自然には独自のリズムがある 少年の自立と成長には深く静かな時が欠かせない

粘り強さは熊と狼さえ結ぶ
 一匹のジリスが、望みのない状況で生き延びる勇気を見せてくれたことがある。若い雌オオカミが、まだ生きているジリスを口にくわえてきて地面におろし、ネコがネズミをもてあそぶようにジリスと戯れ始めた。口を開いて歯をむき出し、獲物のそばを前足でとんとんと踏み、真横に寝そべってうなり声を出す。ジリスは健気にもその場を動かずにいたが、やがてとうとう身体を動かして後ろ足で立ち上がった。ジリス特有の歯を見せ、ボクシングでもするように前足をオオカミに向かって伸ばす。ぜんぜん釣り合わない動物たちの〝対戦″は10分近く続き、別の一歳オオカミが雌オオカミの注意をそらせた隙に、ジリスは走り去って身を隠した。
 粘り強さと忍耐は、私も持ちたいと願う野生だ。・・・自然には独自のリズムがあって、私たちが急いでいることなど気にしない。

 野生動物の研究になくてはならない性質は、忍耐、つまり待つ能力。眠っているオオカミを何時間も観察したいという気持ち。ものの30分で退屈する二本脚生物(人間)もいる一方、オオカミからすでに学んだ筋金入りのウォッチャーもいて、オオカミが目を覚ますまで、必要とあれば氷点下30度の戸外で4時間待つこともある。
 高スピードのデジタル時代にあって、野生動物の観察は癒しや落ち着きを与えてくれる。動物たちは、いくらでも時間があるような印象を与える。オオカミがしとめたシカを例にとってみよう。ハイイログマがやってきて死骸を横取りすると、ライバルのオオカミたちを追い払った。死骸に草や土をかぶせてその上に寝転がり、午睡をとる。クマの典型的な行動だ。五匹のオオカミはクマの周囲でまるくなって眠っている。木々のてっぺんに数羽のハクトウワシがとまり、ものはしげに餌を見下ろす。
 みんな辛抱強く待っている。クマが目を覚まして去っていくのを。いつかは餌が手に入ることを知っているから。
 自然には独自の時間がある。長時間観察を続けると、そのことが感じられる。人間の尺度では測れないことがたくさんあるのだ。『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか』 築地書館

 青少年の自立を促す教員に欠かせない素養も、学校の尺度では測れぬ少年たち独自の時間(若い教師であれば、数年前までは少年だったはずなのに、早々とそのことを忘れていることに危機感を持つ必要がある)を感じること、長時間観察に耐えることだ。

 王子工高のM君は、遅刻(並の遅刻ではない、二時間、三時間はざらで六時間目終了間際に登校したこともあった。)と授業中の居眠り(教卓の真ん前で、折りたたんだバスタオルを枕に熟睡する)掃除もせずサッサと不機嫌な顔のまま下校、その他諸々・・・。
 彼の少年らしい快活さが戻るのに、二年半かかった。僕は会議の度に「優秀な担任は、こうした生徒を早期に退学させるものだ」と咎められて胃が痛くなった。

 M君の父親は度々登校して「息子を殴って下さい」と懇願した。「それは僕の仕事ではありません」と言い続けた。
 不思議なことにいつもギリギリの点を取り、実習や実験レポートもすれすれで提出して進級した。教科担任の中にはM君の顔を忘れちゃった人もいたほどだ。

 秋のある日の倫理の授業中、突然M君が起きあがって腕組みして僕を睨んだ。「よう久しぶりだな」と言おうとしたが、険しい顔付きに押されて無駄口が出なかった。かなり長い時間を真ん前で身じろぎもせず睨み続けた。数日後、数人が「先生、大変だよ。来てよ」と駆け込んできた。慌てて駆けつければ、「あいつが掃除してるんだ、大変だよ」とM君に聞こえるように言う。箒を握ったM君が笑いながら僕を見ている。「うん、これは大変だな」と笑い返した。それから、彼は卒業まで一日も遅刻せず登校し、居眠りもしなかった。彼の生活の変貌振りは、微笑ましく凄まじかったがここでは書くまい。


 僕自身は、これはこの時の授業(「実存とは何か」)のお陰だと考えていた。
 「親や教師から説教されると、それが正しいと分かってもムカッとする。人間は、自分でももうこんなことは辞めようと思っているときに、そのことで説教されると殊更ムカッとするものなんだ。この反応を「反抗」と呼ぶ、反抗は誇りある人間の証だ」と
講じていた時、M君はガバッと起き上がった。僕はこのことを「不当強調」したい誘惑に駆られた。大切なのはM君の主観において考察することだ。「不当強調」は倫理上の罪である。

  M君は、学校や家庭の常識に振り回され続けた。「このままではろくな大人にはなれない」「世の中は甘くない」と。だがM君は、一方的に説教される客体ではなく、状況に主観的に自らを投入する主体である。そのことに気付き始めていたのではないか。M君が自力で辿って得たものこそ思想である。彼は、学校や親の一方的断定に押されて、心が受動的=パッシブになった二年以上を「沈黙」の中にあった。彼は「自由と不自由の際」に自ら立った。
 「青年は荒野を目指す」という科白があった。少年はいつか「自由と不自由の際」=荒野に立ったことを自ら自覚して青年になる。教師や親の判断に依存するのではなく、自身の主観において世界を引き受ける。それが自立である。
 M君が二年余の眠りから目覚めたのは、僕の授業のおかげだと思ったのはただの傲慢だった。


 飼育を拒否して自立するには、安逸な「檻」から自らを隔離しなければならない。だからM君は敢えて堂々と「寝た」のだ。アランが、考えるためには「静かで暗く長い時間」が必要と言ったのはこのことだった。
その長い時間を作り耐えたのは、彼自身である。
 哲学は、少年/少女ら自身の中にある。我々が「教えてやる」ものではない。

「立ち止まったら、行っちやった」/ 野生狼が教えること

独裁的な狼はリーダーになれない
 ・・・野生オオカミが棲息することに不安を感じる人は多い。不安は非理性的なものであっても、たしかに存在する。
 オオカミに出会ったとき不安を感じるのはうなずける。未知のものに対して、だれもが不安を抱いている。だが、それが存在しないかのようにふるまっても、不安がなくなるわけではない。それと向き合うことが大事で、しばらく耐えるだけですむこともある。
 子どもは未知のものに対して大人より勇気があることに、感心せずにはいられない。ツエレ(ニーダーザクセン州)近郊の小学校でスピーチをしたとき、オオカミを見たことはあるか、と質問すると、二人の少女がおずおずと手をあげた。森のなかで三匹に出くわしたそうだ。
 「怖かった?」
 私がたずねると、二人とも激しくうなずく。
 「それで、どうしたの?」
 「何もしなかった。立ち止まったら、オオカミは歩いて行っちゃった」
 よくやった、とはめてあげる。少女たちの行動は正しい。数日後に女教師から電話をもらい、女子生徒二人はオオカミとの出会いを誇らしく思っている、と伝えてくれた。
 子どもたちは先入観を壊してくれるのではないか、と期待している。率直かつ勇敢で、新しい道を進む気構えがあり、動物との自然な関係を本能的に知っている。往々にして大人に欠けるものだ。
 オオカミは、保護しょうと努力する人間たちより劣るわけでも優れているわけでもない。

                                 『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか』 築地書館

 野生動物に対する理解は、近年劇的に深まった。観察
研究が段違いに進んだからである。
 米国の動物園のゴリラ舎の溝に三歳の子どもが落ちたことがある。シルバーバックのゴリラは水の中に横たわる少年を優しく抱き起こし、10分間一緒に遊んだ。←クリック          ゴリラは力を加減して優しく少年の手を取り、互いに目を見つめている。
 このとき、愚かにも人間の大人が特に母親がパニックに陥った。大きな叫び声を上げて、ゴリラに恐怖感を与えてしまった。そればかりか、銃で射殺してしまったのである。多くの市民が射殺に抗議したのはもちろんのことだが、取り返しのつかない悲しみが残った。未開で野蛮で愚かなのはどちらか。

 野生狼も、群れ筆頭のオス=アルファが自分の遺伝子を残すために、群れの全てを暴力的に支配して家畜や人間を襲うという描き方が多かった。だがそのような振る舞いは、野生の狼には見られないことが分かってきた。冷酷で攻撃的なオオカミ像は、野生化したイヌや人工的に閉じ込められたオオカミが人間から「学習」した習性の反映に他ならない。
 狼が互いに遊ぶのは、個体同士を徹底的に理解するためである。群を率いるのに最も重視される素質は、各個体が十分に能力を発揮できるように配慮調整することである。それは狼の群だけに向けられたものではなく、森の生態系全てに向けられている。

 学校に「荒れた」少年が初めて現れたとき、教員の多くはおののいた。多くの高校が「野生」の少年を受け容れるのは初めてだったからだ。しかしそれは既に野生ではなく、選別と差別に曝されて、学校的格差を「学習」した少年たちであった。


 教員になる数ヶ月前まで、僕は大学紛争まっただ中にいた。殺人事件さえ起き、機動隊の放水や対立するセクトの投石を浴びていた。そんな僕には、学校の光景はこの上なく長閑であった。僕は過剰な防衛反応にいきり立つ現場教師たちに

 「何も起きていないではないか」と噛み付いた。すると  「君には問題が見えないのか」と返され 
 「具体的問題が起きるまでは見えないのが当たり前で、自らの影に怯えるのは愚かだ」と言った。何人かの年老いた教師が 「よく言った、飲まないか」と会議後追いかけてきた。新設高校の「荒れ」を新聞が書き立て初めても、学校は僕には花園であった。生徒がタバコを吸い、アロハシャツを着流し、授業を脱走し、バイクを校舎に乗り入れても「危機」とは思えなかった。
 90年代半ば、山手線に近い都立B高校定時制課程が荒れていた。生徒たちは建て替えたばかりの校舎や校庭にバイクを乗り入れ、教室や廊下で花火、校庭にもたばこの吸い殻や菓子袋が散らばった。切っ掛けは校舎改築だったと思う。教師達が建物を可愛がった、壁にテープを貼るな、落書きをするな。建物が新しいから少しのゴミでも目立つ。口うるさくなる。生徒と校舎どっちが大事なんだと荒れる。近所からの苦情は絶えず、対策に追われて職員会議は週二回が定例。教員は疲れ果て為す術がない。←クリック    
 その後の経緯はまさに「立ち止まったら、行っちゃった」であった。知性は、介入「指導」するものではない。
       

妥協無き反抗の果ての「公」=public

彼は特赦も拒否した
 北原泰作は1906年生まれ、部落解放を生きぬいた。北原少年は利発で級友の信頼も厚く級長に選ばれたが、担任は地主で学務委員の子を級長に据えた。貧しさで進学出来ぬまま徴兵年齢に達したとき、すでに北原は水平社運動の闘士として付近で注目されていた。
 北原は検査官の指示にはしたがわず、簡単な筆記試験にも白紙の答案を提出した。北原の入隊式には、水平社の同志が荊冠旗、赤旗、黒旗をかついでぞろぞろと見送った・・・  北原は営門に到着するまで、道々、反軍演説をぶちまくった。群衆は集るし、憲兵は警戒に出動するし、たいへんな入営風景となった。

 ・・・北原は、最初から徹底的な反抗姿勢をとった。
 入隊式に岐阜県知事・・・が来場して祝辞を述べたことがある。整列した新兵はおとなしくその話を聞いていたのだが、北原は、突然、列中から外に出て班内に帰ろうとした。 班長の小森軍曹があわてて、
 「北原、身体の調子でも悪いのか?」と、とりなすようにいった。・・・
 「悪い」北原は班長に白い眼をむけると一言いい残して、すたすたと兵舎に帰り、班内のストーブの前に椅子をもってきて、どっかとすわった。
 入隊式といえば、兵隊の中では、北原だけが髪をのばしたままだった。・・・軍隊内務書には、「常二服装ヲ整へ、頭髪ヲ通常短グ葬り、身体、被服ノ清潔二勉ムベシ」とあるが、北原はこれに反抗した。
 入隊式の翌日は宣誓式だ。軍隊の規律をことごとく厳守し、忠実に実行することを誓わされる式である北原は、その宣誓も拒んだ。
 「北原は、なぜ、宣誓しないのだ?」まず小森班長がきいた。
 「上官ノ命令ハ事ノ如何ヲ問ハズ、とありますが、もし、その命令が誤ってなされた場合にも、服従しなければならないのですか?」北原は反問した。
 「そういうことはない。上官の命令は・・・気をつけ。畏くも大元帥陛下の御命令であるから、誤った命令などが出されるはずはない」
 「しかし、人間の出す命令であるから、絶対に過ちがないとはいいきれますまい。たとえば、大正十二年の震災のとき甘粕憲兵大尉の命令に盲従した鴨志田上等兵は、大杉栄夫妻を惨殺してしまったではありませんか。それが誤った命令だったことは、甘粕大尉は陸軍刑法にふれて刑罰を受けたことでも分ります。自分は上官の命令でも無批判に従うというわけにはゆきませぬ。そういう宣誓をやることはできません」
 ・・・
 北原は、こうしてずっとその宣誓を拒絶しっづけた。班長では手に負えないので、武藤中尉が北原を中隊長室によび出した。
 「北原、おまえにはいろいろ理屈もあろうが、軍隊に来てしまえば、ここはこれまでの社会とちがって共同生活だ。
何ごともみんなと協力してゆかなければ、軍隊という戦闘単位の道場は成りたたない。綱領にも、兵営は軍の本義にもとづき死生苦楽をともにする軍人の家庭であると規定されてある。ここで軍人精神を涵養して鞏固な団結を完成するのだ。そのためには、一人でも軍の団結を乱す者があってはならない。北原、宣誓をしてくれ」武藤中尉はたのんだ。
 「自分にはできません」
 「中隊長がこれほどたのんでもできないか?」
 「できません」
 「たのむから、やってくれ」
 「いやです」
 「考えなおさないか」
 「そういう気持になれません」、同じ押問答が一週間以上もつづいた。中隊長は大隊長にうったえた。大隊長は北原を隊長室によび出した。
 「なあ、北原、おまえのことで中隊長も大ぶん心配している。宣誓をしたらどうか?」北原の答は同じだった。
 三、四日たって、北原は班内で昼飯を食べていると、誰かが「敬礼」と叫んだ。班内の兵は、飯を噛むのをやめていっせいに起ち上がり、不動の姿勢をとった。週番士官が班の入口に立っていた。
 「北原二等卒はいるか?」
 「自分であります」と、北原はゆっくりと身体をまわした。

 「おまえか」と、週番士官は彼をじろりと見ていった。
 「連隊長殿が面会だ。連隊本部にこい」班長も古兵も顔色を変えた。
 「自分はいま昼飯を食べています。これを食べ終るまで待ってもらいたい」北原は答えて腰をおろした。
 週番士官は顔を真青にしたが、北原の食べ終るのを辛抱強く待った。北原が週番士官といっしょに中隊の廊下を出たあとの班内は大騒ぎになった。

                            「北原二等卒の直訴」 松本清張『昭和史発掘』
 
 北原泰作の反抗は徹底していた。陸軍特別大演習閲兵式で軍隊内部の部落差別の存在と待遇改善を天皇に直訴したため、一年間陸軍刑務所にぶち込まれている。天皇即位による恩赦の機会があったが、「自分のしたことを悪いと思っていない、従って改悛の必要はない」と自ら放棄している。

   戦後は、朝田テーゼとも対決した。理不尽には最期まで妥協しなかった。

 北原泰作を思い出したのは、全てにマニュアルを要求する教師がまたぞろ出て来ているように聞いたからだ。自分で判断せず、「マニュアルに添って全員で動」きたがる。「マニュアル」がなければ何も出来ない。

 学校の主人公は生徒であって、組織としての学校ではない。その少年たちをマニュアル通りに動かして、利益を得るのは組織であって、生きた少年ではない。多様な生徒の様々なケースに即応出来ると考えているのだろうか。如何に完璧なマニュアルも、過去の事例を帰納するのであるから、出来上がったときには既に「手遅れ」になる。絶対に。機械にしてそうなのであるから、日々変化する「ひと」の場合はマニュアル化を目指してデーターを集めている最中に遅れや齟齬は生じる。にもかかわらず「マニュアルに添って全員で動」きたがり、マニュアルがなければ動けないのであれば、マニュアルを確定した時点に人間と事態を固定する羽目に陥る。
 北原泰作が直面した問題はこれである。明治維新は「四民平等」を掲げたが、その上に特権を持つ選民=華族を設けたから、底辺部に一切の権利を剥奪した賎民=新平民を置かざるを得ない。そうしなければ社会は均衡を失い崩壊する。特権は必然的に差別を構造化する。そうして出来た身分制に軍隊が依拠する限り、軍隊のマニュアル=軍人勅諭は初めから時代錯誤であり機能するわけがない。機能しないものを無理矢理動かせば横車である。
 「上官の命令は・・・畏くも大元帥陛下の御命令であるから、誤った命令などが出されるはずはない」という論理が横車だ。横車が回るわけがない。横車を止す為には、天皇制と華族制を廃止すれば済む。横車を無理に動かせば、さらに横車を重ねることになる。兵営の私的制裁は
その一つである。 こうして横車は各方面に増殖し、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓に及んだ。
 こうした横車の惰性は今に続いて、簡単に消えそうもない。9条があるのに、米軍基地があり自衛隊という名の戦力がある。東電が判断を誤って、取り返し不能の原子力発電事故を起こしても、誰も罪に問われない。・・・

 北原泰作は横車を徹底的に拒否した。だが驚くべきことに、「君が代」を強制されてはいない、坊主頭を無理強いされてはいない。僕は、優しい顔して徹底的に反抗する北原泰作を、教材にしたい。演劇部があれば、台本にまとめ上げたい。北原泰作の不服従こそが「公」を形成するのである。そして教師も少年も北原泰作に倣い、誇り高く生きたい。


 僕の果てしない夢、それはありふれた生徒たちに教師が詰め寄られることだ。「憲法を守ることを誓い、憲法を我々に教えているあなたが、憲法に違反する「校則」の作成に携わり、その実行を我々に強制する根拠は何か」と不機嫌に。
 大学紛争直前の高校で、僕らは同じような言葉を教師に投げつけた。それが若者の目を足を政治に導いた。

 北原泰作に比べれば「生き神」も、勲章と肩書きだらけの「国軍の父」山県有朋も、人間としては取るに足りない。なぜなら彼らは、横車で辛うじて生きていたのである。そこに自立した個人の矜持はない。

偏差値導入が消したこと

 僕が中1の一学期に見た生徒会中央委員会。3年生(団塊の世代最初の学年)は、学校や教師を斜に見ていた。少なくとも「指導」を仰ぐ対象とは見ていなかった。←クリック
 秋には廊下の天井下蟻壁に掲示された模擬試験結果一覧(見やすい書体で墨書されていた。僕は同じ形式の掲示を、後年予備校で見た。全く同じ書体であった)を、剥ぎ取り破り捨てる3年生を知った。一覧にはクラス・名前・受験希望校名が書かれてあった。僕の記憶にあるのは、希望校名に、人気の無い学校や全く知られていない学校名前が幾つもあったことだ。
 「あれは嫌がらせらしいよ、一番入りやすい学校名を書いて先生を困らせてるんだって」と教えてくれたのは、PTA役員の子どもだった。なるほど、模擬試験で集めたデーターで「業者」は高校をランク付けし、受験結果と照らし合わせて売りにしていたのだ。だから受験先にデタラメを書けば、データーの信頼性は台無しになるのだった。

 成績のいい坊ちゃんたちも、怒りと悲しみをない交ぜにして、迫り来る偏差値受験体制に反抗していたのだ(1968年からの大学闘争は、
僅か6年後であった。このときの経験と気持ちが下敷きになったと考えている。)「ぼやぼや見てないで、お前たちも剥がせ」と言いながら、3年生は助走してはジャンプを繰り返し全部剥がしてしまった。上品で成績の良い連中と貧しく成績のさえない者たちと歌舞伎町の子どもたちは、共通の感情と言葉を辛うじて持ち合わせていた。それ故朝日や毎日も、貧困や差別の問題を読み込み紙面を構成することが出来た。政治家も広い視野と深い感性を選挙で表明出来たのだ。従って投票率は低くならなかった。
 不思議だったのは、誰もが先生たちの雷を予想していたのに、何もなかったことだ。多分教師や保護者の間でも、模擬テストとその結果の掲示には意見の対立があったのだと思う。模擬試験はそれを限りに、希望者だけが学校外で受けることになった。
 僕ら(団塊の世代三年目)は既に小学生高学年から、受験体制に飲み込まれ始めていたせいだろう、
3年生より行儀が良く、受験体制に違和感を持たなくなり始めていた。中学生になると成績に異常に神経質になり、試験が迫るたびに下痢をする者や寝不足のせいで顔が青白くなる者が増えた。
 しかし、通信簿が殆ど「1」の連中は、全く動じなかった。点数を取ることに興味がないのだ。出来ないから「1」だったのではない、天真爛漫に零点を取った。そして就職先はきちんとあった。新路指導は余程まともだった。成績が振るわなくとも、成績に悩まされずに済んだ。
 だから「荒れ」も、「いじめ」も自殺に結びつくほど深刻ではなかった。まだ僕らは、互いに平等を基本に繋がることが出来ていた。巨大企業社長の孫からスラムの子まで同じ学校に通い、一緒に遊ぶことが出来た。
 いまや少年たちの関係は「格差」が基本になった。豊かな大人が貧乏人と飲む機会を持て無いように、もはや階層を超えて友達は出来ない。だって住むところも言葉も違ってしまったのだから、平等な仲間としての遊びからは遠ざかり、「荒れ」や「いじめ」を自力で調整する能力も機会も失っている。偏差値は、少年のそして社会の自治能力を破壊したのである。
 四谷二中が「越境入学」禁止の通達で、急激に凋落すると、この中学の名は暴走族の間で有名になった。 越境通学生が消えると同時に、学区内の優等生たちも私立に流れ、多様な二中は忽ち瓦解したのである。
 軽薄で便利な数値=偏差値は、ひとり一人の質的な違いをせせら笑いながら「ひと」を無神経に序列化したのだ。序列されれば、少年たちは進路を自由に選択出来ない。工業科も農業科も建前上の役割(例えば~社会の「中核」技術者養成)をとうの昔から担っていない。「中核」技術者は大卒や修士課程修了者が担っている。工業高校の役割は、格差を少年たちに分かりやすく受け容れさせる為だけに存在している。

何も選べない「主権者」/ 「彼ら」は投票に行かない

小学校給食でさえ、いろいろに選べる国は少なくない
 「彼ら」は投票に行かない。低い投票率で笑うのは、政権を握っている輩である。何の意思も示さないのは現状満足していると嘯ける。選挙とは「選び、挙げる」行為である。「彼ら」は一体何を選べただろうか。
 大正時代、小学生が「先生を返せ、担任を変えろ」と郡役所にデモをかけたことがある(官憲による思想弾圧で追放された担任を取り戻すべく子どもたちは田舎道を延々と歩いた)。児童会のない時代こそ子どもは、自覚的であったのではないか。路地が保育園代わりで放課後の遊び場だった頃、「~してはいけません」という丁寧な「指導」はあろう筈もなく、子どもたちが話し合い調整せねばならなかった。大人は生活に忙しかったからだ。
 児童会や生徒会がある今、子どもは何を選び調整できるのか。生徒会選挙で「入試を廃止運動をやろう」や「体罰を止めさせよう」や「給食が不味い」が掲げられた験しがあるか。いつも「頑張ります」「もっと頑張ります」「いつも頑張ります」などとしか言えない。そんな候補の何を選べるのだ。

 選択肢を示さずに当選した生徒会役員は、公約通り頑張るしかない。それはどう足掻いても現状維持かその拡大・強化に他ならない。
せいぜい今週の目標作りに張り切って「掃除コンテスト」をやる。遅刻絶滅キャンペーンをたすき掛けで呼びかける。「頑張りメダル」を画用紙とクレヨンで作り配るのが関の山だ。僅かな予算の文化際も、ポスターの大きさや数と掲示場所の制限と取り締まりに奔走し、会計の手続きや書式が役所並に細かくなるのも、生徒会行事の開会式が大げさになり挨拶が長くなるのも「頑張る」以外にすることがないからだ。「偏差値教育を止めろ」とか「入試廃止運動を始めよう」などとは想像すらしない。

 給食もお仕着せで、好みや体調に合わせて選択・調整出来ない。服装さえ選べない。冬服から夏服へ変えるのも日付に従う。子どもに必要な物を、最もよい方法で提供するのが大人の仕事との言い方が好まれる。騙されてはならない、それはパターナリズム、体罰とパワハラとDVの温床である。


 学校選択の自由があるのは、最も偏差値の高い者だけ。下に行くほど自由度はなくなる。一番低ければ選択の余地はない。しかし実際は成績が良くても選択はしない。偏差値が僅かに低いだけで魅力的な学校があったとしても、僅か「1」の差が勿体なくて偏差値通りに進学してしまう。適性や好みの入る余地は殆どない。むしろ偏差値に合わせた適性に自らはまりこむ。
 
 「彼ら」は就職でも選択の余地はない。時給の低い不安定労働を割り当てられる。

 食事や宿泊さえ殆ど選べない、金がないからだ。定食を頼んでも、スープや主菜やデザートや飲み物をいちいち選ぶ必要がある。弁当屋でも沢山の惣菜の中から好みのものを選ぶ、主食の種類や量も。日本では店が予め組み合わせたものの中から見つけるしかない。hotelや旅館に泊まっても、二食付きが原則で素泊まりは嫌われる。選択調整の余地は狭い。むしろ選択出来ない完璧さが親切とさえ考えている。

 結婚さえ、自由な恋愛によるものは絶無に近い。家柄や収入・学歴・容姿を組み合わせ、疑似偏差値化して幻の「最適」を期待する。

 宗教も選ぶことからは隔絶している。布施も出来ない弱者者を歓迎する宗教はないからだ、弱者を庇護する活動を見せて富める者からの寄進を募ることはあっても。
 政党も自由に選べない、近付くのも避ける。せっかく得た仕事や仲間を失う危険性を臆病に懸念する。

 日常の絶えざる選択の経験が、個人の決意を形成する。子ども時分から大人になるまで、何も選べない境遇にあった者が、与えられたお仕着せに流され続けた者が、現状維持以外の選択に踏み切るだろうか。そんなに簡単なことなら「主権者」教育は要らない。

 入学や就職面接でも要求などせず、面接「官」の顔色を窺いながらただ「迷惑をかけずに頑張ります」と言う。それ以外にどんな手があるのだ。雇い主から「この人をよろしく頼むよ」と紹介された候補に票を入れることが、仕事を守ることになると考えるのを愚かと言えるだろうか。

 小さくとも「現実」を変える経験を、子どもの頃から積み重ねる必要がある。小さいが「模擬」ではない現実を変えて初めて「主権者」としての自覚は生まれる。大正の子どもに出来たことが、「主権者」と位置づけられた時代の子どもに出来ない筈はない。1972年の内申書裁判は大きな問題提起をした。その経験が、学ぶ機会を剥奪された若者を闘う国会議員・自治体首長にした。


 「分からない」授業を続ける教師の試験をボイコットする、抗議書を代表を立てて読み上げる。制服を強制する修学旅行には参加しないと結束、学年で授業を放棄して座り込む。体罰教師を友達と何処までも追い詰める。文化際の準備で泊まり込みを認めろと、教頭を吊し上げる。これらを快挙と賞賛する神経を教師は持ちたい。・・・(これはみな、僕が受け持った生徒たちが自ら行動してみせたことだ。いずれも平凡な謂わば「中間層」の生徒たちの行動であった。そこが大事なことだと僕は考えている。各種の大会で勝ち進みメダルをもたらすより、幾層倍も価値がある)
 こんな行動には、憲法上の根拠があることを社会科教師は伝える義務がある。

 憲法は上から目線で諭すようにするものではない。生活と権利を守るために、ともに使いともに学ぶものである。ブルデューがネクタイを捨てて闘争の現場に出かけ、例えば無人ビルの占拠をつつける人々に「あなた方の行為には根拠がある」と励まし続けたように。
  その経験が積み重ねられて、投票に決意を以て臨む人々が増える。
 
時間がかかるだろう。なぜなら、日本では国家自体が、「主権」を知らず国民のための政策を自ら選択調整出来ないからである。例えば金利政策をこの国は、もう長く自主判断してない。それ故銀行は金利さえ任意には決められず、国情に相応しい事業を展開出来ない。だから、スルガ銀行のようにヤクザ並みの事業に活路を見出すしかなくなる。膨大な被害者を生み出す仕組みを「新しい事業モデル」と強弁してきた。日銀までが国民の資産に手を付けて株価操作に狂奔する。あらゆる判断・選択を封じられた少年たちの一部は僅かな隙間に「希望」を見て、暴走やヘイト言説を繰り返すのだ。議員中にさえその種の言動をして、マスコミに売り込む。自主的な外交政策を展開出来ないから、金をばらまき、武器を蓄え周囲の国々をあしざまに罵る。こうした愚策には大戦で懲りて痛切に学ばなければならなかった。
 あるとき、クラスの生徒がやって来て面白いことを言った。一人は「高校に入ったらぐれちゃおうと思った」←クリック    もう一人は「突っ張るのって疲れるのよ」←クリック と。
 
 自由な主張や個性と自分らしい判断や選択を封じられた若者がどのように感じ行動するのかを、二人は見事に語っている。

何の特技も資格もない者の幸福、それを現憲法は保証している

栄誉の拒否から疎外の克服は始まる
 「今の世の中、特別な資格や特技がない者は、ひたすら長時間労働するしかないんだ」。ある零細企業元経営者の言葉だ。 
 

 長時間労働して死ぬ、そうなってからでは遅い・・・だから、何かに打ち込め。そして特技、学歴、資格、成果・・・を積めと親と教員が青少年を叱咤する。おかげで「特技がない」者は一時的に減る。その分、特技のない者は一層焦る。しかし誰も彼らをその「打ち込める何か、学歴、・・・」故に雇うことを約束も実行もしない。「その方が良いかもしれない」程度に過ぎないのだ。
 藁にもすがる思いで定員割れの大学や専門学校に籍を置けば、学費稼ぎのアルバイトと就職目当ての部活に追われる。それでどうして特技が身につくのか。「特技がない」者は本当に減ったのか、そんなことがあろう筈がない。ただ「特技がない」者のレベルが切り上げられたにすぎない。かつては高卒で十分だった。今や博士課程を終えても相応しい職はない。ちょっと前までは、体操競技の最高難易度は「C」であった。それがウルトラ「C」によって乗り越えられたのが1964年のことで、世間は沸いた。しかし今はそれを軽く越えて「D」でもなく「E」でもなく「スーパーE」でなければ注目されない。ウルトラ「C」が出来たと褒められ煽てられ、それだけに専心して体も心も壊したときには、他の分野に応用が利かなくなる。
 不安に駆られて、中学生でも季節外れには海外遠征して大枚をはたく。それでも不安は募る、同類が余りにも多いからだ。大学を出て更に専門学校に入ってみる、留学する。就活塾に入る。結局はそうして、アドバイザーと用品メーカーを喜ばせ、底辺大学や専門学校の経営を下支えし、不安定収入を悲しむ教員に仮の安らぎを与えるのが関の山。これは蟻地獄でしかない。青少年は蟻ではない。
 大学教師や高校教師そして親のすべきことは、何の特技も無い凡々たる人間が豊に働き生きる社会の実現に向けて、果敢に政府・産業界と渡り合うことである。誰もが特技もなく平凡なまま活躍することを強いられず豊かな生活を享受する社会を、現憲法は約束している。だから教師と親は闘わねばならない。その実現の後に、スポーツや芸術や学問を楽しむのでなければならない。それが学ぶ「権利」である。オリンピック・パラリンピック騒ぎはこれに逆行している。

 冒頭の言葉の元経営者は、実は特技のない人ではない、プレスの優れた技術を持つ職人でもあった。日本の高度成長を担った立役者の一人である。我々が目指すべきは、特殊技能・資格・経歴競争に若者をを追い込み疲弊させることではない筈だ。 やらねばならぬのは、平々凡々たる市民の厳粛な価値を、政財界に認めさせる事である。若い同胞、弱い仲間の困難をともに引き受け闘うという意味での集団性を我々は持てないのだろうか。いつだって、我先に抜け駆けで問題に対処しようとはかる。醜い、美しくない。学問も芸術もスポーツも人と人の連帯=協働によつて生まれるものであって、抜け駆けして実を結ぶものではない。

 この国には、生きた「象徴」がいる。かつては「生きた神」として振る舞っていた。しかし考えてみれば彼らには何ら特技はないのだ。「生きた神」として戦争の先頭に立って神風を吹かせたりはしなかった。弾よけにもならなかった。だから象徴一族に戦死者はいない。「象徴」の身内に凡人のレベルを超える者は一人としていない。象徴一族が特技のない凡人なら、その実体である国民は、極めつけの凡人であって威張れる筈だ。この一族は神でないことがバレても平然としていられる凡人に過ぎない。しかし特権だけは凄まじく保有し続けている。特権の廃止は民主主義の前提である。その「象徴」が退職した。都議会が彼に感謝する決議をした。象徴を大事にするのなら、その実体である国民に対しては幾層倍も感謝すべきではないか。文化的最低限度の生活を皇族並みに切り上げるのが、公僕の議会の使命だ。
 僕は付近の都営霊園を駆け抜ける度、暗澹たる思いに駆られる。真ん中の木々の茂った静かな一角は、小さな家ほどの大きな墓が並ぶ。街道沿いの喧噪で木々のない狭いあたりは、座布団の広さにも満たない小さな墓が犇めいている。死後の永遠に格差は持ち越されるのだ。何故「象徴」が陵と呼ばれる広大な墓を持ち、実体の国民は粗末な片隅に追いやられるのか。どの宗教も如何なる政党もこの醜聞に向き合おうとしない。


  「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。事物世界の価値増大とぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。(・・・)さらにこの事実は、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、ひとつの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものにほかならない。国民経済的状態(資本主義)の中では、労働のこの実現が労働者の現実性剥奪として現われ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として、(対象の)獲得が疎外として、外化として現われる。(・・・)すなわち、労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる、ということである。(・・・)彼がより多くの価値を創造すればするほど、それだけ彼はますます無価値なもの、ますますつまらぬものとなる。(・・・)彼の対象がよりいっそう文明的になればなるほど、それだけ労働者は野蛮となる。労働が強力になればなるほど、それだけ労働者はますます無力となる」         『経済学・哲学草稿』(岩波文庫 P.86-90)

  若者が学力や学歴を上昇させ、大会優勝のメダルを量産するほど彼ら自身は「それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます彼はより安価な商品となる
 学歴やメダルを期待され、それを約束して地位を得ることは、自由な人間であることを放棄して「商品」になったことを意味するのである。)「彼がより多くの価値を創造すればするほど、それだけ彼はますます無価値なもの、ますますつまらぬものとなる」。・・・

 「彼の対象がよりいっそう文明的になればなるほど、それだけ労働者は野蛮となる。労働が強力になればなるほど、それだけ労働者はますます無力となる
  コンビニ本部の労働者がコンビニの機能を文明化すればするほど、本部の労働者はコンビニ加盟店経営者に対して野蛮になり過労死に涙を流そうともしない。扱う商品が増えそれをこなせばこなすだけ働く者は無力になる。
 その予行演習を学校や教室が、行事や授業でやって見せて教委の歓心を買う程の堕落はない。

  僕の妻は中学生の頃オリンピック強化選手の末席に選ばれていたから、「金色」や「銀色」のメダルを沢山もっていた。(大会の度に痩せる程の緊張をして、好きなことも諦めた。彼女はそれを「自分に克つ」ことだと思っていた。そうやって量産したメダルの山であった)。ある時にふと気が付いて、親戚の子どもや友達の子どもが来る度にあげてしまって今は一つもない。それで何の不都合もない。メダルがあったところには、彼女の描いた絵がかけてある。
  子どもたちがお土産に喜んで持ち帰ったメダルは、いつの間にかゴミになって捨てられたかも知れない、それでいいのだ。メダルは、彼女を隷属させた組織と思想への屈服を表すものでしかない。こうして「勝利至上主義」という疎外を乗り越えたのだ。
 彼女がスポーツを通して獲得した健康な体と弱者に対する優しい心は、何時までも彼女とともにある。

  「労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる、ということである

聖職意識と奴隷根性

全生分教室の青山先生は聖職意識から自由であった

 ハンセン病をペスト並の恐ろしい病気と吹聴した光田健輔と渋沢栄一によって、ハンセン病者の絶滅隔離が施行された。同時に、国家は子どもたちを教育する責務を放擲してしまった。敗戦後、ハンセン病の子どもたちの修学免除は解除されたが、子どもたちの教育は困難を極めた。その一つが、ハンセン病療養所内学校教師への差別であった。日本の差別はどうしてこうも執念深いのか。

E 私、教育委員長から奨められて、・・・承知して来た。ところが一ト月も経たない中に家主から追出しを喰ったのです。・・・ライ療養所の職員はこんなに迄も嫌われているのです。で、・・・村長と教育委員長とで(療養所の)官舎に入れてくれないか、と所長さんの所に交渉に行って戴いたのですが、全部ふさがっていて駄目だ、と断わられました。教育委員長が困って、小学校(本校)の官舎に入れてくれました。
S ・・・PTAから(分校との)兼任を反対されたので、ここの専任になったのです。・・・・矢張り本校では嫌われるような気がしますね。とっても心苦しいのです。こんなに嫌われたこんなに犠牲を払わねばならないのかと考えたりします。本校へ行くと一応気兼ね致します。何か持って行くと、大勢の先生の中には消毒して来てくれ、風呂に入って来たか、と言われる方もありますし。
B 花を持って行ってもいやがりますよ。
   「療養所内学校教師全国会議議事録」『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』国土社刊

  一般の教員もハンセン病の知識と人権感覚に欠け、「肉が腐って落ちる」と教えるなど偏見と恐怖を煽っていた。療養所内学校教師の孤立感と不安定な身分。この点では派遣教師と子ども・補助教師は苦悩を共有していた。
 であれば派遣教師と補助教師(教委が療養所内教室に赴任させた資格を持つ教師を派遣教師、無資格で教育に従事する患者を補助教師と呼んだ)は、共感し手を携える良き同僚たりえたはずだが、療養所内学校教師全国会議では派遣教師と補助教師のどちらが主体かに議論が流れ、補助教師の存在自体に否定的であった。「何れ、患者教師は消えるべき存在ですな」との発言も肯定的に受け止められている。しかし、補助教師は本質的に重要な役割を果す。
療養所内教育の困難を担った患者教師を、この会議から除外したのは致命的失策であった。その後の療養所内分校の歴史が、それを証明する。

 この不安と孤立から
派遣教師に生じたのが「聖職者意識」であり、それを支えたのが手当であった(ハンセン病療養所関係職員には、本給の他に24%の危険手当がついた)  人の嫌がる危険な仕事に人生を捧げる「聖職」という意識で自らを鼓舞するしかなかったのである。教組や学生組織が支援に動いた気配はない。孤立を強いる刑があった。中世のヨーロッパで、城砦外に追放する。皮肉にも「自由」刑と言った。いかな剛の者でも涙を流して泣いたという。療養所内学校教師の孤立感はそれに近かった。
 過労死と隣り合わせの今の教師たちを支えているのも、「聖職」意識と言っていいのだろうか。給特法による4%の手当がそれを支えているとしたら噴飯ものである。

 仕事に中毒して、自らの命や家族を顧みなくなっても芸術家や探検家や学者なら、賞賛される。一切が仕事の担い手に任せられているからだ。何に如何にして挑戦するか、何時に起きて休むか、一切が本人に任されているからだ。しかし 一体、今教師は何を自由に決められるのか。良心の自由さえ奪われ、会議での採決や発言の機会さえ奪われている。そこで人々を奮起させるものは断じて「聖職意識」と言えるものではない。奴隷根性である。
 賃金奴隷としての絶望がそこにはある。絶望出来るという倒錯した意識。サムライが死刑を宣告されても「死を賜る」などと言う心理である。サムライJapanが声高に叫ばれる所以でもある。

 公立学校の教員に適用される「給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)」は私立校には適用されない。従って労働基準法が適用される。しかし、残業代が出るとは限らない。就業規則で始業・終業時間も定めず、残業代を一切支払わない私立学校は少なくない。
 ある私立学校教員が、学校に対し過去2年分の残業代を請求した(教師が申し立てたのは、(1)日曜日の勤務 (2)宿泊業務中の8時間を超える超過勤務と深夜労働 (3)日々の8時間を超える超過勤務の残業代支払いである)が話しはまとまらず、2018年労働基準監督署に申告した。その結果労働基準監督署は、残業代の未払いが労働基準法37条違反に当たると是正勧告を出しただけでなく、勤務時刻の規定や労働時間の記録や賃金台帳についても、勧告を出した。
 しかし学校側は是正勧告を無視。当該教員は、労働審判(2006年に運用が開始された制度)に持ち込んだ。和解が成立したが学校側は非を認めず、「支払ったのは残業代ではなく解決金」と主張を続けている。

 問題はこの先にある。法律を守るように学校側に求めた教師が、同僚の冷たい視線に曝され組合役員も辞任せざるを得なくなったのである。それだけではない、「自由に」働かせろと要求しているという。「自由に」とは、授業内容や研修に介入するなということではない。残業代を請求するな、労働時間に制限を加えるな、好きなだけ働かせろというのである。管理職の意識を内面化してしまっている。ここに奴隷根性が蔓延る ことの詳細は、「弁護士ドットコム」←クリック  

 「私たち自身も聖職者意識を改めないと働き方は変わらないのではないか」と当該教師は発言している。ここに問題が潜んでいる。今や教師以外は教師を聖職だとは思ってはいない、特に行政は。
 自分の扱われ方を正しく把握できずに、何時までもありもしない「聖職」観念に埋没しながら「聖職者意識を改めないと」と言うことの滑稽さを考えねばならない。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...