従い、その啓蒙と福祉のために献身した。モスクワでは富裕な階級出身で、チューリッヒ大学に学んだ若い娘たちが、紡績工場に入って1日14時間から16時間も労働し、工場のバラックに住んで惨めな生活を送った。一方では、同情者または後援者の数も夥しい。例えば治安判事ヴオイナロスキーは約4万ルーブルの全財産をナロードニキ運動に寄付した。チェルニゴフ県の司法委員会議長で地主のコヴァリクは、ナロードニキを援助したために捕えられてシベリア流刑に処せられた。「党の聖人」と呼ばれたドミトリー・リゾグープは、1879年の8月にオデッサで処刑されるまでに、全財産40万ルーブルをナロードニキに投じている。
彼等の運動は当初、極めて平和な教育運動であった。彼等は明白な具体的革命的綱領をもっていたのではなく、文盲の農民や労働者に読み書きを教え、初歩的な知識を与え、迷信的な治癒の奇蹟に頼っている病人に医療を施し、彼等の悲惨暗黒な境涯の緩和に直撃献することを目的とした。そして人民が自身のカで圧制から解放され、正しい自由と幸福とを獲得するのを、援助しょうと熱望していたのである。 (数字や人名は、主として荒畑寒村『ロシア革命運動の曙』によった)
彼らがこうした過酷な犠牲を伴う運動に身を投じたのは何故か。農奴たち自身が解放が進まない理由を、ツァーの暴政に見出すのではなく、「愛する父なるツァー」の善政を妨げる官僚や貴族たちの私利私欲に帰していたからであった。ロシアの農民たちが、ツアーの暴虐極まりない実像を知るのは、この30年もあと1905 年「血の日曜日」であった。保守的青年僧侶に率いられ「神よ、ツアーを恵み給え」と平和裏に請願行進する群衆に、ツァー政府による無警告一斉射撃が浴びせられ死者500名負傷者3000名を数えた。これがロシア革命の烽火となる。
ナロードニキの軍法会議に於ける陳述も伝えられている。
「私を殺せ。だが、諸君は人民の自由と幸福、正義と廉直の勝利、そして友愛、平等、自由の理想がもはや空しい響きではなく、真の生活に具体化された時代が到来する私の信念を、決して殺せない。かかる未来のために、個人の生命を犠牲とすることこそ幸福なのである」
マリア・スピリドーノワは眼球が飛び出さんばかりに拷問を受け血にまみれ、喀血しながら叫んだと記録されている。
「私はミーンが自由の先駆者を殺し、モスクワの街上に無辜の血を溢れさせたが故に、彼を射殺した。私たちをこのように戦わせるのは政府である。私たちを暗黒と窮乏と牢獄に閉じこめ、流刑と懲役に処し、数十人、数百人を絞殺、銃殺する権利を、誰が諸君に与えたか。諸君は力ずくでこの権利を握り、自身の法律で正当化し、僧侶がそれを神聖とした。だがいまや、諸君の非人道的な権利よりもはるかに公正な、新しい人民の権利が起っている。そして諸君はこの権利に、生死の戦いを宣言したのである」
ジナイーダ・コノブリャーニコワは、絞首台に上るや自ら絞索をしめ、踏み台を蹴飛ばし最期を迎えている。いずれも女性である。
勤評と偏差値 Ⅰ
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| ファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね |
日本では、学校や組織の決まりや「掟」が、個人の「判断と決意」を代替して「忖度」を受け入れる素地をつくってしまう。忖度は、言語化を回避する。
僕は明治生まれの祖父母や大叔母たちから、「人の顔色をみてものを言ってはいかんよ、思った通りを言いなさい。殴られても引き下がってはいけない」と繰り返し厳しく諭された。
いじめっ子が現れれば、言葉で対決しなければならない。暴力で決着しようと目論んだ上級生のいじめっ子たちは、言葉での対決に一瞬たじろぎ、「お前と話すと頭が痛くなる」と言って退散するのであった。殴られたことは一度も無い。お陰で遊び仲間からも、学校や地域でも「ちょっと生意気・ひねくれ者」と思われたが、それが咎められるようになるのは、「勤評」以降である。
「勤評」は、教師を権力に順化し、担任は生徒に従順と譲歩を強いて成績に拘るようになった。生活指導はこの風潮に乗り、官民双方から広がった。僕の記憶の中にある生活指導が目指したのは、民主的秩序ではなく組織の秩序に過ぎなかった。少年たちが、教師や上級生と言い争うことも増え、それは68年の学園紛争で頂点に達した。だが、一気に萎えてしまう。「個人の判断決意」という点で、日本の大学紛争は脆さを内包していたからである。それ故「紛争」後、大学闘争の戦士たちは一転して企業戦士となったのである。
言葉が明晰性を失う事を、小説の神様は嫌った。それ故小林多喜二の文学を高く評価しながら、文学が政治や思想の道具となる事を批判したのであった。
1935年、志賀直哉はある対談でこう語っている。
「今の世の中でファシストといわれるような人達は大へん嫌いだね・・・大体この二三年間、急に日本はまるで日本でなくなったやうな気がするぢゃないか。僕は腹が立って、不愉快でたまらないんだ・・・世の中が実に暗い。外へ出るのも不愉快だ。言ひたいことが言へない世の中などというものは誰にとっても決して有難くないわけだ」 『文化集団』昭和10年11月号「志賀直哉氏の文学縦横談」
多様な文化思想の人間が混じり合えば、そこでの言葉は明晰性を増さざるを得ない。ファシストとファシストに忖度する人間で世間が埋め尽くされてしまえば、言葉の明晰性は消えてしまう。
それ故志賀直哉は『世界』の編集に敢えて、中野重治や宮本百合子を入れる提案をした。戦争の愚劣を言葉の明晰さが暴く事を、彼は願ったと僕は思う。最も明晰な言葉が日常日本語でないのは確かである。
例えばフランスの教科書には、文章だけで構成された美しさがある。言語への自信と信頼があるからだ。対して日本の教科書は、字の書体や色や太さを変え、漫画を配置、カタカナ語を乱用してまるで歌舞伎町や渋谷駅前の乱雑さである。そうすることでしか、事柄を伝えられない構造を日本語は持っている。
教室から明晰さが後退する切っ掛けは、勤評にあった。それは当時生徒であった僕の実感である。偏差値の概念自体は世界中にある。しかしそれが教育を翻弄し、教育がそれに依存しきっている国は日本だけである。その根源が「勤評」と拘わっていると僕は睨んでいる。 続く
椋鳩十が、快惚として聞き入った正木先生の授業
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| 授業も裁判も、正木先生の独壇場 |
昔ユースホステルに泊まると、ペアレントと呼ばれる経営者が、食後に宿泊青年をホールに集めてミーティングをやるのが定番だった。ゲームや歌で交流するという触れ込みだった。僕は少年の頃、こういうことは得意で好きでもあった。だが18歳になろうとする春、『アデンアラビア』に意識を殴られて、ゲームや歌から覚めた。
ミーティング好きのユースホステルでは、ものを考えられない。ミーティングの主役は、若者ではなくペアレントであり、若者は乗せられた道具に過ぎなかった。
ユースホステルに泊まるぐらいなら、無人小屋の方が心地よいと思うようになった。一日中尾根を辿って誰とも会わない日もあるが、途中の景色とともに物思いに耽れる。
今でも、旅館で着飾った女将が挨拶に来るのが嫌で堪らない。まるで客は女将登場の道具立てだ。観光地の列車や船に乗れば、ギターや三味線片手に地域おこしの仕掛け人が現れて、無理矢理盛り上げる。迷惑で鬱陶しい。うっかり旅も楽しめない。静かに景色を眺めることが、まるで犯罪であるかのような雰囲気がある。
先生は、ガリバンの英文を解釈するだけでなく、詩の世界の中に、私たちをひきこんでいき、あるいは、哲学的文章では、思考の泉のほとりに私たちを立ちどまらせるのであった。
正木先生は、驚くほど、雄弁な先生であった。
正木先生の放課後の講義は、現代の小・中学校で行われているように、子どもたち個々の力をひきだすために、一人一人に発表させたり、個々の意見をひきだすといったものからは、はるかに遠く、正木先生がひとりでしゃべりまくる独壇場とでもいうべきものであった。そして、正木先生のおしゃべりは、実に、魔力をもったものであった。
私たちは、正木先生の人生論に、鑑賞論に、快惚として聞きいるのであった。
時には、正木先生の下宿先まで皆で押しかけ、夜を徹して、芸術を語り、人生を語るのであった。
中学校の二、三年生の芸術論であり、人生論であるから、青くさく、鼻もちならぬものであったにちがいない。しかし、それでも、正木先生は私どもと口角泡をとばして議論したりするのであった。真剣になってやり合うのであった。そして最後には、正木先生に、さんざんやりこめられても、上等のお酒に酔ったように、心の中が、ぼうとあたたかくなり、何か、幸福とでもいうような不思議な気持になるのであった。
今でもあの当時のことを考えると、青春の日のロマンといったものであろうか。あるいはまた、青春そのものといったものであろうか。心のふつふつと燃えた若き日が、よい匂いのように、心をつつむのである。
椋鳩十 『児童心理』1978年11月号
正木先生とは、戦前から軍国主義を批判し、戦中には「首なし事件」(1944年)で官憲による拷問を告発した正木ひろし弁護士である。戦後も多くの反権力事件、冤罪事件を手掛けた。
正木ひろしは、帝大在学中から旧制中学で英語を教え、椋鳩十を教えたのは大正中頃であった。
深く魔力のある授業に、若者は忽ち引きずり込まれ、時間も空間も忘れてしまう。お喋りも先生への質問も、授業から覚めてようやく始まる。そしてその稔りは、時間をへてノートや行動に現れる。
椋鳩十は信州飯田の中学生だったから、正木先生の下宿には歩いて行けた。歩きながら先生の授業と自分の意見と仲間の見解を繰り返し練り上げる。その時間が個性を引き出す。夜を徹して語り合い「さんざんやりこめられても、上等のお酒に酔ったように、心の中が、ぼうとあたたかくなり、何か、幸福」な気持ちになる。この幸福な気持ちが、正木先生と椋鳩十たちの「共同作品」と言うことが出来る。優れた教師と世界を共有出来る喜び、これに勝る教育の意義はそうはあるまい。あらゆる青春の出来事は、こうした共同作品として生まれる。
講義から夜を徹しての議論までの長い思考とやり取りを、切れ切れのマニュアル化した数時間に納めることはとうてい出来ない。生徒の自主性を引き出すとの触れ込みのどんな取り組みも、所詮は理論=テクニックとそれを信奉する教師の添え物に過ぎない。練り込まれた計画に基づいて指示通りに動く駒に過ぎない。深く長い個人の思考を伴わないからである。
良い教育の条件に「歩いて行ける」は欠かせない。歩いている時間と空間そのものに教育的機能があるのだから。放課後の講義に夕闇が迫れば、一旦中止して「晩めし食ってからうちに来い」と言える街を目指す都市政策、教育行政を持たないこの国の未来は暗い。
正木ひろしは、旧制高校で理科から文科へ転じている。美術教師も務めたことがある。そのハイブリッドな教養が縦横無尽の講義となり、法廷での見事な弁論を構成している。教師にとって最も肝心なのは、無駄な程に広く深く学ぶことである。それが好きで堪らないことである。教師たちは好きで堪らない学びに時間を割けないない。それが大きな争点にならないこの国の未来は無いに等しい。
追記 僕は横文字の氾濫に腹を立てているから、「ハイブリッド」を使いたくなかった。しかしどうも言い換えがきかない。「雑学」ではない、そこには思想性が欠けている。「ハイブリッド」な教養は、物事をずらして見ることが出来るから、権力批判にたどり着きやすい。渡辺崋山や高野長英が蛮社の獄に連なったのは、その知識の構造がもたらしている。日本の大学が、副専攻を制度化しないのもこのためだ。つまり日本の大学は、構造的に権力迎合的なのだ。
糞の役にも立たない官僚的な教師
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| 糞の役にも立たない官僚、面白くも可笑しくもない |
ところが、担任の教師が変ってからも、自分のいたずらに対して、相変らず正直に手を挙げていたら、その教師は正直でよろしいと云って、私の成頒表に操行百点と書いた。
・・・
ある期末の歴史の試験の時のことである。問題は十問ほどあったが、私には殆ど出来ない問題ばかりだった。・・・
私は全くお手上げだった。私は窮余の一策で、十問目の「三種の神器について、所感を述べよ」という問題だけとり上げて、答案用紙に三枚ほど勝手なことを書いた。その内容は、三種の神器は、話にはいろいろ聞いているが、この目で見たわけではないから、所感を述べよ、と云っても無理だ。八咫鏡にしても、実物は誰も見た者はいないのだから、本当は四角かも知れないし、三角かも知れない。私は、自分の眼でしっかり見たものについてしか語れないし、証明されたものしか信じない、というようなものであった。
ところが岩松先生は、その歴史の答案に採点して生徒達に返す時、大きな声で云った。
「ここに一つ、変な答案がある。私の問題の一つについてしか答えていないが、それがなかなか面白い。私は、こんな独創的な答案は初めて見た。こいつを書いた奴は見どころがある。百点だ。黒澤 !」
と、その答案を私の方へ突き出した。皆、一せいに私を見た。私は、赤くなって暫く動けなかった。
昔の先生には、自由な精神を持った、個性豊かな人物が沢山いたのである。
それに較べると、今の先生は、ただのサラリーマンが多すぎる。いや、サラリーマンというより、官僚的な人物が多すぎる。こんな先生の教育は、糞の役にも立たない。第一、面白くも可笑しくもないだろう。
1984年 黒澤明『蝦蟇の油』岩波書店
あるとき職員会議で、校長から神社参拝させるという提案が出た。そうしたら金子先生が、何か効果がはっきりしたらやったらいいじゃないですか、神社参拝したらどういう効果があるか、と言っちやったらしい。そうしたら校長がえらい困った。時局下で監視が来ているでしょう。それで開先生が立ち上がって、「多分、きみそれはあれだな、うっかり言ったんだな」と言ってとりなしたという。しかし、結局みんな追われちゃったらしいんです。
1982年 斉藤喜博 『聞く』明治図書
斉藤喜博が師範学校学生であった頃の出来事である。時局下の監視とは配属将校の臨席である。戦中戦前の学校教育を受けた教育者や文化人の回想を読むと、意外なことに個性的な教師に恵まれた人が多いことに気付く。
糞の役にも立たない官僚的教師の跋扈はどこから始まったのだろうか。
学校の官僚化を象徴するのが、入学式や卒業式の式次第だ。卒業生や保護者に向けて、おめでとうございますの挨拶もない。ぶっきらぼうに、開会の辞と閉会の辞に挟まれて、国歌斉唱や校長式辞が並び、教育委員会告示までが挿入されている。これがあるお陰で、教員は卒業とは何か、学校は誰のものなのかを考えない。保護者は式の何処にも登場しないことのおかしさを議論しないで済む。式次第のかげには通達のもたらす形式がある。
形式は、人間の思考を眠らせ腐らせる。式次第から匂うのは肥大化して硬直化した「官」と、消えかかる「私」。
普段はお喋りとイタズラにに余念のない反抗的生徒が、卒業式では神妙にしているのも気に入らない。 黒澤明の担任が「正直でよろしい。操行百点」と書く余地もない。一貫性があれば、正直でよろしいと言えるが、場が変われば恐れ入るのはただの調子者に過ぎないからだ。その代表が元都知事であった。教員には君が代を強制しておいて、自身は「オレ歌わないもん」と言ってはばからない。文化的一貫性や自由な精神の見えない底の浅い作家であった。
戦中戦前の学校教育を受けた教育者や文化人たちが、個性的な教師に恵まれたのは何故だろうか。
彼らが接した教師たちは、大正デモクラシーの自由な空気の中で育った世代である。自由が生き方や仕草に染みついている。彼らが教壇に立つ頃、軍国主義的世相が押し寄せてきた。若いから反発も強い、一言どうしても出てしまう。
「何か効果がはっきりしたらやったらいいじゃないですか、神社参拝したらどういう効果があるか」と言っちゃった金子先生は、帝大出であり旧制高校的自由も享受していた。軍国主義教育の軽薄な非合理性は我慢ならなかったに違いない。金子先生とともに飛ばされたのは、帝大出の人たちであった。
対して 黒澤明が『蝦蟇の油』で「糞の役にも立たない」と腐した教師たちは、総じて団塊の世代以降。高度成長期にマスプロ教育で育ったから、行事も授業も効率と画一化が前面に出る。教室の壁や廊下にも点検表があふれた。定期試験問題の共通化や評定平均の統一までが画策された。「面白くも可笑しくもない」ことを真顔でやった。僅かな遅刻で女子生徒を殺し、ドライヤーを持ってきたと言い生徒を殴り殺したのはこの時代の教師である。
教師が殴りたがり、点検したがるのが、その教師の生育背景に由来するとしたら、殴られる少年たちの怒りのやり場はない。どんな育ちのいかなる教師に教わったとしても、青少年たちが保証される教育の最低限を規定したのが、旧教育基本法であり子どもの権利条約である。
失敗から学ぶための条件
「和解する教室」Ⅰ~Ⅳで書いたような行動を、部活が売りのS高生たちはやってのけるだろうか。S高は偏差値も入試競争率も進学率も「1-6」のH高より余程高い。しかし、1-6のような自治を実現することは金輪際出来ない。なぜならS高では入学してから卒業するまで、クラス自治の経験を持てないからだ。素直な生徒たちは部活に全関心を預け、教室はまるで3時からの部活の分断された「待合室」となる。待合室に暴動はあり得るが、決して政治化しない。
「現社」で放課後を使ってのグループ毎の調査や見学などは出来ない、部活は絶対だからだ。土日に博物館や地域を巡ることも不可能、練習試合でそんな時間は1分たりとも無いのだ。
「現社」教員としての僕は、手足をもがれた気がして滅入った。黒板の前だけが「教室」だった。生きた世界からは隔離されていた。
学級内集団も、クラブ毎にしか形成されない。したがって学級共同の要求としての自治や授業が自覚されることはない、まして要求にまで高められることはない。S高生ひとり一人の社会的意識は決して低くないが、それが集団化することはなかった。なんとかしたい、自分たちの手で集団をよくしたいという熱気の前提、クラスに対する愛着が育たないのだ。
これは支配する側にとって願ってもないことだ。たとえ卒業後、職場や地域に深刻な問題が起きても、部活で培った社会的無関心は容易には回復しない。
日本の高校生の政治化は、「部活」がダムとなって堰き止めている。卒業後、ダムとしての「部活」の機能に気付きそれを突き破ることに成功した者は、逞しい社会性を持つようになる。だが気付くのに、短くとも数年を要する。戦時下の少国民が、軍国主義的悪夢から覚醒するまでよりはるかに長い。社会変革の主体として若者が再び登場するのは、日本の青少年が部活の幻から覚めるときである。
失敗に向き合った(「和解する教室」)の高校生に比べると、F先生(「心を病んだ先生」)は自分の失敗を認めない強情さに満ちていた。
F先生に対する生徒たちの暴発は、卒業文集に現れた。全ての生徒から「死ね、死んでください」と書かれてしまう。この時までF先生は、生徒の不満に気付かなかったのだろうか。生徒たちは、担任に不満や要求を押さえつけられて何も言えなかったのだろうか、3年間も。卒業文集の原稿を担任が目にしてから卒業式まで、2・3ヶ月はある。同僚たちは何を見ていたのだろうか。どうして、再び担任になりたいとのF先生の希望を受け容れたのだろうか。
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| 破綻を認めない頑迷さが二発の原爆に繋がった |
F先生二度目の担任では、生徒との接触は入学前の3月末から始まり、昼休みも一緒に弁当を広げ、学級通信は一日二回になる。これが生徒にとってどんなに暴力的なことなのか、気付くことはなかった。取り組みに効果が見られない時、彼の脳裏に去来したのは、未だ足りないもっと強くだけである。弱音は言えず、方向転換することが出来ない。巨艦巨砲主義から脱却出来なかった海軍と変わらない。
致命的なのは、生徒側に話し合いが生まれなかったこと、学級に対する愛着の欠けらもなかったからだ。
自己認識から逃げたくなるほど、学校や学級に対して冷めてしまった生徒たち。その集団を規律の強化・徹底で乗り切ろうとする教師たち。F先生が精神に異常を来しても気付かなかった同僚たち、異常に気付いても狼狽えるだけの管理職。最悪の組み合わせである、この組み合わせがなにゆえこの学校に起きたか、失敗から徹底的に学ぶ必要がある。僕がこの学校に異動を命じられて、何が可能か考えるとF先生の辿った経過が重く胸に迫ってくる。
追記 原発の破綻、年金原資による株価政策の破綻、民営化の破綻、いずれも政府はその失敗を認めず真剣に向き合うことはない。向き合うためには、「和解する教室」の生徒たちのように、集団、彼らの場合は国歌に対する愛着がなければならない。これが、現在の政権には全くない、あるのは肥大化する特権意識だけだ。それは、おそらく彼らの生育歴に深く関わっている。
絞りかすみたいな、いい先生
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| 絞りかすみたいな毎日 |
だからこそ、彼はいい作品を生み続けるいい作家であった。
いい授業のための研究や教案作りに、精力の全てを注ぎ込み絞りかすみたいになった先生。そんな先生を記憶の底から探った、なかなか思いつかない。一晩寝て、はっとした。絞りかすどころか、廃人になってしまった先生を思い出したからだ。「心を病んだ教師」←クリック
彼が非常勤講師だった頃、小説や回想録に登場するような素晴らしい青年国語教師であった、まったく。
このF先生が石坂洋次郎のように振る舞うことは出来なかっただろうか。F先生と石坂洋次郎を隔てているのは、生活指導である。そして非常勤講師F先生と学級担任のF先生を隔てるのも、生活指導であった。
「幸福は退屈である」←クリック でこんな逸話をひいた。
・・・興味深いessayを読んだ。30歳前後の高校同級生が久しぶりに酒を飲む。積もる話の末、一人がこう呟く。
「・・・この頃、古文のA先生の授業を思い出すんだ」
「お前もか、おれもだよ。高校の頃あんなに退屈な授業はなかった、だがまた聞きたいとしきりに思うよ」
「だろう、A先生の淡々とした口調に今頃になって引き込まれてね。『古典文学大系』を買って読んでいるよ。脚注を利用すれば、楽しく読めてしまう。知らぬ間に学力はつくものだね」
他日別の同級生と会った時、この話をするとこの友人も
「実は僕もね、あの教科書をまた買ったよ。先生の名前も顔も10年以上も忘れていたのに、なぜかね、あの頃はうつらうつらしながら聞いていた、考えれば勿体ないことしたよ」
正式採用されたF先生は、教材研究する間も惜しんでクラス運営にのめり込み、失敗すればするほどのめり込んでしまった。3年間通して同一学級に全てをかけ、これ以上無い失態を招いた。劇的な失敗にもかかわらず、それを教訓に綿密な指導計画を練り、間をおかず再び3年間連続して受け持ち同じ失態を招いた。彼の精神的弾性は限界をこえてしまった。
もし彼が、国語授業に全てではなく適量をぶち込めば成功したことは間違いない。学級運営は絞りかすすれすれで臨んでも生徒の信頼は落ちなかった筈。
それが何故彼には出来なかったのか。担任としての「おそろしく常識的な、平凡な日々」な退屈を怠惰として憎んだか。十年後の酒場でかつての教え子が静かに絶賛したとしても、それは彼の耳には届かない。石坂洋次郎の小説に引き摺られ、始終生徒たちに取り囲まれることが教師の至福に見えたか。だがそれは生きた石坂洋次郎とは隔たりがある。
極楽は仏様があくびするほど退屈なのだと『蜘蛛の糸』に芥川龍之介は書いた。それは福祉国家になると退屈で若者の自殺が増える類いの、使い古した勤勉哲学に過ぎない。
生活指導さえ無ければ、素晴らしい先生は一気に増える。そのお陰で少年たちの問題行動は激減する。なぜなら授業で信頼を獲得した教師の指導を生徒は嫌がらない。たとえ枯れ果てていてもそれは風情。過剰な熱心や熱血から生徒は逃れることが出来ない、これほど鬱陶しいものはない。それを3年間も続けられれば暴発は必然であることに、何故この青年教師は思い至らなかったのか。熱血は冷静な認識も判断も妨げる。
教師は、石坂洋次郎的退屈に生きることに耐えるべきだと思う。耐えて高校生が部活の悪夢から覚めるのを待とう。争いの無い社会は極めつけの退屈満ちていると言いたがる者にはたっぷり言わせておけばいい。極楽は退屈さとともに学問も芸術も生み出すのだから。石坂洋次郎の作品と人柄はそれを証明している。人は一芸に秀でることさえ至難なのだ。
追記 高校生が荒れる学級を立て直すために取った行動(「和解する教室」)に比べるとF先生のやり方は、思想も哲学も見えない。しかしいかにも教師らしい暴力性に満ちている。
生徒たちの暴発は、卒業文集に現れた。F先生は「何を書いてもいい、検閲はしない。書いた通りを載せる」と請け合い、全ての生徒から「死ね、死んでください」と書かれてしまう。この時までF先生は、生徒の不満に気付かなかったのだろうか、3年間も。生徒たちは、担任に不満や要求を押さえつけられて何も言えなかったのだろうか、この時まで。卒業文集の原稿を担任が目にしてから卒業式まで、2・3ヶ月はある。同僚たちは何を見ていたのだろうか。
彼の総括も独善的であった。3年間の方針に質的な誤りはなく、ただ量的に不足・徹底さがなかったというものであった。担任を降りる、休む、独善的指導を止めるという選択はあらかじめ排除されている。日本軍に酷似している。独善性は強化され徹底する。破綻する度に独善性は増した。二度目の担任では、生徒との接触は入学前から始まり、昼休みも一緒に弁当を広げ、学級通信は一日二回になる。彼の脳裏に去来したのは、未だ足りない、もっと強くだけ。方向転換することが出来ないのである。巨艦巨砲主義から脱却出来なかった海軍と変わらない。
致命的なのは、生徒側に話し合いがないこと、学級に対する愛着の欠けらもないことである。自己認識から逃げたくなるほど、学校や学級に対して冷めてしまった生徒たち。その集団を規律の強化・徹底で乗り切ろうとする教師。F先生が精神に異常を来しても気付かなかった同僚たち、異常に気付いても狼狽えるだけの管理職。最悪の組み合わせである、この組み合わせがなにゆえこの学校に起きたか。
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王様に貰ったミカン
深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...





