適材適所ってなんだ
障碍あるplayerが、メダルを囓る様子をTVや新聞で持ち上げることが共生社会だろうか。 成果や取り柄有る無しに関わりなく、互いに日常の繫がりが見える仕組みが行き渡ることではないか。例えば普通高校にも聾唖者などの障碍者が在籍し共に学べることを考えてみる。授業中は級友の誰かが手助けをする、面倒かもしれない。部活もたいへんだ、試合どころではなくなるかもしれない。それを喜んで受け入れ生活の欠かせない部分とすることが共生だ。
小学生の頃、四丁目に「たけちゃん」がいた。知恵遅れで中学生ぐらい、修学免除だった。学校が終わる頃、たけちゃんが校門近くの路地の突き当たりで待っていることがあった。僕たちは彼と三角ベースをよくやった。たけちゃんは何をやってもOKの特別ルールだった。路地の突き当たりを裏に抜けると、たけちゃんのうち。大きな酒屋だった。遊びに飽きると、たけちゃんは僕らを店に誘った。前掛け姿の叔父さんがニコニコしながら出てきて、「たけと遊んでくれてありがとう」と店のアイスキャンディをくれた。
それから20年後、僕は妻と四丁目に行ったついでにたけちゃんの店に寄った。たけちゃんは留守だったが、叔父さんは僕たちを覚えていた。ちょうど秋祭りで「神輿の接待所にいるよ。今、たけは町内会の副会長だよ」と言うではないか。僕たちは大通りに急いだ。神輿を置いたテントの奥の座敷に正座していたたけちゃんは、見事な副会長振りだかった。挨拶に来た人たちに「本日は遠いところをお越し下さいまして有り難うございます」と満面の笑顔で挨拶をしながら、お茶の接待をしている。紋付きを着こなした動作は、堂々たるものだった。僕らを見ると、妻を覚えていて「やあ、由美ちゃん。こちらへどうぞ」と声をかけてくれた。
適材適所とはこのことである。町内会という排他競争的教育体系から切り離された小さな共同体←クリックが、生きて機能していたから可能なことだ。
校長も教育委員も文科大臣も首相も競争の「恩恵」だけは被っている。が、適材とは千歩譲っても言えない輩ばかりだ。飛び切り無能な者が、よりによって校長や首相にのし上がるのは、組織が巨大化一人一人の人物像が不明瞭になると共に操作可能になったからだ。操作は今や巨大資本広告代理店の独壇場だ。余程の愚者でなければ、はずかしくて跋扈出来ない。
Sports playerやサラリーマンを「サムライ」と言うな。サムライは身分、民主主義とは相容れない。
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| 妄想を肥大させた者たちの責任は計り知れない |
恐るべき感覚である。良識のある人間ならば到底発想し得ない。
『チャップリンの独裁者』では、独裁者・ヒンケルが側近の唆しや煽てに「よせ! 自分が恐くなる」と言いながら、風船の地球儀を弄ぶ場面がある。如何に独裁者の「妄想」は作られるか示した秀逸な場面だと思う。
「私が国家ですよ」とまで妄想を逞しくしたのは、 『チャップリンの独裁者』とおだて同じく側近の煽てと唆しである。日本のマスコミと御用文化人の責任は、限りなく重い。
ゲッペルスはこう言っている。ナチスに「国民が自分の方から委任してきたのだ。・・・つまり、自業自得だ」
自らを奮い立たせるために、まじない言葉「サムライ」を自らの集団に冠するのは、国家と政権の「妄想」を膨らませるだけだ。
2016年2月16日の衆院予算委員会で、副総理が「ナチスの手口に学んだらどうかね」と口を滑らせたことがある。妄想は既に相当深い。
ドイツ敗戦間近い1945年3月、ヒトラーは自国の「焦土作戦」を命じ国民に自力での退避まで強制している。選んだのはお前たちだ、道連れにしてやると言うわけだ。
政権首脳は公僕たる立場を忘却し「私が国家」との「妄想」に酔い、サムライたちはメダルで自らを大衆から隔離し、特権的「身分」に酔う。「サムライ・日本」に酔っている限り、職場やグランドから体罰やパワハラが克服されることはない。何故なら「サムライ」内部も身分的文化が支配する世界だからだ。
その帰結の責任は軽い筈はない。我々が良識に基づいて、仮令国家を裏切ってでも公正に判断できるのは、民主主義を信じるからである。←クリック
若者も国民も、「未成熟のままに留」められ、そして、なんでも日本が一番の番組に煽られてのぼせ上った幼稚な顔をしている。「聴き、読み、見ることを許され」報道後進国日本の有様を知ろうともしない「自由を実行することを許された経験を持」たないことに怒りも不満も持てない。
「未成熟こそが、ナチス・ドイツの一般大衆の顕著な特徴」であったことに、僕らは僕らの現在を重ねて、警句とする必要がある。 カッコいい幼稚さに彩られた部活や行事、硬い幼稚さに封じ込められ批判精神を禁じられた主権者教育。それらが目指すのは、操作しやすい大衆である。目指しているのではなく、おおよそ実現しているというべきか。
幻想や「陶酔などによって」ではなく「平凡な仕事によって表現する」生き方を獲得したい。
公正であることは信念を持つ限り不可能である
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| フォスターは、ナチスにたいしてだけは徹底的に闘った |
ダンテはフィレンツェ市政に関わっていたが、激しい政争に敗れ追放された。彼は、この時味わった政治的不義への憤りを隠していない。「神曲」では ブルータスとカシアスは、祖国ローマを裏切るよりシーザーを裏切ることを選んだとして嘆きの川に落とされいる。
僕は
「国を裏切るか友だちを裏切るか、二つに一つを選ばねばならない場合には、国を裏切る勇気があってもらいたいと思う」と書いたE.M.Fosterに組みする。彼は「公正であることは信念を持つ限り不可能である」ことの例に聖パウロやモーゼを、師たるに値する存在としてモンテニューやエラスムスを挙げる。
古在由重は、東大総長の次男であり政治的に無色なことを買われて「思想善導」の教官として東京女子大で「倫理学」を教えていた1929年、国家を裏切りモップル(国際赤色救援会)の女学生を支援して逮捕されている。良識とは何か、如何にして発揮されるかをよく表す挿話である。←クリック
組織は、良識ではなく信念を支柱としている。 さて党派は、国家と友のいずれに近いだろうか。
一九八四年夏の原水爆禁止世界大会はソビエトの核実験を巡って大いに荒れ、運動の分裂を決定的にした。共産党に近い組織は、吉田嘉清原水協代表理事に対し、『党中央決定である。代表理事と原水爆禁止世界大会準備委員を辞任せよ』と強要した。
この時である。代表委員の古在由重氏が発言を求め
と、吉田代表理事を擁護する。忽ち会場に衝撃が走る。古在氏は高名な哲学者、おそらく共産党員だろうとだれもが思っていたからである。「共産党の広告塔のような古在氏が党の方針に異を唱える・・・」。報道陣から驚きの声が上がった。古在氏はその後、共産党を除籍される。「吉田君が退場なら僕も退場になる。だいたい同じ考えだからね」
僕は長い間、古在由重氏が会長を務める研究会の一員であった。年一回の大会では毎年会長の近況が報告される習わしだった。正月に主だった会員たちが、古在氏宅を訪問し歓談するのである。
僕はこれに噛み付いた。仲間で歓談するのに問題はない。しかし大会で「古在先生の近況」と恰も神や貴種を敬うかのような扱いに我慢がならなかった。古在先生を良しととするなら、古在先生のように振る舞うべきであり、奉つることで古在先生に近づいたつもりになるべきではないからである。翌年から近況報告はなくなった。
良識ある人間にとって我々の日常には、国家や党派や組織に裏切り刃向かわなければならない時が少なくない。生徒・学生や同僚の為に公正でなければならないからである。
しかし友愛の為ではなく、政治的な党派と党派、取引き相手同士、そして大した知り合いでない場合、多くの場合がそうであるがいちいち目くじらを立ててはいられない。できるだけ穏やかに辛抱する。努めて愛する努力などはしない。これが「寛容」であると、フォスターは言う。
内ゲバ殺人や査問は、努めて理想に向けて結束し純化する中過程で生まれている。文明は長い時を要する、だから我々は互いに努めて寛容であらねばならない。
だがフォスターは、ナチスにたいしてだけはそのような態度をとらなかった。首尾一貫して闘った。彼はBBCの電波に乗せて毎晩英国市民に徹底抗戦を語りかけたのである。何故ならナチスは、アーリアンだけが正しい理想であるとして、気に入らぬ者を虐殺し追放し絶滅を図っていたからである。 英米の資本家たちの「寛容」の精神は、ナチスへの投資に向けられる始末であった。(例えばブッシュ一族は、絶滅収容所の毒ガスを製造していたe.g.ファルベンに積極的に投資。ハリウッドの映画資本は、1940年の『チャップリンの独裁者』を作らせまいとしていた。しかしチャップリンは独立プロダクションを持っていたため、良識に基づいて行動できたのである)
フォスターは英国市民と長く厳しい闘いを強いられた。共に闘うのはソビエトのみであった。
追記 僕は信念に凝り固まった嘗ての学生セクトが、フォスターのように辛抱強い「寛容」の精神を、何故互いに発揮出来なかったのか、歯痒くてならない。内ゲバ・殺人に向けられた「理想」を、一致してベトナム反戦や反核闘争に向けられたはずである。もし高橋和巳がフォスターを読んいたら・・・と「もし」を重ねたくなる。
オンライン授業は、蟻地獄に公教育を引き摺り込む
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| ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた |
「SNSの「いいね!」は、君の社会性も人間らしさも破壊している 」←クリック で指摘した。
ワープロやパソコンのおかげて、手書き文字が下手になり語彙は見る見る貧困になった。芸術的趣の溢れる書簡や答案は消えた。
カーナビを使うようになって、運転は格段に楽になり便利になった。最短の新しい道を苦もなく使えるだけではない、付近のお勧めの食堂や旅館も検索できる。
だが気付くと僕らは、生来の地理感覚を失っている。道に迷い失敗しながら、発見を重ね僕らは脳裏に自前の地図を刻み込んだ。そんな道は50年経っても忘れない。100人ドライバーがいれば、地図は百通り出来た。それは登山や知らない国の街歩きにも言える。カーナビやスマホが壊れても、苦労して刻んだ記憶は容易くは消えない。
僕らに必要なのは、100人の教師があれば百通りの教室光景や音や風への感覚である。そこに40人の生徒たちが加われば、組み合わせは四千通りにもなる。モニター画面は風や音を背景と共に消す機能も備えている、online会議やonline授業ではそれらは雑音に過ぎないからである。しかし教室では、互いを生きた存在として認識するために「雑音」は欠かせない。生徒たちはよそ見も出来ない、お喋りも出来なくなる。
カーナビやスマホに表示される便利な情報は、所詮CMに過ぎない。「雑音」が削除されたonline授業は「進学対策講習」の域を出ない。公教育学校のonline授業より大手塾のonline授業の方が効率だけは勝っているからである。
文科省は、塾の授業を公教育に置き換える機会を虎視眈々と狙っている。
公立病院の病床を政策的に減らし続けた結果が、コロナ禍に於けるpcr検査制限による感染拡大である。同じように公立学校の教室数は削減されるだろう。大手塾を中央センター教室としての授業が各公立校教室に配信されれば公立校教師は、モニター上の生徒の監視者になる。専門性も習熟も要らないから、パソナ派遣に置き換えられ、やがてリストラされるだろう。文科省や教委も管理職も、onlineソフトを通して、授業と教師を管理するに違いない。それが恐ろしくて、「僕はonlineベテラン」と売り込む者も続出するに違いない。
嘗て進学実績を焦る高校で、大手予備校講義の衛星中継が流行ったことがある。教師たちはモニターを眺める生徒たちの監視をさせられた。
僅かな便利さに幻惑され、amasonやrakuten を見境無く使う、安いからだ。お陰でamasonやrakutenの労働現場は地獄の光景を呈し、会社は莫大な利益を懐にするが、働く者は奴隷化。安いのを有り難がるのは、利用者側も奴隷的賃金に甘んじているからだ。オンライン授業の手軽な便利さに幻惑されればそうなる。
丸山眞男は「現代における人間と政治」(1961年)でマルティン・ニーメラーの言葉をひいている。
ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。
僅かな工夫と決意で、対面しての授業は直ちに出来る。online授業は毒饅頭。
福岡県は県立学校の分散登校を18日からに前倒しする方針を固めた。1週間後の25日には全面再開を目指す。市町村立学校や私立学校にも同様の対応を取るよう協力を求める。
例え無症状であっても自分が感染源になることの恐怖
コロナpcr検査に関して最も啓蒙しなければならないのは、例え無症状であっても自分が感染源になる可能性について自覚することである。熱が4日続いても自宅待機することではない。それは情報としては、致命的Discomunication である。 知らぬ間にコロナウイルスに感染、pcr検査で陽性が出れば、自分ではいくら大丈夫と思っていても確実に感染源となるから入院しなければならない。pcr陽性が判明したにも拘わらず出歩いた者に罰則が科される国があるのはその為である。 pcr 検査を一刻も早く受けて、陽性であったら入院することは、家族と同胞の生命を守る義務であり、自分自身をコロナから解放する権利でもある。
無症状の感染者を放置した結果、知らずして感染させて死に至った人の7割は70歳以上である。
僕は、(高齢者は終末期に)「さっさと死ねるようにしてもらわないと」2013年1月21日、政府・社会保障制度改革国民会議での麻生財務大臣の発言 を思わずにはおれない。コロナ感染源として放置された大部分は、比較的若い世代で現政権の支持層である。死んだ70歳台は野党の支持層であった。
検査能力があっても検査を拒否する最前線にあった保健所職員はいずれ重いトラウマに悩まされるに違いない。
インフルエンザが猛威を振るい各地で学級閉鎖が相次いだ時、熱をおし鼻声で教壇に立つ教師が少なくなかった。「生徒も我々も迷惑するから休め」といくら言っても「大丈夫です」と言う教師がいた。彼は毎年同じことを繰り返すのだった。これもDiscomunicationの典型である。こんな教師を、熱心・頼りになると評価する傾向が学校にある。教員が足りないからだ。 有給休暇の他に病気休暇が制度化される必要がある。
日本の疾病対策の原点は、 1872年の「違式註違(いしきかいい)条例」←クリックにあると『患者教師と子どもたちと絶滅隔離』地歴社 に書いた。
日本の習慣や風俗を「文明社会」にあってはならない恥ずべきものとして処罰の対象としたのであった。それは疾病対策にも現れた。
「救癩」の看護婦として今尚称賛される三上千代は「文明国民」の心得を説いてこう言った。
「文明国といふ正装」という普段着や下着を忘れた言い回しが、救癩は隠癩に過ぎないことを自白している。病気は不運なものであっても恥ずべきものではない。
1905年だけで9万6000を超える死者を出した結核の心配をしなければならないことは明白であった。赤痢・チフス死者も万を越し、コレラや痘瘡も定期的に猛威を振るっていた。他方ハンセン病死者(その殆どは併発した病気で死亡)は既に減少傾向にありこの年、2千余。結核死亡者は増加を続け1943年には17万を超してしまうのである。
日本の恥を隠すことに、疾病対策は絞られていた。患者の治療には関心が向いていない。お陰で世界から止めるように批判され続けた『絶対隔離』政策に固執したのである。隠して見せないことに愚かな努力を続けた。
現在のコロナ禍対策も、患者の救済や感染拡大に関心は無い『専門家』や『官僚』を使って偽りを流し、真実を語るメディアや個人を監視・弾圧し続けている。
無症状の感染者を放置した結果、知らずして感染させて死に至った人の7割は70歳以上である。
僕は、(高齢者は終末期に)「さっさと死ねるようにしてもらわないと」2013年1月21日、政府・社会保障制度改革国民会議での麻生財務大臣の発言 を思わずにはおれない。コロナ感染源として放置された大部分は、比較的若い世代で現政権の支持層である。死んだ70歳台は野党の支持層であった。
検査能力があっても検査を拒否する最前線にあった保健所職員はいずれ重いトラウマに悩まされるに違いない。
インフルエンザが猛威を振るい各地で学級閉鎖が相次いだ時、熱をおし鼻声で教壇に立つ教師が少なくなかった。「生徒も我々も迷惑するから休め」といくら言っても「大丈夫です」と言う教師がいた。彼は毎年同じことを繰り返すのだった。これもDiscomunicationの典型である。こんな教師を、熱心・頼りになると評価する傾向が学校にある。教員が足りないからだ。 有給休暇の他に病気休暇が制度化される必要がある。
日本の疾病対策の原点は、 1872年の「違式註違(いしきかいい)条例」←クリックにあると『患者教師と子どもたちと絶滅隔離』地歴社 に書いた。
日本の習慣や風俗を「文明社会」にあってはならない恥ずべきものとして処罰の対象としたのであった。それは疾病対策にも現れた。
「救癩」の看護婦として今尚称賛される三上千代は「文明国民」の心得を説いてこう言った。
美はしき日本の土よ、桜咲く国よ、富士の霊峰に、大和魂に誇の多き我国、殊には、畏れ多くも、万世一系の皇統を頂く、世界に比類なき、神々しき我国に、生を受けた我々は、如何ばかりに恵まれた国民でありませう。然し乍ら、茲に我らに、唯一の恥辱がのこされてあります。それは「癩病の一等国」といふ、有難くない名称でよばれて、列国から侮辱されてをる事であります。・・・・・・・これが未開の野蛮国なら、さまで目障りにならぬでありませうが、如何にせん、文明国といふ正装の手前、実に嘆かわしい面汚しではありませんか。
「文明国といふ正装」という普段着や下着を忘れた言い回しが、救癩は隠癩に過ぎないことを自白している。病気は不運なものであっても恥ずべきものではない。
1905年だけで9万6000を超える死者を出した結核の心配をしなければならないことは明白であった。赤痢・チフス死者も万を越し、コレラや痘瘡も定期的に猛威を振るっていた。他方ハンセン病死者(その殆どは併発した病気で死亡)は既に減少傾向にありこの年、2千余。結核死亡者は増加を続け1943年には17万を超してしまうのである。
日本の恥を隠すことに、疾病対策は絞られていた。患者の治療には関心が向いていない。お陰で世界から止めるように批判され続けた『絶対隔離』政策に固執したのである。隠して見せないことに愚かな努力を続けた。
現在のコロナ禍対策も、患者の救済や感染拡大に関心は無い『専門家』や『官僚』を使って偽りを流し、真実を語るメディアや個人を監視・弾圧し続けている。
メダルが欲しいなら、他人の財布に手を突っ込むな
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| 競い合いは金を知らぬ知らぬ幼児に限る |
一体メダル一つにいくらかけるのだ。僕が不思議でならないのは、sports personたちの、「そんなに金がかかるのなら止めよう、少なくとも私は出ない」との健康な発言がないことだ。国民の健康や福祉が未曾有の危機に瀕している時にである。僕は観戦する気にもなれない。
都民は、国民は一度だって積極的に五輪招致に賛成した事は無い。まして財布を差し出して、「いくらでも使って、もてなしてくれ」とは言っていない。僕は五輪商業化を阻止するために、次のような国際条約を提案したい。
五輪に公的資金を一切使ってはならない。マスコミのスポーツ支援=支配は禁じる。競技や会議を放映するもしないも自由。五輪運営は、見たい者・出たい者など賛成者の自己調達資金のみによる。会計は1円に至るまで随時公開する。大会役員は絶対無報酬とする。ホテルや交通手段は、エコノミークラスとバス地下鉄自転車。メダルは一切止めて、記録そのもので満足する。種目は減らし、IOCは解散する。
国体もインターハイもそれに倣う。
「小学区制」に戻れ・・・九月入学より直ちに授業
今直ちに、教師も生徒も一番近い学校に出向き授業をし、授業を受ける。単位不足や時数不足などは、柔軟に容認する。科目の読み替えも柔軟に。何より肝腎なのは、交通機関を使わないことだ。20歳台以下のコロナ死は世界的に見ても極めて低い。
コロナ禍は「小学区制」=新制高校の理想に戻る機会ではないか。残念なことに、我が民族は、自ら革命的決意をしたことが無いから、こんな機会を利用するしかない。
政府にはコロナウイルスから国民の命を守る姿勢はない。一旦は「PCR検査体制の1日2万件への倍増」を表明したが、厚労省の補正予算案では僅か 49億円。これが如何に少ないか、アベのマスクに 466億円計上ことに比べれば分かる。つまり政府は、偽りのコロナ関係統計を作りながら、国民を殺す。
九月入学制度への移行が喧しくなっている。夏までにはコロナ禍も収束すると観て、この際日本も国際社会と歩調を合わせて秋入学にしたらどうだと言う。夏までに都合良く収まるだろうか。しかしコロナ禍は長引く。万が一収まれば、さっさと秋入学にすれば良い。最初の年度は、四月から九月生まれの若者が増えることを覚悟する必要がある。過密になる。教室は足りなくなる。金も足りなくなる、工事は間に合わない。
そんなことより、僕は偏差値による選別制度こそが世界標準からズレていると思う。選別が遠距離通学を子どもにも教師にも強いている。通勤ラッシュもそれが加速している。
高校入試の廃止に向けての千載一遇の機会でもあると思う。平等から逃走し格差を有り難がる風潮からも、解放される。
例えコロナ禍が収まらなくとも、授業は学年別に午前・昼間・夕方に分け。一斉に登校しないから、一教室の密度は普段の1/3程度。
「違った偏差値の生徒たち」が混じり合うことの、困難より可能性に期待しなければならない。フィンランドでも一つの教室に様々の「学力」の生徒が混じり合うが、別段フィンランドのノーベル賞が少なかったり、企業の競争力が低いわけではない。逆に日本だけが取り残されている。その元凶は、世にも希な偏差値による選別にある。九月入学が阻んでいるわけではない。
m先生の生徒が呟いた「私、ソシュールかも」も、こんな教室で大きく生きる。ai機器を駆使した「最新式」の授業より発展の可能性は高い。
様々な学校からの生徒が集まるのだから、ウイルス塗れで洗濯のきかない制服も廃止したらいい。ジャブジャブ洗えるTシャツのほうが清々しい。
一体どれほどの時間と費用が節約されることだろうか。暇こそは学芸の源なのだ。
コロナ禍は「小学区制」=新制高校の理想に戻る機会ではないか。残念なことに、我が民族は、自ら革命的決意をしたことが無いから、こんな機会を利用するしかない。
政府にはコロナウイルスから国民の命を守る姿勢はない。一旦は「PCR検査体制の1日2万件への倍増」を表明したが、厚労省の補正予算案では僅か 49億円。これが如何に少ないか、アベのマスクに 466億円計上ことに比べれば分かる。つまり政府は、偽りのコロナ関係統計を作りながら、国民を殺す。
「PCR関係には49億円の費用が着いている。厚労省にどういう算定なんだと聞いたら、55万件分のPCR検査のお金だと。一日あたりに直すと1500件なんですよ」NHK「日曜討論」(26日放送)で国民民主党の泉健太政調会長発言。宗教政党が予算に口を挟めばこのざまだ。命を軽んじるにもほどがある。
九月入学制度への移行が喧しくなっている。夏までにはコロナ禍も収束すると観て、この際日本も国際社会と歩調を合わせて秋入学にしたらどうだと言う。夏までに都合良く収まるだろうか。しかしコロナ禍は長引く。万が一収まれば、さっさと秋入学にすれば良い。最初の年度は、四月から九月生まれの若者が増えることを覚悟する必要がある。過密になる。教室は足りなくなる。金も足りなくなる、工事は間に合わない。
そんなことより、僕は偏差値による選別制度こそが世界標準からズレていると思う。選別が遠距離通学を子どもにも教師にも強いている。通勤ラッシュもそれが加速している。
高校入試の廃止に向けての千載一遇の機会でもあると思う。平等から逃走し格差を有り難がる風潮からも、解放される。
例えコロナ禍が収まらなくとも、授業は学年別に午前・昼間・夕方に分け。一斉に登校しないから、一教室の密度は普段の1/3程度。
「違った偏差値の生徒たち」が混じり合うことの、困難より可能性に期待しなければならない。フィンランドでも一つの教室に様々の「学力」の生徒が混じり合うが、別段フィンランドのノーベル賞が少なかったり、企業の競争力が低いわけではない。逆に日本だけが取り残されている。その元凶は、世にも希な偏差値による選別にある。九月入学が阻んでいるわけではない。
(大学世界ランキング(タイムズ・ハイヤー・エデュケーション・ランキング)で日本は上位にない。トップ20には、中国6校、韓国5校、香港5校と比べて日本は2校だけ。 経営大学院(MBA)で、トップ100に日本はゼロ。様々な階層の生徒たちが混じり合うことで、文化的政治的多様性と豊かさも生まれる。
科学技術振興財団の調査では、先端151分野の有力論文ランキングの各分野1位は全て米国と中国。最重要分野AIでは、世界10位に過ぎない。 英語力の欠如が世界で競争できない理由の一つにあげたがるが、調査(EF EPI英語能力指数)対象100カ国中、日本は53位。アジア25カ国中でも11位。韓国6位、ベトナム7位、中国9位。 ノーベル賞学者の数も所詮過去への評価に過ぎない。)
m先生の生徒が呟いた「私、ソシュールかも」も、こんな教室で大きく生きる。ai機器を駆使した「最新式」の授業より発展の可能性は高い。
様々な学校からの生徒が集まるのだから、ウイルス塗れで洗濯のきかない制服も廃止したらいい。ジャブジャブ洗えるTシャツのほうが清々しい。
一体どれほどの時間と費用が節約されることだろうか。暇こそは学芸の源なのだ。
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王様に貰ったミカン
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