選別体制下のアクティブ・ラーニング / 教科「公共」

「公共」の指導要領は新語法で書かれている
 アクティブラーニングに、政府が言及したのは、2012年8月の中央教育審議会答申である。生徒が能動的に学ぶ授業が期待されていると、色めきだった教師は少なくない。生徒が、体験学習やグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワークなどで「能動的」に学べば「認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る」ことが出来るとうたったのである。   
  笑止千万である。一切の自由を縛り上げられた教師が、一体どうやって生徒を能動的に出来るというのだ。Freedom is  slavery. そのものではないか。横文字を使えば恐れ入るだろうとの軽薄さに満ちている。

 
 元々アクティブ・ラーニングは大学で展開されていた。教師自体が組織からも政府からも自立し、教科書も学習内容も方法も自由に構成できる環境にあって初めて実現出来る方法である。それでも上手くいってはいない。

 検閲した教科書をあてがわれ、挙動を日常的に監視され、過労死するほどの多忙な勤務の中で、何が出来るのだ。居眠りも出来ない。たとえどんなに忙しくとも、優れたマニュアルに基づいて人工知能を活用すれば、厳しい管理と規律によって実現出来ると考えたのであろうか。まるで生徒は兵隊、教師は下士官、管理職が将校のようである。まさに「汎用的能力の育成を図る」普通科連隊の訓練である。人工知能を活用する産業戦士育成を視野に据えている。戦士とはおとなしく戦死する者たちのことだ。人工知能革命のその先には大量人員整理が待っている。

 さすがに恥ずかしくなったのか2018年指導要領では、アクティブラーニングの語は消えて「主体的・対話的で深い学び」と言い直されている。僕はTVバラエティ番組の「人生が変わる1分間の深イイ話」というタイトルを思った。一分間にまとめられる軽薄な話を、壇上に並んだ芸能人たちに聞かせて頷く様子を画面に入れる。
  ここに文教族たちの思惑がある。かつて国民共有の財産を外資に明け渡して、「感動した」を連発したライオン髪首相がいた。国民が求める詳しい報告と熟議をせせら笑うように繰り出した、単語の連発をマスコミは歓迎したのである。紙面が節約でき、調査報道が省けるからだ。調査報道を省いた紙面や画面に現れるのは、現状を自然現象のように肯定する傾向である。9.11も3.11も永い歴史的経過が省かれ、衝撃的な現象の「鑑賞」から一歩も出ない。そこから始まったのは、ブッシュの嘘を真に受けての、主権国家イラクへの徹底的攻撃であり、その裏で蠢動する民営化した戦争の実態と本質は省かれた。3.11も対米従属下の核政策を押し流すように津波の映像が繰り返され、莫大な復興予算を浪費する災害資本の暗躍が碌な議会審議も経ぬまま黙認されたのである。国民は「食べて応援」の短いフレーズにここでも思考を断ち切られている。

  はじめから破綻は見えていた。アクティブラーニングが鳴り物入りで喧伝されたのは、裕福な家庭の偏差値の高い良い子たちが集まる学校だけだ。謂わば陸海軍幼年学校で、趣味的に取り組まれたに過ぎない。何を教えても教えなくても、万事そつなくこなす連中だけを集めて「教育」である筈がない。
 雑多な階層の多様な「物騒な」生徒たちもお坊ちゃんも集う学校で、緊張に満ちて取り組まれないで何がアクティブか。アクティブとは、粒ぞろいの居心地の良い教室でお行儀良く取り組まれるものであってはならない。授業後、直ちに街に出て行動する青年になるのでなければ、浮き輪抱えた畳の上の水練に過ぎない。
 it革命で首を切る側になる階層の子弟と首を切られる側になる階層の子弟が、互いに隔離されて展開されるアクティブラーニングは、全てよそ事として構成される。社会の矛盾がそのまま反映される教室を、政界も財界も恐れている。
 
 新教科「公共」には、2006年の「新」教育基本法の意図が思い通りには浸透しない文教族のイライラが結晶している。新教科指導要領を「精査」して解説した本が幾つも出ている。何故わざわざ解説して展開例を書かねばならないのか。それは指導要領が、分けても新教科「公共」 指導要領が、『1984』並の新語法に満ちているからだ。
 日本国憲法や旧教育基本法が、そのまま読まれたような「明晰」さはあり得ない。上意下達の通達が明晰であるとすれば、国民が新語法にすっかり馴染んだ時である。


    教科書調査官だった「学者」などが加わった解説書に共通することがもう一つ。それは、遡及的思考が無いことだある。コナンドイルは、ホームズに『緋色の研究』でワトソンに向かってこう言わせている。
 「うまく説明できないものはたいていの場合障害物ではなく、手がかりなのだ。この種の問題を解くときにたいせつなことは遡及的に推理するということだ。・・・仮に君が一連の出来事を物語ったとすると、多くの人はそれはどのような結果をもたらすだろうと考える。それらの出来事を心の中で配列して、そこから次に何が起こるかを推理する。けれども中に少数ではあるが、ある出来事があったことを教えると、そこから出発して、その結果に至るまでにどのようなさまざまな前段があったのかを、独特の精神のはたらきを通じて案出することのできる者がいる。この力のことを私は『遡及的に推理する』とか、『分析的に推理する』というふうに君に言ったのだよ」

  僕は9.11事件を授業で扱う時必ず使った映像がある。Occupation: A Film about the Harvard Living Wage Sit-In on Vimeo   この映像を使ったnhk海外ドキュメントもある。こちらは日本語である。
 2001年春、つまり9.11事件の半年前のアメリカの雰囲気が分かる。2000年にはワシントンで反グローバリゼーションの大規模デモが行われいた。そして 世界の「テロ」件数が急速に増加し、多くが中東か南アジアで発生するようになったのは、2004年頃からである。つまり9.11以前の世界は、相対的に穏やかであった。我々の多くは、事件の報道が衝撃的であったために、事件以前を忘れたのである。そこにイスラムのテロ組織の残虐性と中東世界の不安定性が書き込まれ、記憶と化したのである。それ故、ブッシュがイランに大量破壊兵器があると言えば「さもありなん」と受け容れてしまったのである。『遡及的に推理』したり、『分析的に推理する』ことで我々は、より実態に迫ることが出来るはずである。
 非正規労働を扱った学習プランを見れば、非正規労働が増え始めたのは何時で、それ以前の労働はどうであったかは考察されない。あたかも自然現象であるかのように、非正規と正規を選択の対象として選ばせようとしている。福祉であれ外交であれ、これからどうするのかだけを問う。政権の課題を浸透させる構図となっている。


 
 

李白が詩を作り、アインシュタインはバイオリンを嗜んだように

  無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることが出来なくなった状態。という見解がある。驚くほどものをよく知っていて、お喋りだが全く対話できない。そんな少年について書いたことがある。←クリック  文字通り苦い記憶である。

  専門家の無知について、原発事故は我々に数多くの実例を曝した。しかしそれを社会は、認識しているだろうか。もし認識していれば、彼らの多くは刑務所にいるはずだし、誰も責任をっていない。
 ハンセン病の場合、専門家の組織である「日本ライ学会」が自らの無知を自己批判するまで、絶対隔離からほぼ一世紀を要している。
 

 「収容乞う癩患者を赤穂海岸へ遺棄 鮮人身の振り方を赤穂署へ泣つく 長島愛生園へ抗議」の見出しが新聞に現われたのは1935年10月10日。(山陽新聞の前身『中国民報』)
 大学病院でハンセン病と診断された患者自ら愛生園に出向くが満員と断られ、盥回しされた大島療養所も受け入れ拒否、愛生園に戻ると船に乗せられ無人の海岸に打ち捨てられた事件である。愛生園は職員談話で、軽症で伝染の恐れも少ないから帰した、従来も軽症者は努めて帰ってもらっていると逃げた。おかしいではないか、ハンセン病の慈父として後に文化勲章を受ける光田健輔は愛生園園長であり、ハンセン病をペスト並の恐ろしい病気と言いつのり絶対隔離を立案したのである。

 京大病院で治癒して仕事にも復帰して後遺症もない元患者もあった。彼の場合有無を言わせず愛生園に再収容されたまま隔離され続けた。
 入れるも入れぬも出すも出さぬも、患者に対する恫喝として思いの儘であった。こうした恣意性が、絶対服従を可能にした。基準・根拠ともに不明であるからこそ、恐怖は果て無く募る。根拠さえ手にする事が出来れば、『神聖喜劇』の藤堂二等兵が軍法を逆手にとったように、闘いの道具にすることも出来る。それを恐れて、星塚敬愛園は癩予防法条文そのものを対患者極秘扱いにしたのである。
 収容されてしまえば、治療もあてにならず強制労働で症状は急速に悪化、死んでくれ、首を吊ってくれと迫った家へ帰れる筈はない。戸籍すら消された。大黒柱を奪われ消毒剤と罵詈雑言を浴びた家族も、離散してい故郷には誰もいない。元の職場にも病気は知れ渡っていて戻れない。すっかり根無し草となって、浮浪死は免れない。その恐怖が患者の反抗を沈黙させたのである。
 追放する側は、死後解剖するまで無菌は証明できないと言いながら、「アカ」であることが判れば、いつも無菌を証明してみせた。
 ならば「光田先生、この病気は治癒しないと言うあなたの療養所で、何故アカになると突然無菌になるのですか、こんな不思議はない。御高見を承りたい」と常識で切り出す者やマスコミが必要であったのではないか。
 「知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることが出来なくなった」関係者の無知は恐ろしい程である。

 愛正園初代患者教師吉川先生に関する「思想要注意人退園処分の件」関連文書にも、彼が如何に危険な思想と言動の主かを列挙してはいるが、病状については一切触れていない。ペスト並の病気より、思想が光田には恐ろしかったのである。

 1936年第15回癩学会は『朝日』や『毎日』の報道によって、小笠原説が徹底的に糾弾され絶滅隔離派が圧勝した印象を世間に与えた。しかし地方紙『新愛知』は「・・・論戦を繰展げ・・・伝染はするが決して恐るべきものではないとの妥協点に至り、結局今後の研究にまつことを双方約して二日間に亘る癩論争の幕を閉じた」と報じている。そればかりか、小笠原攻撃の急先鋒の一人外島保養院村田院長も「今頃癩の伝染力をさ程に強いと思つてゐる者はゐない」と論戦の中で言い切っている。又、恵楓園宮崎松記園長も京大に小笠原博士を訪問、「癩ヲ扱フコト結核ヲ扱フ程度ナラシメントストノ意向」を伝えたことも確かめている。これは第15回日本癩学会総会直前である。
 「癩業界」内部では「癩ヲ扱フコト結核ヲ扱フ程度」との見解は寧ろ一般的でった。そうであればこそ、鹿屋の星塚敬愛園が「国立療養所入所規定」第一条で癩はこの規定から除かれることを明示していることを承知で、第七条と八条によって追放(退園)を命じたことに合点がゆく。ハンセン病を入所規定から除いた根拠が存在しないことになるからである。しかしそうなれば、隔離の根拠が無くなる。
 両義足の患者を山中に遺棄したり、博奕で追放したり、思想要注意人物の再収容を阻止したり、彼らにとって何の不都合もない。『癩業界』が外部向けに捏造したハンセン病像に慌てふためいたのは、「癩業界」から隔離された者ばかりであった。
 愛生園の医師二人が追放に立ち会って震えたのは、自分達の行為が国民と歴史と科学を欺く途方も無い犯罪であると知ったからではないか。震えた一人早田皓は、小笠原にわざわざ長文の手紙を送って、絶対隔離を認めるよう迫った男である。来たものは誰であろうとも欺くために、愛生園の予防措置は度外れて厳重を極めていた。
                樋渡直哉著『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』から引用加筆した。

  ハンセン病も「らい学会」自己批判や「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」判決でその不当性明らかになったにも拘わらず、関係者の処罰は一切ない。僅かな園職員が転勤したのみである。特定の情報が飽和に達した集団が、生まれ変わるためには飽和状態を一掃する革命が必要なのだ。ハンセン病関係で言えば、
「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」原告の谺雄治さんが国会の議長になり、厚労省大臣に島比呂志が就任して汗を流す体制が少しも過激でない世の中になる必要がある。
 空気が水蒸気で飽和状態になれば雨が降るように、知識の飽和状態も何らかの方法で解消される。丁度コンピューターの中に断片化した情報やゴミが溜まれば、動きは緩慢になる。フラグメントを除去しなければならない。
 官僚李白が詩を作り、アインシュタインはバイオリンを嗜んだように。

 知識の飽和状態を解消して、未知のものを受け容れることが出来る。
 業界人にならないことだ。友達も親も兄弟も配偶者も教師というのは危ない。

個人の尊厳と自治体規模

  ハンセン病療養所多磨全生園で、子ども舎の寮父を永く務めた三木さんが、興味深い話を残している。
  「お酒が好きでしょっ中喧嘩する人がいましてね、それがテニスなんかを通して子どもと知り合った。すると人間的に全く変わったということがありましたね。子どもとペアーを組んで優勝したりね。そんなことでその人がパーッとかわって・・・どっちかと言うと鼻つまみになりかねない人だった。競輪競馬もやる人でね。それが子どもに○○さん、○○さんと呼ばれて、いままで、飲み友達、競輪友達しかいなかったのに、「子どもの友だちができた。変なことはできないなあ」と自分で漏らしていたいたそうですよ。周りの人も生まれ変わったみたいだと言っていました。その人は、自分が孤立していると思っていたのに子どもが自然に慕っていったからでしょうね」 樋渡直哉著『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』      
 社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方・人間のあり方を変える。
 例えば村会と国会の運営には質的な差がある。数千万、数億人を対象とし、様々な案件を抱える国会では集団の利害や党派の一般原則に基づいて討議決定せざるをえないが、村会では、政策の提案者や対象となる個人を考えて柔軟に決定できる。三木寮父の話で言えば、お酒の好きなこの人を、酔っ払い、博奕好きという属性だけを切り離して判断しないということである。子どもと博奕打ちの、曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。酔っぱらいの博奕打ちの変化を、多くが目にし話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある。
 人口が増加すれば、こうした判断は難しくなる。酔っぱらいの鼻つまみは固有名詞を失い、雑多な厄介者の一人として一括処理される。彼らが鼻つまみという孤立状態から共同体へ回帰するためには、多数への追従・同化という手続きのみが残り、同化できなければ罰と排除が待っている。 鼻つまみの全生活の複雑性の理解と把握は、顧みられなくなる。同時に社会は豊かな文化性を失う。
  小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。
 千人程度の「奇妙な国」=ハンセン病療養所で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」(療養所入所者たちは、療養所外の世界を「社会」と呼んだ)では、企業も自治体も学校さえもが合併を繰り返して、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応ささせられ、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである。
 少年の信頼と承認が、鼻つまみを心優しい「善人」に変えてゆく。これは小さな社会であっても、毛涯(毛涯は、療養所職員で患者たちの風紀を取り締まり、理不尽な罰を加え、患者たちから恐れられた。彼の加えた罰によって死亡した者もある)が居てはありえない。何故なら療養所のあるべき人間像は、上から暴力的に与えられ、酔っぱらいの博奕打ちは監房に放り込まれ、テニスは患者のくせにとムチ打ちの対象になったからである。
 ハンセン病の子どもたちの学校・全生学園自治も、療養所の人口規模を抜きには考えられない。 「塾」や茶会という文化的学びの形態もまた、何時でも歩いて行けるという集団の大きさが関わっている。

  日本の「市制及町村制」が発足した1888年には、7万0314の市町村があった。しかし直ちに明治の大合併が実施され、市町村数は1/5になる。その後もひたすら、行政の効率化が図られ、敗戦を経て地方自治法が成立した年には、10,505の自治体が残っていたに過ぎない。それでも町村合併は繰り返されたのである。その結果自治体数は激減し、現在1718に過ぎない。フランスは3万8000、ドイツは1万4500 の自治体があり、それぞれ一自治体あたりの人口は1600人と 5600人である。日本は7万8000 人である。
 ドイツ憲法第一条と日本国憲法第十三条の違いは、ここにある。ひとり一人の尊厳が、全ての行政機構で尊重されるためには、基礎自治体の規模は小さくなければならない。 ヨーロッパでは、小学校の規模は、校長が全児童の名前を覚えることが出来る大きさに制限されている。父母が校長に会えば、校長は父母の個人名から生徒の成績や生活に至るまで即答しなければならない。それが出来なければ、罷免の対象になる。
 我々日本社会の自殺の多さ、絶えざるいじめ、社会的弱者への不寛容、ヘイトスピーチの執拗さは、ここに根を探る必要がある。鼻つまみの酔っ払いさえ、生まれ変われる「生きやすさ」に満ちた自治体は、ひとの普遍的な権利なのである。
 

 荒れた生活を続けていた高校生に、夕闇迫る校庭ですれ違った教師が「○○君今晩は」と声をかけたことがある。荒れていた筈の生徒は、件の教師が教室に入ると同時にノートを広げ鉛筆を握って待ち構えるようになった。都心の、廊下で花火が発射されていた学校での話である。似た話は無数にある。
 
 学校も会社も国も小さい方がいい。オリンピックで金メダル
幾つも取るなんてどうでもいいことだ。
   富山県船橋村は人口3000人、面積は3.47kmと日本一狭い。1990年には、人口も僅か1371人に過ぎなかった。どんなに住みやすいか、村立図書館長高野良子さんの言葉がいい。
 「新しい親子連れが図書館に来たら、必ず声をかけて、お子さんのお名前を聞いています。・・・今日も若いママが2組、初めて赤ちゃんを連れて来てくさったので、お名前を聞きました。・・・名前で呼んであげると、親御さんは『うちの子の名前を覚えていてくれた』と喜んでくださる  https://www.huffingtonpost.jp/2016/01/04/funahashi-vill_n_8909360.html    
  名前で呼んで貰えた子どもは、もっと嬉しいはず。住み易いから人口は増えている。子どもの割合は日本一である。

人はひとを評価出来ない  ② active learningと国際化

仇をとってやりたい、少年は机を蹴飛ばした
 志賀直哉の『流行性感冒』にこと寄せて、「人はひとを評価出来ない ① 教科「道徳」を嗤う」を書いた。これはその続きである。

 多摩の典型的な普通高校にいたことがあり、担任するクラスに八百屋の倅K君がいた。人見知りの少年で、知らない者、特に権威的教師に対しては余所余所しかった。真っ直ぐ向かい合って座ることも、目を見て話すこともしなかった。
 あるとき些細なことで謹慎処分を受けることになった。教頭が処分を告げる時も、斜めに腰掛け目も
下を向いたまま。教頭は些細な処分事実よりも、その態度が気に入らなかったらしく執拗に咎めた。K君は身じろぎもしないで、床を見つめ続けた。教頭の怒りは、親に向かった。この様子では、担任にも攻撃が回るかと思ったところでチャイムが鳴った。
 僕は、『流行性感冒』を再読して、石の態度がK君にうり二つであると気づいた。石が暇を解かれて女中を続けることになっても、彼女は決して主人公に詫びない。嫁入りのために、主人公一家と上野駅で別れるときも、まるで怒ってでもいるかのように後ろを向いたまま去って行く。
 もしあの教頭が
『流行性感冒』の主人公なら、石が詫びようとしないことを執拗に難じたに違いない。後ろを向いたまま別れの一言も発しない石に向かって、「挨拶をしなさい、こちらを向きなさい」と怒鳴っただろう。
 石の心が、幼い左枝子と別離する悲しみに押し潰され、どう振る舞えばいいのか何と言えばいいのかにさえ思いが至らない。気取りのない剥き出しの感情を、石は必死で表そうとすればするほど戸惑う。
 出来合いでそつのない挨拶や仕草をたたき込まれた教師には、石のむき出しの感性は、粗野で矯正すべき人間としか映らない。
 

 厳粛であるべき処分言い渡しの場でのK君の振る舞いは、教頭としての自尊心を打ち砕いてしまった。取るに足りない逸脱そのものより、自分の権威をハナにもかけない態度の方が許せなかったのだ。しかしその程度の薄っぺらな人間観の男がhead teacherで、更に校長になりたがっているのだから困る。生徒との対話に心を砕くのではなく、管理職試験の答案練習に励むのである。生徒による校長と教頭の直接選挙は、こうした管理職を一掃するに有効だ。

 K君を僕は謹慎中に訪ねた。「謹慎」にあたるものを英語ではsuspensionといい、登校停止である。ここには授業こそが学生・生徒の権利であるとの理解がある。権利をsuspensionすることが罰となり、個人の私生活には踏み込まない。しかし日本では授業は身分的な恩恵であり、謹慎は恩恵を思い知らせるために「家に閉じ籠め、品行を慎ませる」ことである。個人の内面にまでズカズカ入り込む 。謹慎は、権力的罰である。罰は指導ではない、指導は権威の機能であり生徒にとっては権利なのだ。それを理解しない日本の教師の好きなおかしな言い回し「指導の一環としての処分」は、自家撞着であることに気付きさえしない。

 僕はK君が父親を手伝いながら、ぼそぼそと話し合う光景を期待していた。向かい合って話すのが苦手な少年にとっては、協働はうってつけである。互いに向き合えないとき、共通の対象に向かって働きかけることで互いの心が同調する機会を期待できる。
  K君は二階で、しょんぼりしていたが僕が帰る頃には
 「おれ、八百屋になるよ。売るのは野菜だけどさ、店にジャズを流して内装も工夫したいんだ」と少し笑顔が見えた。僕は何を彼に話しただろうか。思い出せない。おしまいに
 「お父さんとお母さんに、教頭の失礼を謝っておいてくれないか。ここに上がる時には、店には客が立て込んでいて言えなかったんだ」と言い残して、買い物客で賑わう夕暮れの通りに出た。

 ある日の授業で、K君が突然机を乱暴に蹴飛ばして「ちきしょー」と呟いた。ベトナムや中国で、日本軍が何をしたのかをやや詳しく実話を読んでいる最中だった。みんな驚いて静まった。
 「だって酷いじゃないか、おれ日本軍が許せない。仇をとってやりたい」と続けて机を睨んでいた。。
 僕が下町の工高で教えているとき、こうした剥き出しの反応が同時に何人も、時には集団的に、度々あったことを話した。多摩の生徒たちは、「スゲー」と笑った。


 active learningや国際化が流行って久しい。僕はそんな言葉で新しがるより、民族を超えて「仇をとつてやりたい」と机を蹴飛ばす生徒が続出する授業を望む。

追記 冒頭の写真は、上海南駅への日本軍による爆撃跡で泣く赤子を中国人写真家が撮ったもの。「LIFE」誌が掲載、「読者の選んだ1937年ニュースベスト10」に選ばれている。
  

怒れ!高校生! 模擬投票ごっこは君たちに何をもたらしたのか

政治的権利は大人だけのものではない
 若者の笑いが変わってきている。レストランでも電車の中でも無遠慮に高笑いをする。周りの迷惑など素知らぬ風に、会話の内容にかかわらず笑ってみせるのだ。どんなに下らない無内容なことでも一律に高笑いをする。高笑いで座を盛り上げているつもりだろうが、仲間の顰蹙さえ買うこともあって、咎められ一時静まるのだがしばらくすると、無神経な高笑いが始まる。あちこちで不快な高笑いを耳にするようになり、若いサラリーマンが出入りする店は近寄りたくない。
 TVのバラエティ番組は、笑いの内容や質ではく「形式」を変えて、不快な高笑いを煽っている。 
 バラエティ番組では、無闇に大勢のお笑いタレントが雛壇に並んでいる。低質な番組をコメントで盛り上げる役割を担わされているが、タレント自身にtalentが無いから雛壇に並ぶ数は膨れ上がる一方。気の利いた知的コメントは出来ないから、目立つために言葉以外で優位を保とうとする。椅子から落ちたり、パワハラめいた内輪ネタを叫んだりする。その一つが、場を制する馬鹿笑いである。内容や質によって笑いをとるのでは無く、高笑いという形式で番組を制しているのだ。TVそのものが、質の高い対話や笑いを提供する力や見識を失い、その代わりに笑いの形式を変えてしまったのである。高笑い以外に芸が無いから、レストランでも対話のない高笑いが続く。
 ディレクターは政権に忖度する広告代理店に首を掴まれ出来るのは視聴率を高めるという絶望だけなのだ。怒れ高校生!笑い方までTVに指図されるな。笑いの中身を君たちが作れ。君たちを支配するものを笑いのめせ。
 
 朝日新聞大阪版に、元特攻志願兵の投書があった。引用する。
 特攻志願「お前たち馬鹿だ」無職 加藤敦美(京都府 88)
 世論調査では、18~29歳の自民党支持や改憲への賛成が他世代に比べて異様に多い。兵隊にされ、戦場に送られる世代ほど、そうしようとしている勢力を支持している。寒気がする。
 私自身、16歳で特攻死しか待っていない予科練(海軍飛行予科練習生)だったからだ。死ぬための志願。あれは何だったのかと今も思う。冬の夜、山口県の三田尻駅(現・防府駅)に入隊の旅を終えて、灯火管制の真っ暗闇の中、不安と緊張に凍え、皆が黙りこくって待った。突然、若々しく朗らかな声がした。「海軍なんか志願して、お前たち、馬鹿だなあ」。迎えにきた海軍の下士官だったのだ。
 街という街は廃墟となり、次々と人は殺され、少年兵は゛恨み死に″した。戦場帰りの下士官は知っていたのだ。「お前たち、馬鹿だ」 馬鹿だった。無心にあどけない幼子まで、母の胸に抱かれて焼死体になった。誰が幼子を殺したのか。私たちが死ぬのは自分の勝手だ。だが小さい子たちまで道連れにする。わかっている。だから憤怒する。わざわざ自分を兵隊にする改憲をしたがるお前たち、馬鹿だなあ…。18~29歳。自分が何をしているか、わかっているのか。

   ヌーの大群は、まるで集団自殺するかのように、先行する仲間がワニに襲われ次々に絶命しても川に飛び込む。 若者は己の絶滅を目差す政策を支持してしまう。何故だ。ヌーの群れも日本の若者たちも、独立した判断能力を集団に投げ出しているからである。

 18歳選挙権が、若者の政治行動と高校教師の学問・教育の自由を圧迫・恫喝しながら唐突に導入され、現場は妙な雰囲気に包まれながら色めき立った。自分の模擬投票授業光景をマスコミに売り込んだり、自治体から本物の投票箱を借りたり、自ら投票結果を官庁に報告に出向くなど浮ついた行動が目立った。実態はお寒いもので、政権や保守系の議員らに忖度して投票の判断材料は、選挙公報の類いのみ。形式ばかりが整えられ、投票行為を通して政治の実態に肉薄するという中身は忘れられるのは、バラエティ番組と変わらない、番組編成の実権は最早現場にはないのだ。
 馬鹿にしているではないか、もし株や投資の模擬売買授業をやるのに、会社のパンフレットと証券会社の案内だけが配られるとしたら、どんな判断が出来るのだ。証券会社のカモを育てるばかりだ。選挙公報は「公」報とは言うものの、候補者のどんなはったりもそのまま掲載され、事後の検証は日本では問題にすらなっていない。そんな怪しげなものだけで、模擬投票が行われる。嘘を言い法螺を吹く政党が有利なわけだ。
 高校や大学のクラブ活動に「選挙公報・検証委員会」を作らねばならない。文化祭に相応しい展示になることは間違いない。これこそ、主権者を育てる政治教育である。だから議員たちは、襲いかかるように潰しにかかるだろう。

 校長や生活指導部長の信任投票、担任に対する拒否権の行使など、高校生を政治的主体に育て上げる種はいくらでも転がっている。そこに目を向けさせないのは、取りも直さず教員に政治的経験も決意も欠落しているからに他ならない。
 模擬投票ごっこは、政治参加の入り口をたった一カ所に限定し形式だけを整えて見せた。お行儀のいい高校生をつくって。君たちは知っているか、真っ先に首を切られたり、無過労死させられるのは、おとなしく従順な人だということを。

 若者が自らの権利のために立ち上がる手段は、ひとつではない。政治的行動は「清き一票」だけではない。闘うべき対象が持つ力は、多様かつ巨大である。新聞やテレビ放送網を持ち世論操作はお手の物、大量の株を保有することは、会社を支配するだけではなく株価を通して世界を牛耳り戦争を勃発させる力さえ持つ。財閥と学閥と閨閥は互いに結び合いあらゆる関係に入り込んで、我々を精神的に支配している。宗教やスポーツ・芸能も例外ではない。選挙で成立した政権を、税金で調達した武力を用いて転覆して関係者を大量虐殺することも珍しくない。
 それらの不条理に抵抗するのに、数年に一度の「一票」は重要だが余りにひ弱で、無知で闘いの矛先を攪乱させられてしまう。そのために、新聞社も株も家系も持たぬ者たちに「清き一票」以外の闘いの手段が蓄えられて来たのだ。結社やサボタージュやストライキを正当な権利として認めさせるためには、多くの血と汗が流されたことを方がいい。デモや集会に参加することが、文字通り命がけであった時代もある。文学や演劇の表現が逮捕・拷問の口実にもなった。18歳になって初めて君たちの政治的権利が生じるわけではない。高一の少年にも小学生にも、政治的要求を掲げて行動する自由は元々ある。60年安保の時は、小学生のデモもあった。その事実を大仰な模擬投票で誤魔化されちゃいない。18歳選挙権は、始まりではない。単に投票への参加に過ぎない。
 クラブ顧問の横暴や、生活指導部の理不尽な頭髪検査に意義を唱えて交渉することも、立派な政治行為だ。昼休みの外出を禁じるのなら食堂を設置しろというのは、温和しい控えめな要求だ。
 教師は「模擬投票ごっこ」騒ぎの総括をする必要がある。

人はひとを評価出来ない ① 教科「道徳」を嗤う/ 志賀直哉の慧眼

スペイン風邪は日本でも猛威を振るい48万人が死んだ
 志賀直哉に「流行感冒」という短編がある、1919年の作。流行感冒とは、世界的に流行したスペイン風邪をさす。世界で5億人が感染、死者5,000万から1億人を出した。日本での死者は最新の研究では48万人、当時の日本人口の1%が死んでいる。今で言えば、100万人の死者である。
 

 主人公には妻と幼い女の子があり、女中が二人いる。晩秋の我孫子が舞台で流行性の感冒が近づく。主人公夫婦は娘の健康に臆病なほど気を遣って、二人の女中にも人混みに近づかぬよう厳しく言いつけていた。ところが、女中の石が町にやってきた芝居を見に行ってしまう。問い詰めても嘘を言い張り、もう一人の女中きみにも嘘をつかせる。腹を立てた主人公は、石に暇を出すことにする。しかし妻は、自分たちも後悔することになると反対して、石は奉公を続けるのだが依然として嘘を認めない。そうこうしているうちに、スペイン風邪が流行り出す。主人公も妻も感染して、看護婦を二人雇う。その看護婦の一人もきみも感染して、幼い娘の左枝子まで感染してしまう。

 「今度は東京からの看護婦にうつった。今なら帰れるからとかなり熱のあるのを押して帰って行った。仕舞に左枝子にも伝染って了って、健康なのは前にそれを済ましていた看護婦と石とだけになった。そしてこの二人は驚く程によく働いてくれた。
 末だ左枝子に伝染すまいとしている時、左枝子は毎時の習慣で乳房を含まずにはどうしても寝つかれなかった。石がおぶって漸く寝つかせたと思うと直ぐ又眼を覚んて暴れ出す。石は仕方なく、又おぶる。西洋間といっている部屋を左枝子の部屋にして置いて、私は眼が覚めると時々その部屋を覗きに行った。二枚の半纏でおぶった石がいつも坐ったまま眼をつぶって体を揺っている。人手が足りなくなって昼間も普段の倍以上働かねばならぬのに夜はその疲れ切った体でこうして横にもならずにいる。私は心から石にいい感情を持った。私は今まで露骨に邪慳にしていた事を気の毒でならなくなった。全体あれ程に喧しくいって置きながら、自身輸入して皆に伝染し、暇を出すとさえ云われた石だけが家の者では無事で皆の世話をしている。石にとってはこれは痛快でもいい事だ。私は痛快がられても、皮肉をいわれても仕方がなかった。ところが石はそんな気持は気振りにも見せなかった。只一生懸命に働いた。普段は余りよく働く性とは云えない方だが、その時はよく続くと思う程に働いた。その気特は明瞭とは云えないが、想うに、前に失策をしている、その取り返しをつけよう、そう云う気持からではないらしかった。もっと直接な気持かららしかった。私には総てが善意に解せられるのであった。私達が困っている、だから石は出来るだけ働いたのだ。それに過ぎないと云う風に解れた。長いこと楽しみにしていた芝居がある、どうしてもそれが見たい嘘をついて出掛けた、その嘘が段々仕舞には念入りになって来たが、嘘をつく初めの単純な気持は、困っているから出来るだけ働こうと云う気持と石ではそう別々な所から出たものではない気がした。
 私達のは幸に簡単に済んだが肺炎になったきみは中々帰って来られなかった。そして病人の中にいて、遂にかからずに了った石はそれからもかなり忙しく働かねばならなかった。私の石に対する感情は変って了った。少し現金過ぎると自分でも気が咎める位だった。
 一カ月程してきみが帰って来た。暫くすると、それまで非常によく働いていた石は段々元の杢阿弥になって来た。然し私達の石に対する感情は悪くはならなかった。間抜けをした時はよく叱りもした。が、じりじりと不機嫌な顔で困らすような事はしなくなった。大概の場合叱って三分あとこは平常通りに物が言えた


 石に縁談があって、実家に戻る。このとき主人公は四谷に引っ越していた。

 「いよいよ石の帰る日が来たので、先に荷を車夫に届けさして置いて、丁度天気のいい日だったので、私は妻と左枝子を連れて一緒に上野へ出かけた。停車場で車夫から受け取った荷を一時預けにして置いて、皆で動物園にいった。そして二時何分かに又帰って改札口で石を送ってやった。
 私達には永い間一緒に暮した者と別れる或気持が起っていた。少し涙ぐんでいた石にもそれはあったに違いない。然しその表れ方が私達とは全く反対だった。石は甚く不愛想になって了った。妻が何かいうのに禄々返事もしなかった。別れの挨拶一つ云わない。そして別れて、プラットフォームを行く石は一度も此方を振り向こうとはしなかった。よく私達が左枝子を連れて出掛ける時、門口に立っていつまでも見送っている石が、こうして永く別れる時に左枝子が何か云うのに振り向きもしないのは石らしい反って自然な別れの気持を表していた


 この無愛想でかたくなな石の一途な心情を、なんと言うべきだろうか。傾慕と言う単語が浮かんで、僕は唐突に「坊ちゃん」の下女 清 を思った。夏目漱石は「坊ちゃん」で清を随分書いているが、坊ちゃんが幼児の頃のことは書いていない。清のモデルは漱石の友人の祖母である。だから墓は養源寺実在するが「清」のでは無い。
 志賀直哉はかたくなで一途な下女の心情を、漱石に増して書き込んでいる。

 
 「然し私達の石に対する感情は悪くはならなかった。間抜けをした時はよく叱りもした。が、じりじりと不機嫌な顔で困らすような事はしなくなった。大概の場合叱って三分あとこは平常通りに物が言えた」の件もいい。主人公の人間が出来てきたのである。
 人に「己をもって人を律す」類いの説教を垂れるたがる人間にこの箇所は読ませたい。特に学校の教師、分けても校長や教頭に。「背負うた子に教えられ」とはよく言うが、「叱る相手に教えられ」ことには及びもつかない。大抵気分が激しているからである。
 

 「私は・・・眼が覚めると時々その部屋を覗きに行った。二枚の半纏でおぶった石がいつも坐ったまま眼をつぶって体を揺っている。人手が足りなくなって昼間も普段の倍以上働かねばならぬのに夜はその疲れ切った体でこうして横にもならずにいる。私は心から石にいい感情を持った。私は今まで露骨に邪慳にしていた事を気の毒でならなくなった。・・・石だけが家の者では無事で皆の世話をしている。・・・私には総てが善意に解せられるのであった

 もの言わぬ石の左枝子への傾慕が、主人公の人格を静かに淘汰している。無言のうちに
「己をもって人を律す」ことの危うさを主人公に教えたのだ。
 文部行政の「売り」教科「道徳」のせっかちで浅薄な人間観の中では、石を咎め反省させる以外の結末は無い。皆が不満たらたらで不幸になる。何も学べない、従って誰一人成長しない。そのどこに教育があるか。  続く

人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ、保護することは、すべての国家権力の義務である

  
人間の尊厳は不可侵と宣言し、それをを守る覚悟
ベトナム戦争中、米国は同盟国ドイツにも参戦を執拗に要請した。だがドイツ政府が出した答えは、病院船派遣。ドイツは兵隊ではなく、病院船ヘルゴラント号をベトナムに送った。ヘルゴラント(Helgoland)号は、遊覧船だったが、病院船に改造されベトナムに向かう。ジュネーブ条約(武力紛争に際し、戦闘行為に参加しない民間人や、戦闘行為が捕虜、傷病者などの保護を目的としてつくられた条約。ジュネーブ条約がつくられたのは、武力紛争の最中であっても、人道をふみはずす行為は許されないという世論があってのこと)を遵守した。
 ドイツは米国の民族皆殺し政策に加担せず、南北ベトナム双方の民間人を治療した。ベトナム人からは、「白い希望の船」と呼ばれ歓迎された。昼は港に入って患者の手当てをし、夜はより安全な沖で待機。ドイツの医師や看護師たちは、来る日も来る日も手足の切断手術や、米軍のナパーム弾で体全体にやけどを負った人々の治療に励んだ。沖縄の米軍基地を爆撃に使わせるのを断って、日本が病院船を派遣すべきだった。沖縄とベトナムなら補給や重傷者の移送も迅速に行われたはずだ。憲法九条を持つ国にそれが出来なくて、ドイツには可能だったのか。
 
    ドイツ憲法第1条
   人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ、保護することは、すべての国家権力の義務である。

    日本国憲法第十三条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

  「人間の尊厳」とは、その存在の尊さ言う。存在の無条件の承認である。何かが出来るから、名門に合格したから尊いのでは無い。大会を勝ち抜いてメダルを囓る姿が素晴らしいのでは無い。生きている事実そのものが尊い。
 そんなことは言われずとも分かっている筈なのに、我が子や我が校が一歩でも抜きん出ることを目指してしまう。  


 「だのに何故、歯をくいしばり、君はゆくのか、そんなにしてまで・・・」。映画「若者たち」の主題歌は、そう歌っていた。貧しい兄弟たちは、助け合い罵り合いながら、平等と正義を求めて苦闘した。しかし、食うや食わずからの貧しさからほんの少し抜け出して見れば、助け合いや平等への熱情は冷めるばかり。競争とは無縁の高校生のクラブ活動分野にまで、無理矢理競争が持ち込まれている。連帯と友情の影はきれいさっぱり消えている。

 映画「若者たち」に、気に入りの場面がある。兄弟唯一の大学生サブが、破綻せんばかりの悩みに打ち萎れる友達に、工面したなけなしの金を貸し、笑いかけながらこう言うのだ。「いっちょう揉んでやるか」、そして、二人して
大学の森を駆け抜けてグラウンドに向かう。サブはラグビー好きだったが、学費のためのアルバイトと学生運動で、クラブに属する贅沢は出来ない。しかしどこからかボールを調達して来て、芝を駆け回る。スポーツは、こんな働く青年たちのものである。たまの偶然に出来た僅かの時間に楽しめる、そんな開放的仕組みがあっての「人間の尊厳」だろう。
 
 資金と時間を持つ者だけが特権的にグラウンドを占領し、当局の補助とマスメディアの称賛をあてにメダルを目指す。貧しい者たちは、見るだけ、憧れるだけ。ここに個人の尊厳は無い。メダルを稼ぐ奴隷と、賃金奴隷だけだ。

 尊厳が組織や集団のものとなれば、個人は組織に属することを誇るようになる。組織が尊厳の単位になれば、外部を排除する意識は生まれやすい。それが民族単位になれば、排外主義となる。
 
 日本国憲法では、権利の対象をわざと「国民」に限定している。戦中は強制同化して「日本人」
としての死を強要した諸民族を、都合よく「尊厳」ある人間から排除して恥じない。日本を見苦しくアジアから隔離する意識が、13 条にはある。
 戦犯としてのけじめもつけぬ「天皇」を、
憲法本文の冒頭に置いたのでは、「人間の尊厳は不可侵」を掲げた憲法とは言い切れまい。だから日本国憲法第十三条は歯切れが悪い。
 第一条と第十三条とでは、覚悟が違うのだ。「公共の福祉に反しない限り」を挿入して、権利そのものの範囲を恣意的に限定することも可能にしてしまったのである。
 ドイツ憲法第1条と日本国憲法第十三条は似てはいる。しかし状況によって逆方向を向いてしまう。
 
 例えば、我々は公立学校の選別体制が、「人間の尊厳」に関わる桎梏と捉え闘ってきただろうか。それを憲法を守ることとして覚悟してきたか。
 制服や持ち物から個人情報が即座に読み取られてしまうのだ。創立100周年偏差値72 のA高校という情報を体の表面に貼り付けた少年と、定員割れで閉校寸前の偏差値38のZ高校という袋を被せられた少年の、3年または6年、場合によっては死ぬまでの生涯が、どんな格差を孕んでいるか分からない奴らにひとを指導する資格はない。高校生にとっては、偏差値が僅か「1」違うことが蔑視や劣等感の根拠となって、映画「若者たち」的青春を遠いものとしているのだ。その悔しさ悲しみを想像出来ないか。

 すべての青少年が「尊厳」ある存在であるためには、選別は許されない。生徒の尊厳を守るために選別体制廃止を主張し闘う覚悟を、日本の教師や学生は持ったことがあるだろうか。生徒には、学校や教師の尊厳を強要して「起立・礼」を強制したでは無いか。
東大闘争は、選別体制に一瞬でも立ち向かったか。尊厳を我々は分かっていない。
 「公共の福祉」を盾に一人一人の尊厳を押しつぶす行政の理不尽を、若者の意識に初めて植え付けるのは学校なんだ。

 人としての尊厳は不可侵であることを前提として、public =「公」の概念は形成される。そこに「公共の福祉に反しない限り」を被せれば、公=「おおやけ」は集団を覆う何重もの大きな屋根としての「大家」に過ぎなくなる。だから世界のどこでも許されていない米軍の理不尽や無法が、広義の「公共の福祉」としてまかり通るのである。(未完)

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...