何も選べない「主権者」/ 「彼ら」は投票に行かない

小学校給食でさえ、いろいろに選べる国は少なくない
 「彼ら」は投票に行かない。低い投票率で笑うのは、政権を握っている輩である。何の意思も示さないのは現状満足していると嘯ける。選挙とは「選び、挙げる」行為である。「彼ら」は一体何を選べただろうか。
 大正時代、小学生が「先生を返せ、担任を変えろ」と郡役所にデモをかけたことがある(官憲による思想弾圧で追放された担任を取り戻すべく子どもたちは田舎道を延々と歩いた)。児童会のない時代こそ子どもは、自覚的であったのではないか。路地が保育園代わりで放課後の遊び場だった頃、「~してはいけません」という丁寧な「指導」はあろう筈もなく、子どもたちが話し合い調整せねばならなかった。大人は生活に忙しかったからだ。
 児童会や生徒会がある今、子どもは何を選び調整できるのか。生徒会選挙で「入試を廃止運動をやろう」や「体罰を止めさせよう」や「給食が不味い」が掲げられた験しがあるか。いつも「頑張ります」「もっと頑張ります」「いつも頑張ります」などとしか言えない。そんな候補の何を選べるのだ。

 選択肢を示さずに当選した生徒会役員は、公約通り頑張るしかない。それはどう足掻いても現状維持かその拡大・強化に他ならない。
せいぜい今週の目標作りに張り切って「掃除コンテスト」をやる。遅刻絶滅キャンペーンをたすき掛けで呼びかける。「頑張りメダル」を画用紙とクレヨンで作り配るのが関の山だ。僅かな予算の文化際も、ポスターの大きさや数と掲示場所の制限と取り締まりに奔走し、会計の手続きや書式が役所並に細かくなるのも、生徒会行事の開会式が大げさになり挨拶が長くなるのも「頑張る」以外にすることがないからだ。「偏差値教育を止めろ」とか「入試廃止運動を始めよう」などとは想像すらしない。

 給食もお仕着せで、好みや体調に合わせて選択・調整出来ない。服装さえ選べない。冬服から夏服へ変えるのも日付に従う。子どもに必要な物を、最もよい方法で提供するのが大人の仕事との言い方が好まれる。騙されてはならない、それはパターナリズム、体罰とパワハラとDVの温床である。


 学校選択の自由があるのは、最も偏差値の高い者だけ。下に行くほど自由度はなくなる。一番低ければ選択の余地はない。しかし実際は成績が良くても選択はしない。偏差値が僅かに低いだけで魅力的な学校があったとしても、僅か「1」の差が勿体なくて偏差値通りに進学してしまう。適性や好みの入る余地は殆どない。むしろ偏差値に合わせた適性に自らはまりこむ。
 
 「彼ら」は就職でも選択の余地はない。時給の低い不安定労働を割り当てられる。

 食事や宿泊さえ殆ど選べない、金がないからだ。定食を頼んでも、スープや主菜やデザートや飲み物をいちいち選ぶ必要がある。弁当屋でも沢山の惣菜の中から好みのものを選ぶ、主食の種類や量も。日本では店が予め組み合わせたものの中から見つけるしかない。hotelや旅館に泊まっても、二食付きが原則で素泊まりは嫌われる。選択調整の余地は狭い。むしろ選択出来ない完璧さが親切とさえ考えている。

 結婚さえ、自由な恋愛によるものは絶無に近い。家柄や収入・学歴・容姿を組み合わせ、疑似偏差値化して幻の「最適」を期待する。

 宗教も選ぶことからは隔絶している。布施も出来ない弱者者を歓迎する宗教はないからだ、弱者を庇護する活動を見せて富める者からの寄進を募ることはあっても。
 政党も自由に選べない、近付くのも避ける。せっかく得た仕事や仲間を失う危険性を臆病に懸念する。

 日常の絶えざる選択の経験が、個人の決意を形成する。子ども時分から大人になるまで、何も選べない境遇にあった者が、与えられたお仕着せに流され続けた者が、現状維持以外の選択に踏み切るだろうか。そんなに簡単なことなら「主権者」教育は要らない。

 入学や就職面接でも要求などせず、面接「官」の顔色を窺いながらただ「迷惑をかけずに頑張ります」と言う。それ以外にどんな手があるのだ。雇い主から「この人をよろしく頼むよ」と紹介された候補に票を入れることが、仕事を守ることになると考えるのを愚かと言えるだろうか。

 小さくとも「現実」を変える経験を、子どもの頃から積み重ねる必要がある。小さいが「模擬」ではない現実を変えて初めて「主権者」としての自覚は生まれる。大正の子どもに出来たことが、「主権者」と位置づけられた時代の子どもに出来ない筈はない。1972年の内申書裁判は大きな問題提起をした。その経験が、学ぶ機会を剥奪された若者を闘う国会議員・自治体首長にした。


 「分からない」授業を続ける教師の試験をボイコットする、抗議書を代表を立てて読み上げる。制服を強制する修学旅行には参加しないと結束、学年で授業を放棄して座り込む。体罰教師を友達と何処までも追い詰める。文化際の準備で泊まり込みを認めろと、教頭を吊し上げる。これらを快挙と賞賛する神経を教師は持ちたい。・・・(これはみな、僕が受け持った生徒たちが自ら行動してみせたことだ。いずれも平凡な謂わば「中間層」の生徒たちの行動であった。そこが大事なことだと僕は考えている。各種の大会で勝ち進みメダルをもたらすより、幾層倍も価値がある)
 こんな行動には、憲法上の根拠があることを社会科教師は伝える義務がある。

 憲法は上から目線で諭すようにするものではない。生活と権利を守るために、ともに使いともに学ぶものである。ブルデューがネクタイを捨てて闘争の現場に出かけ、例えば無人ビルの占拠をつつける人々に「あなた方の行為には根拠がある」と励まし続けたように。
  その経験が積み重ねられて、投票に決意を以て臨む人々が増える。
 
時間がかかるだろう。なぜなら、日本では国家自体が、「主権」を知らず国民のための政策を自ら選択調整出来ないからである。例えば金利政策をこの国は、もう長く自主判断してない。それ故銀行は金利さえ任意には決められず、国情に相応しい事業を展開出来ない。だから、スルガ銀行のようにヤクザ並みの事業に活路を見出すしかなくなる。膨大な被害者を生み出す仕組みを「新しい事業モデル」と強弁してきた。日銀までが国民の資産に手を付けて株価操作に狂奔する。あらゆる判断・選択を封じられた少年たちの一部は僅かな隙間に「希望」を見て、暴走やヘイト言説を繰り返すのだ。議員中にさえその種の言動をして、マスコミに売り込む。自主的な外交政策を展開出来ないから、金をばらまき、武器を蓄え周囲の国々をあしざまに罵る。こうした愚策には大戦で懲りて痛切に学ばなければならなかった。
 あるとき、クラスの生徒がやって来て面白いことを言った。一人は「高校に入ったらぐれちゃおうと思った」←クリック    もう一人は「突っ張るのって疲れるのよ」←クリック と。
 
 自由な主張や個性と自分らしい判断や選択を封じられた若者がどのように感じ行動するのかを、二人は見事に語っている。

何の特技も資格もない者の幸福、それを現憲法は保証している

栄誉の拒否から疎外の克服は始まる
 「今の世の中、特別な資格や特技がない者は、ひたすら長時間労働するしかないんだ」。ある零細企業元経営者の言葉だ。 
 

 長時間労働して死ぬ、そうなってからでは遅い・・・だから、何かに打ち込め。そして特技、学歴、資格、成果・・・を積めと親と教員が青少年を叱咤する。おかげで「特技がない」者は一時的に減る。その分、特技のない者は一層焦る。しかし誰も彼らをその「打ち込める何か、学歴、・・・」故に雇うことを約束も実行もしない。「その方が良いかもしれない」程度に過ぎないのだ。
 藁にもすがる思いで定員割れの大学や専門学校に籍を置けば、学費稼ぎのアルバイトと就職目当ての部活に追われる。それでどうして特技が身につくのか。「特技がない」者は本当に減ったのか、そんなことがあろう筈がない。ただ「特技がない」者のレベルが切り上げられたにすぎない。かつては高卒で十分だった。今や博士課程を終えても相応しい職はない。ちょっと前までは、体操競技の最高難易度は「C」であった。それがウルトラ「C」によって乗り越えられたのが1964年のことで、世間は沸いた。しかし今はそれを軽く越えて「D」でもなく「E」でもなく「スーパーE」でなければ注目されない。ウルトラ「C」が出来たと褒められ煽てられ、それだけに専心して体も心も壊したときには、他の分野に応用が利かなくなる。
 不安に駆られて、中学生でも季節外れには海外遠征して大枚をはたく。それでも不安は募る、同類が余りにも多いからだ。大学を出て更に専門学校に入ってみる、留学する。就活塾に入る。結局はそうして、アドバイザーと用品メーカーを喜ばせ、底辺大学や専門学校の経営を下支えし、不安定収入を悲しむ教員に仮の安らぎを与えるのが関の山。これは蟻地獄でしかない。青少年は蟻ではない。
 大学教師や高校教師そして親のすべきことは、何の特技も無い凡々たる人間が豊に働き生きる社会の実現に向けて、果敢に政府・産業界と渡り合うことである。誰もが特技もなく平凡なまま活躍することを強いられず豊かな生活を享受する社会を、現憲法は約束している。だから教師と親は闘わねばならない。その実現の後に、スポーツや芸術や学問を楽しむのでなければならない。それが学ぶ「権利」である。オリンピック・パラリンピック騒ぎはこれに逆行している。

 冒頭の言葉の元経営者は、実は特技のない人ではない、プレスの優れた技術を持つ職人でもあった。日本の高度成長を担った立役者の一人である。我々が目指すべきは、特殊技能・資格・経歴競争に若者をを追い込み疲弊させることではない筈だ。 やらねばならぬのは、平々凡々たる市民の厳粛な価値を、政財界に認めさせる事である。若い同胞、弱い仲間の困難をともに引き受け闘うという意味での集団性を我々は持てないのだろうか。いつだって、我先に抜け駆けで問題に対処しようとはかる。醜い、美しくない。学問も芸術もスポーツも人と人の連帯=協働によつて生まれるものであって、抜け駆けして実を結ぶものではない。

 この国には、生きた「象徴」がいる。かつては「生きた神」として振る舞っていた。しかし考えてみれば彼らには何ら特技はないのだ。「生きた神」として戦争の先頭に立って神風を吹かせたりはしなかった。弾よけにもならなかった。だから象徴一族に戦死者はいない。「象徴」の身内に凡人のレベルを超える者は一人としていない。象徴一族が特技のない凡人なら、その実体である国民は、極めつけの凡人であって威張れる筈だ。この一族は神でないことがバレても平然としていられる凡人に過ぎない。しかし特権だけは凄まじく保有し続けている。特権の廃止は民主主義の前提である。その「象徴」が退職した。都議会が彼に感謝する決議をした。象徴を大事にするのなら、その実体である国民に対しては幾層倍も感謝すべきではないか。文化的最低限度の生活を皇族並みに切り上げるのが、公僕の議会の使命だ。
 僕は付近の都営霊園を駆け抜ける度、暗澹たる思いに駆られる。真ん中の木々の茂った静かな一角は、小さな家ほどの大きな墓が並ぶ。街道沿いの喧噪で木々のない狭いあたりは、座布団の広さにも満たない小さな墓が犇めいている。死後の永遠に格差は持ち越されるのだ。何故「象徴」が陵と呼ばれる広大な墓を持ち、実体の国民は粗末な片隅に追いやられるのか。どの宗教も如何なる政党もこの醜聞に向き合おうとしない。


  「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界の価値増大とぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。(・・・)さらにこの事実は、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、ひとつの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものにほかならない。国民経済的状態(資本主義)の中では、労働のこの実現が労働者の現実性剥奪として現われ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として、(対象の)獲得が疎外として、外化として現われる。(・・・)すなわち、労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる、ということである。(・・・)彼がより多くの価値を創造すればするほど、それだけ彼はますます無価値なもの、ますますつまらぬものとなる。(・・・)彼の対象がよりいっそう文明的になればなるほど、それだけ労働者は野蛮となる。労働が強力になればなるほど、それだけ労働者はますます無力となる」         『経済学・哲学草稿』(岩波文庫 P.86-90)

  若者が学力や学歴を上昇させ、大会優勝のメダルを量産するほど彼ら自身は「それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます彼はより安価な商品となる
 学歴やメダルを期待され、それを約束して地位を得ることは、自由な人間であることを放棄して「商品」になったことを意味するのである。)「彼がより多くの価値を創造すればするほど、それだけ彼はますます無価値なもの、ますますつまらぬものとなる」。・・・

 「彼の対象がよりいっそう文明的になればなるほど、それだけ労働者は野蛮となる。労働が強力になればなるほど、それだけ労働者はますます無力となる
  コンビニ本部の労働者がコンビニの機能を文明化すればするほど、本部の労働者はコンビニ加盟店経営者に対して野蛮になり過労死に涙を流そうともしない。扱う商品が増えそれをこなせばこなすだけ働く者は無力になる。
 その予行演習を学校や教室が、行事や授業でやって見せて教委の歓心を買う程の堕落はない。

  僕の妻は中学生の頃オリンピック強化選手の末席に選ばれていたから、「金色」や「銀色」のメダルを沢山もっていた。(大会の度に痩せる程の緊張をして、好きなことも諦めた。彼女はそれを「自分に克つ」ことだと思っていた。そうやって量産したメダルの山であった)。ある時にふと気が付いて、親戚の子どもや友達の子どもが来る度にあげてしまって今は一つもない。それで何の不都合もない。メダルがあったところには、彼女の描いた絵がかけてある。
  子どもたちがお土産に喜んで持ち帰ったメダルは、いつの間にかゴミになって捨てられたかも知れない、それでいいのだ。メダルは、彼女を隷属させた組織と思想への屈服を表すものでしかない。こうして「勝利至上主義」という疎外を乗り越えたのだ。
 彼女がスポーツを通して獲得した健康な体と弱者に対する優しい心は、何時までも彼女とともにある。

  「労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる、ということである

聖職意識と奴隷根性

全生分教室の青山先生は聖職意識から自由であった

 ハンセン病をペスト並の恐ろしい病気と吹聴した光田健輔と渋沢栄一によって、ハンセン病者の絶滅隔離が施行された。同時に、国家は子どもたちを教育する責務を放擲してしまった。敗戦後、ハンセン病の子どもたちの修学免除は解除されたが、子どもたちの教育は困難を極めた。その一つが、ハンセン病療養所内学校教師への差別であった。日本の差別はどうしてこうも執念深いのか。

E 私、教育委員長から奨められて、・・・承知して来た。ところが一ト月も経たない中に家主から追出しを喰ったのです。・・・ライ療養所の職員はこんなに迄も嫌われているのです。で、・・・村長と教育委員長とで(療養所の)官舎に入れてくれないか、と所長さんの所に交渉に行って戴いたのですが、全部ふさがっていて駄目だ、と断わられました。教育委員長が困って、小学校(本校)の官舎に入れてくれました。
S ・・・PTAから(分校との)兼任を反対されたので、ここの専任になったのです。・・・・矢張り本校では嫌われるような気がしますね。とっても心苦しいのです。こんなに嫌われたこんなに犠牲を払わねばならないのかと考えたりします。本校へ行くと一応気兼ね致します。何か持って行くと、大勢の先生の中には消毒して来てくれ、風呂に入って来たか、と言われる方もありますし。
B 花を持って行ってもいやがりますよ。
   「療養所内学校教師全国会議議事録」『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊

  一般の教員もハンセン病の知識と人権感覚に欠け、「肉が腐って落ちる」と教えるなど偏見と恐怖を煽っていた。療養所内学校教師の孤立感と不安定な身分。この点では派遣教師と子ども・補助教師は苦悩を共有していた。
 であれば派遣教師と補助教師(教委が療養所内教室に赴任させた資格を持つ教師を派遣教師、無資格で教育に従事する患者を補助教師と呼んだ)は、共感し手を携える良き同僚たりえたはずだが、療養所内学校教師全国会議では派遣教師と補助教師のどちらが主体かに議論が流れ、補助教師の存在自体に否定的であった。「何れ、患者教師は消えるべき存在ですな」との発言も肯定的に受け止められている。しかし、補助教師は本質的に重要な役割を果す。
療養所内教育の困難を担った患者教師を、この会議から除外したのは致命的失策であった。その後の療養所内分校の歴史が、それを証明する。

 この不安と孤立から
派遣教師に生じたのが「聖職者意識」であり、それを支えたのが手当であった(ハンセン病療養所関係職員には、本給の他に24%の危険手当がついた)  人の嫌がる危険な仕事に人生を捧げる「聖職」という意識で自らを鼓舞するしかなかったのである。教組や学生組織が支援に動いた気配はない。孤立を強いる刑があった。中世のヨーロッパで、城砦外に追放する。皮肉にも「自由」刑と言った。いかな剛の者でも涙を流して泣いたという。療養所内学校教師の孤立感はそれに近かった。
 過労死と隣り合わせの今の教師たちを支えているのも、「聖職」意識と言っていいのだろうか。給特法による4%の手当がそれを支えているとしたら噴飯ものである。

 仕事に中毒して、自らの命や家族を顧みなくなっても芸術家や探検家や学者なら、賞賛される。一切が仕事の担い手に任せられているからだ。何に如何にして挑戦するか、何時に起きて休むか、一切が本人に任されているからだ。しかし 一体、今教師は何を自由に決められるのか。良心の自由さえ奪われ、会議での採決や発言の機会さえ奪われている。そこで人々を奮起させるものは断じて「聖職意識」と言えるものではない。奴隷根性である。
 賃金奴隷としての絶望がそこにはある。絶望出来るという倒錯した意識。サムライが死刑を宣告されても「死を賜る」などと言う心理である。サムライJapanが声高に叫ばれる所以でもある。

 公立学校の教員に適用される「給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)」は私立校には適用されない。従って労働基準法が適用される。しかし、残業代が出るとは限らない。就業規則で始業・終業時間も定めず、残業代を一切支払わない私立学校は少なくない。
 ある私立学校教員が、学校に対し過去2年分の残業代を請求した(教師が申し立てたのは、(1)日曜日の勤務 (2)宿泊業務中の8時間を超える超過勤務と深夜労働 (3)日々の8時間を超える超過勤務の残業代支払いである)が話しはまとまらず、2018年労働基準監督署に申告した。その結果労働基準監督署は、残業代の未払いが労働基準法37条違反に当たると是正勧告を出しただけでなく、勤務時刻の規定や労働時間の記録や賃金台帳についても、勧告を出した。
 しかし学校側は是正勧告を無視。当該教員は、労働審判(2006年に運用が開始された制度)に持ち込んだ。和解が成立したが学校側は非を認めず、「支払ったのは残業代ではなく解決金」と主張を続けている。

 問題はこの先にある。法律を守るように学校側に求めた教師が、同僚の冷たい視線に曝され組合役員も辞任せざるを得なくなったのである。それだけではない、「自由に」働かせろと要求しているという。「自由に」とは、授業内容や研修に介入するなということではない。残業代を請求するな、労働時間に制限を加えるな、好きなだけ働かせろというのである。管理職の意識を内面化してしまっている。ここに奴隷根性が蔓延る ことの詳細は、「弁護士ドットコム」←クリック  

 「私たち自身も聖職者意識を改めないと働き方は変わらないのではないか」と当該教師は発言している。ここに問題が潜んでいる。今や教師以外は教師を聖職だとは思ってはいない、特に行政は。
 自分の扱われ方を正しく把握できずに、何時までもありもしない「聖職」観念に埋没しながら「聖職者意識を改めないと」と言うことの滑稽さを考えねばならない。

Tuckle to the trends of the times Ⅱ 

自身よりはるかに大きくなった郭公の雛に給餌するヨシキリ
 敗戦後「(ハンセン病療養所)全生園訪問者で予防服を着けなかったのは、米軍将校・軍医ばかりではない。NHK公開放送、コンサート、俳優や文化人、学者の講演、早慶戦の模擬試合なども盛んに行われて、多いときにはオーケストラや裏方を含めると300名余りが大型バスで直接園内の公会堂に乗り入れているが、予防服など着なかったという。さまざまなボランティアや支援者も普段着で出入りした。園長が案内する専門家と医学生と派遣教師二人だけが、予防服という滑稽な光景があった。
 予防法闘争の拠点としての全生園では、大人も子どももデモや抗議活動に向かう入所者を頻繁に見送り、毎夕の園内放送は闘争の有り様を伝えて、闘争そのものを全患協本部と共有していた。
 もはや、虚構と抑圧によって支配を貫徹することは出来ない。 入所者の無菌率も急速に高まって80%に近づき、厚生省の方針は変わり始めるのである。
 島比呂志はこの時期の厚生省の変化を分析、入所者の慢心を戒めている。
 「松丘保養園園長荒川厳氏は次のように述べている。 「昭和三十(1955)年には、らい研究協議会が誕生し、らい療養所の医務課長、事務長、入所者などの各研究会が発足し、厚生省は、これらの研究成果より予防法を一八〇度逆方向に空洞化する運営を実施して今日に至ったことは周知の通りである」 
 現在、患者運動のリーダーたちは、予防法はもう完全に空洞化したとして、これを問題視しょうとはしない。しかし、空洞化したとはいえ、廃止されない限り法は効力を有しているのである。・・・空洞化による自由は、黙認の自由であり、公認の自由ではない
」  島比呂志
  「逆方向に空洞化」とは、先ず予防法隔離条項を根拠に予算請求する。次いでその予算で処遇改善、入所者を予防法に依存させ、「業界」とらい予防法を守ろうとするものであった。1948年代5階国際らい会議では、患者隔離を無条件で否定、日本のハンセン病政策は、らい会議のたびに世界の批判の的となっていた。欧米の眼差しを極度に意識して始まった隔離政策が、世界の批難の眼差しに晒され続けるいうパラドクスが突きつける問題を、根底的に受け止めるのではなく、逸らせばいいのだという、批判する側が気抜けするような軽薄さがここにはある」   『患者教師・子どもたち・絶対隔離』国土社刊

 島比呂志の指摘は正鵠を得ていた。そのことは国家賠償訴訟闘争の困難が証明している。最初のそして最も大きな困難は、予防法に依存せざるを得ないと考える入所者たちの根強い抵抗であった。
 そもそも、絶対隔離政策が違憲であるように、子どもの政治活動を禁じた文部省見解が違憲かつ子どもの権利条約違反である。なぜそこに大胆に踏み込めないのか。実は高校紛争の総括に大きな問題がある。それは全共闘系高校生の運動を「民主的」教師が「教師敵論」として退けたことにある。全共闘系高校生の「教師敵論」を正当に要求として取り扱い、場合によっては対等に対話討論批判し協力を模索する。そういう政治性を「民主的」教師は持てなかった。「そんな雰囲気じゃなかった」と関係者は言う。しかしそんな言葉を言う者が、どうして九条擁護を言えるのだ。つまりここで教師たちは一度「政治的」の意味を見失った。

  「裏返った、あるいは逆方向の」のという表現を「18歳選挙権」教育や模擬投票に当てはめてみたい。島比呂志の言い回しを借りれば、高校生の政治活動に関する文部省見解が「廃止されない限り18歳のさらには高校生の子どもの自由は、黙認の自由であり、公認の自由ではない」のだ。いやもっと悪い、黙認さえせず公然と否認弾圧処分を仄めかすのだから。主権者あるいは選挙権という言葉が、権力を生み出すものから、権力に従属奉仕するものへとひっくり返る。
  権力との関係が全て悪いわけではないという訳知り顔はこの際やめたい。様々な前提の中で初めて成立するものでありその大部分は公開しないという条件付きでなければならない。曾て民間教育団体のいくつかは、政府自民党から蛇蝎のごとく嫌われた。そして嫌われていることを誇った。
  

 危惧すべきことがまだある。模擬投票教育=選挙ごっこにうつつを抜かしている間に、我々が世代を超えた問題として高校生に伝えなければならないことが捨てられたこと。政権はこちらを狙っていた。
 模擬投票に気を削がれ、何を捨ててしまったのか。既に開発教育や投資教育など目新しい分野にTuckleしている間にも多くを忘れ捨てて来た。そもそも社会科は時間を奪われ続けてきた。捨てなければ新しいものは入らない。
 郭公の「托卵」を思う。模擬投票=18歳選挙権教育は我々の社会科教育という巣箱に仕掛けられた「托卵」ではないか。気が付かぬ間に我々の巣に仕掛けられ育った雛が、我々の卵=社会科を外に追い出し殺している。そればかりか、親鳥=社会科教員は政権が仕掛けた雛を自分の子として育てるのである。Tuckleして。
 捨てられた卵こそが主人公である。

  捨てられ忘れられたもの。それは、授業の前提としての生徒や若者たちの実態把握である。彼らが何を読み、何を食べ、何に取り憑かれ、何に絶望し、何を語っているのか。どんなところにどんな若者が誰と住み、どんな職業歴、学校歴に苛まれているのか。それらを知らず、一体どんな教育が成り立つのか。


   1980年代、教研例会や合宿のレポートに教科実践が減少した。代わって生活指導の実践レポートが増え続けたことがある。中には教室の掃除の分厚い手引きを作ったとか、行事の出席率を高める工夫などもあってウンザリした。この傾向は、70年代から始まっている。教頭法制化は1974年、主任制が始まったのは1975 年。戸山高校の田代三良が「教師の質の低下」を指摘したのも1975 年であった。行政による教師の管理が進むに平行して、制服化や頭髪管理など管理主義が爆発、「教育技術法則化」や「プロ教師の会」に若い教師が「荒れる教室」対策の特効薬を求めて殺到。遂に1990年神戸高塚高校校門圧殺事件を引き起こすに至る。
  この時期、一方で教研に集う教師たちは、「楽しい学校、分かる授業」を目指していた。高校がどこでも荒れていた訳ではない。この頃僕の勤務していた王子工高は、制服はなく生徒たちは私服であった。教師たちは定期的に校内で研究会を開き、授業と自治活動の改善に取り組んで、自由な「秩序」も保たれていた。それ故普通高校のベテラン教師までが、リベラルな職員集団と自由な生徒たちを実際に見て、自ら希望して転任してきていた。荒れている学校でもすべての生徒たちが荒れていたわけではない。が、←クリック 全体としては著しく停滞した。教研も例会が成り立たなくなり始め、教師の図書購入額も激減していた。一方管理職試験受験者は増えた。


  偏差値が進学に応用されたときも、忘れられたものがる。このことは稿をを改める。

Tackle to the trends of the times Ⅰ

優しい先生が,人が変わったように恐い顔で怒鳴った
   敗戦から復興する過程で一群の教育関係者たちが、社会主義圏得意のマスゲーム導入を提唱したのである。統制ある美しさが、平和な秩序の象徴に見えたのか。それが文部省の後ろ向きの思惑と一致、マスゲーム=組体操が大きな動きになった。
 

 僕が小学低学年の1950年代、熊本でも鹿児島でも体育の授業に「合同体育」や「集団体育」が週一時間割り当てられていた。号令に合わせて整列や行進ばかりを繰り返しやらされた。緊張で右手と右足が同時に上がってしまう生徒が笑いものにされ叱られ、少しも楽しくない。先生がいつもと違って厳しく大声を上げる。先生も一人のときは優しかったが、大勢になると人が変わるのもいやだった。大岡昇平が『俘虜記』で書いたこと←クリックは、こんなところにも貫徹していた。げんなりして無断で下校してしまったことが何度もある。      
 母や祖母に「どげんしたとね」と咎められた僕は、理由を説明した。すると祖母たちは
 「そりゃ体操じゃなか、兵隊の練習じゃ。やらんでんよか」と孫の逸脱を受け容れた。祖母たちの最大の喜びは、日本はもう戦争はしない、子どもたちが戦争に取られることはもうないという確信であり、口癖になっていた。

 足腰達者て弁舌爽やかな大叔母は、僕が早退する度に学校に飛んで行った。そして教師とお茶を飲みながら面白可笑しく甥の小さな逸脱を四方山話に混ぜて話していた。貧しさは極まっていたが、コミュニケーションは余程豊かであった。電話や携帯は対話を豊かにしただろうか。       

 全体主義的「組体操」が、平和憲法下の学校で民主主義を奉じる教師の手で流行るという二重の皮肉。学校の「組体操」は欧米では皆無。おそらく北朝鮮と日本だけだ。それが、「感動する」という主観的理由で続けられる。戦争責任の追及が余りにもあやふやであったためだ。
 子どもが何気なく見せる日常の小さな「知的」成長を発見する余裕を失ってしまっているのではないか。集団と違って個別の生徒の変化は目立たない。そもそも人の成長は、ひとり一人異なっている。だからこそ、子どもひとり一人の成長に、親も教師も喜びを見出すべきなのだ。束にして判断してはならない。
 多くの人は、マスゲームはある宗教団体と北朝鮮だけの十八番と斜に構えているが、そうは問屋が卸さないことを知る必要がある。こうしたことに目を瞑り無かったことにしたい心情が、歴史修正主義を加速しているのだから。

 ある教育関係の会合でこんなやりとりがあったのを僕は忘れられない。1970年代後期のことだ。
 「北朝鮮や創価学会のマスゲームには全体主義的抑圧を感じるのに、民主的な学校の主体的マスゲームには感動させられます、子どもたちの顔までが違うでしょう。どこが何が違うんでしょうね」
 「両方とも狂ってるんじゃないの。見てくれの主体性が奴隷根性なんだ」
 前者はかなり高名な年配の女教師、後者は若い教師であった。

 「新左翼」の中には軍隊的規律の集団主義に中毒するセクトもあった。紛争時のキャンパスに、軍隊式規律を誇示する集団が現れギョッとしたものだ。土色木綿の上下に帽子と赤いバッジで、訓練に陶酔していた。勢力の拡大に頓挫したのか、数日で消えた。
  (自ら主体的に差別構造へと従属化、フーコーの用語に倣えば「主体化=隷属化」である)

 生活指導運動も、統制依存体質の文部省と規律好きの進歩的教師の意図が一致して拡大したことは疑う余地がない。『滝山コミューン』的実践はそうした事情を背景に熱、狂的に広がった。行政も現場も、生徒を政策や理論の道具と見なし統制の対象に利用していた。統制の見事さを教師の力量とみなす時代であった。
 
 「18歳選挙権」=模擬投票教育は、自称「先進的」教員たちと政権の合作としては歴史的にありふれたことの一つにすぎない。                    

 大学紛争時の活動家が70年代中頃から教員になり組合活動にも積極的に参加してきた 。その中からごっそり管理職が排出した時期がある、まさに集団転向の様相を呈していた。「70年代の遅くない時期の政治転換」が絶望と知った彼らは平然と立場を変え「裏切った」。(Tackle to the trends of the times という点では、「裏切った」彼らも一貫している。「裏切りではない、常に時流に乗るのが私の信念」というわけだ。しかしそれが許せず、裏切って校長に寝返ったかつての仲間を学校に訪ね、衆人環視の中で詰問殴り倒した知り合いの教師がある。大学時代は中途半端なノンポリにしか見えなかった。件の校長は詰問されて「立場が違う」と平然と嘯いた。それが彼の怒りに火を付けた。殴られた校長は、この一件を報告出来なかった。スキャンダルになるのを畏れたからだ。何処までも Tackle to the trends of the times な輩だ。惜しいことに元ノンポリの教師は後日、別の裏切り者に制裁を加えようとしたその瞬間、卒中を起こして死んだ。善人は早死にする、しかし小物を殴って死ぬのは詰まらない)
 彼らは手土産抱えて石原体制に馳せ参じ、反動教育行政を支え煽った。
「裏切った」彼ら抜きには、美濃部・青島都政時代に深く広く勢力を伸ばした革新官僚の力を衰退させることは出来なかった筈である。革新官僚たちは優秀かつ誠実であり粘り強かった。
 
 組体操や生指運動が無惨な結末を招いたように、模擬投票=「18歳選挙権」教育も淋しい末路を辿り、いずれ忘れられる。
  こうした「歴史」的教訓を忘れることが、歴史修正主義を生むのである。反動と反知性主義だけが問題ではない。歴史修正主義への誘惑や衝動は、我々の中にあることを常に自覚していたい。

受動性と能動性との均衡 / 「わからないから面白い」授業

桑原武夫の共同研究は、Actifな知性を生んだ
これはその拠点京大人文研
   つめ込み主義は誤りである。だが深く思索するためには、膨大で正しく吸収された知識を持つ必要性も同様に明らかである。
 自分の中のPassiveな面とActifとの均衡の問題である。たくさんのことを覚えて記憶しても、それが自分の中にそのまま停滞しているのが受動性であり、それを自由に使いこなして表現することができるようになった時、受動性が能動性に移ったという。英語の単語や語句をたくさん知り、ずいぶんむずかしい本を読むことが出来るのに、書くとなると一行も綴れないのは、英語が受動的なままで、能動的にならないためだと考えられる。豊富な知識で登山の話に盛り上がる生徒が、いざ山行になると消えてしまうのも同じである。
 
 「これは経験と表現と双方に欠陥がある場合が多いが、パッシフとアクティフとの間に不均衡が生じ、書けなくなったり、逆におしゃべりになったりする。書けなくなるのはまだ始末がよいが、おしゃべりになったのはまことに手がつけられないものである」 桑原武夫 

 例えば語彙が場面に応じて出てこない、お陰で書けない。その経験は当該少年に、言葉さえ見つけることが出来たらという知的藻掻きを生じさせる。だが語彙のないことが生み出すお喋りは、言葉を見つけるために必要な沈黙を消してしまうのだ。意味のない言葉の羅列で自分自身の空虚さを覆い尽くすのだ。
 桑原武夫は日本のアクティブラーニングの目玉=ディベートの欠陥を簡潔に整理している。我々が気を付けねばならぬのは、我国の学習文化においては、「アクチブラーニング」がパッシフに展開されていることだ(「アクチブラーニング」という言葉を日本語に置き換えられないことがそれを如実に表している。自分たちの言語で展開出来ない概念は決して定着しない。)教科の中で教師に設定されたディベートはパッシフにならざるをえない。テーマや時間までも制限されれば尚更だ。議員になるや否や「可及的に速やかに」や「粛々として」を使いたがるのは、人々との間に対話的関係を築く意思のないことを意味している、言葉が少しも能動的ではないのだ。同じように、横文字の概念や官庁用語を教師が乱用するのは、主権者たる生徒や保護者との間に対話的関係を展開していない証拠なのだ。

 僕が経験した最も印象的な能動性は、
授業に対する「わからないから面白い」という反応である。教室での姿勢が完全にActifになって、学習を越え研究になっている。こんな時の生徒の質問は「~を教えて」ではなく「~は何処で、何で調べられるの」となる。
 学校や教委が好きな反応は、「分かるから面白い」と「~を教えて」であり、困るのは「分からないから退屈」である。しかしこのほかに「分からないけど引き込まれる」や「分かり易いけど詰まらない」や「分からないけど面白い」などを問題にしなければならない。恋愛でも重大なのは「嫌いだけど好き」なのだから。
 「わからないから面白い」反応の時は、授業空間が静かな闇に引きずり込まれる気配がある。後ろの席から眼差しを逸らさずに前に移る者がいる。その日、授業の感想は咄嗟には出て来ない。一週間後に聞くこともある。落語の「考え落ち」にあたる。
 成績に無頓着な者が多いことが
「わからないから面白い」を歓迎する教室の条件である。成績から解放されて、自由に考えることを楽しむ。
 ある時僕が問いかけをし、先を急いで答えを言おうとすると「先生待って、考えさせて」と止める生徒があった、必至の表情でそう言う。十分以上待った、いつの間にか考える生徒が増え始める。答えを聞きたがる生徒と、考え続ける生徒のせめぎ合いが楽しかった。友達の脳を借りて考え始めたのだ。ああでもない、こうでもないと呟きながら一緒に考える。共同研究が始まったのだ。
 この過程はディベートと根本的に異なる。真理を求めての共同である点で。相手に勝つことは問題ではない。友達の思考を助け理解しようと、友達の思考を取り入れようと藻掻く。違った個体はどう考えるのか、それを知ろうとする、伝えようとする、そのもどかしい過程が理解するということである。君の考える「甲」は僕の考えていた「乙」だと気付く。親友はこうして生まれる。
 教室の中に異なった文化や言語そして広い階層の仲間がいることが、どんなに大切なことなのか。


 競争やテストは少年たちの能動性を妨げるばかりだ。だとすれば、成績の良い少年たちは、Actifな学びから遠いわけだ。だからクイズ遊びに長けてTVの娯楽番組に引っ張りだこになる。馬鹿げている。

 高校や大学の授業評価が、分かる─分からない、楽しい─楽しくないの類ばかりなのは薄ら寒い。高校生や大学生はは侮られている。つまり、甘くて柔らかければ良いだろうと子ども扱いの厄介払いなのだ。
  「わからないから面白い」という高校生の反応は、彼らがもはや「pupil=生徒」ではなく既に「student=学生」であることを示している。フランスやドイツでは高校生を現す単語もÉtudiantやStudentである。日本の文科省は、頑なに「生徒」の用語を強制し続けている。

昆虫は脱皮するとき、快感を味わっている

蜘蛛も脱皮する
 昆虫は脱皮するとき、快感を味わっているのではないか、と言ったのは小田実である。
 古く窮屈な装いを捨て新しい枠を獲得する。無防備で危険なときだが、真っ新な自由がある。この時を全ての昆虫は逃れることは出来ない。

 NHKBSプレミアム土曜日『刑事フォイル』(原題
『Foyle's war』)主人公警視正フォイルが、念願かなって辞職する場面が先週あった。新しい警視正を部屋に迎えて、引き継ぎの書類を渡すや「あとは係の者に」と言い残して振り返りもせず、アッと言う間もなく退出してしまう。花束贈呈も、職員一同の見送りどころか誰の見送りもない。別れの宴もない。やりたいこと目指して実に嬉しそうに、真っ新な自由目指して飛び出す。特権も拳銃もなくなるが、しがらみもなくなる。
 
これからフォイルは組織に拘束されず、指示されず「正義」だけを貫くはずである。
 『刑事フォイル』は、警察や軍部と英国に基地を置いた米軍の腐敗や不正を見逃すことはなかった。BBCらしさのにじみ出る作品である。それ故彼は軍部や警察上層部からの圧力介入は執拗なものがある。だが迷宮入りを許さない捜査が彼の名声を高める。

   人間にとって、卒業も退職も結婚も脱皮である。しかし人間の脱皮は、昆虫のそれに比べると実に詰まらない。真っ新な自由をさない、よってたかって邪魔をする。親が、仲間が、血縁者が「式」にかこつけて、しがらみから自由になることを許さないのだ。「しがらみ」を維持することが、古くさく窮屈な縁を繋ぐ「祝い」であるかのように思い込んでいる。危険や不安から守ると言う口実に、自由の位置する場はない。不安や危険の伴わない自由は、あたかも哲学者から思想を、文学者から批判精神を、科学者から懐疑心を奪い、椿三十郎を士官させるようなものだ。
  『椿三十郎』のラストで、
室戸半兵衛を倒した椿三十郎に若侍が「お見事!」と言うシーンがある。椿三十郎は「ばかもん!利いた風な口を聞くな!」と一喝、倒れた室戸を見ながら「こいつは俺といっしょで抜き身だ。でもな、本当にいい刀は鞘に入ってるもんだ。お前らもおとなしく鞘に入ってろよ!」そして「あばよ」と言って去る。誰もが椿三十郎には危険とともに自由が、若侍には安定とともにしがらみだらけの退屈と腐敗が待っていることを読み取るのである。しかしサラリーマンたちは、「本当にいい刀は鞘に入ってる」を聞いて胸に輝く企業バッジを撫でるに違いない。椿三十郎が言いたかったのは「お前たちのような盆暗は、せめて鞘に納まって出世を待つしか手はないのだ」である。そしていずれ腐敗する、だから「あばよ」が重く響くのである。『椿三十郎』の20年後つまり『椿五十郎』を作る方が、remake版の何倍も価値がある。

 フォイルが警視正の肩書きと特権を捨て警察署の玄関を出たときの気持ちも、古く窮屈な仕組みに向かって言う「あばよ」である、いずれ組織は腐敗するだろう。
 肩書きを捨てたFoylは、以前にも増して権力悪を徹底的に糾弾するはずである。英国や米国企業のナチスとの癒着した過去にも遠慮はしないだろう。


 しがらみをコネや縁としか読めないところに、我々の情けなさがある。「自由は放縦ではない」と言いたがるのである、それが大人だと。椿三十郎の豪胆な自由は、放縦と切っても切れない。「腹がへった、金をくれ」と若侍に無心したりするのである。『用心棒』でも浪人桑畑三十郎は、一膳飯屋の親父に「喰うものはないか」とねだる。「武士は食わねど高楊枝」は格好いいが、いざという時自由に振る舞えない。まさに鞘に入った刀である。脱皮する快感を思い出せ。
 
 1968年田尻宗昭は海上保安庁の警備救難課長として、零細な密漁船を取り締まっていた。「鞘に入った刀」であった。それが一転して、公害企業の刑事責任を追及する側に立つ。彼は密漁を繰り返す漁師たちが、その理由を「俺らの漁区に魚がおらんからや!工場が俺たちの魚を殺したんや!」と言うのを聞き、憤然と脱皮し鞘を捨てたのである。
 豊穣な四日市の海を汚していたのは、石原産業であった。石原宏一郎は二・二六事件黒幕で戦犯。四日市では「石原天皇」と呼ばれ、工場二十万坪・従業員三千人。
石原は海だけではなく空も汚していた、四日市喘息である。1967年には死者を出して住民の怒りは爆発した。
 しかし捜査は、権力を刺激して難航を極めた。公害企業の刑事責任を問う判決が出たのは1980年であった。石原産業の犯罪を直接問うものではなかったが、日本初の公害企業の刑事責任認定の意義は大きかった。その後も、米海軍航空母艦ミッドウエイによるアスベスト廃棄物投棄などを摘発して、権力と対峙した。田尻宗昭を『Foyle's war』のようなスタイルでNHKがドラマ化する日は来るだろうか。

記 映画監督黒澤明は、「鞘」に「あばよ」を言っただろうか。『赤髭』のラストは、
保本登が御殿医の職を投げ打って養生所に残るという設定で終わっている。僕は釈然としない。本来は良い鞘に収まるべき名門の家柄という設定が気に入らない。日本人はこれが好きなのだ。天皇制と小型天皇制がだらだら続くわけだ。半ば百姓する貧乏医師の小倅が主人公という設定にならないのが歯痒い。主人公が終いには蛮社の獄に繋がれる展開の方が面白い。そのとき赤髭はどうするだろうか。
  「本当にいい刀は鞘に入ってる」に囚われたのは、黒澤明自身ではないか。『影武者』や『乱』の主人公は、鞘の細工に取り憑かれて憐れである。黒澤明に浦山桐郎の生き方は出来まい。
 1968の学生反乱で日本の学生たちは、見てくれの鞘にしがみついた、それで権力と対峙出来る訳がない。脱皮出来る道理はない。小田実は時に応じて脱皮を欠かさなかった。脱皮は孤独な行為でなければならない。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...